フレイが、自分の目の前で血の雨を降らせている──人を殴り、蹴り、投げ飛ばし、修羅と化す。
PHASE-11 ナオト下船
「ハマー・チュウセイ以下、貴方に暴行を加えた5名は全員瞑想室入り。アムル・ホウナ及びカズイ・バスカークは1週間のポイント削減処分。これで満足かしら」
半日ほど経過してようやくサイは、医療ブロックの片隅で意識を取り戻した。そのそばには、医療ブロック監視役の風間曹長が毅然と立ち、サイにその後のクルーたちの様子を淡々と報告している。
後ろには看護師のネネがつき従っていたが、積極的にサイに声をかけようとはしなかった。ネネはサイの身体中に巻かれた包帯の具合を確認すると、「胸部と左腕の写真、確認してきますね」それだけ言い捨てて背を向けて出て行く。どんな時でも笑顔を忘れなかったはずのネネが、サイにだけは表情を緩めることすらしなかった。
ただ、仕事はきちんとしてくれているらしい。頭と胸に巻かれた包帯、固定された左腕を確認し、サイはほっと胸を撫で下ろす。治療まで邪険にされては、たまったものではない。
ここ医療ブロックは、アマミキョコアブロックからは川を隔てた反対側にある。海に面した東側の貧民街とは対照的に、こちらは市街を山と文具団の支社工場で囲まれている。だがここも、度重なるテロで街は荒らされていた。自爆テロによる負傷者も数知れず、毎分毎秒ごとに重傷患者が運び込まれている。救護用テントもおびただしい数が用意されていたが、とても足りなかった。おかげでサイも、廊下の隅に緊急に設置されたベッドに寝かされている。隣との仕切りはカーテン一枚だ。
その向こうからひっきりなしに、スズミ女医や他医師たちの怒声、患者の悲鳴、子供の泣き声、ストレッチャーの車輪のけたたましい音、除細動器の作動音が響いてくる。つい数分前にも、コーヒーショップに自動車が突っ込んだらしい。爆弾搭載で。「重傷は3名って言ってたじゃないの! 何で10名なのよっ」「現場で無呼吸、心停止」「12歳の男の子、頭部外傷顔面多発外傷、血圧115の70!」「末梢循環不良、生食あと1リットル投与!」
そんな中でも、風間は依然として感情のこもらぬ声で、胸元のメモ帳に何かを書きつけている。「ヒビだけで済んで、良かったわね。本日30件目の腕切断かと思ったわよ」連合のベージュの制服できっちり包まれた風間の胸は、ベッドのサイからひどく大きく見えた。
「感謝していますよ、スズミ先生には」サイは風間の胸をまじまじと見ている自分に気づき、思わず視線を逸らす。そんな視線には慣れているのか、風間はさりげなく姿勢を変え、二の腕で胸を隠した。「アルスター隊長にも、でしょ。それからナオト・シライシにもね」
「ナオトがフレイに報告するとは思いませんでした」
風間は足元の軍用デイバッグから、サイの眼鏡を取り出した。「彼、これも届けてくれた」左のレンズの端に少々ヒビが入っていたが、使えぬことはない。元々伊達眼鏡である。
さらに風間はデイバッグから、明るい朱色の作業用ジャケットを出して投げつけるようにサイに渡した。「着てなさい。ブリッジの制服は当分やめた方がいいわね」
「申し訳ありませんでした。しかし自分は、今でもブリッジの一員のつもりです」
「甘っちょろいことを言わないで。貴方が意地を張ったおかげでベッドが一つ無駄になり、スペースが無駄になり、包帯や薬や人員や時間がどれだけ無駄になったと思ってるの? しかも貴方、ろくに食事も睡眠も取っていなかったから栄養剤まで必要になって」
「自己管理が甘かったことは反省しています。しかし」
話にならない、とばかりに風間は首を振る。「反省してるふりして反論するのはやめなさい。今は通常時じゃないのよ、下手に内部でトラブル起こさないで」
初めて会った時のマリュー・ラミアスを思わせるその傲慢さに、思わずサイは口答えをしていた。「差し出がましいようですが、自分たちはオーブの人間です。これ以上の山神隊の介入は、隊員の爆発にもつながりかねない。アマクサ組の統制を緩めるならともかく、さらに強める方向へ行くのは」
「口を慎みなさい。オーブが連合と手を組もうとしている事実ぐらいは知っているでしょう?」
サイも、オーブと連合間で条約が締結寸前という事態は把握していた。それ故に、アマミキョの管理・運営体制にまで連合が強制的に介入していることも。
かつて連合に一方的に蹂躙されたオーブが、連合と結束する──サイにしても、そのことに少なからず怒りを覚えてはいたのだが、今のサイに何が言えるだろう。おそらくカガリ代表には何の力もなく、セイラン家が事を進めているに違いない──そんな素人推測をする以外に、サイに出来ることはない。
「そうなればこの船も、いずれ連合が接収することになる。コーディネイターたちの横暴も、多少はおさまるでしょう」
風間は窓を開き、湿気混じりの熱風を入れた。土と鉄の臭いが吹き込んでくる。医療ブロックの外ではひっきりなしに作業用ミストラルやトラックが右往左往しており、その向こうにはM1アストレイが1機、急ごしらえのハンガーに固定されていた。モビルスーツ用のカバーで一応覆われていたものの屋根はなく、機体の下側が熱を帯びた空気に直接晒されている。サイは眼鏡をかけ、身体を起こしてそれを眺めてみた。酷使の影響か、装甲のあちこちに傷が見えた。
「あんな機体でも貴重なのよ。不発弾の撤去には大活躍だし……昨日もスティレットを14発も除去してくれたわ」
「そういう言い方はないでしょう。オーブの勇士なんだ」
「あくまで2年前の、ね。
あと──ナオト・シライシが、本日付けで下船するそうよ」
晴れわたった空の下、荷物をまとめたナオトを、真田上等兵が心配げに見ていた。
「本当に行っちゃうのか」
「はい。僕はもう、ここにはいたくありません」
ナンザン港が壊滅状態になり、ここから一番近い空港は十数キロ西のナガンヌしかなくなっていた。昔は小島だったらしいが、現在は地殻変動でチュウザン本島と陸続きになっている港だ。そこへ続く道へナオトを送り出そうとしているのは真田と、アマクサ組のラスティだけだった。しかも、真田もラスティも報道担当のナオトの行動を逐一チェックするという目的でのみ、彼にくっついてきているだけだ。それを知っている為か、ナオトの態度はひどくよそよそしい。
「マユに、挨拶しなくていいのかい。君とマユは相性良かったからなぁ、残念だよ」明るく振る舞いながらも、ラスティは抜け目なく手元のノートパソコンでナオトの最終レポートのデータを確認している。ティーダに関する余分な情報は漏れていないか。
「もう、マユの顔は見たくないんです。それに」少しだぶついたスーツの裾を直しながら、ナオトは塞ぎこんでいた。久しぶりに着る紺のスーツにネクタイだ。暑苦しいナオトの格好をあざ笑うように、陽の光が猛然と照りつけている。「好きな人が傷ついたり殺されたり、好きな人に傷つけられたり裏切られたり、大好きな子がおかしくなるのを見るのは嫌なんだ」
「簡潔な答えだね。でも、オーブに帰っても同じことはいくらでもある」
「根拠のない説得をありがとうございます」汗だくになりつつも、ナオトはラスティにきっぱりと言い返した。幼いなりの皮肉に、ラスティは苦笑してしまう。だがナオトは、ぴくりとも笑わない。大きな目でラスティと真田を睨みつけたままだ。
ウーチバラでアマミキョ出港レポートをやっていた時のナオトの快活さは、今の彼の顔からはすっかり消えうせていた。同僚を踏み潰され、たった一人で戦火に巻き込まれ、命の危険に常に晒され、生活を統制下に置かれ、信頼していた友人に裏切られ、果てない暴行に何度も遭遇し──遂には、仲間同士の狂気の暴力を目撃してしまったのだ。
ナオトの、痛々しいまでに見開かれた瞳は、ひどい精神の磨耗の証だ。決して成長の証ではない。
こけた頬に、未だに消えない火傷の跡が残っている。オーブに戻っても、今後ナオトが今まで通りのアイドルレポーターでいられるかどうかは、非常に疑わしかった。
「ティーダとマユをお願いします。どうせラスティさんの方が、僕よりずっとうまく動かせるんだし」
「減らず口は変わらないな」ラスティは軽くナオトの言葉を受け流した。
だが、若く経験も浅い真田は納得がいかないらしく、なおもナオトを説得しにかかる。「君がやるべきことは、まだあるんじゃないかな。君しか出来ないことが、まだ、アマミキョには」
「サイさんを思い出させるようなこと、言わないで下さい。あの人みたいに抽象的な甘言、もう聞きたくありません」
「サイ君を嫌う気持ちは分かるよ。だけど君は、彼を助けたじゃないか」
「暴力を見たくなかっただけです」
「嘘言うな!」真田が思わず激情してナオトの両肩を掴んでしまったのは、決して35度を超える暑さのせいだけではない。「世話になったんだろ、挨拶ぐらいしていけよ。サイ君にも、マユちゃんにも、他のみんなにも。好きだったんだろ!」
「離して下さいっ」ナオトがうっとうしげに、真田の手を強引に振り払う。「僕だって、好きでいたかったですよ!」
草いきれのたちこめるトウキビ畑に隠れつつ、マユはナオトの後姿をじっと見ていた。ナガンヌ行きの満員バスに乗っていくナオトの、小さな背中を。
ナオトは、どうして自分を叩いたんだろう。
ナオトは、もう自分と一緒にはティーダに乗ってくれないのか。
人が傷ついたら、ナオトのように怒らなければいけないのか。
自分が傷ついたら、サイのように悲鳴を上げるのが普通なのか。
紅いザクウォーリアを傷つけた時、ナオトがあれほど自分を止めようとしたのはどうしてだろう。
いつかナオトは、自分のことが好きだと言った。好きな人が死んでしまうのは悲しいことだと。
マユはバスが轟音をたてて去った後も、ずっとナオトのことを考え続ける。ナオトの感情の流れを。人間の感情の流れを。
──君は、少しおかしいよ。
血を見るのは、楽しいことじゃないのか? 人を叩き潰すのは、気持ちよいことじゃないのか? だからハマーさんたちも、サイを傷つけ続けたんじゃないのか? あのアムルっていうオペレートのド下手なおばさんも、サイが傷つくのを見て楽しんでいたじゃないか。人を傷つけ血を見るのが気持ちいいから、争いは終わらないんじゃないのか? 人を見下すのは楽しいことだから。
なのに何故、ナオトは怒る?
「ねぇハロ、どうしてナオトはいなくなっちゃうんだと思う?」
「ナオト、キライ。マユ、キライ」
マユの手にしていた黒いハロが、彼女の手の中で目を点滅させてくるっと回った。「キライ、キライ。ナオト、キライ」
「ナオトは、マユのこと嫌ってるの?」
「イヤヨイヤヨモ、スキノウチ」
疑問符でいっぱいになったマユの頭を、後ろから誰かが優しく撫ぜた。黒い皮手袋に包まれた、大きな手。マユはその感触に、喜びをいっぱいに顔に表して振り向いた。「お兄ちゃん!」
そこにいたのは、どこまでも優しい兄、カイキ。彼は無条件に、マユを大きな胸で抱きしめる。マユだけに見せる、彼の笑顔。「こんな処で隠れんぼとは、お前らしいよ。そろそろ注射の時間だぞ」
「ナオトが行っちゃったの。どうして? ナオトは、何を考えてるの?」
「何も考えてやしないさ。あいつはお前を傷つけるだけだ、これで良かったんだ」
その時、草むらの向こうから聞き慣れた叫びが聞こえた。誰かが揉みあう音に、交差する怒声。「風間曹長!? 何してるんすかっ」「ナオト、待ってくれ! 俺はっ」「真田上等兵、彼を止めて! 治るものも治らないわっ」
マユは顔を上げてその光景を見る。包帯だらけのサイが、ついさっき行ったばかりのバスを追おうとしていたのだ。
よほど全速力で走ってきたのか、汗まみれだ。左腕を押さえながら懸命に走ろうとしてつんのめり、転び、また立ち上がって走り出しては今度は胸を押さえ、倒れる。包帯の間から、血が滲んでいた。
しかしその場にバスはもうなく、残されたものは揺らめく空気と、蒸気の湧き立つ大地だけだった。
サイは道路に突っ伏したまま、呻く。土に刻まれた車輪の跡を、サイの指が虚しく掻きむしる。そんな彼の肩を、傷に触らぬように注意深く風間と真田が支えた。ラスティが軽い調子で声をかける。「こういうことは、恋人同士でやるもんだよ」
「すみません……だけど、どうしてもあいつに言いたかったんです」
──ありがとう、って。
茂った草の間から、マユはこのやりとりをじっと見て、聞いていた。サイが言った言葉を、確かに聞いた。サイがナオトに言えなかった言葉を。
サイは何故走ってきた? 怪我をしているはずなのに、どうしてナオトを追ってきた? 頭の包帯もほどけかけているというのに。ただ、ありがとうを言う為だけに?
マユの思考を遮るように、カイキの手が再びマユの黒髪を撫ぜた。
「ナオトのこと、分からない。サイのことも」
「分からなくていい。それでいい」
マユの頭に、また一つ大きな疑問符が増える。──分からなくていいのは、何故?
「おそらく、初めて痛みを自覚した影響だな」作業艇ハラジョウ内部で、カイキからの報告を受けたフレイは冷静だった。
「あの小僧がっ」ブリーフィング用デスクの脇で、怒りに拳を震わせるカイキ。その肩をさりげなく叩き、フレイは話を続ける。「逃げ出した者に文句を言っても始まらんぞ。ティーダの再テスト結果に問題はなく、ラスティとの相性も以前ほど悪くはない。ブレインスキャンも異常なし」
「俺は、マユを人間にはしたくない。苦しみを覚えてどうする!」カイキは堪えきれず、拳を壁に叩きつける。
「くどいぞ。私とて思いは同じだ……今後のザフトの動向により、それも変わってくる」
フレイはもう一度カイキの背を軽く叩くと、データ解析に一心不乱なニコルに向き直った。
フレイの視線を感じ、ニコルは下半身のケーブルを軋ませつつ微笑みを返す。「この時ですね。突入時の、ナオト君とマユの会話です」
音声が再生される。《これが痛いってことだよね。私、嬉しいよ。ナオトと同じ痛みを分け合えて》
ひどい雑音混じりの、マユのか細い声。
「この時から、マユは変わっちまったのか」最後まで聞いていられず、カイキはその場を立ち去っていく。
フレイはそれを気にする風もなく、解析データを見ていた。「バリュート作動直前か」
「ええ。その後ナオト君の素晴らしい罵詈雑言が入ってますよ、聞きます?」
「止めろ」フレイは相変わらず冷たい調子で突き放す。音声が止まった。「ティーダの代替パーツのシステム交換進捗状況は89%。今ならマユとラスティでも黙示録は展開可能だ」
「使用するハメにならなきゃいいですけど」
「ならないように、今作戦を立てているんだ。ザフトの降下状況は?」
「核ミサイルをニュートロンスタンピーダーで殲滅させて直後の降下作戦、スピア・オブ・トワイライトですが……さすがデュランダル議長ですね。核攻撃失敗以降、連合側は地上でも宇宙でも足止めを食らってます。カーペンタリアやジブラルタル目前で地団駄を踏んでますよ」
「積極的自衛権の行使とは、うまい表現を使うものだなプラントは」
「だけど、もう時間があまりありません。オーブからあのミネルバが出発したとの情報もありますし、例のヨダカ隊と合流して、チュウザン制圧に乗り出してくる可能性も」
「ミネルバの進路は恐らくカーペンタリアだ、あの船にチュウザンへ向かうだけの余裕はなかろう」
「アレックス・ディノが合流したとしても、ですか? 新型と一緒に」
フレイはふと表情を和らげた。ニコルの柔らかな緑の髪を軽く撫ぜる。「お前はよほどアスラン・ザラにご執心だな」
「僕だけじゃありませんよ。ミゲルも、ラスティも同じ気持ちです」
「気持ちは分かるが、まだ早い。2年間オーブで燻っていた男だ、今は我らが手を出すほどの価値もなかろう」そのフレイの言葉に、ニコルは微かに瞳を曇らせる。「今は……ですよね」
「そう急くな。かつてお前や仲間を振り返りもせずザフトを裏切り、今またオーブからザフトへ寝返る男など、お前が心を砕くほどの価値はないと思うが」
「僕らの存在を否定するような言葉、やめてください」ニコルの顔から、笑みが消えていた。彼にしては珍しく強い語調に、フレイはふと顔を上げる。視線がぶつかり合った。
「すまない。個人的意見だ、忘れろ」これまた彼女にしては珍しい、謝罪の言葉が出た。「話を戻す。今はヨダカ隊の動向が問題だ」
フレイは一旦、考え込みつつ唇に指を当てる。「アジア圏において、ザフトと連合の勢力は拮抗している。勢力図を出してみろ」
ニコルは命じられるままに、赤と青のグラフィックで大雑把に塗り分けられた地図を画面上に出した。赤はザフト、青は連合勢力下を示している。旧台湾海峡、つまり南チュウザンのすぐ西側の海域で、赤と青が隣り合っている。北チュウザンの部分はギリギリ、青に囲まれていたが。「南チュウザンは紫で塗るべきだな」
「グレーと言って下さいよ。それにしても、ザフトの勢いは凄まじいですね。この間まで、インドネシア周辺は連合だったのに」
「チュウザンは戦略上、重要拠点にある。港もあれば山もあり軍用施設もそこそこ、大陸攻略には絶好の要塞になるだろう──だが、南チュウザンにはザフトとて、迂闊に手は出せまい。タロミがいる限り」
「とすれば、戦場になりうるのは」
フレイの眼光が、まっすぐに画面上の北チュウザンを捉えた。「ここだ、間違いなく」
数日後には、戦いの噂がアマミキョクルーの間でひっきりなしに流れていた。
ヤエセ方面から続々と、避難民がナガンヌ方面へ移動していく。車道は車とバスで溢れ、その脇を人々が歩いていく。子供や老人の手を引いて、かき集めた家財道具を背負いながらの、炎天下の移動だ。
だが、国外脱出の準備が出来る者たちはまだ良い方で、大多数の貧乏人はこの地に留まり、ひたすら何事もないことを祈る他はなかった。ナガンヌへ移動する者たちの多くは、ある程度の財産を持つコーディネイターたちだ。
一方アマミキョ内では、カズイはアムルにくっついて食糧運搬作業を行なっていた。戦況が刻々と伝えられるにつれ、通路を行きかうクルーたちの緊迫感も増していく。
アムルの頬には、殴られた跡を隠す為に今もガーゼがあてがわれている。傷に対しては大げさなくらいのガーゼだ。だがそんな痛々しいアムルの横顔が、逆にカズイをますます彼女の虜にしていた。白い肌に刻まれた傷跡は、何故か人間の好奇心を刺激する。隠されていればなおさらだ。
「お見舞い、行かないの?」カズイの視線に気づいているのかいないのか、アムルは台車の調子を見つつ話しかける。勿論、サイの件だ。
「行った処で、俺に言えることは何もないし。それに、サイのせいでしょ……その傷」
またしてもサイのことを持ち出され、カズイの心は少しばかり醒めてしまう。何故いつもこの人は、サイなんだろう。俺のことは見てくれないのか。
「サイ君のおかげで、貴方が助かったのも事実よ」
「そうですけど、俺はサイが裏切ったこと、まだ許せないですし」
サイがアムルと口論していた時の光景を、カズイは未だに忘れてはいなかった。
あの直後は、信じたくはなかった。サイがアムルに罪を押しつけようとしたなどと──
だがその後、カズイはサイと話し合う機会を自ら捨ててしまった。カズイは考えた末に、サイではなくアムルを信じる方を選んでしまったのだ──アムルのように優しい言葉をかけてくれる女性を、今までカズイは知らなかった。初めて自分を頼って自分に抱きついてきてくれた憧れの女性を、カズイは否定出来なかったのだ。
その上、間もなく始まったサイへの誹謗中傷の嵐。サイを庇おうとすれば、当然自分にも攻撃が来るだろう──カズイは、それが怖かった。だからサイから離れ、アムルと一緒にいることを選択した。サイ本人に確かめることもしないまま、カズイの心は次第に噂に流され、遂にはサイがザフトと内通していたという話まで信じるようになっていた。何しろサイはカズイにも黙って、ジュール隊を逃したのだ。カズイが疑っても仕方のない状況だった。
ひどい裏切りを行なった友人の手から、アムルやクルーたちを守る──その為なら、友情は敢えて捨てる。キラだって、かつてそうしていた──そのようにいつしかカズイは、自分の行為を正当化していた。
やがてカズイとアムルは、第13作業ブロックにさしかかる。机の間を駆け回る作業員たちの中でただ一人、ひたすら端末に向かい、死んだ目で入力を続けるヒスイ・サダナミが見えた。
その向かい側の席はぽつりと空いている。サイの座っていた場所だ。
「そりゃ、私だって最初は我慢出来なかったわよ。でも、許そうと思う」
カズイは思わずアムルを見上げ、危うく台車を倒す処だった。そんな彼に、アムルはにっこりと笑った。「もう、いいじゃない。あの暴力は確かにやりすぎだわ、私はもう許す」
「だけど、サイはザフトと……」
「それは調査待ちだけど、しばらくは様子見てもいいんじゃないかな」
アムルはカズイに唇を寄せる。金髪から、わずかに汗の香りが漂っている。「貴方は、サイ君と一緒にここへ来たんでしょう?」
アムルは微笑んだ。地獄の作業場へ降り立った天使のように、カズイには見えた。さらにアムルは言う。「私、サイ君のこと嫌いじゃないわよ。ナチュラルにしては男前だし、仕事は出来たし」
どうして貴方は、そんなにサイを気にするんですか──カズイは喉元まで出かかった言葉を、どうにか抑えた。それが嫉妬だと、自覚したくはなかった。
アムルは微笑みを崩さないまま、カズイの手を包んでもう一度台車を押し始めた。「だから貴方も、もうちょっと友達を認めてもいいんじゃないかな。これは大人としての忠告」
「サイのことばかり、言わないで下さい」
勿論、カズイに言ったアムルの言葉には大いに嘘が紛れていた。作業中のヒスイを眺めながら、アムルはふと心の中で呟く。
──あんなナチュラルに、私は絶対にならない。
フレイの一発を喰らったショックから、アムルは未だに立ち直ることが出来なかった。痛みは大分引いていたものの、よりにもよってあのフレイに殴られた──その屈辱は、時間が経つごとにアムルの心を蝕んでいた。
何もかもを見透かしているようなフレイの眼光。それを思い出す度に、アムルの傷は疼く。同時に彼女の中で、様々な感情が渦を巻いて濁流となる。サイへの嫉妬。ティーダに犯した過失。母親や恋人への憎悪。まさかフレイは、全てお見通しなのか?
──何を考えているの、大丈夫。私が何をしたっていうのよ、私が加害者だったことなんて、ないじゃない。私はいつだって、ナチュラルや肉親に傷つけられてきた、被害者なんだから。
しかも彼女は、連合の外務次官の娘だって言うじゃない? コーディネイターじゃなくて、ナチュラルだっていうの? 私は、ナチュラルの女に殴られたの?
そんなことは絶対に認めない。ナチュラルが、コーディネイターより上に行ってはいけないのよ。
いつか、それを思い知らせてやる。今はこんなナチュラルのダサ男をもて遊ぶ程度しか出来ないけれど、いつか必ずフレイ・アルスターを破滅させてやる。サイを叩きのめしたように。
アムルの激しい嫉妬は、カズイへの優しい笑顔となって現れていた。この子が私にまとわりついている限り、サイの心は決して晴れないはずだ。壊れた友情をもて遊ぶのは、何と楽しいのだろう。
その時、彼女たちの元へトニー隊長の叱咤が飛んだ。「ザフト軍がレイテ島を占領した! ここへもすぐに来る、皆作業を急げっ」
「救難作業以外に、アマミキョに出来ることは」ブリッジではリンドー副隊長が、相変わらずのぼやき調子で伊能大佐と作戦を練っていた。
「出るのは我々だ、シュリ隊に余計な心配はおかけしませんよ。他に連合軍も合流してくる──どうやら、ザフトの新型を強奪した例の部隊もいるらしい」
「ファントムペイン。デュランダル議長の鼻っ柱を叩き折った奴らですね」伊能の後ろにつき従っていた広瀬が、モニターを確認しつつ呟いた。「しかし、ザフト側の新戦力も侮れません。新鋭艦ミネルバが合流するという噂もあり」
「進路からして、ありえんよ」すかさず伊能が広瀬に突っ込む。「ただ、新型は要注意だ。リンドー副隊長、ウーチバラでアマミキョが交戦したというジンハイマニューバ2型、戦闘データをよこしてもらえますか」
リンドーは伊能の横のモニターへ顎をしゃくった。転送されたデータを確認し、伊能は頷く。リンドーは鼻毛をむしった。「ミントンのデータはいらんかい。こいつも恐ろしい新型だらけだぞ」
「頂けるとありがたい。いつ必要になるか分かったもんじゃないですしね」
広瀬はさらに手元のノートパソコンで、刻々と入ってくる報告を確認している。「まだあります。ザフト艦隊にはゾノ、グーンは勿論のこと、水陸両用の新型が多数配備されているという情報が入っています。この新型は2連装機関砲やミサイルランチャーなど武装も充実しており、いかにディープフォビドゥンがあれども苦戦は必至で」
が、伊能は鼻を鳴らして広瀬の言葉を遮った。「ますます好都合だ。プラントの奴らめ、地上の海をなめるなよ」
「頼もしいな、伊能大佐。連合は数だけじゃないということを、彼らに教えてやってくれ」リンドーは嬉しそうに口の中で唾を鳴らした。
カタパルトでも、喧騒はいつも以上だった。ハマーがいなくなった分だけ、整備士たちは真夏の蝿のように動き回らねばならない。ただ、ハマーの意地汚い怒声がないことだけが救いだ。
フレイはアフロディーテのコクピットで、調整を続ける。破損していた脚部は、既に修復されていた。「脚部パーツのシステムチェック終了。エネルギーパックの補充も十分だ、ご協力感謝しますと山神隊に伝えろ」
「補充してほしいのは整備士だよ」ミゲルがアフロディーテの足元から声をかける。「フレイ、もうハマーさん解放しようぜ。背に腹は変えられねぇ」
「駄目だ」ハッチから顔も出さずに、フレイはそっけない回答を投げ返す。
「しかしこのままじゃ、不眠でみんなぶっ倒れちまうぜ?」
「ならん。いかなる理由があれ、行き過ぎた暴力行為は厳罰だ」
ザフト侵攻の噂で、ナガンヌ空港は国外脱出の避難民で埋め尽くされていた。
チケット入手ですら何日もかかるらしく、ナオトは空港の外まで溢れている人の列で、待ちぼうけを食らわされていた。空港に到着してから、もう1週間も過ぎただろうか。
照りつける日光、暑さ、雨、そして衛生状態と治安の劣悪さに、ナオトの疲労は限界に達しつつあった。待っても待っても、空港内部すら入れないのだ。宿屋はどこもいっぱいで、人々は太陽の下に野ざらしになり、時折集中的に降るスコールで飢えをしのいでいる。
「こういう時の為に、アマミキョがあるんじゃないのか! 連合軍さえ来なければっ」
遂にナオトは耐え切れなくなり、一人でズカズカと列を無視して空港内部へ入っていってしまった。勿論、空港のロビーも座り込む人、人、人で床が埋め尽くされていたが。
いつもフーアやアイムに道案内を任せていたナオトにとって、空港や駅とはただでさえ未知の迷宮だった。しかも今は人でごった返し、オーブではいつもナオトが頼りにしていた電光案内板すら見えない。そもそもこの空港には、電光案内板などという便利なものは最初からなかったが。
結果、ナオトは空港内で見事な迷子となってしまった。
「遅れておりました14時20分発オノゴロ行き、搭乗ご案内を開始いたします! 整理番号120番から300番までの皆様、どうか落ち着いて第6ゲートに集合してください!」
案内放送ではなく、空港職員が声をからしてスピーカーで怒鳴りつけるように叫んでいる。既に空港の施設自体が限界に来ていることは明らかだった。
その声が轟いた途端、群衆がわっと走り出した。その勢いにナオトは圧倒され、逃げる余裕さえもなく人にぶつかり、カバンに叩かれ、リュックに殴られ、長靴に蹴られるハメになった。遂に転倒してしまったナオトを踏みつけるようにして、人々はどやどやとゲートに殺到していく。
「畜生! 人を踏みつけるなんて、最低だっ」スーツを埃だらけにしながらナオトは何とか立ち上がり、荷物を抱えて群衆に飛び込んでいった。
「何でぇこのクソガキは」「ちょっと、割り込み禁止っ」「やめて、子供を踏まないで」「痛いいいいい、指が、指がぁぁぁあ」「俺の荷物引っ張るんじゃねぇよ!」「ね、隣の子肋骨折ってるみたいなんだけど!」
ナオトが無謀にも割り込んだおかげで、喧騒はさらなる喧騒を呼んだ。ナオトはそれでも叫ぶ。「僕はオーブの報道レポーターですよ! 優先権ぐらいあるはずでしょっ」
だがナオトの言葉は、ただでさえ苛々が頂点に達していた人々の怒りに、油を注ぐ結果となった。「アホ言え、一刻を争う時に優先もクソもあるかい!」「世界のルールを覚えろ、ガキが! 順番待ちだっ」「私たち、二十日も待ったのよ」「チケットもねぇ癖に」
ほうぼうから手が伸びてきて、ナオトのスーツを掴んで列から放り出す。当然、何発かの拳も喰らった。床に投げ捨てられたナオトに、さらに群衆は罵声を浴びせる。中には殴りかかろうとする者までいた。だが、その時。
「待って! ごめんなさい、私の知り合いなの」
どこから飛び出したのか、すらりとしたパンツルックの女性がナオトに駆け寄った。外側に大きく跳ねさせた、特徴的な栗色の髪。胸にはカメラをぶら下げている。何処かで見たような気もするが、ナオトはすぐには思い出せなかった。確か、アークエンジェルの……
「ホントこの子、世間知らずなもので! ごめんなさいねっ」彼女は群衆に向かってにっこり笑ってウィンクまでしてみせると、すぐさまナオトを抱きかかえるようにしてその場から引き離し、空港外へ駆けていった。
「いきなり何なんですか貴方は……って、イタタタタタ!」
空港外の宿泊所。人影もまばらなその裏手に連れ込まれた瞬間、ナオトは女性に思い切り耳をつねられた。
「何なんですかはこっちよ! あそこには何十日もチケットを待ってた人が大勢いるの、餓死寸前の子を見たでしょう? あんな風に割り込んでいったら、殺されるわよっ」
ナオトの目の前で、彼女のカメラが控えめな胸と一緒に揺れている。ようやくナオトは思い出した。「ミリアリア・ハウさん? 元アークエンジェルで、フリーの記者さんの!」
「まだ駆け出しだけどね」ようやくナオトの耳から手を離し、彼女は腰に手を当てて苦笑した。「貴方、ナオト・シライシね。オーブのテレビでよく拝見させてもらったわ、こんな処で会うとはね」
ミリアリアはナオトと一緒に日陰に移動し、比較的涼しい木陰を選んで腰を下ろした。「サイのメールにもよく、貴方のことが書いてあったわ。ねぇ、サイやカズイはどうしてる? アマミキョに乗って貴方と一緒にいたのは知ってるけど、その後なかなか連絡取れなくてね。心配してたの」
サイの名を聞き、ナオトは反射的に顔を背ける。「会いに行けばいいじゃないですか。ここからそう離れてませんよ、ヤエセの近くだし」
「そのつもりで来たんだけど、急にオーブに戻らなくちゃならなくなって。今、大変なの知ってるでしょ……カガリ代表が色々と、ね」
「そんなに大変なんですか、代表は」ナオトにはその程度の推測しか出来ない。何かを心配しているような横顔をミリアリアは一瞬見せたが、すぐに元の笑顔になる。
「でも、こっちが帰るまでがまた大変よ。もう1週間並んでる……順番待ちの大原則がある以上空港を離れられないし、こういう時に単独行動って不便よね。海岸線が撮影出来たのは収穫だったけど」
「誰かと一緒にいたって、そんなにいいことありませんよ」ナオトはすぐに膨れっ面になり、ミリアリアから視線を逸らした。子供らしからぬ言い方に、ミリアリアは即座に異常を嗅ぎつける。
「サイは貴方のこと、すごく心配してた。俺がモビルスーツに乗せてしまったって、メールでも分かるぐらい落ち込んでたわ」
「あの人らしいですよね。表面的には反省してるけど、実際の行動は裏目に出てばかりだ」
サイに投げつけたのとほぼ同じ調子で、ナオトは皮肉を口にした。ミリアリアの表情から笑みが完全に消失し、そのグリーンの瞳は静かにナオトを睨みつける。木の葉の間を執拗にぬって二人に照りつける日光に、わんわんこだまする虫の声。そこへ、妙に感情を抑えたミリアリアの問いが響く。「何があったの。アマミキョで」
視線を逸らしていたせいで、鬼の如きミリアリアの顔にナオトはしばらく気づけなかった。「別に何も。どうせ貴方も、サイさんの味方するつもりでしょ。さすがにフレイさんの味方じゃないでしょうけど」
ミリアリアが微かに息を飲む音が聞こえた。でも、僕の知ったこっちゃない。ナオトは明後日の方向へさらに顔を向けようとしたが、その肩が強引に引き戻された。肩が砕かれるかと思ったほど、強い力だった。
「フレイですって? 一体あの船には何があるの。教えなさい!」
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