海上で待機中のミネルバに通信が入ったのは、シンとアスランが行方不明になってきっかり48時間後だった。メイリンが嬉しさを隠しきれないといった声色でタリアに報告する。
「潜伏中の南チュウザン艦より連絡! 現時刻より5分前、捕虜を解放したとのことです」
タリアの横からアーサーが身を乗り出した。「シンとアスランは?」
「あっ……只今、海中の機影を確認。無事です、生きてます!」
弾けるようなメイリンの声に、アーサーは勿論タリアも胸を撫で下ろす。ここ48時間張りつめていたブリッジの雰囲気が、一気にほどかれた。昨夜ヨダカが乗り込んできて、シンやアスランの行動に関して散々タリアたちを怒鳴りつけて以降、ミネルバはそのまま自爆してもおかしくないほど最悪な空気だったが。
「損害は、アソのグゥルだけで済んだようですね。良かった良かった」クルーを解きほぐす為、アーサーは大笑してみせる。尤も、グゥルの被害だけでもミネルバにとっては痛いのだが。
「問題は山積みよ。2機のデータは確実に取られたでしょうし、何よりパイロットの状況が分からない」そう言いつつも、タリアは苦笑してしまった。ここにヨダカがいなくて幸いだった。もしこのアーサーの笑いをヨダカに目撃されたら、この副長は蜂の巣にされていたに違いない。
アソはインド洋への逆戻りを余儀なくされるほどに損傷しており、ヨダカもミネルバをそのままにしてさっさと戻らざるを得なかったのだ。彼に出来たのは、シンやアスランを始めとするミネルバパイロットへの罵倒だけだった。
それにしても、突如現れたあの巨大潜水艦と空軍は何だ。ティーダとあの船の裏にあるものは何なのだ。議長は奴らが現れると知っていて、ミネルバやヨダカをティーダへ差し向けたのか。タリアは荒れた唇を噛むしかなかった。


ミネルバカタパルトにルナマリアが走りこんできた時には、既にセイバーとインパルスは帰還していた。コクピットからシンとアスランが降りてくる。ヨウランやヴィーノを始めとする整備士たちは歓声を上げて二人に駆け寄った。だが、メットを取った瞬間の二人の顔色は、お世辞にも健康的とは言えなかった。
「どうだった? あの光は防げたのか、シン?」ヴィーノが気を取り直し、急きたてるように言う。だがシンは、メットを取ったまま何も語らない。アスランが代わりに答えた。「心配するな、例の光は突破出来た。作戦自体は大失敗だったがな」
アスランはそれだけ言うと、そのまま黙り込む。ヨウランたちに礼の一つもないとは──軽い怒りを覚えたルナマリアだが、それだけアスランにも余裕がないのだろうと彼女は判断した。きっと、普段は大人なアスランを激しく動揺させた何かが、あの船であったに違いない。
そのルナマリアの心境を見透かしたかのように、彼女の背後からレイの声が響いた。「ザラ隊長。光膜突破後の作戦は、ヨダカ隊長とシミュレーションしていた筈です。シンと貴方が感情に走った為に、今回の作戦は全て無駄になった──我々は、そのように酷くヨダカ隊長から罵りを受けました。
あの後、何があったのです?」
ルナマリアを押しのけ、レイはアスランの逃げ道を塞ぐように彼の前に立ちはだかる。だがアスランの視線は、ルナマリアやシンは勿論のこと、目の前のレイすら見ていなかった。消えてしまった誰かを探っているようだ──ルナマリアは感じた。
やがてアスランは、ようやく一つの答えを押し出した。「分からない」
「はい?」ヨウランとヴィーノが、素晴らしいタイミングで仲良く奇声を上げる。が、アスランは淡々と説明を続けた。
「記憶がないんだ。自分らは甲板に着いて、ティーダの確保に入った。だが、それからの経過が思い出せない。こちらに戻る間にセイバーの戦闘ログも調べてみたが、書き換えられている」
ルナマリアは呆気にとられた。ザフトの兵士たるものが、作戦中の自らの行動を記憶していないとは──しかも、機体の戦闘記録までが消失している?
「馬鹿ですか、あんた……っ!」ヴィーノが思わず叫んだが、ヨウランがその口を慌てて塞いだ。さらに何か言いたげに暴れるヴィーノだったが、その横から不意にシンが口を出した。「悔しいけどヴィーノ、隊長の言うことは本当だ。あのモビルスーツをつかまえようとしていたはずなのに、気がついたら全てが終わっていて海に浮かんでいた」
アスランのみならず、シンまで同じことを言うとは──ルナマリアや整備士たちは唖然とした表情を隠せない。レイもこの事態に、顎に手を当てて考え込んでしまう。「光の副作用か? ともかく、二人には休養が必要ですね」
青い顔のまま、アスランはその場を立ち去ろうとする。ルナマリアが、その行く手を慌てて遮った。「まずは二人とも、詳細の報告を。何があったにせよ、作戦が失敗に終わったのは事実!
特にザラ隊長──貴方がどういうつもりでヨダカ隊長の作戦行動を乱したのか、じっくりお聞かせ願います。まさかそこまで忘れたとは言わないですよね、みんな心配したんですよ」
「お、怒るなよ、ルナ」彼女の顔がよほど激昂していたのか、シンが若干慌てふためいた。
つい感情を言葉に交えてしまったことに気づき、ルナマリアはつけ足す。「──との、グラディス艦長からの伝言です」
アスランはそこで初めて、謝罪と礼を口にした。「悪かった……アソの件は聞いた。君たちは本当によくやってくれたし、迷惑もかけた。二度としないよ」
「謝るなら艦長に。一番ヨダカ隊長の罵声喰らったのは艦長なんですから」


ミネルバパイロットを「オギヤカ」が解放してから、三週間が経過した。
ナオトもまた、サイたちのもとへ無事帰された。そして日数も経過してクルーたちの拘束も若干緩み、クルーはごく限られた範囲内での「オギヤカ」の散策を許可された。
というわけで今、サイ、カズイ、そしてナオトの三人は、海底都市へ遊びに出てきている。
オギヤカの市街部分は気温も気圧も完璧に調整されており、外観も社長に見せられた写真そのままで、塵一つ見当たらない。オーブの商店街よりさらに整然とした清潔なショッピングモール──そんな街並みの中を、サイはタイヤキ、カズイはソフトクリーム、ナオトは巨大渦巻きキャンディーを屋台で注文し、ぱくつきつつ歩く。勿論周辺にはチュウザン兵の影が至る所にあったが、久々の解放感に三人とも嬉しさを隠せなかった。
女性なら小躍りして喜ぶだろう洋品店やアクセサリーの店、レストランや喫茶店が立ち並び、広い道路には街路樹が青々と茂っている。調整された爽やかな風が吹き込んでくる。
チュウザンの、人々でごった返す雑然とした熱い繁華街や泥道山道に慣れていたサイたちにとって、まさにそこは天国だった。
だが、電力は一体どうやって調達しているのだ──海底ケーブルからの横流しか。サイはタイヤキにかぶりつきながらも、注意深く上空を見上げる。完全に地上の空と同じ青さが広がっている。勿論電気的に合成された空の光だ。
そこでナオトから聞かされた話は、さらにサイを驚愕させた。
「ラクス・クラインだって!?」
「はい。ぼんやりとしか覚えてないですけど」ナオトは能天気にキャンディーを小さな舌で舐めている。
「夢でも見たんだろ」カズイは呟きつつ、ショーウインドーの中のエメラルドのドレスを眺めていた。サイはそれを気にしながらも、今のナオトの話を分析する。
ラクスはキラと共に、オーブのマルキオ邸にいたはずだ。キラがアークエンジェルと共に行方を眩ましたということは、ラクスも同行している可能性が高い。それが何故、ここにいる? しかもナオトによれば、つい先日までラクスはプラントで歌っていたというじゃないか。
同時にサイは思い出す。自分のとんでもないミスを。
フレイと再会した時、自分はキラがラクスと共にいる件を話してしまったのだ。感情に流され、フレイを毛ほども疑わずに。今考えれば、他国にうっかりオーブの機密を口にしたようなものである。
しかもアークエンジェルの事件が起こった時にも、サイはフレイの前で口を滑らせてしまった──「潜伏中のラクス・クラインから声明は?」などと。自分の軽率っぷりを今更のように反省しながらも、サイは考え続ける。
あの時、フレイはサイの話を当たり前のように受け流していた。つまり、ラクスがキラと共に動いているという前提で、フレイも動いているのだろう。
だが、そうなるとプラントのラクスは。そして、フレイと話していたというオギヤカのラクスは何者だ?
サイは熱いタイヤキをほおばったまま、横目でナオトを睨む。その目を見て、ナオトは思わず叫んだ。「ちょっとサイさん! 僕が嘘ついてるって言うんですか?」
違う──ナオトは嘘は言わない。自分の感情を多分に交えて情報を捻じ曲げる危険な傾向はあるにせよ、白のものを黒だと言ったことはない。工場でマユを庇った時以外は。
考えられるのは、既にラクスが捕らえられオギヤカで人質になっているケースだ。ラクスがSEED保持者である以上、十分理解出来る話だ。それなら、キラやアークエンジェルがラクス救出の為に動いているとも考えられる。だが、ナオトの言によれば、「あの」フレイと彼女が対等に──むしろラクスの方が格上のように──話をしていたというのだ。
何でもござれの天上の女神様だ。何があってもおかしくはないのだが……
「それより、腹立つのはアスランですよ」ナオトが思い切りキャンディーの端を噛み砕いた。「裏切った自覚はあるみたいですね。僕らに一言もなく帰るなんて」
そんなナオトを、サイは諭す。「彼には彼の正義がある。それがより役立つのが、オーブよりザフトだと判断したんだろう。アスハ代表のそばでは正直、彼が自分の実力をまっとうに発揮出来たか分からないよ。それに2年前も、彼は同じ判断をして俺たちを助けてくれたんだ。
彼自身に、裏切りの悪意はない」
ナオトが思い切り口を尖らせたが、その時不意にカズイが割り込んだ。「本当にそうかな?」
思わぬカズイの言葉に、サイもナオトも振り向く。カズイはどもりながらも、正直な意見を隠さなかった。「例え悪意がなかったとしても、他人は傷つくよ。それが繰り返されれば、彼自身の意思や状況がどうあれ、誰も彼を信用しなくなる。多分ザフトにいても、肩身が狭いんじゃないのかな、彼。
そういう勘違いや誤解が積み重なって、争いが起きるんじゃないの?
何かあったら色々と理由をつけて、彼はまたどこかに行ってしまうよ。それって、火を起こそうとする奴らよりもタチ悪いんじゃないのかな」
そんなカズイを見ていて、サイの口から自然に言葉が漏れていた。「カズイ……お前、すごいよ」
「え?」そう言われたのが意外だったのか、カズイは目を白黒させてしまう。サイは笑って続けた。
「そういう風に一歩引いて人を見ることって、なかなか出来るもんじゃない。俺も色んな人間見てきたけど、どうしても相手に感情移入してしまう。大事なことが見えなくなる。
その点、お前はいつもすごいよ」
「そうかな……俺、自分の意見を言っただけだけど」頭をかき、カズイは照れた。だがその後、彼の目は女性用のアクセサリー屋に釘付けになり、カズイはそのままふらふらとアメジストの指輪に引き寄せられていく。
唯一の例外が、アムル・ホウナか──サイはため息をつきつつ、カズイの背中を眺める。その分析力を、何故自分に生かせないのか。
その時、サイの胸元の通信機がバッジの下で振動した。緊急連絡のサインが点滅している。
「こちらアーガイル……風間曹長? ちょっと、落ち着いて下さい」
だが、連絡を聞いた瞬間にサイは海底都市が割れんばかりの絶叫をかましてしまい、結果、駆けつけたチュウザン兵により三人の自由行動は即時中止された。


アークエンジェルがダーダネルス海峡に出現。ザフトと連合の戦闘中に割って入り、フリーダムとルージュとムラサメが出撃し両軍にダメージを与え、双方とも撤退を余儀なくされた。
アークエンジェル介入の理由は、連合に与し参戦を強いられたオーブを止める為と推測される。介入したルージュから、カガリ・ユラ・アスハの肉声を聞いたという兵士の証言があるらしい──
その一報を受け、アマミキョ及びオギヤカは即動いた。
アマミキョはオギヤカに収容されたまま紅海付近まで潜航し、紅海の入り口である旧バベル・マンデブ海峡まで到達。そしてオギヤカはその巨大な要塞から、アマミキョ収容部分に当たるパーツだけを分離させ、北西に進路を取り紅海の潜航を続け、連合のスエズ基地まで向かったのである。
騒動の舞台は目前だった。
オギヤカの力を借りて潜航し、ザフトやテロによる襲撃を見事回避したアマミキョは無事スエズに到着。そこで初めてオギヤカはアマミキョを解放した。救援船は再び空へ舞い上がる。陸地で阻まれている為、地中海へはアマミキョ単独で向かわねばならないのだ。
ムジカ社長はスエズまではアマミキョに搭乗していたものの、到着して以降は再びオギヤカに戻ってしまった。船の指揮権を再びアマクサ組に譲渡して。


「──で」
ナオトはティーダのコクピットハッチに取りついて内部を睨みつけ、唾を飛ばして喚いていた。「どーしてティーダにサイさんが乗るのかなぁ!?」
「お前にこれ以上無茶をさせるわけにいかないからな。お前を降ろせない以上、俺がお前を見張る」サイは冷酷なまでにナオトを無視し、忙しくティーダ後席のコンソールパネルを調整している。
なおも反論しようとするナオトに、サイは言った。「それに、今度の作戦には俺が必要だ。アークエンジェルの今の通信コードを知っているのは、この船じゃ俺だけだし。窮屈かも知れないが、そう邪険にしないでくれよ」
「大丈夫だよナオト、サイには操縦任せないから」前席からマユが朗らかにナオトを見上げる。
「そういうことじゃなくてぇ!」ナオトはイライラと髪をかきむしる。サイはパネル下部のケーブルの調整に入っていた。既に後席の隣には、急造ではあるがサイ用の座席が出来ている。
「それに、アークエンジェルやキラが何を考えているのか、俺は知りたいしな」
「何って……オーブの理念を貫きたい、それだけでしょ。代表がルージュではっきり言ったじゃないですか!」
奥で調整されているアフロディーテにカラミティを睨みつけながら、ナオトは叫ぶ。今はフレイは居らず、ブリッジでミーティング中だ。カラミティは水中用の装備がなされている。むくりと身体を起こしたサイに、ナオトはさらに怒鳴った。
「だいたい僕は、この作戦には反対です。キラさんの目的だってこれではっきりしたじゃないですか。僕たちオーブ国民を戦争に巻き込みたくないだけです!」
「それが余計に戦局を混乱させると、どうしてお前は分からない!?」埃だらけの頬もそのままに、サイは突如大音声を上げ、操縦席を叩き壊さんばかりにレンチで殴りつけてしまう。
あまりのサイの剣幕に、ナオトは勿論周囲の整備士までが仰天してしまった。ハマーが思わずティーダの足もとから怒鳴る。「落ち着け、馬鹿が! てめぇが暴れた処で、あのアホ船が沈むわけじゃねぇだろが」
そのハマーの怒声で、サイは何とか平静を取り戻した。
「すみません!」一声謝ると、すぐにナオトに向き直る。「キラや代表の思いは俺も分かる。戦いを止めたい──その思いひとつで、俺たちはヤキンを戦ったんだ。その代償は大きかったけどな。
だが、今のキラたちのやり方は俺には解せない。もっとうまく自己主張する方法はいくらでもあるんだ、アスハ派のスカンジナビア政府を通じて公式ルートで代表の声明を出すなりすれば、少なくともきちんとした形で代表の意思は伝わる。
今みたいに、武力で武力を制そうなんて、それこそ誤解を受けて火種を悪戯に拡散させるだけだ」
そのサイの言葉に、ナオトの感情も幾分か静まった。しかし、それでも反論せずにはいられないのがナオトだ。「だけど、フリーダムの介入で戦闘が中止されたのは事実でしょ。それに、フリーダムは誰も殺していませんよ、きっと」
サイは眼鏡の奥からナオトを睨む。「殺さなければいいのか。一時的に戦いがやめばいいのか。誰がどれほど傷ついても、その場で命さえ奪わなければいいのか!」
「だって、それがキラさんとフリーダムの戦い方でしょ! いいから降りて下さいよっ」
「嫌だね。ありがたいことに、これはアマクサ組の命令でもある」
「そんないい加減なこと!」
ナオトがサイに掴みかかりかけた瞬間、フレイの声が口論を中断した。「お喋りは終わりだ!」
彼女は搭乗用タラップでアフロディーテに近づきつつ、全員に言い放つ。「作戦予定を5時間繰り上げる。ザフトのディオキア基地にフリーダムが現れた。ラクス・クライン搭乗予定のシャトルを奪い、基地を攻撃したとの報告だ」


およそ12時間後の昼下がり──海を見渡すことの出来る島の端で、サイは草の匂いを感じながら寝転がっていた。
周囲に人の気配はない。明るい海からの陽射しは、チュウザンの焼けつくようなそれとは大違いで、半袖の制服のままだったサイは肌寒さすら覚えていた。
ここは、ダーダネルス海峡東部にあるボスボラス海峡付近の離れ小島だ。ユニウスセブン落下の影響でまたもや地図が書き換えられ、黒海沿岸には様々な浅瀬が島となって現れている。旧イスタンブールの東の海域──ディオキア基地の西に新たに出来たこの島に、どうにかサイたちはたどり着くことが出来たのだ。
先日、連合とザフトの激突があったばかりのダーダネルス海峡はすぐそばで、マルマラ海やエーゲ海、黒海周辺の緊張度は一段と増している。今サイのいる島はディオキア基地のあるザフトの領域だったが、そんな場所にアマミキョが易々と侵入出来たのは、連合の支配下から逃れたばかりで警備に穴が多いという事情があった。作業用に偽装し、アマクサ組はまんまとアマミキョとモビルスーツをこの空域に運び込んだのである。連絡役のラスティが赤服を着用していたのが、ザフト兵の目をごまかすのに最も役立った。
サイが今いるのは、高さおよそ15メートルはある切り立った崖の上だ。そこに寝そべりつつ海を眺めてみる。ユニウスセブン落下はこの海にも深い傷をつけており、陽光に照らされた海は血のようにどす黒く濁り、眼下には無数の漂流物が浜辺を形成していた。
一段落したら、ここの復興作業だな──サイは思いながら、耳につけたインカムをいじる。通信状態に問題はない。
アマクサ組はフリーダムの動きからアークエンジェルの位置を割り出し、街中からサイに暗号電文を送信させていた。電文の内容は「青い鳥よ、古き友人が自由を求めています。救助願う」との簡単なものである。然るべき場所に通信を送り、そしてひたすら待つ。どのようなルートで通信が届くか、サイも全貌は知らない。サイが知っているのは、ラクスと関係の深い「ターミナル」なる組織が関わっていることだけだ。それはともかく──
遂に、この時が来たのだ。フレイをキラに再会させるチャンスが。
アークエンジェルの位置はあくまで、アマクサ組と山神隊の独断だ。果たして、キラは引っかかってくるか。フレイの記憶は戻るのか。キラたちの真意は何なのか。
寝そべりながらも、サイの手はじっとりと汗をかく。そこへ、インカムからナオトの声が飛び込んできた。<サイさん! やっぱりやめましょうよ、卑劣ですよこんなやり方。僕、こんなことにティーダを使いたくない>
サイは頬を刺す草を軽くよけながら答える。「この距離でフリーダムを捕捉出来るのはティーダのレーダーだけだ。作戦聞いてなかったのか」
<分かってますけど……ミリアリアさんがいればなぁ>
「当てにしてない。今のフレイはミリィだって止められない」
ザフトのレーダーも届かぬ小島は無人で、茂った森が風と共に唸っている。スコールの兆しが全くないのはありがたい。今にも眠ってしまいそうなほどに、大気は暖かだった。
だが、午後の陽がやや傾きかけた時──小悪魔そのもののマユの声が、サイの耳を打った。
<サイ、北東10キロの海域に機影確認! 熱紋照合中……>
サイは思わず飛び起きる。雨も降っていないのに、額がじっとり濡れていた。気がついたら、手元の草を引きちぎっていた。
マユの勘違いか悪戯であってくれ。サイは一瞬そう願ったが、やがてそれを嘲笑うようなマユの歓声が響く。<やったね! ビンゴだよっサイ!>
すまない、キラ──サイは一旦祈るように眼を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。俺は今、お前を罠にかけようとしている。
だがそこへ、ナオトの叫びが割り込んだ。<サイさん、変ですよ! アークエンジェルも一緒ですっ、海中から!>
その報告に、サイの歯がきつく噛みしめられる。
「フレイに連絡は?」サイは平静を装ってティーダと通信する。マユの声が元気良く返ってきた。<今送った! でも、あの船がわざわざどうして?>
この作戦はフリーダム単機を想定したものだったというのに、これは意外な事態だ。沿岸に姿を現す危険を冒してまで、アークエンジェルが俺を迎えに来てくれるとは。
冗談でもそんな思考に至った自分を、サイは嘲笑する。俺が目的のはずはないだろう。おそらく、俺についてくるであろうティーダとアマミキョ対策だ。
カガリ代表ならばティーダの脅威も知っている。もしくは、モルゲンレーテにいたラミアス艦長の発案か。俺一人が待っている──と伝えたはずなのに、彼らは結構な規模の戦闘を想定している。
もしくは、ティーダをアークエンジェルのものにする気か。確かにティーダの「黙示録」は、戦いを止めるという彼らの想いの実現に大いに役立ってくれるだろう。フリーダムで強引に介入するよりも、ずっと。ナオトにとっても、その方がいいのかも知れない。
だが、それをフレイが許すとは思えない。いずれにせよ、戦闘発生は覚悟せねばならない。
握り締められたサイの拳が、急速に冷たくなっていく。風向きが変わっていた。
駄目だ、怯えるな。いよいよだ。この時の為に、俺はここまで来たんじゃないか。
フレイの記憶は完全ではないし、彼女にはSEEDに関する他の疑惑も山積みだ。だが俺は、社長やアマクサ組に何と言われようと、キラ──お前にフレイを会わせる。今のお前が何を考えているのか知らんが、それもじっくり問い詰めてやる。待っていろ。
そして数分ののち──陽が午後の淋しい光を放ち始めた頃。
白く輝く空の向こうから、青い翼──フリーダムは現れた。


作業艇に偽装したアマミキョは、数キロの沖合でティーダからの通信をキャッチした。
「フレイ! 緊急連絡だ、アークエンジェルが同行しているらしい」ミゲルが片腕を振り回しながら、アフロディーテのフレイに叫ぶ。「読まれてるぜ、こっちの思惑!」
だが、フレイはアフロディーテコクピットで余裕の表情だった。メットも被らずパイロットスーツも着ず、まだ連合の少年兵の制服のままだ。
水中用に改修を終えたカラミティが、風間曹長の乗るディープフォビドゥンの上にまたがり海中へ潜行していく。アフロディーテの背後では、ラスティがスカイグラスパーに乗り込んでいた。
手鏡を睨みながらフレイは、やや薄めの口紅の色と眉の形とアイラインを念入りに確認している。肌の調子は最高のようで、彼女は満足げにコンパクトを閉じる。「望む処だ。キラ・ヤマト──お前と私にしか通用しない戦法を、見せてやる」


波濤を切り裂いて現れた、懐かしき青い翼。スラスターから流れる突風でネクタイと髪を激しく煽られながら、サイは複雑な想いをこめてそれを見上げた。
人の顔を模したあの頭部は、今も優しく俺を見守っている。何も知らずに。
やっぱりキラ、お前は素人だ。こんな単純な罠に、こうも易々とかかってくるとは。
大方ラミアス艦長らの警告も聞かずに、俺をまるごと信用して一人で来ようとしたんだろう。おそらく、フリーダムすら必要ないと言い出したに違いない。でも、代表か艦長もしくはラクスさんのごり押しで、渋々フリーダムで来た。そんな処か。
今も全く無防備に、俺にフリーダムの右手を差しのべている。<サイ──会いたかった!>
昔と変わらぬ無邪気な声が、スピーカから響いてくる。俺に、乗れというのだろう。
悪いがキラ、俺にその気はない──
もう少しだ。サイは歩みを進め、右手をフリーダムの方へ伸ばす。見ようによっては、フリーダムと握手をしているようにすら見えるだろう。
だが違う。これは合図だ。崖上に広げられたフリーダムの掌。しかもハッチまで開きかけている──どこまでお人よしだ、お前は!
巻き上がる波と草と土くれから顔を覆いつつ、サイは鋼鉄の掌にその指を触れた。熱せられた鉄の感触がサイの皮膚を刺激した、その瞬間。
サイの足下の地面が、一息に崩壊した。<こーぉんにーちはぁー!>という、マユのいつもの笑い声と共に。
滝のように降りそそぐ土。サイの身体はそのまま海へ落下──はせず、ちょうどすぐ下から地面を突き破ってきた巨大な掌によって助けられた。その掌はサイが触れかけていたフリーダムの指を払いのける。そしてサイが波に乗るようにその掌に乗った瞬間、崩壊する崖の中から巨大な白い鉤爪──ピアサーロックが飛び出した。
ワイヤー付のその鉤爪は波を蹴散らしてフリーダムに襲いかかる。気づいたフリーダムはすぐに飛びのいて上空に逃げようとしたが、ワイヤーがその右腕に絡む方が早かった。
これは作戦の第一段階だ。サイを崖の上で一人にしてフリーダムをおびき寄せる。彼がパイロットスーツでなく制服のままだったのは、キラを油断させる為でもあった。そして、サイの真下に埋まりながら待機していたティーダが、フリーダムが最接近すると同時にピアサーロックでフリーダムを捕らえ、サイを乗せつつ次の作戦行動に入る。
相手が訓練された軍人であれば、おそらく通用しない戦法である。
俺を乗せる為に右腕を差し出したりしていなければ、キラは逃げられた。その甘さにサイが舌打ちしている間にも、フリーダムは翼を広げて青空へ向かって上昇を試みる。当然、ピアサーロックを絡めているティーダも引っ張られ、空に引きずり上げられる形となった。
今サイがいる場所は、ピアサーロックを発射した方のティーダの左掌部だ。飛び立った青い翼は、反射的に右腕に絡んだワイヤーを切ろうとしてもがく──必然的に、ワイヤーを絡ませているティーダの左手部は激しく振動し、サイはバランスを崩して鋼鉄の指の間から足を滑らせてしまった。
海面まで約40mはあろうかという上空で、サイの身体はティーダの指から滑り落ちかける。<サイ!><サイさんっ> キラとナオトの叫びが、空で交錯した。
だが、自らの身が完全にティーダから離れる前に、サイは自分を守るべく動いた。2年前では考えられぬ反応速度でティーダの指を右腕で掴み、そのままサイは海の上で宙ぶらりんになったのだ。
自分でも驚いたことに、流れていく海面を遥か足下に見ながらサイは平静だった。その腕の力はしっかりと、自らの全体重を支えている。フリーダムとティーダの移動速度や、炎のような熱風にも負けてはいなかった。
随分と、自分の腕力と反射神経は向上したものだ。あまりにも危険すぎる状況にいながら、サイは考える。知らないうちにフレイに相当鍛えられたんだな、きっと。
だがそれも数瞬のことで、すぐにサイの腕は重力に耐え切れず震えだす。ナオトたちの声を伝えていたインカムが頭から外れ、ゴミのように海面へ消えていく。ブーツを履いた脚が、ふらふらと頼りなく空中で揺れている。左腕も使ってサイは身体を引き上げようとしたが、途端に激痛が走った。まだ骨折が完治したわけではないのだ。痛みで一気に体中から汗が噴き出る。身体を支える掌も汗ばみ始める。
「サイさん、早くこっちへ!」ティーダのコクピットハッチが開き、ナオトが身を乗り出して叫んでいた。ティーダの反対側の腕「トリケロス」はビームサーベルにランサーダートが詰まった武器庫のようなもので、うかつにサイを乗せるわけにはいかない。ティーダが左腕を引き寄せられない状態にある以上、今のサイが助かるには、何とか自力で這い上がってティーダのハッチへ戻る以外にはない。
だがそこへ、飛行中のフリーダムからキラの声が響いた。<サイ! どうして君がこんな無茶をっ>
サイはティーダの掌の下で汗まみれになりつつ、叫ぶ。「呆けたか、キラ! 地中の金属反応に気づかないとはなっ」
<モビルスーツがいるのは分かってた。だけど、理由を知りたかったんだ>
「わざとかかったってのか……お前らしいよ」余裕がある人間ならではの台詞だな。吐き出しかけた嫌味を、サイは喉元で抑える。「だが、お前を追っかける方はみんな必死なんだ。こうでもしなきゃ、フリーダムには近づけないからな!」
<だから、どうして君がこんなことを!? 僕は君と戦う気なんかっ>
「誰が戦うなんて言った。
お前に、とっておきのプレゼントがあるんだよ。俺たちはその為の時間稼ぎだ」


開け放たれたままのティーダのコクピットで、ナオトは息を詰めて状況を見守っていた。
何とかしてサイを助ける手段を探さねば──だが、どうする? 「マユ、手を少しだけ回してサイさん巻き上げられないかな?」「あの状態じゃ無理。キラでもない限りね」
何しろ今は、指関節をほんの少し曲げるだけでもサイの命が潰える危険がある。マユの言葉は尤もだった。
その間にも、黒ハロの口が開く。マユがサイドのキーボードを操る。黙示録の準備だ。
「駄目だマユ、まだサイさんが! それに、キラさんだって何もしてない」
「だって、作戦だよ?」
「関係ないっ」ナオトはマユの肩を押さえつけるようにして身を乗り出すと、フリーダムに直接呼びかける。「キラさん、聞こえるでしょ! 僕たちは、貴方がたに会いたくてここまで来たんです! 僕は貴方と代表を信じたい。ホントはこんな真似、したくなかったんです。お願い、信じて! サイさんを助けて!」
そのナオトの大声が届いたか。フリーダムのカメラアイが二度、点滅した。
<君は……ナオト・シライシだね。カガリがよく心配してたよ>
「代表が?」


重力と痛みに耐えるサイの下に、今度はフリーダムの左掌が差し出される。サイを揺らさぬよう、フリーダムはワイヤーを張りつめた状態にしたまま慎重に右腕を上げてティーダごとワイヤーをたぐり寄せ、左掌部を差し出していた。<サイ、早く乗って。ナオト君もああ言ってる>
腕はとうに限界に来ている。スラスターからの熱風がサイを引きちぎらんばかりに叩きつけられる。ワイシャツの裾がマントのように翻り、炎の如き気流が背筋に直接流れ込んで喉元から噴出する。
それでもサイは、フリーダムの手に妙な傲慢さを感じた。キラ自身はおそらく自覚していないであろう傲慢さ。
いつでも助けてあげる。戦いを止めさせてあげる。君のような苦しい者たちを助けてあげる。見返りなんかいらないよ、僕たちには十分力があるのだから──
「断る」すぐ下にフリーダムの支えが来ているにも関わらず、サイは冷酷に言い放った。
<サイ! いつの間にそんな意地っぱりになったんだっ>
「自分の胸に聞いてみな。それに」サイは自分でまた驚いたが、この状況で笑った。筋肉がひきつり、自分でも明らかに嫌味な笑いと分かる笑いだったが。「俺がここにいれば、お前もナオトもお互い動けない。お前もティーダの腕を切り落とせないし、ティーダも動けない。俺はどっちも傷つけたくない」
<無茶苦茶だ。命を投げ出すような真似はやめてよ!>
「まだ分からないのか? これも作戦だよ。尤も、足滑らしたのは俺のミスだが」
<なら、力づくでも!> 声と共に、フリーダムの掌が一気にサイの眼前に迫った。だがサイはその救いの手を蹴り上げるようにして、両脚を大きく振る。その勢いでサイの腕が一瞬軽くなり、身体が自然に持ち上がった。わずかにフリーダムの感触を足の先に感じたが、サイはその鋼の塊を踵で押し返し、逆上がりの要領でぐるりと身体を回転させる。そして突風に耐えきってティーダの掌に自分の身体を乗せた。


「やったぁ!」サイが無事ティーダの手に乗ったのを確認し、ナオトは思わず歓声を上げる。だがその時、警報音が鳴り響いた。
「ナオト、ルージュだ!」マユの叫びと共に、空気を切り裂く振動がコクピットに伝わった。
見ると、オーブの紋章をその肩に刻んだ淡紅色のストライクが、ティーダの真っ白い機体に向かって突っ込んできている。「まさか、カガリ代表!?」
そのナオトの予想は大当たりだった。頭部バルカンを発射してこちらを威嚇しつつ、カガリ・ユラ・アスハの絶叫が轟く。<ナオト・シライシ! そこから降りろ、お前はそれに乗っちゃいけない!>
ナオトの大きな目がさらに見開かれる。カガリの肉声にも驚いたが、彼女が発した言葉は一体何なのだ? ナオトには、俄かに意味が掴めない。
その間にも、カガリのストライクルージュはティーダとフリーダムを繋ぐワイヤーを狙撃しにかかる。今度はマユが身を乗り出して、未だに空中で頑張るサイに叫ぶ。「もう無理だよサイ! 降りてきてっ」
<カガリ! 撃つなっ、腕にサイがいる> キラの絶叫もこだまする。
<何!? どうして……> カガリはその声にすぐ反応したが、ルージュの機動は即座には止まらない。撃たれたバルカンはティーダのワイヤーをちぎりかけ、結果としてサイはティーダの手の上で大きく揺さぶられることとなった。
「諦めないもん、ここまで追いつめて!」マユが一気にティーダの右腕──「トリケロス」をフリーダムの左肩部に食いつかせる。キラがサイを助けようとして自らティーダを引き寄せた為に、ティーダもまんまと接近戦を仕掛けることが出来たのだ。
そんなティーダに、ルージュは再度突進をかけた。<ナオト、何をしている! フリーダムを撃つ気かっ>
そのカガリの言葉に、ナオトはさらに動揺してしまう。心を貫くカガリの声。<サイを人質にまでして! どこのどいつだ、お前のような子供にそんな猿知恵を吹き込んだのはっ>
「違う、違います代表!」
体当たりされる──
ナオトが一瞬目を閉じてしまったその時、突如、海中からの閃光がティーダとルージュの間に走った。


カラミティだ。ティーダの掌に腹這いになってしがみつきながら、サイは戦況を見守る。海中でディープフォビドゥンを足場にして移動しつつ、シュラークの光で正確にティーダを護っている。ビームの嵐が、ルージュに一気に襲いかかった。
サイが動けないでいる間にも、数条の閃光が空を裂く。おかげでカガリ代表に撃たれるような阿呆は晒さずにすんだが、既にティーダとフリーダムを繋いでいるワイヤーも限界だった。
「サイ! わがまま言わずに降りてきてよ、黙示録が撃てない!」ハッチからマユの声が響く。
一瞬で全てを焼き尽くすかのようなカラミティの砲撃。それに右往左往するしかないルージュを間近に見て、サイは思う。やはり、一人で両者を護るなど無理だったのか──フリーダムならともかく、何の力もない俺が。
その時、サイの心の糸を象徴するかのように、二機を繋いでいたワイヤーが切れた。その拍子に、大きく空へと弾かれるティーダの腕。
落ち着け──まだ俺は落ちてはいない。諦めない。何も出来ないとしても、俺は絶対に諦めない。こんなところで!
サイは右手でティーダの熱い装甲を押さえつつ、両脚に力をこめて立ち上がる。そして、重力に逆らわずその真っ白い腕部を一息に駆け出した。サイが足場にしている腕部自体が空中に放り出された形となった為、足の裏から伝わる鋼鉄の感触が非常に心もとなかったが、それでもサイは転がるように走る。崩壊していくレンガの橋を、よたよたと駆け下りていく小さな、情けない自分。数十メートル下は容赦のない海面だ。
サイが走るすぐ横で、またもシュラークの閃光が空に咲いた。それを合図に、サイは宙へ身を投げ出す。ハッチまでは5メートルほどの距離があったが、それでもサイは関節部を蹴って飛んだ。
俺の帰る場所は、アマミキョだ。フリーダムじゃない。
再度炸裂した爆光に背中から吹飛ばされるように、サイはナオトたちの待つハッチの手前に着地する。両膝が砕けるかという衝撃に耐えながら、そのままハッチへ転がり込んだ。
サイが飛び込んだのをこれ幸いとばかりに、マユは一気にティーダを動かしにかかる。右腕のトリケロスは執拗にフリーダムに喰らいついていた。二機は未だに上昇を続けている。
サイは息を弾ませながら、ナオトとマユに警告した。「これでこちらも動けるが、フリーダムも同じだ。油断するな」
「分かってる! 今だよナオト、黙示録っ」
ティーダはなおも懸命に右腕で相手を押さえていたが、引き剥がされるのは時間の問題だった。だが、一発逆転の武器である「黙示録」が照射出来れば──
しかしその時、サイはナオトの肩が激しく震えていることに気づいた。抹茶のパイロットスーツの間から漏れるものは、押し殺すような叫び。「出来ない……やっぱり、出来ないよ」
レーダーには、接近してくるアークエンジェルがはっきり映し出されている。そして7時の方向からは──「彼女」の到着はもうすぐだ。
サイはナオトの小さな肩をそっと押さえる。先ほどのカガリの言葉は、ナオトに予想以上のショックを与えていたのだ。そのサイの手を振り払い、ナオトは腹の底から声を絞り出した。「キラさんや代表を撃つなんて、出来ません!」
今更何を言っている。サイは怒気を何とか抑えながらナオトを諭す。「ナオト、撃つわけじゃない。みんなを止めるだけだ」
「サイさんだって嫌でしょ! あんなものをキラさんたちに浴びせろっていうんですか?」
「俺だって嫌だ。だが、血が流れるのはもっと嫌だ! お前はそんなにキラの血が見たいのか?」
「違う、違う! でもっ」ナオトは頭を振り回してサイを拒絶する。そんな二人の口論を前席で聞いていたマユは、パネルを操作しつつ突然言い放った。「これより、ティーダの全操縦系をマユ・アスカへ移譲。ナオト、もういいよ」
突き放すような言葉。マユの顔から無邪気な笑いは消失し、その黒い瞳はひたすらフリーダムを見ていた。フリーダムからは相変わらず、キラの声が響く。<ナオト君、そこに乗っているのは君だけじゃないよね。その女の子は、誰? 僕だって、子供は撃てない!>
サイには分かった。フリーダムが未だにティーダを引き剥がせないのは、何とかこちらと話し合おうとしている為だ。だが、マユは止まらない。
「なめないでよね……黙示録が使えなくたって、こっちにはトリケロスがあるんだから」
ティーダは容赦なく、フリーダムの肩を掴んでいた右腕のトリケロスを強引に押し込み、フリーダムの上昇を一瞬止めた。トリケロスの先端がフリーダムの頭部に、突き刺さんばかりに接近する。
内蔵されたビームサーベルが一閃すれば、フリーダムの頭は飛ぶ──それに気づいたナオトは、思わずマユの腕に飛びついた。「撃つなマユ! キラさん、逃げてぇっ」
「ナオト! あんたちょっとうるさい!」ナオトを振りほどいたマユはその勢いで、ナオトのメットの下から拳を食らわした。ナオトは見事に後ろへ引っくり返ってしまう。
一体この娘に何が起きた? あまりのことに、サイは茫然となる。それは、マユが初めて怒りの感情を明確に表した瞬間だった。
そして勿論、ティーダが止まっている間に素晴らしい反応速度でフリーダムはティーダを振り切った。さらに振り向きざま、ティーダの右腕を狙撃する。マユの努力も虚しく、ティーダの右腕はトリケロスごと引きちぎられた。そのままバランスを崩し、ティーダは空中を落下する──ナオトの悲鳴がコクピットをかき乱す。凄まじき急降下に、サイは脳味噌全てが片側に吸い寄せられる感覚に襲われる。瞼が痙攣する。何とかコンソールを手繰っていられたのはマユだけだった。
<カガリ!><分かってる!>
落ちゆくティーダを見て、キラとカガリが空で声を交わす。ルージュがエールストライカーのバーニアを噴かし、一気にティーダに追いついてその左腕を捕らえた。ちょうどその瞬間にティーダの背部スラスターも作動し、徐々に落下速度は弱まる。
<お前ら、無事かっ> 耳鳴りのやまないサイの耳に、カガリの声が重なる。撃っておいて無事かもないもんだ。モニターの隅に、海面へ吹っ飛んでいくトリケロスが見えた。黙示録が使えず、トリケロスを無効化され、ピアサーロックのワイヤーまで切られては、最早ティーダにろくな攻撃手段はない。
その時、ティーダが落下しようとしていたその海面がざわめいた。
サイもナオトも、そしてマユまでもが息を飲む。サイが見間違えるはずもない。青い海流を揺るがして現れる白く輝くラミネート装甲に、鮮烈な紅のカラーリングは──
「アークエンジェル……!」

 

つづく
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