これ以上バイクでは行けない。入り組んだ山道を見てそう判断したサイは、バイクを乗り捨てた。
同じく捨てられたハマーのジープがそばにある。どうやら岩に乗り上げてしまったらしい。南国特有の熱気と草いきれ。分厚い作業着の中を汗だくにしてハマーを探しつつ、サイは周囲を見回す──ここにあるはずのない物体が木々の間から見えたのは、その時だった。
明らかに整備不良で、紅と青に彩られている装甲がくすんでいるストライクダガーが2機、サイの位置からそう離れていない山中を蠢いていたのである。「モビルスーツ? 爆発じゃなかったのか」
早くハマーを連れ戻さねば。焦るサイの頭上で、砲火が炸裂した。
木の幹がちぎれる音が森中に交響曲をなし、目の前の雑草が土と共に巻き上がる。森を満たしていた緑が一息に炎に包まれ、舞い上がった葉が光の粉となる。土が、葉緑素が燃えていく。中には樹齢100年を越すであろうガジュマルもあった。
咳き込みながら頭を上げると、たった今倒された木の向こうにハマーの姿が見えた。その周りで木が次々に倒れかかっている。木の繊維が引きちぎれる音。が、ハマーは全く気づかずに叫び続けていた。「この森は、俺たちの森だ! 種を植える森だっ」
ジープから持ち出したと思われるシャベルを手に、ハマーは木の根元を懸命にほじくり返しては土をぶちまける。その木にも、炎は燃え移っていた。砲の音──「危ない!」
サイは走り出す。あの砲火は確実にこちらに向かってくる。倒れて燃え上がる木を飛び越え、サイはハマーに飛びついた。
直後、ハマーのいた地面が大きくえぐられ、一秒遅れで光と轟音が彼らを包んだ。巻き上がる土。砕ける木の根。ハマーと一緒に、サイは吹き飛ばされる。
地面に仲良く叩きつけられながらも、サイは今いた場所を振り返り──震え上がった。そう、イーゲルシュテルンってのは、直径2メートル以上の巨木を根こそぎ引きちぎってしまうほど強力なのだ。そんなことは頭では理解していたはずなのに。
もしサイがハマーを突き飛ばさなければ、ハマーはあの木と運命を共にしていただろう。
にも関わらず、ハマーはなおもシャベルを掴んで、くっついていたサイを振り払う。「邪魔をするな! 貴様らから、俺はロゼを取り戻すっ」
「違う! ここは貴方の故郷じゃないっ、戻ってください」頭に飛んでくるシャベルの先端。それをよけながら、サイはもう一度ハマーに掴みかかる。憤怒に燃えたハマーがサイを引き離そうとし、殴ろうとした瞬間──彼らの足下に、ぼかりと穴が開いた。
自分の足の裏の感覚が、突然消失する。サイはその下に、闇に包まれた大きな空洞を見た。すなわち彼らは落下しているということなのだが、サイはそれでも状況把握に努めていた。「まさか、地下工場だったのか!?」


紅の非常灯以外に光のない闇の中に浮かび上がる、ガラスの箱。その中にたっぷりと注ぎ込まれている、羊水を思わせる温かい橙の液体。時々泡立ち、中に整然と並べられている脳の模型を揺らしている。
学校の理科室でよく見たけれど、こんなリアルな模型はなかったな。眺めながら、ナオトは歩き続けていた。人っ子ひとりいない、工場の中を。
そう、模型だ。脳の標本だ。電極みたいなものが何本も繋がれているのは気になるけど、それでもこれは模造品だ。
さらに奥のガラス棚には、人間の手や足のマネキン、犬や猫、ライオンのよく出来た蝋人形なんかもある。人間のマネキン、よく出来てるな。色や指の形や爪の長さが微妙に違う。中には爪が生えてないものもある。やっぱり文具団の技術ってのは凄い。きっとここは、洋服か理科実験用器具の工場だったんだろう。
天井は3階までの吹き抜けになっており、見上げてすぐ上の階には、今見ている棚よりもう少し小さなガラスの瓶がところ狭しと並べられているようだ。あれは、赤ちゃんの模型だな。生まれる前の胎児のものまである。ヘビみたいに水中で動いているあれは、臍の緒かな。勉強になるなぁ──
ナオトの脳は、必死で現実を見まいとする。そう、模型。標本。レプリカ。マネキン。
一向にガスを検知しないからマスクを外してみたけど、何も臭わないし。うん、大丈夫。死臭なんか、するはずない。生ゴミの臭いだ、これは。
だが、ナオトの身体は正直に反応した。胃からこみあげてくるものを全否定することは、ナオトには不可能だった。ついガラス棚に手をつき、盛大に戻してしまう。
工場内に入っても、逃げてくる作業員たちは誰もいなかった。ガスでやられて倒れている者もいない。不気味なほどに静まった闇の中には、誰の気配も感じられない。だが今ナオトは、無数の人間に囲まれている。ガラスの中の、物言わぬ人間たちの中心で、ナオトは戻し続けていた。
何も吐くものがなくなった時、ナオトはようやく呟く。「何だよ……ここは」
その時、まるでナオトの問いに答えるかのように朗々とした声が、頭上から響いた。
「忌むことはない。チュウザンの、そして人類の希望の場所だよ──ナオト」
ナオトに向けて、一条の光のように注がれる優しい男の声。ナオトは思わず反応した。
そこにあったものは、彼がずっと探し続けてやまなかった男の姿だった。「父さん!」


上から流れ落ちてくる雫と、鼻孔を刺激する強烈な薬品臭で、サイは意識を取り戻した。
頭を起こそうとして、すぐに額をぶつけてしまう。目の前にあったものは、切断され折れ曲がった鉄パイプだった。それ以外には今のところ、何も見えない。この匂いは一体何だ?
幸い両手両足は動くものの、どうやら大きな瓦礫がサイのすぐ上に迫っているらしく、仰向けに横たわっている体勢からろくに動けない。どうやら自分は、地下深くに生き埋めにされてしまったらしい。アッシュとの死闘から生きのびたと思ったら、今度はこれか──
それでも背中で這いずるようにして動きつつ、サイはハマーの名を呼んでみる。すると、すぐ右の暗闇から声が返ってきた。
「ロゼだ。こんな顔して、眠っていた」
柩の中に閉じ込められたような息苦しさの中、サイは何とか光を探す。目が慣れてくるにつれ、サイたちを覆う瓦礫の隙間から、チュウザンの強烈な日光が僅かに差し込んできているのが分かった。埃まみれの狭苦しい空間の中で、光は絹糸のように細い筋を作っている。いつもは呪いたくなるほど熱い太陽だが、この時ばかりはありがたい。幸い、生暖かい風も何処かから吹き込んでいる。
光を頼りに、サイは状況を確認していく。ハマーの作業靴の金具が、サイの顔のすぐ右で動いている。すぐにでも蹴飛ばされそうな距離だ。だが、その奥には──
血まみれになった人のふくらはぎがあった。それも、何本も折り重なって。未だに続いている戦闘音。時折光の筋が点滅する。直後に轟音が響き、サイたちを包む瓦礫を突き崩していく。
潰れた死体に囲まれている。その事実を認めても、サイは不思議と冷静だった。医療ブロックや街で、あれだけの死体と悲鳴を見ていたせいかも知れない。それが非常に危険な「慣れ」という感覚であることも、サイは分かってはいたが。
首を回してみると、すぐ横に右腕らしきものが切断され、転がっているのが見える。
その腕の持つ異常性に、サイは即座に気づいた。尤も、切断された腕が目の前にあること自体が異常なのだが、サイの見た腕は別の意味で異常だった。
何故、この腕の切断面から、血が出ていない?
何故、この腕はこれほど綺麗に切断されている? 鉄材に潰されて、こんな風にナイフでチーズを切ったような美しい断面になるはずがない。
何故、この腕は何も着ていない?
ハマーの向こうに積み重なるふくらはぎにしてもそうだ。靴や靴下を履いていない。
目を凝らすと、そのさらに奥には女性のものと思われる太ももが見えた。女性と判断できたのは、それが臍から上が無くなっている下半身だったからだ。何も着けていない、露になったままの身体。脚の間には、細いチューブが何本も挿し込まれている。膝から下が瓦礫で潰され肉と骨が飛び出していたが、サイにはむしろその潰れた状態が普通に見えた。
──エクステンデッド。実験施設。
フレイの言葉が、サイの中で閃光のように蘇る。僅かな風が、異臭を運んでくる。これは死体を洗う時の薬品──ホルマリンの臭いだ。
「俺たちが来る前から、みんな死んでいた」サイはもう一度頭上を見た。雫の流れる場所を確かめようとして。この地獄から脱出出来る場所を探して。
顔が見えた。眼球がくりぬかれている少女の顔だ。何もない黒い眼窩から、涙のように流れる雫。サイの意識を目覚めさせたのは、その死体の涙だった。おそらくハマーも同じような光景を見ているのだろう、ロゼの名を連呼している。
サイの手が自然にパイプを掴み、引きずりだす。
この時、サイは既に了解していた。何故ここにモビルスーツ部隊が必要だったのか。


「あのストライクダガーには、ここから脱走した子供たちが詰め込まれている」
先の戦闘の影響で脚部が安定しないアフロディーテを駆りつつ、フレイは頭部バルカンで果敢に3機のストライクダガーに応戦していた。破壊された工場の西側ブロックから飛び出してきた奴らだ。
後方からソードカラミティが飛び出し、傷だらけのアフロディーテを左腕のロケットアンカーで援護する。エメラルドの腕から飛び出した爪が、一瞬でストライクダガーの首を吹飛ばす。だがそれでもストライクダガーは突っ込んでくる。
「ガキどもに、工場を名乗るクソ施設は破壊されたってわけか! 似たようなこと考える奴は多いもんだな」カイキはいつもの皮肉めいた笑いと共に、機体のアーマーシュナイダーを振るう。相手がビームライフルを手にする前に、アーマーシュナイダーの刃はライフルごとその腕を切り落とした。
「俺とチグサの居場所は、さらに居心地が良かったんだぜ、畜生!」そのままソードカラミティは、返す刀で相手のコクピット部分を切り裂く。
アマクサ組への援護はさらに続いた。ストライクダガーを空襲する、紫のウィンダム。その上黒き獣──ガイアガンダムが、木々を蹴散らしながらフレイたちの反対側から突っ込んでくる。煤だらけのストライクダガーたちは、もう逃げられない。
「連合がガス爆発と偽り、モビルスーツ部隊まで動員して反乱を潰す理由──貴公には、もうお分かりであろう? ネオ・ロアノーク大佐」


通信で飛び込んできたフレイの皮肉めいた囁きに、ウィンダムのネオは唇を噛むことしか出来なかった。
簡単なことだ。ここはステラたちのいたラボと同等の、連合と繋がる実験施設──だが反乱が起きた。公になる前に潰す。俺たちの手まで借りて。不祥事は内密に処理する、連合のいつもの手だ。
だが、それだけではない。ネオの勘が警告を発する。
名目上とはいえ、ここは文具団の工場だったではないか。コーディネイターを重用する文具団が、連合の実験施設を抱えていたというのか? 
逆に考えてみろ、連合がここ北チュウザンに実験施設を構えるメリットが何処にある? チュウザンは連合支配下とはいえ、コーディネイターとも繋がりがある国だ。連合中枢部の信頼度は相当に低い。そのような国に、最大級の機密事項であるエクステンデッド養成施設を置くか?
しかも規模を見たところ、この施設はおそらくロドニア以上だ。そこまで考えた時、眼下のガイアが突如、激しい突進をかました。
<ネオ! ここは嫌だ、汚れてる、ロドニアと違うっ>
ガイアの背面の翼から発振されたビーム刃が、ストライクダガーを切り裂く。鬱蒼と茂った森や土と一緒に。ガイアの疾走と共になぎ払われていく樹木。それは、地母神を名乗る機体にしては乱暴すぎる所業と言えた。
フレイのアフロディーテが暴れるまでもなく、ストライクダガーはガイアの怒りの前に、僅か10秒の間に全機爆散した。最後のストライクダガーの爆発で、崩れかけていた工場の壁も完全に吹き飛んで、内部が露になる。
「スティングたちを連れてこなくて正解だった」ウィンダムのモニターで破壊の跡をズームアップしたネオは、思わず呟いた。深い嘆息と共に。
そこにあったのは、既に焼き殺されていた人間たちの山。焼け残った死体の服装を見るに、ここの研究員だろう。恐らく、反乱を起こした子供たちにまとめて──
こんな光景をアウルが見たら、彼はそれだけで再起不能になるだろう。研究員を母と慕っていた彼は。
幸いステラに内部は見えていない。ガイアは森の奥にまだ潜んでいたダガーL2機に応戦している。
<同じモノだろうと、容赦なしか。さすがはファントムペインの名に恥じぬ兵士だな>フレイの言葉が、ネオのコクピットにこだまする。魔女の囁きか。


同時刻、工場の中央区画には山神隊の広瀬少尉、風間曹長のウィンダムが突入していた。だが、彼らに応戦する機体の反応はゼロ。既にガス爆発という報告が虚偽であることを見抜いていた広瀬だったが、それでも一応の周囲の汚染状況はモニターしていた。勿論、有毒物質は検知しない。
あまりの反応のなさに、広瀬は1割ほど拍子抜けの感情を覚えつつ内部へ機体を滑り込ませる。と、闇の中からウィンダムの脚部に突進してくる小さな物体があった。ウィンダムの脚部装甲を食いちぎろうとでもしているのか、微かな金属のこすれる音が広瀬のコクピットに響く。
耳が結構長めの大型犬だろうか。「やれやれ、警戒もせずモビルスーツに突進してくる犬なんて、最近じゃ珍しいんだが」広瀬は軽くウィンダムの脚部を動かして犬たちを追い払う。その時、風間が彼女らしくない悲鳴を上げた。
<少尉! 犬じゃありません、服を着ていますっ>
その言葉に、広瀬は反射的にモニターの感度を最大に上げた。そこに映し出された獣の姿は──確かに、服を着ている。分厚い拘束服を。
両腕が不自由でも牙だけはウィンダムに剥かれ、涎をたらしている。振り乱される長い髪。確かに犬じゃないな、二本足で歩いているし。だが。
「人間でもねぇだろ、こいつら……何なんだよ、ここはっ」


「ヒトの未来を変える、新たな種を蒔く場所さ」
ナオトの目の前に立つのは、もう何年も会っていなかった父親だった。しかも、ナオトが今まで一度だって見たことのない優しい微笑みまで見せて、父はそこにいる。
そうだ、父さんも母さんもとても賢い研究者だった。二人ともコーディネイターで、僕の自慢で、でも時には重圧だった。僕はいつも父さんの期待に答えられなくて、父さんを怒らせてばかりで、母さんを泣かせてばかりだった。僕はハーフだったから──
「驚いたよナオト、お前にカガリ代表に買われるほどの才能があったとはね。さすがは私のナオトだ」
ナオトは思わず目を瞑り、その言葉を噛みしめる。こんな言葉を、父さんは一度も言ってはくれなかった。でも今、こんなに優しく声をかけてくれる。僕を認めてくれる。
やっぱり僕は、ティーダに乗っていて良かった。アマミキョに戻って良かった。そのおかげで、こうして父さんに会えたじゃないか!
その為に僕は、レポーターにまでなったんだ。父さんと母さんを探して、認められる為に。
上階からステップを降りてきた父に、ナオトは思わず飛びついていた。白衣の清潔な匂いが鼻をつく。「会いたかった、父さん!」
僕は父さんの子じゃないけれど、それでも父さんは僕の、たった一人の父さんなんだ。ナチュラルの父さんは大戦で死んでしまったから。
「大きくなったな、ナオト。随分辛い目に遭わせた。父さんのこと、許してくれるか」
にっこり笑う父に、ナオトは犬のように従順に縦に何度も首を振る。ナオトは既に、さっきその場で戻したことすら忘れていた。
「しかも、ティーダに乗っていたとは。あれこそフリーダムにも勝る希望の象徴だ」
「そうだっ」ナオトはようやく我に返り、顔を上げた。「ガスが漏れてる、早く退避して父さん! 他の工場の人たちも」
だが、父は笑みを絶やさず、冷静だった。「ガス漏れなど、ない」
その指が優しくナオトの顎を持ち上げる。「希望の意味を、未来の意味を理解出来ぬ哀れな子供たちの、些細な乱だ。もうすぐ連合が来て始末してしまうだろう。父さんたちは彼らを懸命に育てた、だが彼らは理解してくれなかった」
ナオトの肩を抱きながら、父はふと天井を見上げ、縁なし眼鏡を直した。それが悲しみを感じた時の父の癖であることを、ナオトは覚えていた。
「しかしナオト、お前は父さんを裏切らなかった。嬉しいよ」
ナオトの頬を撫でる、父の大きな手。少し薬品臭いが温かい手に、ナオトは完全に自分を委ねていた。きちんとしたオールバックは変わらないけど、白髪が増えたな、父さん。
「お前が、SEEDを持っているとは」
意味不明の単語に、ナオトはきょとんと顔を上げる。背後から響く唸り声。
「何? 野良犬?」慌てて振り向いた。脳の浮いているガラス棚の列、その間から唸りの主が顔を出す。
ナオトの背丈とそう変わらない大きさの獣が3匹、獰猛な牙を剥いていた。血に飢えた真っ赤な眼球をぎらつかせて。


ハマーの両足は鉄骨の下敷きになっていた。何とか動けるサイは這いずりながら、その鉄骨の間に先ほど抜き出したパイプを差し込み、持ち上げようとする。
「偽善者が。恩を売ろうったってそうはいかねぇ」いつものハマーの嘲笑が響いたが、サイは手を緩めない。「偽善者呼ばわりなら、慣れましたよ。貴方とフレイのおかげで」
「ナチュラルの変態殺人狂野郎に助けられる義理はねぇ、ここはいい土地だ。このまま俺が埋まれば、ロゼの種もここで咲く」
砲撃の音はまだ続く。ハマーの手が酒を求めているのか、宙を彷徨う。サイは血が出るほどに強くその手を掴んだ。
「あの死体を見たでしょう。ここは種の育つ土地なんかじゃない!」
だがその手に、唾が吐きかけられた。「なら、ロゼを返せ。オーブだろうと何処だろうと、ナチュラルの気性は変わらねぇ、それは俺が一番よく知っている!
奴らはロゼを、酒のように啜りやがったっ」
ハマーの手が瓦礫から伸び、サイの右耳を髪と一緒に掴んだ。そのままサイの頭蓋骨を握りつぶそうとでもするように、ハマーの指はサイに食い込む。髪が何本かちぎれた。「娘さんに何があったのかは、聞きません。俺が謝ったってどうにもならないぐらいは知っています」
「分かったなら離せ! 俺には種を植えるしかねぇ、ロゼのヒマワリは、ここで太陽になる」
砲撃の震動。またしても細かい瓦礫がバラバラと落ちてくる。それでもサイはパイプを離さない。胸の傷が開きかけ、左腕も激しく痛み出していたが。
そんなサイを、ハマーはさらに嘲る。「死をもって偽善を貫こうってか。フレイ嬢を守れなかったから、その償いか? いくら死にたがっても、フレイ嬢はてめぇのモノにはならねぇっ」
何と頑固な。その言葉に、遂にサイは敬語を捨てた。「そう思うなら好きなだけ言ってろ、だけど俺は放っておけない! 昔のフレイに、貴方は似すぎてるからっ」
砲の音だけでなく、モビルスーツの機動音も近づいてくる。降りそそぐ埃。「知ってるだろ、貴方とは逆にフレイは目の前で父親をなくした、コーディネイターを憎んだ、だけどその後変わった。変わることが出来た。キラという存在があったから」
フレイの話を出され、ハマーの嘲笑は一旦止まる。「アホウ。俺とは順番が違うだろう、娘より先に親父は死ぬもんだ。ロゼは……」
「フレイを見習えとか馬鹿を言うつもりはないよ。でも貴方は、今でもフレイを信じているじゃないか。フレイが連合の娘と知っても」軍手の中は汗だくだ。パイプが軋むが、少しずつ鉄骨が持ち上がり始めている。大丈夫、ハマーの脚は潰れてはいない。
「連合の話なんざ信用するか。俺が信じるのは今のフレイ嬢だ」
「それだけじゃない。そもそもあんたがアマミキョに来たのは何故だ? ナチュラルを信じたいという気持ちが少しでもなければ、アマミキョに乗ることは出来なかったはずだ。娘さんのような子供を出さない為に、あんたは乗ったんじゃないのか」
「ざけんな!」拳が飛んでくる。胸倉を掴まれる。瓦礫が多少崩れて、ハマーの上半身はいつの間にか自由になっていた。「自分の嫁と娘を食い殺されてから言いやがれっ」
種を握ったままの拳で、サイは二発殴られた。畜生ここで折れてたまるものか、もう少しで鉄骨は動く。手を一旦離し、足を使ってサイはパイプを動かし始めた。「それで貴方の気が済むなら、いつでも俺をサンドバッグにしろよ。その代わり、アマミキョに戻れ。働いてくれっ」
「黙れえ!」もうハマーの声に、嘲りの色はない。驚いたことに、彼は泣いていた。サイの位置から顔は見えないが、明らかに涙声だ。
ハマーの手はなおも土を掘ろうとしていた。狂ったように闇をほじくり出すその手首を、サイは掴む。「その種は大事なものだ、ここに植えちゃいけない。
俺が一緒に探します。種を植える場所を」


「SEED。Superior Evolutionary Element Destined-factor──優れた種への進化、その担い手。
かつて学会で発表され、議論を呼んだ概念。選ばれた者のみが持つ、稀なる才能のことだ。SEEDとは人類の進化の証なんだよ。この仮説に興味を持つ研究者は決して少なくない」
「やめてよ! 父さん、何なのこれはっ」
静かに微笑み続ける父の眼前で、ナオトは3匹の犬に取り囲まれていた。切断された右足の浮いている細いガラス棚に背に、ナオトは後ずさる。いや──犬じゃない。
体毛はそれほど濃くはない。あれほど長く頭の毛が伸びている犬など見たことがない。牙と、その間から漏れている涎は凄まじいが、犬の顔ではない。瞳が顔の中心に寄りがちになり、犬に似た顔はしているが。
それに、二本足で立ち上がる時さえある。その時に露になる胸の部分には、二つの大きな膨らみがあった。
間違いない。これは、人間だ。しかも全裸の少女。
「可哀相に……彼女たちは、ここで父さんが強化に失敗してしまった娘たちだ。
父さんのせいで、彼女たちは優れた戦士から人間以下へ堕落してしまった。ただ、犬や狼の筋肉・腱・口腔構造や猫の眼球を一部移植して、脳をその筋肉へ適応させただけなのに」
父の笑顔は変わらない。「娘たち」を少し悲しげに見る優しい目。その「娘たち」は今、彼の息子をガラス棚へ追いつめている。
背中をガラスにぶつけ、ナオトの腰から力が抜ける。吼える「娘たち」。明らかに少女の声ではない。声帯も何らかの強化をされているのだろう。
「モビルスーツにも乗れない、せいぜいパワードスーツで戦うぐらいが関の山だ。チュウザンの未来を背負うには足りない──父さんは失望していた」
まさか、父さんがこんな所業を。違う、誰か違うと言って。母さん、フーアさん、アイムさん、マユ、サイさん、助けて! SEEDって何? 父さんが何を言っているのか分からないよ。この子たちをこんな風にしたのも父さんなの?
いっぺんに50を越える問いと叫びがナオトの頭に溢れ、喉を詰まらせる。ただ一つ、フーアのお守りの感触だけが、彼を恐怖のどん底から引っ張り上げる役割を果たしていた。
「だがナオト。お前が来てくれたことで、彼女たちも報われる」
彼女たちのうちの一人(いや、一匹と言う表現の方が合っている)の右腕が、震え上がるナオトの肩を鷲掴みにする。長く伸びた爪がナオトの肩に食い込み、ナオトは一息に床へと押し倒された。その牙がナオトの顔の前で踊り、黄色く汚れた牙の間から涎が大量に噴出し、ナオトの頬や胸を濡らした。悪臭。揺れる赤い舌。その奥でさらに振動している大きな二つの肉の塊。マユのものより相当大きいが、脇の毛が伸び放題で、ナオトには到底それが乳房と言われる物体とは思えなかった。
「嫌だ! どうして、やめてよ父さん! 僕が探していたのは、こんな父さんじゃないっ」
ナオトの叫びは、娘たちの咆哮と父の落ち着いた声でかき消される。「父さんは嬉しいよ、これはお前にしか出来ないことだ、ナオト。
極限まで強化されたこの花嫁たちに、ハーフコーディネイターたるお前の種を授ける。しかもお前はカガリ代表に選ばれたティーダパイロット。キラ・ヤマトに並ぶSEED保持者だ」
ナオトの歯が震え、激しく音を立てる。目の前で大きくなる牙。よく見ると虫歯だ。食い込んでくる爪。あまりの力で作業用ジャケットが破れた、内側のナオトの皮膚と共に。血と一緒に、絶叫が噴出する。
「そしてハーフコーディネイターは、第二世代以降のコーディネイターより優れた遺伝子を持つという仮説もある。賛同していたのは母さんだったな。お前は孝行息子だろう、父さんと母さんの仮説を実証してくれ」
さらに二人目の娘が、ナオトの首元に手をかける。その行為で、ナオトの叫びは完全に封じられた。
──昔、父さんは僕に同じことをした。僕は何故思い出せなかった?
「少し痛いかも知れないが、我慢するんだぞナオト。昔からお前は、どんなに殴っても我慢強い子だった。この世界で生き抜くには、お前のようなよりよい種を残すことが重要なんだよ。良い孫を、この娘たちにおくれ」
ナオトに喰らいついていく牙と爪。ジャケットの下の制服が、強引に引きちぎられていく。激しく揺れる6つの肉塊。父の足音が近づいてくる。ナオトの剥きだしになった腕が父に押さえられ、何かが刺さった。血管に侵入してくる冷たい液体。
ナオトはようやく、父が何をしようとしているかを理解した。
僕に望まれていたものは、僕ではなく、僕の遺伝子。僕の血。
生まれた時からそうだったじゃないか。ハーフとして生まれた僕を、父さんは絶対に認めてはくれなかった。
母さんを殴り、泣かせ、家に閉じ込めて──この人に僕は、一体何を望んでいたんだろう。本当の父親でもないのに。
ナオトの腰に爪がかかる。彼はこの時、一切の感情を捨てようと懸命に努力していた。
絶望が、彼の喉を押しつぶしていく。ただ、フーアのお守りだけを胸元で握り締める。魂を壊された少女たちの眼球が6つ、充血したままナオトの周りで光っていた。


ティーダのコクピットでマユの身体に異変が生じたのは、ほぼ同時刻。
彼女はティーダをいつでも機動出来るよう待機させておいた。だがふとセンサーの状態を確かめた時、黒のハロが激しくその目を点滅させているのに気づいた。
その瞬間だった。マユの身体に何かが食い込んだような衝撃が走ったのは。
「何? 痛い……痛み?」
物理的ダメージがあったわけではない。ただ彼女は両肩と首、そして下腹部のあたりに強い衝動を感じていた。
「パイロットスーツの調整、間違ったかな? ……ッ!」
全身を抱くように、マユは両腕で自らの肩を押さえる。ディスプレイには、センサー部分の異常を示す文字列が突っ走っている。エラーを示す紅の表示がその中に加速度的に増えていき、しまいにはその文字列の流れは血流を思わせるほどの紅で満たされていく。
「何? 出て行く、何かが私から出て行く!」
大事なものが、抜けていく。強引に、身体から引きずり出されていく。内側から来るその痛みに、マユは身体をのけぞらせた。メットやスーツの中が汗だくだ。頬が熱い。
そしてマユは、それまで知らなかったはずの単語を呟いていた。「イヤ……いや、嫌!」
マユを満たしていたものは激しい嫌悪感だったのだが、彼女はその感情の意味を未だに知らなかった。
身体が動かない。お腹から何かが出て行く。怪我をした時に血が抜けていく、あの感覚なの?
確かカイキお兄ちゃんは、生理が似たような感覚だって言ってた。でも生理はまだないし、分からないのに。
体液が沸騰する。火照る頬に流れる汗。痛い、恥ずかしい、剥がされる、吸われる、気持ちいいのに気持ちよくない、父さん、父さん、父さん……
父さんって誰。鳴り響く悲鳴は何。私の目から零れる水は何?
「違う、これは……ナオトだ」


「ナオト? ティーダがいるのかっ」
マユほど強烈ではないものの、サイもまた同じ感覚を味わっていた。突然沸きあがってきた強い嫌悪感。同時に感じたのは熱い衝動。
かなり漠然とした感覚ではあったが、サイは即座に工場内のナオトの存在に気づいた。身動きもろくに取れぬ闇の中で、侵入してきた嫌悪感と快感に動揺することしか出来なかったが。
絶望、羨望、失望、恐怖、侵犯、父さん、父さん、父さん、父さん、父さん!
「ナオト、何をしている……いや、何をされている!?」
サイの隣で、ハマーの足がジタバタと動く。どうやら同じナオトの感情を見たらしい。
そして彼はサイよりも激しく、その感情に抵抗を示していた。「畜生! ロゼと同じことを、親父がやりやがるだとっ」
その時だった。やっとサイがハマーを脱出させかかった瓦礫の上で、突然モビルスーツのマニピュレータの駆動音が響いたのは。瓦礫の間から漏れていた光が一瞬消え、その代わりにかなり強引に鉄骨を押しのけ、黒いマニピュレータが元気よくサイの上で動く。
「あれは──広瀬少尉のウィンダム!」山神隊だ。生き埋めの恐怖から、やっと自分たちは解放されたんだ。
<いい加減、救助隊を救出するような矛盾は勘弁してもらいたい!>
皮肉めいた広瀬の怒声が、サイたちの上を流れた。


ナオトの居場所に最初に突入したのは、ティーダだった。
問答無用で防音壁とガラス棚をぶち壊し、マユは感情の赴くままティーダを駆り、標本の群れの中へ侵入していく。
「ティーダ! 噂にたがわぬ素晴らしい輝きだ、二つの希望を同時に目撃できるとはっ」
変な白衣のおじさんがこっちを見上げて喚いている。あのどす黒い感じはこの部屋から来たのに、ナオトは何処? マユはティーダに備えつけられた24個のモニターでナオトを探る。
あそこだ。あの変なおじさんのすぐ手前。
倒れてる。何だろう、あのワンちゃんたちとお相撲でもしてたのかな? あはっ、ワンちゃんの圧勝だね。押し倒しでナオトの負け。ズボンまであんな風に破いちゃって、あとでまたフレイに怒られるよ、ナオト。疲れて寝てるのかな? 目は開いてるけど。
それにしてもナオトの太ももの内側って、白くてすべすべしてそうで、女の子みたい。触ったら気持ち良さそう。
だけど、あの血は何だろう? あのおじさんが嬉しそうなのは、何故?
ナオトの目から流れている水は何? ワンちゃんたちがナオトを抱きしめて離さないのは、何故?
そしてマユは気づく。自分を襲ったどす黒い感情の正体を。こちらを見上げて手を上げて笑う白衣のオールバック。
「ワンちゃんじゃ、ない……?」
マユは自分でもよく分からないうちに、モニターに見入っていた。その中でゆっくり顔を上げる「ワンちゃん」の胸は、実にふくよかだ。フレイの胸とそっくりだった──
部屋に充満し、マユの心に侵入していたどす黒い空気が、マユ自身の感情を呼び覚ましていく。彼女自身が全く知らないはずの感情を──それは気化したガソリンのように、マユの心で渦を巻く。あとは、ほんの少しの火花を待つだけ。
──君は、そんなに人が傷つくのを見たいの?
──僕は、君がいなくなったら悲しいんだ。君が好きだから!
──僕の大切な人は、モビルスーツに踏まれて亡くなった。
意味の分からない感情の流れの中へ、ナオトの言葉が閃光となって散っていく。
「おじさん、ナオトを踏んだでしょ。
ナオトは言ってたんだよ。人を踏んだらいけないって」呟くマユの顔に、いつもの無邪気な笑みは全くなかった。


「何も感じませんか? 広瀬少尉。嫌悪感のようなものを」
広瀬のウィンダムのマニピュレータに乗せられながら、サイは大声でコクピットに叫んだ。
<イヤというほど。あの死体の状態を見たか、どう考えてもガス爆発じゃありえん>
「そうじゃないんです。身体から何かが抜けていくような」
<力は抜けるよ、どうせ報道は不慮の爆発事故だろうしな。それよりフレイ嬢がまだ現場にいる、このまま援護に回る、つかまってろ!>
ウィンダムのマニピュレータには、一緒にハマーが乗せられている。足の負傷はそれほど酷くはなさそうだ。連合機に乗せられ相当不機嫌そうではあるものの、暴れてはいない。


ティーダに続いて突入してきたのは、フレイのアフロディーテにカイキのソードカラミティだった。
割れているガラス棚。充満しているホルマリン。流れ出している無数の脳みそ。中心で棒立ちになっているティーダ。そしてティーダの輝きに喜びの声を上げている白衣の男。そのそばでは──
フレイは即座に状況を悟った。自分やカイキの味わった嫌悪感の正体を知った。
白衣の男はアフロディーテの登場に一旦は驚愕したが、すぐに弾けたような笑みを見せる。両手を挙げてアフロディーテに向かって拍手をし、男は言った。
「姫! ご覧下さい、素晴らしき私の息子です。感謝いたします、よくぞここまで連れてきて下さった。このように、花嫁と会わせました」
そして男は、そばで静かに俯いていた獣──強化人間のなれの果てを、フレイに突き出した。その獣は血に濡れた牙もそのままに、何も吼えずに自分の腹をさすっている。
「SEEDの存在を見破った姫の眼力、さすがです! 採取は既に完了しております、新たな研究の認可をっ」
フレイの眼は男を見てはいなかった。花嫁と呼ばれた獣も見てはいなかった。ただ、男のそばで倒れている少年を凝視していた。そして──
「第103号通達が行き届いていないようだな。息子を汚すような不届きな父親に、姫と呼ばれるいわれはない!」アフロディーテが男に向かってマニピュレータを振り上げ、そのまま叩きつけようと動く。
だが男が血相を変えた瞬間、横から大音響と共にウィンダムが飛び込んできた。その掌に乗っていたサイは全力で叫んでいた。「やめろフレイ! そんな風に人を殺すなっ」


姫──
一瞬聞こえた男の言葉を、サイは聞き逃さなかった。ホルマリンと血の臭いが充満する大部屋で、サイはフレイが男の上にアフロディーテの拳を振り下ろす光景を見て──たった今、何とか自分の叫びでそれを止めた。
何と言った、この男は。フレイが姫?
姫というより女王という形容の方がフレイにはふさわしいだろうに。そういえばフレイは、学生時代は女王様と言われていたことも──
サイがそこまで考えた時、ハマーが絶叫した。ウィンダムの眼下の光景を見て。
「畜生! 何で同じなんだ、ロゼとっ」
そのままハマーは頭をかきむしり、展開される光景から全身を守るようにうつ伏せになった。サイは反射的に頭を回す。そうだ、ナオトは──
ほどなくサイはナオトの姿を眼下に見つけ、ハマーの言葉の意味を知った。フレイが白衣の男を殺そうとした理由も。男はまだアフロディーテに喚いている、「何故です! SEED保持者の遺伝子は、お父上が何よりお望みのはずっ」
幸か不幸かその時のサイにはもう、男の言葉は聞こえていなかった。ナオトの状態を見た瞬間、サイの理性も吹き飛んでしまったのだ。
肩からひきちぎられ、布切れとなってナオトに張りついている制服。両肩は血にまみれ、その手は胸元のお守りだけを握り締め、ウィンダムの掌から見ても分かるほどにがくがく震えている。表情はよく見えないが、その腹から下をちらと見て──サイは目を瞑った。
人間として、見てはならないものだ。その光景を網膜に映し出すということを、サイの神経は拒絶していた。
ここにラミアス艦長がいなくて良かった。ナオトのこの状態を彼女が目撃すれば間違いなく、ローエングリンをあのオールバックの白衣の男にぶっ放していただろう。
あのハマーが号泣まで始めている。この光景が、ハマーのトラウマを刺激してしまったのだろうか。
そんな彼らの目の前で、突然ティーダが動いた。サイやフレイの怒りを吸収するように装甲が輝き、右腕のトリケロスが持ち上がる。
<マユ! やめろ、お前は怒りなんか覚えちゃいけないんだっ>ソードカラミティから、カイキの痛切な叫びが響く。
悲鳴にも似たカイキの声に我に返り、サイも絶叫する。「いけない! 今のナオトの前で、父親を殺しちゃ──」
だがティーダはその動きを止めず、高エネルギーレーザーライフル、ランサーダート、ビームサーベルを搭載した右腕の攻盾システムトリケロスの全重量を、白衣の男の上に叩き落した。


「レポートをしろ。見たままの事実を話せ、その為に貴様を連れてきたのだからな」
飛び散った父親の死体を前にして、フレイがナオトに開口一番に言った言葉がそれだった。
全ては終わり、工場は山神隊やシュリ隊の手で消毒作業が行なわれている。カイキはハッチを開いてティーダの様子をうかがっていたが、ティーダの中のマユはまだ降りてこようとはしない。
サイに介抱され、彼の作業着を借りたナオトは、絶対に表情を他人に見せようとはしなかった。ただ沈黙を守り、作業着の胸元をきつく握り締めたままだ。その手に握られたお守りは、紐が外れかかっている。
「フレイ! 無茶だ、この状態が見えないのかっ」
剥き出しになったナオトの両膝は涎で汚れ、未だにガタガタと震えていた。サイの一言に、フレイは──彼女にしては珍しく、ぷいと顔を背ける。「無理にとは言わぬ、3日以内にまとめれば良い。ただ、事実を語れ」
「フレイ嬢、無駄なことはしない方がいい。既に報道管制は敷かれているんだ」作業用ミストラルでガラスの撤去作業を行なっていた広瀬少尉が、一旦手を止めて声をかける。だがフレイは聞かず、さらにナオトに言った。
「痛みと戦うことが出来るのは、痛みを知る者だけだ。壊れた父親の所業を語ることが出来るのは、貴様だけだ。口をつぐまずに語ることこそが、貴様の務めだろう。子鼠から人間になりたければ、語れ」
「今言うことじゃないっ」サイがフレイに噛みつきかかったが、その前にナオトの頭がゆっくりと動いた。
「やります。それ、僕の仕事ですから」
その表情に、サイは一種の恐怖すら覚えた。泣いてもおらず、怒ってもおらず、表情が消えているような状態でもない──ナオトは、笑っていたのだ。
ナオト、泣いていいんだ、拒絶していいんだ、見るなと叫べ、ここで耐えるのは強さなんかじゃない!
サイは叫びたかった。しかもこの満面の笑みはなんだ。
相手を完全に拒絶する笑顔という不思議な表情を、サイは初めて目にしていた。

 

つづく
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