アークエンジェルのハンガーでは、コジロー・マードックが深々とため息をついていた。その目の前には、両脚を失ったアフロディーテに、両腕を失ったティーダ、そして砲全てを破壊されたカラミティが、半ば強引にフリーダムと一緒に回収されている。
それぞれの機体には、モルゲンレーテから集めてきた選りすぐりの技術者たちがとりついていたが、それでもマードックは頭を掻きむしりフケを散らさずにはいられなかった。
「まさかこいつら全部補修しろってんじゃねぇでしょうね? いくらサイ坊の頼みでも、アークエンジェルが修理代で沈んじまいますよ」
言いながら、マードックはティーダのハッチを見上げる。そのコクピットには、マリューが乗り込んでいた。開いたままのハッチから、マリューの声が響く。「モルゲンレーテから、出来る限りのパーツは持ち込んだはずよ。ティーダの装甲は元々こちらの開発なのだし、あの紅のストライクの脚部もルージュの予備パーツを使えば」
「そりゃあ、俺らの力になってくれるなら、これ以上嬉しいこたねぇんですが。ティーダもそうですが、IWSPを使えるヤツなんざ地上にそうはいませんからね。しかもフレイ嬢が……」
既に3時間ほどもティーダのOSとの睨みあいを続けているマリューは、独り言のように言う。「サイ君は命がけで、キラ君とこの船、そしてフレイ・アルスター、全員を守ろうとした。ここまで命を張って、あの娘を連れてきた。
私はその心意気を買いたいのよ。それに……って、ああもう!」
何百回目かのエラー音が、ティーダのコクピットにこだまする。マリューがどれだけ知恵を振り絞りキーを叩けど、ティーダのシステムは未だに起動すらしなかった。しかめっ面でペンを苛々と噛みながら、マリューは作業を続ける。「ザフトが、バビの攻撃だけで退いていくとも考えられない。静か過ぎるのよ。
もう一度大波が来る前に、せめてティーダだけでもこちらで動かせるようにしたいの」
マードックはやれやれと言いたげに、肩を竦めてみせる。「無理ですよ。モルゲンレーテで開発出来たのはティーダのトランスフェイズ装甲と光波発振システムのみで、OSの80%以上は文具団主導。俺たちには手ぇ出せませんや、特にOSは。何せキラが速攻で、解除は無理と言いやがったんですから。あのキラがですよ?」
「まさにブラックボックスか」マリューは咥えていたボールペンを、折れよとばかりに噛んだ。「パイロットがなじんでいない初期状態なら、まだ解除出来る可能性はあったのに」
──成長するOS。
脳裏をふとよぎったその言葉に、思わずマリューは戦慄した。そう、ティーダは成長している。それも、少年少女の感じやすい心を餌にして、癌細胞のようにその力を増殖させている。
自分には無反応のまま、そ知らぬ顔で認証エラーの青い画面を出し続けるモニターを、マリューは改めて睨みつける。だがその時、マリューの視線に反応するかのように、エラー画面がふっと消えた。
黒の背景に切り替わった画面に、一斉に赤い文字列が流れ出す。"System log in"の文字列が幾つも幾つも整然と並び、それは激流となって画面を下から上へ爆走を始めた。
マリューが異変に気づいたのと、ティーダのカメラアイがマードックの眼前で光ったのは、ほぼ同時だった。「ラミアス艦長! 降りて下さいっ」
震動するコクピット。ティーダは、動いていたのだ。「馬鹿な……システム起動!?」
マリューは必死でコントロールレバーを引き起こす。だが勿論、ティーダからの手ごたえはない。彼女の操作など意に介せず、ティーダは腕のない上半身を起こし、ハンガーの中で頭部をぐるぐると回す。何かを探すように、カメラアイを激しく瞬かせて。
「冗談でしょ! まさか……遠隔操作?」
 


PHASE-18 クルーゼの影



「ナオト……サイ、お兄ちゃん……痛い、痛いよ」
頭を押さえながら、マユはあまりの苦しさで廊下に倒れ伏す。そして彼女は、サイとカガリの眼前で盛大に、先ほど飲んだばかりのイチゴジュースを吐き出した。
サイの目には、イチゴジュースの赤が血にしか見えなかった。実際、血も混じっているだろう。
マユの悲鳴をBGMにしながら、ナオトはまだサイの腕に噛みついている。
──この子供たちをこうしてしまったのは、俺だ。俺が、戦わせてしまったから。
サイは腕から血を流しながら、ナオトを引きずるようにして床を這うように動き、ナオトと一緒にマユの頭を抱き寄せる。吐瀉物が、マユの口や黒髪、そしてサイの服を汚していった。
だがマユは、サイの腕の中でさらに謎めいた反応を見せる。いつもの朗らかな調子からは考えられぬ低い声色で、こんなことを口にしたのだ。「畜生……畜生、痛い、痛い、痛い、この身体は痛い、私を助けろ、おにい!」
その虚ろな瞳は、ひたすら廊下の向こう側を凝視している。それはカタパルトの方向だった。
ちょうどその瞬間だった。カガリの部屋のモニターから、マードックの叫びが轟いたのは。<代表! 大変だ、ティーダが動いた!>
怒声の向こうから響く、重みを伴った音。間違いなくティーダの駆動音だ。思わずサイは顔を上げる。
間違いない。ナオトとマユの痛みが、ティーダを動かした。正確には、ナオトの叫びにマユが鋭敏に反応し、ティーダが動いた──
ナオトとマユの感情は確実に連動を始め、そしてマユとティーダは、このように遠隔でティーダを起動出来るまでに一体化している。このままいくと、恐らくナオトとティーダも。
恐ろしい予感に心臓を縮めながら、サイは必死で子供らを抱きしめる。顔は笑みでいっぱいにしながら。
「大丈夫だ、ナオト。マユも、落ち着いてくれ。大丈夫、いい子だ、いい子だから、二人とも。な?」
その光景を前に、カガリはずっと立ちすくんでいることしか出来なかった。そんな彼女に、サイは目配せする。「代表──お願いします。
こいつらを、抱きしめて下さい」


「キラ。私、知ってるのよ。
貴方はずっと、サイに嫉妬してた。サイから私を取り上げたくてたまらなかったんでしょう?」
キラの眼前には今、連合の赤い制服のまま湯の中に立ち尽くしているフレイ・アルスターがいた。全身が濡れそぼり、服は肌にすっかり張りついている。それが、彼女の肢体をより鮮明にキラの目に映し出していた。
白い頬には血が流れている。左の袖は肩から裂け、フレイはその腕を押さえていた。押さえる指の間からも血が流れている。
──あれは、僕がつけてしまった傷だ。
キラは何の躊躇もなく、フレイのいる湯の中へ飛び込んでいく。キラは腰から湯につかることになったが、構わなかった。濡れた髪の間からキラを見上げる群青の瞳。微笑む唇。
彼女がどうやって拘束を逃れたのか、そんなくだらぬ事情を考える余裕はキラにはなかった。二年もの間、求めて求めてやまなかった幻が、目の前にある。
二年前、炎の中へ砕け散った憧れの人──キラはその両腕を掴む。体温がある。生きている、フレイは、生きていたんだ! 「フレイ、会いたかった──本当だよ。
話はサイから聞いた。僕のこと、まだ思い出せない? こんな怪我させて、本当にごめん。
僕はっ」
キラは声をつまらせる。フレイの体温がこれほどまでに愛しいものだったなんて、自覚していなかった。
そしてフレイの唇が、笑いながらゆっくり動く。
「私、覚えてるよ。貴方のこと。貴方の視線」
白い顎が、キラの目の前で揺れた。心をえぐる言葉と共に。「ヘリオポリスにいた時の貴方のこと、よく覚えてる。
サイに嫉妬しながら、私を見ていた貴方のこと。
ずっと私が欲しかったんでしょう、キラ?
でも、サイのように皆と一緒に振舞うことなんて出来なかったから、貴方は私を遠くから見ているしかなかった。サイに仲間に入れてもらわなければ、私を見ていることすら出来なかった──かわいそうな、キラ」
キラは、その言葉の意味が一瞬では理解出来ない。フレイとの物理的距離はほぼゼロに近い、だがその胸中は一向に見えない。
これが、サイの言っていたもう一つの人格なのか? いや、違う。口調は全く、キラの知っているフレイと同一のものだ。
濡れた服の奥でかすかに透けて見える胸が、心音と共に揺れ動いている。紅の髪から流れ落ちる、血の混じった水滴。何故今フレイは、ヘリオポリスのことを言うんだ? キラの脳裏で警告が鳴り響く。だがその腕は警告を無視し、フレイを抱きしめようと動く。
そうだ、僕はただの内気な学生だった。サイの人望がなければ仲間とも打ち解けられなかった、君とも出会えなかった根暗だ。だけど、それを変えてしまったのが君だった──フレイ!
「でもね。
正直、迷惑だった。貴方の全てが!」
フレイの瞳が大きく見開かれ、キラをまっすぐに見つめる。かつて自分を抱きしめてくれた時そのままの、優しい群青。だがその両手はキラの手を振りほどき、温かい霧を裂き、白い竜のように一気にキラの首を掴んだ。
思わぬフレイの行動に、キラは首に走る痛みよりも驚きに呻く。フレイの細い指はキラの頚動脈を圧迫。骨を折るほどの強い締め上げには至らぬものの、その十本の指は徐々にキラの脳の血流に苦痛を与えていく。
どうしてだ。どうして、彼女は僕を攻撃する? いやそれよりも、どうして、彼女は僕を迷惑だと?
──分かっている。僕はコーディネイターで、彼女はナチュラルだから。でも。
「どうしてだ、フレイ! 君は僕を受け入れてくれた、それなのにどうして今になってそんなこと」
苦しみの中でキラは叫ぶ。だがその時、フレイの唇の端が裂けるように歪んだ。
「今だから、よ。当然でしょ、貴方みたいな化物に好かれて、嬉しい女なんていないわ!」
そのままキラの首を、湯船の中へ突っ込むフレイ。盛大な水音と共に、キラは熱い湯の中へ上半身を押し込まれてしまう。思わず足をばたつかせて反撃しようとしたが、フレイの脚が湯の中で絡み、キラを一息に水底まで押しつける。
フレイの右膝が、溢れ出る湯の中でキラの背を圧迫する。水中であっても、フレイの声はキラの耳にはっきり聞こえた──そしてキラは、自分の聴力の良さを呪うことになる。
「貴方、分かってたと思ってたんだけどなぁ? もしかして、私が本気でアンタなんかを好いてると思ってたの? あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははっはははははははははは!!」
どうして僕の耳は、こうもよく嫌な言葉を聞いてしまうのだろう。いや、耳だけじゃない。目も、鼻も、皮膚も、自分の身体の全ての感覚は常に、残酷な現実をキラの心に焼きつける。呪い殺してしまいたくなるほど鋭敏な感覚の理由を、キラ自身は既に承知してはいるが。
フレイはキラの首を一旦解放し、天井を見上げて高らかに笑い続けていた。湯の地獄から解き放たれたキラはようやく顔を出す。激しい息を精一杯抑えようとするキラだったが、その顎が強引に掴まれ、上に向かされる。目の前で揺れ続ける、紅の女神の幻。その冷たい笑顔は、嫌でもキラの目に焼き付けられた。
そんなキラに、フレイはさらなる言葉を突き刺していく。「私がアンタに近づいた理由は、コーディネイターどもをアンタに殺させる以外の何ものでもない。僕を受け入れてくれたとか、気持ち悪い御託はやめなさいよ?
同胞も友達も殺して殺して殺しまくって、戦って戦って死ね!
それが、パパを守れなかったアンタに一番ふさわしい死に方なのよ。この人殺しの、化物!」
笑いながら怒鳴るフレイの歯が、キラの前で剥きだしになる。その鋭い犬歯すら、今のキラには美しかった。
サイは僕に嘘をついた。フレイの記憶は──僕に関する記憶は、ほぼ完全に戻っているじゃないか。一番肝心なところを除いて。
こうして、僕に対する憎しみを、フレイは鮮烈なまでに叩きつけている。ほら、また僕の首を締め上げて……
何も出来ないキラはフレイに首を掴まれ宙に持ち上げられ、そのまま勢いよく浴場の黒い床に叩きつけられる。フレイの憎悪と共に。
激痛がキラの額を割り、その血が床に流れる湯を赤く染める。だがそんな痛みよりも、キラにとっては今フレイから突きつけられた真実の方が、はるかに重く、苦しかった。
薄々気づいていたことだ。あの砂漠で、サイの為に流した涙を見た時に。
「分かってた。フレイの気持ちが僕にないことは、何となく。だから僕は、謝りたかった。
君を利用して、サイを傷つけて、僕は──」
キラは床に伏したまま、それだけを喉から絞り出す。だがキラの精一杯の懺悔を、フレイは一笑にふした。「へぇ、そうなの。そりゃ意外」
ざっと湯から上がったフレイ。ブーツを履いたままだったその足が、キラの腰を踏みつけた。どうやら、その爪先には鋼鉄が仕込まれているらしい。「何も分かってないかと思ってたわ。だって貴方、サイにこんなことしてたんですものね」
フレイはキラの背中から馬乗りになると、そのままキラの両手首を後ろへ捻り上げた。背中を足で押し倒したまま、キラの腕を折れよとばかりに引きずり上げる。すっかり濡れそぼったキラのカッターシャツの両袖が、フレイの力でビリリと破れた。
「どうかしら? 絶対に叶わない相手に腕を捻られる気分は? 信じていた相手から傷つけられた気分は?」
「ごめん……だから謝りたいんだ、話をさせてよ、話をしようよフレイ」
フレイの足の下で、キラは抵抗する。
こんなフレイは嘘だと思いたかった。嘘だ、嘘だ、嘘だ──キラの精神は今や泣き叫んでいたが、どこかでこの状況を冷静に見つめてもいた。そう、今フレイが話した気持ちこそが、彼女の真実だ。キラは直感で、その絶望的な現実を感じ取っていた。
だがそのキラの言葉も、フレイはくすくす笑って容赦なく踏みつける。かつて彼がサイに行なった行為と全く同じに。
「やめなさいよ。キラが何をしたって、私にかなうはずないんだから」


ナオトとマユを中に挟み、お互いが抱き合う形になってしまったカガリとサイ。
サイの申し出に、カガリはその一途さで真っ正直に答えてしまい、必死で子供らを抱きしめようとした。結果的に彼女は、サイの両肩をしっかり掴む体勢になってしまっていた。
カガリの鼻腔を子供たちの汗の匂いが刺激し、彼女の手からはサイの、細く見えるがしっかり成長した若い筋肉の鼓動が伝わってきた。
二人の体温を感じ取ったのか、ナオトとマユの呻きは少しずつ静かになってきている。同時に、ハンガーでの異変も沈静化してきているようだ。ティーダの駆動音はまだ響いているが、マードックの報告によるとどうやら首を回す程度に留まっているらしい。
思わずカガリは呟いてしまう。「………なぁ。何だ、これ?」
「何なのか、俺にもはっきりとは分かりません。ただ、ティーダとこの二人が密接に繋がっていることは、確かですが」
「いや、そうじゃなくてだな」
アスランから貰った指輪は、今もカガリの手に輝いている。その手で自分は今、他の男に触れている──
その現実に気づいた時、カガリはふとサイを眺めていた。感情のこもらぬ瞳で。
──この男、確か外交官の息子だったか。
破談になったとはいえ、連合の名門アルスター家の一人娘と婚約していたからには、アーガイル家というのも相当な血統なのだろう。セイランと対等に渡り合えるほどの力はないにしても、味方に引き入れれば今のアスハ派の強力な味方になるやも知れぬ。それにサイ自身、伝説の英雄・キラの友人でアークエンジェルの元クルーだ。サイたちの将来に配慮してマスコミにはあまりプライベートな情報は流さぬようにし、彼らの平穏な生活を守るよう努力はしていたが、本来ならサイは今頃、東アジアに旅立ってしまったキサカの代わりに自分の片腕となっていても良い人物かも知れ──
そこまで考えが及んだ時、カガリは自らの浅ましさに激しく首を振った。
自分のせいで傷ついた二人の子供を抱きしめるふりをして、一体何を考えている。これではユウナ・ロマと一緒、いやそれ以下ではないか。アスランに捨てられ、国にも見捨てられ、目の前に偶然現れた男に縋るまでに堕ちたか、カガリ・ユラ・アスハ!
そんなカガリの後ろ暗さも知らず、サイはぽつりと呟いた。「俺が、ナオトを乗せてしまったんです。ティーダに乗っていたナオトを励ます為とはいえ、俺はナオトをティーダに縛りつけるきっかけを作ってしまった。二年前のキラと同じに」
真摯なサイの言葉を、カガリはじっと聞いていることしか出来なかった。血の流れ続けるサイの腕を、見ていることしか出来なかった。その腕には他にも、無数のかすり傷が見える。サイのアマミキョでの苦労を偲び、カガリは思わず慟哭した。
「悪いのは私だ。全て私の責任だ──セイランに利用された私の!」
カガリの懺悔を、サイは否定しなかった。ただ、黙って子供らを抱きしめるだけだ。
そのサイの態度に、カガリは改めて自分の甘さと情けなさに気づく。
私はサイに否定してほしかったのだ、今の自分の懺悔を。違います、大丈夫です、代表は関係ありません。人の好いサイなら、こう否定してくれると思っていた──心の何処かでそんな期待をサイにかけていた自分に、カガリはひどい不潔さを感じた。
そんなカガリの心中を知ってか知らずか、サイは静かに言葉をかける。
「本当にそう感じていらっしゃるなら、オーブに戻って下さい。アスハ代表」


「キラ、見なさいよ。私は貴方と同じ力を手に入れた」キラの腕を抜かんばかりに引きずり上げ、足でキラの頭を洗面器につけるフレイ。その洗面器にはまだ石鹸の泡が大量に残っていた。血の混じった泡の味が、キラの喉に広がる。
「二年前の私は無力で、貴方に人を殺させることしか出来なかった。ごめんねぇ、たっぷり利用させてもらっちゃって」
全くごめんと思っていないであろう朗らかな口調で、フレイは言い放つ。「でも今は力がある。だからもう貴方みたいな下衆には頼らない、その必要もない!
あの時のサイと私に、土下座して謝れっ」
叫ぶが早いか、フレイは鋼鉄の爪先を仕込んだブーツで、思い切りキラの腹を蹴り上げた。気絶するかという衝撃と共に、キラの身体は石鹸の滑りも加勢し、数メートル向こうの岩壁まで飛ばされてしまう。湯の流れ続ける黒い床に、キラの血がきれいな筋を描いた。
何なのだ、このフレイの異様な力は。彼女自身の言葉通り、フレイは力を手に入れたのか──身体をいじってまで。
血と霧で煙るキラの視界に、再びフレイの姿がぬぅと現れる。その舌が、血に染まった唇を這う──キラを喰い殺そうとするように。
「違う」キラはやっとのことで、黒い血の塊と共にその一言を吐き出した。濡れたシャツは血で汚れ、両肩は破れてはだけている。このようなぶざまな姿をフレイに晒していることが、キラは恥ずかしかった。「違う、違う、違う………」
「何が違うのかな? 私を好きに汚したことも忘れて、女の人生滅茶苦茶にしておいて」再びキラの首を捕らえるフレイ。顔だけは柔和で、砂漠で自分を励ましてくれたフレイを思い出させる。しかしあの時もまた、今のようにキラの命を彼女は弄んでいた──たった今、彼女が自ら告白したところによれば。
「違う。フレイは、分かってくれた! フレイは僕の痛みを分かってくれたんだ、最初は確かに君の言う通りだったかも知れない、それでもフレイは僕を理解しようとしてくれた。僕と話そうとしていたんだ……なのに、それを僕は拒んでしまった」
「それはどこの妄想から生まれた私なの? 貴方は私を放っておいて、ラクス・クラインに逃げた癖に!」
「そうさ、彼女は僕を支えてくれた。何もかもを犠牲にして、僕を助けてくれた。一番つらい時に、ずっとそばにいてくれた。この二年間、ラクスはずっと僕のそばにいたんだ。ラクスは僕の大事な人なんだよ」
キラの首にかかる力が、一層強くなる。
「そりゃそうね。私よりラクス様のほうがずっと、アンタを理解してくれそうだものね」
「でも、君だって大事だ、フレイ! 僕にとっては君もラクスもカガリも、みんな大切な人だ!
君は叫んでいたじゃないか、あのメンデルの宙域で。僕に助けてって………サイにも、アークエンジェルのみんなにも、叫んでいた。君は帰りたがっていたんだよ、覚えてないの?」
フレイの力が一瞬弱まったように感じたのは、気のせいだろうか。その隙を利用してキラはフレイの両腕を掴み、首に食いついてくるフレイの手を引き剥がそうとする。フレイとキラの力は拮抗し、水が弾けた。
だが、そのキラの抵抗も、一瞬。
フレイは一旦キラから右手を離すと、すぐさま背中から何かを取り出した──キラの目にはそれが何か、すぐに分かった。腰に隠し持っていた、金属バットにも似た棒きれ。
「気持ち悪いことを言うな! ただのコーディネイターよりよっぽど醜い化物の癖にっ」
叫びと一緒に、フレイはキラの頭を棒で殴りつける。一発殴られた直後にキラは見た、その棒きれの先がまるで傘のように水を飛ばして開き、先端からかなり幅広の両刃が咲くのを。
それは瞬く間に手斧の形となり、柄の部分も魔法のように伸びた。その柄でフレイは強引にキラをもう一発、殴り飛ばす。反射的に刃をよけようとしたキラは柄に突き飛ばされ、再び湯船に落とされてしまった。
──どうして君が、それを知っている?
物理的衝撃よりも、フレイの言葉のほうがよほどキラの心臓に痛みとなって刺さってくる。湯から頭を上げると、フレイの声は今度は上から降ってきた。
「サイが本当に羨ましかったんでしょう。サイは弱くて、無力な存在──だけど、だからこそ成長し、強くなった時に喜びを感じる」
キラの頭上すぐのところに、松の木を模ったオブジェがある。横に伸びたその幹に、フレイは腰かけている。斧の刃先を舐めながら、笑っている。わずかに開いた肢の間から、濡れた太ももと下着までがキラには見えた。フレイの肩から流れ出る血が滴り、ちょうど下にいるキラの顔を汚す。血の味は──しない。
「サイは傷ついても傷ついても立ち上がって、もっと強くなれる。人を惹きつけて、ぐんぐん成長していく。
貴方には出来ないことでしょう? 人として進化しきってしまった存在の貴方にはね、キラ・ヤマト!」
この言葉に、今度こそキラの動きは止まった。
ひた隠しに隠してきた、自分の最も痛い部分。それを、最も痛い過去に衝かれた。キラの全身から、力が抜けていく。大腸を引きずり出された方が遥かにマシだろうという心の痛みが、キラを襲う。
「やっぱり君は、ずっとサイが好きだったんだね。だから僕より先に、サイの処へ行ったんだ」
突きつけられた事実から逃げるように、キラは血と共に精一杯の言葉を絞る。だが、フレイはそれすらも許さない。一瞬ぽかんとキラを見つめていたが、すぐにけたけた笑い出す。「何勘違いしてるの? サイになんか、もう興味ないわ」
無防備になったキラに、フレイは直上から一気に飛びかかった。凄まじい蹴りが、飛沫と共にキラの肩を打つ。「サイは、貴方よりはよほどマシな男だったけど、あの人にはかなわない!」
さらにキラはまたもや岩に叩きつけられ、よく使いこなされた棒の激しい殴打が、雨となってキラに降りそそぐ。二回、三回、四回、キラの頬は打たれ、口から血の塊が飛んだ。
「私が本当に好きだったのは、ラウ・ル・クルーゼよ!」
二年間、フレイの死と共に抱え込んでいた自らの闇。それが今、逃れようのない現実となってキラに襲いかかる。どれほど忘れたくとも忘れられなかった、忌まわしき男の影──それが、フレイの身体と重なる。笑うフレイに、あの白い仮面が重なる。
キラはその幻影を否定しようと、吼えた。「違う! 彼は君を殺したっ」
「私は生きてるわよ、キラ?」フレイはそっと呟くと、キラの前髪を掴んで自らの顎のあたりまで引きずり上げた。手にした斧の刃先が、キラの耳のすぐそばで光る。
「あの人はナチュラルでありながら、ザフトの戦士として立派に生きた。あの人こそが、私の出会うべき人だったのよ」
斧とキラの頭を持ったまま、フレイは陶酔したように宙を見上げる。フレイの拳の中で音をたててちぎれていく、キラの前髪。「彼にはパパのおもかげがあったの。だから私はザフトにいながら、狂わずにいられた。色々と教えてくれたわ、キラ……貴方のことを」


また、あの夢だ。父さんに捨てられた成績表から続く、あの夢。
僕のせいで父さんは出て行って、母さんは僕を放って仕事だけに打ち込んだ──寂しさから逃れようとして。
やっと引き取ってもらったおじさんの家にいる時、僕はずっと笑っていた。殴られても蹴られても、どんなにいとこからいじめられても、笑顔でいた。ドジな子供を装い、愛想を振りまいていれば、コーディネイターの子供だと言われることもなくなる。本当のコーディネイターなら、ドジはやらないはずだから。ドジでいれば、僕はみんなと同じように、ナチュラルでいられる。
ただ、一番大事なお皿を割ったりしないように気をつけなければいけなかったけれど。
その頃戦争が始まって、オノゴロが壊滅して終わった。連合もプラントもオーブも、凄まじい犠牲を出して。
と思ったら、僕は突然オロファトのテレビ局まで連れて行かれたっけ──そして出会ったのが、カガリ代表だったんだ。
「ナオト・シライシ、君に決定だ。これから君には、オーブのハーフコーディネイターの魁として働いてもらう。ナチュラルとコーディネイターの、融和の証を見せて欲しい」
僕は緊張と嬉しさでいっぱいだった──テレビに出るのは僕の夢だったから。テレビに出れば父さんを探せる、母さんも認めてくれる。憧れのカガリ代表の前で、僕は夢を叶えたんだ!
その後ろでセイランとおじさんがお金の話をしていたようだけど、その時の僕には関係のないことだった。おじさんがセイランに僕を売ったなんて、僕の夢の前では小さなことなんだ。
それからは、夢のように楽しい日々が続いた。
厳しいけど優しい先輩たちが、たくさんついてくれた。叱られることも多かったけど、殴られたり蹴られたり、煙草の火を押しつけられたり池で溺れさせられたり服を破られたりすることはもう、なかった。きれいな服を着て、テレビに出て、少しだけどファンまで出来て、遂に僕は憧れの宇宙にまで出て──
───
──思い出した。フーアさんもアイムさんもいなくなってしまったんだ、ウーチバラで。
あれからたくさん傷つけられて、僕もたくさん人を傷つけてしまった。
口に血の味が広がっている。今も僕はまた、サイさんを傷つけてしまった。守ろうと誓ったはずの大切な人を、また傷つけてしまった。
しかも、憧れの人、カガリ代表の前で!


サイの血と体温が少しずつ、ナオトを現実に引き戻していく。大きく見開かれていた目は次第に通常の輝きを取り戻し、サイの腕に食い込んでいた歯が、ようやく離れた。
自分が傷つけた、血だらけの腕。その腕はしっかり自分を抱きかかえている。ナオトのすぐ隣ではマユが蹲っている。そして自分たち二人を、サイとカガリが必死で抱きしめていた。
「大丈夫か。ナオト」サイとカガリがほぼ同時に、ナオトの顔を覗き込んで言ってきた。サイはいつもの笑顔のままだったが、なんてことだろう、代表は今にも泣きそうだ。僕は代表を泣かせてしまうんだろうか。
やっとのことで、ナオトは声を絞り出す。「ごめんなさい、サイさん。代表」
ずっと部屋に反響していたティーダの駆動音が、その時ようやく止まった。


「貴方はただのコーディネイターなんかじゃない。極限まで進化しきった、何もかもが可能な存在。
どんなことでも、やりさえすればどんな人間でも超えられる存在。
それなのに、ただのナチュラルのサイが羨ましいのは、何故かしらね?」
キラはフレイの手を強引にふりもぎって、風呂場の隅へと身体を後退させる。髪が大量にちぎれ、振り払った腕は刃に触れて血を噴出した。それでもキラの身は反射的に動く──恐怖で。
必死で逃げるキラに、フレイは斧を持ったままゆらりと近づく。「怖いのね、キラ。
クルーゼは決して死ぬことはない。死してもなお、形を変えて貴方を追って、貴方を否定し続ける。
何度追い払っても殺しても、貴方はクルーゼに勝てない。貴方はクルーゼを否定出来ない。知れば誰もが思うわ、貴方のようになりたいと──」
キラは震える。どうしてフレイが、あの時のクルーゼの言葉を知っている? 何故歌うように、クルーゼの言葉を奏でている? クルーゼを抱きしめるように斧を抱きしめて。
「君の言っていることが分からないよ、フレイ!」
「分かりたくないからでしょう。自分が、人の究極の希望の形だということを。それは逆に言えば、究極の絶望でもあるということ──あの人が教えてくれたわ。あの人はね、限られた命の中で力の限りに生きて、ザフトで戦い続けた。
あの人の意思を継ぐのが、この私よ。私はあの人と同じように自分を鍛え、蘇った──だからキラ、貴方は絶対に、私に勝つことは出来ないでしょう?
クルーゼも私も、貴方を超えたのよ、キラ!」
フレイはキラの目前で斧を振り上げる。頭を割られる──そう判断したキラは、咄嗟に身体を翻した。それまでキラのいた場所に、刃が炸裂する。
だが、それこそがフレイの狙いだった。キラが一瞬前まで身を横たえていたそこは、剥きだしになっていたガス管のうちの一本だったのだ。
刃が管に食い込む。しかもそこは、バルトフェルドが修理をしなければとぼやいていた、僅かな亀裂のある危険な箇所。そのド真ん中を、フレイの刃は捕らえていた。
そしてそこまで、フレイは完全に計算していたようだ。ニヤリと彼女の唇が歪むのを、キラははっきりと見た。死ぬ寸前の鳥のような奇妙な音を立てるガス管。フレイは振り返り、風呂の天井と岩壁の隙間のあたりを睨む。
そして、キラにはおよそ信じられぬフレイの声が、彼女の喉から迸った。サイの言っていた、ナタル・バジルールを思わせるという低音が。
「今だ、カイキ!」
フレイが走らせた視線の先に、小さな火花のような光が微かに走る──
キラが咄嗟に浴場から飛び出したのと、戦士たちの癒しの場が大爆発に包まれたのは、ほぼ同時だった。


アークエンジェル中を揺るがす爆発。鳴り響く警報。
サイとカガリが駆けつけた時には、既に浴場と食堂に通じる廊下のあたりまで炎が燃え広がっていた。スプリンクラーが猛然と作動し、炎とサイたちに水を浴びせかける。
「何があったんですか、サイさん!?」後ろからナオトも追いかけてきた。寝ていろと言ったはずなのに──サイは内心舌打ちをしながら、炎の中へと目を凝らす。
アークエンジェルの内部がダメージを受けたことなど、二年前でもそうはなかった。なのに今、磨き上げられていた最新設備の廊下は爆発で黒く爛れ、金属の焼ける悪臭を放っている。サイもナオトもこの光景を、茫然としたまま見つめているしかなかった。爆発が一度きりで、自動消火装置がよく働き即座に炎が小康状態になったのが、不幸中の幸いか。
その時サイは見た。炎の中から這い出してくる、血みどろの影を。
サイが息を飲むより先に、カガリとナオトが同時に叫ぶ。「キラ!」「キラさんっ」
カガリは炎をよけもせず走りこみ、倒れたままのキラを抱き起こした。キラの脚や背中には細かなガラスの破片がいくつか刺さっており、白かったシャツは襤褸になり、血と炎で赤黒く変色している。カガリはキラの名を叫びながら、ただ「どうして……どうして……」と連呼するしかない──そんな彼女の背後を、ぱっと黒い影が襲った。
サイは飛び出そうとするナオトを押さえ、状況を見据える。カガリは一気に羽交い絞めにされ、喉元に刃を突きつけられていた。
カガリを捕らえたその影は呵呵大笑する。「わざわざこんな処にまでおいでなすって、ご苦労なこったぜ、お姫様よぉ!」
「馬鹿な。貴様らは拘束していたはずだ!」
「甘すぎんだよ、ここの警戒態勢は。あんな旧式の認証システム、俺らが破れないわけねぇだろ?」
男──カイキ・マナベはカガリの首を捻じり上げる。
「畜生、放せ! 代表を放せよ、人でなしがっ」ナオトが憤怒で叫んだが、カガリの喉元に突きつけられたナイフに完全に動きを封じられてしまった。
「貴様ら……一体何者だ!」カガリは冷静さを保とうと努めつつ、巻きついた男の黒い腕を引き剥がそうとする。その行為を嘲笑うように、カイキは答えた。
「マユ・アスカの兄だよ!」
「まさか。マユ・アスカの兄は、シン・アスカの筈だっ」
「さすが腐っても首長だな、自分が見殺しにした国民のことはよーく覚えていらっしゃるとは」
一歩遅れで駆けつけてきたマリューやマードックらも、カガリへの刃に息を飲む。こうなっては勿論、彼らにもどうすることも出来ない。一瞬の間に、国の代表たるものが人質となってしまったのだ。
そしてサイは見た。炎の中から、鬼がゆっくりと歩いてくる光景を。鬼がキラとカガリを喰い殺そうと近寄る光景を。
炎の中に翻る紅の髪。光る群青の眼球。血に濡れた白い肌。手にしているものは、炎を照り返し輝く斧。
そのカモシカのような脚が、キラの背中を踏みつける。笑う雌鬼は言い放った──「キラ。カガリ姫。ラミアス艦長。貴方たちの行動は、おかしい。
私やパパやクルーゼ、傷つけられた者や死んでいった者たちの恨み全て忘れて、戦場を蹂躙するのが、貴方たちの流儀なの?」
サイは戸惑った。これは、フレイの言葉なのか? それとも、「姫」たるフレイの言葉なのか?
今現れているのはどちらのフレイだ。今、キラやカガリを傷つけているのはどちらのフレイだ。浴場で、キラとフレイに何があった? 
キラの背を踏み続けるフレイの靴。その脚をどかせようと、サイはキラとフレイの間に飛び込もうとする。だがその瞬間、カガリの悲鳴が響いた。
見ると、カイキの刃はサイの動きを見越したかのようにカガリの首に食い込んでいる。フレイの視線が、ゆっくりとサイに向けられた。
カイキの嘲笑が、サイを突き刺す。「てめぇの命を投げ出すのは勝手だが、代表にそうさせるわけにゃいかないよな、眼鏡野郎!」
「あんたたちの言う交渉ってのは、人質をとることなんですか!? 代表を放せよっ」ナオトが歯をぎりりと噛みしめ、サイの代わりにカイキに叫ぶ。
未だに燻る炎の中で、静かにフレイは言った。「サイ。貴方の必死さは分かるつもりよ。
キラと私に、何とかして話をしてほしい。本当の私に戻ってきてほしい──その貴方のまっすぐな気持ちは、よく分かってるの。
ただ、今の私にそれは出来ない。貴方がどれだけ身体を張ってくれても、今のキラたちを許すことは出来ない。そして、私は完全に元に戻ることも出来ない。
ごめんね」
その言葉に、サイは一歩も動けなくなる。その横では、今まで聞いたこともないフレイの口調に、ナオトは一瞬怒りを忘れてあんぐりと口を開いていた。「フレイさん? 本物の、フレイ・アルスター?」
それに構わず、フレイはさらに冷たい言葉でサイの心臓を貫く。「それに、サイ。私は貴方も許せない。
自分さえ犠牲になって周りが丸く収まるなら、貴方は幾らでも命もプライドも投げ出す。結果がどうなるかも省みずに、ただ自分の身も心も傷つけることばかりして。
貴方に何かあったら、ナオト・シライシがどうなるかぐらい分かっていたでしょう? キラにどういう影響が出るか、分からない貴方じゃないでしょう? なのに貴方はどうして、自殺まがいの真似をするの?
そういう利他主義なところ、昔っから大っ嫌いだったのよ!」
キラを踏みながら、フレイはいつのまにかサイを怒鳴りつけていた。
頬を殴ってくるようなフレイの言葉を浴びながら、サイは拳を握り締める。
分かっていた。自分がアフロディーテに潰されたら、キラはともかくナオトは絶対に、正常な精神状態でいられないことは。今不安げに自分を見上げているナオトを見れば、すぐに分かる。
それでも、サイは動かずにはいられなかったのだ。あの時だけじゃない、アストレイで飛び出した時も、アマミキョ全体の誤解を招いた時も、ジュール隊を逃がした時も、フレイと度々衝突した時も、オーブで散々喧嘩の仲裁に入った時も──
サイは血を吐きそうなほどの怒りを抑えながら、どうにか呟いた。「分かってる。俺はいつだって、自分を削るように動いていた。アマミキョに乗ってからここまで、数え切れないほどの馬鹿をやって、多分10年は寿命が縮んだよ。
だけど俺は、そうせずにはいられない。そうやって生きずにはいられないんだ。
フレイ──俺は君を失った時、何も出来なかったから。何も出来なかった自分が、悔しかったから」
フレイの瞳に憐憫が宿ったと感じたのは、サイの錯覚だろうか。
一旦彼女は視線を外すと、低く吐き捨てる。「一種の自己満足ね。
その勝手な自己陶酔のせいで、周りがどれだけ傷つくか分かってる? 周りにどれだけ悪影響を与えるか分かってる? 貴方はキラに傷つけられたのに、キラに謝ったことすらあるわね──それが、キラやアークエンジェルをここまで増長させたとも言えるのよ」
フレイはさらに憎憎しげに、キラの頭を踏みつける。「やめなさい!」悲鳴にも似たマリューの声が飛んだ。だがフレイはそのマリューすらも敢然と睨みつける。
「救世主ヅラしたいだけの無能女は黙ってて! 2年前、キラに汚される私を無視し続けたくせにっ」
「違うわ。キラ君を利用したのは貴方よ、フレイ・アルスター!」
「どっちでも同じことよ。キラのはけ口になる私を無視したことに変わりはない。上官としては仕方ないわよねぇ、戦士には慰安婦が必要だもの」
どうやらマリュー本人にもその自覚はあったらしく、彼女はそれきり口を噤んでしまう。 キラを蹂躙し続けるフレイの靴。その下で、キラはか細く呟き続けていた。「フレイ……サイ……ごめん。本当に、ごめん」
燻る火の音でなかなか聞き取れないその呟きは、間違いなく謝罪の言葉だった。その言葉を、キラは延々と、フレイとサイの目の前で吐き続けていたのだ。その口からは血が溢れ、火傷で爛れた頬を涙が濡らす。
そんなキラの姿を見て、サイの中で音もなく、何かが砕け散った。
フレイは狂笑する。無惨な姿を晒し続けるキラの髪を引きずり上げて。
「あっははははははははははははははは、はははははははははははははははははっははっふふふうふふあははははは!! 
どうサイ、見てよこのキラを! 貴方本当は、こんなキラの姿を望んでいたんでしょう? 自分を散々傷つけたと同じように傷ついて、這いつくばって許しを乞う、腐ったコーディネイターの姿を! 
貴方の望み、きちんと叶えてあげたわよ。それとも、この程度じゃ手ぬるいかしら? この男の腕を捻らせてあげようか? そうだこっちへいらっしゃいよ、この哀れな、堕ちた英雄気取りに唾を吐かせてあげるから」
炎の中で展開される地獄に、その場の全員が押し黙った。フレイの心が織り成す、紅蓮の地獄を見て。カイキでさえも、このフレイの変容にごくりと唾を飲んでいる。腕はしっかりカガリを捕まえているが。
そんな中、サイは不思議と冷静だった。
フレイの指摘通り、俺はこの光景を望んでいた。あの熱砂の荒野で彷徨っていた時、キラを殴り、蹴り、叩きのめし、無惨な死体にする夢を何度見たか分からない。
それは決して、サイには叶えられぬ夢だった。同時に、絶対に叶えてはいけない妄想でもあった。叶わなくて良かった悪夢だった。
それを今、事もあろうにフレイが現実のものにしてしまっている。キラの髪を掴んだまま、笑って俺を手招きしている──
フレイの心の焦熱に圧倒されかける自分を、サイは感じずにはいられなかった。
だが同時にサイは見た、自分のすぐそばで頭を振り続けるナオトを。「違う、違う、違う! 嘘だよねサイさん、こんなのが本物のフレイさんだっていうなら、前のフレイさんの方がよっぽどマシだよ」
わめき続けるナオトを追い払うが如く、フレイは怒鳴る。「何も知らない子供は黙って!」
だがナオトはなおも叫ぶ。この子供が、黙れと言われて黙ったことなどない。「そっちこそ黙れよ! サイさんがどれだけ苦労して、あんたの記憶を取り戻そうとしてたと思ってるんだっ」
ああ、そうだ。俺は何を怯えている?
俺は確かにあの時、キラもフレイも憎み切った。フレイが父親の復讐の為に俺を捨ててキラを利用し、キラはまんまとそれに乗せられた──それを薄々気づいてしまっていたせいかも知れない。世の理不尽を憎んだ、コーディネイターを、女を、人間を、とことん憎んだ。
だが、思い出してみろ。俺が二人への憎悪から、完全にとは言えないまでも解放されたのは何故だ。
二人が、いつの間にか本当に惹かれあっていたことに気づいたからじゃないのか。フレイが本当にキラを想い、コーディネイターへの憎しみや偏見から解き放たれるのならば。キラがその想いにこたえ、俺には絶対に持ち得ない力でフレイを守れるのならば。
俺は喜んで、二人を支えようじゃないか──
人によっては情けないと言われるかも知れないその思いが、今でも俺の中では貫かれている。だからナオトの言う通り、俺はここまで来ることが出来た。
それにキラは、ちゃんと謝ってくれた。
俺はここまで来て、本当に良かった。キラの、あの謝罪の一言だけで、どれだけ心が軽くなったか分からない。
キラの「ごめん」の一言を聞く為だけに、俺はここまで来たんじゃないだろうか──そう錯覚してしまうほど、キラの謝罪は真剣だった。心のこもった、切実な懺悔だった。
「ナオト、ありがとう。あんまり驚いて、もうちょっとで忘れる処だったよ──大事なこと」
ナオトに噛まれた傷を撫でながら、サイはゆっくり足を踏み出す。フレイとキラに向かって。
フレイは斧を悠然と振り、こちらを見据えて笑う。あいつは、一番大事な記憶をきちんと取り戻せていない──
「ほらキラ、貴方が傷つけた友達が復讐に来たわよ。自業自得の、かわいそうなキラ」フレイはぐいとキラの頭をサイに突きつける。マリューたちが必死でこちらを見つめる気配が伝わってくる。
だがサイは決して、そのキラを殴ろうとも蹴ろうともしなかった。
彼の目はただ、フレイに向けられていた。そのサイを見て──
今度はフレイが眉を顰め、思わず言い放つ。「な、何よ……私を殴る気?」
眼鏡の奥からフレイに注がれる視線は決して熱くはなく、潰れかけた蟻でも見るような、軽蔑と憐憫の入り混じったものだったのだ。
完全に人を見下すような眼差しに、フレイは思わず一歩後退した。そんな彼女に、サイは全く感情のこもらない声で呟く。「殴る気にもならないよ。
本当にかわいそうなのはキラじゃない。君だからね、フレイ」

 

 

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