ティーダの掌の上──宙に飛んだミリアリアの手を、サイはがっちり右腕で掴んだ。
ティーダが発動させた「黙示録」。その光はまたもや、ザフトの部隊を完全に足止めした。
波濤に乗ったティーダの光は燃えさかり、天空を満たしていく。太陽から生まれた不死鳥のように。
バビやディンに浴びせられる光は、燃えて光を散らす銀の羽にも見えた。ティーダから生まれた翼の光は、パイロットたちの感情を伴って青空を覆い尽くす。
ナオトとマユによって、ティーダの光は確実に力を増していた。
ティーダの発動に、ザフト軍は完全に混乱に陥った。パイロットの神経が焼かれ、四肢は麻痺し、自在に空を駆け巡っていたモビルスーツたちはただの鉄の塊と化して海へ落ちていく。
バビ・ディン部隊の指揮官は、部下の悲鳴の交錯する中、自らも感覚を失っていく両腕をおさえながら呻く。「これが、ヨダカ・ヤナセの言っていた禁忌の力!?」
敵どころか自分の部隊すら視認出来ず、やがて通信すら切れ切れになっていく。ニュートロンジャマーの影響だけではなく、自らの耳がおかしくなっているという事実に気づくまでに、時間はかからなかった。
同時に脳に入り込んできたものは、鐘の音。戦いの終わりを告げる、鐘の音。
その光景を、ミリアリアはティーダの中でまざまざと見せつけられていた。
「これが、文具団の新型……本当にこんなものが、アマミキョにあったなんて」
ナオトが得意げに、彼女を振り向く。「どうです、ミリィさん。僕の言ったこと、ホントだったでしょ」
機体も傷つけずに、ザフトの動きが完全に止まるとは──常識では考えられぬ事態。ミリアリアはその裏に潜むある恐ろしい事実に思い当たり、思わず後席のマユの肩を掴む。「パイロットは? パイロットはどうなってるの?」
彼女の動揺をまるで見透かしたように、通信からミゲル・アイマンの絶叫が響いた。ナオトもサイも驚いてモニターを覗き込む。と、海上でぷかぷか浮きながら動けずにいるグフが見えた。
常時ならば、格好の標的になっていたに違いない。「ミゲルさんっ? どうして……」
ナオトは狼狽したが、マユはそれでも脳天気にメットをこつんと叩いた。「あちゃー、しまったなぁ。グフのことまで考えなかったよ」
それは、「宿題忘れちゃったよ!」などと明るく子供が言い放つのと、全く同じ口調だった。
アフロディーテにカラミティ、スカイグラスパーにディープフォビドゥンは「黙示録」発動と同時にフィルタを作動させ、光を防いでいた。だが、ミゲルの乗るグフだけはティーダ対策はなされていなかった為に、彼は傷ついた機体と傷ついた肉体をかかえ、壊れかけたコクピット内で一人苦しむ羽目になった。
神経と精神を犯されていく光に、ミゲルは彼らしくもなく呻き続ける。義手でどうにか機体を制御しようとしたが、その義手は既にショートして僅かに煙まで噴いていた。「すまねぇニコル。試作品だったなコイツは……使いすぎちまった」
そんなグフの目前に、アフロディーテが舞い降りる。まるで光からグフを守るように。
<お手柄だ、ミゲル。その新型、何としても頂戴するぞ>
コーディネイター嫌いだったフレイが、ナチュラル嫌いだったミゲルを守っている。この不思議な光景に、ミリアリアはしばらく言葉を失っていた。
<アマミキョで使えりゃいいがね。第一パーツはどうするよ、オギヤカに戻るしかねぇか?>
ミゲルの、明るいながらも痛みを必死で押さえている声が響く。さらにフレイの声。<それはお前の頭次第だ。使えずとも、機体のデータぐらいは取れるだろう>
<相変わらず無茶言うなぁ>
フレイとミゲルのやりとりをじっと聞いていたミリアリアは、不意にサイを振り向く。フィルタで抑えられた閃光が、その顔にひときわ濃い影を作っていた。
──「あの」フレイは、一体何? これが、貴方たちの力なの?
その台詞がミリアリアの口をついて出たわけではない。そんなミリアリアの心が、わずかながらサイに見えてしまったのだ。ほんの微量の軽蔑の混じった心が。
神経、そして心に直接入り込むティーダの力を目撃し、ミリアリアははっきり嫌悪の感情を示している。それを使っているナオト、マユに対しても。さらに、そんな子供たちを傍観しているサイに対しても。
その意志を感じ取ったのか、ナオトも怪訝そうにミリアリアを見た。
──この力で、全ての戦いを止めようとでもいうの、サイ? ナオトを使って? 子供を使って? 貴方たちは、一体何を考えているの?
その心の声を感じたサイは、思わずミリアリアを睨んだ。心の叫びと共に。
──違う! 俺はティーダを使うつもりなんかない、ナオトやマユを利用するつもりなんか!
サイもこの言葉を直接口に出したわけではない。なのに、ミリアリアははっきりと驚愕の表情を浮かべた。恐らくサイ自身、彼女と同じ表情をしているはずだ。
心が読める。読めてしまう。
近くにいるミリアリアの心が、ごくごく表層的な部分だけであるにしろ、読めてしまう。そうさせているのは、間違いなくティーダの光だった。
ミリアリアの眼前で無理矢理裸にされた感覚を、サイは味わった。恐らく彼女も同じ恥辱を感じているに違いない。サイは急いで心を覆い隠す──
だがサイが自らを恥じた時、厳しかったミリアリアの顔がふっと和らぐ。肉声で彼女は言った。「何も知らないんだ、サイは。それなのに、優しい。
相手には何も教えてもらえないのに、サイは優しい。2年前と変わらないのね、そういうところ」
ミリアリアの意図がすぐには掴めず、サイは一瞬まじまじと彼女を眺めてしまう。その瞬間、マユの歓声が割り込んできた。「だーい成功! みんな、逃げるよ!」
フレイ率いるアマクサ組は、こうしてまんまとザフト軍から逃げおおせた。光がやんだ時ザフトの眼前にあったものは、味方の残骸がだらしなく浮かび続ける、黒く汚れた海だけだった。
同じ頃、ディオキア周辺で補修を行なっていたミネルバでは、ロドニアで負傷したステラ・ルーシェが収容されていた。ここで彼女はシン・アスカと劇的な再会を果たしていたのだが、勿論彼らはティーダとミリアリアの件など知る由もない。当然、この時のサイたちも、シンとステラの小さな事件を知るはずもなかった。
だが、サイたちとは全く無関係なはずのシンとステラの運命は、やがてアマミキョを巻き込む大惨事を引き起こし、アマクサ組の計画にまでも大きな影響を及ぼすことになる。
しかしこの時は、そんな未来は誰にも予測しえなかった。
「私、アークエンジェルに行く」
海へ潜航したティーダの中で、ミリアリアははっきり宣言した。溶けかかっていたサイのノーマルスーツを強引に引き剥がし、左腕の火傷の応急処置を慣れた手つきで行ないながら。そして、サイの身体についた痛ましい傷の数々を凝視しながら。
サイが疑問を呈するより早く、ミリアリアは続けた。「よく分かったのよ。私には、力が必要だってことが。思う存分写真を撮って、真実を公表する──その為には、力がどうしたって必要なの」
「やめろ」サイはミリアリアの肩を掴んだ。「今のアークエンジェルは昔とは違う。ダーダネルスの戦闘は君も見たはずだろう、無理な戦闘介入をして世間の怒りを買ってばかりなんだ。そんなことも君は分からないのか?」
「分かってないのはサイよ」ミリアリアはきっぱり顔を上げる。「むしろ、貴方に聞きたい。何故、貴方は乗らなかったの?って。
仕方ないけどね、貴方は男だもの」
ミリアリアの笑顔は崩れなかったが、サイを眺める眼は何処か冷ややかだった。「知らないでしょう? 私があそこで何をされたか。私みたいな娘が、あの場所で何をされるかなんて」
ミリアリアの口調には次第に、彼女に似つかわしくない怒気がこもる。さすがのナオトも口を挟めず、やりとりを見ているしかなかった。「アークエンジェルのやり方が全て正しいわけじゃないってことぐらい、十分分かってる。でもね、一度無力を味わった女は力を求めるものなの。力を利用するものなの」一瞬ミリアリアは、狂った猫のようにサイに牙を剥く。「例え、自分を裏切ってもね!」
「それは男だって同じだ」サイは反論したが、彼女は一歩も引かなかった。
「違う。男は自分の力で強くなれる。だけど女は違う──サイ、貴方なら少しは分かるはずでしょう!」
2年前のフレイを見ていれば──と言わなかったのは、彼女の良心だろうか。ミリアリアは、巻いたばかりのサイの左腕の包帯に触れ、呟く。「サイは強い。こんなに傷ついたって、そのたびに強くなる。でも私は違う。違うのよ」
「違わない」サイは昂ぶるミリアリアの両肩を押さえ、しっかり彼女を見つめた。「ミリィだって十分強いじゃないか、俺なんかよりもずっと! 俺を励ましてくれた君が、何を前時代的なことを言ってる?」
今度は、ミリアリアは答えなかった。諦めにも似た視線でサイを眺めるだけだ。エルスマンと同じ、この男は何も分かっていない──明らかに、眼が語っていた。
それを好機とばかりに、ナオトが会話に割り込んでくる。「ねぇミリアリアさん、アマミキョに来て下さいよ。そうすればフレイさんだって、もうちょっとマシになるかも知れないんです。アマクサ組の横暴を、オーブにあばいちゃってくださいよ!」
子供らしいナオトの言葉に、思わずミリアリアは笑う。「そうしたいけど、それは貴方のお仕事。私じゃきっと、何も出来ないわよ」笑ってはいたが、その横顔は疲弊しきっていた。
「サイ。もうちょっと脱ぎなさいよ、きちんと治療出来ないでしょ!」気を取り直すかのように彼女は唇を尖らせてサイを睨み、強引に腰までノーマルスーツを引きずり下ろす。「ちょ、ちょっと待てミリィ、俺はそこまでケガしてない!」「黙んなさい、不器用な癖にこんな無茶ばっかりして! 貴方あと2m左にいたら直撃だったのよっ」
ミリアリアのおかげで、サイは無理矢理上半身をすっ裸に剥かれてしまった。使い物にならなくなったノーマルスーツだけが腰から下をどうにか守っていたが、サイは情けなくもほぼ全身を彼女の前にさらしてしまうことになった。傷と共に。
「サイ。今の貴方、少し変よ」傷を見つめたまま、ぽつりとミリアリアは呟いた。「今のままじゃ、貴方はきっと誰も助けられない。
自分を犠牲にして誰かを助けたって、本当に助けたことにはならないのよ。
貴方は、生きなきゃいけない。命がけで誰かを助けたって、貴方が生きていなければ、その誰かにとって意味はないの」
サイは神妙に、彼女の言葉を聞いているしかない。ミリアリアはさらに、ナオトにも言葉をかける。「ナオト。貴方は、サイがこんなに傷ついて自分を助けてくれても、嬉しい?」
「それは……」しばらくの逡巡の後、ナオトはきっぱり答える。「嬉しくないです。僕を助ける為にサイさんが傷つくなら、僕が傷ついた方がいい」
「そうよサイ。力がなければ、誰も助けられないの」
サイには反論出来ない。力だけでも、想いだけでも、誰も助けられない──キラやラクスがよく口にしていたような気がする。それなのに今の俺は、想いが空回りしているだけだ。
「だから私は、アークエンジェルに行って、みんなを、助ける」
ミリアリアははっきり宣言した。
彼女の意志を妨げることは、最早誰にも出来そうになかった。
俺と彼女は今、ヘタをすれば唇が触れ合うほどに近い距離でありながら、永久に突破不能な壁で阻まれた──サイも観念し、彼女の言葉を受け入れる他はなかった。
そこへ、ティーダを牽制するように横からアフロディーテが近づいてくる。海中に潜航し、さらに濃い血の色に染まったストライク──そのカメラアイが、瞬いた。
それは浮上の合図だったのだが、サイには別の意図を含んでいるように思えてならなかった。そう感じたのはミリアリアも同じだったようで、思わず彼女は笑う。「あんまりサイを独占しちゃ悪いわね」
ミリアリアは身体をナオトの方へ乗り出し、自らアフロディーテに手早く通信を繋いだ。かつての友人──死んだはずの友人、フレイ・アルスターに。
「久しぶり、フレイ。助けてくれた礼を言うわ」
<無事で何よりだ。今後の身の振り方は自身で決めるがいい、但し今回のような騒動はごめんだぞ>
「やだ、ホントにナタルさんみたいね」フレイの口調に対しても、ミリアリアは笑っていた。「強くなったのね、フレイ。まるで別人よ」
フレイからの応答はない。ミリアリアは僅かに唇を引き締めて続ける。「ホント言うとね。私は2年前の貴方が嫌いだった。
父親やサイに縋らなければ何も出来ないお嬢様で、その癖簡単にサイを裏切ってキラを利用した。そんな風に他人を利用する貴方は大嫌いだったし、見ていて辛かった。
でもね。今は、今の貴方のほうが嫌いよ」
フレイの答えを待ってモニターに添えられたミリアリアの手が、ぎゅっと拳を作る。そのままモニターを殴りつけてもおかしくないくらいの気合をこめ、彼女は言った。「どうしてそんなに、強くなっちゃったの? 泣いて誰かに縋ってばかりだった貴方は、何処へ行ったのよ?」
だが、フレイの返答は全くミリアリアを無視したものだった。返答ですらなく、ただの通信だった。
<浮上開始。スカイグラスパーとグフはこのままアマミキョへ帰還しろ。ミゲル、水漏れの具合はどうだ?>
<何とか無事だよ。宇宙用の凝固剤、結構海中でも役立つもんだな>
フレイの無視とミゲルの割り込みに、ミリアリアの感情は一気に逆立つ。
「答えなさいよ! 昔も今も、サイやキラを傷つけて惑わすのだけは変わらないのね!
サイをここまで傷つけて、一体どうするつもりなの!?
ナオトをティーダに乗せ続けて、一体何をするつもり?
アマミキョを乗っ取って、アークエンジェルを監視して、貴方の目的は一体何!?」
「ミリアリア!」サイは急いで彼女の肩を引き戻す。ナオトが大きく眼を見開いて彼女を見ていた──大人の情緒不安定は、時に子供に対して予想以上の衝撃となるものだ。
そのまま一方的に通信は遮断され、アフロディーテは離れていく。なおも通信を続けようとしたミリアリアだったが、サイが止めた。「やめろ、ミリアリア」「だってこのままじゃ、サイが! 貴方はそれでいいの? 貴方、また一人で全部背負うつもりなの? フレイのことを」
「そのつもりだ」感情に奮えるミリアリアを睨みつけ、サイは牽制する。「本当に俺のことを思うなら、アークエンジェルじゃなくてアマミキョに来いよ。
それが出来ないなら、何も言うな。中途半端な同情ならいらない。力が欲しいのなら、俺なんか切り捨てろ」
冷酷とも乱暴とも思えるその言葉に、ミリアリアは二の句がつげなくなる。
そんな彼女を見て、サイは自分の決意が全く揺らいでいないことに自分で驚いた。このままミリアリアと一緒にアークエンジェルのオペレーターに戻るという道も、確かに残されてはいる。だが、サイはそれだけはしたくなかった。例えフレイの存在があろうとなかろうと、サイはアマミキョを捨てて今のあの船に乗る気はなかった。どんなに虐げられたとしても、どれほど無力だったとしても、アマミキョのブリッジにいたかったのだ。
サイはナオトに目配せした──ナオトはミリアリアとサイの気迫に押されつつも、座席の下から小さめのアタッシュケースを取り出した。
「ミリィさん、怒らないで下さい。
これ、ミリィさんにと思って、僕たち用意したんです」
おずおずとしたナオトの言葉に、少し冷静さを取り戻したミリアリアはケースを開いてみる。そこには、新しいカメラが一式と、服が入っていた。
「カメラ、きっと失くしてるだろうと思ったんだ。フィルムまでは取り戻せないのが残念だけどね」サイの声が、じっとカメラを凝視するミリアリアの上に注がれる。先ほどの険しさはなく、いつものサイの声だった。
マユがそこへ割り込んでくる。「言っとくけど、服はフレイが選んだんだよ。サイのセンスは壊滅的だからねー」
それでもミリアリアは、じっとカメラと服を見て俯いていた。零れ落ちそうになる感情を必死でこらえ──そして、呟いた。「ありがとう。本当に、ごめんね」
震える声を抑えるように、ミリアリアは服に顔を埋める。そんな彼女に、サイはゆっくり声をかけた。「どうしても行くというなら、俺は止めない。止める権利もない。ただ、これだけは約束してくれ。
アークエンジェルでは、いつもの君でいるって。
今みたいに、感情を剥き出しにしないって」
ミリアリアは顔を上げる。「どういう意味?」
「アークエンジェルは、とてつもなく危険な戦いに自ら突入しようとしている。2年前よりひどい地獄が待っているかも知れない。
キラたちは、世界中を敵に回す可能性すらある。それは、分かるね?」
サイの左腕の傷にそっと触れながら、ミリアリアはじっとその言葉を聞く。まるで、その傷に誓うかのように。「分かってるわ」
「だから、キラや代表や艦長に、弱い姿を見せるな。感情をなすがままに垂れ流すな。
常に明るい笑顔でいろ。ディオキアであったことは忘れるんだ。きれいさっぱり!」
「そんな」ナオトが思わず叫ぶ。「サイさん、酷い! 無茶ですっ」
「今アークエンジェルに乗るには、そのぐらいの覚悟が必要なんだ! 力を利用したいなら、代償を覚悟しなきゃいけない。
君が忘れられなければ、キラたちまで君のことを引きずる。それは危険なんだよ」
「でもっ」ナオトは納得出来ずにさらに割り込もうとするが、ミリアリアが制した。「大丈夫よ、ナオト」
その時にはもう、ミリアリアはにっこり微笑んでいた。「サイ、馬鹿にしないでよね。私がどれだけ修羅場くぐりぬけてきたと思ってるの? 貴方と一緒に」
先ほどの感情のぶれは一片も見られない、素晴らしい笑顔だ。
殴りたければ、殴ってもいいんだぞ──そう言おうとしたサイだったが、彼女の満面の笑顔はその言葉まで押しとどめてしまう。
女というものは、なんと感情の切り替えが早いのだろう。そして、心の奥底にとぐろを巻く憤怒を覆い隠してしまうのも得意だ。
「私は、ザフト兵を寝返らせた女よ。この程度でへこむと思ってるの?」
サイの胸に手を当て、ミリアリアはその唇と瞳をぐいとサイに近づける。それを見てナオトは真っ赤になり、ハロも飛び跳ねた。「コクピット、オンド、ジョウショウチュウ。ジョウショウチュウ」 マユはきょとんとして、ハロとサイを交互に見やっている。
だが、この唇も頬も髪も、俺が決して触れてはいけないものだ。そうだろ、トール──
サイはミリアリアのエメラルドの瞳を前に、ゆっくり目を閉じて横を向く。俺は、彼女を受け入れることは出来ない。
ミリアリアもその気持ちを察したのか、そっと指で静かにサイの胸元を突き放す。私は大丈夫。きっとうまくやってみせる、ディアッカとのことだって軽く笑い飛ばしてみせる。ミリアリアの微笑は、そう語っていた。
その時、フレイからの通信が再び響いた。<話は終わったか? 上空にフリーダムが来ている>
思いがけず唐突に迎えに現れたフリーダムに、ミリアリア・ハウはいとも簡単に乗り移っていった。
はちきれんばかりの笑顔をサイとナオトたちに残し、彼女はフリーダムの中へあっという間に飛び込んでいった。そしてフリーダムとアマミキョ部隊はしばらく海中に潜んでいたが、二時間後にフリーダムはアークエンジェルの方角へ消えていった。冷たい海の向こうへ──
その間、キラもサイもフレイも型どおりの挨拶以外、殆ど口をきかなかった。
ミリアリアが行ってしまい、人一人分の体温が消えたコクピットの中で、サイはナオトにモニターを調べさせていた。
彼女に治してもらった火傷の痛みがぶり返す。何しろ身体の至近距離を、ビームの粒子が通過したのだ。しばらくの高熱と痛みは覚悟しなければ──サイは思いながらもモニターを凝視する。
見事なまでに、アークエンジェルの位置情報がティーダに逐一入ってきている。ニュートロンジャマーで完全に汚染されて久しい地域だというのに。
これも、ティーダの力だ。常識を覆す、禁忌のモビルスーツだ。サイは座席にどっと背を預け、ひとつ息をついた。痛みと疲れと眠気が、一気にサイに襲いかかってくる。
これで、自分の役目はひとまず終わった。サイはナオトのノーマルスーツの小さな背中を見ながら、安堵していた。
キラたちが逮捕されるようなことにもならず、フレイとキラの殺し合いもどうにか阻止した。これが、俺の出来る精一杯だ──
アークエンジェルの行動を止めることは出来なかったが。また、フレイの記憶も混乱したままだが。
フレイ。君はいつになったら、完全に記憶が戻るんだ?
君がそこにいるから、確実にそこにいると分かっているから、俺はまだ頑張れる。だが──
キラに会っても、君はさらに混乱するだけだった。君は狂乱し、苦しみ、痛みを俺に訴えただけだった。
だったら、どうすれば君は戻ってくれる?
サイは熱くなりゆく傷を押さえながら、ティーダの中でいつの間にか眠りに落ちていた。
アマミキョに帰還し、またもやスズミ女医らに怒鳴られつつ治療を受け、数日後にサイを待っていたものは──
クルーたちの、何とも驚くべき歓迎・感激ムードだった。
医療ブロックからようやく出てきたばかりのサイを最初に出迎えたのは、興奮冷めやらぬといった様子のトニー隊長だ。「すまない、申し訳ない、サイ君! 我々は今の今まで君を誤解していた!」
サイが驚くより先に隊長は、タックルでもする勢いでサイに抱きつき、猛然と涙を流して感極まる。「あのような勇猛果敢な行為をやってのけられるとは、英雄の名は君にこそふさわしい! まさかこの時代に、忘れられたヤマト魂を見るとはなぁ〜」
サイの度肝を抜いたのはそれだけではない。隊長の後に延々と続く、軽く30人を超す隊員たちの歓声もまた、トニー隊長の熱い抱擁と共にサイを圧倒した。隊員たちは次々に喜びと、謝罪の言葉を投げつけてくる。
「サイ、今まで本当にごめん! 俺たち、お前にあんな度胸があるなんて信じられなかった」「ごめんね、変な噂ばっかりして本当にごめんね! 本当にカッコ良かったよサイ君、私惚れちゃったよぅ」「僕は決めた、一生君についていく、サイ!」「素晴らしかったよ、フリーダムを守った時の映像!」「もっとすごいのはミリアリアさん救出でしょ! 彼女が羨ましいーっ、私もあんな風に助けられたーい」「ううん、やっぱり一番羨ましいのはフレイよ。あそこまで身体を張って止めてくれる男がいるなんて!」
中には土下座までしてくる者、涙混じりで謝罪してくる者もいた。「なぁサイ、許してくれ! 君のブーツ隠したの、俺なんだ」「私も、フレイとのこと何も知らずに酷いことばっかり言っちゃって、ごめんなさい」
訳が分からなくなったサイが群衆の向こうを見ると、ナオトがにっこり笑ってピースサインを出していた。それでサイは全てを理解した──
ティーダに記録されていた映像を、ナオトがアマミキョ中に公開したのだろう。恐らく、サイがフリーダムとアフロディーテの間に立ちはだかった場面と、ミリアリア救出の場面を中心に編集して。
勿論、ナオトの独断でそんな所業が可能なはずがない。多分、アマクサ組が絡んでいる。
そこまでサイが考えた時、胸を揺らしてオサキが駆け込んできた。「おいお前ら! サイは怪我人だぞ、出てけ出てけ! 圧死させる気かっ」
割り込んできて無理矢理サイの腕を掴んだ彼女に、隊員たちは一斉にブーイングする。「ちょっと、サイ君取らないでよ!」「何よぉ、オサキが一番感動してた癖にぃ」「君ともあろう者が涙していた光景を、私は生涯忘れんぞ!」
オサキは顔を真っ赤にして拳を振り上げる。「う、うるさいよ隊長! アタシはただ……」
そんなオサキに対して、女性陣は容赦なかった。「んなこと言って、サイ君独占しようったってそうはいかないから」「そうそう、サイ君はもうオサキだけのものじゃないんだからね」「サイ君はみんなのもの! みんなで仲良く分け合わなきゃいけないのよ」
俺を分割してどうする気だ。押し倒されそうになりながらサイは突っ込みかけたが、オサキの必死な怒声がそれを遮る。「アタシはただ単に感激しただけだ、バカ! お前らこそ今更調子こきすぎなんだよ、今まで寄ってたかってサイをどんな目に遭わせてきたと──」
と、その時突然医療ブロックのドアが勢いよく開かれた。「バカはそちらです! 病室前で何大騒ぎしてるんですかっ」
看護士・ネネが騒動にかけつけ、サイの首根っこを引きずるようにして隊員たちから引き離したおかげで、サイはようやくこの騒ぎから逃れられた。
その喧騒を、遠巻きにして眺めていた者が二人。カズイとアムルだ。
カズイも、サイの行動を映像で確認しており、その勇気に少しばかり感動してはいた。だが、他の者たちのように手放しで喜ぶことは出来なかった。
勿論、サイが信頼を取り戻したことは嬉しい。しかしカズイは映像を見ていて、サイに違和感を覚えずにはいられなかったのだ。あのような無茶をすれば、ナオトやフレイやキラやミリアリアが事後どうなるのか、考えの及ばぬサイではなかったはずだ。
カズイはサイに対して、ひどく危険なものを感じずにはいられない。自分一人が血を流せばそれでいいという考えは、他の者を命がけで想っているように見えて実はそうではない。
あの、雨の中の惨劇の時もそうだった。アストレイで飛び出していった時も──サイは、自分の命をそれほど無価値なものだと考えているのだろうか? だとしたら、その原因は何処にあるのか?
カズイとて馬鹿ではない。サイが袋叩きにされる原因となった、ティーダの大気圏降下時の熱量計算ミス──あの時、サイはもしかしたら、責任が自分にないと分かっていながら全ての罪を被ったのかも知れない。その可能性を、カズイはうすうす感じ取っていた。
カズイはそっと、横で佇むアムルに視線を移す。アムルはサイをじっと眺めていた──美しい金髪が揺れ、その細い右手指は左の二の腕にがっちり喰らいついている。まるで、溢れ出す感情を自分の中に必死で閉じ込めようとしているように。
アムルの表情はいつも通りおだやかだったが、固かった。その左手は耳のあたりをガリガリと無意識に掻きむしり、若干赤くなっている。エメラルドの眼球は、ひたすらサイを見ている。
悲しいことに、この時カズイはまたも彼女を誤解した。彼女の心がサイだけを見ている、と思い込んでしまったのだ。
確かにアムルの心はサイへの激しい感情で溢れていたのだが、それは決してカズイが思うようなロマンチックなものではありえなかった。
それは、嫉妬だった。有能なナチュラルを目撃した時にコーディネイターが抱く、殺意にも似たどす黒い嫉妬。
排出されない経血のように、その感情は彼女の中で渦を巻く。サイを何度刺そうと何度殴ろうと、決して消えることはなく、嫉妬はアムルを苦しめる。サイがその有能さに相応しく、信頼を取り戻していきつつある事実と共に。
そんな感情をコーディネイターが抱くことがあるなど、カズイは考えたこともなかった。ナチュラルがコーディネイターに対して抱く嫉妬には慣れっこになっていたが、その逆は思いつきもしなかったのだ。ましてや、聖母のように美しいアムルがそのような想いをサイに対して抱くなど、カズイの想像の範疇を超えていた。
アムルはカズイの視線に気づいたのか、にっこり笑ってみせる──その笑顔は、カズイの誤解をさらに拡大させた。「良かったわね。アマミキョの英雄じゃないの、サイ君ってば」
サイの行動に不信を抱いた者は、カズイとアムルだけではなかった。
ティーダの損傷状況を見る為、サイがハンガーに入った瞬間に彼を出迎えたものは、ハマー・チュウセイの鉄拳だった。
「命知らずの蛮勇野郎が! てめぇが英雄なわきゃあるかい、チヤホヤされて調子こいてんじゃねぇぞっ」
久々に喰らったハマーの拳に、サイは壁まで吹っ飛ばされる。ハマーを止めるべく、他の整備士たちが慌てて彼にとりついた──その向こうに、サイは修復中のティーダを見た。そして、眼鏡が飛ばされたことも忘れて目を見開いてしまう。
ティーダのコクピットでは、サイ用の座席が取り外されている最中だったのだ。こちらの騒動を見て、申し訳なさげに整備士たちが座席を引っ張りだし、ケーブルを次々に抜き去っていく。
「ちょっと待って下さい! あの席は俺の」
止めようと立ち上がったサイの肩を、ハマーが破壊せんばかりにわし掴む。「これ以上てめぇを座らせられるか、フレイ嬢の命令でもある!」
「フレイの? まさか」
ハマーはサイの胸倉を掴みながら、唾を飛ばして怒鳴り続けた。黒ずんだ奥歯がはっきり見える。「てめぇの命を軽視する愚か者が、他人を守れるはずがないとさ!
全くもって俺も同意見だっ」
そのままハマーは、サイを乱暴に放り出した。
フレイが、俺をティーダから降ろすだと? 俺に何の断りもなしに! だったら俺は、一体どうやってナオトたちを守ればいい? 様々な疑問がサイの頭を駆け巡ったが、ハマーの言葉に対して──ハマーを通じてなされたフレイの命令に対して、何も反論出来なかった。
ミリアリアにも指摘された通りだ。俺がティーダに乗ったところで、ナオトたちを守れるわけじゃない。俺が生身で飛び出したって、フレイを取り戻せるわけじゃない。
生き抜いて、みんなと一緒に笑えなければ、意味がないんだ。そんなことは、俺はとっくに分かっていたはずじゃないのか?
ハマーの冷たい言葉が、さらにサイへ浴びせられた。「てめぇの命にフレイ嬢がそれほど心を砕く価値があるとは思えねぇがな。少なくとも、ロゼはてめぇには任せられねぇ。
今のてめぇは、自分と一緒に種を焼いちまう」
「いいんですか? この処置。高みの見物としては面白いですけど」アマクサ組作業艇・ハラジョウ。その内部では、ニコルが船内モニターでサイの姿を眺めていた。
「予定通りだ」背後で紅茶を啜りつつ、フレイが言う。「アマクサ組の不利になるような映像編集はしていない。あまりに長期間、憎悪や嫉妬を一点に集中させればアマミキョ運用にも悪影響を及ぼす」
「それは分かりますけど……」不満げに頬を膨らませるニコル。彼の気分を察したフレイは、片手で軽くその緑髪に触れてやる。
「今回のアークエンジェル追跡の成功はニコル、お前の功績だ。ミリアリア・ハウの位置情報を早急に掴みザフトに流してくれたおかげで、こちらもアークエンジェルを意のままに操ることが出来た。
よく汚れ役をかぶってくれたな」
「でも、キラ・ヤマトは!」フレイの手をゆっくりとよけて、ニコルはきっとフレイを睨む。「御方様が納得なさるでしょうか。キラ・ヤマトを目前にしながら取り逃したなど」
「取り逃したわけではない、時期尚早なだけだ」
「アスランとは違うでしょう! 彼のSEEDは十分開花しています、なのにフレイは!」
「今のキラを強引にこちら側のものにしても、反逆されるのがオチだ。彼の怖さをお前は知らぬ」
そこへ、整備を終えたラスティがやれやれとばかりに割って入った。「フレイの言う通りだよ、ニコル。今回はアークエンジェルをほぼ手中にしただけでももうけもんだ。
ラクス・クラインがいれば、もっと話はスムーズに運んだかも知れないがな」
ゆっくりとティーカップを揺らしながら、フレイが続ける。「おまけに、ミゲルがグフまで持ってきた。オギヤカからパーツを持ってくれば、十分使える逸材だぞ」
「ごまかさないで下さい」それでもニコルの表情は晴れず、ますます険しくなる。「僕はフレイが心配なんです……フレイの本心はそうじゃない。確かにその口実で、御方様は納得されるかも知れませんが」
モニターでは、サイがとぼとぼとハンガーから出て行く。それを見やりながら、フレイはぽつりと言った。「お前たちを置いて私情に走るほど阿呆ではない。チグサ計画は問題なく進捗している──」
言いながら、フレイはキーボードを片手で素早く操作し、次々とモニターを切り替える。医務室で治療を受けるマユと、静かに見守るカイキが一瞬映し出されたが、またすぐ別の画面に切り替わった。隊員たちがせわしく動く様子が、逐一このモニターで監視されている。アマミキョの全艦監視システムは順調だった。
「フレイ──僕たちのやったことを知ったら、サイ・アーガイルは絶対に僕たちを許しませんよ」
ニコルが上目遣いでフレイを見やったが、彼女の表情は変わらなかった。腕を組んで壁に凭れつつ、ラスティが続ける。「俺たちがこれからやることも、だな」
「もとより承知の上だ」フレイの唇に笑みが浮かぶ。自嘲的にも見える笑みが。「アマミキョのメインパーツが激情にかられれば、それだけ早く計画は動く」
それでいいのか、という思いを露骨に表情に出してフレイを眺めるラスティに、つまらなげな猫のようにデスクに顎を乗せるニコル。
そこへ、医療ブロックで治療をすませたミゲルが入ってきた。「お取り込み中すまないが、緊急事態だ。いや──予想通り、というべきかな。
アークエンジェルが、ダーダネルスで再度の武力介入を決行した。また忙しくなるぞ」
つづく