第2次ヤキン・ドゥーエ攻防戦が終結した、C.E.71年9月27日。

 

俺は、何も出来なかった。
目の前で泣いているキラを前にして、俺は、何も出来なかった。
自分でも驚いたことに、涙すら出なかった。
大破するドミニオンから飛び出した一隻の脱出艇。そこに彼女は乗っていた。彼女を護るべく伸ばされたフリーダムの腕。しかしその手は届かず、彼女とともに脱出艇は撃沈。
──それが、キラから告げられた現実の全てだ。
あの時、モニターごしに見ていた宇宙の闇。陽電子砲の攻防の直後、光となって吹き飛ばされたドミニオン。無数の熱い鉄屑となった戦艦の残骸が未だにわずかな光を放つ。フラガ少佐の行動がなければ、あれはそのまま俺たちの運命だった。彼もまた、ラミアス艦長の眼前で、艦長を護るように光の粒子となり消失した。
その片隅で生まれた紅蓮の光芒。あの中に彼女はいた。キラの絶叫と共に彼女は消えた。
──そんな現実を、どうやって認識しろというんだ? 
ミリィが涙を流しながらも、必死で俺の腕をつかみ揺さぶっているのが分かったが、俺はそのまま立ち尽くしていただけだった。恐らくミリィは俺の表情を見て、さらに錯乱してしまったんだろう。しっかりして、しっかりして、ねぇ、お願い。いつまでもミリィは叫んでいた。
ミリィの後ろにいたディアッカが、何とも不器用に彼女を落ち着かせようとしているのも分かった。ブリッジ前方の艦長席では、ラミアス艦長が未だにロケットを手にうつむいているのが見えた。
だが、俺に認識できたのはそれだけだ。
キラのように泣くことも、ミリィのように叫ぶことも、ましてや艦長のようにローエングリンを撃つことも、俺に出来はしなかった。
ただ、俺に向かってひたすら頭を下げ、慟哭し、彼女の死を自分の責任と思い込んでいるキラの肩に手を置くことぐらいしか、俺に出来ることはなかった。
その時確か、俺はこう言ったと思う。
お前が生きていてくれて、うれしい。
あいつだってお前の気持ちを、きっと理解したはずだ。本当に、お前はよくやった。感謝してる。
「だからもう、何も心配するな。ゆっくり休んでくれ」
どんな声色で言ったか自分でも分からないが、それは確かに俺の、正直な気持ちだった。

 

ただ、その時から俺の時間は止まった。
それは、かつて愛したはずの娘を目の前で爆死させられながら、彼女の存在をろくに認識することすら出来ず、彼女を守ろうと手を差し伸べることすら出来なかった俺への、当然の罰だったのかも知れない。

 

  

PHASE-00 Boy meets Girl,again.

 

 

 

その半年後──C.E.72年3月17日にユニウス条約が締結され、地球連合とプラントの間で停戦条約が結ばれた。
さらに、その3ヵ月後。
オーブより北西に位置する、東アジア共和国のとある島国に、俺は来ていた。
国の名はチュウザン。再構築戦争前の日本──つまりオーブの源流となった国──の、南端に位置する島々を中心とした国だ。昔はもう少し小さな島だったらしいが、地殻変動により現在のオーブの3分の2ぐらいの土地を持つ。
俺は今、ここにいる。動きを止めてしまった時間を取り戻すために。

 

オーブに戻ってからというもの、出来ることは出来る限りするつもりだった。政治・軍事・経済の勉強、カガリ姫に頼み込んでオーブ国立図書館の奥の奥まで入り歴史を研究したこともある。同時に、これもカガリ姫の協力を得てのことだが、モルゲンレーテ社の契約社員となってモビルスーツ開発の真似事をやってみたりもした。
とにかくやれるだけのことはやっていた。しかし、どこか方向を間違っていたような気もする。何故なら、相変わらず俺の時間は、停止したままだったから。
無我夢中で色んなことに手を出して何かをしたつもりになりながら、実は何もしていない。それに気づかされたのは、ミリィことミリアリア・ハウから突然、カメラマンとして起つ、という決心を聞かされたときだった。
「焦っちゃダメ、貴方は貴方の道を行けばいいの。私もともと、貴方を見ていて自分も頑張ろうって思ったんだからね」
そんな言葉と印象的なウインクを残し、ミリィは独りで旅立った。ディアッカ・エルスマンには気の毒だが、これもミリィが選んだ道だ。誰にも止める権利はない。
勿論ミリィがそう出来たのは、カガリ姫の尽力あってのことだ。いくらオーブの民間人の学生で戦闘に巻き込まれたとはいえ、俺たちは一旦は連合軍へ志願した身だ。しかもオーブ戦以降にアークエンジェルにいた者たちは全員脱走兵扱いとなる。そのままでは世界を飛び回るカメラマンになどなれるはずがないし、俺だってこうして連合の国である東アジアに来られるはずもない。カガリ姫には感謝してもしきれない──尤も現在のオーブの状況を見る限り、彼女に政治的能力があるかどうかは正直、相当微妙だが。

ミリィが出発してしまってから、俺はひどい焦燥感にかられた。ミリィがそれを見越したかのように「焦るな」と言ってくれたにも関わらず。
懸命に何かをやっているつもりでいながら、何もできていない。いったい何をやっているんだ、俺は。自分が情けなかった。
戦争が終結したはずの今でも、紛争は世界中で未だに絶えることがない。それどころか、各国の復興が遅れている上にインフレが発生し景気は低迷、経済状況は最悪だ。オーブとて例外ではなく、物価は戦前の5倍に跳ね上がっている。その上税率も引き上げられた。経済担当相によれば復興の為の一時的な手段にすぎないそうだが、どこまで本当か。尤もカガリ姫はそれを真っ正直に信じているようだが。
ナチュラルとコーディネイターの対立も、表沙汰になることがなくなった分、陰湿に裏で続いている。現に、オーブの繁華街では昼も夜も、ナチュラルとコーディネイターの喧嘩に端を発した暴動が後を絶たない。俺は争いを目撃するたびに仲裁に行ったが、毎回何も出来ずに殴られるばかりだった。
所詮、キラやアークエンジェルがいなきゃ何も出来ないのか、俺は──

 

そんな時だ。ちょうどモルゲンレーテ社で、海外緊急救援隊が結成されようとしている話を聞いたのは。
オーブの非政府組織として構成される予定の緊急援助隊。今までも何度か各国に援助隊を派遣しているオーブだが、今回のものほど大規模なプロジェクトは初めてらしい。その対象となる国は様々だが、中心となるのは東アジア共和国の一角・チュウザン。連合に参加しているがオーブ特にアスハ家とも関係が深く、どちらかといえば中立に近い国だ。勿論この地に居をすえたコーディネイターも少数ながら存在する。
しかし現在この国は、南部地域から出現した新勢力と、資本主義による復興と発展を望む北側(チュウザン政府側)に分断されており、内部抗争が絶えない状況だという。しかも連合参加国でありながら戦後チュウザン政府は堂々と中立を名乗り、コーディネイターの受け入れをすすめたために混乱に拍車をかけているらしい。だが、そのおかげでチュウザンの技術力は飛躍的に高まったそうだ。
今、この国に必要なものは他国の援助、それによる戦災からの復興。一言で言うと実にたやすいが、現地ではテロや暴動が相次ぎ、さらに富俗層と貧困層との差が激しくなっているという。
行きたい。俺は思った。たとえこの活動が、オーブの宣伝活動に直結してると分かっていても。
入隊するには勿論試験が必要で(最終的には相手国側の代表との面接まで含まれる)、出来うるならばチュウザン入国経験のある者が望ましい──当たり前の条件といえる。
それを聞いたとたん、俺は荷造りを始めていた。
俺の中で止まった時間を動かすための鍵。もう一度、俺のネジを回してくれる力。
俺は、それがここにあると、必死で信じた。
今思えば、あいつを忘れることで俺の時間が動くとか……そんな浅はかなことを考えていたのかもしれない。

 

見かけだおしの街。それが、チュウザン首都・ヤエセに対する俺の第一印象だった。
駅もホテルもコンビニも一応は整っている。繁華街の喧騒はすさまじく、紅を基調としたライトアップは豪勢だ。狭い土地を有効利用するためか、駅前には所狭しとビルが建ち並ぶ。7階建てのオフィスビルも中にはあるが、大半はいかにも構造の弱そうな細いビルだ。台風による被害も多いから昔は低い建物が多かったときくが、今では決してそんなことはない。もっとも、40階建てとかいう無茶な建造物もないが。
自動車と自転車がひっきりなしに行き交って渋滞となり、夕闇の中に赤信号が明滅して人の怒号が飛び交う。
しかし、この暑さはいったいなんだろうか。オーブのほうが赤道には近いはずだが、この土地はオーブより遥かに暑く感じる。気温は午後5時の時点でも30℃を超えている。しかも湿度が80%と、尋常ではない。暑い土地に住む人々はおおらかだと聞いたことがあるが、どうもここの住民は例外らしい。おそらく湿度というものは、人をいらつかせる効果があるのだろう。至る処で軽く6センチはあるだろう巨大な蛾が暴れ回っている。
空港から出た直後から、俺は汗だくになった。ホテルに着いたらシャワーでも浴びようと思ったが、いざチェックインしたらば部屋は見事なボロで、シャワーとは名ばかりの、水道の蛇口が壁についているだけの代物だった。出てくるものは勿論水のみ。ドアの鍵も壊れかかっているという有様だ。勿論冷房なんかない。壊れかけの扇風機が一台回っているだけだ。壁と窓に一匹ずつ蛾がはりついている。
外に出ていたほうがまだマシだろう。そう判断した俺は、夕飯もかねて外出した。
ホテルを出るとすぐに繁華街だ。仕事帰りの人々で道路は溢れ、駅からはラッシュの喧騒が聞こえる。そこかしこに屋台が建ち並び赤や橙の灯をつけて賑わいを見せているが、その陰でじっと座りこんでいるボロをまとった子供の姿を、俺はどうしても見過ごせなかった。
駅前で寝そべり腐臭を発するホームレスの老人たちに混じって、子どもたちがほぼ裸のまま走り回る。宵闇になってもそれは変わらなかった。特に俺のような旅行者は目立つのかそれとも勘で分かるのか、歩いていても食事中でもお構いなしに子供たちが物ごいをしてくる。中には堂々と子供に物ごいをさせている母親らしき人物までいた。
俺のすぐ後ろの席では、明らかに薬をやったカップルがテーブルの上に堂々と寝そべって抱き合っていた。俺はこれでも設備が良さそうだと思ったレストランを選んだつもりだったのだが…その時俺は気づいた。大人の男の姿が少ない。太ってよく日焼けした中年の女性店員に声をかけ聞いてみると、半数近くが大戦に駆り出されたっきり帰ってこないらしい。
残ったものは、女性と子供。大戦当時まだ成人していなかった未熟な大人、それに老人……そして、軍に入れないほど素行不良だったか何らかの障害を持つ若者。
推測するまでもないが、ここにいる全員がナチュラルだろう。ちなみにこのレストランだけで見れば人口密度は1平方メートルにつき3人。料理の匂いよりも下水の臭いのほうが鼻をつく。何といっても熱気と湿気がひどい。目の前の肉がどういう環境下で調理されたか、考えるのはやめたほうがよさそうだ。調理場と食堂部分を繋ぐ通路を何回か小さな黒っぽい動物が横切るのが見えたが、これも正体を考えるのはやめた。
「川向こうに「文具団」の工場があるけど、私らナチュラルには1日ジャガイモ1個ぐらいの給料しか出しちゃくれないんだ。重用されるのはコーディネイターばっかり、前より確かに暮らしは楽になっちゃいるがね、たまんないねぇこの格差。向こうにはコーディネイターの街もあるけど、暮らしがどんなにひどくなったって私はあそこだけはゴメンだ」
唇をとがらせてその女性店員は吐き捨て、さらに冗談交じりに言う。「あんた育ち良さそうだけどまさか、コーディネイターじゃないだろうね」
「そう見られると正直嬉しいですよ、でも違う」
俺は強引に食事をたいらげて外へ出た。途端にスコールが降り始める。熱帯地域特有の、短時間の豪雨。俺はあいにく、傘を持っていなかった。ビルの庇に隠れながら移動したがそれでも、数秒で靴に水がしみこみだし、横なぐりの雨が俺のいる壁に叩きつけられる。戦争による環境破壊の影響で地球全体の気候が狂っているとは聞いていたが、ここまでとは。
ここの人はこんな時、空を見上げて思うのだろう。コロニーに住めれば、こんな目に遭わずにすむのに。この国にもコロニーがいくつか建造されているとは聞いたが、勿論この区域の人々は無縁なのだろう。
20メートルほど走ったところで、俺は雨をよける努力を放棄した。人々が急いで屋台をしまいこみ、子供が雨の中で踊っている。俺はビルの間の狭い路地裏に入り、何とか一息ついた。カッターシャツから靴までがすっかり水につかり、まるでたった今そのへんの川に飛び込みましたという具合になっている。
路地裏は、表通りとは全く違う様相を呈していた。ところ狭しと投げつけられたゴミ、散乱する洗面器、どこかの酔っ払いの吐瀉物の跡。道路は舗装されてもおらず、曲がりくねった狭い路地を泥水が流れるままだ。黒い地面を狂ったように這いずりまわる虫は一匹や二匹という数ではない。両脇をビルで挟まれているその道では、窓と窓をつなぐロープに小汚い洗濯物が吊り下がったままにされていた。ビルの間を埋めるように、犬小屋とも掘っ立て小屋ともつかぬ構築物があったが、そこから人が出入りしている。
豪雨の中で眼をこらしてよく見ると、そんな家とも言えないような代物が、いくつも寄り添うように並んでいる。奥へ入っていくとさらにその数は増えた。
そこへ、少し先のビルの陰から、少女の悲鳴が聞こえた。続いて、男の怒声が雨を裂く。「酒も買えねぇ、何だこの稼ぎは!」
俺は反射的にその路地へと向かっていた。
それはオーブでも見たことのない、あまりにもショッキングな光景だった。わずか10歳程度になるかならないかの少女が、3人もの男から殴り倒されている。最も図体の大きい男が椅子を振り上げ、少女に何度も打ち下ろしていた。「お前はお前の母親にそっくりだよ、だからお前は俺たちを養う義務がある! 素直に酒を出して、朝と昼と夜稼げ!」
信じがたいことだが、話の内容から推測するに……椅子を振り上げるこの男が、少女の父親らしい。そして、少女の腹なり頭なりを周りから蹴っ飛ばしているのが、少女の兄二人。まだ幼いはずだが、明らかに薬の常用者だ。
少女が何をして稼がされたのかは考えたくもないが、彼女の服装から判断する限り、考えられうる最悪の推測が大当たりなのだろう。
俺は駆け出していた。椅子を高々と振り上げた男に、思い切り組みついた。
信じたくない。こんなものが、家族であっていいわけがない!
「どんな事情があるか知らないけど、こんな女の子に、椅子を振り上げる父親が、いるかあっ!!」叫んでいた。
その息の臭いからして、父親は明らかにアル中だった。彼はいきなり掴みかかってきた俺の名を問うこともなく、振りかぶっていた椅子で俺を殴り倒す。眼鏡が吹っ飛び、俺は壁に叩きつけられた。「部外者が! 家庭の事情に口出すんじゃねぇっ」「口出さなければその子が死ぬ!」
俺が言い終わらないうちに、もう一度椅子が俺の腹を一撃した。父親はスコールを浴びながら俺に吐き捨てる。「貴様らに、俺の気持ちが分かるか!? こいつの父親はな、コーディネイターなんだよ!」
……そういうことか。
話が見えてきて、俺の肩から一瞬、全ての力が抜けた。
父親の支離滅裂な叫びから類推するに、この娘は母親がコーディネイターと浮気して出来た子供。それで、稼ぎ頭の母親は出て行った。家庭は崩壊した。娘はコーディネイターの血を引いている、だから稼げる。ゆえに、娘には俺たちを養う義務がある。アル中の父親と薬中毒の兄二人を。
俺だって、似たような経験がないわけじゃない。その経験のおかげで、俺の時間は未だに動いていない。
だからといって。「そんな論理が、人として通用すると思ってるのか?」
俺は父親を睨みつける。同情を誘おうとする涙のように、父親の頬を雨が流れる。「俺だって、最初からこんなだったわけじゃない。あいつが悪いんだ、全てあの女がっ」
この父親の時間も、未だに停止したままのようだ。「ナチュラルかコーディネイターかなんて、もう関係ない。戦争は終わったんだよ、その娘はその証明だ!」俺は拳を固め、全力で相手を否定するために殴りかかった。
少女を蹴っていた兄二人が、今度は俺に襲いかかってきた。一瞬俺は、2年前のオーブ防衛戦を思い出す。連合の新型モビルスーツが襲いかかってきた時のあの感覚を。戦術無視で力だけを頼りに、狂ったように襲いかかってきたモビルスーツ3機を。ただ、その時と違うのは勿論、今の俺にはフリーダムもアークエンジェルもないということだ。正論を振りかざして相手を否定するには、俺はあまりにも無力すぎた。
腹にまともに入った蹴りは、俺の意識を遠くさせるほど強力だった。
そこから先は──やまないスコールの中でとにかく滅茶苦茶に殴られ、蹴られたことしか覚えていない。

俺は、ひたすら暴力にさらされる一人の少女すら、助けられないのか。
俺がここで動くと思っていたものは何だったんだ。


絶望感と痛みで、全ての力を失いかけたその時──
目の前に、真っ赤なハイビスカスの花束が現れた。
激しい雨すらはじいている、血のような花弁。花を彩る水滴が、ガラス球のように輝いている。その輝きが、雨で煙る。
仰向けになりながら、俺はその花束の持ち主を見上げた。俺の頭のすぐそばに、ゴム長靴を履いた不恰好な足があり、そこから白いふくらはぎが見えた。グレーのロングスカートに、半そでの白いブラウス。胸の膨らみ。そして──見覚えのある、確実に見覚えのある、忘れようにも忘れられない、わずかにウェーブのかかった長い紅の髪。それが鎖骨のあたりに、雨ではりついている。
これは夢か。それとも悪夢か。確かこの国には、随分昔に否定されたはずの不可思議な霊的現象があると聞いたことが──
「サイ…?」
震える唇から漏れた声。
まずい。打ち所が悪かったのか? こんな処で、あいつの声が聞こえるはずがないのに。
ましてや、最後の状況から考えて、ありうるはずがない。
あいつが、俺の頬に手を当てて、涙を流しながら自分の胸に引き寄せるなんてことが。
「サイでしょ? サイ・アーガイルよね!? そうだよね!!」
彼女の手から、傘が落ちた。涙とともに雨が彼女の頬を流れる。
「会いたかった! ずっと待ってた! やっと会えたよ、サイ!」叫びながら、俺の頭を抱きしめる。俺の意識はまだ朦朧としたままだったが、それでも、ブラウスごしにはっきりと鼓動する彼女の心音が聞き取ることができた。
状況が全く理解できなかったが、これは現実だ。俺の頬に伝わる彼女の体温、彼女の鼓動、彼女の肋骨の感触、そして俺の耳もとで号泣する彼女の声が、如実に示している。これは現実だ。
その時、俺の胸中に閃いた想いは。
 

 

キラ。聞こえるか。
フレイは生きてた。
フレイ・アルスターは、生きてた──!!

 

 

 

分からないことはいくらでもあった。
まず最大の疑問は、何故フレイが生きているのか。
何故、この国にいるのか。
そして、俺にあれだけ愛しげな態度をとったのは何故なのか。ありえないはずだ。想像を絶する酷い形で俺たちは破局を迎えたんじゃなかったのか?
それから、朦朧とする意識の中で見た、彼女の足元。俺がさっきまで倒れていた場所には……俺をぶちのめしていたアル中の父親とヤク中の兄弟がひっくり返っていた。
どうやってホテルへ帰ったのかさっぱり覚えていないが、スプリングが軋む粗末なベッドで目覚めた時はもう、フレイが俺を心配そうに見つめていた。俺の目が覚めたのを確認すると、安心したようににっこり笑う。
「ごめんね。サイの服借りちゃった」彼女は、壁にかけてあった俺の服を着ていた。で、俺はというと……
「悪いと思ったんだけど、泥だらけだったから上着洗っといたよ」洗面所のほうを顎で示す。「裸、見せてもらった」しれっととんでもないことを言いながら、フレイは俺に眼鏡を手渡す。「ちょっと恥ずかしかったけど、見てびっくりよ。アザだらけ」
俺は眼鏡をかけ直して答える。幸いにもズボンまでは脱がされていない。「オーブで、いろいろと揉め事があるんだよ」
「サイって、そんなに喧嘩っぱやかったっけ?」
不思議そうな目で俺を見つめる。俺はいつのまにか、彼女の雰囲気にのまれていた。
この明らかな異常事態に、俺の脳は対応しきれていなかった。だからなんとなく、通常の会話をしてしまう。といっても、2年前の通常だが。
「そうじゃない。さっきみたいな暴力沙汰が我慢できないだけだ、あれは喧嘩なんかじゃないだろ」
「一方的な暴力行為、ってとこね。でもそれにしちゃ不用心すぎ。オーブじゃ知らないけど、ここであんな路地裏に丸腰で入っていくなんて自殺行為ものよ。私がいなかったらどうなってたんだか」
俺の左頬には、しっかりとガーゼが当てられていた。フレイは一旦洗面所に戻ったと思ったら、いきなり何かを投げてよこす。それは、俺の財布とパスポートだった。
「貴重品ぐらいきちんと管理しなさいよ。やっぱりオーブの人間って外を知らないっつーかなんつーか……私がつかまえなかったら」
「つかまえたって、誰を」「決まってるでしょ。ハーフの子」当然とでも言うようにフレイは背を向け、洗濯の続きを始めた。
「彼女、どうした?」「児童保護局に連れてった」そっけない返事。まだそれほど時間は経過していず外は夜になったばかりのようだが、既に雨はやんでいるようだ。
日常茶飯事なのか、ここでは。俺は甘すぎるのか。助けようとした娘にまで、財布を盗まれるところだったとは。「やっぱりコーディネイターなんて、ろくなもんじゃないわ。いくら半分だけとはいえ、性根曲がりすぎ」
「あの子のせいじゃないよ」「甘ったれたこといってると、明日は殺されるわよ」
俺の鼻先に、フレイはいきなり花束をつきつけた。煙のような雨の中に生まれたハイビスカスの真紅の花束。まだ水滴がついている。
「きれいな花だね。どこで買ったの」そんな間抜けな応答しかできなかった。フレイは腰に手を当て、明らかに俺を見下しつつ言う。
「ホントにバカね。このご時世に花なんか高くて買えたもんじゃないわ、その眼鏡は何のためにあるの? よく見なさい」
目をこらして見ると、その花弁は作り物だった。しかも、これだけは本物だろうと確信していた水滴まで、ご丁寧にもビーズ球か何かでくっついている代物だった。しかしそれよりも俺を仰天させたのは、真っ赤な造花の奥に隠されていた──銃口。
おそらく花束に仕込むことが出来る程度の婦人用拳銃なのだろうが、その銃口はきっちりと俺に向いていた。
「まさか君は……これで彼らを」
「んなわけないじゃない、プラスチック弾よ。至近距離でない限りせいぜいアザ残すぐらいが関の山、でも十分護身にはなるから」
フレイは花束を置くと、俺のそばに腰を下ろした。じっと俺の顔を見つめ、そして懐かしげに俺の頬に手を当てる。やろうと思えば十分にキスが可能な距離まで。涙までたたえたその瞳に、邪念は全くない。「だけど、嬉しかった」
俺は思わず腰を引いた。気持ちも引くように努めた。
駄目だ、こんな会話をしていては。彼女のペースに流されてる。
「まさか、この国でサイに会えるなんて夢にも思わなかったもの。話したいことでいっぱいよ、何から話せばいいかな」
「ああ。俺もあるよ」
俺はフレイの視線も手も振り切った。現実を認識しろ、彼女は死んだはずだ。死んだはずなのに、生きていた。それならば俺がやるべきことは、ただ一つしかない。
「だけどその前に、やることがある。
キラに連絡しよう」
俺はベッドから立ち上がり荷物を取り上げ、ノートパソコンを取り出す。フレイがちょっと驚いたように俺を見ていたが、俺はその表情を、手を振り払われたための非難の眼と解釈した。しかしすぐに違うと分かった。
「ねぇ、サイちょっと待ってよ……言ってることの意味がよく分からないんだけど」フレイが俺の肩をつかみ顔を覗き込む。眼は疑問の色でいっぱいだった。
「俺も正直、君の行動の意味がよく分からない。どうして君は、俺を遠慮なく抱きしめたりできる?」
「何怒ってるの? 変だよ、サイ? 何か私、悪いことしたかな?」
いけしゃあしゃあとよく言うわ。ミリィがこの場にいたら間違いなく言うだろう。
「怒ってないよ、ただ、これだけはやらなきゃいけない。キラに君のことを伝える!」
「だからそれが分からない。キラって?」
「君は何をそらっとぼけて」思わず大声で怒鳴りかけてフレイの顔を振り返り──俺は唖然とする以外の行動が出来なくなった。
キラ。確実に反応を示すだろうその単語に対して、彼女は疑問以外の何の表情も見せていない。何とかそれを必死で思い出そうとしている様子だ。困ったように首を傾げている。
まさか──俺の抱いた嫌な予感は、同時に俺の中でわずかな期待に変わる。
なんて男だ、俺は。自分で自分を蹴り飛ばしたくなった。そして彼女は、俺の予想と全く違わぬ台詞を吐いた。
「キラって……ああ、サイの友達の!」
オールリセット。俺の脳裏にまず閃いた言葉はそれだった。
さきほどのコーディネイター云々も引っかかるものがあったが、今のフレイの一言が、何よりも確実に実証している。
彼女が、記憶を──少なくともキラとの記憶はほとんど全て──消失しているということを。

 

ベッドにぶっ倒れて天井を見上げてバカみたいに笑い続ける以外に、その時の俺に何が出来ただろう。
フレイはそんな俺を見て最初は茫然としながらも、しばらくしてぽつぽつと話し始めた。
どうやら彼女は、自分の身に何が起こったのかということは知っているらしい。だがそれは、全てが終わった後に他人から聞かされたというだけの話だ。ヘリオポリスの崩壊も、アークエンジェルでの脱出も、父親であるジョージ・アルスターの死も。
「パパが亡くなったってあとから聞かされた時は、本当にショックだったけど……そのことも覚えてないの。状況から考えて、私はパパの近くにいたはずなんだけど……」
いた。そして君は、目の前で父親の爆死を見たんだ。
その瞬間、君の中で一つの世界が崩れ去った。君が守ろうとしていた小さな世界が。
アークエンジェルでオーブ、アラスカと回り、俺たちと離れた直後にザフトの捕虜となり、その後解放されて連合艦・ドミニオンに乗ったことも、本人は知ってはいても思い出せないらしい。トールの戦死も、直後のミリィの慟哭も。勿論、救助艇の爆発からどうやって逃れたのかも、だ。
「気がついたら、この国の軍施設にいた。ポッドで漂流していた処を東アジアの救助隊に拾われた、らしいんだけど」
「キラは、君は確かに救助艇にいたと言ったよ」
「彼、救助艇に乗ってた私が見えるような場所まで、近づいてたの?」
「本当に見えたのかどうかは俺にも分からないよ」
「少しずつ、思い出せてはいるの。現に、サイのことも思い出せたし」
フレイは俺の両腕をつかむ。真剣なまなざしが、俺の目をまっすぐに覗き込んだ。「もうちょっとなの、私何かとんでもないことを忘れてる! 思い出せれば、前に進める気がする」
俺は彼女の手をゆっくり下ろさせて立ち上がる。彼女の視線を真正面から浴びるのは実につらい。鞄から新しいシャツを出して無造作に肩からかけた。「キラが命がけで俺たちを守っていたことは?」そう聞くのが精一杯だった。
「それも聞いてる、でもやっぱり覚えてないの。キラって、あの目立たない子でしょ? 顔は可愛いけど、おとなしくて地味めで、いつもサイたちの陰に隠れてるような感じの子じゃなかったっけ」
そこまで覚えていて、何故肝心なことを思い出せない。俺をからかって何が楽しいんだ、君は?
俺の心の底にあるものを彼女はわざと刺激している、そんな気すらした。
全ての状況が、俺に都合のいいように動いている。いなくなったはずのフレイが、突然俺の前に天使のように舞い降りた。しかも彼女はキラとのことをきれいさっぱり忘れ、俺と婚約者同士だったことはきっちり覚えている。
今のフレイは、俺だけを見ている。俺だけを頼っている。
思い出すな。どうかそのまま、思い出さないでくれ──腹の底から聞こえるその声を、俺は必死でねじふせる。
「コーディネイターだったんだよね、もうびっくりよ。コーディネイターってずっと化物みたいって思ってたけど、ああいう普通に見える子もいるんだなって」
「キラは実際、普通だよ」
「嘘だぁ、普通の子がたった一人でモビルスーツ動かして敵全部やっつけたり出来るわけ?」
「そうじゃない。キラはいい奴だってだけさ」
フレイはベッドに座ったまま、ちょっと不審げに俺を見上げる。しかしその眼には同時に悪戯っぽさも含まれていた。「どうだか。そのキラって子、随分増長したりしなかった? 自分だけがモビルスーツ動かせるからって勝手な行動したり、本気で戦わなかったりしたことだってあったんじゃないの? そりゃ、ナチュラルばかりの中にいて孤独を感じることもあったでしょうけど」
心臓が、フレイに聞こえるほど音を立てたような気がした。俺は動揺を隠そうと、慌てて洗面所の方へ視線をそらす。
思い出すな。思い出すな、どうか……
「ひょっとして、サイをバカにするようなことだってあったんじゃない?」
フレイが俺の正面に回りこんだ。またしても視線がかちあう。俺がよほど青ざめていたのか、フレイの顔から悪戯の色が消えた。
「ごめん。いきなりこんなこと言われたって、サイが困るだけだよね。
でも私、思い出したいんだ。アークエンジェルに乗っていた時のこと。そうすれば、止まったままの時間が動くような気がする…分かってもらえないかも知れないけど、どんなに頑張っても時間が動かない感覚って、虚しいだけ」
分かる。俺には分かる。今の俺がまさしくその状態だから。
「キラのこと、あまり悪くいうなよ」
「ごめん。友だちだもんね」フレイは再びにっこり笑った。いったいどれぐらいぶりだろうか、彼女の屈託のない笑顔を見るのは。俺の推測が正しければ、おそらくキラにもこんな笑顔は見せなかったはずだ。いや……それは単なる俺の願望か。
この笑顔は今、俺だけのものだ。俺さえその気になれば、簡単に手に入る。
「ね、どうしたのサイ? あんまり恐い顔しないで、せっかく会えたんだもん…お願い」
無邪気に俺の右肩に自分の顎を乗せてくる。くすぐったさに思わず抵抗しようとしたが、彼女の力は思った以上に強かった。その勢いで俺はもう一度ベッドに座り込んでしまう。
「やっぱりサイって、固いのね。ひょっとしてこういうこと、したことない?」耳元で囁く。吐息が首筋にかかり、耳たぶにフレイの唇が触れた。両肩に手がからまり、俺はそのままもう一度ベッドに倒される。「でも変よ、恋人同士なのに。私たちちゃんと、子供産めるんだからね」まだ乾いていないブラウスの襟の間から、玉のような雫のついた肌が見えていた。部屋が最高に暑いということに、その時になって初めて気がついた。
駄目だ。絶対に駄目だ!
俺はとっさに身を起こして、かなり乱暴に彼女を振りほどく。勢いで、フレイの身体はベッドの上で思い切り弾んだ。俺は彼女のブラウスの襟に触れ、はだけた胸元を直し、白い肌を視界から隠した。それ以上見ていたら気が狂いそうだった。
目の前に、フレイの大きな群青の瞳があった。今度は明らかに俺を非難している眼だ。こちらの心臓の動きまでも探り出そうとする眼でもあったかも知れない。
「ごめん。でも、やっちゃいけないんだ」もしここで俺が過ちを犯すようなことがあれば、彼女の時間はどうなる?  止まったままの彼女の時間は。
俺が彼女にすべきことは、変わらない。たとえ、彼女がリセットされていたとしてもだ。
彼女が時間を戻してしまっても、俺の時間は戻らない。
俺はもう一度ボタンをはめなおし、服の裾も直した。その時には、既に決心は固まっていた。
「フレイ。明日は空いてるか?」
俺は出来るだけ笑顔になるよう努め、振向いた。案の定、フレイは何を言われたか即座に理解できなかったらしく、穴があくほど俺の顔を見つめている。
「フレイがこの国にいてくれてよかった。俺に教えてほしいんだよ、この街のこと。今度本格的に居座ることになるかも知れないから」
「ここへ来るの? 何しに?」
俺は手短に、モルゲンレーテと文具団との共同計画・緊急援助隊の件を話した。「偽善めいた計画ってことは分かってる、でもたとえ偽善からくる行動だろうと、人を助けられるなら俺はそれでいいと思ってる」
「アークエンジェルの行動理由と同じね。ラクス・クラインやカガリ姫の正義感と自己陶酔極まるご立派な話なら結構、私あの子たち嫌い。人を助ける? 安全なところから見下ろしてモノ言わないでよ」
フレイは乱れたシーツもそのままに身を起こし、じっと俺を睨みつけていた。
「君が降りた後のアークエンジェルのことやラクスさんのこと、少しは知ってるのか」
「話に聞いただけ。虫唾が走るわ……生ゴミ漁って地を這う鼠なんか振向きもしないで、星屑のもとで平和の歌? オーブの理念? 一回でいいから、チュウザンの生臭い満員電車乗ってみりゃいいのよ、きっと3分もたずに貧血ね。そして公衆便所に駆け込んだら宇宙一汚い便所の有様に卒倒するの、見ものじゃない?」
意地悪く笑うフレイは、間違いなく嫉妬をストレートに露にするフレイそのままだった。俺は思わずたしなめる。「言うことは分からなくもないけど、言い方選べよ。そういうところは変わってないな」
「ということは、サイも同じように思ってるんだ。彼女たちのこと」
「尊敬してるよ、ただ賛成できない部分もあるだけだ。今政治論議したってしょうがない、返事を聞かせてくれ」
フレイはもう、落ち着きを取り戻していた。探るように俺を見ていたが、やがて覚悟を決めたように言う。
「いいわ。サイなら許す。
ただ、今日明日はダメ。仕事があるの」
「仕事って」
「私ね、どっかのお姫様みたくのんべんだらりと暮らしているわけじゃないのよ?」唇をとがらせ、フレイはハイビスカスの花束を取り上げて帰り支度をはじめた。
「これから?」「そう。昼と夜」

 

 

 

 

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