ぐるりと機体を回転させたアフロディーテ。その勢いを利用した紅の女神は、右掌部に装備した対艦刀の一振りだけで眼前のアッシュの左腕クローを叩っ切った。さらにフレイはアフロディーテにもう片方の対艦刀を抜かせる、そしてもう一撃をアッシュ左腕に食らわせ、本体から腕を分離させる。その腕をアフロディーテが猛然と振り回し──
場の全員が、息を飲んだ。飲まざるを得ない事態が発生したのだ。
哀れだったのはフレイの眼前に迫っていた、アッシュのパイロットである。何が起こったのか全く理解出来ないままに、自分の機体のクローでコクピットを貫かれたのだから。
フレイがアフロディーテを反転させてアッシュが大爆発を起こすまでの時間は、約2秒。接近戦では銃よりナイフの方が早いのは、人間もモビルスーツも同じだ。
だが敵もさるもの、この事態にもめげずに勇敢にも大地を蹴散らし、アフロディーテの背面に突っ込んでくるゾノがいた。その数、2機。
アフロディーテの頭が180度見事に回転し、頭部バルカンを乱射する。二手に分かれてそれをよけるゾノ、しかしフレイの動作の方が速かった。首を逆方向に向けたままのアフロディーテ──その右脚部が、一旦遠ざかろうとしたゾノへ向く。
ほぼ真横へ伸ばされるアフロディーテの右足。バレリーナの如く、一本足で回転しつつ大地に立つアフロディーテ。
そして、アフロディーテの脚部末端──人間で言えば足の甲に当たる部分がばっくり割れ、中に仕込んであったスティレットが2本、飛び出した。真っ黒い毒針のように。
スティレットをまともに顔面に食らったゾノはまるで、矢を突き刺された緑のテナガザルだった。スティレットの勢いに圧されてのけぞるゾノ、そして緑猿は光となって散っていく。
猿の丸焼きが完成する間に左から襲いかかってきたもう一機のゾノも、アフロディーテが振り回したアッシュの爪を喰らい、粉砕された。
「フレイ! 何があったっ……少しはマユの感情を抑えてくれ!」この光景を、カラミティ内部のカイキも殆ど指をくわえて眺めているに等しい状態だった。フレイからの応答はない。ただ、目の前で暴走するアフロディーテがいるだけだ。
アッシュ・ゾノの部隊も決してぼんやりしていたわけではないだろうが、何しろフレイの動きが速すぎる。カイキは考える──今フレイの視界は、全てが恐ろしいほどスローになっているに違いない。敵は棒立ちだ。そして彼女自身の動きは、真水よりも清浄で研ぎ澄まされている。極限まで澄み渡った視覚、聴覚、五感、神経、血液、細胞──あのフリーダム、キラ・ヤマトのように。
多くの戦士たちがどれほど求めど決して得られぬ戦闘能力を、今フレイは解放していた。それも、自らの意思のもとに。


アマミキョカタパルトで、次々にザフトを撃破していく光景をモニターで見せつけられた整備士たちは、爆光が上がるたびに歓声を上げる。その機動に、恐怖を示す者も少なくなかったが。
だがこの時ミゲルは、彼らとは全く別の戦慄に捉われていた。
「フレイ! 機体のSEEDが弾けるわけじゃないって、あれほど言っただろうがっ」
ミゲルは走り出し、残されていたアマミキョのスカイグラスパーに飛び乗る。既にスカイグラスパーにはジェットストライカーを装備してある。山神隊から平身低頭で譲ってもらったジェットストライカーは、今が使いどころだった。
ティーダの外部スピーカから、ラスティの叫びが響く。<先輩、無茶だ! そんな腕でっ>
「あのままじゃ、30秒でエネルギーが切れちまう! こいつで少しでももたせにゃっ」既に肩から先が消失している右腕をものともせず、ミゲルはコクピットに乗り込み、エンジンを始動させた。
<だけど、今のアンタは……>
「任せろよ! 俺は黄昏の魔弾と呼ばれた男だっ」
歯をくいしばりつつも、ミゲルは口元に笑みを浮かべてみせる。同時にスカイグラスパーのバーニアが盛大に噴射され、ミゲルは雨空に飛び立っていく。


ザフトの攻撃で揺れるアマミキョ。そのブリッジへ通じるエレベーターで、カズイは通信をチェックしていた。その最中ブリッジの通信を傍受し、カズイは棒立ちになる。
「サイが、出撃?」
反射的に思い出したのは2年前の砂漠だ。あの時サイは、キラの留守に無理矢理ストライクで出撃しようとして──
カズイは激しく首を振る。「自己主張しようとして自棄になって……結局同じことの繰り返しじゃないか、サイ!」
だが、握り締められた拳の震えは止まらない。エレベータが目的階に到着したのも全く気づけぬほど、カズイの心は焦っていた。駆け込んできたクルーに怒鳴られるまでカズイは、我を忘れていた。
今度こそは、サイの命が危ういのだ。自分の友人が。自分を思いやり、自分を裏切ったあの友人が──


フレイの機動は止まらない。バッテリーは残り30%を切っていたが、「構わん! 20秒でケリをつけるっ」フレイは堂々と宣言していた。
ちょうどアマミキョのいるこの地点は、高台。やや傾斜した大通りを利用して、アフロディーテは足部分と道路の間に火花を散らせながら滑り降り、雨中を一気に跳躍した。アフロディーテの関節部が軋み、重圧のかかりすぎた左脚関節からは僅かに煙が出始めている。クローを構え、さらにクローの内側に仕込まれた機関砲で応戦しようとしていたアッシュを、70トンを超えるアフロディーテの重量と加速と共に左の対艦刀で貫く。勿論コクピットを。
さらに、真後ろから食いついてきたゾノ2機に対し、アフロディーテは右のマニピュレータの対艦刀を後方へ投擲する。相手がよける間に素早く右の武装をビームライフルに持ち替え、大きく後方へ右腕部を回してゾノに閃光を放つ。
人間の形をしているはずなのに、人間ではありえない動き。その上正確無比な射撃。ゾノは瞬く間にその餌食となる。
だがアフロディーテの目の前にはまだ2機のアッシュ、さらにヨダカのジオグーンがいた。そそり立つジオグーンのドリルの背後には、雨で荒れ狂う河の濁流しかない。
「ティーダを引きずり出すまで、一歩も引かぬっ」
外部スピーカで堂々とがなるヨダカの声が、まだ雨の中にこだまする。同時に再びジオグーンがドリルをフル回転させ、地中に潜ろうとする──狙いは一つ。アマミキョ、そして中のティーダ!
「愚かなザフトよ、ティーダはこの国に残された唯一の希望ぞ!」フレイの叫び。最大戦速でスラスターを噴かし低空を駆けるように飛行しつつ、フレイは自らジオグーンへ突っ込んでいく。同時にカイキのカラミティへ通信を繋ぐ。「カイキ、シュラークで私を撃て!」
<何だって?>さすがのカイキも、この命令には驚きを隠せない。だが、フレイは有無を言わせなかった。
「ティーダを出させたくないなら、私を狙え!」
その一言に、カイキは心を決めたようだ。カラミティの肩の長距離ビーム砲シュラークに、火が入る。対空ならともかく、地上に向けて無闇に使用すればどのような影響が出るか分からぬこの武器を、敢えて使わせるとは──「チグサの為だ!」カイキは一声吼えた。
カラミティが砲撃準備を整えるその一瞬の間にも、アフロディーテはアサルトナイフを取り出しアッシュの緑の装甲に食い込ませた。そして左脚部を伸ばしてもう一機のアッシュを蹴り飛ばし、そこに装着されていた先ほどのスティレットを食い込ませる。二手に分かれようとするアッシュ、当然食いついていたアフロディーテは引き裂かれようとする。胴体部に走る火花、雨の飛沫の中ちぎれんとする紅蓮の鋼鉄、フレイのコクピットに飛び交うアラーム、同時にフレイの細い紅のパイロットスーツも大きく揺さぶられる。目の前のモニターに大きく迫るは、ジオグーンのドリル。ヨダカの叫び──
「ティーダは文具団による、人間への冒涜だ!」
正面突撃、正解。思った通り、相手は潜るのをやめて食いついてきた。フレイの濡れた唇に、ふと笑みが浮かんだ──そして真後ろから来る、カラミティの閃光。
瞬間、フレイはIWSPのエネルギーを全開にした。機体の全てのバーニアが内部で爆発するようにパワーを噴出させ、一気にアフロディーテをアッシュから解放し、天空へ飛翔させる。
同時に地上では、カラミティのエネルギー波に呑まれたアッシュが、河川の濁流と共に焔の中で溶解していた。ジオグーンを守るように──


<……退避! 逃げて下さい、隊長……ぐあああ>
<チュウザンの焼酎、一緒に飲みたかっ……>
ヨダカは聞いた。アッシュに乗った部下の最期の叫びを。
迂闊もいい所だ、突っ込んでくる紅のストライクにこうも簡単に騙されるとは。
「まさか、味方を撃つとはっ」
ヨダカの心は部下への侘び、そしてティーダへの憎しみで満ち満ちていく。だが、今は何も出来ない。部下との通信が永遠に途絶しても。
ジオグーンはアッシュに守られる形で何とか光と熱に耐えていたが、それも数秒の間。ヨダカのコクピットが冷却システムも効かぬほど熱せられ、アラームが夏の蝉のようにがなりたてる。バイザーの中の髭までが燃えそうだ。力の波でヨダカたちの部隊は一気に河川にまで押し戻され、熱せられた濁流に洗われる。ジオグーンの自慢のドリルは勿論、全く使い物にならなくなっていた。
「ここまで追いつめて……民間の偽善船が!」
コクピットの射出装置が作動し、崩れ行くジオグーンから悔悟にわななくヨダカを脱出させていく。その先は幸か不幸か、河のド真ん中だった。


ヨダカが追い込んだはずのティーダの中では、マユが胸を押さえてじっとコンソールを見つめていた。「ナオトがいる。呼んでる。ドキドキする。どうして?」
同乗するラスティもまた、自らの脳に入り込んでくる感覚に戸惑っていた。「ろくに乗ってない俺すら、分かる。この空域のナオトを感じる。この空域の人間を」
ラスティは思わずディスプレイを確認する。ティーダのレーダーは第14ヘリポートのアストレイは勿論、ヤエセ全体の戦況を確実に掌握していた。海岸で暴れまわっている謎の味方機がいるのも分かっている。ティーダの機能は俺たちも熟知しているはずだった、しかし──
「ティーダは、乗ってる人間までレーダーにしちまうのか?」しかもマユは、ラスティが感じなかったはずのサイをはっきりと感じていた。ティーダに乗っている時間が長ければ長いほど、その感覚も強くなるというわけか。
「ホント、この機体と俺は合わないな」ラスティはふと、不満げに呟いた。


ヤエセ第14ヘリポート付近、市街地──だった場所。
眼下でまたしても起こった爆風に、ナオトのヘリは危うく巻き込まれる寸前だった。何とかヘリの体勢を立て直したナオトは、光の中で鋼鉄の人形が骨組だけとなり、砕け、倒れこむイメージを見た。
何だろう、あれは。形だけはアストレイのようにも見えるが、紅白に彩られた鮮やかな装甲はどこにも見えず、真っ黒な鉄の塊があるだけだ。両腕がもげ、首が吹き飛ばされ、瓦礫と化した百貨店の中に倒れている。まるでモビルスーツの焼死体だ。
そのアストレイらしき物体の前に、土下座でもするように突っ伏しているのは、ゾノに似ているその形状からしてザフトの新型だろうか? 一帯を焦がす炎に眼が眩みそうになりながらも、ナオトはヘリをさらにそちらへ向けていく。何故かは分からないが、そこへ行かねばならない気がした。と──
うずくまっていたはずのザフト機が、動いた。泥を被ったカエルのようにも見えるそいつは、まだ生きていたのだ。全てを焼き尽くすあの業火の中で!
両腕に装着されていたらしいクローは片方が吹き飛び、もう片方もひしゃげていたが、それでも壊れたままの爪は雨に打たれて血を吸うように動く。
そいつの頭部に矢じりの如く突き刺さっているのは、爆発したスティレットの残骸。半分砕けた頭の中で、紅の単眼が二度、はっきりと点滅した。
この化け物に、アストレイはやられたんだ。
ナオトの思いは、アマミキョより先に黒ずみのようになったアストレイに向かった。ヘリの機首を一気に傾ける。
助けなきゃ。
痛いほどに感じる──自分が一番会わねばならない人物を、あの中に。自分が今一番会いたい人が、あの中にいる!
何故感じるのか分からない。ティーダの及ぼす影響を、ナオト自身は未だ知らない。
だがその眼前で、ザフト機の砕けた爪が泥を跳ね飛ばしながらイソギンチャクのように動き、伸ばされる。瀕死のアストレイを喰らおうとして。その爪が、まだ形は残っているアストレイのコクピット部分に近づき、黒ずんだ機体を無理矢理掴み、そして──
ナオトはその0.3秒の間に閃いた。アストレイのパイロットを助ける方法を。自分に残されたただ一つの方法を。
これしかない。胸元のフーアのお守りを握り締める。
お願いします、僕を守って下さい、フーアさんアイムさんミリィさん真田さん──あの人の命が小さくなってる。掌に乗せたら溶けて消えてしまうほどに弱くなっている。
消えないでくれ、どうか、こんな処で消えないで。ナオトは思い切り操縦桿を前方に倒す。ヘリの窓を叩く雨粒がさらに激しさを増し、その雨の向こうには赤黒く変色したザフト機が迫る。
傾くヘリ。ナオトは足を踏ん張った。もう一度、あの人に会いたい。会って、謝りたい。
行け、ミリィさんの想い、真田さんの祈り、僕の心。目の前にぐんぐん迫る、鋼鉄のタコ野郎。単眼のカメラアイはこちらにまでは向いていない、うまい具合に壊れている──あの紅の眼まであと、30メートル、15メートル、10、5。
「サイさんをこれ以上、陵辱するなあああああぁぁぁ!!!!」
叫びと共に、ナオトはヘリを、ザフト機の顔面に激突させた。
雨の中に飛び散るガラス、計器、シート、そしてナオト自身の身体。ナオトの頭にスパークが万華鏡のように広がり、飛び散っていく様々な破片や火花やケーブルがスローモーションになり、雨粒の中に浮いていく。
その直後に、ナオトの背に轟音が叩きつけられた。


フレイのアフロディーテが飛翔した空域にはドンピシャのタイミングで、ミゲルのスカイグラスパーが追いついていた。バッテリー切れ寸前のアフロディーテは自ら背中のIWSPを切り離す。一瞬素のダガーLになってしまったアフロディーテに、ミゲルはすかさずスカイグラスパーからジェットストライカーを射出、そしてアフロディーテは見事空中での換装を成功させた。ジェットストライカーがアフロディーテの背中に綺麗に嵌まり込み、バッテリーが紅の機体に流し込まれる。換装にかかった時間は、約4秒。
「新記録だぜ、フレイ! 機体損傷度もだがなっ」
ミゲルの軽い皮肉に対して、フレイは何も返さなかった。無言のままジェットストライカーを全開にし、一気に第14へリポートへと向かう。


気を失っていたのは、ほんの30秒程度だったらしい。
意識を取り戻した時ナオトは、温かい泥の中に突っ込んでいた。どうにか頭だけ上げてみる。雨が顔に叩きつけられ、こびりついた泥を洗い流していく。
ぼんやりした視界もそのままに自分の身体を眺めてみると、スーツの右袖が肩からちぎれて破れており、剥きだしになった二の腕は血だらけだ。服は殆ど泥を吸収し尽したに等しい状態でべっとりと肌にくっついている。しかしそんなことより、全身を貫く左足の痛みですぐには動けなかった。
何しろ、20メートル近い高さから飛び降りたのだ。下が柔らかな泥でなくコンクリートの道路だったら、今頃ナオトは確実に肉片となっていただろう。いくら半分コーディネイターだからといって、この蛮勇の代償がただで済むわけがないのだ。
──これは罰だ。あの人を馬鹿にした僕の。あの人は、もっと痛いはず。
ナオトは腕の力だけで身体を起こす。煙と雨で視界は悪かったが、それでも炎に照らされたアストレイの姿ははっきりと確認出来た。ほぼ原型を失った、オーブの勇士。
そして、手前で炎上しているのは、さっきまでナオトが乗っていたヘリの残骸。さらに何とか爆砕出来たザフト機が、向こうにあるはずだ──
ナオトはざまみろ、と言いたげに顔をほころばせつつ、炎の向こう側に眼を凝らす。だがその笑みは一瞬の後、凍りついた。
炎の中でうごめくもの。あの黒い毒針は、奴の頭部に突き刺さったスティレットだ。それが動いているということは──ナオトが思考をめまぐるしく巡らせている間に、炎と黒い雨をかいくぐるように、ザフト機の単眼が光った。
「ねぇ……ちょっと、まさか……
冗談でしょ!?」
ヘリの残骸を踏み潰す、化け物の足。飛び散ったヘリのオイルが、血のように半漁人野郎もといザフト機の装甲を流れる。
ナオトは立ち上がることも出来ないまま、その光景を眺めているしかなかった。もう武器もない。声も出ない。執拗にザフト機の爪が、アストレイのコクピットにかかる。既にハッチは砕けており、ナオトにはわずかに中の様子までが見えた。
何だ、あの血だらけの腕らしきものは──包帯も見える──吊られている腕。
もう間違いない。あぁ、どうして、貴方はそんな無謀を。頭のいい人だったでしょう、貴方は!
だが、発狂寸前となったナオトの目の前で、さらに予期せぬ事態が発生した。
いつか聞いたことのある、「神が降りた」という表現はこういう現象をさすのか。ナオトはあまりの状況に、狂うことすら忘れて逆に冷静に光景を眺めていた。
天空から突如舞い降りた黒い鋼鉄の翼。それが、ザフト機の真上に叩き落とされたのだ。ナオトの乗っていたヘリとは段違いの加速をつけたその翼は、一気に半漁人の頭にメリメリと食い込んでいく。
ナオトが見上げると、黒煙と豪雨の空から、女神の名を持つ紅蓮の機体──ストライク・アフロディーテが雨の上を流れるように滑降してきた。


ジェットストライカーごとアッシュに投げつけ、そのふざけた頭部を砕き大爆発が起こった直後、アフロディーテは一息にアッシュの背後を取った。そしてアフロディーテは砕けた頭部の中からケーブルを掴み、引きずり出し始める。まるで、親の仇の内臓をちぎろうとするように。
最初の一撃で、アッシュは完全に沈黙してしまっていた。アストレイが、そしてナオトのヘリがあれだけ苦闘したのが嘘のように。
火花を散らし、軽くスパークを繰り返しながらどんどん引き抜かれていくアッシュのケーブル、そしてひときわ大きな鋼鉄のブロックをその中から取り出し、全く躊躇することなくアフロディーテは拳を叩きつけそいつを砕いた。勿論、それはアッシュのコクピットブロックだった。


あまりの決着方法に呆然とするナオトの前で、アフロディーテのハッチが開き、紅の痩身が飛び出してくる。フレイ・アルスター──ナオトに提出された、重い課題の一つ。
ようやく泥から這い出したナオトは、足をかばいつつアストレイに近づく。幸い骨折はしていない、ひねった程度だ。腕の出血はひどいが、今のナオトには気にならない。
フレイはアフロディーテのハッチを蹴り、鹿のようにしなやかに身を躍らせアストレイへ飛び移る。その距離は、約8メートルはあった。熱せられた装甲をものともせず、フレイは半壊したアストレイのハッチを手でこじ開け、中へ滑り込んでいく。紅の手袋が、わずかに熱で溶けるのがナオトにも見えた。
ナオトがようやくアストレイの足元にたどり着いた時にはもう、フレイはハッチから再び姿を現していた。人間の形をした、血の袋を抱いて──少なくとも、ナオトにはそうとしか見えなかった。
もっとよく眼を凝らすと、その袋はメットを被り、朱色の作業用ジャケットを着用している。血の塊に見えたのは、そのジャケットの色のせいかも知れない。そしてその左腕には、さっきまで肩から吊られていたと思われる包帯が巻かれている。これもとっくに血で染まっていたが。
「奇跡だ。五体満足とはな」フレイは雨に洗われるその塊──サイ・アーガイルに向けて、ぽつりと呟いた。そして眼下のナオトに向けて、敢然と命令を下す。
「何をぼさっとしている、手を貸せ! ニュートロンジャマーの影響は落ちている、私の機体から通信を送れっ」
声に弾かれたように、ナオトはアフロディーテへ走り出す。とはいえ、足を引きずりながらの状態ではあるが。
フレイはサイを抱きかかえたまま、またしても機体から機体へ跳躍する。アフロディーテのハッチ部分に着地し、フレイはサイをコクピット後方へ収容した。そしてアフロディーテのマニピュレータで、機体によじ登ろうとしていたナオトをつまみ上げ、コクピットに放り込む。
その時、ナオトは気づいた──
サイが未だに、アストレイの操縦桿を右手に握り締めていることを。勿論その操縦桿自体は根元から砕け散っていたが、その破片がサイの手にあったのだ。「そんなの似合わないよ、サイさん!」
必死でナオトはその手から操縦桿を引き離そうとする。ぼろぼろと涙がこぼれ、サイの手の上に落ちた。完全に我を失っているナオトを、フレイはさらに叱り飛ばす。
「まだ生きている、生理食塩水と止血帯を! マスクもだっ」フレイが壊れたメットをサイの頭から外すと、彼女の膝にメットの中の血と吐瀉物が一気に流れ落ちていった。


海岸線における状況を一変させたのは、たった一機の新型だった。
海中をビームランスで切り裂いてゾノ3機を一気に貫き、水柱を上げて海面に飛び出す新型。その水色の円盤状モビルアーマーは外殻をきれいに二つに割り、別形態へと変化した。
割れた円盤に守られる形でザフト軍の前に姿を現したのは、真っ青に彩られたモビルスーツ。さっきまで円盤だったものは、大きく展開されて半円状の翼となる。その内側から──
ビームと実弾が同時に炎を噴き、グーンやゾノを一撃のもとに叩き落していく。ザフトは勿論、山神隊の苦闘まであざ笑うように。
常識外の事態。ウィンダムを駆る山神隊一同は、感謝や呆れを通り越して怒りすら覚えていた。「一機で戦闘を終わらせちまう、あいつは!」
新型に助けられたはずの広瀬少尉の怒声に、伊能は余裕綽々で答える。「ザフトの新型・アビスだそうだ。尤も、今は俺たちのものだが」
伊能の通信に、風間が割り込む。<もしや、ファントムペイン? 到着していたんですか>
「そうなら、時澤も真田も無事帰ってくるはずだな」伊能は浜に打ち上げられたウィンダム、ディープフォビドゥンの無数の残骸を眺めつつ、ナガンヌ方面へ思いを馳せた。油で黒く汚れた浜辺を、雨と波が洗っていく。
海では、今度はザフト潜水艦相手にアビスが暴れている。そのパイロットが伊能の子供程度の年齢の少年にすぎないことを、山神隊は全く知らなかった。その少年が、ザフト軍を手玉に取りグーンの丸焼きを大量生産しながら、コクピットで無邪気に呵呵大笑していることも。
AD時代には「美ら海」と呼ばれたというチュウザンの海が今、血と炎に染め上げられていく。その彼方から、連合艦J・P・ジョーンズが堂々迫ってくるのが確認出来た。


ナガンヌ上空でバビ・ディン部隊に追いつめられていた時澤のウィンダム。援護してくれる味方はもはや誰もおらず、時澤機はたった一機で炎の空を彷徨っていた。
既に左脚部が撃たれ、関節から切断されていたが、それでも時澤はウィンダムを飛ばしていた。目の前で部下を失うという事態がこれほどまでに、自分の怒りを呼び覚ますとは──「真田……だからあれほど、コクピット周りの点検を慎重にって!」
泣くのも呻くのも後だ。真田のくれたこのジェットストライカーのエネルギー、無駄にするわけにはいかない。
だがそんな時澤の思いも虚しく、眼前にバビの三角帽子が2機、迫る。地上ではディンが待ち構え、自分を狙う。もはや集中攻撃だ。
武運尽きたか──時澤が歯を食いしばった、その時だった。
天の炎が、時澤のモニターいっぱいに迫ったバビを一瞬で貫いた。爆砕していく三角帽子。その炎は竜のようにうねり、空を駆け、まるで意思でも持つようにバビを焼いていく。
それだけではない。その業火は地上をも狙い、時澤機に向かって砲撃していたディンを粉砕していた。
あのフリーダムを思い出させるかのような、圧倒的攻撃力。炎と雨の中、時澤のモニターが一瞬ぶれる。その一瞬で、何かが自分の後ろを取った。機体の肩部を無遠慮に掴まれ、わずかにウィンダムが軋む。時澤が思わずモニターを確認する前に、間違いなく少年と思われる声が接触通信で割り込んできた。
<目立つなよ! 俺らの存在意義、なくなっちまうだろーがっ>
そこにいたのは、深緑の装甲を持ち背中に機動兵装ポッドを担いだ、新型モビルアーマー。その頭部はカマキリの頭にも見える。
時澤はそこで初めて気づいた──ファントムペインだ。あのうねる天の火は、このポッドから射出されたファイヤーフライ誘導ミサイル。
間違いなく、これはザフトの兵器だ。それが山神隊に加勢しているということは、あのファントムペインが強奪したという機体なのだろう。
しかし、もっと早くに来てくれれば──時澤は思わず、コンソールパネルを叩いていた。その間にも新型・カオスガンダムはモビルスーツに変形し、ヴァジュラビームサーベルを携えつつ光を帯びて舞い、赤子の手をひねるようにバビを撃墜していく。


雨のやまぬナガンヌ空港の第3発着所は、臨時の野戦病院となっていた。とはいえ、野ざらしの地面に負傷者が延々と並べられているという状態だが。
そこに寝かされていたミリアリアは、頬に打ちつける雨の冷たさでようやく眼を覚ました。そしてすぐ横で、何かが地面をそっと引きずられていくような音も聞こえた。
ミリアリアはその方向へ顔を向けようとしたが途端、左肩に電流の如き痛みが走る。その痛みで初めて、彼女は自分が生きていると気づいた。
今度は肩をかばいつつ、改めて横の光景を確認する。そこにあったのは、血だまりが引きずられたような跡。おそらく自分と同じように、横に寝かされて放置されていた負傷者のものだろう。血の量から判断して、ここで寝ていた者がどうなり、何処へ運ばれていったかは言うまでもなかった。
ミリアリアはゆっくりと周りを見回す。自分の周囲にきれいに並べられている、負傷者の群れ、群れ、群れ──うち、既に白い袋に包まれ動かなくなっている者、7人に1人。
ミリアリアは胸元のカメラを確認した。幸い、何も手をつけられてはいないようだ。ミリアリアの手は自然にカメラをいじり、横の血だまりにレンズを向けていた。
遥か向こう、未だに煙を吐く空港の建物まで続いている、人々の身体。這いずって助けを呼ぶ者、既に息絶えた母親にすがり泣き喚く兄弟、内臓の飛び出た男性を引きずっていく看護士。
雨にも構わず、ミリアリアは夢中でシャッターを切っていた。それらの人々全てにレンズを向けた。自分の無力を呪いながら。
そう──独りというのは、無力だ。ナオトについていくことも、サイを助けることも、フレイの真実を確かめることすらも、出来ない。ナオトはうまくたどり着けただろうか。そもそも自分に、ナオトをどやしつける資格なぞ、あったのだろうか。
独りなら自由に行動できると思った。だからアイツとだって別れた。今思えばアイツは懸命に忠告してくれていたと思う、でも自分はそれを振り切ってしまった。そうまでして選んだジャーナリストの道。
なのに現実は、度重なる連合の妨害工作に、新人ジャーナリスト故の情報網の貧弱さに振り回される日々の連続だった。おまけにナチュラルの女というだけでなめられ、時には暴行を受ける寸前になったこともある。
モビルスーツに乗って世界を飛び回っているというあの野次馬ジェスの足元にも、自分は及ばない。しまいにはこんな怪我までして、アマミキョの重要情報を掴みながらサイのもとへ行くことすらも出来ない。恐らくこのまま、自分はオーブへ送還されてしまうだろう。国から出たい人々が出られず、出たくない人間は出されてしまう。何という矛盾!
──こんな時に、アークエンジェルがいれば。ミリアリアは何度となく心をよぎったその願いを、またも繰り返していた。


アマミキョ医療ブロックに到着した瞬間に丁度、アフロディーテのバッテリーは完全に上がった。緊急通信は何とか繋がったらしく、フレイがサイを運び出した時にはもう、アフロディーテの足元にスズミ女医らが待機していた。
サイを固定したストレッチャーは泥を跳ね飛ばし、そのまま医療ブロックへ突入していく。血に汚れた通路を駆け抜け、危うく子供を跳ねそうになりながら、スズミやネネら医師・看護士はサイを運んでいく。同じくストレッチャーを引っ張り駆けつつフレイが叫ぶ。「出血多量だ、現場で生食を点滴! 頭部胸部左腕に裂傷、左大腿部及び両腕に火傷、左腕は複雑骨折の疑いあり、瞳孔は緩慢、血圧は触診で95、呼吸音微弱、脚に脈がない!」
騒ぎを聞きつけ集まってくる患者をかきわけるようにしながら、スズミは空いている手術室を探して眼を血走らせる。「血算、血液型とクロスマッチ、頚椎四方向に胸部、それから左腕の写真オーダー! 2号室、死体を放置しないでとっとと空けてっ」
マスクをしたサイの頭のあたりには、必死でナオトがとりすがっていた。ストレッチャーに引きずられるように。「サイさん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、だから、お願いだから眼を覚まして!」
延々と謝りどおしの泣き声。フレイがナオトを振り返る。その形相はまさしく鬼だった。「その赤ん坊を黙らせろ!」
咄嗟にネネが動き、ナオトを後ろから強引に羽交い絞めにした。「ナオト君、邪魔っ」
「嫌だぁっ! サイさん、駄目だ死んじゃ駄目だ、僕のごめんなさいを聞いてよ、サイさん!」ネネや他の看護士たちに押さえつけられながらも、ナオトは狂ったように絶叫する。その叫びをBGMに、サイはまだ死体の片付かぬ手術室に運び込まれていった。


「血圧、90の50に低下。酸素飽和度92」「ラピッドインフューザーにOマイナスをあと2単位、いえ4単位。血液バンクの心配は当分ないわ、この子のおかげよ」スズミはテキパキとネネら看護士たちに指示を下し、血まみれのサイの救出にかかる。「呼吸音減弱! 挿管します、チェストチューブ取って」「腹部は硬くて膨満、内部出血の可能性がある」「胸も腕もズタズタ、大動脈を外れてるのが奇跡だ」「だけどこの前、喉をパイプで貫かれて助かった患者さん見ましたよ」
看護士たちの必死の言葉が交わされる。そして扉の向こうからは未だにナオトの泣き声が聞こえる。それをよそに、スズミはサイの肺へ命の管をゆっくり入れていく。だが──「声帯が見えない、血が溢れて……」
途端、サイに繋がれていた医療モニターがけたたましく鳴り出した。おそらく多くの医者・看護士たちが、最も嫌がるであろう音──「脈が消えます、心停止!」そのネネの叫びに、スズミは反射的にモニターを確認する。命の鼓動を示していたはずのモニターが、実にきれいでまっすぐな緑の光線と化している。メロディーもリズムも何もない、ただラの音を延々と鳴らすだけのアラーム。
1秒のうちに、スズミは除細動器のパドルを両手で持ち上げていた。「200にチャージ、下がって!」サイの胸に、電気をたっぷり蓄えたパドルが押し当てられる。看護士たちが手際よく飛びのく。この時、その場にいた全員の脳裏から、サイがアマミキョ中の嫌われ者だという事実はきれいさっぱり消え去っていた。受けろ、生への電流だ、これが──
空気を震わせる轟音と共に、サイの身体が跳ねた。「駄目です、フラットライン!」ネネの悲鳴。スズミは叫ぶ。「次、300にチャージ! 戻れ、戻ってきなさいっ、戻ってこい、この馬鹿!」再び飛びのく看護士たち、跳ねる四肢。血の気が完全に引いたサイの頭が、がくがくと揺れる。その頬にはべっとりと血糊が張りついていた。「スズミ先生、もう……」
スズミはそんなネネの弱気を、一声で排除する。「もう一度チャージ、360! 善人が報われないなんて、私は信じないからねっ」


医療ブロックから出てアマミキョコアブロックに戻ったフレイは、珍しく独りで通路を歩いていた。既にカラミティやアフロディーテは収容されている。紅のパイロットスーツは、サイの血でさらに濃い赤に染まっていた。だがフレイは血に染められた手や顔を、拭こうとはしなかった。
その背後から、まだあどけない少年の声が響く。「僕の言った通りじゃないですか。フレイはやりすぎたんですよ」
そこにいたのは、珍しくハラジョウから出て車椅子を走らせているニコルだった。ケーブルの代わりに、身体よりも大きいバッテリーを背中にくくりつけている。
フレイはそっと振り返る。動揺した様子は全くなくむしろ微笑みすら見せていたが、その瞳には若干疲労の影がよぎっている。「戦況は?」
「チュウザンもアマミキョも撃たれませんでしたよ。ファントムペインが、素晴らしい逆転劇を見せてくれました。あ、勿論、フレイの活躍が一番ですけど。
潜入部隊の隊長機も殲滅しましたし、ザフトは大損害で撤退を余儀なくされています」
ニコルはフレイにハンカチを差し出す。そのハンカチで、フレイは顔を拭いた。あっという間に、白いハンカチは血に染まる。そのまま足早に歩き出したフレイを、ニコルも車椅子で追う。「皮肉ですよね。この前僕らと戦ったファントムペインが、僕らを助けてくれるなんて。尤も、出撃を嫌がったパイロットもいたみたいですが」
「ステラ・ルーシェか。当然だな」
と、フレイはふと振り返った。「それを私に言う為に、お前はわざわざハラジョウから出たのか?」
ニコルは肩をすくめる。「僕が言いたいのは、もうちょっとフレイは素直になればいいのにってことです。アフロディーテをあれほど滅茶苦茶にしてまで、彼を助けるなんて」
フレイはひらひらと手を振った。ニコルを追い払おうとでもするように。「何を勘違いしているのか知らんが、あの男はあくまでキラ・ヤマトの為の餌に過ぎぬ。キラが現れるまでもう少し耐えるかと思っていたが、やはり通常のナチュラルの身体は貧弱すぎるな。あれでは撒き餌の役にも立たん」
あくまで冷静な言葉。ニコルは思わず車椅子を止めてしまった。フレイはそのままカタパルトへ向かって歩いていく。「今日のミゲルの説教は長くなりそうだ。甘んじて聞く」
取り残されたニコルは独り、膨れていた。「そんなの言い訳だよ、フレイ」


「汚名返上したいばかりに、功を焦ったのさ」「結局何の役にも立たなかったな、アイツ」「足引っ張るだけ引っ張って……自分は頑張ってますなんて主張すりゃいいってもんじゃないのにね」
アマミキョのカタパルトでは、整備士たちとブリッジ組が各モビルスーツ、通信システム、設備の点検に大わらわだった。事実上の勝利に、アマミキョのクルーたちは明らかに浮き足だっている。
そんな中でサイの出撃の報を彼らが聞いても、自分らの行為を反省するどころかサイの蛮勇を非難する声の方が遥かに大きかった。
カズイもアムルにくっついたままそのクルーたちの罵声を聞いていたが、何も言えなかった。半分ぐらいは自分も同意見だからであるが、彼は下を向いたまま、何も主張することが出来なかった。
親友が死に瀕しているこの時に、お前は何をやっている。その心の声を、カズイは必死で打ち消す。
気がつくとその顔を、アムルが覗き込んでいた。いけない、彼女に涙など見せては。彼女に心配などさせては。「大丈夫よ。サイ君はナチュラルだけど、強いもの」アムルは微笑み、カズイの頭を撫でる。その優しさは、カズイにとっては混乱の中の一筋の光だった。
カタパルトの隅の方では、オサキとヒスイが黙々と作業を続けている。元々サイと仲の悪くなかったオサキに、孤立しながらサイに励まされていたヒスイ。同じナチュラルである彼女たちの心境はどうなのだろう──カズイはそれも、聞きに行く勇気がなかった。と、カズイの心をさらに引き裂くような怒声が響いた。
「死んだ方がマシだな、あんな奴!」整備の人手が足りなくなり、遂に瞑想室から引っ張り出されてきたハマーだった。「アストレイがどれだけ貴重か分かってるのか、あのクズは! 万が一助かって出て来やがったら、俺がアフロディーテで絞首刑にしてやるよっ」
それに反論する者は、誰もいない。止めるべきトニー隊長は外の避難民の誘導で手一杯だ。リンドー副隊長はブリッジで山神隊と会議中。必然的に、サイの行動を見直す者は誰もいなくなった。
「そうよね。いい加減、オーブに帰ればいいのに」「大丈夫だよ、フレイに強制送還されるだろうし」「病原菌がいなくなると、この船も少しはすっとするよ」「ノコノコ出てきたら、今度は火炎放射してやろうか」「それ最高ー」
彼らが調子づいて騒ぎだした、その途端──
カタパルト中に、いや船内全域に、その場の人間全ての鼓膜を突き破る如き轟音が響いた。全員が何事かと、音のした方向を振り向く。
カズイは息を飲んだ。もうオーブへの飛行機に乗ったと思い込んでいたあの少年が、カタパルトの入り口にいたのだ。
泥だらけのスーツもそのままに、腕と頭に応急処置で包帯だけ巻いて、ナオト・シライシはそこに轟然と立ちはだかっていた。足元には壊れたスピーカーの破片が散らばっていた。わざと音量を最大にした上で思い切り鋼鉄の床に叩きつけたのだ。
全員が言葉もなく、彼の姿を見つめている。スーツや髪から滴る水で、ナオトの足元には相当の水たまりが出来ている。それはかなり赤く染まっていた。
「恥ずかしくないんですか」
全く似合わない低い声で、ナオトは呟く。呟きではあるが、さすがは腐ってもレポーター。その声ははっきりと、全員の耳に響いた。叫ぶよりも痛く。
「この船の人たちは、みんな大人のはずでしょう。みんな、この国の人たちを助けるつもりで、船に乗ったんですよね。争いを止めたいから、この船に乗ったんですよね?
なのにどうして、子供の喧嘩をしてるんです!」
「馬鹿野郎誰がガキの喧嘩だ、当然の主張をしたまでだろうが!」怒鳴り返したのは勿論ハマーだ。だがすかさずナオトは彼を睨みつける。頭の包帯から噴出している血が、ナオトの大きな目にさらに凄みを加えていた。
見開かれた化け猫の眼。手負いの獣の牙。泥と血がうまい具合にナオトの顔にペインティングされ、チュウザン中の亡霊が憑いたが如き人相だ。見ただけで、カズイはまたも腰を抜かしそうになる。尤も、腰を抜かしかけたのは彼だけではなかったが。
「ふざけるなっ!! サイさんをあんな風にしたのは、貴方たちの癖に!」
もしナオトに遠隔発火の超能力があったとしたら、アマミキョ全ブロックはもとより山神隊までが一瞬で焼き殺されていたに違いない。カズイの膝から力が抜けていく。ナオトの叫びは、心にあまりにも痛く突き刺さる。あのハマーでさえもたじろいでいた。
「病原菌か。面白い比喩ですよね、僕には考えつきませんよ。そんなことにばかり知恵が回るなんて、こりゃ世界から争いが絶えないわけだ」
たまらず、アムルが叫ぶ。「ナオト君落ち着いて、今は非常事態で、みんな追いつめられて……」
「だから、サイさんを殺してもしょうがないって言うんですか! 貴方がたはっ」
「どうしてそうなるのよ、サイ君は自らの意志で出動しただけよ! 私たちはサイ君に、何とかアマミキョのクルーとして立ち直ってもらおうと」
「嘘つくな!! そこまでサイさんを追いつめたのは誰だよ?
貴方がたは攻撃対象が欲しかっただけだ、争いから眼を逸らす為に!」凄まじき声が、船内中に轟く。さすがはレポーター、などと感心している時ではない。
カズイはとうとう頭を抱えてしまった。ナオトがこれほどまでに憤怒しているということは、やはり、サイは──そこから先は、何も考えられない。考えたら、発狂してしまう。自分がサイを見殺しにしたなどという事実を直視するという行為は、今のカズイには絶対に無理だった。
と──その時。
「蝿がうるさいぞ。何の騒ぎだ」カタパルトの遥か上から、流麗な声が響く。ナオトの絶叫を止めるように。
ブリッジから出てきたフレイ・アルスターが、カイキやミゲルらを伴い、デッキの上からナオトやクルーたちを見渡していた。


ナオトの拳が握り締められる。もう逃げたりしない。論破されたりするものか。
まだ腕はずきずきと痛んだが、サイの痛みに比べれば何のことがある。
「いつも通り上から人を見下ろしてのご登場、ありがとうございます」ナオトはフレイを敢然と睨みつけて、言い放った。彼女の顔には何の反応もない。ただ鼠を見るような眼があるだけだ。さっきあれだけサイを必死で助けようとしたのは、嘘だったのか?
だけど、僕はもう騙されない。フレイはそんな彼に、あくまで冷たい。「何をしに戻ってきた、子鼠?」
今だ。僕の唯一にして最大の攻撃を受けてみろ、フレイ・アルスター。ナオトは呼吸を落ち着かせ、一言一言、はっきりと言葉を継ぐ。
「真実を、確かめにきました。
ナガンヌ空港で、ミリアリア・ハウさんに会いました。
貴方のことを聞きました、フレイさん。いいえ──貴方はフレイさんなんかじゃない!
本物のフレイ・アルスターさんは、もう死んでるはずなんですっ」
そのナオトの言葉は、確かに結構な反応をもたらした。主に、クルーたちに。さざ波のようなざわめきが広がっていく。
丁度いいことに、この放送は船内中に響いている。予備のスピーカーを開けておいて良かった。やったぜ、ざまあみろ。これで貴方の統制も終わりだ。ナオトはフレイの表情を確認する。
だが──最も肝心なフレイ「もどき」の表情は、全く変化がない。思わず白眼を剥いて慌てふためいて放送を止めさせるぐらいの素晴らしい反応を期待していたというのに。
それどころか、彼女はナオトにすらちょっと可愛く見えるようなぽかんとした表情を作り、次にやれやれ、とでも言いたげに頬のあたりを指で撫でてみせた。あまりの落ち着きぶりに、ナオトは焦った。目を剥いてるのはこっちじゃないか──
「ミリアリアさんのことは知っているでしょ。貴方の友達だったはずの人です。
いや、知らないからそんな冷たい態度が出来るのかな。彼女が証言したんだ、貴方はヤキンで死んだはずだって!」
ナオトは必死で怒鳴る。大丈夫、クルーの間には確実に動揺が走っているんだ。もう死んでる? 死んだ人間が、どうしてピンピンしてるんだ? 偽者? だったら何故? 
その中でカズイは、何も出来ずにただおろおろするだけだ。「ミリィが、ナガンヌに? どうして……」そんなカズイの肩をアムルが押さえ、呟いた。「貴方、知ってるんでしょ詳しいこと。どういうことなの」
だが、フレイの口から出た次の言葉は、ナオトは勿論全員を驚愕させた。
「確かに、死亡記録に私の名はあるかも知れん。あの大戦で失われた個人情報は実際に消えた命より大量だ、混乱の中で私が死亡したとされても、おかしくはないな。
──で?」
「は?」
ナオトは戸惑う。こんな言葉で返されては、どんなに追いつめても逃げられるだけじゃないか。「違う、データの問題じゃない! ミリアリアさんが言ったんです、自分の目の前で貴方は死んだって!」
「よほど貴様は私を殺したいようだな。それでは認めようじゃないか、あの大戦で私は死んだ。アークエンジェルの目の前で、ドミニオンかもしくは救助艇に乗ってる間に爆死した。それをミリアリア・ハウは見ていた。貴様がそう主張するなら、全部認めようじゃないか。
──で?」
ちょっと待て、待ってくれ。何だよその余裕は。その笑みすらたたえた唇は。僕は貴方の鼻を明かすつもりで、戻ってきたのに!
「で? 貴様は何を言いたいのだ。私が死亡しているからといって、貴様は何を主張したいのだ」
「だから……今いる貴方は偽者です。どうしてフレイさんの名を騙り、この船を乗っ取るんです」さっきの勢いは半分がた消失している。それでもナオトは踏ん張る、何とか、ミリイさんの思いを、サイさんの無念を──
「そうか、私は偽者だったのか。当然の発想だな、それも認めよう。船を乗っ取った、確かに見方によってはそうとも取れる。それも認めよう。
で? そうだとして、貴様は私をどうするつもりだ」
答えはただ一つ。どうすることも出来ない。
既にフレイの力は、アマミキョどころかヤエセ全域にまで及んでいる。実力に裏打ちされたカリスマ性は、多少の不満が噴出することはあっても見事にクルーたちを引っ張り、人々を護ってきた。彼女の凄まじき戦いぶりは、ついさっきも実証されたばかりだ。
そんなフレイの秘密を今ナオト一人が暴いたところで、一体どんな影響力があるというのだろう。ナオトは今更のように、自分の無為無策を悔やんだ。これじゃ、恥をかきに帰ってきたようなもんじゃないか!
フレイの後ろでは、カイキが冷たく自分を睨んでいる。マユにはもう手を出させない、如実に彼の眼は語っていた。それが、ナオトの怒りをさらに増幅する。
「ごまかさないで下さい! 貴方の目的は何なんです、いずれマユも殺すつもりでしょうが! サイさんをじわじわ殺したようにっ」
ナオトは残りの勇気を全て振り絞り、カタパルト奥のティーダに眼を走らせる。一気にあそこまでダッシュして、ティーダを使ってアマミキョをぶち壊す──そんな刹那的妄想までナオトの思考が至ろうとした、その瞬間。
「勝手に人を殺すんじゃないよ、ナオト」
聞きなれた声。ちょっと前まで、一番鬱陶しかった声。だけど今、一番聞きたい声。それが、背後からかけられた。
ナオトは思わず振り返る。外側へ開け放されたままのカタパルトから、いつの間にか午後の陽光が燦々と降りそそいでいた。雨がようやく上がったのだ。
あまりに強い光の為に、そこにいるのが誰か、ナオトは一瞬では分からなかった。だけど、この声は──
「助けてくれて、俺は嬉しかった。ナオト──お帰り」
胸からやっと押し出したような、苦痛に満ちた声。血で滲んだ包帯。立つどころか息をするのもやっとの身体を、看護士のネネが必死で支えている。それでも──
サイ・アーガイルは、生還したのだ。ナオトたちの前に、笑顔まで見せて。



 

つづく
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