迫ってくる紅蓮の光と熱、そして大気圧。ビームサーベルがこれほど空気を熱するものだなんて、知らなかった。チュウザンの灼熱の太陽よりも遥かに熱い。
ホント、俺は馬鹿だ。こんな方法でしか、フレイを止められないとは。
サイはアフロディーテの目前に立ちはだかりながら自嘲する。アフロディーテは今まさにフリーダムを斬ろうと、光を振りかざし突入してくる。広げた自分の腕が激しく震える。海水の混じった汗が、サイの全身を駆けめぐる。
光の向こうで笑うものは、アフロディーテ。紅鬼の顔面。酒乱の神のように紅く染まったモビルスーツは、真っ直ぐに迫る。サイの存在そのものを吹飛ばそうとして。
──さすがに、怖い!
サイの内股が、空気を切り裂く轟音と共にがくがく揺れる。身がすくむ。反射的に眼を背けてしまったのは、決して眩しさによるものだけではなかった。
そして、光の粒子の塊が生み出す熱さがサイを直撃した瞬間──
肉体全てをゴミのように散り散りにされる感覚と共に、サイの意識は暗転した。


まさに同じ瞬間、アフロディーテのフレイにも変化が発生していた。
「どこまで偽善を貫くというか、貴様は!」
モニターでサイの姿を確認した瞬間、フレイの形相が著しく歪む。まるで痙攣を起こす老婆のように、その美しく白い頬に怒りの皺が刻まれた。
同時に、彼女の脳裏で弾けたものがあった。紅蓮に輝く進化の種──SEEDが。


発生した轟音が、ティーダをコクピットごと激しく揺さぶる。
衝突し、擦れ合い、互いを崩壊させていく金属の悲鳴。命を切り刻み、潰していくかの如き業火の音。心臓と胃を洗濯機に投げ込まれたかの如き衝撃。砕ける波の音。
ナオトはこともあろうに、その時起こった現象を全く見てはいなかった。ティーダのコクピットの中でただ彼は、ヘルメットごと頭を抱え、何も見るまいとしていたのだ。
しかも両手で視界を塞いだ為に、操縦桿からも完全に手を離していた。
パイロットとしても、レポーターとしても失格である。自分の情けなさを自覚しながらも、ナオトは震えながら泣きじゃくり続けることしか出来なかった。
「サイさん、ごめんなさい、ごめんなさい、サイさん……僕は結局、サイさんを守れなかった……守るって約束したのに……だけど、何もあんなことしなくったって、サイさんの馬鹿」
そんなことを延々呟きながら、ナオトは頭を振りながら泣き続ける。
だが、震えが止まりようやく静かな波の音が聞こえ始めた頃、そのふやけた感情をマユの平静な声が中断した。
「ナオト、大丈夫だよ。サイは生きてる」
「へ?」
ナオトが思わず頭を上げると、涙でぼやけた視界にマユの小さな背中が見えた。ナオトを振り向かぬまま、マユは呟く。「マユが、ちゃんとサイを守ったから」
ナオトは慌てて周囲をモニターで確認する。両脚を失ったアフロディーテが甲板で、前のめりに倒されている。正面から甲板に墜落したも同然の状態で沈黙しており、首の接合部が半分がた折れ曲がり、黒煙が出ていた。コクピットブロックまでは損傷していないようだが、フレイの姿は見えない。
さらにティーダの状態も確認すると、右腕のトリケロスだけでなく左腕も失われていた。隣で倒れているフリーダムは先ほどと同じく、傷ついた翼を背負ったままだ。機動した形跡はない。
そこへ、ストライクルージュがティーダの左腕を大事そうに抱え、着艦してきた。その掌は閉じた状態で、海水がぼたぼた零れている。どうやら海に落ちたティーダの左腕を、ルージュが拾い上げてくれたらしい。
ルージュはその腕を赤ん坊でも降ろすように丁寧に甲板に置くと、掌部を強引にこじ開けた。
海水が溜まった掌のくぼみに、サイが倒れていた。モニターで確認する限り、気絶はしているものの奇跡的なまでに無傷だ。ビームの熱で制服や髪が若干焼け焦げているようだが、目立った外傷はない。ナオトの目尻から、また涙がこぼれてバイザー下部を汚した。「良かった……」
「ナオトの、いくじなし」
マユはサイの姿を眺めたまま、静かに言い放つ。その言葉でナオトは、先ほどマユに殴られた痛みをまた思い出す。マユは明らかに、ナオトの情けなさに怒りを露にしている。
今まで、マユが僕に怒りをぶつけたことなんて、なかったのに。
その時ルージュは、動けないアフロディーテに静かにビームライフルを向けていた。カガリの凛とした声が、戦いの終わりを告げる。<そこのパイロット──気は済んだか?>


種を明かせばこうだ。
ナオトが絶叫した瞬間にマユが反応し、ティーダの左掌部でサイをアフロディーテから庇った。既にSEEDが弾けていたフレイの咄嗟の機動で、サイとフリーダムに振り下ろされようとしていたビーム刃はわずかに逸らされ、ティーダの左腕関節部を斬るにとどまった。
当然、そのままアフロディーテがティーダと激突すればサイの命も消し飛ぶので、アフロディーテはさらに強引にビーム刃でティーダの左腕を上空に切り飛ばし、サイごと海へ放り出したのである。
その代償に、アフロディーテは正面からアークエンジェルの甲板に激突した──
フレイはまたしても、約束を守ったのだ。「貴様は私が守る」──再会の灼熱の夜、サイと交わしたあの約束を。


サイが意識を取り戻した時最初に視界に飛び込んできたものは、ナオトの泣きはらした大きな眼だった。
「サイさん! 良かった、良かったです無事で……ごめんなさい、僕サイさんを守れなくてっ」ナオトはそのままサイの首に抱きつき泣きじゃくる。
「ナオト……え、俺、生きてるのか?」すぐに状況が掴めるはずもなく、サイは自分が生存していることにまず驚いていた。赤ん坊のように泣くナオトをあやしながら、サイは周囲と自分の身体を注意深く見回す。頬と腕に軽い火傷を負ってはいるが、他に痛む処はない。
そしてこの、薬品臭い部屋──サイには確かに見覚えがあった。
2年前、ミリアリアが怒りにまかせてディアッカを刺しかけた部屋。同時に、フレイが狂いかけて銃を手にした、あの医務室だ。
この場所にも、サイはいい思い出はなかった。思えば、キラもトールも失い、フレイとフラガ、ナタルが船を去ろうというあの時こそ、自分の精神の平衡が崩壊する寸前だった──
今ここに戻っているということは、どうやら自分たちはアークエンジェルに収容されたらしい。
「ナオト、教えてくれ。フレイは、キラは、どうなった? ティーダは」
医務室の机の上では、マユが何事もなかったように腰を下ろして両脚をぶらぶらさせて遊んでいた。ティーダもここへ運ばれたのか?
「キラさんなら、無事です。フレイさんは──」ナオトが言いかけた時、不意にその背後から声がかかった。「その質問には、私が答えよう」
オーブの軍服を纏ったカガリ・ユラ・アスハ、そしてマリュー・ラミアスの姿がそこにあった。ナオトはカガリを見た瞬間、真っ赤になってサイから離れ、直立不動の姿勢をとる。何しろ、憧れのアスハ代表が目の前にいるのだ。
サイにとっては久しぶりの再会──のはずだが、そこに流れる空気は決して歓迎のそれではない。当然だろう、自分は彼女たちを謀にかけたも同じなのだ。
「無事に回復したようだな。安心したぞ」にこりとも笑わず、カガリが口を開いた。「フレイ・アルスターの身柄は預からせてもらった。若干怪我はしていたようだが、ピンピンしてる。水中型カラミティも、あの後損傷した機体で無理に追撃してきたので、やむを得ず収容してパイロットを拘束させてもらったよ」
マリューが言葉を継ぐ。「ティーダとカラミティも、ケージに収容してあるわ。あの、真っ赤なルージュもどきもね」マリューは「もどき」の部分に明らかに辛辣さをこめて言い放つ。
さらにマリューは、厳しい態度を崩さずにサイの前に立ちはだかった。久しぶりに見る大きな胸が、サイとナオトのすぐ上で揺れる。「サイ君。貴方の捨て身の行為のおかげで、戦闘は終結したとも言える。そのことには感謝しているわ……
だけどね、私たちは貴方のメッセージを受け取ったからここまで来たの。みんな反対したけれど、そうしようと言ったのはキラ君よ。分かるわね」
「貴方がたを欺く形になったのは、大変申し訳ないと思っています」サイはゆっくりと身を起こし、眼鏡をかけ直した。枕元に制服が畳まれている。サイは初めて自分が下着姿同然ということに気づき、さりげなく毛布で身を隠す。「ただ自分たちは、貴方がたの行動の意味を知りたかった。
貴方がたが代表をさらってから、自分たちはチュウザンで救援活動が出来なくなったんです……アークエンジェル追跡命令が、連合からアマミキョに下されて」
「何だって!?」カガリが動揺を露にする。今にもサイの胸倉を掴む勢いだ。「馬鹿な。オーブの救援船を、私たちの追跡に使うなど」
「それが最善の選択だと、連合上層部は判断したのでしょうね」サイは静かにカガリの目を見据える。「救援用の民間船であるアマミキョなら、アークエンジェルも攻撃は出来ない。しかもアマミキョには元クルーの俺がいるから連絡役もこなせる。さらに、強力な傭兵もいる。
ここまで条件が揃えば、アマミキョを使わない方がおかしいと思いませんか? そりゃ自分だって、最初は相当抵抗がありましたけどね」
「すまない……私たちは、何も知らなかった」カガリが唇を噛む。そんな彼女に、サイは無礼を承知で言ってのけた。「代表。貴方が行方をくらましたことで、本国のみならずオーブゆかりの国々は大変な影響を被っています。アマミキョも、チュウザンもそうだ。それでも貴方がたが公式に声明を発表せず、ただ戦闘介入を行なうのは何故です?
俺は元クルーとして、貴方がたの真意を知りたい。だから卑怯を承知で、この作戦にも参加したんです」
サイは毛布の中で器用にズボンを履き、両脚を床に下ろした。幸いにも、身体に全く異常はない。「ところで、ここはザフトの海域のはずですが」
「今は、潜っているのよ」マリューが少し表情を和らげた。「あの後に私たち、ザフトに追われてね。三角帽子の空戦モビルスーツに一斉攻撃されたの。でも、何とか振り切って」
簡単に言うなとサイは頭を抱えたくなった。アークエンジェルに潜水機能が新たに搭載されたことはサイも知っていたが、こんな無茶に使われるとは。おおかたヘルダートとバリアントを撃ちまくり、ノイマン少尉の操船技術を頼りにどうにか潜った──そんなところだろう。
だとしたら、キラに撃墜された山神隊やラスティたちはどうなったのだ? フレイが囚われの身となった今、自分たちはどのような行動をとるべきなのか?
そもそもフレイの行動理由も、サイは全く分からなかった。ナオトが早口で説明したところによると、どうやら彼女は俺を庇う為に身体を張って機体を停止してくれたらしい。彼女は必ず約束を守る──サイの賭けは、大当たりだったのだ。
ただ、キラを攻撃した理由は一体何だ。そして今、おとなしくここに囚われているのは何故なのか?


山神隊風間曹長のディープフォビドゥンは、損傷した二機のスカイグラスパーをワイヤーで牽引しつつアマミキョと通信を試み、さらなる海中へと潜りつつあった。レーダーの範囲内で、アークエンジェルを捉えながら。
「ここまで逃げれば、ザフトのレーダーも届かないでしょう……時澤軍曹、大丈夫ですか?」風間曹長はレーダーを睨みつつ、牽引中のスカイグラスパーに通信を送る。
<肉体的には平気だけど精神的にはどうかなぁ、この男臭さはたまらないよ。風間曹長、自分だけでもそっちへ行っていいかい?>
「泳いで来られるというのでしたら、歓迎します。こちらだってアレイは壊れているし、余裕ないんですよ」
本日20回目の時澤のため息が通信から漏れた。何せ時澤のスカイグラスパーコクピットには、救助した他数名のパイロットが詰め込まれている。もう一機牽引されているラスティのスカイグラスパーも同様の状態だ。<連合の曹長さーん、こっちは水漏れ中でーす。これ以上潜ると補修剤も追っつきませーん。何とかアマミキョには戻れませんかねぇ?>
「目標を目の前にして、何言ってるの。サイ君たちやフレイ嬢、モビルスーツが拿捕されている限り迂闊な真似は出来ないけど、何かあったらすぐに行動を起こす──それまでは待機及び追従よ」
<救援もなしに、どうやって行動起こすんすか。さっきのバビどもの攻撃凌ぐのだって手一杯だったでしょうが、あの混乱の隙にカラミティまで向こうに捕まっちまったし>
「何故あの状態で強引に向かっていったのかしら、カイキ君たら……まさかマユちゃんの為?」
<分かってるなら聞かんで下さいよ>
「アークエンジェルといい貴方たちといい、どうして私情で行動するの!」
弱気ではあるが現実を衝いたラスティの発言に、さすがの風間も焦りを隠せない。慌てた時澤の声が響く。<お、落ち着いて風間曹長。ともかくラスティ君、アマミキョへの通信は途絶させないように>
アークエンジェルがこちらへの攻撃意志を見せていなくて幸いだったが、もしフレイたちを人質に取られてこちらを攻撃、もしくはアマミキョの明け渡しでも要求されたら──
「お願いよ、サイ君」風間が今最も頼りにしていたのは、フレイやアマクサ組ではなく、あの優しげな眼鏡の青年だった。彼ならば、この状況をどうにか打破してくれるのではないか──いや既に、崩壊寸前の状況をどうにかしたのではないか? 海面の上の戦闘の詳細は風間には分からなかったが、あの激しい戦闘が突然中止されたのは彼女の目から見ても不思議だった。
もしかしたらその中心に、サイがいたのではないか。半壊しているアレイの様子をモニターで睨みつつ、風間はいつしかそんなことを考えていた。


「それにしても──本当に生きていたのね、彼女」
制服に腕を通すサイを見ながら、マリューは呟く。勿論、フレイの件だ。「サイ君。アマミキョで、ずっと彼女と一緒だったの? 貴方が彼女を連れてきた理由は何? 彼女がフリーダムを──キラ君を惑わせた理由は?」
そのマリューの茶褐色の瞳は、サイを見てはいるが何処か別の場所を見ている気がした。フレイのことを聞いてはいるが、別のことを聞きたがっているようにも見えた。先ほどまでマリューが見せていた険しさは、相当和らいでいる。そして彼女は、サイの奥底を痛く刺激する言葉を吐いてしまう。
「彼女がもう一度現れた時、貴方は平気でいられた?」
「平気でなんか、いられるわけないでしょう」サイはその無遠慮とも言える台詞に、思わずシーツを握りしめた。抑えていた感傷が爆発寸前となる。「今だってそうだ。フレイの行動理由は、俺には半分も分かりません。俺は何も分からないまま、フレイにここまで連れてこられたようなものなんです」
そこへ、ナオトが口を挟む。「代表、艦長、信じてください。サイさんも僕も、あのフレイさんには散々な目に遭わされて、サイさんなんか何度も死にかけたんです。それでもサイさんは」
「誰もお前を疑ったりしてないさ、ナオト」感情を荒げるナオトの肩を、カガリがぽんと軽く叩いた。それだけでまた、ナオトは真っ赤になってしまう。
カガリはナオトを立たせ、サイを振り向いた。まるでサイの感情を気遣うように、笑顔まで見せて。「サイ、ちょっとナオトを借りるぞ。それと」
カガリの視線が、机に腰掛けたままの少女へ向けられた。それにいち早く気づいたマユは、机から飛び降りる。「マユ・アスカでーす。はっじめまして、お姫様!」
あまりに無邪気に「お姫様」と呼ばれ、カガリの顔が一瞬曇った。だがそれよりも彼女を動揺させたのは、その名前だ。「マユ……アスカだと?」
カガリの動揺には全く気づかず、ナオトは髪の毛まで紅くする勢いで頬を紅潮させている。カガリに直接触れられるだけでも、彼にとっては夢のような出来事だった。
並んで立ってみると、ナオトの方が若干背が低い。オーブの軍服に包まれた小ぶりな胸、微かに香る金髪。そして、カガリの象徴とも言える黄金の瞳──カガリの全ては、ナオトがずっと敬愛してやまないものだ。それはナオトに限らず、多くのオーブ国民が同様の感情をカガリに抱いていたのだが。
そんなナオトの態度を、マユはきょとんとしたまま見つめている。そのお尻のあたりから、黒ハロが飛び出した。「ナオト、ウワキ。ナオト、ウワキ」
「ち、違うよ違うったらマユ! 黙れよハロっ」慌てるナオトの頭を、カガリの手がくしゃっと撫でた。「ここまで本当にご苦労だったな、ナオト・シライシ、マユ・アスカ。向こうに茶を用意させてある……いつまでもパイロットスーツのままでも、窮屈だろう」
その一言と共に、カガリはナオトとマユを連れて部屋を出て行った。「えー、マユはイチゴジュースがいいー!」「分かった分かった」「マユ! あまり代表に無茶言うなよ」
子供たちの喚声が遠ざかると同時に、再び医務室に重い沈黙が漂った。サイはネクタイを締めつつ、口を開く。「心配なのはキラです。俺だって、フレイのことを考えると今でも頭が変になりそうになる。キラは多分、もっと混乱してしまう。あいつは大丈夫ですか」
「貴方、相変わらず優しいのね。それに強い」マリューは少し淋しげに微笑んだ。美貌は相変わらずだが、どこか年齢よりも老けているように見えたのは、気のせいだろうか。「私が同じ状況だったら、きっと壊れてしまう」
それでサイは気づいた。彼女は、フレイと同じように2年前に消えた、フラガ少佐を想っている──サイは起こした身体を一旦、思い切りベッドに自ら放り投げた。未だに左腕の傷が痛んだ。
おそらくマリューやカガリはサイの治療をする時、傷を見たのだろう。それで、アマミキョでサイに何があったか、おぼろげながら推測したのに違いない。死んだはずの恋人と行動し、いつしか心も身体も傷つけていった自分を、彼女らはどう思っただろう。マリューの目がどこか哀れみをたたえていたのは、その為か。
「ラミアス艦長。自分は、強くはありません。ひょっとしたら俺はもう壊れているのかも知れない、そう思ったこともあるくらいです。壊れたまま、フレイと一緒に酷い夢を見ているだけかも知れないって──」
その時、戸口のあたりから不意に何かが羽ばたく音がした。サイが頭を回すと、黄と明るい緑に彩られた鳥がサイに向かって飛び込んでくるのが見えた。
「トリィ!」なんとも単純な鳴き声を上げながら、鳥はサイの上をぐるり旋回するとそのまま彼の頭の上に止まった。どこか懐かしげに、サイの髪をくちばしでつついてみたりしている。
その鳥を、サイはそっと両手で抱えて頭から下ろした。それはキラの大事にしていた、機械じかけの小さな鳥だった。
サイはこの鳥にも覚えがある。サイ自身、彼のメンテナンスをしていた時期があったのだ。キラもフレイもトールもいなくなってしまった、あの2年前の地獄の中で。
丁寧に細工された硬い羽に触れながら、サイは思い出す。俺はこの鳥に、涙を見せたことがある。
「トリィ、覚えてたんだね。サイに世話になったこと」懐かしい声に振り向くと、2年前と変わらぬ笑顔のキラが、そこに立っていた。「マリューさん、僕はサイを借りるよ。アークエンジェルも新しくなったし、色々案内したいところがあるんだ」


サイがキラに連れてこられたのは、実に豪勢な大浴場だった。旧日本の温泉を思わせる、岩や竹のオブジェをふんだんに使った風呂場だ。
ご丁寧にも「天使湯」などという看板まで掲げられている。一体誰のセンスなのかサイは想像もしたくなかったが、キラがわざわざ説明してくれた。「ラクスとバルトフェルドさんの発案なんだ。戦艦であっても、いや戦艦だからこそ安らげる場所が必要なんだって。戦闘中は水を抜いて、きちんと収容できるようになってるから心配ないよ」
「リラックススペースを拡張したとは聞いていたけど、まさかこんなことになってるとはな。俺たちが水に困ってユニウスセブンを彷徨っていた時からは考えられないよ」そう皮肉りながらも、サイはゆっくり湯船に浸かる。キラとは3メートルほど距離を置いて。
チュウザンの過酷な環境からでは想像すらつかぬ岩風呂。暖かな薬湯が常に溢れ、磨かれた黒い床には湯気が流れる。湿度の調整も完璧だ。
本当にこれが、かつて死線の真っ只中にいた船だろうか──そして今も、死線の只中に自ら飛び込もうとしている船だろうか。
「良かった、サイが無事で」頭にタオルを乗せたキラが、笑顔のまま話しかけてくる。「庇ってくれて、ありがとう。
サイがいてくれなかったら、僕はどうなってたか」
先ほどのマリューといい、この風呂といい、キラの笑顔といい、何故この船は俺の怒りを誘発させるようなことばかりする──サイは湯と同じに溢れだそうとする言葉を抑えながら、敢えて黙っていた。
「会えて、嬉しかった。本当だよ」サイの態度に気圧されたのか、キラの口調が若干どもりがちになる。自分が相当苛立っていることにサイ自身驚きながらも、サイは怒りを抑えて静かに言った。
「俺のことはいいよ。他に言うことがあるだろ」
「あ……そうだ。ラクスは今、いないんだ。バルトフェルドさんも。今、宇宙に上がってて」
何故、そこでラクス・クラインが出てくる──「ディオキア基地で、ラクス・クライン搭乗予定のシャトルが奪われたと聞いた。奪ったのはお前だ、キラ。ラクスさんはお前と一緒にいたはずなのに、いつの間にかプラントで歌っていて、そのラクスの乗るシャトルをお前が奪った。そして別の誰かが宇宙へ行った──こいつは一体どういうことなんだか、俺にはさっぱり分からない。代表を拉致した件も、ダーダネルスでのこともだ。
キラ。俺に出来ることがあるなら、俺はお前を手助けしたい。だが今のままじゃ、アークエンジェルやお前を理解しようったって、無理だ」
その言葉で、キラの表情に張りついていた笑顔が消えた。傷ひとつない首筋が、湯気の中に浮かんだ。「ごめん。最初から、分かるように説明するよ。
そのかわり、約束して」キラははっきり顔を上げ、サイを見据える。
「あのフレイのことも、きちんと話して。アマミキョで何があったのかも」
「遠慮するなよ。最初から俺はそのつもりで、お前に会いに来たんだから」


英雄・キラの服を着せて、多少ご機嫌を取っておいて良かったのかも知れない。そういう手段はユウナ・ロマを思い出させ、カガリは好きではなかったが、今このような少年を前にした時にこそ有効なのだろう。
数分前カガリの個室に連れられたナオトは、昔のキラの私服をカガリに着せられて有頂天になっていた。白く大きな襟が目立つ、袖がふくらんだ黒の上着だ。カガリ自身ソファに凭れながらそんなナオトを見ていると、2年前出会った頃のキラを思い出し、少しだけ気分が晴れた。
あの時のキラは、純朴で何も知らない、真っ直ぐな少年だった。カガリはそんなキラに、ほのかな恋心すら抱いたことを思い出す。肉体を制御するかのような服ばかり着るようになってしまった今は、その頃の可愛らしさは失われてしまったが。
目の前でくるくると自慢げに回ってみせるナオトの姿は、カガリにあの頃のキラの匂いを感じさせていた。だがその直後にカガリがナオトに言い渡した言葉は、ナオトにとってはそんな嬉しさを全て吹っ飛ばすほどの衝撃だったらしい。
「分からないようなら、もう一度言う。ティーダを降りるんだ、ナオト・シライシ」
年端もいかぬ少年が自分を見つめる、憧憬の瞳。それがみるみるうちに歪んでいく。その様子があまりに痛々しく、カガリは内心驚いた。それほどまでにティーダに乗りたいというのか、この子供は。
2年前のキラと同じ格好をした少年は、必死で首をぶんぶん振り続ける。「嫌です! だって、僕に乗れって言ったのは代表でしょ!? 代表の為に、オーブの為に、アマミキョの為に、僕はティーダに乗ろうって決めて──」
「申し訳ないが、それは違う。あの時君に送ったビデオレターは、私の本意ではなかった」
オーブの中学の制服に着替えたマユ・アスカは、カガリとナオトの話を聞いているのかいないのか、隅のテーブルでイチゴジュースの3杯目をストローで美味そうに飲み干していた。カガリはその様子を確認しつつ、ナオトに目を向ける。
下手に勘のいいらしいナオトは、茫然と立ち尽くしたままその言葉の裏にあるものを読み取ってしまっていた。「もしかして、セイランの……」
「お恥ずかしい話だが、その通りだ。私はユウナ・ロマの口車に乗せられた……尤もその時は私も、君はティーダのパイロットにふさわしい元気な少年だと思った。オーブ視聴者の評判も良かったしな。だが、今は状況が違う。ティーダといえども、戦闘は避けられない」
「だから、今更ティーダを降りろって言うんですか? そんなの勝手ですっ」
「勝手は承知の上だ」今にも涙が溢れそうなナオトの大きな茶色の瞳を、カガリはソファに座ったまま見据える。「アマミキョで継続してレポートを続けるのは構わない、しかしティーダは降りろ。子供が、あんなものを使ってはいけない!」
「代表だって、僕くらいの年でルージュに乗っていたじゃないですかっ」「だからこそ言っている。下手に兵器を扱い、心を壊され命を散らした子供を何人も見た!」自分がかつて自由に砂漠で暴れ、宇宙で戦ったことが、こんなところで影響してくるとは──カガリは今更のように後悔する。
その時、ヒートアップしかけた会話をマユが中断した。「何言ったって、無駄だよ。国を捨てたお姫様が」
マユはいつの間にか4杯目のジュースを飲み干し、笑顔のままカガリに歩み寄る。「ちゃんとオーブに戻らない限り、何わめいても無駄だよ。ナオトもマユも降りない。お姫様には、降ろせない。だいたい、ティーダはマユとナオトでなきゃ、100%動かないんだからね」
「アスカと言ったな」カガリは改めて、マユの姿を確かめる。数ヶ月前ミネルバで会った少年のことを、カガリは思い出していた。家族を殺された恨みを、真正面から自分にぶつけてきた少年──後で調べさせたところによると、オーブ出身のシン・アスカという少年だった。彼の言う通り、オノゴロ戦の民間人犠牲者データベース内には彼の家族の名があり──
マユに中学の制服を着せてみて、正解だった。マユ・アスカの写真データと、ぴたりと一致する。その事実に、カガリの背筋に戦慄が走った。
「何故だ。フレイといい、何故お前たちが生きている?」


「──だいたいの事情は、分かった」
サイとキラは湯船に浸かったまま、お互いの事情のほぼ全てをさらけ出した。
ラクスがザフトに襲われたこと。キラがラクスを守る為に、フリーダムを動かさざるを得なかったこと。ラクスが狙われた理由は、プラントでデュランダル議長が仕立て上げたもう一人のラクスにあること──
「あれは偽者だったのか。細切れの映像見せてもらったことがあるけど、どうも雰囲気が違うと思ってたよ。それに胸の大きさが全然……」
「それ、ラクスの前で言わないでね」
「会えることがあるなら、注意しとく」
サイは滑らかな岩の上に両腕と顎を乗せ、吐息をつく。ラクスがプラントで歌っていた謎はこれで判明した。だが、そうなるとオギヤカにいたというラクスの存在が、ますます分からなくなる。キラの話では、ラクスはディオキアまでずっとアークエンジェルにいたというじゃないか。
疑問はまだある。キラたちの行動そのものだ。
「俺も、キラとラクスさんにはずっと静かに暮らしてほしかった。お前を戦わせてしまった俺としては、今後ずっと戦わずにいてほしかった。それをぶち壊した奴らは、絶対に許せない。
だが、それが代表を拉致したり、ダーダネルスで暴れる理由にはならないだろう?」
「そうだね。だけど、カガリの結婚はカガリ自身望んでいなかったし、オーブの為にもならないと思ったんだ。ダーダネルスでの介入は、カガリの意思。それを助けるのは、僕の役目だ」
「だが結果として国内のアスハ派は求心力を失い、オーブは連合の言うなりに出兵するハメになった。代表がオーブで頑張っていれば、セイラン派の目論見も崩せる可能性だってあった。結局お前たちのやったことは、オーブの為にはなっちゃいない。
オーブの出兵に抵抗しての戦闘介入だって、無茶苦茶だ。何故公式に声明を出させない? 代表やラクスさんほどのカリスマ性があれば、連合にだって対抗できる。連合内部にだって親プラントや親アスハはいくらでもいる。連合上層部やブルーコスモスに不満を持つ者たちだって大勢いる。何故その無党派層を利用しない? 俺たちと一緒に来た連合の山神隊だって、アークエンジェルにいた俺をある程度理解し、見逃してくれていたんだ。
だが、お前たちが無茶な戦闘を繰り返したおかげで、彼らの反アスハ、反アークエンジェル感情は一気に高まってしまっている。今更力を借りようったって、無駄だろう。
何故そんな風に自虐的に暴れようとする? アークエンジェルとフリーダムだけで、物事がどうにでもなると思っているのか?」
「確かに、僕らのやっていることは間違っているのかも知れない……アスランからも、同じことを言われたよ。
だけど、許せなかったんだ。カガリやラクスがあれだけ一生懸命にオーブやプラントのことを想って行動しているのに、それを打ち砕こうとする人たちがいるのが」
「その人間たちだって、オーブやプラント、それぞれの国の平和を想い努力しているんだがな。デュランダル議長だって、ラクスさんが憎くて偽者を立てたわけじゃない。ユウナ・ロマだって、アスハが憎くて無理矢理カガリ代表を娶ろうとしたわけじゃない。プラントの、オーブの為に必要だったから──」
「だったら、ラクスが殺されたりカガリがいいようにされるのを、黙って見ていろというの?」
「誰がそんなことを言った。今お前たちがやるより、もっといい方法があったと言っているんだ。尤も、過去形だが」
湯気のせいか感情の昂ぶりの為か、サイの頭には血が昇っていた。キラはそんなサイの話をおとなしく聞いているように見えたが、そのあどけない横顔は何処か思いつめているようにも思える。「僕は、ラクスとカガリを守りたいだけだ。彼女たちを守る為だったら、僕は誰に恨まれたって構わない。たとえ、それが君やアスランでも……」
「どうしてそこまで近視眼的になる? 俺はお前を恨んでなんかいないさ、ただお前が分からないだけだ。ラミアス艦長にしても……まるでキラや艦長は、2年前になくしたものを忘れようとして暴れているように、俺には思えるんだ」
キラの後ろ髪から、一筋しずくが流れ落ちる。噴き出す湯が止まり、浴場に静寂が訪れた。蛇口から零れる水滴の音が、やけに大きく響いた。「フレイのことを言いたいの?」
「フレイを守れなかったから、かわりにラクスさんを守るつもりなのかと……俺はそんな邪推をしたことがある」
「馬鹿にしないでよ。そんなことで罪滅ぼしになるはずがないことぐらい、分かってる」
キラはタオルを頭から外し、鼻まで湯船に沈めた。ぶくぶくと口元で泡を立てている。こんな子供っぽい癖があったのか──サイは少々呆れながらも、言葉を続けた。
「お前が意外に冷静だったんで、安心した。正直驚いてもいる。もっと正直に言うと、怒ってもいる。どうして冷静でいられる?」
サイは先ほどマリューにされた質問を、わざとキラにぶつけてみた。案の定、キラの口から出たのは怒りの混じった言葉だった。「冷静でなんか、いられるはずない。
そもそも、あのフレイは何? サイは本当に、何も知らないの? 強化されて人格が変化したってこと以外に」
「俺が聞きたいくらいだよ。お前と接触して、フレイの記憶は完全に戻るんじゃないかと期待していたんだが」
「逆効果だったのかな。ごめん」
キラが再び顔を背ける。サイはそれを見て、また苛立ってくる自分を感じていた。その理由がよく掴めぬまま、吐き捨てるように言うことしか出来なかった。「何で謝る」
「2年前から、君にはちゃんと謝らなきゃって思ってた。君とフレイと三人で一度、しっかり話をしなきゃって。君にもフレイにも僕は、酷いことをしてしまったから……でも、それは二度と出来なくなってしまった。僕はそう思ってた」
キラは震える身を抑えるように、両手で顔を覆う。濡れた髪が揺れ、しずくがその若い肌の上で弾けた。「だからフレイが僕の前に現れた時、僕はすごく嬉しかった。例え、攻撃されても。
サイなら分かるよね」
湯の中で、サイは拳を握る。当たり前のことを言うな。嬉しかったから俺は、何が起こっても耐えられた。
「サイ。君がフレイを連れてきてくれて、初めて僕は力を使える気がするんだ」キラは水面とキスでもするように唇を湯に近づけ、自嘲的に呟く。
「僕はね、2年前から自分の力をどう使っていいのか、分からなかった。力があったって、僕は何も出来なかったから。君やたくさんの人を傷つけた上に、フレイも、トールも、ムゥさんもナタルさんも、ヘリオポリスの人たちも、モルゲンレーテの女の人たちも、ウズミさんもシーゲルさんも守れなかった。アスランの友達まで殺した」
「自分を責めるな。お前は、俺たちを守ったじゃないか」
いつの間にか、サイとキラの距離は1メートル以内に縮まっている。呻くようなキラの悔悟が、サイの耳をうった。だがそれは、サイの怒りを徐々に増幅させていく。
「今だって、僕は力をどう使っていいのか、分からない。フレイのことを振り払いたいだけかも知れない、それでやたら力を使っているのかも知れない、それでまた誰かを傷つけて……」
延々と続くキラの呟き。お前が無能だというなら、俺は一体なんだ? 耐えかねて、サイは遂に湯を跳ね上げ立ち上がった。
「本当に何も出来なかった無能を前にして、そういうことを言うな!」
のぼせあがってしまった為か、サイの怒りの感情はごく簡単に怒声となってキラに叩きつけられた。キラは突然のサイの爆発に驚き、思わずその身体を凝視していた。そしてキラの大きな瞳が、さらに見開かれる──
一瞬、前をまともにさらけ出してしまったことをサイは後悔したが、キラが見ているものはそんなものではないとすぐに気づいた。
サイの胸に、地割れのように走る裂傷。未だにえぐられた傷が残る左の二の腕。漆黒の痣は色素沈着を起こし、生涯取れることのない呪縛のようにサイの腕にとりついている。首から背筋にかけて、赤い龍のようにうねる広範囲の火傷。それらの傷を、キラはじっと見つめていたのだ。
「悪い、変なもん見せちまったな。心配しなくても、ほぼ完治してるよ。アマミキョには名医がいるんだ」
「そうじゃないよ」キラはきまり悪そうに、サイの身体から顔を背ける。本当に嫌なものを見た──その横顔が、はっきりと語っていた。「サイは、強いね。僕なんかより、ずっと」
押し殺すようなキラの声。その意味を掴むことが出来ぬまま、サイはざっと湯船から上がった。「んなこと、ないさ。俺なんかもうのぼせてる……先上がるぞ」
その時、キラの瞳に一瞬宿った暗い影を、サイは気づかなかった。気づいたとしても、意味は分からなかっただろう。意味を知ったとしても、理解することは出来なかっただろう。
ほてった身体に一杯の水を浴びせ、サイは言う。「俺は、お前にはきちんと力を使ってほしい。お前にも、代表にも、ナオトにも、……フレイにも。
きちんとした力の使い方なんて俺も知らないが、少なくとも今のお前のやり方は違う。お前もラクスさんも、きっとそれは分かっているはずだ。
俺は、お前がいたから生きのびられた。俺をここまで生かしてくれたその力を、無駄に使わないでほしい」


サイが着替えを終えて廊下に出ると、マユがにこにこ笑いながら待っていた。「マユ……おい、ナオトは?」
「代表とケンカ中。だからサイを連れに来たの、早く行ってあげて」
「何だって?」代表にまで何かやらかしたのか、あの馬鹿は。ティーダを巡っての口論だろうと何となく予想はついた。キラが上がってからまた話をしたかったが、今はナオトの方が優先だ。
足早に廊下を急ぐサイを、マユが満面の笑みのまま追う。それにしても、マユがナオトを気遣い俺を呼ぶとは──多少不審なものを感じながらも、サイは先を急いだ。
そして、カガリの個室にたどり着く大分前から、ナオトの怒声は廊下から聞こえてきた。「嫌だ! 僕はキラさんや代表みたいになりたいんです。キラさんみたいに強くなって、ティーダで戦争を終わらせるんだ。僕にはその力があるんです。代表は僕の戦いぶりを見ていないから、そんなことを言うんだっ」
ナオトの大声には慣れたつもりだったが、サイにとって衝撃だったのはその言葉だった。ナオトがそんなことを考えてティーダに乗っていたとは──キラやカガリの戦い方は、ナオトに予想外の影響を及ぼしていたのだ。それを知ってか知らずか、カガリも声を張り上げている。
「馬鹿者! このまま中途半端に腕を上げて調子に乗った時が、一番危ないんだ。私は自分自身がそうだったから、分かるっ」
「サイさんと同じようなこと言わないで下さいよ!」
自分の名を挙げられ、思わずサイは部屋に飛び込む。その時には、ナオトは既にカガリに掴みかからんばかりの勢いでまくしたてていた。カガリもそれにつられて熱くなりソファから立ち上がっている。「何故そんな強情を言える、自分に力があるなどと!」
「落ち着け、ナオト。代表の前だぞ」こんなことには慣れてしまったサイは、ゆっくりナオトを後ろから羽交い絞めにするようにして押さえる。だがその時サイは、ナオトの異常に気づいた。
目の前のカガリを食い殺そうとでもするように歯を剥きだし、口元から涎まで垂らしている。その大きな目からは涙が迸り、瞳孔が若干拡大していた。何よりサイが驚いたのは、ナオトの背中から伝わってくる動悸の早さだった。
どうやら、カガリもその異様さに気づいたようだ。愛らしかったはずの少年が今、目を血走らせて息を弾ませ、獣のように暴れている。元々の目が大きいだけに、それをいっぱいに見開き白目を剥いた顔はさらに痛々しい。
「離して、サイさんの馬鹿、離せよ! 僕はティーダに乗らなきゃいけないんだ!」
「ナオト……一体何が?」カガリはその理由が分からず、茫然としたままソファに崩れ落ちる。床にへたりこまなかったのは、カガリの意地か。
「父さんが言ったんだ! 僕は世界を革命する子供だって……僕は進化の担い手だって! だから僕はティーダに乗って、キラさんを超えるんだっ」
やっぱりか──サイは自分の悪い予感が当たってしまったことが、実に悔しかった。ナオトが父親につけられた傷は、サイやフレイの荒療治だけで簡単に治せるものではなかったのだ。
勿論、父親に言われたからナオトはティーダに乗らなければならない、などという理由はない。だがあの工場で父親に刻印されたナオトの傷は、いつの間にかそんな刹那的な思考にまでこの子供を追いつめていたのだ。自分は父親の望む通りにティーダに乗り、SEED持ちとして戦わなければならないと──自分の傷を癒すには、ティーダに乗り続ければならないと。
暴れるナオトの声はやがて言葉の形を成さなくなり、ただの絶叫へと変わっていく。サイはそんな彼を後ろから必死で抱き込む。そのサイの剥きだしの腕に、ナオトが噛みついた。
痛みで、サイは思わず顔を歪ませる。カガリの悲鳴が轟く。右腕に食いこんでくるナオトの犬歯──湯に浸かったばかりのサイの肌に、血が流れる。
それでもサイは、ナオトを離さなかった。ヤハラの河原でのように、俺の血を見て少しでもナオトの理性が戻るなら、俺はいくらでも血を流してやる。それが、こんな子供をティーダに乗せてしまった、俺の贖罪だ。
それでもさすがに痛みに耐えかね、サイは思わずマユに助けを求めようと廊下を振り返った。だがそこでも、ある異変が発生していた。おい、勘弁してくれよ、頼む──
マユが頭を押さえながら、うずくまっていたのだ。「お兄ちゃん、サイ、ナオト……助けて。頭、すごく痛い」


その騒動も知らず、キラは依然と湯船に浸かり続けていた。
囚われのフレイの存在、そしてサイの言葉と傷が、彼の心を激しく乱していた。サイやカガリたちの前ではなるべく平静を装うようにしていたが、一人になるとどうしてもフレイのことを考えてしまう。
ラクスが自分と一緒にいる限り、自分はもう揺るがないと思っていた。彼女とカガリの存在があれば、自分は大丈夫だ。何処でも翼を羽ばたかせて堂々と生きていくことができると、そう考えていた。その思いは、アスラン・ザラと再会した時もいささかも変わらなかったのだが──
しかし今キラは、フレイと再び出会ってしまった。しかも、彼女を連れてきたのはサイだ。キラの過去の象徴とも言える二人が、いっぺんに襲いかかってくるとは。
2年前に封印したはずの自分の罪と傷が、痛みを伴って蘇る。アフロディーテと接触した時自分を襲った激震は、今も心臓を揺るがす。
サイが明かしたフレイの話も、キラには正直にわかに信じることは出来なかった。
まず彼女の生存理由からして、おかしい。自分の目の前で跡形もなく、炎の中焼失したはずの彼女が、何故殆ど無傷で生還している?
サイはその瞬間を直接見たわけではないから、たやすくフレイの生還を受け入れられているのかも知れない。しかし自分ははっきりと見たのだ──彼女が、炎熱の中でその美しい肌と紅の髪を吹飛ばされる光景を。彼女の連合の制服が散り散りになる瞬間を。
しかも、彼女は強化されてモビルスーツパイロットとなりアマミキョを率いているという。そして、かつてのナタル・バジルールを思わせる人格に変貌している?
「とにかく、彼女と話さなきゃ」キラはようやく湯船から上がった。全てが信じられぬことばかりだが、現実に彼女は今、アークエンジェルにいる。あれだけ帰りたがっていたアークエンジェルへ、2年ぶりに帰ってきたのだ。
それにしても、何故サイと一緒だったのか──何故自分の処ではなく、サイだったのか。
僕に関する記憶だけが、それほどまでにきれいさっぱり消えていたのか。僕は2年間、どれだけ忘れたくとも忘れられなかったというのに。
ロッカーでキラは、きれいに畳まれた白いカッターシャツを身につける。フレイと話す時の為に、きちんと洗濯しておいたものだ。ハイスクールの夏服のようでキラは好きではない服だったが、カガリとマリューが余計な気を利かせて用意してくれたのだ。
そのシャツに腕を通しながら、キラは自分の腕と胸を見る。傷どころか、汚い毛ひとつ生えていない。滑らかで引き締まった肌の上で水滴が踊っている。その脳裏に、先ほど目撃したサイの傷跡が蘇った。
傷そのものの酷さもキラにはショックだったが、それ以上に自分を揺さぶるものをキラはその傷の奥に見てしまった。それは、深い傷を乗り越え、再生し、さらに上を目指して強く強く成長しようとする生命力。サイ自身気づいていない、魂の力だ。
──サイはきっと、これからもっと強くなる。
キラは絶望と共に確信する。サイは成長し、進化する。2年前とは段違いに強くなっている。そこに至るまでには、一体どれほどの苦難があっただろう──サイの傷は言葉よりも雄弁に、彼の遭遇した地獄を語っていた。実際、何度もサイは命の危険に晒されたという。それも、仲間の手で。
しかしサイはそれを乗り越え、フレイをここまで連れてきた。ひどい仲間でも受け入れ、その苦悩を理解しようと努め、遂に和解するに至った。
サイの力はパイロットとしての能力とか肉体的物理的なものではない。人を支え、導く力だ。人が本来持っている、進化の証だ。
キラは洗いたてのシャツの胸元を握る。友人が強くなるのは嬉しいことだ、だが何故──
僕は何故、サイに憎しみすら抱いている?
その時不意に、キラの心を見透かすような声が浴場から響いた。女の声。
「教えてあげようか?」
反射的にキラは振り返る。白い湯気の中に蠢く女の影を、キラは目撃した。間違えようもない紅の制服、濡れた紅の髪、輝く白い肌──キラが求め続けた女が、そこにいる。
「貴方、ずっとサイに嫉妬してたでしょう……キラ」
気づいた時にはキラは、再び浴場のガラス戸を開き、服を着たまま湯気の中へ飛び込んでいた。白く暖かい霧の中で微笑むその女──フレイ・アルスターを追って。


 

つづく
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