「ハーフムーン──ニュートロンジャマーの影響を著しく受け、また同時に発生した地殻変動の為に山間に閉ざされ、外部との通信手段が殆ど壊滅した地域。
PHASE-21 ハーフムーン・トライアングル
雪が積もり、数箇所に雪だるまがこしらえてある村長宅・中庭。庭のすみには小さな青銅の女神像が造られており、雪が丁寧に払われている。ナオトは暖炉のある居間からその像を眺め、子供たちに囲まれながら温かいコーンスープを啜っていた。
「なーナオト、このオーブ文字読めるか?」威勢のいい坊主頭の男の子が、生意気そうにノートをナオトに突きつける。ナオトはそれを見て、唇をとんがらせた。「あ、馬鹿にするなよー! あれから散々言われたんだから、『シュウチシン』!」
「そうだよなー、さすがに『サットシン』はねーよ」「あれこそ、ナオト・シライシ伝説の始まり!」坊主の子の後ろから、子分らしき二人組がにやにやとナオトを見つめる。過去のバラエティ番組の醜態を散々子供たちにつつかれ、ナオトはさっきから恥ずかしいやら懐かしいやらで爆発寸前だった。あの時は演技でも何でもなく本当に読み方が分からず、適当に答えたらたまたま大爆笑を誘っただけの話だったのだが、まさかそれがこんな辺境の地で伝説になっていたとは。
「ていうか、何で君たちがオーブ文字知ってるんだよ……」
「オーブの教科書、いつもおじいちゃんたちがくれるの」手首を隠す程度に大きめの毛糸のセーターを着込んだメルーが、嬉しそうに小さな両手を振り回す。「教科書は難しいけど、ナオトのおかげもあって私たちも覚えちゃったんだ、オーブ文字。ってことでナオト、シュウチシンって文字書いてみて!」
「え?! ちょ、書く方は勘弁してよメルー」
「あたし書けるよ! 最初の文字は「差」じゃないんだよね」メルーに抱きつきながら、おさげ髪の女の子が悪戯っぽく笑った。
「あ、そうだったの?」ナオトは思わず言ってしまう──今の今まで知らなかったのだ。その途端にまたしても、男の子たちに爆笑されるナオト。かつてスタジオで笑われた時と全く同じに──あの番組は、楽しかったな。笑われてばかりだったけど、わざと間違える必要はあまりなかったし。だって、本気の本気で答えても笑われたのだから……って、どれだけ馬鹿だったんだ僕は。
「エイミーは「薔薇」も「鬱」も「醤油」も書けるんだよ。すごいでしょー」メルーがおさげ髪の子の頭を撫でる。と、今度はナオトに擦り寄るようにしてちょっと太めの女の子がノートを差し出した。「じゃあナオト、台形の面積の求め方教えて?」
「やだなぁ、それだって散々勉強したんだよ。(上底+下底)×高さ!」
「ちがーう、2で割るのが抜けてるよっ」ふっくらした頬がさらに膨れる。「それでよくティーダに乗れるね!」
ナオトはさすがにこの言葉にかちんときた。「じゃあ君、π×rの二乗が何を表してるか答えてみなよ?」
へん、そんな問題?と小馬鹿にした表情で女の子は即座にやり返す。「当然、円の面積! じゃあナオト、円周率πを小数点2桁まで言える?」
「へ? 円周率って3じゃなかったっけ?」
子供たちからどっと歓声と笑いが巻き起こり、メルーがまたもやナオトに全力で抱きついた。「うわー、やっぱりナオトだ、本物のナオトだ、本物の伝説のオバカだよぉ!」
メルーの腹からの笑い声を身体に感じる。子供の弾力と体温を感じる。散々馬鹿にされながらも、ナオトの心の奥底で、一つの想いが湧き上がってきた。
──ずっと、こうしていられたらいいのに。
だがその時、背後の木の扉の方から何やら恐ろしげな気配を感じ、ナオトは思わず肩を震わせる。子供たちも一瞬、静かになった。
「ナオト……楽しそうにしてるから黙って聞いてたら何だお前は!!」
「あ……」
こわごわ顔だけをそちらに向けると、両の拳をわなわな震わせて仁王立ちになっているサイがいた。
「ち、違うんですよサイさん! あれも、オバカハーフとしての演技の一つなんで……怒らないで下さい、ホントですって!」
村長宅の会議室へ通じる渡り廊下を、振り向きもせずさっさと歩くサイ。ナオトが慌てて追いすがる。サイは指で眉間を揉みながら、ぶつくさ言い続けていた。
「俺は、お前をティーダに乗せていいのか、今までになく悩んでる。モビルスーツの操縦技術の進化ってのは大したもんだな、2年前なんか……」
「べ、別にシュウチシンが書けなくったって、ティーダの操縦に問題ないでしょ? オーブ文字なんてシステムで使ってないし」
「じゃあナオト君」サイは立ち止まり、満面の笑顔でナオトを振り返った。「円周率の小数点下2桁、答えをどうぞ」
ナオトはうろたえて、無駄に大きな目をぱちぱちさせることしか出来ない。「え、えーっと……3.7、ぐらい……でしたっけ」サイの笑顔をまともに見られず、ナオトはあさっての方向へ目玉を動かすしかない。
サイはさらににっこりと微笑む。が、その拳がギリリと固められるのがナオトにもはっきり見えた。「俺にまで演技する必要はないんだよ、アホト?」
「ち、違ったのか……じゃあもっと少ない、3.4ぐらい? いやそもそも3がちが……
っていうか、アホ? 今アホって言いましたサイさん!?」
「アホをアホと言って何が悪いこのオバカアナが!」
サイの大音声がナオトの脳天に鳴り響く。そのあまりの怒声に肩をすくめながらも、ナオトは言い返そうとし──思い出した。
自分が、サイたちを殺す寸前だったことを。サイたちの顔を見たくないあまりに、通信をマユに代わってもらったことを。マユとの言い争いを。
サイがあまりにもいつもと同じように接してきたから、ナオトも思わず普通に会話していたのだが、本当なら自分はサイに土下座して謝らなければならないはずだ。
黙りこくりそっぽを向いてしまったナオトを前に、サイはふと表情を和らげ、腰を落としてナオトの顔を覗き込む。「……冗談だよ、ナオト。ただ、モビルスーツの操縦には最低限、基本的な数学の知識を」
「違うんです」ナオトはサイの視線から逃げながら、呟く。「違う。僕は、サイさんたちを殺してしまうところだった……アマミキョも落ちて、マユともケンカして、僕、どうしたらいいのか分からなくて。ごめんなさい!」
ナオトの謝罪を聞きながら、サイはゆっくりその頭に手を乗せる。「ティーダで何があったのかはマユから聞いた。ティーダでお前が何を見たのかも、聞いたよ。本当につらい思いをさせ続けてしまってる。謝るのは俺の方だ」
「そんなこと、言わないで下さい」
「だが、報告だけはしてくれ。今はアマミキョだって、船の修復と避難民の救出でえらいことになってる──村の調査に出かけてくれたのはありがたいが、俺に一言言ってほしい」
「ごめんなさい」ナオトは涙目になりながら謝罪することしか出来ない。サイさんは、いつも優しい──
その時突然、二人の後ろから声がかけられた。「ワシらの村に用とは何ぞ、若いの。この子を預かってくれというだけではなかろう」
メルーの祖父──この村の長が、飄々と立っていた。先ほどまでサイの腕にいた赤ん坊を抱えて、白髭を引っ張られながら。
屋敷の奥の会議室──というよりも、茶会でも開かれそうなくつろいだ雰囲気の広間といった方が正しい──に通されたサイとナオト。広間の中心には暖炉があり、その火は赤々と燃えさかり、集まった村議員たちの顔を照らしていた。部屋の隅の壁には小さな祭壇らしきものが備えつけられてあり、そこには赤ん坊を抱いた女神像が飾られている。メルーがその祭壇に、小さなおむすびを二つ置いていた。ちょこんと座り、静かに手を合わせるメルー。
丁寧に編まれた円形の筵に議員たちは座り、サイたちは下座でその老人たちの表情をうかがっている。アマミキョの状況をサイがひととおり説明した直後は老人たちからどよめきが起こったが、やがて村長がおもむろに口を開いた。「診療所と学校の件は了解した。連合の手をわずらわせるほどのことはないよ」
緊張が一瞬解け、サイとナオトはほっと顔を見合わせる。しかし村長はさらに続けた──「だが、知っていると思うがここ一帯はザフトと連合が睨みあいを続ける土地。
ワシらはどちらにも属さぬ中立という立場をとっていたが、それもあの山々に守られていたからこそ可能だったこと。ザフトの地下基地の存在が付近で確認されていながら、この村が未だに無事なのは山のおかげだったのだ。
あの光によって山が崩れた今、この平穏がどうなるか──村の者たちは一様に不安がっておる」
「この土地のことは、リンドー副隊長から何度か聞きました」臆することなくサイは答える。「ニュートロンジャマーと地殻変動の影響で、時間の流れの止まった地。連合ではそういった土地のことをハーフムーンと呼称しているそうですね」
議員の一人である老婆が、重々しく口を開く。「日に照らされながらも暗黒の地。暗黒でありながら陽光には幾分恵まれた地──それ故の名だよ。
だが既に、ここは閉ざされた土地ではなくなった。ここも戦乱に巻き込まれるのかねぇ」
比較的若い中年男性が、メルーの小さな背中を見つめて言葉を継いだ。「ハーフコーディネイターの子供たちには、出来うる限り希望の土地・オーブの情報を教えているんだ。ナオト君のように、いつか自分たちも胸を張って、外の世界で生きられる日が来ると」
決して、本当に胸を張っていたわけではないけれど──そう言おうとしたが、ナオトはこの場で言うことではないと気づいた。
自分は子供たちにとって、太陽なのだ。情報という光がろくに通らないこの土地の子供たちにとって──ナオトの乗るあのモビルスーツの名、そのままに。
やがておそなえを終えたメルーは、大人たちの空気を感じ取ったのか、ナオトに一旦目くばせをして軽い足音と共に部屋を出て行った。それを見送った老人の一人が、また口を開く。「こんなことは本来、君たちのような若者に聞くべきではないが、教えてほしい。
子供らを守るには、どうすればいい?」
ナオトはこの老人たちに、ひどい痛ましさを感じた。自分のようなただの小僧にこんな質問をすること自体、この村に防衛手段が殆どないことを示していた。外部の物理的な力からは勿論、子供たちを世間の激しい蔑視から守る手段も。
「メルーたちには、両親はいないのですか」ナオトは子供たちに会った時から疑問だったことを老人たちにぶつけてみた。メルーも、村長のことを祖父として慕っているようだったが、両親の話は全く聞かない。彼女だけではなく、ナオトが最初子供たちの親だと思っていた大人たちは殆どが、子供たちと血のつながりはないらしい。つまり──
「ワシら全員が、あの子らの親のようなものなんだよ」ナオトが予想していた通りの答えが、村長から返ってきた。「ドイツやポーランドなどの西ユーラシア方面で、不幸にもコーディネイターとナチュラルのハーフ、もしくはクォーターとして生まれた子供らだ。彼らの生まれた時期というのは反コーディネイター感情が最悪に吹き荒れた頃でな……」
やや機嫌を悪くした子供に言い聞かせる好々爺のような口調で、村長は続ける。「不幸になると分かっていても子供を産み、しかし守りきれずにナチュラル側の親、もしくは知人や孤児院に預けたままプラントに上がり、そのまま帰れなくなった親たちは多い。だが預けられた方も、コーディネイターの血が混じっている子供をそう長くは守りきれなかった。迫害、脅迫、いわれのない暴虐が子供らを狙って吹き荒れ……最悪の場合は家族ごとテロの標的となった」
老婆がそっと村長の言葉をつぐ。「そんな子供らを集め、私らはこの地に集った。物資も情報もないが、人目にも晒されぬこの地に」
ナオトは思わず身震いする。その震えは、すきま風によるものではなかった。眼前の炎が静かに揺れる。
だが村長はそれを見て、長い白髭をゆすって笑った。「ナオト君には厳しい話をしてしまったな。しかしこれだけは分かってほしい──二分された世界の混乱をおさめることが出来るのは、両者の血を継ぐハーフコーディネイターだとワシらは思っているんだよ。
この地の神を崇め、畑を守り、森を守り、時を待てば必ず、子供たちが外へ出られる日が来る」
じっと話を聞いていたサイが、静かに口を挟む。「シーゲル・クラインが地上に造った集落に、ハーフコーディネイターたちの理想郷があると聞いたことがあります。ここもその一つなのですか?」
「天上人の考えなさることはよく分からぬが、ワシらの考えとクラインの思想は偶然にも一致していたようだな」
クラインの名を聞いた途端、ナオトはいきなり立ち上がった。「そうだ、サイさん! アークエンジェルを呼びましょうよ」
いつものことだが突飛すぎる発言。議員たちから驚きとも歓声ともつかぬ声が上がり、サイはまたも眉間を揉むハメになる。「何言い出すんだ、いきなり……」
「ラクス・クラインとキラさんなら、きっとここも助けてくれるはずですよ。だって、この村こそが本当の中立の地じゃないですか!」
「デストロイとの接触以後、アークエンジェルは北海に潜伏中だ。距離的に無理だろう」サイはあっさりとナオトの提案を却下した。「本当ならお前の言う通り、こういう時にこそアークエンジェルを頼りにすべきなんだがな」
「だったら来てくれますよ、絶対!」ナオトは拳を握りしめてサイに反論する。「距離なんて、無敵のフリーダムには関係ないでしょ? 僕たちがマラッカ海峡でザフトに襲われた時だって、ラクス・クラインが助けてくれたじゃないですか」
「お前が見たっていうソレがラクスだとは限らないだろうが!」
「あれはラクスさんですってば! ラクスさんが僕たちを助けてくれたんです、だったら今度だってきっと……」そこまで言って、ナオトは気づく。
一度はアークエンジェルに刃を向けたアマミキョを、アークエンジェルは果たして救い出してくれるだろうか。今だって、アマミキョによってアークエンジェルはいつ連合の手に渡るか分からぬ状況にあるのだ──いや大丈夫、約束したじゃないか、いざという時は必ずアマミキョに協力するって──いや、あれって努力義務ってフレイさんが言ってたな──
ナオトの頭がぐるぐる回り始めた時、不意に明るい声が響いた。「祈ればいいんだよ、ナオト」
見ると、いつの間にやら戻ってきたメルーが戸口に立って笑っていた。「私ね、いつもおばあちゃんとお祈りしてるんだ」
村長宅から少し離れた丘に、村長所有の麦畑があった。今は勿論雪が積もっており、芽を育む土は殆ど見えないが、丘全体がそのまま畑になっているらしい。メルーの祖母が懸命に古いパワードスーツを使って雪をかきわけ、春に向けての準備をしている。
「あんな旧式のパワードスーツ、初めて見たよ。錆ついてるじゃないか」メルーに連れられてきたナオトとサイは、その光景に唖然とする。パワードスーツはモビルスーツの原型ともいえるもので、今でもアマミキョではしょっちゅう作業に使用されている。しかしメルーの祖母の使用しているそれは今のものより3世代以上は古いもので、金属がこすれあう不協和音をがなりたてており、きちんと冷却機能が働いているのかすら怪しかった。この寒冷地でなければ、爆発してもおかしくないんじゃないか?
だがメルーは気にもせず、畑の隅に建てられている小さな祭壇へナオトを連れて行く。そこも丁寧に雪が払われ、やはり女神像が祀られていた。
「ここは神様のいる場所なんだよ」よく見ると、その女神像は柔らかそうな衣服の部分が若干ひび割れている。それでもメルーは当然のように女神に手を合わせた。「アークエンジェルが、助けてくれますように。ほら、ナオトも祈るの」
「神様……祈り?」手を合わせるメルーを見ながら、ナオトの脳裏に閃光のように蘇る光景があった。墜落しながら、死を目の前にしながら、あの真田さんがとっていたポーズと同じだ──
「神が消えたとされても、こういう形で残っていたんだな」ついてきたサイがふと呟いた。
パワードスーツの軋む音と共に、メルーの祖母も孫たちのもとへやってくる。「人間が勝手に作った教義が勝手に消えただけのこと。神そのものは消えやしないさ」スーツの頭頂部から汗だくの顔を突き出し、老婆は笑った。
「もう少ししたら、みんなでここに種を蒔くんだ」メルーは雪の上で、両腕を広げてくるくる回ってはしゃいだ。「この村は1年中あまり日が当たらないけど、ここの畑はお日様も照らしてくれるの」
皺だらけの老婆の顔が、灰の空を見上げた。未だにこの灰の雲は晴れなかったが、老婆の表情は明るかった。「短い夏の間に、ここの草木は精一杯芽吹いて育つ。ワシらはその恵みを受けて生きておる」
その時、サイの首元でまたしても通信機が鳴った。医療ブロックからだ。<サイ君、ヘルプが全然足りない! こちらの状況把握してるの? 壊滅寸前なのよっ>ヒステリックなスズミ女医の怒声が響き渡った。
「へぇ、通信が通じるんだ」驚くメルーにナオトが説明する。「アマミキョにはティーダがいるからね」
医療ブロックは既に、200名を超える負傷者ですし詰め状態だった。「ちょっと、担架ぐらいしっかり持って頂戴! ヘルプの意味まるでないじゃないの」「2号室と5号室の患者のモニター、確認して!」「心室細動!」「除細動します、下がって!」「やめて! 麻酔なしであの子の脚を切るっていうのっ」「冗談よしてよ、赤ん坊の頭に穴開けるって!? 嫌、嫌、絶対に嫌アァァァッ!!」「お母さん、お気持ちは分かりますがそうしなければお子さんは」「よぅし3号室が空いたぞ、死体どけろ!」「何で!? 火傷ったって、あの娘はまだ喋っていられるじゃないの! あと一日であの娘が死ぬなんて、分からない、理解出来ない!!」「助けてくれぇ、包帯から目に蛆が! こっちは両手動かせないんだぞっ」
医者と患者と患者の家族の怒号と悲鳴と絶叫が炸裂し、急造の通路には未だに手当てを受けられずにいる負傷者が折り重なって溢れ、血と尿が垂れ流しになっている。そんな惨状なので、サイは患者をまたぐようにしながら歩くしかない。
やってきたサイの制服とバッジを見た避難民たちが、わっと駆け寄ってきた。全てを焼き尽くされ命ひとつでここにたどり着いた人々が、サイ一人に押し寄せる。
「あんた偉い人よね? この子を助けてよ!」制服を破らんばかりに引っ張る母親。その腕には、既に泣き声も上げられなくなった赤ん坊がいる。さらに老人も若者も男も女も子供も金持ちも貧乏人も皆、サイの手に、サイの服に、サイの脚にすがりついて口々に助けを求める。
「お願い、お願いだからこの子にミルクを!」「おいみんな来い、責任者のお出ましだ」「お父さんの火傷を治して!」「私の家は大丈夫なのかね?」「家内がいないんだ、山ではぐれた」
ブリッジの制服とバッジを着けていたおかげでかつて酷い目に遭ったサイだが、今回はまた酷いことになりそうだ──人々の汗と血と泥と糞尿の臭いと、それらを超える死臭がサイに一気に群がる。中にはサイを父親と間違えているのか、「パパ、パパぁあ」と抱きつく幼児もいた。
しかしサイは、その子をゆっくりと抱き上げ、人々に向き直った。ゆっくりと微笑み、一言一言、腹から声を押し出す。
これが、これこそが、アマミキョの使命だ──
「大丈夫です。皆さん、よく頑張りましたね」
サイの声一つで、人々の喧騒は一瞬静まった。自分でも驚くほど落ち着き払った声で、サイは続ける。「ここまで来れば、もう大丈夫。僕たちが、必ず助けます。
村との話し合いで、学校と病院施設が使用可能になりました。今から居住地域ごとにグループに分かれて移動を開始しますので、皆さん名簿に記帳をお願いします」
終始笑顔のまま、サイは人々に呼びかける。その言葉に、騒乱はようやく収まる兆しを見せた。
サイの手を握りしめた老人が、涙ながらに呟く。その顔は半分焼けただれていた。「山の向こうは酷いものだよ……女子供関係なく吹飛ばされ、焼かれ、殺された。ワシだけおめおめ生き残って」
その横から、7歳ぐらいの少年がサイに噛みつく勢いで叫ぶ。「お兄さん、助けてぇ。妹が!」
充血しきった眼をいっぱいに見開き、必死で叫んでいる。焼けた材木でも抱えているかのように見えたがよく見るとそれは、人間の少女だった。髪の毛全てと左目の辺りまでが焼き尽くされ、左腕が消失している。
それでもサイは老人の手を取ったまましゃがみ、少年の頭を撫ぜた。「大丈夫だよ。君も本当によく頑張ったね」そして駆けつけたスズミ女医に向き直る。「動かせる患者をリストアップして、すぐに診療所に移動させてください」「了解。よくやったわね……ちょっと感心したわ」
サイを見ながら、頼もしそうにスズミが笑う。だがそんなスズミの背後から、中年の女性が髪を振り乱して襲いかかった。「ねぇウチのお父さんどうなるのっ? さっきアンタ、大丈夫だって言ったじゃない!」
「サーシャさん、落ち着いて下さい」慌てふためいたネネが女を羽交い絞めにする。女はなおも涙と鼻水を散らし、両腕を振り回した。スズミの手が引っ掻かれる。「どうして、どうして娘の結婚式の最中にこんなことにっ」
よく見るとその衣服は、ボロボロに引きちぎれた紫の絹のドレスだった。靴は失われ、ほぼ裸足のままだ。その姿のまま、必死で夫を担いでここまで来たのだろう──
しかしそんな彼女に、スズミは言い放った。「治療の邪魔です、下がって」
女は目を剥いてスズミを睨む。視線で人が殺せるならば、スズミは0.1秒でこの女性に殺されていただろう。「この人殺し! さっきは助けるって言った癖に、助かるって言った癖に、見捨てるつもり? まだ息があるのよ」
「落ち着いて!」サイはネネと一緒に女を押さえる。スズミに向けられた叫びはそのまま、アマミキョにも向けられた怨嗟だ。小声でサイはネネと言葉を交わす。「大変だな」「茶飯事ですから」
スズミは冷徹を貫き言い放つ──「残念ですが今の状況では、旦那様の治療を打ち切り、他の患者さんを優先せざるを得ません」
現実を突きつける女医に、さらに歯を剥いてくってかかろうとする女。その時再び、サイの通信機が鳴った。風間からだ。<サイ君、今そっちに連合の負傷兵が行ったわ>
畜生、女とスズミの騒動で、再び場の空気が混乱し始めている時に。俺の聞き違いであってくれ──サイは慌てて通信機をいじる。「何ですって?」
だが、風間の言葉はなおも続く。<ジープで強引に乗り込んできたの。乗っていたのは4名だけど、1人を除いて全員死亡を確認。その1人が>
その瞬間、わめく群衆の壁の向こう側に、サイは異様な風体の男を発見した。色は薄緑だが、あれは連合のパイロットスーツだ。そして──「風間曹長、その負傷兵というのは、左わき腹と右肩を負傷していて、銃を所持している、15歳ぐらいの緑髪の少年ですか?」
<そう、よく分かったわね……って、コントやってる場合じゃないわよ! 今すぐ行くっ>一方的に通信は切られたが、その時のサイは既に通信に構っていられる状況ではなかった。
突然現れた血まみれの男に、ただでさえ張り詰めていた場内はさらなるパニックとなる。
男は一発、天井に向けてハンドガンを撃ち放った──全員の金切り声が、そこらじゅうで暴発した。女性たちの悲鳴がブロックを破壊せんばかりに轟き、子供が泣き喚く。おかあさん、おかあさん、おかあさん、助けて、助けて、助けて!!!
「俺を治療しろ! 最優先だっ」腹の傷を押さえながら、まだ若い男は怒鳴る。青白いが血で汚れた頬。切れ長の目は一杯に見開かれて充血し、濃い隈が出来ている。「治療してくれりゃ、悪いようにはしない……」
血にまみれた唇から漏れる呟き。まるで吸血鬼でも思わせるような面構えだったが、サイはその顔に見覚えがあった──あれは確か、ヤハラで会った連合の少年兵だ。随分と人相が違ってしまっているが。
サイが思い出したとほぼ同時に、ネネも叫んだ。「スティングさん!?」
「なっ?」その言葉に、少年兵は一瞬絶句する。「何故、俺の名を?」
だがネネは怯まずに言い返した。「覚えてますよっ、貴方ヤハラのスカートめくり魔! んもう、どこでどうやったらそんな怪我をするんです、見せなさいっ」
ネネの度胸に、サイもスズミも驚愕した──いきなりズカズカと彼の前に近づいていったのである。そんな彼女にも、少年兵は容赦なく銃口を向けた。「知らねえ! 俺はお前らなんぞ知らねぇ、何を訳分からんことをっ」
突然の銃口に、さすがにネネも躊躇する。「そんな、覚えてないの?」
「ネネ、下がれ!」サイは素早くネネを庇うようにしてその間に立ちはだかった。震える銃口が、今度はサイに向けられる。
すぐに治療するから、だから銃を下ろせ──そう告げようと口を開くサイ。だがその瞬間、予想もしなかった方から声が飛んできた。
「ステラはどうしたの、スティング?」
責め立てる少女の声。比較的空いている廊下から声を響かせていたのは、マユ・アスカだった。
彼女は目尻も眉もつり上げて、このスティングという少年兵を睨みつけている。小さな身体を震わせ、全身でスティングを責めている。そんなマユを、サイもネネも今まで見たことがなかった。
カイキ・マナベが慌てて駆けつけてきて、マユを抑えにかかる。だが彼女の叫びは止まらない。「ステラとアウルをどうしたの、スティング?」
「何をほざいて……」スティングの銃口はサイに向いたままだったが、そのぎらついた切れ長の瞳はマユ、そしてその背後のカイキを睨みつける。
マユの怒りが、ナオトへの執着とメルーへの嫉妬が形を変えた八つ当たりであることに気づく者は、その場には誰もいなかった。カイキも、マユ自身でさえも。
そしてマユの中の悪魔が、顔を出す。一言一言区切って、マユは言葉を投げつける。「弱いから、でしょ」
スティングの顔色が、蒼白からどす黒に変わった。サイが見てもはっきり分かるほどの変化。
ひぃ、という叫びが人々の間を貫く。唇から漏れ出す血混じりの泡。眼の殆どが白目となり、僅かに残った黒目の部分は双方が違う方向を向く。それでもスティングは叫ぶ。「知らねぇ……俺は何も知らねぇ! アウルって誰だよ? ステラだと? あんな死にぞこないなんぞ!」
吐き捨てられた言葉に、マユの黒い瞳がはっきりと怒りに染まる。「ステラは助けてもらいたがってたんだ、何でスティングは何もしなかったの? 弱いから? 弱いからだよねっ」
弱いから。弱いから。その言葉を投げつけられるたびに、スティングの身体が海老の如く反り返る。その言葉自体が銃弾のようにスティングを撃っている。サイはふと思い出す──ミントンを出た時に交わした、フレイとの会話を。
──あの子たちは特定の言葉を聞くと、崩壊状態になるようね。
「マユ、よせ!」カイキとサイは同時に叫んだが、既に時遅し。
「う、うぁああああぁおおおおぁあああ」最早スティングの目玉は完全に別々の方向へ剥き出され、その狂った銃口は負傷者の群れへ向けられる。あの、妹を抱いた少年へ。彼は妹を抱いたまま完全に怯えきり腰を抜かし、動けない。
「全員伏せろ!」俺が守るしかない。サイは迷わず、果敢にスティングにタックルを仕掛ける──
だが、スティングの反射神経の方がサイより遥かに上だった。サイがその銃に飛びつくより早く、スティングの蹴りがサイの腹に炸裂する。次の瞬間、サイの身体は負傷者の群がる壁まで吹っ飛ばされていた。まともに壁に叩きつけられ、サイは血と尿の流れる床に倒れてしまう。同時に、銃が暴発した──怒号と悲鳴。不幸中の幸いか、銃弾は誰にも当たらず手術室のガラスを割るにとどまったが、スティングの狂乱は止まらない。
サイに続いて止めに入ったネネの肩が、銃の台尻で殴り飛ばされた。彼女の身体も負傷者たちの中へ倒れこむ。「ネネ! 貴方、何をするのっ」怒りに燃えたスズミが、医者たちが、クルーたちが一斉に数に任せてスティングに襲いかかるが、全員が一瞬で振り払われた。
「負傷しているのに……これが、エクステンデッドの力か?」血の出ている唇を手の甲で無造作に拭きながら、サイは呆然とするしかない。ハマーの蹴りよりずっと鋭く痛む蹴り。サイは頬と制服の肩を他人の尿で濡らしながら、痛みで動けなかった。
だがそんなスティングにただ一人、対抗出来る者がいた。マユを守るべく飛び出した、カイキ・マナベだ。銃口でマユを狙って走り出したスティングに対して、カイキは腰からナイフを取り出して応戦する。
動じることなく叫び続けるマユ。「弱虫! ナオトが嘘つきなら、スティングは弱虫だっ」
黙れ、と言おうとしたのだろうがスティングの喉からは最早猛獣の咆哮しか漏れない。カイキもまた、マユを守ろうと熱くなりすぎていた。スティングの腕をナイフで一閃する──さすがに切断まではいかなかったものの、スティングの右腕からおびただしい血が噴出した。銃がその手から落ちる。
その隙に、サイは床を這いずったままスティングの銃を拾い上げた。サイのほぼ頭上で、カイキの拳がスティングの顎に炸裂する。続いて蹴り、蹴り、さらに殴打。周囲の状況を考えず、カイキも暴れまわる。負傷者の悲鳴も叫びも号泣も相手の痛みも、マユに銃口を向けたという事実の前ではカイキにとって何の意味もない。
だがスティングも負けじと、そばにあった点滴台を振り回して対抗する。暴れまわる二人のエクステンデッドのおかげで、患者の意識を拾っていた命のモニターが何台も倒され、子供の寝ていたベッドがひっくり返され、薬瓶が何十本も薙ぎ倒され、医療器具や注射器の山が床に散乱する。
「やめてぇ、お願い!」「痛いよ、ママ痛いよ、針が刺さったよ」「山神隊はまだなの!?」「ブロックが壊れる!」喚く女、泣き叫ぶ子供たち、怯え続ける老人。さらに薬液と体液と血で汚れていく医療ブロック。
「俺は弱くなんかない! 俺を否定するな、否定するな、否定するな!!」スティングは、医者用の重い回転椅子を簡単に振り上げる。その拍子に、医療ブロックの電灯の一つが椅子の脚部に衝突して壊れた。破片がスティングの上に、患者たちの上に降りそそぐ──さらにスティングは、血と点滴の薬液が混じり合う床に足を取られ、椅子を持ったまま転倒してしまった。
勿論その隙を逃すカイキではない。うつぶせのまま動けないスティングにそのまま馬乗りになる。ナイフを振り上げる。「可哀相だが、ここで!」
カイキに押さえつけられたスティングの手は、それでも必死で空を掴もうとあがいていた。その血だらけの指の先には、腰を抜かしながらも事態を見守る看護士・ネネの姿があった。
助けて、助けて、助けて。ここの患者たちと全く同じ叫びを、この少年兵はあげている。倒れたままのサイにも、それは十分理解出来た。スティングは、ひたすらに助けを求めていただけだ──その求め方が、いささか暴力的であったにせよ。
同じことを、真正面のネネも感じ取ったらしい。「待って!」
カイキの手がネネの一声で止まる。ぐちゃぐちゃになった床の上で、ネネはゆっくりとスティングに近づき、その伸ばされた手を握りしめた。微笑みと共に。「大丈夫です。
貴方は、弱くなんかない」
「よせ、危険だ」「ネネさん!」カイキとサイが同時に彼女を止めたが、それでもネネはスティングの冷たい指を自らの左胸に持っていった。やや小ぶりな胸に、スティングの震える手が触れる。「聞こえますか? 心音。体温、感じますか?」ネネの両手が、スティングの血だらけの指を丸ごと包み込む。
思いもよらぬ彼女の行動に、スティングは幼子に戻ったかのようにこくりと頷く。ネネは満面の笑顔になった。「なら、大丈夫! 貴方はこんなに強いもの」
人の肌の柔らかさに、スティングの感情はようやくおさまりを見せた。彼だけでなく、患者たちもすっかり静かになっている。スティングの呟き。「痛えよ……俺を助けろ、この野郎」
サイははっと我に帰り、スズミ女医に指示を出した。「スズミ先生、早く!」「分かってる」
スズミは素早く飛び出し、スティングの首元に鎮静剤を打った。瞬く間にスティングの目から、獰猛な光が失われていく。
サイはつくづく、自分の無力さを嘲笑せずにはいられなかった──自分では、とてもネネのような真似は出来ない。やったとしても、殴られるのがオチだろう。
引きずられるように担架に乗せられるスティングを見ながら、サイはひたすら腹部の痛みをこらえていた。
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