どんよりと曇り、豪雨の降りしきる北チュウザン・ヤハラ。連合軍チュウザン駐屯部隊・山神隊司令室では、山神少将が伊能大佐の報告に聞き入っていた。
「どえらい騒ぎだったぜ、全く。だから、きちんと躾けとけって言っただろうが!」
アマミキョの瞑想室の前の通路で、サイはハマーに一方的に怒鳴られていた。こんな話を聞かされては、サイも血まみれの制服のままうなだれるしかない。「申し訳ありませんでした」
そんなサイを上から睨みつけながらも、ハマーは若干口調を和らげた。「……ま、補欠どのにはどだい無理な話だがな。船が何とかあの村から脱出出来ただけでも奇跡ってなもんだ。
とっとと服着替えろ、何日その恰好でいる気だ? もう警戒態勢は解かれてんだぞ」
ハマーはポケットに手を突っ込みつつ、瞑想室の方向を眺める。「あのシスコン兄貴が怪我したことに感謝すべきだな。もし兄貴があの場にいようもんなら、奴は銃殺されてたぞ」ハマーはそんな捨て台詞を残し、頭を下げるばかりのサイを振り返りもせずその場を去った。
全くその通りだろうとサイは思いながら、瞑想室に通じるクリーム色のエアロックを開いた。瞑想室とは名ばかりの、命令違反者収容施設──かつてアマクサ組統制の象徴とされ、違反者でごった返していたその牢獄は、今は殆ど人の姿はない。
差し込む光は廊下からの一筋のみの、がらんとした部屋。その隅で、抹茶色のパイロットスーツのままでナオトが体育座りをしていた。ナオトは照明一つつけず、真っ暗な黴臭い室内でじっとうずくまっている。そんな少年の上に、廊下の照明を背にしたサイの影が重なった。
サイの方を見ようともせず、ナオトはただ唇を噛みしめていた。サイは静かに口を開く。「ナオト。マユを殺そうとしたというのは本当か?」
「だって!」ギロリと大きな眼が自分を睨むのが、暗闇の中でもはっきり分かった。逆光の中でサイの血まみれの制服を見、ナオトは一瞬はっと息を呑む。
そういえば自分とナオトが直接顔を合わせるのは、作戦開始以来だったな。驚くのも無理はない──サイは懐かしさにも似た感傷で出撃前を思い浮かべる。あの時にはネネも、風間曹長も、メルーも、確かに生きていた。
だがそんなサイの心も知らず、ナオトは叫ぶばかりだった。「だって……マユはメルーを死なせたんだ」
鉄格子で分断され、縮まらない二人の距離。サイは何を言ってもどうにもならないことを分かりながらも、言葉を連ねた。「コクピットで、マユの首を絞めようとしていたそうだな。
彼女はお前と同様、ティーダの貴重なパイロットで、アマミキョの運用にも欠かせない存在だ。そして何より、大事な俺たちの仲間だ──それは、分かるな?」
「マユは嫉妬してたんですよ、メルーに」サイの血から眼を逸らし、ナオトは吐き捨てる。その意味を、サイは一瞬では理解出来なかった。「何を言ってるんだ? 彼女は……」
「マユは僕が欲しかったんだ。だから、僕がメルーの処にいるのを嫌がった。
サイさんは知らないでしょうけど、マユはメルーのおにぎりを捨てたんですよ!」
ナオトの言わんとする処が、サイにも何とかおぼろげながら掴めた。責任転嫁したいわけか──無理もないが。「だから、マユは任務を放棄したと言うつもりか? メルーを拒絶したと? 戦闘ログを見る限り、彼女は真っ当に任務を遂行していた」
「ログだけ見ればそうでしょうよ! 確かにマユは、直前まではメルーを助けようとしてました、でも肝心な時に手を抜いたんですっ」
あまりのナオトの言いように、サイの言葉にも次第に冷たい怒気がこもる。「ナオト。マユはそんな行為が出来る娘か?」
「出来るようになってしまったんですよ! 僕を独占したかったんだ、だからメルーを助けなかったっ」
「確かにマユは、最初は人を平気で傷つける女の子だった。だが、君に出会ったことで、彼女は少しずつ変化してきたんだ。それは、君にも分かるな?」
サイは敢えてナオトに対する二人称を変化させ、静かに言い含めるようにナオトに語りかける。それはサイなりの、怒りの表現でもあった。「ビームが発射された時、ハッチの外へ出ていた君を彼女は必死で引き戻した。あの状況で操縦桿から手を離すことがどれだけ危険かは、彼女は十分理解している」
「マユは僕と違って、戦闘のプロですからね」ナオトはサイを振り向こうともしない。耳を塞ぎたいとでもいうように、身体を丸めるばかりだ。
だがここは、言って聞かせなければならない。それが自分の役目だ──サイは鉄格子を叩いて喚きだしたい衝動にかられながらも、震える拳を押さえきった。「にも関わらず、マユは君を助けることを優先した。少し前の彼女じゃ、考えられないよ。
結果として、メルーとおばあさんを失ってしまった。俺だって本当に悔しいさ。だが、あの状況下ではマユは最善の選択をしたと、俺は思う」
「どうせサイさんも、僕が軽率だったって言いたいんでしょ!」ナオトはサイの静かな言葉に耐え切れず、サイに噛みつかんばかりの勢いで吠えた。
それでもサイは、無表情を貫き通した。「違うよ。君もマユを信じたいはずだ──それだけ言いたかった」
ナオトはゆっくり顔を上げる。暗闇に慣れてきたサイの目に、ナオトの頬の涙の跡と、目の下の濃い隈、そして何度も殴られ腫れ上がった唇が見えた。僅かに開いたパイロットスーツの胸元の間では、お守りが揺れていた。ナオトの同僚だった、フーアの爪が入れられたオーブ風の布製のお守りだ。あれを作ったのは──
「軽率だったかどうかは、自分で考えろ。そして、二度と同じ状況にならないようにするにはどうすればいいか、よく考えろ。
何より大切なのは、ゆっくり休むことだ。君は疲れすぎてる」
ナオトは何も答えず、サイの全てを拒むように膝の間に頭を埋め込んだ。それでもサイは言う。これだけは、言っておかねば。「そのお守り、大事にしろよ。
ネネ・サワグチ看護士が亡くなった。葬儀は他の犠牲者や風間中尉と共に、チュウザンで行なう予定だ」
サイが去り、瞑想室内は再び闇に包まれる。
ナオトは改めて、お守りの重さを感じ取っていた。フーアにアイム、そしてこのお守りを作ってくれたネネまでがいなくなった──
紅の刺繍が入った、白い小さなお守り。それを握りしめながら、ナオトは殴られた頬の痛みを思い出す。同時に、焼かれたティーダの手も。
分かっている。僕にだって分かっている。あの時マユが引き戻してくれなければ、僕も死んでいたということぐらい!
黙示録の光の中で一番近くにいて、お互いの心は分かっていたはずだ。あの時、マユの卵のような心は確かに、一心にメルーを助けようとしていた──
しかし、メルーの壮絶な死にざまが、ナオトの心を激しくかき乱す。大事なものを守れず、かく乱され、疲弊しきったナオトの心は、またも真実を見ることから逃げていた。
ナオトの耳に、マユの声が蘇る。──私は、もうメルーを感じない。どこにも。
どれほど耳を塞いでも、あの直後の彼女の声はナオトを逃がさなかった。マユ、お願いだからそんな言い方はやめてくれ! 頼むから、もうやめて!
──多分、ティーダの腕が動いたから、黒ジンは撃ってきた。メルーたちがいると分かっていれば、さすがにザフトも撃ちはしなかったはずだよ。
やめて。もう言うな、何も言うな!
──多分、攻撃されると思ったんだよ。だから黒ジンは……
「うるさい、うるさい、うるさい!
メルーに冷たくした癖に、助ける気なんかなかった癖に、僕のせいにするな!」
耐え切れずにマユの首を絞めた時と同じ言葉を、ナオトは吐いていた。あれはちょうど、アマミキョのハンガーに帰還した直後だった。
一番守りたかったはずのマユの首を──僕は、この手で、絞めた。
後ろから響くマユの言葉を、僕は聞いていられなかった。パイロットスーツごしに彼女の細い首を捕らえ、座席の上で馬乗りになって──黒ハロが蝿のように跳ね回って、ハッチが開いて、僕はマユから引き剥がされて、マユはどうにか助かったけど。
「マユが悪いんだ」それ以上思い出すことを拒み、ナオトは脚の間に頭を伏せる。空調もろくに効かない瞑想室は、ただ凍るように寒かった。
「何で、来てくれなかったんだよ。アークエンジェル……」
瞑想室から出てきたサイを出迎えたのは、心配そうに自分を見つめる子供たちの、12個の瞳だった。
ハーフムーンから生きのびたこの子供たちは、故郷の壊滅と友達の死という現実を理解した直後は、皆で肩を抱き合いすすり泣いていた。しかしどうやら、僅かばかり生気を取り戻したらしい。
エイミーと呼ばれた女の子が、サイの膝にすり寄った。「ナオトは、大丈夫?」
男の子たちも心配げにサイを見ていた。「怪我したって、ホントかよ?」「あいつドジだし、心配だよな」
血まみれのサイを見ても、もう子供たちは動揺もしなかった。それ以上の惨劇を、彼らは純な目で見てきてしまったのだ。
サイは子供たちの目線にしゃがみ、ゆっくり笑顔を見せる。「大丈夫だよ。ただ、ちょっと心に怪我をしてね」
彼らの中でも一番幼い、6歳ぐらいの女の子が、サイに包みを差し出した。「バンソーコーで、治る? これ、ナオトにあげて」
「ありがとう。でも大丈夫、俺がバンソーコー貼ってきたから」
貼るどころかえぐっただけかも知れない分際で何を言っている。そう思いながらも、サイは笑顔を崩さない。だが、そんなサイに女の子は言った。「じゃあ、お兄さんにあげる」
「え? 俺は別に……」
「血、いっぱい出てる」
これは違う、人の血だ。大事な人を守れず、大事な人を殺し、大事な人を傷つけることしか出来ない、無能な男の象徴だ。
そう叫びたかったが、サイは微笑みを貼り付けたままその絆創膏を受け取った。子供の瞳を前にして、醜態を晒すような真似は出来ない。
「ありがとう。早く戻って、おやすみ。あと二日でオーブ行きの船に乗れるはずだ」
瞑想室を心配そうに見やりながらも、サイの優しい言葉で子供たちは素直に戻っていく。小さな姿が通路の向こうに消えた瞬間、サイはどっと疲れを感じた。
ハーフムーンを脱出してから約40時間、ろくに眠りもせずに船内を走り回っていた。避難民への状況説明、被害の確認、情報整理、ザフト残党の警戒、モビルスーツと船体の修復、やることは無限にあった。ようやく10分ほど時間が取れた今やっと、ナオトと顔を合わせることが出来たのだ。
ネネの血はすっかり固まり、ベージュの制服の上に派手にコーヒーでもぶちまけたような、褐色の染みと化している。
少しの間だけでも壁にもたれかかろうとしたその時、不意に背後から声がかけられた。
「見事だったな、サイ」
随分久しぶりに聞くような気がする、愛しいはずのその声。だがその女の声は、今のサイにとっては怨みをぶつける対象にしかならないものだ。にも関わらず、声は続く。
「村民の避難と、急造ローエングリンの発射、そして地殻変動の被害の抑制。厳しい条件下で、よく戦った」
「相も変わらず、上から目線なんだな」身体中が怒りで熱くなる。近づいてくる足音。鉛入りの靴の音。
「おかげで、アマミキョは危険区域を脱した。お前がここまでやるとは思わなかったぞ」
「……犠牲も大きかったっ!」吠えずには居られなかった。振り向くが早いか、サイは相手の襟ぐりを掴み、その背中から壁へ叩きつけていた。相手──フレイ・アルスターは、全く抵抗しなかった。
「君がいれば!」サイは溜め込んだもの全てを吐き出すように叫ぶ。「君さえいれば、もっとスムーズに出来た! ネネも、風間さんも、メルーたちだって死なずにすんだかも知れないっ」
抑えに抑えてきた感情の洪水は止まらない。頭では支離滅裂な発言をしていると気づいていても、サイは自分を止められなかった。フレイの首を絞めつけるように、サイは彼女をひたすら壁へと押しつける。
不思議と、フレイからの抵抗はなかった。彼女はただ、じっとサイを見据えていた。サイの言葉一つ一つを心に刻み付けるように、真摯にサイを見ていた。その群青の瞳には冷酷さも哀れみもなく、ただ純にサイを見ていた。
「俺は何も出来なかったんだ。ネネと子供たちを目の前で死なせた、スティングを戦わせた、風間さんを殺した、アマミキョを戦う船にした、この手で村を滅ぼした!
メルーたちもいなくなって、マユもナオトも傷ついたのに、俺は何も出来なかった! 二年前と何一つ変わっちゃいないっ、俺は!」
フレイはサイに押さえつけられたまま、おもむろに口を開く。「私がいたところで、結果はさほど変わらなかっただろう。ザフトの今回の作戦は防ぎようがなかった、ハーフムーンの壊滅は避けられなかった。同じように風間中尉は志願したであろうし、お前はローエングリンを撃ったはずだ」
「でも、ネネや子供たちや村人は助けられた!」畜生、汗ばかりが出てきて言葉が継げない。これじゃ、さっきのナオトと何も変わらないじゃないか。フレイの前で駄々をこねる子供じゃないか!
身体は熱くなりすぎて、胃から何かがこみあげてくる。
フレイは口調を崩さず、静かに言った。「無理だ。今のお前に助けられないものは、私でも助けられない」
それは、もしかしたらかなり上級の褒め言葉だったのかも知れない。だが今のサイにとっては、感情を逆撫でする言葉でしかなかった。「何処に行ってたんだよ。俺たち放っておいて、何処に行ってたんだよ! それでも……」
傭兵か、と叫びそうになって、サイは自分の浅はかさに気づいた。
フレイを掴んだ手から力が抜けていく。何と身勝手な男だろう、俺は。キラやナオトやスティングにしたのと全く同様に、俺はよりにもよってフレイを、戦うように仕向けている。戦えと責めている。命がけで戦わなかったことを責めている。
自ら内包し続けている矛盾に改めて気づかされ、サイは愕然とした。
「冷静になれ」そんなサイの心情をよそに、フレイの言葉は流れる。「状況から考えて、私はカイキと共にアマミキョの守りに徹することになっただろうし、あのディンの猛攻はアフロディーテでも防ぎきれない。その点で、ムラサメの出現は全く幸運だった」
「そうだよ、その通りだよ」フレイを壁に押しつけたまま、サイは呟く。血混じりの汗が、二人の間の床に落ちた。「スティングは俺たちを助けてくれた。そのかわり彼は再び戦うことになってしまった……キラを俺が戦わせたのと同じに! でも俺は彼に、何も返しちゃいない。何も返せない」
サイの身体は嗚咽と共に、フレイの前で崩折れかかっていた。「自分は何も出来ない癖に、人を戦わせたがって、出来なければ責める。
最低だ、俺は」
その言葉が引き金となったかのように、サイの全身から力が抜けた。
呪詛のように絶望感が血管を駆け巡り、寒気が体内から湧き上がる。全身が痙攣でも起こしたように震えだし、関節やら皮膚の内側の肉やらが猛然と悲鳴を上げ始め、額からどっと汗が噴出した。
「アマミキョを守ることが、私の使命だ。お前を副隊長補佐に任じたことで、その使命はまっとう出来たと思っている。サイ──よく頑張ったな」
そんなことを言わないでくれ、フレイ。こんな最低な男を慰めるようなことを言わないでくれ。いつもの君なら、ここで俺を張り倒すぐらいのことはしているんじゃないのか。
身体が、コントロール出来ない。サイは遂にふらつきに耐えられず、両膝をついた。
フレイもようやくサイの異変に気づく。「サイ? どうした」
いけない、こんな時に、こんな処で倒れては──そんなサイの意志にも関わらず、フレイを絞めようとしていた手はいつしか、彼女にすがりつく恰好になっていた。
薬で抑えていた頭痛がぶり返し、鉛の塊が目の奥を叩くかの如き痛みが襲ってくる。吐き出す息は炎のように熱いのに、ひたすらに寒い。「サイ? ……おいっ!」
そのまま床に崩れ落ちかけたサイを、慌ててフレイが両腕で抱き止めた。
「この」フレイが慌てる声なんて、初めて聞いた気がする──その白い手がサイの額に触れる。薄れて揺れ続ける視界でも、フレイの顔色がさっと変わるのが分かった。
全く、ナチュラルの身体というのは、なんと貧弱なのだろう。何度噛みしめたか知れないその無念を抱きながら、サイはフレイに身を委ねるしかなかった。
「あれぇ?」作業艇ハラジョウ内部で、ニコルは彼にしてはすっとんきょうな声をあげた。
「どうした」気づいたミゲルが寄ってきて、背後からニコルの操作するモニタを覗き込む。「おやおや。こいつはちっと予定外だぜ、姐さんよぅ」
二人が眺めるモニタには、倒れたサイを抱きしめるフレイが映っている。そして彼女は、彼らとしては少しばかり複雑な思いに囚われる行動に出ていた。
「ちょっくら、常軌を逸してねぇか。また殴るハメになるかな」ミゲルの口元は僅かに歪んでいたが、決して笑ってはいない。
「いえ……フレイはちゃんと、今回の任務は果たしています。アマミキョを放り出してまで拾いに行ったんですよ、彼女を。ミゲル先輩は見てたんでしょ、わざわざ潜水してまで……」
「だからこの程度は許されるってのか? 人生の先輩としてはな、こいつはちょっと放っておけねぇ事態に見えるんだよ。やはり御方様に連絡した方がいい、今のままじゃチグサ計画遂行にも支障が出る」
口調は軽いが、ミゲルの言っている内容は手厳しい。だがニコルは淡々と反駁する。「先輩は、そんなこと考えてもいない癖に」
「ほう。いっぱしの口きくねぇ」
「僕らとフレイが決定的に違う点──それは、人格です。
僕らは唯一、今ある人格しか持ちません。その点で僕らは他の人間と何ら変わらない。でもフレイは……」
「んなこた先刻承知だ」ミゲルは強引にニコルの言葉を切った。「だから彼女は苦しんでる。だがニコル、それが御方様が彼女に与えた罰だ」
「何の罰だっていうんです」
「俺流に訳せば、生まれてきたことの……になるな」
ニコルはつい、とモニタから車椅子を遠ざける。フレイとミゲルから逃げるように。「僕らが何もしなくとも、いずれ船内の行動ログは全て御方様がご覧になる。僕らの姫のものは、特に念入りにね」
だがミゲルは、逃げるニコルの車椅子の背を強引に掴んだ。「俺はフレイの為だけに言ってるんじゃない。このまま放置すれば、サイが消される危険だってあるんだぞ」
「彼に肩入れする理由がありますか? 僕らに」珍しく怒りを露にした表情を見せるニコル。だがミゲルは、睨みつつも笑ってみせた。「そりゃ、俺がお前にしたい質問なんだがなぁ」
アマミキョのハンガーでは、ティーダの装甲が念入りに洗浄されていた。その横では、大破したカラミティが焼け焦げた機体上部を修復中だった。アマミキョを守ってきたシュラークは無残にちぎられ、修復の目途もたっていない。
キャットウォークの上から、マユはその二機をぼんやりと眺めていた。だが、やがてその視線はティーダの左掌に注がれていく。
メルーたちが命を散らせ、体液のこびりついたあの掌に。
マユは自分の首もとをそっと撫ぜてみる。ナオトに絞められた時の痣が、まだ残っていた。
そんな彼女に、ラスティが声をかける。「おまちどー。約束のブツだ、お嬢様」
手のひらほどの油紙に丁寧にくるまれたそれを、マユは大事そうに受け取った。洗浄作業で油塗れになった整備服をびらびらと乾かすふりをしつつ、ラスティは笑う。「しかしマユ、こんなもの渡したって、ナオトが回復するとは思えんぜ。お前にゃまだ分からんだろうけど、人間の心の襞ってヤツはホントに……」
「いいの。私がそうしたかったから」マユは包みを抱きしめる。愛おしいぬいぐるみを抱きしめるように。「これは、メルーがいた証だから。ナオトを大切に思う子がいた証だから。
ありがとう、ラスティ」
そう言って、マユは走り去る。ラスティはその小さな後ろ姿とミニスカートを眺めながら、不機嫌そうに吐き捨てた。血でも吐き捨てるように。「いい子に……育っちまったな。こん畜生」
清潔なクリーム色の天井の一室で、サイは目を覚ました。頭痛と熱はまだひかないが、身体中を支配していた寒気は幾分か治まっている。
頭を回すと、左腕に刺さっている注射針と、その先の点滴が見えた。そして──
「気がついた?」心配そうにサイを見つめ、額に手を当ててくるフレイが、そこにいた。
口調と表情からすぐにサイは分かった──元のフレイだ。アークエンジェルの騒ぎ以来ろくに話も出来なかった、元のフレイ・アルスターだ!
「フレイ、君は!」慌てて起き上がろうとするサイを、フレイは両腕で組み伏せた。「まだ動いちゃ駄目」
「ここは? 医療ブロックじゃないな」フレイの指示におとなしく従いつつも、サイは素早くあたりを見回した。医療ブロック特有の、あの喧騒や臭気が殆どない。
「アマクサ組用にとってある医務室よ」フレイがサイの左腕にそっと触れながら呟く。「今サイが倒れたことを知られたら、船中大騒ぎでしょう? だから、死体に偽装して、こっそり運んできちゃった」
シーツか何かを無理矢理頭から被せられて運ばれたような記憶は、そのせいか。しかしウインクしながら言うことではない。
「だから、このことはスズミ先生とアマクサ組以外、誰も知らないわ」
血まみれの制服は既に脱がされ、薄いブルーの病院着に替えられている。眼鏡はいつの間にか外されて、枕元のサイドテーブルに、薬や水と一緒に置かれていた。乾いた清潔な布地に触りながら、またフレイに裸にされたのか……などと、サイはどうでもいいことを考えた。「俺の制服は?」
「捨てた」フレイは部屋の奥の洗面所に洗い物を運びながら、背中を向けてぶっきらぼうに答えを投げつける。「洗って落ちる汚れじゃないわ。それとも、ずっと着てるつもりだった?」
ネネの血が、魂が染み込んだとも言える服だった。鎮魂の意味でも、せめてチュウザンに帰るまではとっておきたかったが、それはサイの感傷にすぎない。「それこそ、ネネに失礼よ」
いつまでも拘っていては前に進めない。フレイのそっけない言葉は、そんな意味をこめているようにも感じられた。
「……久しぶりだな。こうやって、落ち着いて話をするのは」
戻ってきたフレイはサイの額のタオルを替えながら、ゆっくり頬に手を当てる。冷たい指の感触が気持ちいい。「そうね。アークエンジェルでは、サイにとても酷いことを言ってしまった。その前の雨の晩も……ごめんなさい」
「あれも、君なのか。あの時、キラを脅していた君も」
キラを傷つけ斧を振りかざし、炎の中で狂乱したフレイを、サイは絶対に忘れることなど出来なかった。だがあのフレイこそが、彼女の真実に近い気もするのが皮肉だ。
フレイは目を瞑りながら、ベッドの横の椅子に腰掛ける。そしてあっさり答えた。「そうよ、あれも私。多重人格ではない、フレイ・アルスター本人よ。
キラもサイも傷つけ続けて、実は自分を一番深く傷つけていた、馬鹿な私。あれも、フレイ・アルスターの真実よ」
「今の君と、同一人物とは思えない……同一人物だったら嬉しいけどね」「そうなの?」
「君があの時叫んでくれて、俺はかえってほっとしてた。やっと君の本音が聞けたと思った。二年前、君は何も話さずに消えてしまったから。だから、嬉しかった」
喉までが痛んできている。サイは軽くせきをしながら、そばの水を飲んだ。コップを取る手に、フレイは自分の手を添える。
「私はね……サイ。人はひとつの人格のみで形成されるものじゃ、ないと思うのよ。
暴れる私、冷徹な私、優しい私、朗らかな私、弱い私。その時々で、人は様々な人格を使い分ける。時には、一個の人間としては実に一貫しない、矛盾した行動を取ることもありうる。
その矛盾が積み重なって、人は創られるんだと思うの」
「君は、その矛盾の集大成だな」
部屋の空気は暖かく、湿度も調整されている。こんなゆったりした環境で身体を休めたのは何ヶ月ぶりだろう。しかもそばには、あれほど欲してやまなかったフレイがいる。元のフレイが微笑んでいる。
「そんなこと言うけど、サイだってそうでしょ? ニコルが言ってたわ、ローエングリンを撃った時のサイは別人だったって」
「思い出させるなよ」駄目だ、俺は彼女に甘えてはいけない。何も出来なかった俺に、フレイに縋る資格などないんだ──フレイから視線と身体を逸らすサイ。動くだけでもまだ辛い。「それより……君の記憶は。全て戻ったのか」
「全部かどうかなんて、分からないわよ」「キラのことは?」
数秒の沈黙。そして、フレイの神妙な声が響く。「サイ。そのことだけど……もう、やめない?」
「どういう意味だよ」
「あのね。ついさっき入った情報なんだけど……フリーダムが、討たれた」
思わぬ一言に、サイは跳ね起きる。途端、激烈な痛みが脳天を直撃した。フレイが慌てて両肩を押さえにかかった。「馬鹿! 動いちゃ駄目って言ったでしょ!」
「何で!」サイはフレイの手に抗い、叫ぶ。頭痛に耐えきれず左手で額を押さえながら、右手はフレイに組みついていた。「何で、何でキラが……アークエンジェルは!? ミリアリアと代表は! 通信網は回復したのかっ」
「落ち着いて」フレイは首を振るばかりだ。「アークエンジェルの信号は何とか受信出来るけど、詳しい情報は何も入ってない。ただ、出撃が確認されたフリーダムからの信号が、完全にロストしているの……お願いだから、落ち着いて」
懇願するようなフレイの目を前に、サイはようやく手を離して身を横たえた。「あんなことを続けていれば、当然か」そうは言いながらも、力が一気に抜けていく。今までサイを支えていた全ての柱が、崩壊していく感覚。
フレイに、キラの記憶を取り戻させる。キラを好きでいた記憶を──ただそれだけの為に、俺はここまで来た。フレイとキラが本当に和解し、融和出来るならば──
その為なら、俺は命だって投げ捨てる。それが、キラを理解出来ず、フレイを切り捨ててしまった俺の贖罪だ。
なのに、そのキラが消えた? 自業自得とはいえ、これほどまでにあっさりと?
「いや……」サイは乾いた唇で喘ぐ。無理矢理に身を起こしながら、支離滅裂に叫んだ。「生きてるはずだ。キラは生きてる! 二年前だってそうだった、ストライクが討たれた時だって、キラは生きてた。生きて、俺たちを助けてくれたんだ!」
「サイ! 落ち着いてっ、キラが生きていようとそうでなかろうと、今は身体を治すのが先よっ」
フレイは両腕で強引にサイをベッドの上に組み伏せる。今にも相手に喰らいつこうとする猫のように。「キラもおかしいし、私もおかしいことは分かってる。ナオトもマユも、酷いことになってしまった。
でもねサイ……一番おかしいのは、貴方よ」
「俺の、何処が?」フレイの力に抗えず、激しい息の中でサイはそれだけを呟く。
「貴方と再会してから、ずっと不思議だったことがあるの。
サイ。貴方……どうして、泣かないの?」
アマミキョブリッジでは、カズイがアムルと共に状況の確認を続けていた。船は既に山脈を抜けつつあった。オーブ軍の戦艦に引っ張られるような形で。
苛烈な戦いを切り抜けたブリッジは、静かだった。オサキもヒスイも黙ったまま作業を続けている。ネネの死を知らされた時は、二人で肩を抱き合い号泣していたものだが、今は決意を固めた表情でそれぞれがコンソールパネルに向かっていた。
だが、カズイは戦いの衝撃からまだ立ち直れていなかった。アムルをチラチラ見ながら、ふと呟く。「リンドー副隊長……どうしたんでしょうね」
「まだ治療中だそうよ」アムルはカズイを見もせず答えた。リンドーに対しても、アムルの言葉は冷静だ。「脚の切断は確実だそうだから、ブリッジには戻れないかもね」
カズイは手を止める。「そうなると、ずっとサイが副隊長役ってことか」
「そうとも限らないわ。だいたいこの人選はセイランが勝手に決めたことなんだし、チュウザンに着けばいくらでも代わりが来るわよ」
そこでアムルは初めてカズイを振り返り、微笑んでみせる。「サイ君のこと、心配なのね」
「そんなんじゃ、ないです」カズイは思わずぷいとそっぽを向く。サイへの嫉妬心を見透かされた気がした──サイはローエングリンの発射までやってのけて、見事にアマミキョを危機から脱出させた。それに比べて俺は、吐いて震えていることしか出来なかった。
一体何の為に、俺はサイにもう一度ついていったんだろう。こんな気持ちになる為に、サイについていったんじゃない。俺は、もう逃げないと決めたのに。
と、そこへオサキが割り込んできた。「そういや、サイ見ないけど、どうした?」
「アマクサ組のトコでミーティングだってさ」カズイは心を覗かれまいとして、わざと不機嫌そうな態度をとってしまう。
しかしオサキはそんな心の機微には気づかない。「へー、やったじゃん! やっとサイも、今回の件でフレイに認められたってことかぁ?」
素直にサイの功績を喜ぶオサキに、ヒスイが調子を合わせてきた。「もしかしたら、お二人でいい感じになってるかも知れませんね」ヒスイには珍しく、明るい表情だ。
「しっぽりやってるってことかぁ! やったなサイ、これほど嬉しいことはないぜ」オサキは本心から嬉しそうに、ヒスイの肩を引き寄せて思い切り抱きしめる。ヒスイは真っ赤になりながらもそれを受け入れた。「お、オサキさん、そーいう発言やめましょうよ」「いいってことよ! ダチが幸せになって、嬉しくない奴がいるかよ」
だがカズイには分かった。オサキもヒスイも、悲しみを忘れようとして、不自然に快活に振舞おうとしていることが。そうしなければ、喪失感で押し潰されてしまうから。
そういえば、ネネがいなくなってから急に、オサキとヒスイはお互いスキンシップを取り合うことが増えてきた気がする。そうやって、生きていることを確かめ合っているのか。彼女たちの接触は、女同士だからこそ出来る生存確認手段なのか。
カズイは勿論、そんな女性たちの輪には入れなかった。そしてアムルも、つと席を立つ。「それじゃ、カズイ君あとでまた。制御室のエラーチェックしてくる」
そのまま立ち去るアムルに、その背中をじっと見つめるしかないカズイ。アムルが出て行くが早いか、オサキが盛大に突っ込んだ。「冷てぇなー。とっとと諦めろってカズイ、あんな女」
びくりとカズイはオサキたちを振り向く。ずっと、アムルへの想いは隠していたつもりだったのに。「お、俺はアムルさんのことは、別に何も……」
オサキが今度は遠慮なしにカズイの肩を抱く。「バーカ。バレバレだっつーの」
「そ、そんな……嘘だ」乱雑に開かれたオサキの襟元から、大きな胸が丸見えだった。すかさずヒスイも突っ込む。「私でも分かりましたよ。ってことは、船内中が分かってるってことです」
自虐的とも言える台詞を何故か自慢げに喋るヒスイ。人見知りの彼女にしては、異常なほどのテンションの高さだった。
「隠せてると思ってんの、オマエだけー」オサキはぺろっと舌を出してみせる。しかし、彼女らにしてみればただの他人のラブコメにすぎないかも知れないが、カズイにとっては衝撃的な問題だった。
「じゃあ、もしかして……本人も?」真っ赤になって震えだすカズイ。もはや作業どころではない。しかし構わず、ヒスイは容赦なく言葉を継ぐ。「当然気づいてるでしょうに、つれないですよね」
「あの女はそーいう奴なんだよ」オサキはカズイから手を離すと、うーんと背伸びをしてみせた。「仕事見てたって分かるだろ、手ェ抜くだけ抜いて面倒なトコは他の奴に丸投げ、コーディネイターってのが信じられないね。サイとの事件だって、今考えたらおかしなことが多すぎるぜ。ホントは自分がミスったのを、サイに押しつけようとしたんじゃねーの?」
「彼女はそんな人じゃありませんよ!」カズイは思わず立ち上がった。「僕の業務のフォローもしてくれるし、いつも優しいし! お母さんと恋人を同時に亡くしたのに、健気な人です」
カズイの真剣な叫びに、オサキとヒスイは一瞬黙り込んでしまった。が、オサキはすぐに、勘弁してくれとでもいうように両手を振る。「お前な、ホント現実見ろよ。あの女がまともにお前を相手にするわけ……」
「お、オサキさんってば」ヒスイが慌ててオサキの口を塞ぐ。暴れるオサキをそのまま押さえつけながら、ヒスイは黒い前髪の間からカズイに微笑んだ。「カズイさん。私、チュウザンの言い伝え、聞いたことあるんです」
「言い伝え?」
「星祭りの夜に、男性が女性に贈り物をすると、そのカップルは結ばれるんですって。ヤハラに帰る時ってちょうど、その時期ですよね」
思わぬヒスイの提案に、カズイは尻込みを隠せない。「お、贈り物ったって、俺にはそんな金もないし。アムルさんに似合うようなもの、何も買えないし」
「た、大切なのはハートですよ」カズイ同様どもりながらも、ヒスイは明るかった。「何をどのように贈るのか、それを考えることこそが、最大のプレゼントなんですよ」
「そーそー。それで無理なら、いさぎよく諦め! あっはっは」
喪失感を振り払おうとする二人の異様なテンションに怯えながらも、カズイはその提案にいつしか惹かれていた。「プレゼント、か」
「泣けないんだ、俺は」アマクサ組の医務室で、サイは眼鏡をかけるふりをして視線をフレイから外していた。「涙が、出ない。多分、涙腺が壊れてるんだと思う」
「いつから?」フレイはサイにタオルケットをかけながら、静かに問う。
「二年前……君を亡くした時からだ。
あの時、俺たちは生き残ることに精一杯だった。キラもミリアリアもラミアス艦長もクルーのみんなも、アスランも代表もラクスさんもみんな必死だった。戦いが終わった時にはみんな抜け殻だった……それでもオーブに帰るまで、かけずり回ってがむしゃらに働いた。
そのうちに、俺は、自分がちっとも泣いていなかったことに気づいた」
「貴方のことだから、泣きじゃくるキラやミリィを慰めてばかりだったんじゃない? 自分が泣く余裕なんて……」
フレイはどこまでも優しく、サイの手を握りしめている。サイもその細い指を握り返そうとするが、力が入らなかった。「そうだったかも知れない……だけどその後も、いくら君のことを考えても、泣けなかった。母さんが俺の話で泣いた時も、トールの家に挨拶に行った時もだ。誰のことを考えても、何を思い出しても、泣けなかった。
みんなが泣いている時に、俺だけが泣けなかった。その後何が起こっても、埃が目に入った時以外に俺は泣けなくなった」
フレイは黙ってサイの額の汗を拭く。サイは視線を逸らしたまま、訥々と語り続けていた。「君がいなくなったのに泣けなかった俺には、もう泣く資格なんかないってことだ。
そんな俺の命に、価値なんかない。誰も守れない、戦えない、何も出来ない、大切な人が傷ついて死んでいくのを見ているしかない、そんな俺に。
それなら、何も出来なくても戦いに飛び込んで死んだ方が、まだマシだ」
熱のせいだろうか。サイはフレイに、いつしか心情を吐露していた。ずっと隠しておくつもりだった想いを。自分でも世界で一番みっともないと思える姿を、サイはフレイに披露していた。
「それが、貴方の行動理由だったの? サイ……だから今まで、酷い無茶をやり続けたの?」
「俺の血で、みんなが助かるなら。君やナオトやキラが少しでも救われるなら、俺は五体バラバラになって焼き殺されたって構わない。その気持ちは、ネネや風間さんに対してだって同じだった。なのに俺は……」
「馬鹿なこと言わないでよ! そんな風に命を投げ出されたって、嬉しくもなんともないわ!」突然サイの台詞を強引にぶった切り、フレイは紅の髪を揺さぶり立ち上がった。サイの手が叩き払われる。明らかに激昂していた──
が、サイの神経はそんな爆発にも即座に対応出来ないほど磨耗していた。眉をつり上げるフレイを眺めながら、サイはぼんやりとした目で呟き続ける。「嬉しがられるつもりはないさ。ただ、助かってくれればいい」
「ミリィとナオトの言葉を忘れたの? 命がけで誰かを助けたって、貴方がいなかったら、本当に助けたことにはならないのよ! 風間中尉に命を投げ捨てられて、それが身に沁みて分かったんじゃないの?」
「風間中尉は本当に立派だったよ、フラガさんと同じにね。あれこそが、人を救うってことだ」
「嘘よ! そんなこと、これっぽっちも思ってないくせに」
いつだったか、未成年であるにも関わらず酒を大量に飲み干した時と同じ感覚を、サイは味わっていた。相手の様子にも構わず、ひたすら心情を吐き続ける──自分にそんな酒癖があると知ったのはその時だ。それと同じ状態ということは、俺の風邪はよほど酷いに違いない。「俺は、君やキラやアマミキョの為に死ねたら、それ以上の幸せはないんだ。そこで初めて、俺の贖罪が果たせる。君を見捨てた罪を」
フレイの拳がわなわなと震えだした。歯が噛みしめられる音。「サイの馬鹿! 分からず屋の死にたがり! 頑固ジジイ! トーヘンボク! みんな、あんたに生きていて欲しいってのが分からないの!?」
フレイの罵倒を思い切り上から注がれながら、サイは笑った。「ありがとう、フレイ。その言葉だけで十分だよ」
だが、熱で浮かれたサイの笑いは、かえってフレイの怒りに油を注ぐ結果にしかならなかった。「ふざけないで……死に焦がれる男なんて、痛いだけよ! そんな目で、私を見るなぁ!」
突如フレイはサイに馬乗りになり、眼鏡を無理矢理引き剥がす。サイの前髪をわし掴みにし、毛布ごしにサイの脚を膝で押さえつける。紅の制服で締められた胸が、眼前で揺れる。
この事態に、サイもようやく我を取り戻した。まずい……俺がずっと守ってきたものが、喰いちぎられる!
「馬鹿! 風邪がうつったら……」フレイの意図を素早く察したサイは、慌てて彼女を押し戻そうとした。が、恐ろしいほど低音のフレイの言葉がサイを威圧する。「言ってきかないなら、力に訴えるだけよ」
フレイは、サイがそれ以上言葉を発する暇も与えずにその口を塞いだ──自らの唇で。
駄目だ、絶対に駄目だ──サイの声なき絶叫は誰にも届かない。サイがずっと、自らに課してきた禁忌。それをフレイは、簡単に破ってのけた。
それは、二年前ですらこれほどのものはしなかったはずだというほどの、長い接吻だった。
サイは目を見開いたまま、抵抗することが出来なかった。両腕両脚をがっちりと押さえつけられ、身動きすら許されない。
ずっと、求めてやまなかった女の唇。いなくなった筈の恋人の唇。自分が決して手に入れてはならないもの──それが、強引に自分の中に入ってくる。自分を守る為に、二年もの間心に築いてきたバリケードが、突如の大地震でいとも簡単に崩れ去ろうとしていた。
やがてフレイは身体を起こす。にこりともせずに吐き捨てながら。「風邪って、他人にうつせば良くなるっていうでしょ。大丈夫よ、私は強化されてるから」
「だからって……こんなのありか!」フレイの舌と唇からようやく解放されたサイは、激しい息を抑えきれずにやっとこれだけを言う。口からは唾液が漏れ出していた。フレイか自分のものか分からぬ唾液が──サイは袖で乱暴にそれを拭く。「俺の気持ちなんかまるで無視して……君はどうして、土足で人の心に入りたがる!?」
だがフレイは聞かず、ベッドから飛び降りた。
「婚約者にキスして、何か問題でも?」
「大ありだ! 破棄した約束じゃないか、君が二年前に! 俺がずっと君の前で抑えてきた気持ちを踏みにじって、こんなの、暴力だろうが」
「婚約破棄した記憶はないし、欲望を抑えろって言った記憶もない」
「都合よく記憶喪失を使うな! 俺がどれだけ……」
思わぬフレイの行為でさらに体温を上昇させてしまったサイは、皆まで言えずにそのままベッドに倒れこんでしまう。そのままサイはタオルケットを頭からかぶって背を向け、フレイに対して拒絶の意思表示をしてみせた。畜生、君なんか大嫌いだ。俺がどれだけ君に翻弄されてるかなんて、君は知らない癖に。
そんなサイを横目で眺めながら、フレイはもう一度ベッドに座り直す。ギシリとベッドが軽く揺れ、やがて静かな言葉が流れた。
「……サイ。私、真実を話すわ。
だから、少しだけ時間をちょうだい。チュウザンに戻ったら、全てを話す。
フレイ・アルスター復活の、真実を」
つづく