豪雨の降りしきる夜にも、サイのポイント稼ぎは続いた。
そんなことが早くも日課になった、ある夜。
サイは作業員たちの目から逃れて一人、元々は幼稚園のウサギ小屋だったらしき廃屋に入って腰を下ろしていた。
屋根や扉は爆風か何かで砕けたのか見事に吹っ飛ばされていたものの、休むことの出来ぬほど荒れてはおらず、中の藁や土はまだ残っていた。雨は絶え間なく降りそそいでいたが、それでも傾きかけたトタンの壁が何とかスコールの直撃を防いでくれている。
そこは誰も知らない──というよりも、ひどい臭いで誰も近づかない──サイの場所だった。
サイは柔らかい藁の感触を確かめつつ雨合羽を脱ぎ捨て、与えられたチョコレートを3粒ほど一気に口へ押し込む。
その時、誰もいないはずの外に、人の気配がした。
一歩外に出ると、暖かい雨で煙る視界の先に、紅いブーツの先が見えた。きっちり防水加工のなされた爪先の革。
傘とコートで雨に対して完全武装を施した、紅の髪の少女が立っている──
サイは彼女の存在が一瞬では信じられず、全身が濡れるのも構わず飛び出していた。「フレイ! 何故ここにっ」
とぼけたような彼女の表情に、厳しさは感じられなかった。その代わり、笑顔でもなかったが。サイの姿を見て、フレイはぽつりと言葉を漏らす。「へぇ……制服、脱がないんだぁ」
サイは確信した。間違いない、フレイは元に戻っている。今なら、今の彼女ならば俺は話が出来る!
「俺は今でも、ブリッジを諦めてないからな」
サイは腹の虫を強引に押さえつつ、胸を張る。笑顔まで作ってみせる。だが、フレイの返答は予想外のものだった。
「罪を認めたのに?」唇から漏れる、突き放すような言葉。フードで半分ほど隠れた目には、奇妙なまでに感情がなかった。雨音が強くなる。元のフレイだ、話をしたかったフレイだ、だが──彼女の持つ奇妙な威圧感に、サイは次の言葉を発することが出来ない。
「これ」そんな彼に、フレイは破れた紙切れのようなものをぶっきらぼうに突き出した。「手紙。誰かが破ったみたいだけど」
サイは差し出されるままに、その紙切れを受け取る。強引に開封されしかも破られたようだが、何故かセロテープで丁寧に修復されていた。
「プラント落下前に投函されたみたいね。これでも早く着いた方よ、通常ルートじゃなくてカガリ代表からの個人通信網経由だから。ついでに、これも」
さらに差し出されたものは、サイが今でも大事に持っていた、フレイと自分の写真だった。これも破られているが、やはりテープで直されている。
「や、やめろ! 人のプライベートによくもズカズカとっ」サイは反射的に、フレイの手からその写真を奪い取っていた。顔から火が出るという感覚はこのことか。怒りと羞恥心で、サイの心音はフレイに聞こえかねないほどバクバク響く。
だが彼女は、そんな態度を取られても怒りを示さなかった。その代わりに、彼女が吐いた言葉は。「私にも関係あるでしょ。写真は私だって写ってるし、何よりその手紙、キラのだもん」
キラ、という部分にフレイが妙に愛情をこめていることに、サイはすぐ気がついた。その名前さえとても愛しく、名前を唇に乗せることまでとても嬉しいと言いたげな、フレイの言葉だった。
彼女は何を考えている──フレイと手紙を交互に見ながら、サイは相手の思考を探ってみる。だが、今はまるで読めない。少なくとも、シャワー室で抱きついてきた時のフレイとは、まるで違う。
「サイ。私ね、一つ思い出したことがあるの」
「少しでも、記憶が戻ったのか?」だったら、喜ばしいことだ。少しでも、元のフレイに近づいているというのなら──サイはわずかな期待に、思わずフレイの両肩をつかむ。そんな彼に、フレイは満面の笑みを浮かべ、答えた。
「ええ。完全にじゃないけど、一つだけ確かなことがある。
2年前ドミニオンにいた時──私、貴方のことなんか殆ど思い出さなかった」
あくまで優しげに答えるフレイ。だがその言葉は、それまでフレイから投げつけられたどんな暴言よりも、サイの心臓をえぐった。
サイの手がフレイから離れる。2年前俺を振った瞬間より、数段不可解な女が目の前にいる。
彼女は笑顔のまま、サイに語り続ける。「私があの時想っていたのは、キラのことだけだった」
「やめろ」サイはそんな呟きしか出来ない。フレイの言葉は残忍に続く。「ザフトに捕らえられていた時も、乱暴された時も」
「やめろよ…」サイは無意識に首を振る。だが、フレイの言葉は続く。「ポッドで彷徨った時も、ドミニオンで通信やっていた時も」
「やめるんだ」手紙を握りしめる手が、震え出す。それでも続けられる言葉。「私はね、いつだってキラを──」
「やめてくれ!」「とてもキラに悪いことをした。だけどキラは一生懸命だった、優しかった、その手紙にもある通りにね。だから私もキラが」
「やめろって言ってるのが聞こえないかっ」胃の中のチョコレートを吐き出しそうになりながら、サイは強くなる雨の中で叫んだ。フレイはその叫びに、ようやく言葉を中断する。フレイを殴らずにすんだのは、雨がサイの理性をギリギリの処で冷却していた為だろう。
フレイは──元のフレイだけは、俺を見ていると思っていたのに。
いつかフレイが完全に記憶を取り戻し、自分を過去の呪縛から解放してくれることを、心の何処かで願っていた。心の痛みが癒えないまま自分の道を見失っていた時、この国へ俺を導いたのは、フレイだったのに──
そんなサイの甘さを今、彼女は一撃で叩きのめした。
「もう、オーブに帰ったら?」手紙がちぎれるほど握りしめられた拳に、雫が流れる。ナイフのような言葉が心臓に突き刺さる。首すじから背中へ、雨が流れ込む。「これ以上ここにいても、つらいだけよ。貴方なら、モルゲンレーテに就職口はあるでしょう。今の貴方よりは、カズイの方が船にはよほど役に立つわよ」
足元の水たまりに映る、自分の顔。暇を見ては剃っているつもりだったが、大分無精ひげが伸びている。羽虫がたかっているライトが、頼りなく明滅していた。
さすがだよ、フレイ。それでこそ、キラの愛した女だ。追いつめられた人間に、敗北へと直結する逃げ道を指し示すとは。
サイは知った──怒りと諦念が限度を超えると、笑いとなって顔に現れることを。
「幸せよね、帰る処があるって」
フレイは冷たく言い放つと、くるりと踵を返して足早にサイの前から立ち去っていく。その後姿はあっという間に雨に紛れ、追えなくなった。
相変わらずカタパルトの騒音が反響し続ける暗い倉庫の隅で、サイは手紙を開いた。
テープで修復されていた上に、きちんと油紙に包まれている。おかげで、文字は滲むことなく殆ど読めた。おそらくフレイがやったのだろう。勿論俺への配慮などではなく、キラからの手紙だからだ──
汚れきった爪で、半分やけくそになって手紙を開く。
《話はミリィから聞いた。僕に黙って行っちゃうなんて、ちょっとズルイよサイ》
そんな書き出しで始まるキラからの手紙は、呑気ではあったが──実に情のこもったものだった。
《僕は正直、サイが羨ましい。ミリィも。どうしたらそんなに、すぐに行動に移せるのかな?
僕は、周りからは力があるって認められている。だけど、今の世界で何をすべきなのか、まだよく分からない。流されるままなんだ。
多分、ラクスもそうだと思う。彼女はこうと決めたらやり通す性格だけど、決まるまで時間がかかるんだよね》
キラとラクスがオーブのマルキオ邸で静養していることは、勿論サイも知っている。
今はまだ早いだろう、キラ。お前はまだ、2年前の傷が癒えていない。フレイや、たくさんのものを失い、自らの心まで大きくすり減らしたあの時の傷を──わずかな照明の中で手紙を読みながら、サイはゴム長靴を脱いでそこに新聞紙を丸めて突っ込む。身に着けているものは全て、すっかり濡れそぼっていた。その時、サイは手紙の中に、強引に黒く塗りつぶされている部分を発見した。
《今はカガリも大変な時にさしかかっていることは知ってるよね。またプラントに》 ここから先数行が、明らかにキラではない何者かの手で塗りつぶされている。アマミキョの誰かの仕業かと思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。検閲だ。
手紙が投函された時には既に、プラントと連合の緊張が高まりつつあったのだろう。本来検閲なしで通るはずのルートの手紙が検閲されているのは、その為だ──サイはこんな処でも、現実を痛感せずにはいられなかった。
《僕はあれから、何も出来ないまま2年を過ごしてしまった。何か出来る力があるのに何もやれないって、もどかしいよ。ラクスは焦るなと言うけれど》
何の力もないのに遮二無二動き続け、結局何も出来ないどころか状況を悪化させている俺への当てつけか。そう思ったその時──
サイは初めて気づいた。2年前、キラがどれだけ孤独だったか。
護ろうとしている連中は全員、本来敵であるナチュラルで──フレイのことで俺たちから孤立して、しかもそんな俺たちを護る為に命がけで戦いに出て──しかも自分に近づいてきたフレイは、おそらく父親の復讐の為にキラを利用して──
情けない。今になって初めて実感するとは。どんなに、あいつが辛かったか。
護ろうとしていた者たちに蔑視され、仲間だと思っていた者たちから疎まれ、その力を勝手に利用される。しかもそれは、自分の同胞を殺す為だ。
どれだけ、キラは親友のもとに行きたかっただろう──俺の「お前は、帰ってくるよな」なんて無責任で自分勝手な言葉に、キラはどれほど苦しんだろう。それでもキラは、俺たちを護ってくれた。どんな時だって。
キラの苦しみに比べたら、今の俺の状況が何だ。俺は、利用されるほどの力なんか持ってやしない。
キラのように、自らの力で苦しむことなどありえない。誰にも必要とされずに自由な俺の、くだらない苦しみが、何だというんだ。
《僕は、サイを尊敬してる。あんなことを君にやった僕が言っても信じられないかも知れないけど、サイには人をまとめて、融和させる力がある。
それは、僕には出来ないことなんだ。だからきっとサイは、アマミキョでもうまくやっていけると思う。
もしかしたら隊長になって、オーブに帰ってくるんじゃないかな? 楽しみに待ってる》
電子メールに慣れきったキラが、わざわざ手書きでこの手紙を書いた。それだけでもサイは嬉しかったが、恐らくキラが文章構成に悩んで何度も書き直したであろう跡も数箇所見つけ、サイはもう少しで嗚咽を漏らす処だった。
フレイの記憶が少しでも戻って、良かったじゃないか。キラを愛していた記憶が戻るなら──俺はそれを願っていたんじゃないのか。なのに俺は、まだフレイが自分の腕の中に戻ってくれることを望んでいた。つくづく卑劣な人間だ、俺は。
ふと見下ろすと、足元にフレイと自分の写真が放り出されていた。破られてはいるが、丁寧にテープで直されている。キラの手紙と同じように。
自分がかつて、何度も破り捨てようと思いながら出来なかった写真。サイはゆっくりと、テープの継ぎ目を指でなぞってみる。
──何を馬鹿なことを考えていた、俺は。フレイが、キラのことしか頭にないだなどと。フレイはちゃんと、俺のことまで気にかけていたじゃないか! この直された写真が、何よりの証拠だ。
思いっきり泣くことが出来るならもっとスッキリするのだろうが、サイは意地にかけてもそれだけはしなかった。代わりに、自らを罰するように鉄の壁に頭を打ちつけ、額と頬を冷やす。
「分かってるさ、キラ。
俺は逃げない。必ずフレイを取り戻して、お前の処に連れて行く」
数日後。
サイの待遇は相変わらず改善されなかったが、彼自身は少しずつ生気を取り戻しつつあった。ヤハラの子供たちの為の学校建設予定地を利用して、サイは現地のナチュラルの子供たちを集めて言葉や算術を教え始めていたのだ。
地元住民にもクルーにも嫌悪されまくっていたサイだったが、それでも数人程度ついてくる子供たちはいたのである。特に先日、イジメからサイに救出されたナチュラルの子供たちは、親の注意も聞かずサイにまとわりついていた。
「じゃあもう一度読んでみようか。『アストレイ安いよハンガクだよー』せーのっ」
子供たちがろくに意味も分からぬまま、元気に唱和する。
スコールの時間が過ぎると、途端に強烈な陽射しが大地に照りつけて木々や土から水分を絞りとっていくのは、いつものことだった。サイと子供たちは陽射しをよけて、木が生い茂る日陰を選んで集まっていた。焼け残りの木材をかき集めて作った黒板もどきに、アマミキョからこっそり持ち出したチョークでサイは文字を書きつけ、教えていく。
子供らは切り株や、持ち出してきた椅子などに座り、興味深げにサイの文字を読んでいく。全員腐臭にまみれており、中には汚れすぎて性別すら判らぬ子供もいたが、その笑顔を見るだけでサイも笑顔になることが出来た。
主にサイが教えたのは、後々商売の基本となる算数に国語だったが、時には球技などで遊ぶこともあった。ただし、サッカーボールでバスケ(勿論ネットなどないので、黒板をゴールにみたてた「もどき」である)をやらざるを得ないという惨憺たるものだったが。
だがこの状況下、そんなひと時が長く続くはずはなかった。
スコールの気配で、サイが授業を終了させ子供たちを帰そうとしていた──その時。
「やかましいんだよ! ナチュラルに教育なんぞ、無駄だっ」
この一声と共にサイと子供らの処へ乗り込んできたのは、ハマーとその一派だった。サイが焼けた木の板でやっと作った黒板を、彼らは張り倒し、踏みつけ、叩き破る。ハマーの手には、重量5キロほどはありそうなレンチがしっかり握られていた。
尋常ではない。子供たちは震え上がり、一斉にサイにしがみつく。「やめて下さい!」サイは子供たちを護るようにしてハマーの前に立ち塞がる。
よく見ると、ハマーは完全に泥酔していた。よくもこんな状態の整備士を放っておける──
サイがアマクサ組に心中で文句をつけるより早く、尖ったレンチの先が振り下ろされた。「いくらナチュラルを育てようが、どうせコーディネイターを殺す!」
よけるのも一瞬サイの方が遅く、右肩をまともにクリーンヒットされた。その一撃だけで、サイは地面へ叩きつけられる。動けなくなった瞬間を狙い、男たちの靴がサイの肋骨を踏み、蹴り飛ばす。ハマーのレンチがサイの眼鏡を、頬への打撃と共に弾き飛ばす。
しかしそこで怯むサイではなかった。ナチュラルを、俺という男を馬鹿にするな──!
振り上げられた誰かの片足を掴み、サイはそいつを逆に地面へ引きずり倒す。その衝撃で、男たちは一旦サイから離れた。頭を上げてみると、空が早くも曇りだしていた。大粒の雫も落ち始めている。
「逃げろ!」サイは痛みをこらえて立ち上がり、怯えきっている子供たちに叫んだ。さっきまで彼らと野球をしていたはずの金属バットを拾い上げ、サイはハマーたちを改めて睨み返す。
俺はもう、やられたままではいない──サイは竹刀のようにバットをしっかり構えた。殴られた痛みが、身体のうちにこもる熱を倍増させていく。血が煮えたぎる。
「面白ぇ。そうでなくっちゃ、殺りがいもねぇからなァ!」汚れた歯が、ハマーのぶ厚い唇の間から漏れた。笑っているつもりか。
「貴方が、どれだけナチュラルが憎いか知りませんけど……俺にだって、誇りはあります!」
「上等ぬかすな、腐れガエルが!」ハマーが赤ら顔を突き出して、レンチを振り上げ正面からサイに突進する。レンチとバットが、空中で火花を散らした。
当然、周囲からも男たちが殴りかかってくる。サイは子供たちが逃げていくのを視界の端で確認しながら、金属バットの重みを利用して全身で振り回し、攻撃を跳ね返す。殴りはしない、あくまで追い払うだけだ。
他の手下どもはサイの勢いに気おされ少しばかり後退したが、ハマーだけは果敢にサイへ飛びかかってくる。「キラ・ヤマトの手紙ごときで、調子に乗りくさって!」「調子に乗ってるのはどっちです、作業に戻って下さいっ」下段からすくいあげるようにして、サイのバットがレンチを払う。
「どうせ口八丁で、キラを利用したんだろうが貴様!」さすがはコーディネイターだけあって、酔っ払っていても正確にサイのバットの軌道を見切ってかわし、額を目がけてレンチを叩きつけてくる。「馬鹿にするな、キラは俺の友達だ!」サイも負けじと攻撃をかわして一旦後ろへ飛びのくと、大地を蹴って走り出し、全体重をかけてハマーのレンチを薙ぎ払う。
「友達だぁ? 向こうは貴様なんぞ、屁ほども思っちゃいねぇだろうが!」ハマーはバットを一旦よけると、地面から1メートルほどもジャンプしてサイに全身全霊で殴りかかってきた。頭を割られる前に、サイはどうにかバットの両端を掴んで額の前で防ぐ。「何と言われようが勝手ですけど! 子供に手は出させませんよっ」筋肉という筋肉を振り絞り、ハマーを力で遠ざける。
空からの雫はやがて、大地と人間を洗い流す滝となった。サイの眼前が、スコールで一気に曇っていく。吐かれる息が、火のように熱い。それでもハマーの狂気はおさまるどころか、猛烈に身体に叩きつける雨でかえって刺激されてしまったようだ。ハマーは再び雄叫びと共にレンチを振りかぶる。バットとレンチが雨の煙の中で火花を生み、輝く菊を一瞬散らした。
「面白いこと言ってくれる。俺の娘は、ナチュラルのガキどもに殺されたんだ!」
思わぬハマーの言葉。いきなり突きつけられた真相に、サイの力は緩んでしまった。その瞬間を、ハマーが見逃すはずもなく──
それまで上段から振り下ろされていただけだったハマーのレンチが、突然横から胴を斬るように薙ぎ払われた。がら空きだったサイの腹が、打ち砕かれる。胃と肋骨が同時に身体の外へ飛び出した──その衝撃にサイは耐えることが出来ず、遂にうつぶせになって倒れこんだ。
周囲から男たちが一息に飛びかかり、サイはその体勢のまま四肢と頭を掴まれ、泥まみれの地面に押しつけられた。土からたちのぼる蒸気に自分の血の臭いが、サイの鼻腔を刺激する。歯の間に、砂が入ってくる。
ハマーはそのままサイの上に馬乗りになり、頬をブーツの踵で踏みつけた。何度も、何度も、蹴りとレンチと血の嵐がサイの身体を殴り続ける。髪の毛を掴まれ上体を起こされ、腹や足、背中を踏まれ、蹴られていく。理不尽な暴力の嵐が、業火となって雨と共にサイの上に吹き荒れ、彼に残されていた抵抗力を完全に奪っていく。サイの誇りをかけた抵抗が、かえって男たちの怒りを誘発してしまったのだ。
ベージュのワイシャツは血と泥で身体に張りついていたが、その汚れを飛沫をあげてスコールが洗っていった。一発や二発蹴り飛ばされ殴られる程度なら今までにも何度かあったが、今回のは違う──朦朧としかかる意識の中、サイは前髪をつかまれハマーの前に、罪人の如く吊り上げられる。そのハマーの目を見ながら、サイは直感した。
──殺される。
無防備にハマーの前に突き出されたサイは、彼のレンチ攻撃のもとにひたすら晒されることになった。憎しみと怒りが過剰にこめられたレンチが、凶器となってサイに叩きつけられる。
「娘の痛みは、こんなもんじゃなかった! 娘も、嫁も、俺の家族はみんな貴様らにっ」骨が砕け、肉が飛び散り、神経が全て切断されるかという打撃が、次から次へとサイを打つ。袖が引きちぎられ、ブリッジ組の証であったブルーのバッジも破壊され、飛び散っていく。さらにハマーは、隣の男からビール瓶を受け取った。
「気絶してんじゃねぇよ、オラァ!」瓶の中身を、ハマーは強引にサイの喉に流し込む。途端、喉に口腔、食道が焼かれていくが如き激痛が、サイを中から壊していく。あまりの痛みに、サイは液体を吐き散らしてしまう。おそらく工業用アルコールから何かだろう。ひどく惨めな嗚咽が、喉から漏れた。咳き込みが止まらない。口から、大量の血塊が飛び出した。
「何だよ? 汚ねぇから消毒してやったのに!」絶叫と共に、サイの左肩にビール瓶が叩きつけられた。叫びの代わりに、血が喉から漏れる。幸いサイの肩は頑丈で、砕けたのはビール瓶の方だったが。
そのあたりでようやくハマーの狂気に気づいたか、周囲の男らはもうサイへの暴行を止めていた。
いつもの、ほんの気晴らしだったはずだ、ストレス解消のつもりだった、それが何故こんな洒落にもならない事態になる? 俺たちは大人じゃないのか? 15歳を超えたコーディネイターは大人のはずだろ? 中にはハマーを止めようと、一歩を踏み出すかどうか迷っている者もいる。だが、誰もハマーに声をかけられない。それほどまでに、ハマーの威圧は凄まじかったのだ。
「どうした? もう叫ぶ気力もないか? ナチュラルってのは、喧嘩の練習台にもならねぇな」壊れたビール瓶の破片を拾い上げ、ハマーは倒れたサイの顎を軽く靴で蹴り、破片を握り締める。指の間から、血が滴り落ちた。
「いつまでもブリッジにこだわりやがって……その制服、前からムカついてたんだ」破片が、サイの右肩に突き刺される。痛みにサイの目が剥かれ、喉から叫びが迸る。そのままハマーはサイの皮膚ごと、制服の胸元を切り裂く。サイの絶叫をBGMに、彼の意地の象徴でもあった制服が皮膚と一緒に切り刻まれ、血に染まっていく。ハマーの刃は一瞬ではなくゆっくりと浅めに、直線を描くようにサイの皮膚の上をなぞったので、余計に痛みの時間は増した。
騒ぎを偶然近くの作業場で聞きつけたカズイは、アムルと一緒にすぐに現場へ向かった。豪雨の中彼が目撃したものは、ずっと一緒にいたはずの親友が、果てなき暴力に晒され、切り裂かれていく光景。
あまりのことに、カズイの下半身の力が抜けていく。サイを助けなきゃ、助けなきゃ──そう思えども、全く脚は動かない。アムルはそんなカズイの動揺を察し、しっかりと彼を抱きしめ、耳元で囁いた。
「行っちゃ駄目。貴方も殺されちゃう」
そうは言いながらも、アムルはひどく冷静にこの状況を見ていた。
同じ頃。
「僕、いる意味ないよな」単調な食糧運びなどを無気力に続けながら、ナオトは彼らしくもなくぼやいていた。ぼやきはリンドー副隊長の専売特許だったはずなのに、とナオトは自嘲する。
ラクス・クラインの映像を見て気が高ぶったのも一瞬だけで、数日するとナオトはすぐに塞ぎこんでしまった。何しろティーダを降ろされた上に、レポートの内容をアマクサ組や連合から大幅に制限されたのである。
時澤や真田ら山神隊の監視下でありながら忙しく働くクルーたちが、ナオトの前を行き来する。ナオトはため息をつくことしか出来なかった。しかも、オーブが連合と同盟など──「カガリ代表は、オーブの理念を忘れたのか?」
そんな時だ、ナオトがマユから、サイの一大事を聞かされたのは。但し、非常に能天気な言葉での伝え方であったが。
「ねぇナオト! お祭りだよっ、血祭り!」
そしてマユはナオトに、包帯だらけの身をかきむしる仕草まで交え、大はしゃぎで飛び跳ねながらこう言ったのだ。「ハマーさんがね、サイをガラスで刻んでてね、血がびしゃびしゃ飛んで手足が金魚みたいに跳ねてね、おーもしろかったぁ!」
当然の措置だ。コーディネイターより優秀なナチュラルが、いていいはずがない。
目の前で血まみれの姿を晒すサイを見ながら、アムルは半分ほど状況を楽しんでいた。
「サイが、サイが……」震え続けて何も出来ないカズイの背中を撫でながら、アムルはハマーから見えない方向の木陰にカズイと共に隠れ、この暴行劇を凝視していた。
あの男は、こともあろうにこの自分に、罪を押しつけようとした。
しかもあの男は、この私が、母親と恋人の死を望んでいたと思い込んでいる。
そんなことは許せない。平気で人の心を見破り、入り込んでくる男など。私より優秀な男など。
ああやって、惨めな姿を大衆に晒すのが一番似合っている。自分が手を下すことが出来ないのがいささか無念ではあるものの、アムルはこの状況に満足していた。
サイ君、仕方ないわよ。貴方、生意気なんだもの。アムルは目を閉じ、自らの正当化を行なっていた。
母親への殺意に嫉妬に憎しみ、恋人への裏切り、自分がティーダにした過ち。それを、彼女は無意識下で正当化し、ほぼ無かったこととして処理していた。それは今までアムルが生きてきて獲得した処世術でもある。
母親を殺したかった? いいえ、私にバイオリンの能力しか求めず、出来ないと知ると人形にしようとした母さんが悪いの。恋人だって、そんな母さんが選んできた。捨てるのがお互いにとって幸せ。ティーダへの過失? 私がミスなんかするはずないじゃない。したとすれば、私を追いつめたフレイと、サイと、マユが悪い。彼らのせいで、ミスが誘発されただけ。
マユがああなったのは罰だったのよ。そして、今サイがこうなっているのも──
その目の前で、ネクタイを引っ張り上げられたサイが無理矢理雨の中を引きずられ、近くの切り株に背中から押しつけられる。それは先ほどまで、子供たちが座っていた椅子だった。もはや意識は朦朧としているようで、サイはなされるがままだった。ハマーがサイの左腕を掴み、切り株の上に放り出す。ハマーの手には、さっきまでサイの武器だった金属バットが握られていた。
「常識を教えてやる。まともにやり合って、貴様が俺らにかなうはずがないだろ!」
心を抉る言葉と共に、ハマーのバットがサイの二の腕に叩きつけられた。
サイの絶叫が黒い天を裂く中、アムルは笑いをこらえきれなかった。よくぞ言ってくれた、ハマーさん。優等生ぶった言葉を吐き続けていたあの偽善者の口が、雨をまともに浴びて血を流し、意味不明の叫びを上げている。指がビクビクと震えている。瀕死の蛙のようだ。
ふと見ると、カズイが座り込んでいた。なるほど、人が腰を抜かす時とはこのような状態を言うのか。耳を塞ぎ、目を背け、口だけはサイの名を呟き続けているが、腰から下にかけての部分に明らかに脳からの命令が伝わっていない。脚はふやけたワカメのように折れ曲がり、ズボンは雨ではなく別の暖かな水で汚れ始めている。
アムルはそんなカズイの頭を抱きしめて優しく愛撫しつつ、「大丈夫……大丈夫よ」と呟き続ける。自らも泣きたい、という声を作って。実際、泣きたくもあった。何の因果でこんな子を抱き締めなくちゃならないのか。
その間に、ハマーが飽きもせず二撃目を、同じ場所に叩き込む。ピッチャー第二球、バッター、真っ芯で捕らえた!──アムルの中で実況が響く。
肉ではない、硬質なものが潰れたような音。アムルにとっては心地よく、他の者であれば間違いなく嫌な感触の音。サイの喉からは、もう叫びも出ていない。ただ、激痛で眼球が宙に向かって飛び出さんばかりに剥かれている。左腕はろくに動いていない。
そこに至ってもなお満足しないハマーは、べろりと唇を舐めて言い放つ。「二発で撃沈か。娘は五発耐えたそうだぜ、さすがは俺のロゼだ」狂笑するハマーの血走った目に、もはや正常者の輝きはない。「しょうがねぇ、今度は左脚にすっかぁ!」
ハマーが振りかぶったその瞬間──アムルの横から、紅の風が飛び込んだ。
ナオトが追いついた時にはもう、フレイはハマーの腹部に三発目の拳を叩き込んでいた。「惨劇の再演に、意味などありえぬ!」
ハマーはあまりのフレイの速度に、何が起こったかすら理解出来なかったに違いない。さらにフレイはハマーの顎に、容赦なく蹴りをぶち込んだ。短めのタイトスカートから繰り出される、しなやかで強烈な蹴り。紅のブーツの重みが、その威力を倍増させていた。自分が尊敬してやまなかったはずのフレイが、今、自分を一蹴している──ハマーはその現実をろくに認識することも出来ぬまま、大地にもんどりうって倒れる。
さらにフレイはそのハマーの上半身を引きずり上げ、廃墟の壁の後ろに隠れようとしていた男どもに向かってハマーをぶん投げる。「作業もせずに、他人の痛みを愉しむか! 下衆どもっ」
フレイに必死で急を伝えて良かったのか、悪かったのか──ナオトには判断が出来なかった。いつもの、冷徹なフレイとは明らかに違う。冷静に戦術を指示していたフレイとも違う。
悲鳴を上げて逃げ出そうとする男たちの前方へあっという間に先回りし、頭が吹っ飛ぶかという勢いで先頭の男を殴り飛ばす。その一撃で男は壁に叩きつけられ、さらに二人目、三人目も背負い投げの要領できれいに宙へ投げ飛ばされ、逆さになって石壁に激突し、壊れかけていた壁はその衝撃で崩落した。「貴様らの醜悪面など見たくもないわ! 失せろ!」四人目の顔面に拳が叩き込まれる。鼻の骨が、歯と共に折れる音。
わずか5秒もない間に、その場でサイに直接暴行を働いた人間は全員、フレイに伸されることになった。ちなみに全員、フレイより首ひとつ分ほどは身長があり、肉付きも良い男たちである。
「他人を見下す時は、後ろから刺される覚悟ぐらいはしておくのだな……愚か者が!」
そのフレイの言葉がきちんと伝わったかどうかまでは、分からない。何しろ、全員気絶しているようにナオトには見えたのだ。だがフレイの暴走はそこでは終わらなかった。
突然フレイは、木の間に隠れていたアムルとカズイを目ざとく発見する。内臓を切り開くメスのような鋭さの視線。
男たちの血で汚れた手や顔を拭きもせず、フレイはアムルにゆらりと迫る。見えない圧力に、アムルは思わず数歩後退した。アムルの方が身長はやや上のはずだが、今のフレイは明らかにアムルを圧倒していた。アムルはカズイを抱きしめながら、精一杯抵抗する。「わ、私、何もしてない……私を殴る気?」
「傍観者の雌犬気取りが……女だからと、私が容赦すると思うか!」アムルの白い右頬に、フレイの拳が炸裂した。平手ではない。紅の血に染まった鉄拳だった。
一撃で草むらに倒れたアムル。それを見て、カズイが悲鳴を上げた。
今度はカズイさんだ──ナオトは確信した。フレイの視線が、顔をぐちゃぐちゃにしたカズイに止まる。眉が怒りに震え、紅の髪は雨で濡れて蛇のように彼女の首をのたうっていた。
「くだらぬ女に惚れおって……」フレイの両手が、カズイの衿ぐりを引っ張り上げる。カズイの両足が宙に浮き、彼の脆い精神はそれだけで恐慌に陥った。吐き出される単語はもはや意味をなさない。「サイは、ステーションの接続部分が、ねぇフレイカラミティの緑っていいよね、モジュールの調子がおかしくて、ああああ」
フレイの手に力がこもる。首を絞める気だ──直感したナオトが、思わず叫ぼうとしたその時。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!!」
血を吐くように振り絞られる絶叫が、豪雨を裂いた。
ナオトは確かに見た。その叫びで、その叫びだけで、「あの」フレイが手を止めた瞬間を。
一体何の奇跡だ、これは。ナオトが反射的に振り返ると──
左腕の激痛に耐え、どうにか上半身を起こしたサイが、そこにいた。
つづく