その日は勿論、相当に暑かった。俺とフレイは最も暑い時間を避け朝の8時15分、駅の反対側を待ち合わせ場所に選んだ。その時間ならフレイも空いていたし、ちょうど良かった。
予定より20分ほど遅れてフレイはやってきた。この程度なら……2年前で慣れてる。
白い日よけ帽子に、薄水色のワンピースというシンプルな格好である。残念ながらミニスカートではなく、脚を陽射しや熱気からすっぽりと守る膝丈のフレアースカートに、白い厚底のブーツ。勿論手には例の花束を持っている。
ただひとつ困った問題があった。それはこの時間帯が、ラッシュ最大時ということだ。
満員電車ならオーブにもなかったわけじゃない。俺はオーブの満員電車の惨状が世界一いや宇宙一だと信じていたくらいだ。その確信は、一瞬で覆されることになった。
ホームは人で溢れかえり、喧嘩や転落事故は当たり前。ドアが閉じないまま、窓からはみだす人間がいるまま発車するのも当たり前。オーブではこういった場合必ず電車を止めて安全確認を丁寧に行なうおかげで電車が遅れる。チュウザンではそれがなく、時には電車の屋根にまで人を乗せて出発してしまうのは豪快というべきか。
フレイは意外にも、この地獄行きの電車に涼しい顔で乗り込んでいた。痴漢も相当いるだろうが、彼女は全て例の花束で撃退したそうだ。俺はというと……人と人に挟まれて足が浮き上がっている上、うっかり窓際の手すりのある場所を取ったおかげで、電車が急減速急停車するたびに窓と手すりの角部分に肋骨を激しく圧迫されることになった。おそらく毎日のように骨折する人間が出ているんだろう。
「給料低くて長時間労働を強いられるとはいえ、今じゃ文具団はチュウザン唯一の希望だもんね。誰もこんな電車乗りたかないけど、生き抜くためにはしょうがないのよ」
「生き抜く前に死人出るぞこの電車」
「手すりのそばは一番危険なの、そんな場所取ったサイが悪いのよ」フレイは顔色ひとつ変えずに、少ないつり革をゲットしていた。
「フレイ、礼を言うよ。こりゃ最高の勉強になる」皮肉まじりに吐き捨てたつもりだったが、フレイはにっこり笑って言い返す。「そりゃどうもありがとう、次は是非カガリ姫の同行をお願いいたしますわ」
電車は、川の向こうへと橋を渡っていく。そこはコーディネイターとナチュラルが同居している場所──つまり、「文具団」の工業用地だ。
大戦終結後、軍需生産が必然的に落ち込んで景気は世界的に低迷を続けている。しかし「文具団」社長トレンチ・ムジカノーヴォはそれを逆手にとった。解体されたモビルスーツや軍兵器を片端から買い取っては別の電化製品へと生まれ変わらせたのだ。主なところではトランスフェイズ装甲の自動車などがそれである。他にも追随した企業はいくらでもあったが、まず先陣をきったのが「文具団」だった。大戦の終結を見越して工場などの設備を整え、密かにチュウザン国内に暮らしていたコーディネイターを集結させた手腕は、見事というほかはない。
他にも文具団は、連合寄りの放送局や新聞社の株の買占め、鉄道会社や旅行会社、情報産業や出版業、世界的にチェーン店を持つ食品会社などとの企業の合併・吸収を繰り返し、ついには東アジア共和国が放棄していた軍事用コロニー「ウーチバラ」の復活まで果たし完全に自らのものにしてしまった。その上に、近海のバタン諸島・バブヤン諸島さらにはルソン島の一部の土地の権利の買占めを行い、着々と力をつけている。一見、目覚ましい復興を果たしているように見えるチュウザンだが──実態は、この前俺が見た通りだ。
「この先の文具団の用地あたりは何とかコーディネイターとうまくやってるけど、他のところはねー。文具団の仕事はコーディネイターと優秀なナチュラルが独占しちゃってるし、だからといって平凡なナチュラル用の仕事がそうそうあるわけじゃないしあっても安く使われるだけだし、その上復員兵が続々帰って来ちゃってるしねー。そりゃ失業率は必然的に上がるわよね。貧困層と富俗層が見事に二つに分かれちゃってる。勿論貧困層の方が大多数」
連合加盟国の中にあって数少ない、コーディネイターが居住できる国。また、連合の中にありながら中立を目指す国。だからこそオーブのモルゲンレーテ社も、この国を母体とする「文具団」に手を貸した。大戦で少なからぬ被害を受けたモルゲンレーテ社も生産力を落とし、事業回復のためであればどこであろうと協力したいという状況だったのだ。
そしてオーブ政府も、中立国としての力を宣伝し国際的な発言力を強める必要に迫られていた。オーブ自体国土を焼かれ、復興もままならない状態だというのに何故チュウザンへの支援を決定したかというと、こういう背景があるからだ。
フレイの仕事が何か、問い詰めるつもりはなかった。この間の惨状を見れば、この国で女が独りで生きていくということがいかに大変なことかはアホでも分かる。かといって、死んだとされたはずの人間がオーブなり連合なりに戻ったところで、いったいどのような騒ぎになるかは想像にかたくない。
それにフレイ自身、戻りたいという気持ちがないようだ。記憶が完全に回復するまでは──
「私、仕事好きよ」
仕事の話になった時、彼女は朗らかに言った。「この国の人たちは皆、生きながらにして殺されている。戦場にいた男たちだけじゃない、朝と昼と夜の肉体労働に疲れきった人、酒と薬に溺れた子、その子たちに蹴られたおじいさん。時には女の人だって来る。
だからその人たちに、私は命の味を思い出させる」
それが何を意味するか、俺は聞かなかった。明らかに、自分の婚約者(だと思っている男)に話すべき内容ではない。しかしその時のフレイの眼は、真剣に仕事をしている眼だった。仕事をさせられているのではない、自ら進んで行なっている。実際フレイに「命の味」とやらを味わわせてもらった人間もいるのだろう、俺は確信した。
願わくば俺も、その一人になりたかった。
ガタガタ揺れる電車で身体を圧迫されながら、俺は窓の外を眺めた。青空の下に文具団の街が見えてくる。
鉄橋の向こう、灼熱の空の下に広がるは林に囲まれ乱立する工場。まだ新しく、ほとんどの建物は壁がまっさらだ。ただ、大気はそうでもないようで、空は幾分か汚れている。工場周りの林は環境保護の為なのだろうが、役に立っているとは思えない。蛾やその他の虫を増やす役には立っているだろうが……川や海の汚濁も想像以上だろう。
ゴムと鉄の焼ける臭いが鼻をつく。満員電車の中でこれは、地獄だ。
その時俺は、工場街の所々にある不自然な更地に気がついた。残骸にビニールシートがかけられ放り出されたままになっているその場所は──
「この前のテロのやつ」フレイはそっけない。「最近になってもちっとも減らないの。連合やザフトの脱走兵とか、モビルスーツ盗んで暴れるだけの民間人とかいるけど大体は、文具団への反抗よ。おかげで道路も壊されちゃったから、電車の混雑がますます」
「軍は何してるんだよ」
「社長は自衛軍持ってる、傭兵部隊だけどね。国軍なんかあてになるもんですか、連合があれだけ被害こうむったのに」
駅に近づくにつれて工場は増え、きっちり稼動している様子も見えてきた。オフィス街のようなものも出来ている。と、電車が急停止した。俺のすぐ前にあった手すりが胃を圧迫し、その上背中から数十人分の重量がかかる。本気で吐きかける俺を尻目に、フレイは笑顔だ。「満員電車のストレスってね、モビルスーツパイロットのそれを上回るんですって」「だとしたら君は最高のパイロットになれる」
その時フレイが見せた、わずかに不敵さの入り混じった表情。口元に浮かんだ微笑の意味を、俺はその時全く気づかなかった。

 

「サイー! こっちでおいしいパフェ食べられるの、一度行ってみたかったんだ!」フレイが数メートル先で朗らかに手を振る。
「勘弁しろよさっきクレープ食べたばっかだろ」「バカね、女には甘いもの用の胃袋があるのよ!」「誰が払うんだよ」「大丈夫、サイに決まってるじゃない!」「大丈夫の意味が分からん」
電車をやっと脱出できたと思ったらこれだ。駅前にある相当な規模のオフィス街、俺たちはもう2時間ばかりそこを散策している。夜になったらここは、川の向こうとは比べ物にならない繁華街になるのだろう。会社の事務所らしきビルが立ち並びレストランや飲み屋が乱立、百貨店まである。その中には本屋も洋服屋も、映画館まであった。
何だろう、川の向こうとこちらの違いは。
ここは、ナチュラルとコーディネイターが共存している場所だ。コーディネイターの能力に優秀なナチュラルが追いつけ追い越せとお互いに切磋琢磨しあい、技術を磨いている。活気に溢れている。治安も、向こう側に比べれば悪くないだろう。
そりゃ、向こう側から流れてきた物乞いやストリートチルドレンは少なからずいるし、当然暑さも湿気も飛び交う虫の量も同じだ。しかし、人々の目の輝きが違う。
前に進むという意志が、歩く人たちの目から放射されている。向こう側の人々の目にも輝きはあったが、それは別物だった。こんな世界で生きたくはないが今心臓が動いているから生きるしかない、というギリギリの輝き。明日のない人間の目だ。ここの人間は、明日があるから前に進もうとしている。
フレイはいつの間にか、ショーウインドウの前に立って中のフレアースカートを夢見る目つきで眺めている。「ねぇサイ、このスカート可愛いと思わない? あのカーディガンと合わせてもいいよね!」「駄目だよ、高すぎる」
さらに、フレイの視線はその下のパンプスに止まる。「ねぇねぇサイってば!」以下ほぼ同文。
それを3回ほど繰り返すと、フレイが切れた。「あーもう、一体何だったらいいのよ、サイは! 全く、性格も財布の紐も固すぎ、少しは女の子へのサービスってものを」
「俺は無限稼動可能な財布じゃないんだよ。それにフレイ、服の趣味が若干俺と違うし。君にはもっと可愛いのが似合うと思うんだ、俺」
フレイは怒りの表情をちょっとだけ崩し、興味深げに俺を見つめる。「どういうことよ?」
「例えば、あーいうの」俺は、隣のジーンズショップのショーウインドウを指差した。途端にフレイの顔が真っ赤になる。
「嫌よ嫌嫌イヤ、絶対にイ・ヤ!! あんなド派手な膝上30センチなミニなんか履けるわけないでしょ、しかもピンクと金色のストライプって……一体全体どういう趣味してるのよあんたは!!」
「変かな?」似たようなものをアークエンジェルで……ってのは言わない約束だ。
「変よ変、ぜーったいに変!! 貴方がそんな変態だったなんて私、ちっとも気づかなかったわ!!」
「別に変じゃないさ、これって結構当然の男の願望であって」
「あーやめてやめて、聞きたくないっ! 乙女の夢を壊さないでよ、私たちこれでも戦火を乗り越えて奇跡の再会を果たした恋人同士でしょ! それが何なのよ、もう……サイだけは他の男とは違うって信じてたのに」額に手を当てて眩暈のフリをしている。楽しそうだ。
「分かったわサイの友達が悪いのよ、カズイの影響でしょ! いつもサイの後ろにいた子!」フレイは思いっきり俺を指差してバッグと花束を振り回す。「カズイは関係ないだろうが」「いーや、あの子そういうムッツリスケベな処ありそうだったじゃないの」「自分の思い込みだけで主張するなよ!」
俺たちは大声で喚きながら、きれいに舗装された並木道を行く。周囲でも似たようなカップルや親子連れが結構いて、俺たちを楽しげに眺めていた。「もういいっ、黙んなさいこのコオヤジがぁ!!」「何だよそのコオヤジってのは」「大人の段階すっとばして親父になりかけの子供のことよ。ちょうど今のサイみたいな!」「ほめられてんだかけなされてんだか分からないな、それ」
フレイはその時、急激に落ち着きを取り戻した。ふっと微笑んで俺を振り返る。「……決まってるじゃない。ほめてるのよ」
時間よ、止まれ。俺は思わず祈った。神という、既にこの時代では消失した概念に祈った。

 

昼は勿論俺のおごりで、場所は街でもかなり有名なホテルのレストランだった。とはいっても俺たちが食べたのは、魚介類を詰め込むだけ詰め込んだチャーハンの大盛り、という大雑把な食事だ。この国では名物料理らしい。
そこで、思わぬ話題が飛び出した。チュウザン南方地域──つまり、旧台湾に当たる地域──に進出してきた、文具団ともチュウザン政府とも一線を画す勢力、「ヤミー・オーガ」党。
現在チュウザンで頻発しているテロはこの南方勢力によるものだという。ナチュラルとコーディネイターが共存しているという点ではこの北方地域と変わりはないが、党首に「タロミ・チャチャ」を頂いて結成されたこの勢力には、ある際立った特徴があった。
「神?」フレイからその言葉を聞かされた時、俺は大急ぎでオーブの国立図書館で読んだ古い歴史教科書を頭の中で開いていた。
「つまり、ナチュラルでもコーディネイターでもない、新たなる信仰対象を抱くということよ。というよりも、元々の信仰対象を復活させるという方が正しいかしら。人類の希望として祭り上げられるべき「神」を創造する、それが目的」
「パレスティナ会議で、宗教の権威は失墜したんじゃなかったか」
「私もそこはよく分からないな。この国多神教らしいから、今でも信仰心の強い人がいるんじゃない?」
神の話より、フレイは目の前のチャーハンに夢中だ。
「随分、過激な勢力って聞いたけど」「政府が一時的に南への渡航を制限してるの、分かるでしょ。特に文具団との対立はすごくて」フレイはチャーハンの上の巨大イカリングを丁寧にナイフで切っていた。かなりの食べっぷりだ。「あの社長も社長だけどね。やり方かなり強引だし、後ろに手が回りかねないことやってるって噂でもちきり。そうでもしないと生きられない業界ってのは分かるけど」
フレイはふと顔を上げて俺を見る。「ちょっとぉサイ、人の食べてるとこジロジロ見るのやめなさいよ、恥ずかしい」
「いや……平気なのかなと思ってさ。コーディネイターが作った料理だろ? これ」
フレイは宇宙人と出くわしたかのように眼を丸くした。「サイってそんな偏見あるんだ、ひどい!!」
ぐさりと心に来る台詞を言うのも昔と同じだ。「違う、偏見に固まっていたのは昔の君だ。だから一体どういう風の吹き回しかと思って」
「料理に罪はないでしょうに! 確かに私は今もちょっと偏ってるかも知れないけど、おいしいものはおいしいからそれでいいじゃない」
俺は、素直に喋るフレイを目の前に、これほどの幸せはないと感じた。しかも彼女は、あれほど自分自身を縛っていた偏見から解き放たれている。「おいしいものはおいしいし、可愛いものは可愛いよな。やっぱりフレイは可愛い、それでいい」
「ちょ、何言ってるのよサイ大丈夫? お酒飲んだんじゃないでしょうね!?」
照れまくって俺の頬を軽く叩くフレイに、俺は言った。「覚えてないかも知れないけど、こういうデートって、あまりしたことなかったろ」
「そうだったっけ?」
「俺も君もお坊ちゃんお嬢ちゃん同士だったから、最初に手つなぐだけでも大変だったよ。メールだと気持ちが伝わらないと思って、手紙書いたりもした。お互い結構不器用だったな。付き合ってた期間自体、それほど長くもなかった。だけど俺は」
フレイは笑うのをやめ、茶化すこともせず黙ってじっとこちらを注視していた。探るような眼光が少し強すぎる気がする。
俺はその続きを、ついに言うことが出来なかった。
その代わりに俺がしたのは、ナプキンを彼女に差し出すことだけだった。「……あご。ソースついてる」

 

俺たちは夕方まで、オフィス街近くの丘の上の公園にいた。ジェットコースターの類はほとんどないに等しいが、ちょっとした遊園地のような場所だ。そこでまたフレイは巨大チーズタルトをたいらげ、さらに数時間俺を連れまわし遊びまわった。
彼女が30分に1回の割合で化粧直しに行くのは気になったが……女ってのはそんなもんか。
「見て見てサイ、ここ海が見えるのよ!」フレイの声につられ、俺は丘の頂上へ登る。そこは低木の林に囲まれた、海からの風の通る比較的過ごしやすい場所だった。人の姿もそれほど見えず、ベンチが数個と、アナログ時計がついた黒い鉄柱が一本。見ようによってはかなり寂しい場所だが、ベンチからの眺めは絶景だった。
よほど長時間遊びまわっていたのか、既に夕闇が迫っている。思ったより高い丘らしく、眼下には北チュウザンの工場街、そして向こうの川を隔てたところに、昨日のスラム街が見える。湿気を含んで濁る大気、そろそろ夕方ラッシュにさしかかる電車が鉄橋を通過する。
熱気を閉じ込めたような空には鳥と蛾が飛び回っていたが、街を越えたところにある港のさらに向こう、汚れた空気をも越えた場所に、夕陽と共に紅く燃える海があった。航空機の轟音が耳をつんざく。
最初空港から見た時は、工場からの排水で汚染された海にしか見えなかったが──こうして見ると、母なる海という言葉は真実味を持って迫ってくる。そう感じるのは、俺がコロニーで過ごした期間が比較的長かったせいかも知れないが。
やや霞がかる空に、星がわずかな煌きを見せる。空気のせいか輝きは鈍いが、それでも十分だった。最後の時間を過ごすには。
フレイを振り返ると、おそらくカップル用であろうベンチには座らず、丘とその下の傾斜面とを隔てる柵から身を乗り出し、街を見ていた。
それは街の景色がきれいだから見ているというのではなく、むしろ何かを探るような横顔だった。
俺はふと気づいた。再会してからのフレイは、何かを探るような眼をすることが多い……
そう、探すべきなんだ。俺のところに君は留まっていてはいけない。
公園に備えつけられた時計を眺める。午後6時──俺自身が決めた、タイムアップ。
二人の時間は、これで終わりだ。
「どうしたのサイ? 怖い顔なしよ」フレイが俺の腕を取り、ぎゅっと自分の胸に押しつける。この感触も、あと少しだけだ。
何という柔らかさ、そして温かさだろう。どうして大切な時間は、こうも早く過ぎ去っていく?
「夜はこれからなんだから。私、せっかく休みとったのよ、ね……お願い、サイ」
この感触を味わうことの許される男は、俺じゃない。
フレイ。そのまなざしを向けるべき相手は、俺じゃないんだ。
強引に俺の腕を引っ張り、フレイは俺と一緒にベンチに座った。しかし俺は彼女の腕から一旦身を離す。そしてもう一度、その手をしっかり握った。きちんと真珠色に塗られたフレイの爪が、紅い夕陽の中で薄く光る。
「俺は──君に言わなくちゃならない」
フレイの笑顔を、それ以上見ることが出来なかった。眼を見れば決心は確実に崩れる、そんな気がした。夕陽に紅く染まる彼女の笑顔。二度と見ることは出来まいと思っていた、でももう一度手に入れた笑顔。心臓が砕けるほど強く抱きしめたかった少女の笑顔。
これを俺は、永久に手離す。
フレイ。もう、俺を見るな。
「君は、キラが好きだった」

 

俺は自分でも驚くほど冷静に、全てを語った。出来る限り詳細に至るまで、彼女に全てを伝えようと努めた。
フレイがキラの手でアークエンジェルに拾われた後、父親を目の前で失ったこと。それを境に、彼女が大きく変わってしまったこと。
父親の死をきっかけに彼女は軍に志願し、それに便乗するような形で、情けなくも俺たちまで軍に志願してしまったこと。
そして父親の仇のコーディネイターを憎むあまりに、近くにいたコーディネイター=キラ・ヤマトに一方的にその憎しみを叩きつけたこと。そしておそらく、自らの身をキラに差し出すことによって、彼の戦闘の意志を高めてさらなる戦場へと彼を追い立てたこと。
じっと聞いているフレイの表情が痛々しいほどの変化を見せ、笑顔が壊れていく。それでも俺は話し続けた。彼女の手はいつしか、俺の左腕を血が出るほどに強く握り締めていた。
「じゃあ、私はサイと……」「当然の結果だよ。切り出したのは君だった。俺は君が何を考えているかなんてちっとも分からなかった……今も正確な処は分からない。父親を失って思いつめたあまりの行動だろう、と推測したのはミリィだからね」
そして俺はなおも話した。フレイがキラと共に夜を過ごした、その事実を知らされた時のことを。
あの砂漠の夜、俺はフレイ自身の口から現実を告げられ、逆上した俺はキラに殴りかかった。しかし俺はキラにあっけなく反撃を封じられ、自分とキラとの差──ナチュラルとコーディネイターの圧倒的な差を、まざまざと思い知らされることになった。
──僕が本気を出したら、サイが僕にかなうわけがないだろ!
そこまで話した瞬間、フレイの顔が豹変した。
不意に立ち上がり、俺の肩を右手でむずと掴み、もう一方の手で自分の白いむき出しの右腕を掴んだ。歯ぎしりをしているのがはっきり分かった。眼が激しくつりあがり、その眼光は俺を射抜く。苦しげに、しかし激しい怒りで歪んでいくフレイの表情。最後の夕陽のかけらがその頬を照らす。俺を掴んだフレイの指が、肩に食い込んていく。信じられないほどの強烈な力で、俺の骨が歪むかと思った。
「何という……」歯の間からやっと漏れた言葉は、明らかにそれまでのフレイの口調と違っていた。
フレイが自分で掴んでいた彼女自身の腕からは、爪が食い込んで血が流れ出している。
一瞬、殺されるとすら感じたフレイの表情。しかしそれは本当に一瞬だけのことだった。
ふうっと息をつくと、彼女は諦めたように腰を落とし、がくりと頭を垂れた。紅い髪が風になびく。
「それから、どうしたの。つらいと思うけど、聞かせて」
俺は話し続けた。
自暴自棄になってストライクを動かそうとして失敗したことまで、いつのまにか俺は自虐的な表現混じりで話していた。フレイの顔つきがみるみる青ざめ、ついにはその眼から涙が溢れだす。
「どうして? 私どうして、そんなひどいことを貴方に……キラにも、みんなにも? 異常よ、私は何を考えていたの?」「異常だったんだよ。俺も君も、全員の状況が」トールとキラが行方不明になった件、その後のミリィの慟哭、フレイの狂乱。
フレイがもう一度俺に寄り添おうとした時のことも、俺は包み隠さず話し続けた。
──君は、キラが好きだったじゃないか!
「俺は間違ったことを言ったとは思っていない。最初は憎しみだけだったかも知れないけど、君は確実にキラに惹かれていった。一緒にいた時間がそうさせたか、君自身の演技が君を本気にさせたか。一番大きかったのは、キラが君のために必死で、命をかけて戦っていたことだと思う」
「貴方だってそうでしょ、ブリッジにいて、何度も危ない目に」「そのたびにキラに助けられたよ。キラがいなければ俺たちは今頃、ここにいない。キラは昔の親友とも撃ち合った…たくさん殺して、そのたびに泣いていた。優しい奴だから」
「友だち思いなのね、サイは」フレイは立ち上がり、皮肉をたっぷりとこめて俺を見下げる。「私がサイならキラも私も殺してるわ」「殺したかった。そんな自分がイヤだったよ、自分は人間じゃないと思った」俺も立ち上がり、フレイの腕を押さえようとして、振り払われた。背を向けようとするフレイの前方に俺は懸命に回りこむ。
「イヤがることなんかない。当然の感情よ、そこで殺意を覚えなければそれこそ人間じゃないわ」フレイは俺の眼を見ようとせず、必死で俺を避ける。俺はその腕を掴む。傍目にはつかみ合いの喧嘩に見えるだろうが、俺は構わなかった。「久しぶりだよ、気持ちいいな。フレイの口から啖呵を聞くのは」
彼女は俺から視線を逸らしたまま、唇を噛みしめた。頬から顎にかけてのラインが氷のように固まっている。俺はその横顔に向けてなおも喋った。
「キラもトールも帰らないまま、君はアークエンジェルから降りた。その後のことは俺にもさっぱりわからない。2ヶ月ぐらい後になって、メンデルにいたあたりで君の声を聞いた時は仰天したよ。どうしてザフトの捕虜になっていたのか、君がそこで何を見たのか……それだけは今も分からない」
「つまり私はキラと同じ状況に置かれたわけね」「ナチュラルの中のコーディネイターよりもっとつらいと思う。何をしていたかなんて正直、俺は考えたくない」
「私も」フレイはぱっと俺に背を向け、腕時計を確認した。陽は既に完全に暮れている。公園の白色灯には、大量の黒い蛾が乱舞して地面に揺らめく影を作っていた。やがて背を向けたまま、彼女はハイビスカスの花束を抱きながら呟いた。
「お願い。オーブに戻っても、キラに私のことは伝えないで。絶対に」
「どうして?」
「当然でしょ。心の準備ができない。貴方は自分ではいいことしたつもりでしょうけど、言われたこっちの身になってみなさいよ」
俺の方向からでは彼女の表情は見えないが、台詞の内容に反して口調は穏やかだった。
「悪かったよ。君が混乱することは予想できた、謝る。でも君は積極的に聞きたがってたけどな。
会いたくないのか? キラに」
「会いたいわよ。会って首を絞めてやりたい」
いとも簡単にそんな言葉を口にしたフレイに、俺の頭は思わず熱くなった。人を何だと思っている。「俺はそんなことを君にしてほしくて話したつもりはない!」
すると、フレイはおずおずとこちらを向いた。視線を合わせたくはないようだが、何とか俺と相対しようと頑張っている。
「それは、感謝してる」笑おうとしているが、どうしても口元が引き攣ってしまうようだ。肩が震えている。それは怒りの震えか。「サイにしかできないわよ、こんなこと。貴方みたいなお人よし、見たことも聞いたこともない!」
俺はそっと、彼女の手を取ってメモを手渡した。「通信ルート。あいつ一応要注意人物だからさ、大っぴらに外出るわけにもいかないんだ」
「やめて。あの歌姫様がいるんでしょう? どうやって行けって?」「話し合う必要はある。彼女なら理解してくれるし、キラも彼女も協力は惜しまないはずだ。君に必要なことだと思ったから、俺は話した」
その時、離れかけた俺の手に、フレイの指が絡んだ。暑さにも関わらず、さらっと滑らかな細い指の感触。
思わずはっとして彼女を見つめる。フレイは眼を伏せ、呟いた。
「貴方にこんなすごいことされて、私がもう一度キラを好きになれると思う?」紅い前髪が揺れていた。彼女が何を言っているのか、一瞬では理解不能だった。「フレイ、君は本当に残酷な女だったんだ。
あんなにまで君を想い、君を護ろうとしたキラの目の前で、君は行ってしまった。だからもう一度──」
俺の薬指と小指を掴んだまま、フレイは俺の方へ身を寄せた。険しい表情が消え、俺の目の前に笑顔が広がる。
「ごめんね。話してくれてありがとう」心からの感謝の言葉と、俺には分かった。
「本当にごめんね、サイ──」
その言葉で、俺の心の何かがすっと溶けていく感覚がした。俺はずっと、フレイのこの言葉を聞きたかったんじゃないか。
「礼を言うのは俺だよ、俺のわがままに付き合ってくれて。最後のデートなんて、安い感傷だよな」
フレイの睫毛がかすかに震える。「安くて薄い、確かにね。でも私は嬉しかった」
「行けよ、キラの処へ。君が本当に謝るべき相手は、キラなんだ」
フレイはそれに対しては何も言わないまま、俺の耳に唇を近づける。何処かで地鳴りのような音がして大気が緊張したことに、俺は全く気がつかなかった。
次の瞬間、俺の耳元で囁かれた言葉は。
「逃げろ。
来た道を走って戻れ、3番目のゴミ箱を右に曲がれ、林の中に小道があるから突き抜けろ、23番地のクレープ屋裏に出る。その10メートル東が地下シェルターだ」
さっきの言葉より数段理解不能な言語だった。しかも今までの彼女とは、口調も声色も全く違う。
思わずフレイを見ようとしたが、その時にはもう彼女は俺を振り払い、丘の上の柵に脚をかけて飛び越えていた。水色のスカートが大きく翻り、太ももが見えた。……見とれているどころではない。あの太ももに装着されていたものは、拳銃じゃないか?
ちなみに柵の高さは約1.5メートル。それを彼女はいとも簡単に飛び越えたのだ。その下は土がむき出しになった急斜面、というか崖である。
あまりのことに俺が叫びかけた瞬間──
公園中が、衝撃で吹っ飛んだ。


爆破テロだ。全くの勘だが、俺には分かった。爆発と同時に俺は反射的に身を伏せる。が、フレイは花束を持ったまま、衝撃の起きた方向へ走っていく。
俺から見て右方向、丘の斜面より少し下ったあたりの街並みから、既に何本も火柱が上がっていた。郵便局とケーブルテレビ局、そして百貨店駐車場。明らかに街の要所を狙っている。火柱の中に、吹き飛ばされた建造物の骨組みが見える。
俺もフレイの後について柵を(フレイの数倍の時間をかけて)越え、彼女を追う。崖を滑り降りようとして腰をうつ。どうして彼女はあれだけ軽く滑り降りられた?
続けざまに爆発。さっきまで遊び回っていたオフィス街が焼けていく。夜の湿気をものともせず黒煙がたちのぼり、空が炎に照らされる。フレイの告げた道を行かず、俺はあえて逆方向に走り、彼女を追った。既に彼女の姿は斜面の向こうの林の中へと消えている。
一体、彼女に何が起きた? 行動力、毅然とした横顔、あの口調。やや高めの声質に変化はなかったものの、言葉と雰囲気がまるで違う。もともとフレイはお嬢さん育ちだが、あれはお嬢さんという程度で済まされる者の使う口調ではない。
俺は手近に、乗り捨てられたボロ自転車を見つけた。飛び乗り、そのまま斜面を駆け抜ける。目まぐるしく流れていく視界の右方、炎が光の粉を噴き上げて輝く。フレイが指し示した避難ルートはおそらく正しいのだろう、しかしその道を行くつもりは毛頭なかった。理由は簡単。フレイが、炎に向かって走っていったんだ!
土のむき出しになった小道を、自転車で飛ばす。顔にあたる熱気の中に、鉄の焼ける臭いが混じった。家や建物からは人が飛び出し、一斉に避難所へと向かっている。 炎はほんの目と鼻の先にあった。俺とは逆方向に逃げ惑う人々、飛んでくるガラスの破片、悲鳴、サイレン。華やかな夜は一気に紅蓮の地獄となる。坂を一息に滑り降りていく最中、俺は炎の中に確かに4体の巨柱が蠢く光景を見た。
その柱がモビルスーツだと脳が認識するまで、1秒程度かかった。
距離にしてほんの50m足らず。そのうち1機は型式番号GAT-02L2、ダガーL。地球連合の主力量産型モビルスーツだ。ストライクダガーや105ダガーの後継機。青と白を基調にカラーリングされているはずだが、今はどの機体も炎に照らされ、しかも整備が行き届いていないのか表面が変色して、さらに、下手に人間の顔のような頭部を持っているので黒い鬼のように見える。
鬼。これもオーブの図書館で見つけ出した言葉だ。人には理解できず、恐怖を撒き散らし暴れるモノ。しかしその容姿は人に酷似しており、輝く目玉と角を持つ。まさに今俺が目にしているモノがそれだ。
他に俺の確認した限りでは、ストライクダガーが3機。それが街を焼いていた。チュウザンで最も活気があるであろうこの街を。
ダガーLが、駅の方へと向かう。今はちょうどラッシュ時間帯だ、そこをやられたら…満員電車をビームカービンで狙撃するダガーLを想像して、俺の背すじが凍った。
しかし俺は、電車より先に自分の心配をする必要に迫られていた。舗装された道路に出た途端、ダガーLのビームカービンの砲口が目の前で火を噴き、逃げる人々の上に降りそそぐ。
数メートル先にいた人々の身体が吹っ飛ばされていく光景を目撃しながら、俺も自転車こと宙に飛ばされていた。衝撃とともに俺は瓦礫だらけの道路に叩きつけられる。爆風が頭上を通り過ぎ、炎の粉がまともに体中に吹きつけた。
頭を上げないようにして様子をうかがう。ビームカービンの銃口がまっすぐ道路へ、今しがた人だかりがしていた場所へ向けられていた。その下には、既に原形を留めていない肉片と瓦礫が積みあがっていた。
どこのドアホな脱走兵だか知らないが、モビルスーツが、直接、生身の人間を撃った。
主義も戦術もない、虐殺行為だ!
その事実を認める前に、ダガーLは動いていた。腰部のMk315スティレット投擲噴進対装甲貫入弾を取り出す。
馬鹿な──こんな、幅10メートルもない市街地の道路のド真ん中で、あの通称手裏剣爆弾を!?
俺のいた地面が噴きあがる。爆風が全てを覆う。耳が遠くなる。視界が半回転する──と思った瞬間、身体が何かに抱きとめられた。というより、腹に何かが喰いこんで無理矢理ひっぱりあげられた。
それは腕だった。真珠に塗られた爪をした白い手だった。俺は事態をよく掴めぬまま、頭を動かして持ち主を──つまり、俺を掴んでいる人間を見上げた。
紅い髪。群青の眼。ほんのりと薄紅の唇から飛び出した言葉は。
「愚か者が! 言ったはずだ、逃げろと!」
間違いなく、フレイの声だった。しかしその行動・言動、──到底、彼女とは思えなかった。
信じられるわけがない。フレイが、俺を片腕で掴み、もう片方の手には花束を持ったまま、爆炎をかわしてスカートを翻し、宙を舞っているんだ。
フレイは着地し、さらに次の瞬間には瓦礫を飛び越えた。その瓦礫は、さっきまでビルの看板だったはずのもので2メートルはあった。炎の壁の向こうからさらにビームの閃光が走ってくる。崩れかかりやや傾斜している4階建てのビルを前方に発見したフレイは、俺を抱えたままそちらに向かって走る。しかも、次から次へと降りそそぐ火線を、右へ左へギリギリのところで避けながらだ。炎が走り、死体が積み重なり、ガラスや鉄筋が落下してくる中を、彼女は躊躇することなく駆けていく。
「フレ…」「喋るな。舌を噛むぞ」
ダガーLの視界から抜け、ビルの裏手に回りようやく、フレイは俺を降ろした。あまりの事態に腰が抜けてしまい、俺はその場に座り込む。が、フレイは俺には目もくれず、花束の中に手を突っ込み鎌にも似た物体を引っ張りだす。それは登山用に使われるピッケルだった。「遊んでいるのだ。火器装備が少ないことを逆利用して、より人々に恐怖を与える手段を選ぶ……ユニウス条約によって火器は著しく制限された、だがおかげで戦いの残虐度は一時代昔に逆戻りだ。これは兵士の鬱憤を晴らす為の、ハンティングでもある」
「バカな! 人を撃ってストレス解消になるとでも言うのか?」
「人間には戦闘が必要だとする主張を、貴様も聞いたことがあるだろう。だが、あまりにも戦い方が阿呆すぎる」
「ブルーコスモスなのか、あれは」「パイロットの力量からして、末端の末端だな。しかしダガーLは十二分に改造の余地ありだ、量産機とはいえストライカーパックが使えるのは強い」冷厳、不敵、大胆。それでいてどこかに優美さすら感じさせる、フレイの横顔だった。舌が唇を舐める。この状況下で、何と彼女は笑った。口の端からニヤリと音がしたような笑みだ。
「君は知っていたな、この爆撃をっ」
ビルは大きく軋み始めていた。その向こうでダガーLが蠢く、それにストライクダガー1機が続く。鋼鉄の巨体が地面を打ち鳴らす轟音が、俺を揺さぶった。炎の照り返す中、フレイは俺を振り返る。さっきの優しい表情は欠片も見えなかった。ただ、炎まで凍らせるような冷たい瞳があるだけだ。スカートを何処かで引っ掛けたのか腰のあたりまで裂け、太ももに装着された黒い拳銃が見えた。
「貴様は真実を語った。だから私も、真実を見せる」
フレイが俺に何かを手渡した。それは俺の眼鏡だった。逃げる途中何処かで落としていたが、今の今まで気がつかなかったのだ。
ダガーLの動きを注視しながら、彼女は無愛想に言い放った。「逃げろ、ここは私が守る」
「どうやって。そして君は誰だ」
「私はフレイ・アルスターだ」「記憶喪失の上に二重人格ってわけか?」
「そう思いたければ思っていれば良い」「君は明らかにフレイじゃないっ」
その俺の口調が癇に触ったのか、フレイは俺の頭上にミサイルより強烈な怒鳴り声を炸裂させた。
「たわけ! その眼鏡はダテかっ、これが現在のフレイ・アルスターの真実だ!」
大いに反論したかったが、彼女の声には人の全ての思考と行動を一瞬停止させてしまうほどの重い響きがあった。声の高さはさっきまでとそう変わらないはずなのに。白い肌に、ほんのりと光る汗が見えた。空気は極限まで熱せられていたが、フレイの身体から放散される熱気はそれを上回っている。
「ろくな力もない分際で無責任な行動をとるな! 貴様のような阿呆は、人の話を黙って聞いていればよい」
ピッケルを真正面に構え、フレイはダガーLとの位置を測る。身体の中に宿る魂から放たれる闘志。「貴様は私が守る。だから私に従え!!」
──俺の中の錆びついていたネジが、強引に回されたような気がした。
同時に、フレイは崩壊寸前のビルへ走る。花束を腰にくくりつけピッケルをビルの壁の境目に突き刺し、傾斜を利用して軽々と壁を登る。傾いているとはいえほぼ垂直に近い壁を、だ。足を巧みに動かして窓枠や庇を足場にして、スカートの裾をものともせず、フレイは俺の目の前でピッケル一本でビルを登りきった。
炎の柱が夜空を舐める。惨劇の舞台を、フレイはビルの屋上から眺める形になった。
素人でも分かる。あんなところは危険だ。が、俺はその光景を凝視するしかなかった。
「ダガー! 来いっ」屋上の柵から身を乗り出し、炎の華が舞い散る中でフレイは腕を伸ばし、花束をダガーLに向ける。
その時フレイは、もう一度遙か眼下の俺を見下ろした。その顔が、ほんの少しだけ微笑んだように見えたのは、俺の錯覚ではなかったと信じたい。
──この国へ来い。
彼女の唇が、そう動いた気がした。
次の瞬間、ダガーLの頭部がぐるりとフレイを見る。頭部のトーデスシュレッケン12.5mm自動近接防御火器が火を噴くより先に、フレイの持った花束が弾け、中に仕込まれていた銃からワイヤーが発射された。ハイビスカスの真っ赤な花びらが炎の中へ飛び散っていく。ワイヤーの先端はダガーLの腰部のMk315スティレット収納部分、つまり先ほど炸裂させた手裏剣爆弾のあった場所めがけて飛んでいく。
まさか、生身で全高18.40m重量55.05トンのダガーLとやりあうってのか。モビルスーツの巨大さに比して人体はあまりにも小さく、照準が合わせづらいのは納得がいく。接近されて死角に潜り込まれ爆弾でもくくりつけられたら、フェイズシフトを展開していない限りいかに強固な鋼鉄の機体とはいえ無事ではすまないことぐらいは分かる。スティレット収納部は開いたままになっており、絶好の足場にもなるだろう。だからといって……
考えている間に、彼女は既に屋上の柵を蹴って宙に飛び出していた。ワイヤーの端はマグネットが仕込まれているのかしっかりダガーLに喰いつき、フレイはそのもう一方の端、花束の柄にあたる部分を持ってダガーLに向かって飛んだ。
ダガーLは当然気づき、彼女を振り落とそうとして暴れる。トーデスシュレッケンの砲火で、1秒前までフレイのいたビルが完全に崩壊した。ダガーLの腕が引っ掛かれば一発でフレイは吹っ飛ぶと思われたが、彼女は巧みに空に飛んだ自らの身体をコントロールし、ダガーLの腕の動きを読み、さらに後方から来たストライクダガーの腕を空中でかわす。ダガーLが回るたびに彼女の身体はそれ以上に振り回されていたが、フレイはむしろそれを楽しんでいるようにすら見える。多少熟練したパイロットならばこんな女は一撃のもとに引きちぎってしまうだろうが、フレイは明らかにダガーL、そしてストライクダガーのパイロットの未熟さまで読んでいた。
飛び散る汗が彼女の体内の気と共に放出され、スカートが翻る。白い脚が空に踊る。
鬼の眼前で紅い髪を靡かせ、細い身体を晒す少女。
一見か弱く見える彼女の身体は、鍛えられた筋に支えられ、パイロットをからかうように装甲を蹴りながらサーカスのように敏捷に飛び跳ねる。後方のストライクダガーが必死でダガーLの胸部あたりに踊るフレイを追って腕を動かすものの、なかなか捕まらない。
業を煮やしたか、ストライクダガーはついに頭部75mm対空自動バルカン砲塔システムイーゲルシュテルンをフレイに放つ。味方に、しかも胸部を狙って放たれるバルカン。幾重もの衝撃吸収システムに守られているはずのコックピットだが、この至近距離でバルカンを浴びてはさすがにダメージは大きい。
まさにそれこそがフレイの狙いだった。彼女は正確にダガーLの腰、スティレット収納部分に、つまり死角に着地した。と同時に厚底ブーツをいじる。マグネットか何かを作動させたのか、フレイの身体はダガーLの腰から垂直に生えたようになる。そのままワイヤーを手繰り寄せ、フレイは一息に腰からコックピット部分へと駆ける。靴の踵が装甲の表面を打つ音が響いた。
コックピット付近にたどりつくと、すばやく太ももを上げて中から拳銃を取り出し、既に何箇所か大きな傷のあるハッチの、最も装甲の弱いと思われる境目に差し込んだ。素早く靴のマグネットを解除し再びワイヤーを伸ばしてフレイがダガーLの背から跳躍すると、次の瞬間コックピット部分で大爆発が起きた。一瞬、空全体に閃光が散った。光の中、伸びきったワイヤーの先に、フレイの身体が舞う。
おそらくあれは拳銃に見せかけた強力爆弾だったのだろうが……それにしても何という装甲の弱さだ。
通常、コックピット部分は最も装甲を強化すべき部分だが、いくら量産機といえどそれが小型爆弾一つで吹っ飛ばされるなど、信じられない。
脱走兵ゆえ、傷ついた機体の整備もろくに出来なかったのだろうか。
もしくは、ろくでもないジャンク屋に足もとを見られ不良品を売りつけられたか。
いずれにせよ──未熟な兵士だ。フレイはしっかり見抜いていたのだ。
とどめが先ほどの、ストライクダガーの誤射だ。
後方のストライクダガーが、ダガーLに取り付くフレイに襲いかかる。しかしその時にはもうフレイはストライクダガーの攻撃をよけて前方に回っていた。爆破され大穴の空いたコックピットから、パイロットが血を流しぐったりしている光景が俺の目にも見える。フレイは素早く腰に挿していたピッケルで灼熱のハッチをこじ開け、中へ上半身を差し込んだ。
何が起こっているのか俺の目からではわからなかったが、棒立ちになったダガーLからやがて、連合のパイロットスーツを着た人間が落ちていくのが見えた。

 

そこから先は早かった。
フレイが奪ったダガーLの動きは、俺の目から見てもはっきりと違っていた。まるで、ナチュラル用のOSをコーディネイター用に書き換えたのかと思うほどに。
キラがストライクでやったのと同じことを、フレイはやったのではないか? いや、実際やったのだろう。俺は確信した。
フレイがダガーLに乗り込んだ直後、ダガーLの頭部は180度回転し、後方に来ていたストライクダガーに向かってトーデスシュレッケンが火を噴いた。ストライクダガーがその攻撃を避けた隙に、ダガーLは腰部から右手でビームサーベルを抜き放ち、そのままの姿勢でコックピットのある胸部に、出力を最小限に落としたビームサーベルを叩き込む。光の粒子で形成された刃が、一瞬でコックピットと中の人間を焼いた。
あまりにも素早い反応で、機体の方が追いつかない印象すら受けた。
機体への被害は最小限に、中の人間だけを殺す、もしくは操作系を不能にする──フレイがとった戦い方は、キラとは真逆のものだった。
ダガーLは駅へと向かったストライクダガー2機を追った。だが、駅付近には既にゲリラを待ち伏せしていたモビルスーツがいた。
ソードカラミティ──型式番号GAT-X133。GAT-X131カラミティの派生機。カラミティは俺がアークエンジェルにいた時に戦ったことがある。あれは砲撃戦用に特化された連合のモビルスーツだが、ソードカラミティはこれをベースにして近接格闘戦を目的に製造されたものだ。確かロールアウトしたのはたったの3機と聞いたが、それがここにあるのは不思議だった。もしくは、連合のデータをコピーして新たに製造されたものか──カラミティと同じエメラルド色にカラーリングされ、対艦刀シュベルトゲベールに、ビームブーメランとロケットアンカーを装備したモビルスーツ。その機体に、整備すらなっておらずパイロットも未熟なストライクダガーが勝利できるはずもなかった。
明らかにソードカラミティの存在に気圧され、残りのストライクダガー2機は2機とも我を失い、後方から迫ったフレイのダガーLに撃破された。やはり出力最小限のビームサーベルでコックピットを正確に貫かれ(しかも動力部には触れずに)、中の人間だけが焼き殺されて。

 

フレイ・アルスターはそのまま、ダガーLやソードカラミティと共に俺の前から姿を消した。
俺が遭遇したあのテロは、その後の調べによるとやはりブルーコスモスの末端による文具団、そしてコーディネイターへの抵抗活動だったらしい。日常茶飯事だそうだ。フレイの言った通りだ。
雨の中に現れた、いなくなったはずのフレイ。彼女と触れ合い、真実を話すことで俺は自分の中で決着をつけた、つもりでいた。
しかしその直後に炎の中に現れた、明らかにフレイではないフレイ。
二人のフレイが、俺を混乱の底に叩き落した。
彼女は俺を助け、モビルスーツをいとも簡単に奪い、あっさりと人を殺し、戦闘に勝利した。
コーディネイターどころではない。彼女と同程度の能力を持つ人間を、俺は他に一人しか知らない。
彼女は、一体何だ。何の為に、俺の前に現れた。
──貴様は私が護る。だから私に従え!!
意味は分からないが、その言葉は確かに俺の全身を貫いた。
ダガーLという鬼を前にして放たれたその言葉は、俺の中の時間を再び動かすきっかけとなったのかも知れない。


考えても分からないことは、一旦考えるのをやめる。代わりに、動く。
それが俺の出した結論であり、俺が緊急救難船・アマミキョへ乗るに至った理由だ。
──フレイ。俺はもう一度、この国に来る。必ず。
この時代に生きていて俺にできることがあるというならば、俺は喜んで何処にでも行こう。何にでもなろう。
その想いがたとえ、俺自身すら自覚していない偽善から来るものだとしても。

 

 

 

つづく
戻る