「人がいいにもほどがありませんか」
暴れるサイをハラジョウから追い出した後のフレイを待っていたのは、ニコルの車椅子の電動音と膨れっ面だった。
だがフレイは気にせず彼のそばを通り過ぎ、ブリーフィングルームへ向かう。ネオがぶちまけた水がそのままになっている部屋へ。
隅のモニターのスイッチを入れると、フレイの眼前にアマミキョ外部の風景が映し出された。建てられたばかりのプレハブが映る画面の端で、頼りなく転がるバスケットボール。点滅する街灯の下、無邪気にそれを追う黒髪の少女。マユだ。
「何もあそこまでバラさなくても。母上様に知れたら、何と言われますかね」唇を尖らせながらも、ニコルはやや軽い口調で言う。だが次の瞬間、彼はその口を噤まされてしまった。フレイの視線一つで。
「……申し訳ありません」獰猛な彼女の眼光の前では、ニコルは慌てて布巾を取り上げ、水が流れ落ちるままになっていたテーブルを拭くことぐらいしか出来なかった。「ただ、早すぎると思いまして」
「チグサ計画の進捗を考えれば、遅すぎるくらいだ。あの二人には特に認識させておいた方がいい。心配せずとも、彼らは口外はしない」
「知ったのは彼らだけじゃありませんよ。ナオト君に女医さんも」
「いずれ世界が知る事実だ。今だって似たようなものだろう、特にタロミの周辺では」
画面の中でバスケに興じていたのは、どうやらファントムペインの連中らしい。腰に手を当ててマユを怒るのは、跳ねた水色の髪の少年。それを宥めるのは丁寧に整えられた短髪の少年だ。
フレイは顔をモニターに近づけ、マユの様子を凝視する。マユを見る目には何の感情も映し出されてはいない。その時ちょうどマユたちに声をかけた者がいるらしく、彼らは画面外に手を振っていた。
音声は切ってあるが、おそらく彼らはそれぞれの保護者を見つけたのだろう。フレイが細い指でマウスをいじると、カメラがマユを追っていく。脚も靴下もスカートも泥にまみれて真っ黒だったが、マユは元気いっぱいに地表を駆けて行く。
その先に映し出されたのは、ネオとサイの姿だった。サイに突進していったマユは何事かを彼に尋ねている。音声などなくとも、マユの言葉は口の形ですぐに分かる。ナオトは。ナオトはどうしたの?
「カイキとの条件づけが、ここにきて乱れてきたか」きゃっきゃと猿のように跳ねるマユを見て呟くフレイに、ニコルは笑みを作ってみせた。「ティーダの件もあるでしょうが、これも原因かも知れませんよ」
ニコルはフレイの気を引くように、膝に乗せたままのノートパソコンをフレイに向けてみせる。傍から見ると、姉に褒めてもらいたがる幼い弟のようにも見える。だが会話の内容はなかなかに物騒だ。
「先日の、オーブ海域におけるミネルバの戦闘です。連合の新型のカニと、インパルスの映像……見てくださいよ3分46秒付近、陽電子リフレクターを突破したあたりのインパルスの動き」
フレイはその言葉に、つと立ち上がりニコルに顔を寄せた。正確にはニコルの手元のノートパソコンにだが、彼女の艶のある紅の髪がニコルの頬を微かにくすぐり、彼は思わず笑い声を上げてしまう。
フレイはさりげなく自分の髪をかきあげながら、インパルスの映像を注視していた。
「血塗られた種が、また弾けたか……分離機能すら使いこなせなかったひよっ子が、短期間でよく成長したものだ。陽電子砲を撃たせてエネルギーに乗じ、自らリフレクターを突破するとは。面白い、シン・アスカ」
フレイの胸と肩がわずかに揺れ出す。どうやら笑いを抑えきれないらしい。「全ては回り出している。順調すぎるほどだ」
彼女はこみ上げる嬉しさを押し殺すように手で口元を押さえると、もう一方の手で力強くニコルの肩を揉んだ。今度はニコルは軽く悲鳴を上げてしまった。
「御苦労だった。お前が何の手土産もなしに不満を垂れ流すはずがないぐらい、承知していたぞ」


さらに数日ののち。
いつもの直射日光の下で、シュリ隊は海岸の修復作業にあたっていた。
プラント落下、それに続く開戦から早くも2ヶ月が経過しようとしていたが、壊された海岸に打ち上げられた堆積物はいっこうに減る気配はない。何しろ、海岸線自体が大きく変わってしまうほどの津波に洪水だったのだ。
流された家、道路、木、街灯、旅館、小売店の残骸を大量の泥が押し包み、新たな海岸線を形作っている。日光と海水の下で、少し前までは確かに人間の生活に使われていたであろうそれらは腐臭を放ち、小さな虫が群れをなして飛び交っていた。
だがそんな中でも、ナオトは元気いっぱいにレポートを行なっていた。濁ってはいるが広大な海を一望できる崖の上で、ミゲルの携えたカメラを前にナオトははしゃぐように喋り続ける。「シュリ隊は本日もここ、チュウザンの太陽のもと、毅然として活動を行なっています。現地の子供たちとも協力し──」
カメラやナオトの制服が珍しいのか、彼の周りには数人の子供たちが群がっている。ナオトやミゲルに無邪気に抱きついたり、カメラをのぞきこんだり、イタズラのし放題だ。そんな子供らを宥めすかしナオトから遠ざけながら、ミゲルは思わず苦笑する。片腕がありゃ、ナオトを映しながら子供らに飴をやるなんて芸当も可能なのだが。
「連合軍の駐屯部隊も次々に到着し、現地で頻発していたテロもようやく沈静化の兆しを見せ始めています。太陽は空で燦々と輝き、先日までのスコールが嘘のようです!
復興作業も順調に進み、ごらんくださいっ連合のミストラル、オーブのアストレイが積極的に手を取り合い、海岸の港湾施設の復旧に当たっています」
ナオトは大仰に手を振り回し、日当たりのいい崖の上でカメラの前ではちきれんばかりの笑顔を見せる。
レポート内容に嘘はない。フレイと山神隊の注文通り、オーブと連合との協力体制を強調している。実際、到着時からは考えられぬほど復興は進んでいる。アマミキョの設備によるものも大きいだろう。そして連合との協力も。特に山神のウィンダム部隊にファントムペインの新型の脅威のおかげで、頻発していたテロは当初の40%にまで減少している。
しかし、とフレームの中のナオトを眺めつつ、ミゲルは思う。つい先日まで連合とオーブの条約締結をあれだけ嫌がっていた癖に、この変わりようは何だろう。あの事件の影響だというのか。ミゲルもその明るさには若干不気味なものを感じ始めていた。


ナオトが振った腕の先の崖下で、サイは堆積した汚泥の掘削作業にあたっていた。
岩が入り組んで海岸の形をなし、日光もあまり届かないその場所で、サイたち作業員はいつもの如く泥にまみれて堆積物を取り除く。地盤が荒く、ここには容易にミストラルなどの大型作業用機械は持ち込めない。人海戦術で辛抱強く掘り起こしていくしかなかった。
ふと作業の手を休め、サイはレポート中のナオトを見上げた。
──何故、そこまで笑顔を見せられる。
日光を全身に浴びて輝いているのは海岸だけでなくナオト自身もそうだったのだが、光が強ければ強いほど日陰の暗さはこたえるものだということを、サイは知っている。
部屋に閉じこもるか、いつか俺に当たった時のように暴れてくれた方が、まだ気が楽なのだが。サイはシャベルを力なく動かし始める。
この前のフレイの話も、サイの中では整理しきれていない。SEED、ラウ・ル・クルーゼ、ネオ、空間認識──そして、キラ・ヤマト。
彼に関する記憶はどこまで戻ったのだ。ザフトやドミニオンにいた時のことを思い出せたということは、もう少しでアークエンジェルでの記憶も完全に戻るはずだろう。記憶が完全に戻ればフレイも戻ってくるに違いないと、ついこの間までは単純に信じていた。
しかし未だに元のフレイが滅多に出現せず、強化されて植えつけられた「姫」な人格のフレイが超然としてそこにいるということは──
その時サイは突如、上からバケツ一杯分ほどの海水をぶちまけられた。いつの間にやら、作業中のサイのすぐ上の足場に他の作業員たちが集まり、サイを睨みつけている。
「ザフトのみならず、連合のお偉いさんにも媚売りかっこの八方美人野郎!」
アストレイ出撃事件をきっかけに、サイのアマミキョ内部での立場は若干良くなりかけていたものの、それは最悪の状態を少しばかり脱したというだけのことだった。ハマーがしばらく姿を消したことで表立ってサイを攻撃する者は減ったが、それでもサイに疑いの目を向ける人間はまだまだ多い。
「またアマクサ組に何か言いやがってたな、連合のダンゴ虫仮面と一緒に! フレイのストーカー気取りかどうか知らねぇが、てめぇが文句言うたび俺らの待遇までダダ下がりなんだよっ」
一発拳が飛び、サイが岩場の間に倒れそうになったその時──ゴム長靴の足元を、誰かに掴まれた。
サイの身体はそのまま一気に、ゴミだらけの海中に引きずりこまれる。
こんな子供のイジメのようなくだらない騒ぎには耐性は出来ていたつもりだったが、突然の水責めに耐えられる人間はそうそういない。しかもそこはつい先程、巨大な牛ほどもある黒いゼラチン状のものを何体か掘り起こしたばかりの場所だ。黄ばんだ骨が何箇所かから飛び出している腐ったゼラチンを。破れかけた布地が貼りついているゼラチンを。あれを見て、サイと一緒に作業をしていたカズイや他何名かはその場で吐き、逃げ出してしまっていた。
引っ張られるままになったサイが海中で何とか目を凝らすと、まだ浮いたままになっている同じようなぶよぶよの物体がいくつか見えた。呼吸が詰まる。汚れた潮、沸き立つ無数の泡の向こうに、自分の足を掴んでいる奴らがぼんやりと見える。ウェットスーツを着た作業員が二人。
憎しみより先に呆れ返っている自分に、サイは気がついた。
──俺にSEEDとやらがあれば、彼らもこんな馬鹿な真似をしなくなるだろうか。


ナオトのレポートはまだ続いていたが、彼もミゲルもやがて崖下の異変に気づいた。
あそこにはサイがいたはずだ。ミゲルはカメラをそのままにして下を見る。案の定、サイがハマーの手下らしき作業員どもに、海に引きずりこまれているようだ。
やれやれ、まだやってたのか──ミゲルは嘆息を隠せない。コーディネイターだのザフトだの連合だのナチュラルだの、くだらん嫉妬にこだわる人間どもの浅はかさには呆れる。
ほぼ全員が一度死んだ身であるアマクサ組は、あのような小さな感傷の衝突を一歩引いて見ることが出来る分、マシというべきか。この分では、チグサ計画はもう少し前倒しした方が良さそうだ。
ミゲルはカメラを切ろうとしたが、ナオトは身振りでそれを制した。続けてください、とでも言うように。そしてさらに彼は、ミゲルが目を剥く行動に出る。崖の端で、ナオトは踊り出したのだ。
「この地へ来て、今日ほど気持ちいいと感じた朝はありません! 海風、陽光、潮のにおい、惨劇などなかったかのようですっ」
実際には直射日光下で作業員たちの不快指数は最高値の更新を続けており、死臭混じりの風はお世辞にも爽やかとは言えなかったのだが、ナオトは気にせず軽やかにくるくると両腕を広げて回り始める。その姿は無邪気な子供そのものだ。
ミゲルは瞬時にナオトの目的を察した。いやちょっと待て、いくらなんでもその方法は馬鹿すぎやしないか? 
しかしミゲルが慌てて止めに入るより早く、予想出来た事態は発生してしまった。面白がってあとに続こうとした子供らを止めるぐらいが、ミゲルには精一杯だった。
ナオトは回りながらそのまま崖から足を滑らせ──5メートル近くは真下、サイのいる場所へ落下したのである。


ナオトが盛大に水柱を上げてくれたおかげで、サイはようやく作業員の手から脱出することが出来た。
一瞬何が起こったか理解出来ず、サイは必死で水をかいて何とか水面に顔を出す。肺が猛烈に熱く、全身の血が煮えたぎっていた。未だ癒えていない傷口からも海水がしみこみ、その痛みを冷ますように身体中の体液が忙しく動く。畜生、これでまた傷の治りが遅れる。何とか作業が出来るまでには回復してきたというのに。
「なーんかシラけちまった。やめやめ!」という作業員たちの声が聞こえる。突然落ちてきたナオトに興ざめしてしまったのだろうか、面倒そうにその場を離れていくようだ。所詮加害者にとってはその程度の行為だ。
サイは海水やゴミを乱暴に頭から振り払いつつ、海面から顔を上げる。すぐ目の前に、頭からぼたぼた水を垂らしたナオトが笑っていた。
「ここがちょっと深いこと、知ってて良かったです」
サイはその一言で、すぐにナオトの目的を悟った。「この、馬鹿が」息を弾ませながらサイは呟く。ちょっと落下地点がずれて岩場に激突したらどうする気だったのだ。
しかしナオトは笑顔を崩さない。右腕を突き出してピースサインまでしてみせる。「言ったでしょ、必ずサイさんを守るって!」
その袖には、黒いゼラチンの塊がくっついていた。かつて人体の一部をなしていた肉が。


スティングとアウル、そしてマユが作業をさぼって太陽の下でバスケに興じる中、ステラは草原に座り、ノートパソコンのモニターでナオトのレポートを見ていた。
おせっかいのマユが強引にステラに見せたものだったが、ステラはテレビ番組はそうそう嫌いではない。いつも見ているものは環境ビデオか訓練用ビデオばかりだったので、外に出た時に見るテレビは彼女にとってはどんなものでも新鮮だった。ただ「死」に関する言葉や会話だけは、ネオの不在時はスティングたちが絶えず気を配らねばならなかったが。特にお笑い番組はいつ「死ね」などと言い合うか分からないから困る。
スティングは一旦ボールをアウルに回し、ステラの様子を確認した。幸いなことに、ナオトのレポートはステラにとってはそこそこ楽しめるらしい。しかも「面白そう……」とまで呟いている。
気になったスティングとアウルは、バスケをやめてステラの背後から覗き込み──
仰天した。こともあろうに、レポーターがくるくると崖で回って転落していたのだ。
直後に中継は終わってしまったが、ステラは無邪気な瞳で最後までじっと画面を見つめており、案の定言い出した。
「スティング、あれやってみたい」
「よせやい、お前泳げないだろ」間髪入れず止めたのはアウルだ。スティングも思わずこめかみを押さえる。「引き上げる奴の身にもなれって」
と、スティングの頭に真新しいバスケットボールがぶつけられた。ファントムペインたる自分に、こんな無礼かつ暴力的行為をかますのは──
「スティングー、ドリブルのやり方教えてよっ」マユが腕を振り回し、待ちくたびれて騒いでいた。
ネオは作戦会議中。マユのお目付け役のはずのボサボサ頭も船に引きこもってやがる。何が悲しくて俺が二人も大きな赤ん坊を抱えねばならんのだ。
スティングは仕方なくボールを取り上げる。ぴょんぴょん飛び跳ねながら待っているマユを見ながら、彼はふと思いつき──意味ありげな笑いを見せた。「よし、お手本を見せてやるよ」
日光と蝉の声が交錯する草原で、スティングは華麗なるドリブルを見せつつマユのすぐそばを通過し、その隙に思い切りマユの短いスカートを払ってみせた。白い太ももと──「おう、イチゴか!」
土を蹴り上げ、スティングは素早くターンをしてみせてマユの反応を確認する。そこに展開された光景は──
ある程度予想は出来ていた状況だった。しかしスティングははっきりと、自分の中の男が絶望するのを自覚した。
この行為に対してそんな反応があるか。かつてステラにやった時のように、逆上されて刺されかかる方がまだマシというものだ。
マユは、笑っていたのだ。さっきと全く変わらずに。
アウルがスティングの気分を察したか、後ろからマユに近づいて今度は堂々とスカートをめくり上げてみせた。可愛らしいイチゴが日の光のもとに晒される。
ところが、アウルの腕はスカートを掴んで上がったまま。マユの反応もそのまま。ステラはパソコンを見つめたまま無反応。
こんな状況があっていいのか。ウィンダム30機を3分で撃破されるより、あってはならない状況だ。
それでもマユは、アウルの行為の意味も分からずにきょとんとしている。思わずアウルは怒鳴った。「少しは恥ずかしがれよ、やりがいねーな!」
本来怒鳴るべきはマユの側のはずなのに。しかもこともあろうに、マユはイチゴをさらけ出したまま、スティングたちに言い放ったのだ。「恥ずかしがらないといけないの?」
「俺らが女に求めているのは、恥じらいでもあるんだ!」気がつくとマユの襟ぐりを掴み、スティングは叫んでいた。魂からの叫びだった。多分俺の目は充血している。
「そーそー、めくった瞬間に顔を真っ赤にして白いレースを隠す、それこそが男のロマンなんだってば」アウルもスティングに顔をくっつけ、ここぞとばかりに加勢する。スティングほど必死ではないが。
その時だった。アウルとスティングは二人仲良く、背後から頭にゲンコツを喰らった。「作業どころか邪魔ばかりして、何をやっているの貴方たちは!」
鬼のような形相で立ちはだかっていたのは、アマミキョの看護士・ネネだった。
「いってーなァ! だいたいアンタら、ブリッジ組以外女はズボンかショートパンツばっかりだし、つまんねーんだよっ」
「貴方たちみたいな人がいるからよ! この前なんか覗きやってたって言うじゃない」スティングの抵抗を、ネネは素早く封じる。だがアウルが横やりを入れた。「アンタらのぶっとい足なんか見たってあんまり面白くなかったけどな」
ネネの顔がみるみる怒りで真っ赤になる。そうそう、これが通常の女の反応だ。スティングはようやく調子を取り戻し軽口を叩く。
「最近じゃザフトの赤服にだって超ミニがいるって噂なのに、地上ってのは悲しいねぇ〜」
「せっかくの南国なんだ、もうちょっと開放的になったら?」つられてアウルも調子に乗った。
その時には既にネネの頬は、赤から黒に変化しかけていた。「貴方たちをやってから、そうさせてもらうわ!」
およそ看護士とは思えぬ台詞と共に、スティングとアウルの頬が張られた。
かつてのレイダーの破砕球もかくやという程の強烈なビンタを浴びつつも、スティングは思った。普通の女の反応を拝めて、良かったと──


河原の丸い石の上に飛び散った大量の鮮血を見て、サイは自らの中に眠っていた攻撃衝動を自覚した。
猛暑の中で異臭を放つ血、その上で引きずり出した内臓の一部がのたうちまわっている。振り上げた凶器から逃げまどい続けたこのぶざまな敵に、サイはようやく致命傷を与えたのだ。サイはようやく、それまで苦しめられてきた醜い相手に、思う存分反撃する機会を得られたのだ。
サイは容赦なく相手の臓物の中に手を突っ込み、さらに腸管らしきものを引っぱり出した。畜生、こいつの体はもっと小さいと思っていたのに。内臓の持ち主の命はとうにサイの刃によって断たれてはいたが、その肉は強情にサイに抵抗を続ける。さすが、つい先程までサイを苦汁をなめさせてきた相手だ。またしても血の筋が数本空を切り、サイの手や顔にかかった。
眼鏡もビニル製の手袋も血に濡れ、サイは全身、血染めの鬼と化していた。隣のナオトも似たようなものだったが、それでも彼は懸命にサイを手助けしようとする。殺しの手助けを。「サイさん、その刺し方じゃ無理なんじゃ」
「お前はいい、もっと湯を沸かせ! これだけ殺っちまったんだっ」手強い相手から流れる体液を、既に使い物にならない雑巾で処理しつつ、サイはナオトの向こうでゴウゴウと燃えさかる炎を眺めた。その上にかけられた巨大な鍋から、蒸気が血煙と共に青空へのぼっていく。さっき俺が海で味わったのと数百倍の辛さを、こいつらは今から味わうことになる。
素早く即席井戸へと飛んでいったナオトを尻目に、サイは足元の大桶からまた死体を引きずり出す。
いや、死体ではない。まだ生きている。顔は半分叩き潰したものの、脚はまだジタバタと動いていた。構わずに勢いよく台に叩きつけ、情け容赦なく包丁を突き立てる。サイの心臓までも破らんばかりの悲鳴が空を、森を裂いていく。その絶叫も、既にサイは聞きなれてしまった。
その間にナオトは戻ってきて火のそばへ近寄り、沸騰し続ける鍋に息を詰めて水を注いだ。その場の気温はおそらく50度を超えているだろう。
サイもナオトも異常な暑さの中で、奇妙な歓喜に酔っていた。ナオトは相手の脚をおさえつける。刃の血を一旦拭いて、サイは一気に相手の白く膨らんだ腹、胸、太い首に刃を叩きつける。馬のように暴れる脚はナオトの手を払い、サイの顔を蹴り飛ばす。それがサイの衝動を加速させた。
相手にのしかかる勢いでサイは包丁に力をこめる。硬い肉はそれでもちぎれず、サイは遂に台に乗り上げ、相手に馬乗りになって全体重を刃に乗せた。どこかでカズイの悲鳴が聞こえた、陰で覗き見でもしているのだろう。
俺はこういうことに関しては不器用だ、一息に死に至らせることなど出来はしない。相手は完全に内臓、腸の中身までも流出させているというのにまだ腿を動かしている。身体というものは、意外と丈夫に出来ているものだ。
サイは自分でも驚いたことに、笑っていた。台の上に横たえた犠牲者から、ズタボロになった血管と内臓と脂肪分が体液と一緒に溢れ、サイの足元の岩場へ流れる。既にそこには死者たちの腸や心臓、破砕された血管などが大量に流れていたが、サイは遠慮なくその物体の上に飛び乗り、踏みつぶす。そこ以外に足の踏み場がないのだ。靴の裏に血がこびりつき、歩くたびに岩に靴がくっついていく。
「ナオト、楽しいか!?」「はいっ!」サイの狂った問いに、ナオトもまた狂った答えを返す。「今度はかなりデカブツだ、暴れないよう注意しろ!」「はいっ」
何度も拭いていたつもりだが、もう包丁は血糊のせいで使い物にならなかった。サイは汗まみれの拳を直接相手の中へ突っ込み、肉をえぐり出す。筋が切れていく手ごたえがサイに直接伝わっていく。同時に生暖かい体液が猛烈な臭いと共に、二の腕あたりまで突っ込まれたサイの手を包む。
「石で潰すの、今度僕にやらせて下さい!」いい加減疲労困憊しているサイを見かねたのか、ナオトが元気良く言い出した。「駄目だナオト、お前はそれだけはやっちゃいけない」「トラウマが心配ですか? 大丈夫ですよ!」ナオトがサイの横で桶から新しい死体を引きずり出し、サイよりも手際よく掌ほどの石を振り上げ、その頭を叩き割った。
その一方でサイは遂に胃の部分をさぐり当て、予備のナイフで切り刻む。だが今度は体液ではなく、何かが這い回るようなおぞましい感覚がサイを襲う。
消化し切れていなかった大量のミミズが、サイの腕を這い上がってきたのだ。


「……なぁ、カズイ。河原の楽しい料理教室がどうして、血で血を洗う惨劇の現場になってるんだ?」
「え? アレ、料理教室だったんですか……?」
岩場に隠れ、現場から10メートルは離れて様子を見ていたカズイの背後から、いつの間にかオサキとヒスイがこわごわ顔を覗かせていた。
「利用できるものは何でも利用しようというのが、サイの方針ですからね」目の前の光景に恐れおののきつつも、カズイは何とか状況を説明する。「それにしてもサイの奴……狩りに相当苦労してたからこの段階で暴れたくなるのは分かるけど、不器用すぎだろ」
ヤハラの川べりに作られた即席調理場は、既に死体処理場かお産間際かという状況を呈していた。
「ナオト君、大丈夫なんですか。あの事件からまだ……」意気揚々と血を浴びるナオトを、ヒスイは不安げに見る。カズイはその言葉を受けて俯いた。「ナオト本人がやるって言い出したんだよ。サイは止めたんだけど」
その時、彼らがさらに驚愕する事態が発生した。「ナオトぉ、見て見てー!」
マユがナオトに向かって走りこんできたのだ。それだけならいつもの風景だったのだが、この時マユはスカートを脱いでいたのである。
惨劇の現場に、喜び勇んで走ってくる下半身丸出しの少女。これは一体どこの猟奇ドラマだ。カズイは頭を抱えそうになったが、マユは一向に気にせず靴下で内臓を蹴散らしながら、調理場へ走っていく。ナオトが仰天して目を剥くのを尻目に、マユは元気よく叫んだ。「サイー、カエルスープまだ?」


「ごめん。思いつきがとんでもないことになっちゃったな」
凄惨な現場の清掃がようやく一段落した昼下がりの河原。サイ、カズイにそれからヒスイとオサキ、そしてマユは輪になって腰を下ろしていた。その後ろで煮えたぎる大鍋の見張り役はナオトだ。
「片付けする奴の身にもなれってんだ、全く」オサキがぶすくれつつ、川で洗ってきた布巾の山を乱暴に置いた。さっきまで血の塊のようだった布巾だ。
「まさかカエルがあんなに大きいなんて思わなかったよ。いくら突然変異種とはいえ……おいマユ、それは腹壊すぞ」「だってお腹すいたんだもん」
調理場からくすねた生肉を野生のネコのように齧ろうとするマユを諌め、サイはため息をつきながらも笑った。「駄目だ、君は人間だろ。だいたいどうしてちゃんと服を着てなかったんだ」「だってスティングが言ったんだもん。こうすればナオトが喜ぶって」
勿論マユの下半身にはナオトの上着がかけられている。「それで喜ぶような男に、近づいちゃいけないよ」スティングという少年は彼女に何を吹き込んでくれた。サイは頭痛を抑え切れなかった。
そんなサイを見ながら、ヒスイが珍しく自分から口を開く。「それにしても意外でした。生態系の破壊が一向に止まっていないとはいえ、まさかウシガエルがあんなに増えてるなんて……それを食糧として活用するべきだというサイさんの思いつきはとても良かったと思うんですけど」
そこでヒスイは口を噤んでしまう。けど、実行方法は明らかにマズかったと言いたいのだろう。サイは自分の手を確認してみる。未だにカエルの生臭さと血の跡は消えていない。
「それにしても楽しそーに殺ってたよなー。ナオトのストレス解消にもなって一石二鳥、ってとこか?」オサキが朗らかに笑いつつあぐらを組む。ショートパンツから露になった太ももが眩しい。川からの風もあり、幾分か暑さは和らいでいた。
「俺もちょっと楽しかった。刃を振るっても、人は誰も傷ついていないし。ナオトには荒療治かも知れないが、あえて似たような現場を踏ませるのも手かと思ったんだ。さすがに、積極的に頭を潰した時は驚いたけどね」サイは汲んできた水を飲みながら、鍋の番をしているナオトの背中を見やる。
「モビルスーツ戦で爆発されるくらいなら、ここで爆発させておく、か……」
カズイの言葉はサイに、スズミ女医の言葉を思い出させていた。明るく振舞ってはいるが、あの事件以来ナオトの行動は微妙にネジが飛んでいた。今朝の転落事故はその象徴だろう。
それがきっかけとなってサイはカエル狩りにナオトを連れ出すことになったのだが、それは果たしてどの程度のストレス解消になったのか。大量のウシガエルの血は、ナオトの癒しになりうるのか。トラウマが蘇ることをサイは恐れていたものの、今のナオトの様子には異常は見られない。
そんなサイの心境を知ってか知らずか、カズイがふと呟いた。「人間と思っていなければ、血は気持ちいいってことなのかな。衝動を爆発させるのは、それほど楽しいことなのかな。サイもナオトも楽しそうだったよな」
場の空気が、猛暑にも関わらず一瞬凍った。カズイは河原の丸石を意味なくいじりながら、なおも呟く。「きっとザフトも、ナチュラルをそうだと……ブルーコスモスも、同じように」「カズイ!」
サイがカズイの言葉を止めたが、その時背後から、マユ以外の全員をさらに凍らせる威力を持つ言葉が轟いた。
「通常作業もせずに祭りか。さぞかしうまい料理が出来たのだろうな」
そこに立っていたのは、紅の髪を颯爽となびかせた氷の女神──フレイ・アルスター。そしてマユのお目付け役・カイキ。
ちっ、と舌打ちをしつつオサキが立ち上がる。カズイは反射的に、サイやオサキの後ろへ回ろうと腰を浮かせる。ヒスイも同様だ。ただ、マユだけはサイに取り上げられた生肉に手を伸ばそうとして、今度はカイキにそれを取り上げられた。
「今は作業時間外のはずだ。君や隊長の許可も取っている」サイもまた、フレイの視線の前に堂々と立った。だが彼女はサイには目もくれず、その向こうのナオトへ歩を進めていく。
そして彼女は、鍋に夢中になって反応が遅れたナオトの背中に向かい、容赦ない言葉を吐いた。
「童貞卒業おめでとう。さっきは随分いい笑顔をしていたじゃないか」
ナオトの背が完全に固まるのが、サイの目からもはっきりと分かった。地雷と分かって踏んでいる、この女は!
「女の抱き方を練習するのは悪いことではない。良かったじゃないか、これで堂々とマユを抱けるぞ。強力なライバルが現れたものだな、カイキ」
「何を言っているっ!」仏頂面のまま何も言わずマユに上着をかけるカイキの代わりに、サイは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。ナオトはサイやフレイに背を向けたまま動かない。サイの方向からではその表情は分からない。いち早く危険を察知したか、カズイたちはその場から数歩離れていた。フレイは腰に手を当てたまま、さらにナオトの背中に言葉を刺していく。
「いい父親だったな。貴様のようなろくでなしの子鼠でも、女を抱かせてくれたとは。貴様はもう子供ではない。父親も殺した。女が殺してくれた。おめでとう」
ナオトに対しては見せたことのない笑顔、聞かせたことのない優しい口調。いや、一度だけこんな口調だった時があった。ナオトの過去をみんなの前で暴露した時だ。
あまりに残酷な言葉の一斉射に、サイが今度こそフレイの頬を叩くべきだと意を決した時──
ナオトが、振り向いていた。火にかけたままの大鍋を手にして。
その顔に、先程の笑顔は欠片ほども残されていない。相手を噛み殺そうとする猛獣の眼差しがあるだけだ。大鍋のサイズは赤ん坊が三人入りそうなほどもあったが、それを軽々とナオトは持ち上げていた。サイの視界の隅で、カイキがマユを下がらせている。カズイとヒスイの小さな悲鳴。
煮えたぎる大鍋を手に、ナオトはフレイを睨みつける。「どうして貴方は、人を傷つけることしか出来ないんだ!!」
絶叫と共に、ナオトの大鍋がフレイに向かって投げ飛ばされた。フレイの持つ氷の刃を消滅させようとでもするように、大鍋はナオトの怒りと共に飛ぶ。
爆発にも似た音と共に蒸気が発散し、大量の湯と共にバラバラとウシガエルの残骸が飛んでいく。サイの目から見ても隙だらけの攻撃だった。フレイは一旦体勢を低くして飛びのき、軽々とこの熱湯をかわしたが──
その一瞬こそが、ナオトの狙いだった。伊達に何度もモビルスーツ戦をしていない。
河原の丸石の上にうつぶせになったフレイ。その時にはもう、ナオトはまな板の上の包丁を掴んでいた。
「人の傷を踏みにじることしか知らない、人の痛みを笑うことしか知らない、あんたみたいな女はいちゃいけないんだ!」
悲鳴にも似た絶叫と共に、蒸気の中をナオトは走り出す。刃はまっすぐにフレイに向けられている。その頬を流れるものが汗でも蒸気でもなく涙以外の何ものでもないことに、サイは気づいた。
どこかで、これと同じような光景を見た気がする。アークエンジェルにいた時に──
あの時暴発したのは、フレイだった。止めたのは、最初にナイフを持ったミリアリアだった。
気がついた時、サイは走り出していた。一瞬反応が遅れたフレイはそれでも表情を変えずに、向かってくるナオトを凝視している。
駄目だナオト、フレイを傷つけてもお前がもっと傷つくだけだ。あの時のミリアリアはディアッカを守ろうとしたのではなく、フレイがさらに傷つくと気づいて彼女を止めた。あの時の俺はやっぱり何も出来なかった。そんな傍観者でいるのだけは、もうごめんだ。
それ以外のことを何も考えずサイはフレイに突進し、彼女を力いっぱい抱きしめた。


「大丈夫でしょうか? 彼らに追撃させるなど──」
「間違えるな広瀬少尉、追跡だ」
アマミキョが関わる今度の作戦に、山神隊の中で真っ先に疑問を提示したのは広瀬少尉だ。「しかも、自分らには残ってテロの掃討を続けよと? この国に必要なのはアマミキョじゃなかったのか」
「その為のアマミキョ分離機構だろうが」伊能大佐が広瀬の言葉を制する。「連合の俺たちが、オーブにそこまでする義理はないよ。既にアマクサ組には通達してある、今頃アーガイルやバスカークにも伝わっているだろう。どんなツラをするか、見ものだぞ」作戦を肯定しなおかつ茶化すだけの余裕を見せているものの、伊能の口調は若干の不満が含められていた。
タンバの作戦会議室で、山神隊はこの大事件及びそれに伴う追跡作戦を知るに及んで口々に驚きと不平を唱えている。正確には作戦ですらない。民間に全面委託してしまうのだから。
「彼らの関係者がいて、なおかつある程度の武装をしている民間船であるアマミキョにやらせるのは道理は通ります。今ならそれほど離れてもいないですし、アマミキョなら、確かに彼らも攻撃することはないでしょう。しかし……」
はっきりした意見を言えず口ごもる時澤軍曹に、風間曹長が噛みついた。「彼ら自体、道理の通る連中じゃないんですよ時澤軍曹。この事件見ても分かるでしょう、正気じゃないわ」
「ナオト君なら絶賛するだろうなぁ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」
黙って腕を組んだまま隊員の議論を聞いていた山神少将に、広瀬が勢いよく詰め寄った。「山神艦長、せめて自分をアマミキョ護衛に。いくらフレイ嬢とはいえ、こいつらの相手は無理です!」
「逸るな広瀬、戦闘が目的ではない」山神は頭をかきつつ広瀬を抑えるが、山神自身もこの状況には戸惑っている。広瀬の怒りは山神隊全員の怒りだ。これほどの馬鹿をやらかす連中を誰が想像出来ようか。条約締結寸前に、全くどえらいことをやらかしてくれたものだ、この連中ときたら。
「それに、道中だって何があるか分かりませんよ。奴らの行き先がユーラシア方面だとすれば、非常に危険です。ザフトの連中がうようよしていますし、アマミキョだって無事ではすまない!」広瀬は唇を尖らせ、なおも吠える。その広瀬の肩を、伊能が強引に制した。「落ち着け、フレイ嬢は快諾したんだ」
さらに反論しようとした広瀬の後ろから、風間も加勢する。「しかし伊能大佐、ファントムペインも残り数日でこの地を去ります。自分たちだけでチュウザンの拠点を守るのはやはり無理があります、アフロディーテにティーダ、カラミティが一斉に戦力外となると」
だが伊能は余裕を崩さなかった。「同時に残りの部隊も来る。ここが重要拠点という事実ぐらい、上層部だって知っているよ」
「真田のようなひよっ子が来ても、犠牲が増えるだけです大佐」風間が冷たく言い放つと、途端に時澤が噛みついた。「風間曹長、言い方を慎んでください。真田は立派に戦いました」
喧々囂々の議論が沸騰し喧嘩になりかけた隊員を制したのは、山神少将だった。
「ぐずぐず言っている余裕はない、この間にも連中は動いている。事件から分かる通り、野放しにしておけば何をしでかすか、予想もつかん。ウィンダム隊アマミキョ配備の件は上層部に請け合ってみる」


ナオトは茫然としたまま、自分の両手を見つめていた。血のついた包丁を握り締めたままの手を。
もうもうとたちこめる蒸気の中で、サイがフレイをかばって倒れている。その制服の右肩のあたりから、じわりと血が滲み出していた。
その血を見て、ナオトは包丁を落としてしまう。刃先はカエルの血糊で相当ボロボロになっていたが、そこに新たな血がついていた。ほんの2、3滴ではあるが、その血は確かに人間の血だった。しかも、守ると宣言したはずの相手の血だ。
ナオトは自分のやろうとしていた行為にようやく気づいた。幸いナオトの刃はサイの右肩をわずかに掠めるに留まったものの、そこら中に飛び散ったカエルの血より何より、サイの血はナオトにとって衝撃だった。
口から漏れていた呻きはいつしか意味をなさない絶叫に変わり、ナオトは力なく座り込んで青空を見上げる。
いつものように笑顔ではしゃいで封印しようとしていた痛みが、フレイの言葉で一気に蘇った。それを否定する為、自分は刃を振るった。それはこともあろうにサイを傷つけた。下手をすれば殺していた。自分はサイに、一緒にフレイを取り戻そうと約束したのに。サイは自分を励ます為に無茶をしてくれたのに。
胸のお守りを握りしめ、ナオトは傾きかける太陽を見つめる。誰かが大声で泣き叫んでいる。それが自分の声だということに気づくまで、ナオトは1分近くかかった。
いつから自分は泣いていたんだろう。父さんがマユに殺された時から? 父さんが狂ったと知った時から? 父さんに傷つけられた時から? 母さんが自分から去ってしまった時から? 
いや、もっと前からだ。自分は生まれてはいけなかったと知った時から──


サイたちの前でひたすら号泣を続けるナオトを、マユはカイキに抱きしめられながらも大きな瞳で凝視していた。
とうさん、とうさん、父さん……ナオトは確かに空に向かって叫んで、泣いていた。その光景がマユには不思議でならない。ナオトは喜ぶんじゃなかったの? わたしがスカートを脱いだら、ナオトは喜ぶんじゃなかったの、スティング? それともやっぱり、恥ずかしがった方がナオトは嬉しかったのかな。
ただ、彼女はおぼろげながら理解した。「父さん」という言葉が、ナオトにとってとても大切なものだということを。カイキのコートを掴みながら、マユは呟く。
「お兄ちゃん。私、ナオトの父さんを殺したんだね。だからナオトは、喜んでくれなかったんだ」


「大丈夫だナオト。俺は死んでないよ」痛みを押さえてナオトの両肩に手を置きながら、サイは笑顔を作った。「泣いてくれて、助かった。泣いてくれなきゃ、どうしようかと思ってた」
サイの言葉の意味をナオトは今ひとつ理解することが出来ないようだったが、それでもナオトを落ち着かせることが出来た。ナオトは泣きじゃくりながら、消え入るような声でやっと一つまともな言葉を搾り出す。「ごめんなさい」
彼らの周りに、カズイやオサキ、ヒスイが集まってくる。「サイ、傷は?」「心配しなくても、舐めてりゃ治るよこんなの。それよりカズイ、ナオトをスズミさんの所へ頼む」
背後では、フレイが悠々と立ち上がっていた。先程思い切り抱きしめたサイの痕跡を振り払おうとでもするように、制服についた砂を振り払う。
はずみとはいえ、俺はあの豊満な胸にもう一度顔を埋めてしまった。力いっぱい抱きしめた瞬間に軽く身体を貫いた快感を、サイは否定出来なかった。ナオトの刃はそんな俺への罰でもあるのだろう。
サイは静かに言い放つ。「わざとだろ、フレイ。爆発することを予想して、君はナオトにあんな……」
「答える必要はない」フレイの返答はあくまで冷たい。サイはなおも喰らいつこうとする。「ナオトの刃を君はよけられたはずだ。だがそうしなかった。ナオトに敢えて自分を傷つけさせることで、君はナオトを目覚めさせようとでもしたのか?」
それはSEEDの為なのか──サイがさらに問いただそうとしたが、フレイは遮った。
「二度も言わせるな、返答の必要はない。それより大分時間を食った、手短に伝えさせてもらうぞ……
我々は明日より、キラ・ヤマト及びアークエンジェルを追う。ついてこい、サイ・アーガイル」
そして告げられた事実はサイにとって、台無しになったカエルスープなんぞ世界の果てに放り投げてしまえるほどの大変事だった。


「なぁフレイ、冗談なら意味の伝わるように言ってくれ。笑えない」
「このようなくだらぬジョークを考えるほど私は暇ではない。しかし面白い奴らであることは間違いないと確信したぞ」
どこが面白いものか。アマミキョブリッジへの通路を足早に渡りながら、サイはなおも食い下がる。フレイの足取りは速く、サイは必死で大股で歩かねば追いつけない。
カイキはマユを連れてハラジョウへ引き、フレイとサイは久々に二人きりになっていた。だが、幾分か興奮し笑みさえたたえているフレイには、元のフレイが現れる兆しは全くない。
ユウナ・ロマ・セイランとの結婚式の最中に、カガリ・ユラ・アスハ代表が誘拐された。しかもテレビ中継もされている中で堂々と誘拐されたという。彼女をさらった犯人は、あの英雄・フリーダム。つまり──キラ・ヤマト。
アークエンジェル及び関係者もまたオーブから忽然と姿を消しており、彼らがカガリ姫誘拐の首謀者であることは間違えようのない事実だという。
「声明は? キラから、もしくは潜伏中のラクス・クラインから声明は出ていないのか?」
「そんなものが出ていればわざわざお前を呼ぶ必要などなくなる。奴らの目的を確かめる為に、お前には奴らと接触してもらう。拒絶は許さん」
サイは思わず壁をぶん殴る。
キラ──お前はいつも、いきなりが好きな奴だった。ストライクを動かした時も、俺たちを助けた時も、俺からフレイを……いや、そんなことはどうでもいい。
いきなりフリーダムで出現され、オーブ国民が見守る中で花嫁をさらわれたユウナの心境はいかばかりか。ユウナ・ロマ・セイランという男はサイもあまり好きではなかったが、さすがにこの件には同情を禁じえない。
せめて、カガリ代表をさらった理由を言ってくれれば。国民の多くが快く思わない結婚とはいえ、これはやりすぎだろう、キラ。セイラン家に恥をかかせる為か、カガリを傀儡にむざむざ仕立て上げられるのが面白くなかったのか──
目的は様々に考えられたが、いずれにしてもオーブは一大事だ。これを契機にセイラン家はさらに増長し、連合がオーブへの発言権を強化する可能性も強い。
そもそも何故またフリーダムに乗ったのだ、キラは。ラクスさんやラミアス艦長、砂漠の虎ことバルトフェルド──知った顔が次々に浮かぶ。平和になるまで、あの人たちと静かに過ごす──それがお前の願いだったじゃないか!
だいたい、アレックス・ディノは──アスラン・ザラは何をしていたんだ、こんな時に。カガリ代表の護衛じゃなかったのか。
「現在アークエンジェルはオーブ領海を脱出し、スカンジナビア領へ向かっていると推測される。アマミキョにとっても由々しき事態だ、お飾りとはいえ最大のスポンサーが誘拐されてはな」
言葉とは裏腹に、フレイはどこか楽しげでもあった。一旦足を止めてサイを振り返ると、尊大に胸を張ってみせる。「どうした、そのような顔をして。
私は嬉しいのだ──フレイ・アルスターの記憶が、SEEDをしょって戦いに出てきたのだからな!」

 

つづく
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