やはり避けられなかったか、この事態は。
黒い波濤を切り裂いて現れた、大天使の名を持つ戦艦。サイはティーダの中で、唇を噛みながら状況を見守るしかない。そのティーダも今はほぼ戦闘不能となり、ルージュに腕を取られている。ルージュはかなり強引にアークエンジェルの甲板に着艦しようとしている──当然、ティーダも一緒に。
だが、そのルージュをカラミティが執拗に狙っていた。水中からの閃光は、未だにカガリのルージュを諦めてはいなかった。カイキの叫びが海を貫く。<黙示録が作動しねぇとは……マユから離れろ、エセ代表がぁ!>
<くそっ……何故あんなものがお前らと一緒にいる!?> あまりのカラミティの激しい攻撃に、カガリは呻きと共にやむなくティーダを離した。空中に放り出された形となったティーダは、そのままアークエンジェルの甲板へ激突するように着艦する。
片腕をもがれたティーダはバランスが取れず、甲板上に崩れ落ちるように横倒しになってしまう。後席にいたサイとナオトは、その衝撃でコクピット内で仲良く折り重なって抱き合い、さらにサイは顎にナオトの肘鉄を食らう羽目になった。「ちょっとおい、ナオト重いっ……お前のスーツ、結構固いな」「すいませんサイさん……って、ここ何処?」「アークエンジェルの上だよ。とりあえず肘はどけてくれ」
そんなちょっとした騒動の最中にも、ティーダコクピットに通信が入ってくる。涼しい顔のマユが振り向いた。先ほどナオトを殴った時の怒りの表情はもう消え失せている。「サイ、アークエンジェルから通信! 繋ぐ?」
国際救難チャンネルではない。ティーダの通信コードを向こうは既に知っているのだ。「ラミアス艦長か……」
 


PHASE-17 接触! 紅蓮VS自由



ティーダから離れたルージュを、さらにカラミティのシュラークが追う。まるでカガリの技術をからかうかのように、カイキはルージュの機体ギリギリに閃光を放っていた。逃げ惑っていられたのも僅かな間で、やがてルージュのエールストライカーの翼を火線が掠める。
「この……!」そのカラミティの戦い方を目撃したキラの中で、怒りが芽生えていく。空を泳ぐように、翼から黒煙を吐いてよろよろと帰還しようとするルージュ。「僕らを撃ってどうする気だ! 君たちはっ」
即座に海中のカラミティとディープフォビドゥンに狙いをつけるキラ。だが、その瞬間キラはレーダー内の別の反応に気づく。遥かな空からやってくる異形に。
少しずつ緋色に染まり始めた西の空から──黒い翼がやってくる。
それは、かつてのストライクを血に染めたような紅の機体。ルージュよりもどす黒い紅の装甲を誇る 、豊穣の女神──
キラの背筋を冷気が突き抜ける。自分にとって尋常ならざるものが、あの中にいる。
この時のキラは既にそれを、直感で感じ取っていた。「誰? そこにいるのは、誰だ? ラクス……ラウ・ル・クルーゼ? いや、違う……」
一瞬動きを止めたキラの視界を、ビームカービンの光が遮った。


アークエンジェルの上に落とされた形となったティーダ。その中でサイは、ティーダの損傷をチェックしながらキラの戦いを見上げるしかなかった。
フレイ──遂に来てしまったか。今キラに放たれた光は、間違いなくフレイのアフロディーテのビームカービンだ。
撃つつもりか、君はキラを!
血の女神を護るようにして追従するは、6機のスカイグラスパー。うち2機にはラスティと時澤軍曹が乗っているはずだ。
アークエンジェルとの通信が開かれ、懐かしいが厳しい声が響いてくる。<こちらアークエンジェル。久しぶり……と言いたいところだけど、生憎そうもいかないようね、サイ君>
「ラミアス艦長! やっぱり貴方も乗っていたんですか、何故ですっ」
貴方だって、2年前に多くのものを失ったはずだ。心の傷だって癒えていないはずだ。それなのに、何故またこんな場所に。サイは叫びたかったが、マリュー・ラミアスは冷たく遮る。
<詳しい説明はあと。私の予想もたまには当たるものね……貴方が連れてきたあのモビルスーツは、何?>
マリューが示唆しているのは当然──フリーダムと正面から対峙しているアフロディーテだ。
サイの喉から、痛みに満ちた言葉が溢れる。「艦長……駄目です、あそこにいるのは……」


真紅の装甲で彩られ、黒の翼を持つストライク。まるで、ルージュを数千の人柱の血で染めたような血の機体。
新たに現れ空で静止する相手に、キラは呼びかける。冷たい予感が喉元までせり上がり、キラは思わず唾を飲んだ。
「君は──誰なの?」


アフロディーテ内部に潜むフレイは、連合の制服のままだった。メットだけ被っている状態だ。「黙示録照射までは至らなかったか……予想の範囲内だがな」
状況を見ながら、フレイは左手でブーツの金具を外し始めた。彩られた唇からは、含み笑いとエゼキエル書25章17節が漏れる。「心正しき者の歩む道は、心悪しき者のよこしまな利己と悪虐によって行く手を阻まれる。愛と善意の名において暗黒の谷で弱き者を導く者は幸いなり──


フリーダムの眼前で、アフロディーテの漆黒の翼が開かれる。ビームカービンを素早く腰部にマウントしたアフロディーテは、背の翼から双対のビームサーベルを両の手で取り出した。フリーダムを挑発するかのように、頭部の前でアフロディーテは光の剣を交差させる。光るカメラアイ。その意図は電撃のようにキラを貫く。
その翼から覗くレールガンは、まっすぐにフリーダムの後方──アークエンジェルに着艦寸前のルージュを狙っていた。カラミティから逃げ惑うだけで、既にエネルギーが尽きかけてしまっているルージュを。
「僕が戦わないなら、カガリを狙うってのか……君は!」キラの呟きと同時に、フリーダムのバラエーナが針に糸を通すが如くの正確さでアフロディーテの腕、そして翼を狙って襲いかかった。
それを見越したようにIWSPの全エネルギーを噴射し、茜に染まり始めた空へ逃げるアフロディーテ。カラミティからの地獄の炎が彼女を援護するように撃たれ、フリーダムの光と衝突する。その間を縦横無尽に動き、大気を切り裂いてすり抜けていくアフロディーテの翼。スカイグラスパーも、まるで女神に吸い付く磁石のようにフレイ機に従う。
だがアフロディーテよりも、フリーダムの光の方が僅かに早かった。空にアルファベット筆記体でも書くように光の筋を描いたバラエーナの虹は、アフロディーテの右脚部を捕らえる。この時、スカイグラスパーも1機、翼を撃ちぬかれた。
しかしその瞬間、アフロディーテは衝撃の走った脚部を自ら切り離し、フリーダムに向けて撃ちはなつ。咄嗟にキラはそれも撃ち落としたが、予想外の大爆発がフリーダムを襲った。
「まさか……スティレットを仕込んだ!?」
キラの予想は大当たりで、フレイはアフロディーテの両脚部にそれぞれ5発ものスティレットを装着させていた。捨て身の攻撃にキラが後悔した時にはもう遅く、フリーダムの視界は紅の雷鳴で遮られてしまう。


カラミティとフリーダムの砲火、そしてスティレットの暴発で空に光が満ちていく。これほど派手な戦闘をしては、ザフト基地から介入されるのは時間の問題だ。
「花火大会にしちゃ時間が早すぎるぞ、みんな!」サイは空に巻き起こる爆風を肌で感じながら、同時にレーダーを睨んでいた。ナオトはといえば、キラとフレイの激突にただ茫然としているしかない。ルージュも既にティーダの隣に着艦し、状況を見守っている。素人の踏み込める領域ではなかった。
「キラさんが押されてる……アフロディーテって、こんなに強かったですか?」
「違う、アフロの力はいつもと変わらないよ。周りに飛んでいるスカイグラスパーが問題なんだ」
フレイ機に接触せんばかりにつき従う5機のスカイグラスパーを、サイはモニターで指した。ラスティのスカイグラスパーはエールストライカー、そして他はジェットストライカーを装備している。「あのスカイグラスパーのせいで、キラも思うような攻撃が出来ないんだ。モビルスーツと違って、武装を撃つだけでパイロットの死に繋がるからな」
「つまり、スカイグラスパーを盾にしてるってことですか!? 卑怯だよ、そんなの!」
マユが静かに口を挟む。「ナオトがちゃんと黙示録撃ってれば、ラスティたちもこんなことしないですんだのに」
「関係ない! 元からキラさんを痛めつけるつもりだったんでしょ、君たちアマクサ組は! キラさんを挑発までしてっ」
激怒するナオトをよそに、サイはキラがスカイグラスパーを撃てないもう一つの理由を思い起こす。それはサイにとっても、思い出したくない痛ましい記憶だった。
間違いない。キラはスカイグラスパーを見て──トールを思い出している。
恐らくそこまで見抜いて、フレイはこの作戦を仕掛けたのだろう。
サイはフレイの内に潜むものに、戦慄せずにはいられない。無惨に死んだ友人だろうと何だろうと、利用出来るものは何でも利用して、欲しいものは手に入れるつもりか。彼女の身体の中では、血ではなく無数の蛇でものたうちまわっているのか。
彼女をそこまで駆り立たせるものは何だ? そこまでしてキラを追いつめる理由は何だ? 強化されて何を植えつけられたのだ、彼女には!
マリューの叫びが、思考に耽溺しかけたサイを打つ。<本当なのサイ君!? まさか、あれのパイロットが……すぐにキラ君に>
「駄目です艦長! キラに伝えれば、その瞬間にフリーダムは討たれる!」


「今だ! フェイズ17実行っ」
アフロディーテに従うスカイグラスパー部隊は、その時澤の一声と共に一斉に翼部のストライカーを切り離す。ラスティのエールストライカーだけは残し、切り離された4機のジェットストライカーは勢いよく加速をつけて雲を散らし、一息にフリーダムに特攻していく。キラは当然、襲いかかってくる翼も全て撃ち落したが、あまりの爆煙と塵で視界は最悪となった。
キラに生じたその僅かな瞬間を、相手は決して見逃さない。今度は波を蹴散らして海中から脚部に喰らいついてくる、カラミティのロケットアンカー。
「サイ……アマミキョ……どうして君たちが、こんなことを!」
その瞬間、キラの中で怒りと共に、輝くSEEDが爆発した。


カラミティのロケットアンカーがフリーダムに切り落とされてから、海中に潜むカラミティの全ての砲門が沈黙させられるまでの時間は、3秒もなかった。
さらにフリーダムは、戦闘不能となったカラミティを乗せているディープフォビドゥンの装甲アレイをも撃った。結果、風間の乗るディープフォビドゥンは爆砕には至らなかったものの、右側のアレイを破壊され一気にバランスを崩す。
当然、カラミティは海中へ滑り落ちてしまった。黒い泡と破片を吐き散らしながら沈んでいくカラミティを必死で追いつつ、風間は壊れた機体を精一杯動かして水の上の空を凝視した。「ここまでね……頼んだわよ、時澤軍曹!」


カラミティの砲が盛大に爆発して、辺りは水柱と爆煙に包まれる。その中から──
フリーダムを真っ直ぐ狙い、朱に染まったビームサーベルが飛び出してきた。
水柱の向こうからブーメランの如く投げつけられたもので、光の刃は空を切り裂いて旋回しながら飛んでくる。フリーダムは疾風の動きでそれをかわす。が、水煙を突き破りキラの眼前に、紅の女神が再び堂々たる姿を現す。紅の鬼と表現した方が的確か。
自分ともあろうものが、方向を読まれた。キラは思いがけぬ相手の動きに唇を噛む。
彼──いや彼女は、強引にキラの中に入ってこようとしている。その為には、あらゆる手段を講じる。こうまでフリーダムの正面に出たがる相手とは、一体何なのだ──キラが考えを巡らせている間に、女神は手慣れた機動で戻ってきたビームサーベルの柄を掴み取る。さらに、女神を守るようにスカイグラスパーのトリコロールカラーが前に出てくる。自らの存在を主張するように。
その瞬間、キラの脊髄を氷柱のような感覚が突き抜けた。蘇えるものは、2年前の惨劇の記憶。あの機体と一緒に吹っ飛んでいった、友人の首。
無惨に切断されたその切り口からは、破砕された動脈の組織までが見えた。自分の死を殆ど理解も自覚も出来ぬうちに、彼の全ては塵も残さず散った。彼の栗色の髪や舌や爪先までが空で焼かれていく光景を、キラの類稀な視力は全て目撃してしまった。連合の為でも何でもなく、彼らを守る為に、彼ら友人と生きのびる為だけに、自分はモビルスーツに乗ったのに──
さらに紅の女神は、ビームカービンの光を真っ直ぐに放ってくる。撃つと同時に突っ込んでくる機体。
「飛び込ませるか!」キラもまた相手と対をなすように、ルプス・ビームライフルを撃つ。衝突する二つの閃光。衝撃波で、海面に盛大に飛沫があがる。空気が振動し、周囲に点在する島の木々の葉があちこちで竜巻を起こす。巻き上がる土、水柱。あまりの光量に、キラは黄昏の空が一瞬暗闇に落ちたような感覚に襲われた。
同時にキラは、バラエーナでスカイグラスパーの翼を狙う。忌まわしい記憶を叩き落そうとするように。「頼む、無事に降りてくれ!」


この瞬間に翼部を破壊されたスカイグラスパーは、3機。幸いなことに、時澤機とラスティ機は巻き込まれずにすんだ。煙を噴いてよろよろと落ちていく味方機を横目でチェックしつつ、時澤はラスティと通信する。「フレイ嬢の指摘通りだ。スカイグラスパーを撃つのに、フリーダムは若干のためらいがある」
<気をつけてくださいよ。0.01秒の余裕が0.1秒になった程度の差なんですから!>
「十分すぎる!」
乗員の脱出を確認しながら、時澤は再びアフロディーテに接近する。ラスティも同じだ。「意地でもパイロットは殺さないつもりか。甘いことを」
<てめぇの手が汚れるのが嫌なんでしょ。だけど、ここまで効果があるとはね>


「撃つな、もう撃っちゃいけない、二人とも!」サイは声を限りに叫ぶが、当然戦闘中のキラとフレイには何も届かない。フリーダムの動きから明らかだ、キラは苦しんでいる。
と、ティーダの機体が揺れた。横に降りたルージュがティーダの肩部を掴んだのだ。<本当なんだなサイ!? キラを惑わす虚言を呈すようなら、今ここで貴様を殴る! 出て来いっ>
「こんな嘘で誰が得をしますか代表!」ナオトのメットまで掴む勢いでサイは身を乗り出し、叫ぶ。さらに彼はアークエンジェルへ通信を送った。「ラミアス艦長! お願いします、俺たちをキラのいる場所まで上げて下さいっ」
<サイ君、無茶よ。何処に私たちが入り込める隙があると思って?>


フリーダムのバラエーナが再び砲火を放つ。それはアフロディーテに残されたただ一本の脚部関節をかすめ、さらに時澤のスカイグラスパーの右翼部も直撃した。瞬間、アフロディーテは閃光を放つ脚部を自ら切り離し、爆発寸前の手榴弾を投擲するようにフリーダムに脚を投げつける。
当然そこにも、内部にスティレットが仕掛けられていた。シールドで防いだものの、青い翼は瞬く間に劫火に包まれる。黄昏の光に満ちようとしていたはずの晴れた空は、戦場の炎で紅に染め上げられていた。
炎を突っ切るように、スカイグラスパーから脱出して海面に降下していく時澤。浮上してきたディープフォビドゥンが素早く彼を収容するのをモニターでを確認しながら、フレイはなおも笑っていた。
「腕は落ちていないようだな……まさに理想的な種ではないか! ラスティ、来いっ」
既にアフロディーテのエネルギーも残り40%を切り、IWSPは煙を噴いている。機体はいつものように軋み始めている。それでもフレイは未だにフリーダムの姿を執拗に目で追っていた。
「何故なら、彼こそは真に兄弟を守り、迷い子たちを救う者なり」
煙幕を振り切ろうと、フリーダムは海面へと急降下する。その瞬間、アフロディーテはビームサーベルをフリーダムに向かって再度ブーメランの如く投擲し、さらにその閃光の刃をカービンで撃った。
ビームの干渉による盛大な菊の花が、黒海に咲き誇る。光の真下に位置していた小島は、哀れにもその一瞬で炎となって吹き飛んだ。空を貫く水柱が、アークエンジェルやティーダをも襲う。


迫る光の奔流を、フリーダムは正面からアンチビームシールドで防御する。それでも光の花弁はフリーダムの翼にも襲いかかった。一旦海面に逃げたはずのフリーダムは、その光に押し出されるように再度高空へ急上昇せざるを得ない。さすがに青き翼はそれだけで折れはしなかったが、アフロディーテはなおもフリーダムを追って上空へ飛ぶ。急接近する二つの翼。
眼が眩みそうになりながら、サイはその光景を両の目に焼きつけるべくモニターを睨み続けていた。
フレイ──どうして君は、そこまでしてキラを攻撃する。
キラの記憶は、完全にとはいかないまでも戻ったんじゃないのか。少なくとも、俺を忘れるほどキラを愛していた記憶は。あの雨の夜、俺に投げた言葉は嘘だったのか?
サイはその瞬間、心臓を引きちぎろうとでもするように自分の胸元を掴んだ。
俺はまだ、あの時のフレイの言葉が嘘だと思いたがっている。フレイが本当に好きだったのはキラではなく自分だと、今でも信じたがっている。フレイは父親の復讐の為にキラに近づいただけで、本当は未だに自分に好意を抱いている。だから今、コーディネイターと同等の力を得た彼女は、自分を惑わせたキラを憎み、殺したがっているのかも知れない──
何という男だ、俺は。そんなくだらない妄想を思いつけるほどに、俺は情けない豚になってしまったのか。
サイの思考を叩き壊すように、ナオトの叫びが響いた。「サイさん──見て下さい、フレイさんが!」
爆光の中、胴体と首だけになったアフロディーテが両腕部を翼のように広げる。既にアフロディーテの攻撃は停止していた。それを確認したフリーダムは、シールドを降ろしていく。
徐々におさまりつつある光と水煙。サイの目には二つの機体が抱き合おうとしているようにすら見える。紅の光が満ちる大空で、フリーダムに近づいていくアフロディーテ。
だが、彼と彼女の接触をモニターでズームアップした瞬間、サイは胃が喉元まで跳ね上がる感覚を覚えた。
「ちょっと……冗談でしょ、フレイさん!」ナオトの絶叫は、そのままサイの心境だった。あまりの事態に、サイは声も出せなかっただけだ。
アフロディーテのハッチが、開いていた。そこから──
連合少年兵の制服のままのフレイ・アルスターが操縦桿を離して立ち上がり、じっとフリーダムを見つめていたのである。
しかも額から血を流し、その血は顔の半分を染め上げている。火傷でもしたのか、上着が半分ほど焼けて破れ、左の肩から先が剥きだしになっている。
一体どのタイミングであんな怪我をした、フレイは? サイは思わず身を乗り出したが、モニターの中のフレイは何も答えない。ただ、眼前のフリーダムを見ているだけだ。その顔には、いつもの冷酷さや皮肉な笑みは欠片もない。優しく、キラを抱きしめるように、キラを守るように──微笑んでいる。
「何アレ……アフロディーテ、あんなに損傷してたっけ?」
「まぁ見てなってナオト」マユはこの事態を想定済みだったのか、一人にこにこ笑っている。「サイ、ここからがお祭りだよ」ウインクまでしてみせるマユ。
マユを殴りたいと思うのは、今を最初で最後にしたい。混乱の中、サイは痛切にそう思った。


この事態に──ダーダネルスであれだけの強さを誇った自由の青い翼は、完全に停止してしまった。
2年前あれだけ愛した少女が、2年前突き放した少女が、2年前守れなかった少女が、目の前にいる。目の前の血の翼から、血塗れになって自分の前に姿を晒している。
光の風の中で靡く、紅の長い髪。
離別した時と全く同じ、連合の制服。その制服は、左肩が襟のあたりまで破れて血に染まっていた。破れ目で靡く糸までが、キラには見える。
剥きだしになった腕は皮膚がめくれ上がっている。火傷を負わせてしまったのだろうか──光と爆煙の中、半裸で自分を抱きしめるように両手を広げる少女。白く若い素肌に、紅の傷はまばゆく映える。細い身体は病的な美すらたたえている。
その姿はフリーダムのモニター全面に捉えられていた。頬に流れる紅の筋まではっきりと、キラには見える。その筋は傷ついた胸元にまで流れている。かつて自分を抱きしめてくれた、あの豊満な胸に。
──私の想いが、貴方を守るから。
かつての少女の言葉が、キラの胸に蘇る。マリューの警告もカガリの叫びも、今のキラには届かない。
生きていた。生きていた。生きていたんだ!
ヤキンの宙で、自分の目の前で、分子レベルで消し飛んだはずの彼女が、生きていたんだ。
「フレイ……」
2年間、口にするだけで心臓が食い破られそうな痛みを伴ったその名を、キラは万感の愛しさをこめて呟く。彼女の紅の髪は、キラを撫でようとするようにこちらへ流れる。彼女の群青の瞳から弾ける涙も、キラの眼ははっきりと確認していた。
もう一度声を聞きたかった。もう一度、あの体温を感じたかった。
──もう一度、抱きしめたかった。
厳重な鍵をかけて心の奥底に永久に閉じ込めたはずのその想いが、キラの中で一瞬解放される。SEEDの影響で光を失っているはずのキラの瞳が、いっぱいの涙で煌いた。
フリーダムの両腕が、傷ついた紅の女神に伸ばされる。


「やめろおおおおおおおおおぉぉおおおおっ!!!」
その時のサイの絶叫はキラへの警告か、キラへの嫉妬か。
それはサイ自身にも判断がつかなかった。キラに向けられたフレイの笑顔に、自分は耐え切れなかったのか──それとも、この直後のフレイの行動を察知してのものだったのか。
まるでサイの叫びに呼応するかのように、アフロディーテの翼が機動する。双対のレールガンが、真っ直ぐにフリーダムに向けられる。
今のキラには、状況に疑問を呈するほどの余裕があるわけがない。フレイがただそこにいるだけで、生きて目の前にいるという事実だけで、キラの精神は弾け飛ぶ寸前になっているはずだ。
フレイと再会した時の俺もそうだった。あの時は非常時でも何でもなかったから俺はある程度状況を分析することも出来たが、今のキラは戦闘中だ。
フレイは一見、操縦席から立ち上がりハッチから乗り出しているように見える。だがティーダの高感度カメラは、その内部までしっかり捉えていた。ナオトが驚嘆と憎悪の混在した声を上げる。「信じられない……化物だよ、足で動かすなんて」
そう──フレイはブーツとタイツを脱ぎ捨て、足の指でコンソールパネルを操作していたのだ。上半身は光に晒し優しい笑顔を見せながら、下半身で確実に相手を狙っている。
「どういうことだよ。記憶は戻ったんだろ……どうして!」
怒りに震えるサイの声も届かぬまま、アフロディーテの黒い翼がフリーダムへ、レールガンの炎を噴射した。


フレイの背後から撃たれた劫火。至近距離から突然撃たれた火線はフリーダムの両腕を貫いた。それも、構造上フェイズシフトが展開し切れない関節部を正確に狙って。
キラの咄嗟の機動で右腕への攻撃は何とかよけたものの、フリーダムの左腕はシールドごと炎にもがれてしまう。
その意味を殆ど理解出来ないまま、キラは反射的に機体を上昇させていた。シールドと左腕が、ちょうど真下に移動してきたアークエンジェルの上に落ちていくのを確認しつつ、キラは叫ぶ。「フレイ! 一体どうしたっていうんだ、僕だ!」
その間にも、フレイの乗る血のストライクはキラに迫る。フレイをコクピットに棒立ちにさせたまま。それなのに、フレイは血の流れる笑顔のままだ。
さらに、キラが撃ち損ねていたラスティのスカイグラスパーが血のストライクの背後へ回り、エネルギーが消耗しかけたIWSPとエールストライカーの換装作業に突入していた。キャノン砲でフリーダムを牽制しながら。
キャノン砲ではフリーダムにダメージは与えられない──そのはずだが、実弾攻撃によるコクピットへのわずかな震動は、今のキラには十二分に揺さぶりになりえた。
その不快さにキラは思わず機体を翻し、スカイグラスパーの翼を頭部の防御機関砲で撃つ。それだけでスカイグラスパーは、切り離しかけたエールストライカーごと火を噴き海面へと落ちていく。攻撃を予測でもしていたか、乗員のラスティは撃たれる前から準備をしていたようで、キラが見たこともない手際の良さで脱出していた。
このおかげで眼前の機体はエネルギー切れ寸前となったわけだが、既にキラにはそこまで頭を回す余裕はない。いや、気づいてはいたが手が動かない。状況が、キラの全身を痺れさせていた。
トールの思い出に、今現れているフレイの姿。記憶を次々に蹂躙される痛みに、キラは苦しむ。喉から呻きが漏れた。
自分は地獄にでも迷い込んだのか。ラクスが宇宙に上がり、女神は自分から離れてしまったのか? そんな錯覚がキラを襲う。
だが、スカイグラスパーの無数の破片の向こうから、さらにキラを動揺させるものが現れた。
それは、涙を流しながら自分を止めようとするフレイ──
フレイが、泣いている。撃とうとする自分を見て、泣いている。血を流して。その血は自分が流させたものだ。
守ると誓った少女。結局守れなかった少女。それでも、彼女はこうして再び自分の前に蘇った。
それなのに、自分はこともあろうにそんな彼女を撃ってしまった。酷い傷を負わせてしまった!
あまりの現実に、完全に無防備となったフリーダム。その懐に、再び入ってくるアフロディーテ。純白の装甲に、血の女神はゆっくりとその掌を接触させる。機体を通じて、コクピットに直接、相手の声が響いた。
<キラ、やめて! 私を忘れちゃったの……?>
間違いない。偽者じゃない、これはフレイの声だ。いつだって、僕を慰めてくれた声。あの地獄の中でただ一人、僕を分かってくれた人の声。必死で僕に助けを求めてきた声。
何かに操られてこちらを攻撃させられている可能性を、キラは考えついた。それなら自分の取るべき方法は一つ。助けなければ!
フレイをこちらに収容後、機体を破壊する。そう決意し、キラがハッチを開きかけた瞬間──
キラの全身が、ビルの3階から勢いよく投げ落とされたような衝撃に襲われる。今度は相手の頭部バルカンが閃光を発し、キラのいるコクピットハッチへの直接攻撃を開始したのだ。
<この世でたった一人、私を守ろうとしてくれたキラ──貴方まで、私を捨ててしまうの?>
フレイの切ない叫びが、震動よりも激しくキラを揺さぶる。


夢でも幻でもない。これは悪夢だ。サイはそう感じずにはいられなかった。
フレイの涙は、ティーダの高感度カメラでしっかり捉えられている。なのに、アフロディーテの攻撃は執拗に雨あられとなってキラを責める。それも、フェイズシフトだと分かっていながらの実弾攻撃──
殺すのではない。キラの心を踏みつけるつもりだ、あの女は!
「酷い。酷いよ、こんなの酷いよフレイさん!」ナオトはその光景を見ていられず、両手でメットごと頭を抱え込む。何も見るまいとして。
サイは思い出す。2年前、メンデル付近でフレイが再びアークエンジェルの前に姿を現した時もそうだった──キラは彼女を助けようとして、連合の最新モビルスーツどもにフリーダムの首を飛ばされたのだ。あのキラが。あの無敵のフリーダムが。
キラは絶対に、フレイを撃つことは出来ない。それどころか、彼女を挟んだ戦闘も容易ではない。俺が間にいてすら躊躇するのだ、ましてやそれがフレイでは──
それでこのような戦法を選んだというのか、フレイは。
それとも、キラと接触を果たしたことで記憶や人格の混乱が生じているのか。強化された人間には、そのようなことがよく起こるとも聞いている。それはマユやカイキを見ていても類推できる。
だが、今のサイには判断がつかない。元のフレイが強化フレイと身体の中でせめぎ合っている結果が、この状況だとでもいうのか。記憶の狂いが生じているのなら、どうしてあれだけ正確かつ無駄のない攻撃が出来る?
と、その時足下からの軽い震動がサイたちを襲った。同時に、マリューの怒声がコクピットを貫く。
<やめなさい! これ以上フリーダムを攻撃するなら、ローエングリンをぶっ放す!>
フレイの攻撃は遂に、あの人情家マリューの怒りまでも誘発してしまったようだ。アークエンジェルがフリーダムを救うべく、海面から上空へ浮上を開始する。
この人の軍人らしからぬ物言いは相変わらずだ──サイは思いながらも、即座に反論した。「攻撃はやめて下さい、艦長! 浮上して頂けたのは感謝します、しかし自分たちは貴方がたの意図を知りたいだけだっ」
<だったら、アレは何なのサイ君? これ以上やるようなら、貴方たちを攻撃対象とみなします。貴方とナオト君がいるから警告するのよ、でなければもう撃っている>
「待って下さい艦長。自分に考えがあります」
サイは懸命にマリューに呼びかけた後、すぐにナオトとマユを振り向いた。「二人とも、すぐにティーダから降りてアークエンジェルに移れ」
そのサイの言葉に、ナオトははっとして顔を上げる。サイの意図を僅かながら感じ取ってしまったようだ。「まさか……」
そのナオトの視線を振り払うように、サイはもう一度言い放った。「危険なんだ、二人とも降りろ! 代表が収容してくれる」
「駄目です! また、死ぬ気なんでしょ?」ナオトが思わず両手で、サイの手を押さえた。「僕、今なら黙示録撃てます。あんなものを見るくらいなら、撃っておけば良かった!」
バイザーの中のナオトの眼が、涙で腫れあがっている。そのノーマルスーツの手が、サイの腕をきつく握りしめる。黒ハロも飛び跳ねた。「サイ、ソレ、ダメ、シヌ。シヌ!」
「黙示録を撃っても、フレイは防御してしまうよ」サイはナオトを安心させる為に、敢えて笑顔を見せる。飛び跳ねるハロに手を乗せながら、ナオトの手をもう一方の手で優しめに握り返した。「大丈夫。フレイは、絶対にティーダを壊さない。そうだろ、マユ」
「そうだけど……無理だよ」
「調べさせてもらったけど、起動後なら俺でもスラスターぐらいは噴かせる。早く降りるんだ、マユ。女の子がここにいちゃいけない」
「やだ」マユはぷいとサイから顔を背ける。彼女は頑として、席を動こうとはしなかった。「どうしてもサイが行くなら、マユも行く。サイじゃティーダをうまく飛ばせるわけない」
「僕も行きます!」ナオトが即座に言い放つ。「フレイさんを止めるなら、僕何でもします! 僕はサイさんを守るって決めたんだっ」
動こうとしない子供たちを見て、サイは感謝すると同時に自分の不甲斐なさに愕然とした。確かにマユの指摘通り、俺の腕では飛ぶこと自体は出来ても、思い通りにティーダを操るのは難しい。
だが何よりも、守ろうとしたナオトからこのような発言をされるのは情けなかった。
子供にこんな言葉を吐かせて、俺はどこまで弱い大人なのだろう。「すまない……ありがとう、二人とも」
「ちょっとだけだよ。危ないようなら、すぐに引くからね」その言葉と同時に、マユは力いっぱいペダルを踏んだ。ティーダのスラスターに火が入り、太陽の名を持つ機体が大天使の上で、再び立ち上がる。


夕暮れの迫る高空で、アフロディーテは遂にフリーダムの左肩部を掴んだ。頭部バルカンが尽きると同時に今度は、IWSPから対艦刀を抜き放ち、フリーダムのコクピット近くに振り下ろす。勿論フリーダムのフェイズシフトは刃を完全に防いでいたが、それでもなおアフロディーテはその刃と装甲を執拗に接触させ続けた。木を焼く雷の如き轟音があたりを揺るがす。フリーダムのハッチを食い破ろうとするように、白い装甲へ侵食していく女神の刃。
機体へのダメージは防いでいるものの、キラの身体の震えも心への衝撃も止まることはない。警告音がコクピットに鳴り響く。フリーダムは今、完全に相手に組み伏せられる形となっている。モニターの向こうには、守るべき人──フレイの優しい笑顔が、未だに夕陽の中で揺れていた。
<キラ……まだ、思い出してくれないの? 私、思い出したよ。貴方のこと、ちゃんと思い出したのよ!>
「忘れるわけない。忘れられるはずがないよ!」キラは声を限りに叫ぶ。接触回線が正常なら、自分の声だってフレイに届くはずだ。「ずっと忘れなかった。ずっと会いたかった。ずっと話がしたかった、僕は……」そこから先はもう言葉にならない。僕は、止まっていたんだ。何をすればいいのか分からなくて。
2年の間、誰にも見せることの出来なかったものが、目尻から溢れ出す。キラはさらに叫ぼうとする──だがそれより先に、目の前のフレイの唇が動いた。刃は未だにキラを揺さぶり続ける。その刃が放つ火花の向こうで、フレイの髪が紅く靡く。血流のように。
<じゃあ、今貴方の心にいる女神様は、誰なの?>
その意味を一瞬では理解できず、キラは戸惑う。「何を言っているんだ、フレイ? 危ないよ、早くそこから降りて、こっちへ来て!」
瞬間、装甲に食いこんでいたアフロディーテの刃が、激しい金属音と共に破砕した。フリーダムの固さに耐え切れなかったのだ。だが、フレイは折れて宙に舞い上がった刃の破片をよけようともせず、血みどろのまま微笑み続ける。<貴方がアークエンジェルで戦い続ける理由は、何? 
キラ──私の知っている貴方は、戦いなんか嫌だって言っていたじゃない!>
アフロディーテは突然、フリーダムを突き飛ばすようにその肩部から両掌を放した。だがそれも一瞬のことで、アフロディーテはキラが防御する間も与えずに今度はフリーダムの頭部を両掌で掴む。フレイの姿がいっぱいに映されていたメインモニターに、激しいノイズが入った。
黒く走るノイズにかき消されそうになりながらも、フレイはにっこり微笑んでいる。<キラ──私はずっと、想っていた。願っていた。
キラに会いたい。キラに会いたい。キラに会いたい>
そうだ。僕もそう想っていた。そばにあの子がいても、僕は何処か空虚だった──フレイともう一度、会って話がしたかった。それが出来ないまま君が消えて、僕の時間は停止してしまったんだ。
コクピット中に紅の警告ランプが明滅するのも、キラは何らかの錯覚だと思っていた。思いたかった。
<私の本当の想いが、貴方を守る──その強い魂が、フレイ・アルスターを宇宙から呼び戻した。
だから私は、帰ってきたの。貴方の処へ>
言葉とは裏腹に、さらに強く握り締められるフリーダムの頭部。<そう。殺したいほどに、貴方に会いたかった!>
フレイの呟きと、フリーダムの頭部右アンテナが潰されたのは、ほぼ同時だった。


フレイ機がフリーダムの首を潰さんとする光景を、サイは激しい加速の中でまざまざと見せつけられた。さらにアフロディーテは、一本残っていたビームサーベルを抜き放つ。紅の閃光が真っ直ぐフリーダムに向けられる──
違う。サイは胸が潰れんばかりに叫びたかったが、ティーダの加速がそれを許さない。
違う。俺は君にそんなことをさせる為に、ここまで来たわけじゃない! 死にもの狂いでここまで君についてきたのは、ただ君をキラに会わせたかっただけだ。
二人で本当のことを話してほしかった。刹那的に互いを求めるのではなく、話をしてほしかっただけだ、俺は! 
「誰が……誰がキラを殺せなんて頼んだああああぁあああっ!!」
舌を噛みそうな重力の中で、サイはそれだけを叫ぶ。もしや、未だにフレイを欲する俺への罰のつもりなのか。
アフロディーテに組み伏せられ落下してくるフリーダム、そこへティーダは一気に突進する。「サイさん、耐えて!」ナオトが叫び、サイは身体を丸めて来たるべき衝撃に備えた。
今まさに刃で切りつけられようとしていたフリーダムに、ティーダは横から思い切り体当たりする形となった。魔女の手から恋人を取り戻そうとするように、ティーダはアフロディーテからフリーダムを引き離す。
ちょうどうまい具合に2機の真下へ浮上してきたアークエンジェル。その甲板に、ティーダとフリーダムは叩きつけられるように滑り込む。この拍子にサイは背中と右肩に一発ずつ衝撃を喰らったが、幸運にも意識は失わずに済んだ。
そのままティーダは、落ちたフリーダムを守るようにして立ち上がる。今まで自分たちを守ってきた血のストライクを眼前にして。
<サイ……貴方何してるの? 邪魔だからどいてよ>
気の抜けたようなフレイの声が響く。うるさいからチャンネル変えてよ、とでもいうような無気力な声。だがサイは痛む腰を押さえ、怯まずに叫んだ。
「どかない! 君がキラを傷つけようとする限り、俺はどかないっ」
その瞬間、フレイの声色が一息に変化した。真っ直ぐティーダに向けられる、アフロディーテのビームカービン。あの「強化」フレイが、サイを脅しにかかる──何処かナタル・バジルールを思い出させる声だとその時感じたのは、そばにアークエンジェルが来た為だろうか。サイにとっては日常になってしまったあの声が、大空にこだまする。
<甘いな。ティーダで庇えば私が退くとでも思ったか!> 同時にビームカービンが光を放ち、ティーダの右足が爆砕される。一気に体勢を崩すティーダ。
サイはバランスの崩壊していくティーダの中で、舌を噛まないように口を噤むのが精一杯だ。「そんな! どうしてだよフレイさんっ」ナオトの叫びも実に虚しい。マユがその理由をご丁寧にも解説してくれたが──「だから無理だって言ったの。ティーダで大事なのはコクピットだけで、ぶっちゃけ手足なんかどうでも……ああっ!」
マユの悲鳴と共に、ティーダはぶざまに転倒する。そのすぐそばには、同じように倒れこんでいるフリーダムがいた。


フレイの眼前には、大天使に助けられるように無様にただ横たわるフリーダムの姿がある。アフロディーテに向けて、どうぞ殺してくれとでも言うように胸部をむき出しにして。数日前にキラと接触を果たしたアスラン・ザラがこの光景を見れば、絶叫していたことだろう。その横では、脚を折られたティーダが背部スラスターを晒している。
だが、フレイの足の指はさらに細やかにコンソールをたぐる。手の指と全く同じに。フリーダムを助けるべく駆け寄ろうとするルージュを、彼女は軽くビームカービンで牽制した。残りエネルギーは、わずか3%。
──よって我は怒りに満ちた懲罰と大いなる復讐をもって、わが兄弟を毒し、滅ぼそうとする汝に制裁を下す者なり
エゼキエル書がフレイの唇から漏れると同時に、アフロディーテは一息に上空へ飛んだ。


サイがハッチを開いた瞬間見えたものは、両脚部を失ったまま夕空へと飛翔するアフロディーテだった。その掌部にはビームサーベルが光る。その切っ先は間違いなく、フリーダムの翼を狙っていた。
その瞬間、サイの脳裏で雷鳴の如くある考えが閃いた。炎の記憶と共に。
チュウザンでフレイと再会した時、彼女は俺に何と言った。爆撃の中で、ダガーLと堂々と対峙しながら俺に何と言った。
──お前は私が守る。だから私に従え!
あの時の言葉が確かなら、そして彼女の技術が確かなら、必ずフレイは止まる。散々酷い目に遭わされてはきたが、「あの」フレイが約束を違えたことはない。
どういう運命の悪戯か、あの時のダガーLは今俺の前で女神となり、自由の翼をもごうとしている。ティーダでも彼女を止めることは出来なかった。だが、あるいは、もしかしたら──
サイは身を起こすと同時に、ハッチを完全に開け放った。幸い、ハッチからアークエンジェルの甲板までは2mも離れていない。反射的に夕闇の中へ身を躍らせ、サイは甲板上に直接飛び降りた。覚悟は既に決まっていた。
純白と群青に彩られたフリーダムのコクピットハッチが、幸か不幸かすぐそばにある。キラの命を守るべく何重にもガードされたはずのハッチは今、フレイの攻撃で何箇所も焼けただれていた。サイの目には血を噴いているようにすら見える。傷つけられた装甲は激しい炎熱を放っていた。おそらく人間が触れればその瞬間、二の腕までが焼かれてしまうだろう。それでも──
俺は、傍観者でいるのだけは、もうごめんだ。


ナオトが顔を上げた時、サイの姿はそこにはなかった。ティーダのハッチが開け放たれ、羊水の如き紅に染まる空が見える。そこに浮かぶは、両足のない血のストライク。ティーダの横には、あのフリーダムが倒されている。ティーダとフリーダムの2機は、ちょうど互いに向かい合う格好で倒れていた。
血のストライクのビーム刃は今、ティーダをうまくよける形でフリーダムの翼、そして胸部を狙っている。IWSPがおそらく最後であろう噴射を行なう。無防備なままのフリーダム。
ナオトが思わずティーダを機動させようとした、その時──
彼は血の光の中、誰に言っても信じてもらえないであろう光景を目撃した。
フリーダムとアフロディーテの間に、敢然と立ちはだかる生身の人間がいたのである。フリーダム以上に無防備で、パイロットスーツもノーマルスーツも着用していない。しかも刃を向けて突進してくる紅の鬼に対して、両腕を大きく広げている。
フリーダムを守るように。そして、アフロディーテを抱きしめるように。
その、史上最高に馬鹿極まりない人間がサイ・アーガイルだとナオトの脳が認識した瞬間──
彼の喉が今度こそ破裂するかという絶叫が、天空に響きわたった。

 

 

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