ミゲル・アイマンを名乗るザフト兵の右腕に軽々と抱きかかえられたミリアリアの身体。そのまま金髪の男は部屋を飛び出し、走り出す。走りながら彼は囁いた。「手荒な真似をして申し訳ない。あんたを助けに来た、ミリアリア・ハウ」
「え?」人間とは思えぬ速さで暗い通路を走る男。久々の外気を味わう余裕もなく、ミリアリアは壁や天井に頭をぶつけぬようにするのが精一杯だった。
にも関わらず、男は笑っていた。「あんたの友達の命令だ。感謝しな、フレイ・アルスターに!」
「フレイ?」ミリアリアは思わず目を剥く。
雷鳴のように脳裏に閃いたものは、チュウザンでの記憶。自分が空へ逃がした少年のこと、会えなかったサイとカズイのこと、そして暴けなかったフレイの秘密──ミリアリアはミゲルの髪に掴みかからんばかりの勢いで叫んでいた。「アマミキョが、近くに来ているの? 何故? 貴方もアマミキョに乗っているの? フレイと一緒なのね?」
「面倒だから一気に答えるぜ。自分の目で確かめな!」
この騒動に、ザフト兵たちが前方後方から押し寄せてくる。狭い通路内で、二人は一瞬にして逃げ道を塞がれてしまった。警報が鳴り響く。ミリアリアがいるためか、発砲してこないことだけが救いだった。
「ええぃ、しょうがねぇ!」ミゲルは一旦しゃがみこむと、ミリアリアを抱いたまま大きめの左手を床に叩きつける。鋼と鋼が擦れ合う音が、響いた。
──この人、義手だ。
ミリアリアがその事実に気づくとほぼ同時に、その鋼鉄の手から青い雷が放たれた。
爆光があたりを染め、衝撃が基地内に走る。数瞬の後、たちこめる煙と炎の間から見えたものは、倒れた無数のザフト兵と床に開いた大穴だった。
ミゲルはその穴から悪戯っぽく顔をのぞかせると、鋼鉄の指をバチンと鳴らした。「ラッキー! ちょうどグフの直下とはなっ」
眼下にあったものは、どうやらモビルスーツハンガーらしい。しかも先のダーダネルスの戦闘で破損したザフトのモビルスーツが、大量に運び込まれていた。
ミゲルがグフと呼称したそのモビルスーツの形状には、ミリアリアも見覚えがある。紅の一つ目と、肩から突き出した鬼の角の如き突起物が印象的な、ずん胴の機体。スレイヤーウィップを使った攻撃力はさすが新型というべきものだった──尤も、アークエンジェルの介入直後、オレンジに塗装されたあの新型は混乱の中で撃破されてしまったけれど。
今ミリアリアたちの真下に見えている機体は、そのオレンジの一つ目とは違い地味な青で塗られている。だが、ミゲルの表情から見て武装・機能はほぼ同じようだ。
うきうきとした笑顔を崩さぬまま、ミゲルは言った。「飛ぶぞ、嬢ちゃん」
まるで映画館行くぞ、という感じの口調。あまりのことにミリアリアは息を飲む。何しろ、一番近いと思われるグフの肩口まででも10m以上ありそうな高さだ。「ここから!?」
「他にどこから飛ぶんだよ。つかまってな、悲鳴上げんなよ」
ミゲルが構えると同時に、ミリアリアは恐怖で思わず彼に強く抱きついてしまった。その彼女を担ぎ上げ──ミゲルは少々首を傾げる。「おっと? 俺の勘、狂ったかな」
「何がです?」今更、不安にさせるようなことを言うな──ミリアリアは思わずミゲルを睨む。だが彼の唇から出たのは、状況からは信じられない軽口だった。「あんた、意外にボリュームあるのな。胸」
あまりの発言に、ミリアリアの頬は一気に紅潮する。そのおかげで、透明の空中ブランコでも操るが如くミゲルが空に飛んだ瞬間、彼女は悲鳴を上げずにすんだ。
 


PHASE-19 飛べ、ミリィ



「アマミキョより入電。ディオキア暫定基地にて、ミゲル・アイマンがミリアリア・ハウと接触した模様です。脱出予想時刻まで、残り10分」
アークエンジェルブリッジにチャンドラの声が響き、サイは思わず身を固くした。来たか──
既にティーダ、カラミティ、スカイグラスパー、そしてアフロディーテは準備を完了している。ナオトも、キラにティーダのOSを見てもらって上機嫌のようだった。<サイさん、大丈夫です! 早く行きましょう、ミリィさんの処へ>
しかも今回、ナオトは積極的に前席に乗っていた。つまり、やる気なのだ。
キラもカガリも、今はブリッジで待機せざるを得ない。キラはじっとモニター内のアフロディーテを見つめている。血の色に染まったストライクを。
そんなキラの心中を、サイは読み取ることが出来なかった。「あの」フレイを見ても、キラは動揺もせず普通に会話を交わしていた。風呂場での事件がまるで無かったかのように。
一体何を悟ったんだ、キラは?
サイの思考に割り込むように、マリューの声が響く。「キラ君、今はフレイさんたちに任せるしかないわ。サイ君、お願いね」
その言葉に背中を押されるように、サイは立ち上がった。ブリッジを見渡してみる──
非常に短い間だったが、アークエンジェルのオペレーターに戻ることが出来た。そのことが、不思議とサイを満足させていた。
この船はもう、俺を必要としない。そして俺ももう、この船を必要としない。
「カガリ代表、ラミアス艦長。やはりもう一度、ダーダネルスに向かうおつもりですか? ここまでのことをされても」
そんなサイの問いに、カガリは深く頷いた。「フレイも言っていただろう。私たちは相手に理解してもらうまで、私たちのやり方で尽力する。必ずや、オーブの民は分かってくれるものと信じる──
2年前、父が貫いた意思を」
他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入せず──カガリの父、ウズミ・ナラ・アスハが最期まで提唱していたオーブの理念だ。
その理想が、図らずも自国民を争いに巻き込み、大地を焼き尽くす悲劇を招いたのは記憶に新しい。そして未だにオーブの理念と現実は乖離し、理念を貫かんとするカガリとアークエンジェルは争いに介入しようとしている。
カガリはその矛盾に気づいているだろうか。サイは指摘すべきか迷ったが、結局やめた。
俺がいくら言ったところで、キラやカガリや艦長は止まらない。
その前に、果たして俺に彼女たちの矛盾を突く資格があるか。フレイに守られ、ナオトという子供を戦わせている情けない俺に。
「行ってきます。ありがとうございました」諦めと共に、サイはブリッジを後にした。振り向きもせずにコンソールパネルを睨むノイマンの背中が、妙にサイの目に焼きついた。


「サイ、待って。制服のままじゃ危険だよ」
カタパルトに向かう通路で、サイはキラに呼び止められた。キラの腕には、白いノーマルスーツが抱えられている。「アマミキョは、ノーマルスーツが不足してるって聞いたから」
見た目より意外に柔らかな感触のスーツを受け取ると、サイの顔に自然と笑みが浮かんだ。「安心したよ。キラが早く立ち直ってくれて……フレイのことで、寝込まれたらどうしようかと思ってた」
だがキラは笑わない。哀れむような瞳でサイを見ているだけだ。「サイはまだ、知らないんだね。あのフレイが何者かを」
どうしてこの男はこうも、人の神経を逆撫でするような言い方が得意なのだろう。本人は決して皮肉のつもりでも何でもないのだろうが、これでは人に誤解されてしまう。サイは笑みが強張っていくのを感じながら、それでも冷静さを取り繕った。「お前なら、何か分かるっていうのか?」
「そうじゃないよ、少し考えれば誰だってすぐ分かることさ。サイも多分、分かっているんでしょ。
ただ、認めたくないだけだ」
あまりにも回りくどい言い方に、サイは少しばかり苛つきを露にする。「殴るぞ……」
しかしキラは、相変わらず哀れむかのような視線をサイから離さない。解体場に送られていく豚を見るような目つき、などと誤解されてもおかしくない目線。「殴られても仕方ないよね。サイをそうしてしまったのは多分、僕のせいでもあるし。
だから僕は、分かっていても言わないよ。サイが自分で答えを見つけないといけない」
何もかもお見通しとでも言いたげな口調──お前は優しい。だがその優しさの表現が、あまりにも誤解を招きやすい。その究極の形が、フリーダムによる戦闘介入でもあるのだろう。
キラ。人がみな、ラクス・クラインのようにお前を理解してくれるわけじゃないんだ──
サイが本気で説教しようとしたその時、インカムから通信が入った。ナオトの元気な声が飛び込んでくる。<サイさん、早くして下さいよぅ! このティーダ、ミリィさんに早く見せたいっ>
<遅れたら、乗せてあげないよー>これはマユの声。そして他にも矢継ぎ早に、ラスティや風間や時澤たちがサイをせきたて、呼ぶ声がインカムから溢れる。<ティーダはこの作戦の要なのよサイ君、分かってる?><くれぐれも、またあんな無茶はやめてくれよな><早く片つけて、アマミキョで桃食おうぜ!>
「分かりました、すぐ行きます!」サイはその全てに、一言で答える。それを見ながら、キラは初めてうっすら笑った。「相変わらず人気者だね、サイは」
「馬鹿言うな、こき使われてるだけさ。アマミキョは大変なんだよ」
そして最後に来たのは、彼女の声。<さっさと来い、サイ・アーガイル。そんなにアークエンジェルにいたければ置いていってもいいのだぞ!>
「了解! 15秒で到着するっ」サイはキラへ黙って手を振りつつ、駆け出す。フレイ・アルスターの声に弾かれるように。
その瞬間のキラの微笑みが、どこか淋しげだと感じたのは、気のせいだったろうか──


グフ・イグナイテッドのハッチを、義手からの閃光でたやすく破壊したミゲル。彼はミリアリアを抱えたまま、悠々とコクピットに乗り込んだ。
スパークを続ける左手もそのままに、ミゲルは強引に起動シークエンスを開始する。「ち……右腕ねー上に左脚部関節30%以上損傷かよ。しかもフライトユニットまで使えねぇときた。ツキはそうそうあるもんじゃねぇな」
愚痴りつつもミゲルは機体を突進させ、閉鎖された進入口をためらうことなくビームガンで撃ち抜いた。逃げ遅れ、巻き添えになった整備兵たちがゴミのように吹飛ばされていく中、グフはやや傾斜したカタパルトデッキを滑り一気に港へ出る。他にも兵士を二、三人は轢いただろう。朝陽に照らされた静かな蒼い海が、ミリアリアの目に迫った。
「悪かった。さっきはあんな真似しちまって」グフを走らせながら、ミゲルはぽつりと弁解する。「ああでもしないと、ザフト兵の油断は誘えないからな」
「助け方としては、最悪ですね」多少余裕を取り戻したミリアリアは、荒れた砂浜を走る機体の振動に耐えながら軽口を叩く。
ミゲルは振り向きもせず答えた。「あそこまでザフトが弱体化しているとは思わなかったがな……いくら戦争がなかったからって、ダレ過ぎだ。軍規も何もねぇとは」
「でも、嬉しかった。ありがとうございます」ミゲルの金髪と緑服を眺めながら、ミリアリアは素直に礼を言った。「あいつが、来てくれたような気がした」
「あいつ?」
「ザフトに、ボーイフレンドがいたんです。ふっちゃいましたけど」
その時、ミゲルは驚くべき言葉をたやすく口にした。「エルスマンかい? 勿体ねーな、アイツは評議員の息子だぜ」
何故、見ず知らずの貴方がそれを知っている? またも息をのんだミリアリアに、ミゲルはウィンクしてみせる。視線は前方に向けたまま。「俺ァ、アイツの元同僚だ。二年前の」
ミリアリアは青ざめ、二の句が継げない。それが意味するところは──「ちっとは頭が回るようだな。俺は、アンタの住まいをぶち壊し、アンタの元彼を殺した奴の仲間だよ」
グフの重い駆動音が、コクピットを満たす。ミゲルはさらに笑った。「ちなみに俺はあの頃、ナチュラルって奴が大っ嫌いでね」
「だったら、何故……」
その瞬間、コクピットにひときわ強い衝撃が走った。ミリアリアは舌を噛みそうになりつつもモニターを確認する。響きわたるアラーム。「追っ手だ! つかまってろっ」
背後の青空から、3機のバビが単眼を光らせて追撃してくる。紫のとんがり帽子だ。
ユニウスセブン墜落の影響で荒れたままになっている浜をひた走るグフ、容赦なく空から攻撃を加えるバビ。蒼い海が爆炎で染まり、大量の砂塵が水柱と共に巻き上がる。
「片腕には慣れてるんだよ!」ミゲルの叫びと共に、グフはただ一本残った左腕を器用にかつ素早く動かし、背後の攻撃に対してシールドを翻して機体を守った。ミゲルは舌打ちする。
「駄目だ、スラスターも動かねぇ。これじゃ海に逃げられねぇっ」
しかし未だ彼には余裕があった。紅に輝く電撃鞭──スレイヤーウィップを振りかざしたグフは、空中から迫った一機のバビに叩きつける。血染めの蛇の如くバビのエンジン部に喰らいついた鞭は、高周波による超振動により一息にバビの動きを停止させ──そのままバビは浜辺に墜落し、光となって爆散していく。
ミゲルは機体をぐるり旋回させ、さらに2機のバビを続けざまに鞭で落とした。紅の波動と共に電撃の鞭は青空をうねり、敵に絡みついてその動きを奪う。そのさまはまるで、空中で踊る紅い刃だった。
だが、炎上する砂浜の中からさらに、砂を掠めるほどの低空飛行のディンが滑り込んでくる。空からも陸からも、雲霞の如く敵が現れる──ミリアリア一人を狙って。
「ナチュラル嫌いの俺が何故、あんたを助けるのか? 何故、フレイに従うのか? コーディネイターを毛嫌いしていたフレイ・アルスターに……だろ?」
俊敏かつ安定した機動を繰り返しながら、ミゲルはふっとミリアリアに微笑む。その笑いと共に、電撃鞭がディンの腹に叩き込まれた。
「俺たちは、全ての人間を超越するからさ。キラ・ヤマトもラクス・クラインもアスラン・ザラも、その為の種だ」
ミリアリアには全く意味が分からない。「答えになってない……」
「いずれ分かる時が来る。その為にじっくり見ておくんだな、俺たちの生き様を!」
ミゲルの言葉と共にディンが2機、またもやミリアリアの眼前で紅の蛇の餌食となり、炎の柱と化した。


一旦浮上したアークエンジェルのカタパルトから、スカイグラスパーにカラミティが次々に射出されていく。アフロディーテ、そしてサイを同乗させたティーダも、今まさに発進直前だった。
<ティーダはアフロディーテ発進後、10秒で出撃。名残を惜しんでいる暇はない、1秒でももたつけばミリアリアの命はないと思え>
フレイの言葉がティーダコクピットに反響し、ナオトはいつもの通り反抗的な態度を見せる。「分かってますよ! 全く、殆ど取材も出来やしなかったじゃないかっ」
「怒るなよ。俺たちは曲がりなりにも、この船の監視者になったんだ」サイが諌めたが、ナオトはなお不満げに頬を膨らませる。「だから、何で監視なんか? キラさんたちは、オーブを守りたいだけで……」
<ストライク・アフロディーテ、出るぞ!>轟くフレイの声が、ナオトの反論を押さえつける。ティーダの前を、火花を散らし颯爽と出撃していく血のストライク──アフロディーテ。
そしてティーダが発進シークエンスに入る。海に向かって開かれたカタパルトハッチに向かい、ナオトは堂々叫んだ。「ガンダム・ティーダ、ナオト・シライシ、マユ・アスカ、出ます!」
サイはモニターのキラとマリューを見ながら、そっと呟く。ティーダのエンジン音とナオトの大声に潰されると承知していながら。「──さようなら」


浜辺で囲まれるグフ。相変わらず必死の応戦を続けるミゲルだが、片足損傷の上右腕部欠損状態では限界が近づいていた。空中から次々に襲来する敵の物量に、グフは次第におされていく。ミリアリアが乗っている為、攻撃そのものは比較的穏やかなのが救いか。
軽口を繰り返しつつも、少しずつ焦りの色を隠せなくなっているミゲル。その彼に、ミリアリアは驚くべき提案を出した。「降りましょう、ミゲルさん」
「何だって!?」
「敵の狙いは私です。私が無防備になれば、攻撃は止まるでしょう? 私を死なせたら、困るのはザフトよ」
「サイみたいなこと言ってんじゃねぇ! モビルスーツ戦に人間が巻き込まれたらどうなるか、身をもって知ってるだろうが。ナオトから聞いたぞ」
「だけどこのままじゃ、死ぬわよ!」
ディンの爆撃がさらにグフを襲う。モニターが砂煙とノイズで煙る。左脚部関節破損のアラームが鳴り響いた。ミゲルは観念したように呟く。「それしかなさそうだ」
彼はハッチを再び開くと、砂と炎でもうもうと煙る空気の中へ、ミリアリアを抱えつつ頭を出した。焼けた砂浜に飛び降りると、ミリアリアの予想通り砲撃は止まった。恐れることなくディンの群れを一瞥するミリアリアとミゲル。敵との物理的距離は十二分にあり、走って逃げおおせることすら可能なように見えた。
「モビルスーツってのは、対人には意外に弱い──忘れてたぜ、フレイの教え」空から追撃してくるバビを振り返りもせず、ミゲルはミリアリアをおぶったまま砂浜を突き抜け、港湾内の工事中の建造物に入り込む。
どうやら新たな基地を増設する予定らしいその場所は、鉄骨がむき出しになって放置されている、いかにも脆そうな骨組みのみで構成されたビルだった。ユニウスセブン落下で傷ついた砂浜に無理矢理建造しようとしている為か、ミゲルたちが作業用通路で足を踏みしめるだけでビル全体がかすかに揺れた。
その通路も、つり橋の如く空中に突き出し鉄骨と鉄骨を支えるだけの代物。さらに天井が低い為、ミリアリアはミゲルの身体から降りざるを得なかった。
「ここに、フレイたちが来るの?」「そう。まさかこんな豆腐ビルとは思わなかったがな」ミゲルもさすがに不安げに、建造物を見回す。爆撃が一度でも来れば、こんなビルは一瞬で崩壊してしまうだろう。現に今も、砲撃音だけで足場はビリビリ震えている。
「もうちょっとだ、フレイが来るまでもちこたえてくれよ」ミゲルは出来るだけゆっくりと、ミリアリアを肩から降ろす。だがその途端、彼女の足に痛みが走った。尋問された時の爪先の激痛が蘇り、ミリアリアはその場で座り込んでしまう。剥きだしのままの両足首は、血で滲んでいた。
足に力が入らない。ミリアリアが再び自らの無力を感じ取った瞬間──
「ヤバイ、逃げろ!」ミゲルの叫び。それをかき消す轟音。
彼女を庇おうと咄嗟に前に出たミゲルの緑服。その向こうに見えたものは──通路や鉄骨をものともせず打ち砕き、崩壊させ、突進してくる三角帽子・バビだった。
赤みを帯びたその単眼がギラリと輝き、閃光が走る。ミリアリアは両腕で、降りそそぐ瓦礫から自らを守るだけで精一杯だった。足場はブランコのように揺れ、やがてミリアリアの体重すら支え切れずにあっけなく崩れていく。
彼女の目で僅かに確認できたのは、崩壊し鉄骨の山となりゆく建造物の底へ底へと落ちていく、ミゲルの身体だけだった。
声にならない叫びを発しながらミリアリアは、自分もまたミゲルと同じ運命を辿りつつあることに気づいていた。


ガンダム・ティーダでようやく現場上空に到着したナオトたちが目にしたものは、崩壊しゆく港湾ビルと数十機ものバビ・ディン部隊だった。その中にはザフトの新型・グフの姿もある。
「さすがフリーダム対策というだけはあるな……あんな新型まで」高速移動を続けるティーダの中で、サイは加速とノーマルスーツの暑さに耐えながら呟いた。その横では、ナオトが苛立って身を乗り出してモニターを見ている。
「爆煙でよく見えない……ミリィさんは何処!?」
フレイからもミゲルからも応答はない。マユは相変わらず呑気に状況を眺めている。「第13倉庫予定地、ポイントは合っているはずだよ。もうやられちゃったのかなー」
「あるわけないっ! 絶対に助けるんだっ」
ティーダを追い、海上を滑るように接近してくるカラミティが眼下に見える。ディープフォビドゥンに支えられつつ、頼もしい砲撃でティーダを援護し、近づいてくるバビ部隊を殆ど海へ叩き伏せていくカラミティ。しかし敵もさすがザフトというべきか、縦横無尽にその閃光をかわしてティーダに直接喰らいついてくるバビがいた。空中で何度もモビルアーマーとモビルスーツとの変形を繰り返し、こちらを嘲笑うようにひらりひらりと光をかわす。まさに三角帽子の魔術師だった。
ティーダとバビの装甲が空中で激突し、火花が散る。装甲越しに、相手の声が直接コクピットに響いた。<この攻撃、アークエンジェルの手の者か! 返答しろっ>
揺れるコクピット。ナオトはそれにも負けず、怒りをもって叫んだ。「あんたたちがどれほど頑張ったってアークエンジェルは来ないよ、この卑怯者!」
ナオトの叫びと共にティーダはバビをいとも簡単に振りもぎり、機体を素早く回転させバビの単眼に向かって、右腕のランサーダートを叩き込んだ。ナオトの叫びが空に響く。「ミリィさんを返せよ、化物ども!」
さらに右腕部武装・トリケロスからビームサーベルが発現。ティーダの刃は空気を焼いてバビの横腹を一閃する。あまりの機動に、サイは血が沸騰するような感覚に襲われ半分吐きそうになる。それでもサイは座席にしがみついてマユに叫んだ。「マユ、目的は戦闘じゃない! ミリアリアを探すんだっ」
だがマユは、あくまで涼しい顔で言い放った。「私じゃないよ。今メイン操縦系は63%ナオトに移譲してる」
「何だって?」
右側頭部に血が圧縮されていく感覚を拭えぬまま、サイは前席のナオトを凝視する。そして思い出した、キラがティーダのOSに念入りに手を入れていたことを。
ティーダの機動は、見違えるほどに向上していた。数値で言えば150%以上といったところだろう。
モニターの中で、黒煙を噴き上げてバビが海へ墜落していく。虫でも見るようにバビを眺めながら、ナオトはサイを振り向きもしない。あどけないその頬と大きな瞳は今、怒りに満ちていた。
ザフトへの怒りとキラの才能が、ナオトとティーダの能力を引き出しているのは間違いない。それも、限界以上に。そしてたった今、ナオトはいとも簡単に人を──
「殺してませんよ。キラさんと同じに、僕は人殺しはしません」呟くナオト。確かに今海に落ちたバビは、爆発はしなかった──浮上もしていないが。「僕は、あいつらとは違うんだ」
馬鹿な、などと言いそうになったサイだが機体はそれすらも許さず、急旋回を繰り返す。マユがはしゃぐ。「その意気! カッコイイよナオトっ」
背後からはディンとバビ、さらに海中からはゾノが迫っていた。だがカラミティを海中で支えている風間のディープフォビドゥンが、元気にゾノを迎撃する。さらに時澤とラスティのスカイグラスパーも、カラミティの砲撃に付き従うが如くバビとの交戦を開始していた。
俊速でバビの砲をかわし、その腰部に回り込んでは離脱する時澤のスカイグラスパー。素早い蜂の如く逃げ回るスカイグラスパーに気を取られている隙に、カラミティが猛然とバビを2、3機焼いていく。
救出作戦が、あまりにも大規模な戦闘になってきている。サイは感じた──これはミリアリア一人の問題に留まらない。アークエンジェルを巡る連合とザフトの激突だ。
そこへ、何処ぞへと姿を消していたフレイのアフロディーテから突如、通信が入った。眼下の水煙を抜け、ティーダへ向かってくる血のストライクが見える。
<ティーダ、聞こえるか。状況が変わった、ミリアリア・ハウは未だザフトの手中だ!>
「何ですって!?」ナオトの叫び。耳鳴りと眩暈をこらえつつ、サイはフレイの言葉を何とか受け止めた。歯ぎしりと共に。「フレイ、ミゲル・アイマンはどうした?」
<救出したが、負傷している>
「そんな! ミリィさんが何処か分からないっていうんですか、今更!?」
その間にも、バビ・ディン部隊は空中からティーダとアフロディーテに迫る。何度叩き払っても、生ゴミの山から蘇ってくる蚊の大群のように。
空を埋め尽くす勢いの敵を見て、ナオトは唇を噛みしめる。「こうなったら、黙示録しかないっ」
その決断にサイは驚き、ナオトの肩を押さえた。「駄目だ。ミリィの行方が分からない今、黙示録は危険すぎる」
「何言ってるんですか。サイさんだって何度も黙示録見たけど、大丈夫だったでしょう!」
サイが懸念したのは、黙示録を発動させた場合のミリアリアの身だった。確かに、今まで黙示録の発動をサイは何度か目撃していたが、殆どの場合遮光の施されたアマミキョ内にいたからこそサイはあの光に耐えられたのだ。コロニー・ミントンでは直接あの光を見たが、距離はそう近くはなかった──だがいずれの場合も、ティーダの光が自分の身に食い込んでくる感覚は決して気持ちよくはなかった。
サイは急いでティーダのモニターの解析を始める。崩壊した港湾ビルまでの距離は50mもない。万が一ミリアリアが未だあそこにいるとすると、黙示録を発動させれば彼女は至近距離でティーダの光を浴びることになる。サイはそれだけは避けたかった。
だが、ナオトはそんなサイに反駁する。「サイさんだって知ってるでしょ。黙示録発動中なら、モニターの分析なんかしなくったってミリィさんの位置は分かるんだ!」
「ちょっと早いけど、しょうがないかっ」マユも、自らの脚の間で黒ハロの頭部を開き、現れたキーボードの上で指を踊らせ出す。
その時、ティーダのモニターに反応があった。通常のモビルスーツよりも高性能のカメラを指に足に頭に装備し、複数の相手の動きを随時キャッチしトレース出来るティーダ。その無数の目は、激戦の中から逃げ出そうとする一機のバビを捉えていた。その鋼鉄の掌に抱えられた、戦場では明らかに異質な栗色の、癖のある髪は──
瞬間、サイは叫んでいた。「ナオト撃つな! ミリィはあそこだっ」


気づいた時には、ミリアリアの身体は鋼鉄の筋肉に抱かれていた。
あのビルの中で落下しゆく自分をまんまと手中におさめて、バビは今現場から逃げようとしている。鉄に押さえ込まれる不快感の中で、彼女はその事実だけを悟った。正確に言うと、ミリアリアの身はバビの掌の中に挟まれ、首から上だけが中途半端に外に飛び出していた。
彼女はどうにか頭を回し状況把握に努めるが、爆風から頭を守るのが精一杯だった。噴き上がる水煙の中を滑り、逃げようとするバビ。
だがそこへ立ちはだかるものがいた。それは先ほどまでミリアリアたちが乗っていた、損傷していたはずの青いグフ・イグナイテッド。「まさか! もう動けなかったはずなのに」
脚部を破損したまま無理矢理グゥルに乗って空へ躍りだしたグフは、敢然とバビに向かってくる。開いたままのハッチから、パイロットの姿まではっきり見える。乗っていたのは勿論、あの金髪隻腕の緑服──ミゲル・アイマンだった。


頭から血を垂れ流したまま、ミゲルは猛然とグフをバビに組みつかせる。飛び散る火花を直に浴びる寸前になりながら、ミゲルはバビの向こうのティーダを確認した。「いい子だ、ティーダ。今黙示録撃ったら、嬢ちゃんの目が潰れちまうぜ」
ミリアリアを手中にしているバビと、新型とはいえ腕と脚を損傷しているグフ。力は拮抗していた。
そのバビを援護すべく、海中からゾノのクローが、空からはディンが襲いかかってくる。ミリアリアの眼前で、ミゲルのグフは再び攻撃にさらされようとしていた──その時。
<愚か者が! 逃げていろと言ったはずだっ>
波濤を切り裂いて現れたストライク・アフロディーテが、一瞬にしてゾノを粉砕しディンの腹を両断した。フレイの罵声と共に。<アスラン・ザラを手に入れる前に死にたいか!>
危機を脱したミゲルは、その言葉に自分を笑う。「悪かったよ。つい熱くなっちまった……今度は俺が殴られなきゃな」


外部スピーカを通じてかわされたその会話は、バビの手中のミリアリアにもはっきり聞こえていた。
間違いない、あれは確かにフレイの声だ。口調こそ違うものの、確かにかつて生死を共にした友人の声──フレイは、生きていたんだ。
チュウザンで出会った時のナオトの言葉は、間違いではなかったのだ。しかも彼女は今、ストライクを模した紅のダガーLを操り、自分の前に堂々と姿を現している。そしてさらに謎だったのは、彼女が今放った言葉だ。
「フレイが、アスランを? どういうこと?」
しかしその言葉の謎を解く前に、ミリアリアの身体はバビの手に締め上げられた。眼球が飛び出すかというほどのの圧迫。息が止まる。指関節の装甲の間に挟まれ、服も煤だらけになりあちこち破けていた。
同時にバビはアフロディーテからの離脱を図り、一気に海面への下降を始めた。気絶しかかりながらもミリアリアは眼下を見る。拡がるものは埋め立て中の、泥まじりの海──叩きつけられれば一巻の終わりだ。
──助けて、トール。
何度も呟いたその言葉を、彼女は再び呪文のように口にした。
バビは自分を殺しはしない、そんなことは頭では分かっている。しかしバビに乗るザフト兵は、ナチュラルの自分がこの機動によってどれほどのダメージを受けるかなど知らないだろう。
だから、基地でもあのような真似が出来る。
だから、ナチュラルを傷つけられる。
だから、ナチュラルを理解出来ない──
そして私たちナチュラルも同じ。こんな真似をするコーディネイターを理解することは出来ない。だから──
助けて、トール。
その瞬間、空を裂いて声が聞こえた。まるで彼女の言葉に答えるかのように。「今助ける、ミリアリア!」
天空に中座していたはずの太陽が、何故か自分に突進してきた──彼女はその時の光景を、一瞬そう錯覚した。人の形をした太陽が、自分に向かって驀進してくる。
2年前の地獄の中、いつも自分を隣で後ろで支えていてくれた声と共に。
それは正確に表現すると、朝陽を浴びて白銀に輝くモビルスーツだった。海面全てを照らし出す勢いでそのフォルムは輝き、まっしぐらにミリアリアに向かってくる。痛みの中で彼女は感じた。
あれが、ティーダだ。自分がチュウザンで出会った少年・ナオトが乗っているモビルスーツ。フリーダムと同じ頭部を持ち、戦いを終わらせる力を持つ──
太陽のガンダム。
さらに彼女は、バビの指で強引に閉ざされかかる視界の向こうに見た。輝くガンダムの掌に、ノーマルスーツの人間が乗っている光景を。サーフィンでもするように波を蹴立ててティーダの左手に乗り、海上を滑り真っ直ぐにこちらに向かってくる光景を。
ミリアリアは悔しさに呻く。カメラがあれば、この美しい光景を何十枚でも撮っていたのに! 貴方のカッコ良さを、何百枚でも撮っていたのに!
ミリアリアはティーダに向かい、その力強い仲間の名を声を限りに叫んだ。「サイ!」


「ナオト、もう少し低く飛べ! 何としてもバビに喰らいつくんだっ」
ティーダの手に乗り空を滑りながら、サイはナオトに指示を出す。目標のバビに接近しつつ、ノーマルスーツの腰部からワイヤーを引っ張り出し、サイは自身とティーダの掌部を繋ぎとめた。
サイの考えはごく単純だった。ティーダがその機動性を利用してバビに近づき、組み付いたところでサイがバビに渡り、ミリアリアをその掌中から救出する。勿論その間に、ティーダは相手の気を逸らしておく──
サイがこの作戦を提案した時は、当然ナオトと激しい口論になった。だが、人間をモビルスーツの戦闘に利用するような手段をザフトがとるなら、こちらも生身でチョロチョロ動ける人間で対抗してやるのが一番だ。ナオトもそれで渋々承諾し、サイをティーダの手に乗せたのである。
用意しておいた整備用の大型レンチと爆薬を確認し、サイはバビを見上げる。ミリアリアの囚われているバビを。


「馬鹿者が……」アフロディーテの中でサイとティーダを確認し、フレイは不機嫌に呟いた。ミゲルの声も響く。<あのボケ! また生身でどうする気だっ>
だが、フレイはそのまま指示を出し続けた。「ミゲル、山神隊もラスティも健在だ。戦線はこちらに移動しつつある。10秒でカラミティも追いつく、貴様は退避しろ」
<しかし、ティーダが!>
「これ以上私の怒りを買いたいか、退けっ!」瞬間、アフロディーテはIWSPを翻してバビの退路を塞ぎにかかる。ミリアリアの捕まったバビを睨むフレイ。
だがバビはディンとゾノの支援も受け、カラミティの砲撃すら軽くかわして逃げようとする。だが、1.9m対艦刀を両腕に携えたアフロディーテは、すれ違いざまに2機のディンを腹から叩き斬った。まるで臓物をぶちまけるかの如く破壊され、炎を噴き上げて海へ落ちていくディン。
さらにアフロディーテは海中のゾノにも狙いを定め、肩越しにレールガンを撃った。ほどなく盛大な水柱が上がる。


「あれが、フレイ? 本当にフレイなの?」鋼鉄の指から逃れようと、ミリアリアは必死で自分の胴体ほどもある鉄の塊を押し上げようとする。だが女一人の力ではそれも叶わず、外の状況を確認する程度が精一杯だ。
そこへさらに衝撃が走る。波を逆立ててすぐ下へ滑り込んでくるエメラルドの機体が見えた。自分たちが戦ったこともある機体──「何故カラミティが? もう生産はストップしたはずなのに」
今の砲撃はバビの腕関節をかすめ、少しばかりミリアリアへの圧迫は緩んだ。どうやら指先への信号伝達ラインが破損したらしく、ミリアリアは力を振りしぼり何とか自力で鉄の指をこじあけることに成功した。
「大した腕前ね。私を傷つけずにバビの腕を損傷させるなんて」ミリアリアはようやく、再び外へ上半身を出すことが出来た。まだ身体全部の脱出は無理だが──
外を改めて確認した瞬間、眩暈が襲う。海面まで50mはあるかという高さを、彼女はバビで滑空していたのだ。高所恐怖症ならば間違いなく気絶するだろう状況の中、ミリアリアはティーダの姿を見る。同時にあの少年の声が、彼女の耳に飛び込んできた。
<ミリィさん! 覚えてますか、ナオト・シライシですっ>


ティーダの外部スピーカから、ナオトの怒声が戦場に響きわたる。「ザフトの皆さん。貴方がたの卑劣な行為は、全てこのカメラに収めました。
守るべき一般市民を人質にして、オーブの英雄を引きずり出そうという貴方がたの行為は、平和を願う全ての人々の思いを踏みにじるものです! 僕は一記者として、ミリアリアさんの同志として、オーブ本国と全世界に対して、貴方がたの非道を公開します」
ナオトが叫んでいる隙にマユが巧みにティーダを飛翔させ、腕から煙の上がっているバビに一気に接近する。サイの乗っている左腕からロケットアンカーが発射され、バビの腕を絡めとった。
ティーダの掌中で身を屈めアンカー発射の衝撃に耐えたサイは、作戦通りに行動を開始する。ノーマルスーツの靴のマグネットを作動させ、サイはロケットアンカーのワイヤーを伝ってのバビへの綱渡りを始めた。
ワイヤーの直径は約30センチ、バビの腕までの距離は5m程度。平均台を渡るよりも簡単に思えるが、海面までの高さが半端ではない。その上ティーダもバビも空中で引っ張り合いをしている状況ゆえ、ワイヤーは嵐の中のつり橋の如く揺れていた。バビが暴れるたびにワイヤーも少しずつちぎれていく──かけられる時間は20秒もないだろう。
それでもサイは身長の半分ほどもあるレンチを携え、やや眼下にあるバビの腕に向かって滑るようにワイヤーの上を駆ける。マグネットがしっかり作動しておりメットと分厚い布地に守られている分、制服のままでモビルスーツの間に割り込んだ時よりはよほど安心感があった。
<先に手を出してきた卑怯者は、アークエンジェルではないか! 我々から強奪した条約違反のモビルスーツまで使って、一体貴様らは何を考えているっ>
バビのパイロットの怒声が、そんなサイの上を通り過ぎた。さらに他のモビルスーツ群からも、ナオトの言葉への反撃が始まった。<ラクス・クライン気取りかよ、ふざけるな!><ミリアリア・ハウは一般市民ではない! 彼女はテロリストと内通していたっ>
当然の反論だ。頭の何処かでザフトを肯定しつつも、サイは走る。
「アークエンジェルは、テロリストじゃありません!」ナオトの喚き。その時、ティーダを引き離そうとしてバビは激しく腕を揺らし、勿論サイは大波に飲まれた木の葉の如く揺さぶられた。
だがそのバビを、背後からアフロディーテが組み伏せた。がっちりとアフロディーテに腕を取られたバビは、完全に動きを封じ込められる。フレイの声──<テロリストの定義はともかく、彼らは私たちに必要な存在だ。貴様らにも。
手出しは──無用!>
声と共に、アフロディーテは力まかせにバビの翼の一部を潰した。サイが密かに恐れていたのがバビのモビルアーマー形態への変化だったが、これでその可変機構も潰れたことになる。その間に、揺れに耐え切ったサイはどうにかバビの腕に到達した。メットを通じて、ミリアリアの叫びまでがはっきり聞こえた──「サイ!」
「ミリィ、今行く!」バビの装甲を蹴り飛ばし、サイはミリアリアの元へ走る。サイの身体は海面に対してほぼ45度傾いていたが、自身の勢いと足下のマグネットが、サイをいとも軽々とバビの腕の上で走らせていた。あと3m、2mと、懐かしい少女の顔が迫ってくる。
そしてサイは走りながら怒りにまかせてレンチを振りかざし、バビの指に食い込ませた。飛び散る火花。今ではミリアリアにもはっきりと、バイザーの向こうの汗だくのサイの顔が見えた。ミリアリアも必死でサイに手を伸ばす。あと少しで鉄の指が開く、あと少しでサイとミリアリアの指が触れ合う──だが、意外にもバビの指は頑丈だった。
畜生、ハマーさんならもう少しうまくレンチを使えそうなものなのに。サイが自分の不器用さに苛つき、腰から爆薬を取り出しかけたその刹那──視界の隅でストロボのように激しい光が閃いた。
喜びに溢れかけていた目の前のミリアリアの顔が、一瞬にして恐怖で歪む。
<サイさん、危ない逃げて!>ノイズ混じりのナオトの声がサイのメットを叩くのと、左半身を焼けた鉄塊で殴られたような衝撃が襲ったのは、ほぼ同時だった。


追いつめられたバビが遂に、胸部に内蔵されたアルドール複相ビーム砲を発射したのだ。その衝撃をまともに胸に喰らった目の前のティーダは火花と煙を噴き上げ、海へと落下していく。当然、ワイヤーで繋がれたままのサイの身体も。
そしてミリアリアは見た。至近距離でビームを浴びた人間がどうなるか──
サイは直撃こそ逃れたものの、そのノーマルスーツの左肩は熱せられた空気によって完全に溶け、白かったスーツは左半分が黒く変色していた。
ボロ布のようになったサイの身体は空中に投げ出され、ティーダと共に落ちていく。巻き上がる水柱──
ミリアリアは叫んでいた。サイとナオトの名を何度も叫んだつもりだったが、その叫びはまともな言葉にならず、ただ荒れた海を裂いていった。


「貴様……よくも、ティーダを!」
ティーダ、そしてサイが海へ落ちた光景を目の当たりにしたフレイは、怒りを露にしてバビに肉迫する。だが、バビとゾノとディンによる波状攻撃はいよいよ激しさを増していた。さらに、グフイグナイテッド数機も攻撃をかける。カラミティやスカイグラスパーの支援によりザフト機を次々に血まつりに挙げつつも、アフロディーテには少しずつ限界時間が迫っていた。
「さすが、フリーダム包囲網というだけはある」フレイが呟き戦う間にも、ミリアリアを捕らえたバビは再び逃走を企てる。
それを追うか、それともティーダを救うか──フレイの動きに若干の迷いが生じた、その瞬間。
警告音がフレイのコクピットに響きわたると同時に、背中からの衝撃が彼女を襲った。グフのスレイヤーウィップが、背後からアフロディーテの左脚部に絡みついたのだ。
対艦刀でその鞭を寸断しようとしたフレイだが、その前に激しい電流が鞭を伝わりアフロディーテを襲う。
その衝撃は、フェイズシフトで防護されているはずのコクピットまで伝わってきた。下半身から頭蓋の頂を突き抜ける圧迫に、フレイは呻く──叫ぶことだけは絶対にしなかったが。
「腹をえぐられる痛みに比べれば、こんなもの!」


海に叩き落される形になったサイとティーダ。胸部にまともに光を喰らいながらも、ティーダは決してサイを離そうとせず、可能な限り柔らかくその掌でサイを守っていた。
ノーマルスーツを着ていなければ即死だった。水中で気絶寸前になりながら、サイは自分の左腕をどうにか確認する。スーツの左腕部分は肩から溶解して剥がれ、サイの肘が露出していた。バイザーも何処かで割れたのか、水がサイの顎あたりまで満ちている。これではあと数秒で、呼吸が不可能になる──
ミリアリアを助け出す為の、同時にナオトを戦わせない為の、サイの作戦だったはずだ。生身の人間をモビルスーツから救うには、同じ人間が最も適している。同時に自分がティーダの手に在れば、ナオトも暴れられない。
だがその結果、ミリアリアの手を掴めず、ティーダは撃たれた。俺は結局、誰も助けられなかった。結局、何も出来なかった──
ガリガリと氷を打ち砕くようなノイズに乗って、ティーダコクピットの音声が伝わってくる。状況を伝えるハロの声。<トランスフェイズシステム、ソンショウド40%、ナオモテイカチュウ>
<キセキだよ。この距離でアルドールなんか撃たれたら、普通は即死なのに>マユだ。良かった、無事だったんだ。そしてナオトの声も響く。
<キラさんのおかげだ。こんなに早く、フェイズシフトの電力がコクピットブロックに集まるなんて>咳き込んで呻いてはいるが、こちらも無事なようだ。何事かをぶつくさ言っているようだが、ノイズと激しいアラーム音で聞き取れない。どうせ俺への文句だろう──だが、サイがそう思った時。
<違うよナオト。サイの作ったシステムを、キラが強くしたの。二人のどちらがいなくても、ティーダはオシャカだったよ。ついでに、フレイがアークエンジェルから借りたラミネート装甲もね>
沈黙が場を支配する。実際は、フレイがアークエンジェルからもぎとったも同然のラミネート装甲が、ビーム兵器の威力を削ぐその効力を最大限発揮しての結果だったのだろうが──
サイを守っているティーダの掌が、若干優しげに握り締められたのは気のせいか。軋む装甲がサイの左腕に触れる。溶けたスーツの一部が白い塊になって流れていく。
以前のマユなら、こんなことは言わなかった。以前の彼女なら無視するか、俺を嘲るかのどちらかだったのに。そのマユの言葉に、さすがのナオトも黙ってしまったようだ。
サイは自分を守るティーダの装甲に、ほぼ素手になってしまった自分の掌を合わせた。まだ熱い。まだ、ティーダは生きている。俺も。
<大丈夫ですか、サイさん>胸から吐き出されるようなナオトの呟きが聞こえた。苦しさでサイは答えることも出来なかったが、そのかわりに軽く装甲を指で叩く。
俺はまだ大丈夫。だからナオト、行け──!
その瞬間、無数に噴き出る塩辛い泡の向こうで、ティーダのカメラアイが光った。血を吐くようなナオトの叫びと共に。<あんまり僕たちを、なめんじゃないよお!!>


グフのスレイヤーウィップの衝撃に耐えていたアフロディーテだったが、限界時間は一気に迫っていた。エネルギーゲージが滝のように落下していく。そして勿論敵はグフ一機に留まらなかった。
正面から堂々と、バビ2機がモビルアーマー形態となって猛進してくる。アフロディーテはすぐさまIWSPの肩部から単装砲を撃ったものの、同時にバビの攻撃はIWSPを掠めた──
<フレイ、何を迷ってる! 腐れ鞭如き振り切れっ>カイキの叫びが轟き、海上を滑り込んできたカラミティのシュラークがアフロディーテを縛る紅の触手を断ち切った。
バランスを失い、落下しかかるアフロディーテ。IWSPは一部損傷し、フレイは先ほどまでのように自在に機体を飛ばすことは出来ない。そんな彼女にも、容赦なくバビは襲いかかる。
フレイは圧力に耐えながら、モニターで迫り来る海面を凝視していた。バイザーの中の彼女の額は、珍しく汗まみれだった──折れよとばかりに握り締められる操縦桿。旋回して迫るバビ。
カイキとラスティの怒声が交錯する。<何やってる、フレイ! 撃てっ><まだパワーは残っているはずだろっ>
「駄目だ。ここで撃ちあいをするわけには──!」
カイキたちの叫びも虚しく、フレイの身体は一気に海へ叩きつけられようとする。同時にバビの餌食になろうとする。その時──
<君にしちゃ珍しいね。戦闘中に迷うとは!>
落下する女神のすぐ横から、溢れる波飛沫と共に閃光が現れた。


海を割る朝陽の如く復活し、アフロディーテの危機を救ったのは勿論、ガンダム・ティーダ。
落下するアフロディーテをその右腕の逞しい武装・トリケロスが支えた。アフロディーテはそのおかげでどうにか体勢を立て直し、再びバーニアを噴かすことに成功する。
そのティーダの左掌には、サイがしっかりと両脚を踏ん張って立ち上がっていた。若干火傷を負った左腕を押さえつつ、壊れたメットを脱いで喉に詰まった海水をぺっと吐き捨てる。頭から水を跳ね飛ばしながらも、サイはアフロディーテを見上げながら笑っていた。
「良かった、フレイ。君が無事で!」
それに対するフレイの返事は皆無だった。アフロディーテのカメラアイは既に、その場から再び逃走を図るバビをロックしている。勿論、ミリアリアを捕らえたバビだ。返事の代わりにフレイは叫んでいた。
<私がバビの腕を撃つ。こちらのパワーも限界だ、下から回り込んでかっさらえ!>
「了解!」
チャンスはただ一度きり。フレイの言葉ははっきりそれを意味していた。
サイの返事と同時に、アフロディーテは逃げ行くバビを捕捉し、ビームライフルで腕関節を狙撃する。ティーダはサイの耐えられる限界までの高速機動で海上すれすれを滑空してバビに近づく。当然その間にも攻撃は雨あられと降ってきたが、追従してきたカラミティが全てを火球に変えた。
そして、遂にフレイの狙撃がバビの腕を貫いた──ミリアリアの握られた腕を。


ミリアリアの目はその光景をしっかと捉えていた。ぐんぐん近づいてくるティーダとアフロディーテ。
風と炎に頭を持っていかれそうになりながら、彼女はティーダを見据えた。その手中で、サイが叫んでいた──「飛べ、ミリィ! 早くっ」
サイのレンチとフレイの狙撃によって何とかこじ開けられた鉄の指を、ミリアリアは身体から引き剥がす。彼女の身体はようやく、完全に自由になった。
そう、飛ぶの私は。より強く、より力を求めて。
サイがもうすぐ近づいてくる。剥きだしの左腕に、溶けたスーツが蝋燭のように張りついている彼の火傷まで、彼女には見えていた。推定高度、約50m。ティーダまでの距離、およそバビ2機分あるかないか。
下からバビを追い上げる形になっているティーダ、その距離は少しずつ縮まっている。そして再びアフロディーテの狙撃。ミリアリアの身体を、今までとはまるで違う大きな衝撃が包む。
遂に、彼女を捕らえたバビの腕が本体から完全に離れたのだ。つまり、今や彼女を乗せている腕は空中に飛ばされる鋼の粗大ゴミと化したことになる。
当然そのままバビの腕は、海上への自由落下を始めた。突如身体に伝わってくる、重力による加速。
魂が身体から叩きだされるような速度に襲われるミリアリア。だが、サイの声が再び彼女を貫いた──「飛べ!」
ティーダの手で、広げられている両腕が見える。
──ありがとう、サイ。貴方のおかげで、私は決心出来た。
1年前、迷ってばかりだった貴方を見た時はすごく心配だったけど、そんな貴方が今、私を励ましてくれる。私を助けてくれる。貴方だけじゃない、ナオトも、キラも、ミゲルさんも、アークエンジェルのみんなも、そして──フレイも。
やっと分かった。私は、そんなみんなが好きなんだ。そんなみんなが好きだから、写真を撮りたかった──
でも、力がなければそれも叶わない。ディアッカ、あんたが言ってた通りになっちゃったみたいね。
ごめんね、サイ。だから私は──
落ち行く腕から、ミリアリア・ハウは空へ身を投げ出した。50mの高度から彼女は鋼を蹴り、跳躍した。サイの腕をめがけて。

 

 

Bpartへ
戻る