ネネの血が、サイの制服を一気に染めていく。サイの身体に、心に、彼女の大量の血液と体液と内容物が、その命と共に浸透していく。ベージュの長袖のワイシャツが、ぐんぐん紅に濡れる。
まるで、砂漠にしみいる血のように。
それでも驚いたことに、この状態でありながらネネは数秒の間、生きていた。
「サイさん、お腹痛い……足が痛いです……サイさん、助けて、助けて……サイさん」
下半身をとうに失っているにも関わらず、失われた部分の痛みはネネの脳に伝わっているらしい。彼女は信じられぬほど強い握力でサイの頬と髪を掴む。べとりと血がサイの顔に付着し、眼鏡が外れかかる。
サイを何度も助け、サイの手を治そうとしたネネの手が今、血に塗れてサイに助けを求めている。絶望的な助けを。
ネネの体温が血となってサイに染み入るが、寒さのせいでその血は一気に冷たくなり凝固していく。サイの制服はもう背中のあたりまで血染めだった。血だけでなく胃や腸の中身までがサイの両脇からごぼっ、と溢れ出す。この女性の何処にここまで血が隠されていたのかというほどに、その出血は凄まじかった。
「サイさんお願い、おねがい、助けて、たすけて、たすけて、たす……」
それが、アマミキョ看護士ネネの、最期の言葉となった。
ネネの喉から間欠泉のように噴出した血が、サイの顔にまともに被さる。壊れた内臓から漏れる声はサイの耳元でかすれていき、必死でサイを求める手はサイの髪を数本ちぎるにとどまり、力が抜けていく。
──助けられなかった。
炎の巻き上がる空を見上げながら、血塗れのサイの胸に渦巻いた思いはただ一つ。
──俺はやっぱり、何も出来なかった。
フレイを失った時と全く同じ、凄まじき悔悟がサイをえぐる。
スズミの絶叫が聞こえる。あの冷静な先生までが、泣いている。だが俺は、何も出来ない。泣くことも、叫ぶことも、助けることも。
この娘はあれだけ、俺を助けてくれたのに。その娘の為に泣くことすら出来ないとは!!
血まみれのネネの手と顔は色を完全に失い、輝きの消失した眼球は天空へ剥き出しになる。ほぼ全ての体液をサイの上で流しつくした彼女は、そのままサイの腕の中で絶命した。
雪まじりの風はサイに染み込んだ血を一息に冷まし、その体液はネネの身体とサイをくっつけようとせんばかりに粘着力を帯びていく。
深紅のネクタイは真っ黒に変わり、サイとネネの間の血溜まりの中に蛇の屍骸のようにたゆたっていた。血を吸い込んだ制服が、重く冷たくサイにのしかかる──
その時サイは、腰に装備した銃の重みに気づいた。
サイの中で、何かが笑い出す。喪失感のあまり、笑い出す。
なんだ、馬鹿だな俺は。出来ることならあるじゃないか。何故、こんな簡単なことに俺は気づかなかったんだろう?
サイは急いで銃を腰から引き抜いた。そこにもべっとりと血が付着し、銃口から血の糸が垂れ下がっていた。


その時スズミは、地獄を見た。
可愛い子供たちが一瞬で炎に呑まれ、可愛い部下が一瞬でその身を砕かれた。それだけでもスズミを大きく取り乱させるには十分すぎる威力だったが──
ネネを抱いたままうずくまっていたサイが、ゆらりと立ち上がる。頭から爪先まで、全身を血に染めたサイが──未だにディンとムラサメと閃光の飛び交う空を振り仰いだのだ。何かを空に向けて。
それが何なのか、スズミは一瞬では理解出来なかった。
まさか、そんな馬鹿な。サイの行動にしてはあまりにも常軌を逸している。スズミの視覚はそれが拳銃だということを認めてはいたが、頭はそれを拒絶していた。
乾いた音が天を裂く。スズミの眼前で、幽霊のように炎の中に立ち尽くしたサイが、何もない虚空へ銃を撃ちはなっていた。三発、四発、五発──
やがて撃ち尽くしたサイは一旦しゃがみ、血塊と化したネネの身体を探る。そして彼女の、破壊された腰に何とか残っていた拳銃を取り出した。
同じように、ネネの銃もサイの手で空へ火を噴くことになった。乾いた音はディンのスラスターの轟音にかき消され、当然弾丸は機体にかすりもしない。炎の粉が光の桜のように舞い散る中、銃を撃ち続ける血まみれの男──
その時になってスズミは何とか、少しだけ冷静さを取り戻した。「何をやってるのサイ君! ザフトに気づかれたらっ」
叫ぶスズミに、サイは振り向く。俺に何か用ですか?という風情の、いつも通りの微笑み混じりの表情で。
いつもと違うのは、その顔に血の塊が、魔神でも召喚しようとするエセ魔術師のペインティングの如く貼りついている点だけだ。空で交錯するディンの光が、その血を白く照らし出す。
「スズミ先生、スティング、悪いけど手伝ってください。
俺、やっと分かったんです。戦争止める方法」
その台詞だけで、スズミの中で大きく音をたてて何かが崩れようとしていた。ネネの銃までも撃ち尽くしたサイは、満足げな笑顔でその銃を投げ捨てる。「銃を撃てなくすればいいんですよ。
弾がなくなってしまえば、銃なんかオモチャでしょ? こんな単純なこと、なんでみんな気づかないんだろ?」
いけない──これはまずい、非常に。
サイがどれだけアマミキョにとって重要な存在だったか、スズミはこの時改めて思い知った。サイの冷静さと利発さに、自分たちは一体どれほど依存していたのだろう?
そんなスズミの慟哭も知らず、サイは躊躇することなく炎の噴き上がる診療所へと大股で歩いていく。「確か、妙に前時代的なヤツ持ってたよなぁ、ここの先生……」ディンの翼が巨大な十字架のように突き立った診療所。中の子供たちの命は既に絶望的だった──にも関わらず、サイは燃える瓦礫の下へ潜り込む。
そして見つけたものは、診療所に備え付けられていたサブマシンガンだった。かなり旧式のものらしく、サイの両腕に抱えるほどの大きさのものだ──幼児ほどの重さのその銃もサイは空へ向け、フルオートで乱射を始める。
どうやら腰だめで撃つ設計になっているらしいそのサブマシンガンは、銃撃開始の瞬間から強烈に銃身を跳ね上げる。雷が木を砕いていくような銃撃音が轟く。サイの身体は激しく揺すぶられ、撃ちながら3回ほどスケート選手のごとく回転する。それでもサイは乱射をやめなかった──あぁ。スズミは思わず呻いた。
灰で汚れた涙が次々にスズミの頬を伝う。サイ君、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!
私たちは貴方に、あまりにも多くのことを求めすぎた。どんなに痛めつけられても、どんなに苦しんでも、理不尽な目に遭っても、貴方はいつも大人で、いつも立ち上がって、笑顔でいてくれたから。
本当なら私たち大人が、貴方を守らなければならなかったのに。まだ貴方は、成人もしていない。少年と定義可能な年齢なのに!


「サイ……さん? どうしてここに?」
ティーダコクピット内のナオトは、そこではありえない光景を幻視していた。
ナオトの眼前に突然拡がったものは、夜の冷気が吹きすさぶ砂漠。空には星が異様な勢いで輝き、砂の地平線がどこまでもどこまでも続いている。
おかしいな、さっきまで僕はティーダにいて、メルーを探していたはずなのに──背後にいたはずのマユの姿も見えない。
その時、ナオトは砂漠にたった一人、ぽつりと立っている人影を見つけた。
ナオトはそれがサイだとすぐに分かったが、どうも様子がおかしい。連合の青い少年兵の制服を着けており、その表情はナオトが知るサイの横顔より若干幼く見える。ナオトの声は全く聞こえていないようで、とぼとぼと砂漠を歩いているサイ。
その前方の砂には今──真っ黒い血が染み込み、拡大を始めていた。
太陽の光が砂漠を焼く時と全く同じに、黒い血のしみは一気に地平線の向こうから波のようにサイへ向かってくる。血の染み込んだ砂はサイの前で音もなく溶け崩れ、地平線が消え、大地が消え、砂はもろくも血の塊となって重力に逆らわず崩れていく──その下には何もない。ただ、全てを呑みこむ闇だ。
それでもサイは、気づいているのかいないのか、構わずに前に進もうとする。サイの足元の砂が血に染まり、崩れる。
ナオトは声を限りに叫ぶ。「駄目だ! 行っちゃ駄目だっ、サイさん!!」


「サイ!」アマミキョブリッジでは、カズイもまたナオトと同じ感覚を共有していた。
カズイだけではなく、オサキも、ヒスイも、アムルも。勿論ナオトほど鮮烈にではないが、全員が同じものを感じ取った。
ユウナだけは何が起きたのかさっぱり分からず、オロオロと周りの空気を探っている。「な、どうしたんだ君たち……残り3分で起動シークエンス開始だぞ」
オサキとヒスイが不安そうに顔を見合わせる。「ネネに何か……」「サワグチさん?」
指揮官不在のまま動揺を続けるブリッジの中でカズイは一人、呟いた。「あの砂漠……サイ、やっぱりあそこで止まったままなのかよ」


両腕に力いっぱいサブマシンガンを抱えるサイ。その痛ましい姿を、スティング・オークレーは何故かひどく冷静に観察していた。
どうやら銃弾を撃ちつくしたらしく、サイはだるそうに弾倉の交換を始めている。どこかから水の音がひっきりなしに聞こえる。サイの声と共に。「重いなぁ……スティングー、ぼうっとしてないでちょっと手伝ってくれよ! ったく、いっつも俺ばっかり後片付け役なんだから」
スティングは思う──俺はこんな場面に、何度か出くわしたことがある。
その時……一体俺はどうやった? 今こそその経験を生かす時だというのは分かる。記憶はないが、自分の義務は分かっている。ネオもいない、薬も切らしている。俺が、対処せねばならない。──だが、どうやって?
俺は「その時」、一体何をしていた? どうやって切り抜けた? どうやってアイツらを宥めていた? ネオが不在の時、アイツらを宥めたのはいつも俺だった。その時、俺は。
脳のいたるところに勝手に鍵をかけられたような壮絶な気持ち悪さと戦いつつも、反射的にスティングは走り出していた。幸いサイから数メートルほどしか離れていない、水音のする方向へ。
今ならまだ間に合う、狂気の入り口にふと迷い込んでしまっただけだ。いつもそうやって俺は、アウルを──アウル?
記憶の断片のほんの一部を拾い出した時にはもう、スティングは水音の発生源を探り当てていた。丁度いい具合に瓦礫の下に、破れたゴムホースの断片が放り出されており、そこから勢いの良すぎるシャワーのように水が噴出している。ラッキーなことに、氷混じりの水だ。雪国万歳。
ホースの断面をぎゅっと掴むと、スティングの手の中で吹き出す水が勢いを増す。そうだよ、俺だって何度この洗礼を受けたか──「そうだろ、アウル!」
スティングの叫び。サイがちょっと煩げにこちらを向く。その姿が何故か、連合の少年兵の制服を着けた水色の髪の少年と重なる。
あぁ、愛しの大根娘。俺は分かってしまった──俺が帰るべき場所が。あんたは俺を戦わせまいとしていたのに、戻るハメになっちまいそうだ。あんたの、血のせいで。
その少年に向けて、スティングは容赦なく放水した。まるで、銃でもぶっ放すように。
飛び散った水は想像以上の勢いでサイに叩きつけられる。頭を水圧で殴られたサイは、汚れた雪の上にまともに薙ぎ倒された。それでもなお水を止めようとしないスティングは、素晴らしい噴出を続けてくれるホースを持ったままサイに近寄り、水攻撃を続行した。サイに染み込んだネネを、必死で削ぎ落とそうとする勢いで。
力なく抵抗しようとするサイだが、氷水は激痛を伴ってサイを叩き続ける。スティングはいつしか叫んでいた。「畜生、落ちろ、落ちろ、落ちろ、こんな血は嘘だ、あの娘が血を流すなんて嘘だ、こんな血、全部剥がれてしまえ!!」
スズミが何度も大声でスティングを呼んでいたが、既に彼には聞こえていなかった。スティングの頬に流れる水。跳ねる冷水でも血でも汗でもない何かが、そこに混じった。
だがものの40秒としないうちに、水の勢いは弱まり始めた。銃弾のようだった水が、みるみるうちにじょうろから零れる残り水のように勢いを消失していく。
あとには、血と水でぐしゃぐしゃになって倒れているサイと、茫然と突っ立つスティングが残された。
ちょっとした池になった中に転がったままのサイを、スティングは強引に引きずり起こして一発、ぶん殴った。眼鏡が割れて飛び、サイと共に水たまりに落ちる。
──これで、応急処置としては大丈夫なはずだ。
「サイ君!」ショートの金髪を振り乱し、スズミが駆け寄ってくる。無力な大人は黙ってろと言いたい気分を、スティングは何とか抑えた。


俺は──俺は今、何をしていた?
あまりの寒さにガチガチ歯を鳴らしながらも、サイは何とか起き上がった。
閃光の飛び交う空、何故か手にしているサブマシンガン、何故かずぶ濡れの自分。自らの状態を少しずつ認識していくにつれ、サイはどうにか己を取り戻し始めていた。
俺は一体、何をしようとしていた。銃を撃ち尽くせば戦争が止まるだと? 銃を無力化すれば戦いは終わるだと? 
自分の行動は、明らかに破綻していた。サイはその事実に戦慄する。
全身が一気に凍りついていくような感覚。実際、濡れた髪の先が冷気で僅かに凍り始めていた。銃を握り締めたままの自分の手は寒さで真っ白になり、そこに黒薔薇のように血が付着している。
ネネの血で染まった制服だけが、どこかまだ暖かかった。
「気ィついたか?」スティングの声がする。同時に空の戦闘音もサイの耳に戻ってくる。目の前では、ネネたちが必死で守ろうとした診療所が今や、紅蓮の炎と共にベキバキと崩れ始めていた。煙の臭いで、サイは思わず咳き込んでしまう。
俺の無力の象徴だ、あれは。診療所の屋根に突き刺さったままのディンの翼を見上げながら、サイは無念を噛みしめる。血と氷水で皮膚に張りついている制服が、酷く重い。
スティングの水は、確かにサイを正気に戻していた。だが、とてもネネの血を全て削ぎ落とすまでには至っていない。サイは全身を血で染めたまま、ゆっくり立ち上がる。
スティングを振り返ると、その両腕には青い軍服の上着にくるまれた大きな塊が抱えられていた。つい数分前まで、ネネ・サワグチの上半身だった物体は今、スティングに抱えられながらその腕でなお血を流し続けている。その血はサイだけでなく、今やスティングの制服も染めていた。
「サイ君!」駆け寄ってきたスズミに背中から抱きかかえられるサイ。あのスズミ女医が、今や涙を隠そうともせずサイを抱きしめた。その体温と柔らかな肉を感じた時、自分の身体が凄まじく冷え切っていることにサイは気づいた。「サイ君、ごめんね、ごめんね!」
自分の先ほどの状態がどれほど酷かったか、サイは自覚する。馬鹿だな、俺は──こんな大人まで泣かせてしまうとは。俺がしっかりしなければ、ネネだけでなくみんなを殺してしまうというのに。
サイは時計を確認する。「1分オーバーだ。もう浮上シークエンスが始まってる」
「駄目よサイ君、今の自分の状態分かってるの? 唇が泥色よ!」スズミはサイを助け起こして眼鏡を手渡しながらも、ブリッジへ戻ろうとするサイを押しとどめようとする。
だが、サイは聞かなかった。「アマミキョと村人をここから脱出させるのは、俺の役目です。ネネと、子供たちの為にも」
顔まで血だらけのサイだったが、声色はしっかりしている。眼鏡をかけ直し、足元の泥水に映る自分の顔を確認する──目はどうにか正常な光を取り戻している。かなり危うい処だったが。
「俺も戦う」ネネだったものを抱いたまま、スティングは呟いた。「これ以上、奴らの好きにはさせねぇ。それが俺の存在意義だ」


約5分後。
避難民で溢れかえるアマミキョ医療ブロックの通路に、サイはスズミに伴われて帰ってきた。
サイがその姿を現した瞬間、全員が波をうったようにしん、と静まる。血みどろの姿のまま、血みどろの連合服に包まれた肉塊を抱えるサイに、その場の老若男女が息を飲んだ。子供の泣き声だけをBGMに、全員が静かになる。ここまで面白いくらいに空気が固まる瞬間というのも、そうそうお目にかかれるものではない。
「ひぇ」どこかで絹を裂くような悲鳴が上がり、人々はわっとサイの前から飛びのいた。顔色が真っ青な上にずぶ濡れだったせいもあり、サイの姿は血の池から這いずりだした屍食鬼にすら見えた。
だがサイは全く気にせず、その場でネネの遺体をスズミに手渡した。「お願いします。オーブで埋葬出来るように」
連合の青い制服に包まれた肉の下からは、未だにぼとぼとと内臓と砕けた骨が零れ落ちる。サイの右腕にはいつの間にやら、ちぎれた腸管が2本ほどぶらさがっていた。


アマミキョブリッジで、ユウナ・ロマ・セイランはイライラと戦況を見つめていた。モニター隅でひっきりなしに動き続けるデジタル時刻表示を凝視しながら、カズイとヒスイも焦りを隠せない。そんなカズイたちに、アムルがそっと呼びかける。「大丈夫。サイ君が戻らないなら、私がやる」
「そんな」カズイは驚いてアムルの揺れる金髪を見つめた。確かに、サイは事前にアムルたちに一応のローエングリンの発射準備の説明は行なっていた。だが、それだけで可能なのだろうか──いくらアムルがコーディネイターとはいえ。
だが、アムルは落ち着いたものだ。「私だって、こんなところで死ぬわけにはいかないしね」
カズイはそのアムルの態度を、実に肝のすわった女性と評価した。この状況でウィンクまでしてみせるアムルはカズイにとって、サイやフレイやオーブ軍よりも頼りがいのある、美しい女性に思えた。その言葉の裏には村人たちやオーブ軍に対する軽蔑がかすかに潜んでいることなど、カズイには気づけない。
しかしその時、ちょうどサイが戻ってきた。響く声。「申し訳ありません! 只今戻りました」
ユウナはその声を聞くとほぼ同時に怒りを露にして振り返る。「約束を5分も遅れて! よく着替える余裕があったもんだね、そんなに趣味の悪いベスト……って、え?」
サイの姿を最初瞳の隅でしか捉えなかったカズイは、一瞬ユニークな勘違いをした。長袖の制服の上にサイは真紅のベストを着込んでいると思ってしまったのだ。恐らくユウナも同様の勘違いをしたのだろう、そしてよくよくその紅を見て──代表補佐には全く似つかわしくない、世にも情けない悲鳴をあげていた。
カズイはそれを笑えない。とても笑うことなど出来ない。カズイ自身も、同じような悲鳴をあげていたから。隣のヒスイも。アムルまでが口を押さえていた。そりゃあそうだ、平和の国の人間は一瞬ではあれを血だとは認識できない。
血染めの制服もそのままに、サイはブリッジに戻ってきたのだ。片手に銃まで持って。
さすがに医療ブロックでのような混乱にはならなかったものの、全員がこの世ならざるものを見る目でサイを凝視している。何とか最初に声をかけられたのは、操舵手オサキだった。「な……何があった? 何があったんだよ、サイ!」
オサキは動揺しながらもサイにずかずかと近寄り、その肩を掴む。元軍人だけのことはあり、オサキは血を見ても比較的冷静でいられたようだ。だがサイはさらに冷静に言い放つ。「持ち場に戻れ、オサキ。あとで詳しく話す。ティーダはどうなってる?」
「答えろ!」ここで引き下がるオサキではなかった。「ネネに何かあったんだろ。アタシらが何も感じなかったと思ってるのかよ、その血は誰んだ!」
サイの両肩を揺さぶるオサキ。未だサイの腕に絡んでいた腸管が落下する。ヒスイがしくしく泣き出し、カズイはサイから漂う血の臭いに思わず口を覆ってしまった。
アムルが叫ぶ。「落ち着いて! 今はそんなことを議論してる時じゃないでしょうっ」
この言葉に、オサキはさらにいきり立った。「そんなことだと! ネネに何かあったかも知れないってのに、そんなことだと!」
「もう嫌ぁ!」ヒスイがたまらず声を上げてディスプレイに突っ伏す。カズイはどうすることも出来ない──こんな状況を作り出してしまった血濡れの友人を、ただ見ていることしか出来ない。
しかしその瞬間、サイの声が再び轟いた。今度はブリッジだけでなく、船内に響きわたるかというほどの勢いで。「落ち着け、馬鹿野郎!!」
オサキが思わず後ずさる。サイの手に握られたままだった銃がゆっくりと上がり、真っ直ぐ人の頭に向けられていたのだ。騒然としていたブリッジが一息に固まる。
但しその銃口は、目の前のオサキをポイントしているわけではない。銃口が向けられているのは、ブリッジの他の誰でもない、サイ自身の頭部だった。
オサキの目に涙が浮かぶ。幼児がいやいやをするように首を振りながら、彼女は呟いた。「お前、馬鹿だよ……ホント、馬鹿だよ」
カズイはオサキの言葉にほぼ同意だった。ホントに馬鹿だ、サイは。ことに、フレイを失ってからのサイは──
自分の命を全く顧みない。それどころか、状況を好転させる為なら自分の命まで人質に取る。
しかもサイは銃の使い方まで計算していた。もしクルーに銃口を向ければパニック必至なのは当然として、場を抑える為に空砲を撃ってもここは密室、跳弾が何処へ飛ぶか分からない。その点自分に向ければ、万一暴発しても死ぬのは一人だ。最小の被害で場を静止させる方法としては、うってつけとも言えた。
だがカズイにとってそれは、卑劣な行為にすら見えた。自分がどれだけ大切に思われ、どれだけ重要視されているか知っているからこそ、サイはこんな行動に出られる。
それは捉えようによっては、他者の想いを無惨に踏みにじり、利用する行為にも思える。
カズイはそんな友人が羨ましくもあったが、それは決してその豪胆さを羨んでいるわけではない。人の想いを利用出来る立場に立てたサイが羨ましく、憎らしくもあったのだ。俺が同じことをしたって、迷惑がられて殴られるのがオチだ。それどころか、もし引き金をひいた処でアマミキョには何の影響も与えないだろう──だが、サイは違う。
「聞こえなかった? 持ち場に戻れ」サイは銃口をさらに強く自らの頭に押しつける。「頼むから、ティーダと風間機の状況を伝えてくれ。
それが、ネネ・サワグチと子供たちの為だ」
その言葉で、ようやく全員が静まった。全員が、おぼろげながらも状況を理解した。
あちこちからすすり泣きが漏れながらも、それぞれが持ち場に戻っていく。
そこへ、作業用ジャケットを取ってこさせたユウナがサイに声をかける。「アーガイル君気持ちは分かるがね、いくら何でもその恰好はマズイよ。皆が動揺しているのが分からないのかい」
その言葉で、サイは銃を下ろす。ジャケットをかけようとするユウナの手をそっと引きとめ、サイは呟いた。「いいんです。俺はネネや子供たちと共にいると決めました。ここから脱出するまで」


それから10秒もしないうちに、ティーダコクピットにサイの怒声が轟いた。
<ナオト、予定行動範囲を2キロも逸脱してるぞ!>
「サイさん!? 大丈夫だったんですね」ナオトは先ほどの幻が幻にすぎなかったことを確かめ、若干胸を撫で下ろす。だがサイの声はナオトにも分かる程度の狂気を孕んでいる──何故だ?
<風間機を見失えば、アマミキョもハーフムーンも終わる! 何度言えば分かるんだ、お前はっ>
サイに何があったのか、殆ど読み取れないナオト。怒声のおかげで彼は安心するより先に著しく気分を害してしまった。「メルーが見つからないんですよっ! 畑に戻ったみたいなんですけど」
<そっちにはアストレイを回す>
サイの答えはナオトにとって、メルーと一緒に自分を突き放されたも同然だった。「な、何で!? 僕はメルーを」
だが、サイは聞かない。<ティーダは風間機を追うんだ! 作戦が失敗すれば、メルーもお前も死ぬんだぞ>
「そんな……勝手ですよ!」
<勝手はどっち……>その瞬間、衝撃がティーダを襲った。通信が乱れ、アラートが鳴り響く。マユの声──「ナオト! 黒ジンだっ」
その叫びに、ナオトは思わずモニターを凝視する。マユの言うところの黒ジン──つまり。
「まさか、ハイマニューバ2型!?」
忘れもしない、コロニーウーチバラでの惨劇に居合わせた黒と紫の、ふざけたトサカ付モビルスーツ。ジンの派生機種。フーアとアイムの命を奪った奴ら──
黒の機体につりあわないほどの白さを誇る翼を広げ、今そいつは真っ直ぐにティーダに突入してきた。斬機刀で斬りつけられる寸前だったティーダは、必死でトリケロスで応戦する。空中に火花が散る。敵パイロットの声が響く──<お久しぶりだなぁ、白きブリッツ!>
「その声……あんたは、ヨダカ・ヤナセ!」
ウーチバラで戦いながら口論した時の相手を、ナオトもヨダカもお互い忘れてはいなかった。ナオトにとって、ヨダカはフーアとアイムを殺した仇であり、またヨダカにとっても、ティーダの存在自体許しがたきものであった。何度も仲間を傷つけられ、恥をかかされ、そしてティーダの存在の為に多くの部下が命を落とした──
<む? その大声……実況坊主、やはり貴様か!>
跳ね返されるも、再び刀を上段に構え斬りかかるヨダカ機。ヨダカにとってティーダは憎しみの対象ではあったが、そのパイロットは違う。<降りるんだ、坊主! もう一人の嬢ちゃんも一緒に!>
「どーやら、私のことまで気づいちゃってるね。降りたら保護でもしてくれるのかな?」マユが他人事のように口にするが、ナオトは相手を全く信用しはしなかった。
「フーアさんたちを殺して、コロニーを壊して、アマミキョを狙い続けて、今またハーフムーンを……」ナオトにとって最早ヨダカ・ヤナセという存在は、絶えず自分の居場所を壊し続ける忌まわしき者の象徴以外の何ものでもない。そんな少年の心情も知らず、ヨダカの声が響く。
<今投降すればティーダもアマミキョも貴様も、悪いようにはしない! 安全は保証する>
「信じられるかぁっ!」ナオトの叫びと共に、ティーダの左腕からピアサーロック「グレイプニール」が射出される。昨日まで救出作業に大活躍だったティーダの鉤爪が、今はただ目の前の敵を殺害する為に牙を剥いた。
憤怒に身を任せ、ナオトの大きな目が血走り、ハイマニューバ2型の白きトサカを睨みつける。「僕だけじゃなくて、メルーたちの居場所まで! あんたみたいな大人がいるから、父さんが壊れて母さんもいなくなったんだ! お前らザフトのせいでっ」
<ジャーナリストとも思えんな、その言葉! もう少し利発な小僧と思っていたが>
ヨダカの言葉を、ナオトは全く聞きはしなかった。
一瞬でハイマニューバ2型の刀に噛み付く鉤爪。そこにもある改造が施されていた──「喰らいな、ザフト野郎!」
ナオトの叫びと共に、三又の鉤爪の中心部から青い電撃が放射される。その衝撃はまともにヨダカのコクピットとその身体までを貫き、炸裂した。肉を爆砕されるに等しい痛みと共に、ヨダカの呻きが響く。<ぐゥっ!> 激しい雑音の後、流れる呟き。<己の感傷のみで人を殺める子供に成り果てたか……まともな大人はいなかったのか、アマミキョには?>
この言葉が、さらにナオトの感情に油を注ぐ。 「僕たちを傷つけ殺し続けているあんたがたが言うことかぁっ!」ティーダは力まかせに、鈍重なハイマニューバ2型を蹴り上げる。強烈な電撃を喰らった黒ジンはそのまま地表へと自然落下する──「貴方がたの卑劣下劣は、全てこのティーダのカメラに収まってます。僕は全世界にこれを公表……」
「ナオト、まだ来るよ!」マユの叫び。ヨダカ機を救出するべく、ディンの援護が空の向こうから続々と押し寄せてきた。ナオトは自らの大失態に気づく──ヨダカに集中しすぎるあまり、ディンの存在をすっかり失念していた。いつの間にか、囲まれてるじゃないか!
「マ、マユ! 早く教えてくれよっ」「アラートは鳴ってたよ。ナオトが一生懸命すぎたんだ」
さらに、ディンからヨダカ機への通信までもティーダは拾う。<ヨダカ隊長、ローエングリンです! 奴ら、あの陽電子砲を持っていやがる!>
<何だと!?>
アマミキョの意図が、遂に気づかれた。ナオトの背に戦慄が走る──空中でディンに助けられながら体勢を立て直すヨダカの黒ジン。スラスターが最大出力で噴き上げ、一気にティーダに組みついた。<貴様と同様、アマミキョもやはり戦う船と成り果てたか! さすがは足つきの模造品だなぁっ>
「あんたに言えた義理かよ! そっちが襲いかかるから、僕たちだって戦わなくちゃならないんだ」
<だったら降りるんだ、ナオト・シライシ! 俺が君の居場所を壊したというなら、俺が作ってやる!>
ナオトの両手に、怒りの汗が滲む。僕の弱みを利用して、僕を絡めとる気だ。
実際のところ、ヨダカ・ヤナセはティーダパイロットを保護した後にプラントに連れ帰り、素性を隠して生活させることまで考えていた。それは、ティーダの調査中にオーブでのナオトの境遇を知るに至り、多少同情の念を抱いたからでもあったが──そんなことは当然、ナオトの知ったところではない。知ったとしても、ナオトは激しく拒絶したに違いないが。「気持ち悪いこと言うな! 誰がザフト野郎なんかにっ」
だがナオトの怒声も虚しく、続々とディンが集まってくる。迫ってくる紫の翼たち──<アークエンジェルといい、お前達といい、何を考えているオーブの奴らは!>
終わりだ。ナオトが思わず目を閉じかけたその時、閃光の如く飛び込んできた機体があった。<何をしている、ティーダ!>
「時澤さん!?」大きな青いいかり肩と、そこに刻まれた「天海」の文字がナオトの目の前でまばゆく輝く。地中の風間との約束を果たすべく、時澤軍曹はここまで駆けつけてきたのだ。
突如スティレット投擲噴進対装甲貫入弾を叩き込んできたウィンダムに対応できず、ティーダを撃つ寸前だったディンが瞬く間に爆砕される。さらにウィンダムのシールド裏からたてつづけに2発のミサイルが発射され、正確に反対側のディンの横腹を貫いた。空に舞い散る爆炎と共に、時澤の叫びが轟く。
<風間曹長の想い、無駄にするな!>
その通信はティーダを通じて、相手にも伝わったらしい。ヨダカの声がティーダコクピットに届く。<自分たちとて、部下の命がかかっている! 我らが重力と大地を取り戻す為の戦いなんだ、これは!>
ハイマニューバ2型に対してスティレットで斬りかかる時澤のウィンダム、それを刀で薙ぎ払いつつ一旦後退するヨダカ機。ナオトがさらに叫ぶ。「この地がどんなことになるか、あんた達は分かっているのか!」
<罪は覚悟の上よっ>ヨダカは冷たくナオトの言葉を切り捨てる。「勝手な!」さらに食いつこうとするティーダを、ウィンダムが止めた。
ティーダの代わりに黒ジンに相対するウィンダム。時澤の声が怒りに燃える。<軽すぎるな、その言葉! 自分たちの行為に慄くことになるぞっ>
<我らの大地を壊した者どもの言うことか! ブルーコスモスめがっ>
<一緒にされちゃ困る!>
「時澤さん!」なおも戦おうとするティーダを、時澤機は強引に脚で蹴飛ばすように突き放した。<君たちは風間曹長のところへ行け! 早くっ>
同時にヨダカ機、ディンの部隊もウィンダムに構わず離脱を図る。アマミキョの方向へと一目散に向かう敵──
<させるか!>それを時澤のウィンダムが追っていく。
「ナオト、風間さんを」怒りの収まらないナオトに、そっとマユが呟いた。ナオトは衝動を抑えきれなかったが、マユに言われては仕方がない。スラスターを噴射し、素早くティーダは戦闘から離脱していく。
「メルーを探す。あの畑なら、風間さんも近くにいるはずだ」


その風間機──ディープフォビドゥンは、戦闘がなされている10数メートル下の地中を驀進していた。地盤が柔らかいせいか、地中とはいえ意外とスムーズに機体は進行していく。目の前のモニターには、巻き上げられる土以外は何も映らない。敵機接近のアラートも未だ鳴らない。
「まともに太陽を見ないまま、死ぬなんてね。さすがに淋しいかな」
今のところほぼ自動操縦で進んでいる為、風間曹長はやや手持ち無沙汰だった。肩を揉みほぐす余裕すらある。死がそこまで迫っているという実感は、薄い。
機体の調子が良ければ良いほど、自分の死が早くなるというのは皮肉なものだと、風間は思いながら一度首を回す。「いや……太陽なら、あるか。すぐそばに」
一人呟きながら、風間は上を見上げた。狭いコクピットの天井以外には何も見えないが、風間は確かにそこに「太陽」──ティーダの存在を感知していた。
あの太陽が、自分を一人にさせない。手元のコンソールには、ティーダからの情報が刻々と流されている。若干予定行動から外れてはいるが、風間機の通信に支障が出るほどではない。
絶えず地を掘り進む激しい震動にはもう慣れた。死を待つ時間が、これほどまでに長く退屈なものだとは──
だが、風間が自分を励まそうとわざと欠伸でもしようとしてみたその時、アラートが響いた。
「来た!?」
手元のディスプレイに、敵機を示す紅の信号が灯る。その数、6機。アマミキョで感知したアンノウンだ。そのうち2機が目標地点から微妙に逸れ、風間機へと進路を変更しつつある。
「潰す気ね」風間は自分でも驚いたことに、笑った。たったひとりの死にかけ女相手に、よくもまぁザフトもやってくれるもんだ。こちらにとっては実に好都合だが。


ローエングリンの存在を察知したディン部隊が、続々とアマミキョに迫る。カラミティが必死で応戦しているが、追いつかない。頭に完全に血が昇ったパイロット・カイキは、シュラークのみならずプラズマサボットバズーカ砲=トーデスブロックまで撃ちはなってディンを迎撃する。既にシュラークは片方が壊れ、機体も関節接合部の至るところから煙を吹いている。アマミキョと電源ケーブルで繋げられているからこそ、カラミティもこれだけ無尽蔵に攻撃をしかけることが出来たのだが、機体も操縦者もそろそろ限界に来ていた。
「チグサが蘇るまで、俺は死ぬわけにゃいかねぇんだ!」周囲の被害など、既にカイキの頭にはない。おかげでディンの波状攻撃から何とかアマミキョは今のところ守られているものの、墜落したディン、熱せられた空気、巻き起こる業火ですっかり村中の雪は溶けていた。酷いところでは泥水が川をつくっている。
それでもバッタの大群の如く、ディン部隊は第3陣、第4陣と攻撃をかけてくる。汗だくのメットの中、カイキは叫ばずにいられない──「追っつかねぇ! アマミキョ、山神隊の合図はまだかっ」
その瞬間、ディンの銃撃があろうことか、アマミキョとカラミティを繋いでいた電源ケーブルを切断した。アマミキョまでを揺るがす衝撃と共に、コクピットのエネルギーゲージがカウントダウンモードに突入する。シュラークとバズーカのエネルギー消費量は実に膨大で、一瞬でゲージは85%まで減少した。
それでもカイキは攻撃を続行しないわけにはいかなかった。このカラミティのピンチを見透かしたかのように、ディンどもが一気に迫ってきたのである。


「やはり気づかれたか……こちらの意図に」
カラミティの危機を間近に見ながら、サイは唇を噛む。アムルがその呟きを皮肉るように吐き捨てる。「仕方ないわよ、あれだけバカでかい砲さらしてりゃね」
カラミティの光条は懸命にアマミキョを守っている。先ほど出撃したIWSPつきスカイグラスパーは早々にエネルギーを切らし、ハンガーへ逆戻りしていた。
だがディンはまるでカラミティを恐れもせず、アマミキョへ──ローエングリンへ向かってくる。「奴らも必死か。俺たちから大地を取り戻す為に」
サイの言葉を受けて、カズイもぼそりと言い放った。「その結果も知らずにな」
ユウナはといえば、サイの後ろに隠れるようにしながらこわごわ戦況を見守っている。「どうしたんだい、さっさとヘルダートを撃たないか!」
「村人の収容が終わってからです」サイは冷たくユウナを切り捨てながらも、避難民の収容状況を見守っていた。あちこちに分散していたアストレイが、戦いの繰り広げられる中で次々に村人たちを運んでくる。その数は着々と増え、そろそろ村の8.5割を超えようとしていた。隊員含めて全員が戦いの光に怯えきり、中には飛んできた瓦礫や炎で負傷している村人もいる。だが、どうにか救出活動は山は越えたようだ。
モニターの隅に別画面で映し出されている村人たちの様子を睨みながら、サイは慎重に砲を選んでいた。絶対に、人々に害を成すような位置の砲を選んではならない。同時に、人々とアマミキョには死んでもディンを近づかせてはならない。そこに人間がいる限りは。
この条件を満たすことの出来るヘルダートは16門中、わずかしかなかった。
サイは血染めの胸元を握りしめる。「ヘルダート、2番5番、開けっ」
火器管制を割り振られていたアムルが、思わずサイを見る。戦うつもり? 人を殺すの? ──その瞳が、問いかけていた。それはそのまま、サイの中で渦巻いていた躊躇でもあった。だが、アムルは静かに自らの仕事を続ける。「目標、捕捉」
サイは己の中の迷いを蹴飛ばす勢いで、もう一度ディン部隊を睨みつける。「照準!」
アマミキョは、俺は、戦う──ラミアス艦長やバジルール副長、そして今も病床にいるリンドーの、よく通る号令を思い出しながら、サイは声を轟かせた。
「ヘルダート、撃てぇっ!」
遂に撃った──俺は遂に、自らの判断で撃った。
サイにそんな感慨にふける暇は勿論与えられない。その火線は淀みなくアマミキョから発射され、正確にディン1機の脇腹を貫いた。盛大に火を噴き、山肌へと落ち行く機体。
キラ、フレイ。俺はとうとう、自分の手で人を殺した。
命令され機械的に手を動かしたのではなく、自らの意志で人を殺めた。人を助ける立場でありながら、民間人でありながら、人を殺した。しかも、仲間の手を使って。
身体だけでなく、心まで血に染まった──爆発したディンを確認した途端、猛烈な吐き気がサイを襲う。喉元へせりあがるばかりでなく口腔まで充満しかけたものを、サイは強引に胃袋に戻した。
「やった!」ユウナがサイの肩を押さえながら思わず身を乗り出し、歓声に近い叫びをあげる。
だがサイも他のクルーも、いささかも笑顔を見せてはいなかった。ディンの攻撃は、それでも止まることがなかったから。
仲間を撃墜されたディンはさらに攻撃性を強め、カラミティの砲をまともに受けながらもなお、アマミキョに向かって機体ごと突っ込んできたのだ。ほどなくブリッジに悲鳴が充満する。
アマミキョの上に、殆どミサイルのようになって勢いよく激突したディン。墜落に伴う爆発の衝撃は当然、アマミキョにも被害を及ぼす。身体が浮き上がるほどの震動と共に、鳴り響くアラート。
左側のサブモニターが切り替わり、船体の破損状況が自動表示される。そこには、修復されたばかりのアマミキョが次々に傷つけられてゆくさまが、紅で示されていた。「左舷ヘルダート、使用不能!」「Cブロックとの連絡不能! 船体下部Eの電源系統に異常発生」「カタパルトとの回線、遮断されました! 整備班との連絡不能ですっ」
間違いない。救助船であるにも関わらずローエングリンの砲台と化したアマミキョは、明確に奴らの敵となった。
アムルが叫ぶ。「見て、あれっ!」モニターには、胴体を撃たれ激しく火を噴き、空中を落下してくるディンが映し出されている。だがその状態にありながら、ディンは紅に光る一つ眼をぐるりとアマミキョへ向ける──その眼に睨まれ、ユウナは立ちすくんだ。「まさか、特攻!?」
サイたちクルーに呪いの眼を向けながら、火の玉となってサイたちのいるブリッジへ突っ込んでくるディン。外部に対して予備ブリッジがほぼ剥き出しである現実を、全員が恨んだ。ヒスイがコンソールに突っ伏したまま、悲鳴を上げる。「嫌アァ! どうしてそんなに私たちが憎いの?!」
「ヘルダート、5番用意! 撃てぇっ」サイは容赦なく二度目の指令を出す。同時にヘルダートとカラミティの砲線が突っ込んでくるディンを貫いたが、それでも機体の勢いは止まらない。既に死亡しているであろうパイロットの怨念を乗せて、ディンは体当たりを仕掛けてくる。サイたちを潰そうとして。
コンソール下へ逃げ込むカズイとヒスイ、反射的に眼を背けるアムル、操舵輪を握ったまま固まるオサキ。「た、助けてくれぇー!」ユウナはあろうことか、サイの腰に後ろからタックルをかます勢いで縋りついた。
代表補佐として、あまりにあまりな醜態を晒すユウナ。そんな彼に縋られながらも、サイはディンから眼を離そうとはしなかった。
「鬱陶しいっ!」思わずサイは呟く。それはディンに対してなのかユウナへの暴言なのか、自分でもサイは分からなかった。ユウナは何も気づかず、サイに抱きついたまま震えている──だがユウナを、サイは振り捨てることは出来なかった。自分より体重のあるユウナに持ち上げられそうになりながら、サイは彼をそのままにしておいた。びっしょり濡れたままの下半身にユウナの手が纏わりついている状況は正直、勘弁してもらいたかったが。
アークエンジェルでも俺はかつて、こんな場面に出くわしたことがある。あの時俺は、状況から目を逸らしてしまった──だが今は、逸らせない。多くの命を握っている限り、逸らせない。ラミアス艦長だってあの時、逃げなかった。俺たちの命を背負っていたから。
それに今の俺は、狂気に満ちている。恐怖を超える怒りに。
サイは破れんばかりに、血に濡れた胸元をもう一度握りしめた。未だに残るネネの血が、手に滲む。その眼はブリッジでただ独り、真っ向からディンを睨む。割れた眼鏡を通したディンの眼光が、亀裂で酷く歪む。その左手は素早くコンソールに走り、ローエングリンの管制プログラムを呼び出していた。人の命を奪うことに対して、最早躊躇はなかった。
殺さねば、仲間が死ぬ。撃たなければ、全員が殺される。
風間さんには申し訳ないが、ここで撃たせてもらう。こいつらを撃滅してやる。集中している今がチャンスだ。
俺の怒りよ、ネネの恨みよ、奴らを潰せ。叩き潰せ。神よ、もし存在するならば答えろ、俺の憤怒に!
その静かなる激昂が通じたか──
<あんまり俺たちを、ナメんじゃねぇ!>
ブリッジに突如飛び込んできた叫びと共に、目の前のディンの頭部が粉砕された。
頭部どころか、機体全てが一瞬で千を超える細かな破片となり、炎と化して弾けていく。サイたちを睨み、サイが睨み返していた一つ眼の光も、爆炎に呑まれる。
3秒後にサイはやっと、ディンが横から薙ぎ払われた形で散ったことを認識した。同時に、虎の子のローエングリンをみすみす撃たずにすんだことも。「その声……」
サイの目の前の甲板は今、炎で染まっていた。黒い雪のように降りそそぐディンの小さな破片。その中に屹立する、巨大な人型の影──それは、紅と白に彩られたオーブの機体・ムラサメだった。
真紅に輝くビームサーベルを手に、サイたちを守るように敢然とディンどもの前に立ちはだかる。そのコクピットからの通信は、実にクリアだった。<間に合ったな、サイ!>
あぁ──サイはため息と共に呟く。君もやはり、戦いへ戻るのか。
「スティング……やっぱり、スティング・オークレーか!」
ブリッジが一瞬安堵の空気で満ちていく中、サイも思わず喜びの声をあげる。
だが手放しで喜ぶことなど、とても出来るサイではなかった──ネネの血は、サイを人殺しにするばかりでなく、スティングを凄惨な戦いへと戻してしまった。ネネはスティングを戦わせることを、ひどく躊躇していたのに。
助けられたことに単純に喜びながらも、サイはネネに謝罪せずにはいられなかった。

 

つづく
戻る