アマクサ組専用医務室にしばらく閉じこもり寝ていたサイは、2日もするとすっかり生気を取り戻した。
ただしそれは、通常のブリッジ勤務や作業に耐えうるだけの体力を回復させたというだけの話であり、決して精神まで元気溌剌というわけにはいかない。それでもサイは3日目の朝にはベッドから起き上がり、着替えを始めていた。
アマミキョはこの時、旧ロシアのサハリン南の港に停泊し、連合軍と連携しつつハーフムーンからの避難民を降ろしていた。ここは極寒の地でありながら施設も通信網もそれなりに整っており、避難民からの不満は特に出ていないようだ。
何とか自分も作業に参加し、人々の誘導を完遂しなければ。サイはまだ重い身体を無理矢理起こし、新調されたブリッジ制服に袖を通す。オーブ軍もここで補給を進めてから、国に戻るということだった。つまり、オーブ軍や避難民と自分たちとは、この地で離別することになる。
ネクタイを締めかけた時頭をよぎったのは、フレイの言葉。
──真実を話すわ。フレイ・アルスター復活の真実を。
自分の何が、フレイにそこまで言わせたのか。そんな彼女の決心が単純に嬉しいサイではあったが、その先に待つものは決して喜べるものではない気もしていた。
サイが思いをめぐらせていたその時、突如エアロックが開いた。フレイかと思いサイは慌てて前を隠したが、そこにいたのは全く予想外の人物──ユウナ・ロマ・セイランだった。
「代表補佐!? オーブ艦に戻られたのでは……どうしたんです、こんな処へっ」ユウナはサイに無言で、しかも無遠慮に近づいてくる。ズボンを履いた後で良かったなどと安心している暇などなく、サイはユウナに両肩をわしづかまれる。荒ぶる鼻息。あまりの力に、サイは思わず呻いてしまった。左腕はまだ完治したわけではない。「ちょっ……待ってください、補佐!」
よく見るとユウナの唇も顔面も蒼白もいいところで、眼には涙がいっぱいにたたえられ、髪はたった今起きたばかりという有様だった。いつもは豪勢に着飾られているオーブ軍服も全くきちんとしておらず、胸元までがはだけて絹の下着が覗いている。
これが美少女だったら、世の男子は大喜びであろうに──サイはちらと考えたが、あいにく相手はサイより図体が一回りは大きい、今やオーブが世界に誇るもみあげピエロと言ってもいいユウナだ。
「補佐! 何なんです一体、落ち着い……うわっ!」サイが舌打ちする間も与えず、ユウナはそのままサイをベッドに押し倒す。オーブ軍服の、ほどけたままの肩紐がサイの頬をうつ。それにも構わず開口一番ユウナが叫んだのは、およそ国の代表とは思えぬ哀願だった。「アーガイル君、僕を助けて!」
「はぁ? お願いです、どいて下さいっ」両肩を押さえられ、さらに両膝までがユウナの太股で動きを封じられる。必死で抗うサイだが、病み上がりの体力ではとてもユウナの腕力には及ばない。
「アーガイル君、頼む! 僕と共に、オーブへ来てくれっ」ユウナはサイの意志を全く無視して、彼の上で叫ぶ。興奮しきったユウナはサイの襟元を引きちぎる勢いで胸倉を掴む。「僕にはもう、君しかいないんだ! お願いだよ、君が欲しいんだっ」ユウナの汗と涙と鼻水が、一斉にサイの頬に降りかかった。
 


PHASE-24 前夜祭



瞑想室から戻されたナオトは、ずっと自室でベッドに伏せたきりだった。
サイは何故かアマクサ組のところから戻らず、カズイはカズイでオサキやヒスイたちとの作業に忙しい。何もすることがないナオトはただ、暗闇の中で枕に顔を埋めていた。オーブに帰還するセイランへのインタビューなどなど、ナオトが出来るはずの報道業務は山ほどあったのだが、彼は何一つしなかった。気力が全くなかったのだ。
そんな時だった、ナオトが閉じこもる部屋のエアロックが突如開かれたのは。「ナオトぉ、エイミーたち行っちゃうよ」
無機的な白色灯の光が部屋に差し込む。いつもと変わらぬ明るい声を響かせていたのは、マユ・アスカだった。笑顔なのかどうかは、顔を伏せたままのナオトには分からない。「エイミーたち、ナオトに会いたがってた。行かないの?」
「……うん」
その声を聴覚で認識しながらも、ナオトは動こうとしなかった。数時間前カズイが届けてくれた食事には殆ど手をつけず、ただナオトは暗闇に籠もっていた。「会いたく、ないんだ」
「どうして?」ナオトの気分を意に介さず、マユはずんずんと部屋に入り込み、ナオトのベッドに飛び乗った。ナオトの足元あたりでぼすっ、とベッドが跳ねる。それがとても楽しいらしく、マユは座り込んでベッドの上で跳ねてみせた。「うわ、おもしろーい!」
強引に揺さぶられるナオトの身体。上下に揺れるベッドで、マユはナオトの両足首をつかまえた。「ねぇ、起きようよぉ! いつまでも寝てちゃ良くないって、サイが言ってたよ。ねぇ、ねぇったら、ナオト!」
震動と共に、しつこく自分を呼ぶマユの声。マユから逃げるように枕を抱えるナオト。ナオトの胸に苛立ちが募る。君のせいで、アマクサ組のせいで、僕はティーダでこんなに酷い目に遭ったのに! メルーを死なせてしまったのに!
「思い出したくないんだよ!」
「思い出す……って、なーに?」震動が不意に止まり、マユのごく些細な疑問が発せられる。だがその言葉は、ナオトの感情を軽く嘲笑うかのように聞こえた。「君はこの期に及んでも、何も知らない赤ん坊でいるつもりか!」
塞ぎこんでいた感情の暴発は、自分自身でも止められない。ナオトは枕を振り捨てて起き上がり、いきなりがばとマユに掴みかかった。
「思い出すことの意味も分からない癖に、僕に寄るなよ!」そのままナオトはマユの襟元に喰らいつき、彼女は何も分からずにベッドの上に押し倒される恰好となった。マユの柔らかな黒髪が、白いシーツの上に落ちる。紅いミニスカートから、幼く白い太ももが露になった。
何も理解出来ず、ただ驚愕して自分を大きな眼で見つめる純な瞳。喪失感と欲求と怒りがないまぜになり、ナオトの中の本能が、猛り狂う。
「僕を慰めろよ」ナオトはこの時悟った。この体勢なら、女の身体に恐怖は感じないことを。相手にのしかかり、ねじ伏せた状態なら、あの時の恐怖──父さんの工場での恐怖は、感じなくてすむことを。
刹那の安堵と同時に、ナオトの感情は狂いだした。呆けたようにナオトを見つめる、ただ黒い眼球。「なぐさめる……って、こう?」何をされようとしているかも分からぬまま、マユはナオトの頬に手を伸ばす。マユにとっての「なぐさめる」は、模擬戦闘で敗北した時などに兄・カイキに優しく頭を撫でてもらうことであり、それ以外の意味はない。結果として──
「君が悪いんだ! こんな処まで僕を連れてきて、僕をもて遊んで! 僕で遊ぶつもりなら、僕だって君を!」ナオトの感傷はさらに暴れ出す。まとわりついてくるマユの手を振り払い、ナオトは彼女の胸のリボンをひっ掴んだ。僅かな悲鳴と共に、引きちぎられる襟元。
だが、その時露になったものは、マユの僅かに膨らみかけた胸──ではなかった。彼女の小さな心臓を守るように、白い包みがブラウスの中に入っていたのだ。
そこから覗いているものは──ほとんど真っ黒に焦げている、ボロ布の切れ端。
しかしナオトには、何故かその元の色が分かった。分かっていた。
忘れることなど出来ない。忘れようとしても、こうして欠片はナオトについてくる。不織布の上に広がっている、赤黒い布切れ。失われた命の欠片。
ナオトの手は、それ以上動くことが出来なかった。「マユ、どうしてこれを」それ以上言葉を継げない。息さえも出来ない。
「ナオトのお守りにしようと思ったの、メルーのマフラー……ナオト、なかなか瞑想室から出てこなかったでしょ? ずっと渡したかったのに」
暗い部屋の中で、ぽつぽつと呟くマユ。大事そうに包みを直し、ナオトの前に差し出した。何も出来ないナオトの全身が、猛烈な後悔と自責の念に覆われていく。
「皮肉のつもりかよ! こんなことしたって……こんな嫌味なことしたって! 僕はもう、ここにはいたくない! 君の前にもいたくない、サイさんたちにも誰にも会いたくない! アークエンジェルだって助けてくれなかった、誰も僕を助けてくれなかった!」マユの上から離れられないまま、ナオトはただ涙をこぼすしかなかった。
勿論、マユが皮肉でナオトに包みを届けに来たわけでは決してない、そんなことは分かっていた。しかしナオトの幼い精神は認めようとしなかった──悪いのは、全面的ではないながらもほぼ自分であることを。ただもう、ナオトはこの状況から逃れたかった。守りたい人を、目の前で失った。
メルーだけではない。ハーフムーンの人々、フーアさんとアイムさん、真田さんに風間さんにネネさん──父さん。
ティーダに乗っても、結局誰も守れない。アスハ代表に認められたと思ったのに、それも裏切られた。挙句の果てに僕は──マユに、暴力をふるった。
ひたすらに、無念がナオトの心に堆積していく。マユは、なおも無邪気に包みを差し出していた。「これ、ナオトのお守りの中に入れてくれる?」
謝罪の言葉のひとつも出せないまま、ナオトは俯くしかなかった。もうマユの目をまともに見られない。自分には、そんな資格はない。
何も出来ず、誰も助けられず、人を傷つける。僕は、最低な子供だ──ナオトが自らをそう断じた瞬間。
「どけぇ、汚れ小僧が!」
突然、腰に痛烈な打撃が入った。
真横に吹飛ばされ、何が起きたか分からぬままナオトは壁に叩きつけられる。開いたままの扉から乱入してきたマユの兄・カイキの蹴りによって。
激しい痛みに気絶寸前になりながら身体を起こすと、マユを小脇に抱きかかえて自分を見下しているカイキの、細くはあるが極限まで鍛え上げられた両脚が見えた。結ばれた草色の長髪はやや乱れているが、その視線は今までで最も鋭利で、冷たい。白目の面積がやけに大きい瞳は今、生ゴミにたかる蝿でも見ているようだ。情けも何もなく、ただ相手を屠る以外に目的のない、野良猫の瞳そのものだった。
「今までは見逃してやったが、今後は二度とマユには近寄らせねぇ。フレイの命令であっても……
もっとも、今の現場映像を見りゃ、お優しいフレイ様だって二度とてめぇをティーダに乗せなくなるだろうがな!」 カイキはそのままマユを強引に引きずり出すようにして、立ち去っていく。後にはただうなだれるばかりのナオトと、マユの胸からこぼれたメルーの形見だけが残っていた。


「失礼します!」
咄嗟の判断だった。気づいた時にはサイは、右のサイドテーブルにあったガラスのコップを掴み、中の水をユウナに力まかせにぶちまけていた。
「へぷっ!」冷水をまともに頭から被ったユウナは、世にも妙ちきりんな悲鳴を上げて慌てて頭を振る。その隙に、サイはベッドから飛び降りた。そのまま数歩離れてタオルを手に取りつつ、サイはじっとユウナが落ち着くのを待った。「冷静になって下さい、貴方ともあろう方が! 何があったんです?」
だがユウナはなおもサイに掴みかかろうとする。逃れようとしたサイの右腕をむんずと捕らえ、ずぶ濡れの紫頭を振り乱し、涙ながらに叫ぶユウナ。「アーガイル君、君まで僕を捨てるのかい? 君なら僕を分かってくれると思ったのに」
「いや、ですから!」サイは必死でユウナを押し留める。また馬乗りになられてはたまらない。「申し訳ありません、補佐。どうか落ち着いて、何があったのか、教えてください。貴方がここまで取り乱すとは──尋常ならざる事件がまた、オーブで起こったのではありませんか?
自分にも知る権利があります、その権利を下さったのは貴方だ」
「尋常どころじゃないよ」サイの言葉によって、幾分かユウナはクールダウンに成功した。サイからタオルを受け取ったユウナは、そのタオルで思い切り鼻をかむ。「ロゴスが……ロゴスが」
鼻水のついたままのタオルで顔半分を覆いながら、ユウナはベッドにへなへな座り込み、やっとそれだけを切り出した。
ロゴスといえば、サイも知っている。世界中のありとあらゆる企業に深い関わりを持つ、軍需産業複合体だ──そして、アマミキョを擁する文具団社長・ムジカノーヴォもまた、ロゴスの一員だと言われている。
表立ってその名が知れ渡っているわけではないものの、クレーン車やトラックやヨットに始まり、ハンバーガーやら掃除機やらパソコンやら、業務で使う付箋やクリップに至るまで、日常生活はロゴス関連企業の製品で溢れている。それはオーブでもアマミキョでも、そしてチュウザンでも同じだった。
「申し訳ありません。代表補佐に対して、大変な失礼をしました」サイはもう一度コップに水をつぎ、新しいタオルと一緒にユウナに手渡した。「しかし、ロゴスがどうしたのです?」
水に僅かながら口をつけたユウナは、何とか呂律を取り戻す。「そう……モルゲンレーテやセイラン家、ひいてはオーブ全体に少なからぬ繋がりがある、あのロゴスだ。君たちアマミキョの資金も、元をたどれば約7割がたロゴスが出資していることは知っているね」
「社長とロゴスの関わりを考えれば、仕方のないことだと割り切っています。軍需産業が、返す刀で人助けを行なう……出発前にはよく叩かれたものです」
「比較にならんぐらい、これから叩かれるよ」ユウナはコップをサイドテーブルに叩きつけるように置いた。まるで呑んだくれの如く、大仰な身振り手振りでユウナは喚く。「プラントのデュランダル議長が、声明を発表した──ブルーコスモスの支持母体であるロゴスが、血のバレンタインから、いや、再構築戦争のはるか昔から、戦争を操っていたと。全ての争いはロゴスによって仕組まれていたと! 全ては、ロゴスの巨大利益の為に……だと! 戦争を故意に起こすことで、世界経済を操りロゴスは地上をのさばってきた!というわけだよ」
「……はぁ?」
何の冗談か。サイは思わず口の端を笑いの形にしてしまっていた。「まさか……コーディネイターとナチュラルの争いも、全てはロゴスが私利私欲の為にやっていたとかいうんですか? そんな、広瀬少尉でもしない陰謀論ですよ」
「だが、声明が発表されたのは事実だ。そして、戦争犯罪人として、ロゴスの上位メンバーのリストまでが暴露されている。見たまえ」
ユウナは胸ポケットからプリントアウトされた報道記事を取り出し、サイに突きつけた。顔写真つきで、経済界のトップの面々がズラリと並んでおり──その中には悪名高きブルーコスモス盟主、ロード・ジブリールの名もあった。また、写真こそなかったものの、関連する膨大な企業リストの中に、サイは文具団とその社長、トレンチ・ムジカノーヴォの名を発見した。
「まさか……こんな笑い話。確かにロゴスが、軍需産業に深く関わり利益を出していることは事実です。しかしその為だけに、戦争を引き起こしたというのは」
「そう、常識で考えれば笑い話だ。言いがかりも甚だしいよ。だが、デュランダルの言葉を真っ正直に肯定してしまう民衆が、ちょっとばかり多くてね」
ユウナは手近にあったリモコンを操作し、テレビモニターのスイッチを入れる。と、豪邸らしき場所が襲撃され、煙に包まれている映像が映し出された。そして暴徒と化し、屋敷になだれ込み、略奪を重ね、正義を振りかざし雄叫びをあげる民衆の姿。断罪され、連行され、暴行される老人たち。
「……代表補佐。自分にこのようなCGを見せても、何も利益はありませんよ」違う、これはニュースだ。実際に進行しつつある現実だ。心のどこかでそう思いながらも、サイはそう皮肉らずにはいられなかった。信じたくない映像だった。
「だったら、僕もこんなに取り乱さずにすんだんだがね。残念ながらアーガイル君、これは事実だ。
恥ずかしながら僕は、何故これほどまでに民衆が猛り狂うのかがいまいち分からなくてね。皆が君のような常識人だったら、世界は平和だというのに」
サイはそれには答えず、もう一度映像と記事を見比べる。
自分を含め、これまで人々は、どれだけ長い間戦争で苦しめられてきたことだろう。サイ自身はまだ幸せな方だ──ヤハラの現状やハーフムーンの壊滅、オーブ本国ですら絶えることがない諍い。そんな戦いに満ちた世界の中で、耐え切れずに壊れていく人々を大勢見てきた。大切なものを壊され、命より大事な人を奪われ、国まで焼かれ、手足を奪われ、全てを失った人々を何百人となく見てきた。
そんな時に、「この者たちが全ての元凶だ」と設定された絶対悪が明示されたら、どうなるか。
今まで、振り上げた拳をどこに下ろすべきか分からず、苦しめられる一方だった人々に対し、はっきり「敵」と分かる存在が提示されたら。
「暴露された事実が真実であろうとなかろうと、人々の怒りはロゴスに降りそそぐ。理解は出来ます」サイは冷静に呟いた。
自分だって身をもって体験したじゃないか──フレイの統制とプラント崩落、開戦でアマミキョが分裂寸前だった頃、自分は図らずもアマミキョの中で全員の「敵」となり「悪魔」となり「裏切り者」となった。そのことで、アマミキョは何故か結束していった。自分を「敵」とみなし一斉攻撃することで。
「そう、だから終わりなんだ」ユウナは頭を抱え込んだ。「セイラン家の世評は地に落ち、オーブは内乱の危機に瀕する。モルゲンレーテだって、ロゴスと無関係ではない。
だが今、一番危ないのは……アマミキョとチュウザンだろうね」
俯いた体勢のまま、じろりとサイを見上げるユウナ。その眼には、さすがに政治家と思える冷たい光が宿っていた。
サイは口ごもる。その先は言わずもがなだ。ムジカノーヴォ社長がロゴスの一員であると暴露された今、ヤハラに帰ったアマミキョがどうなるか──暴動の中へ飛び込んでいくことになるのか、それとも。
ユウナはつと立ち上がり、そんなサイにゆっくり顔を近づける。「このままだとチュウザンは、炎に包まれる。確実にね。だから──」サイの両肩に、男にしては白くひ弱な手が回された。
「アーガイル君。君だけでも、僕のもとに来て欲しい。オーブならまだ安全だ、君ほど有能な青年を、このままむざむざ戦場へ放り出すわけにはいかない!」
「無理です」何を言い出すんだこのモミアゲは。サイは慌ててユウナを押しのけ、きっぱり言い放った。「自分にはこの船を守る義務があります。そしてチュウザンの人々を守り、危機に瀕している人を助ける、それがこの船の使命です。自分だけ逃げるわけにはいきません」
しかしユウナは、避けようとするサイの両手首を執拗に掴んできた。先ほどの泣き言はどこへやら、熱くサイを説得にかかる。「アーガイル君、僕は君に惚れたんだ。ローエングリンを撃った瞬間の君は、素晴らしく美しかった! 深く傷つきうちのめされても、そこから這い上がろうとする純な魂を見たんだ、君の中に。僕はそんな魂が大好きなんだよ……
君がここで時間を止めているなんて、あまりにも勿体無い!」
その言葉に、サイは不意をつかれた。心を見透かされたようで──実際、ユウナにはハーフムーン脱出時、僅かながら精神を覗かれている。その時のことを言っているのか。
「時間を止めている? 自分が、ですか」
「そうとも、僕には分かった。君の美しい魂は生きながらに死んでいた。血を噴きだしながら、生きたい、逝きたい、二つの矛盾した叫びを上げていたんだよ。僕はそんな、矛盾した魂に惚れた。
君が好きだ、サイ君!」
感極まって、遂にユウナはサイをぎゅっと抱きしめていた。このまま放置してしまえば接吻そして淫らな行為に至っても、何らおかしくない勢いだった。軍服に飾り立てられた勲章がサイの胸やら肋骨やらを圧迫する。決していい気分ではないが、その熱情は十分すぎるほどよく分かった。
だが、俺はセイランの願いをきくわけにはいかない。
サイはゆっくりユウナの胸板を押しのけ、呟く。「申し訳ありません、代表補佐。自分はこの船から、離れるわけにはいきません」
「何故だい!」ユウナはすかさず、眼を丸くして叫んだ。「ここで君は随分と酷い目にあったそうじゃないか、暴力も散々ふるわれて……この胸の傷、特に酷いね」ユウナはサイの腕や顔、そして胸元までを撫で回す。反射的にサイは身震いしてしまった。毛穴が縮まるとはこのことか。
「僕はこれ以上、君をこの船に閉じ込めておきたくはないんだよ。僕には君が必要なんだ、今のオーブにも!」
アスハ代表も、このようなプロポーズを受けたのだろうか。そして彼女はこれほど熱い想いを、あれほど酷い形で裏切ったのだろうか。ユウナのことだ、これが演技である可能性も十分あるが、演技であろうとこの熱さには、どういうわけか心を圧してくる力がある。
そんなことに想いを馳せながらも、サイはゆっくりユウナの手を離させ、首を横に振った。
「今のオーブに必要なのは自分ではありません。補佐、貴方とアスハ代表です。
今貴方がやるべきことは、アスハ代表と手を取り合い、和解し、国難に立ち向かうことです」
「分かっているよ……カガリはまだ行方が」現実に戻ったユウナは一気に消沈し、肩を落とす。
サイはそんな彼に、あくまで優しく言った。「自分を降ろすくらいなら、まずナオトやマユ、カズイや他のメンバー全員を降ろして下さい。たとえそうなっても、自分は降りませんが」
「何故? 君がそこまでこの船に執着する理由は何なんだ?
やはりフレイ・アルスターなのかい? しかし彼女は君との約束を一方的に……」
「それでも、です」サイはユウナを真っ直ぐ見据えて宣言する。「俺は信じているんです。フレイを追っていけば、彼女が真実の自分を取り戻せば、俺の時間も動くと」
「そんな!」ユウナの表情がみるみる落胆していく。ユウナの、いかにも大げさな落胆っぷりが演技なのか本気なのか、サイには分からなかった。だがこの時、サイはふと思いついた。
この男に頼めば、ナオトとマユをティーダから降ろすことも可能ではないか? フレイの正体に関する情報も、この男が握っている可能性は高い。
幸運は思わぬところから降ってきた。そんな打算的な思考になる自分にやや失望しつつも、サイはユウナに切り出そうとする。「しかし補佐、自分がチュウザンから戻ったら、貴方の元へ赴くことも考えてみます。ただ……」
その時、不意にエアロックが開くと同時に、冷徹な言葉が飛び込んできた。「条件があります、フレイの正体を教えろ……か?」
振り向くと、全てを見透かしたような顔のフレイが、腕組みしながらドア横にもたれかかっていた。「お邪魔だったかな」
皮肉めいた笑いを唇に乗せながら言うフレイ。恐らく、会話の殆どを聞かれていたに違いない。サイは慌てて服を直し、ユウナを守るようにフレイの前に立った。「もう大丈夫、回復したよ。ありがとう」
「オホーツク方面から連合軍が合流した、ハンガーへ行くぞ」どういたしまして、それは良かった、無理をするななどという余計な台詞は一切挟まず、フレイは用件だけを手短に述べる。「これからオーブ軍と避難民は旧エトロフからオーブへ向かい、我らは別方面からチュウザンへ戻ることになる。北京が壊滅したとはいえ、大陸ならまだ避難民の受け入れ先もあろう」
フレイはつとユウナに顎を向ける。「代表補佐、ここまで大変ご苦労でした。オーブの将兵たちが、貴方を待ち焦がれているようですよ」
明らかに皮肉と分かるその言葉に、ユウナはぶんぶん首を振る。「待ちたまえ、僕はサイ君とまだ話が」
「本人の意思を無視して下船させることは出来ませんよ」執拗にサイに拘るユウナを、フレイは一声で制した。「そして彼は、今のアマミキョの要となる存在です。そうしたのは他でもない、貴方だ」
フレイの言葉にさしものユウナも口ごもり、それ以上何も言うことが出来なかった。
カガリどころかユウナまで押さえ込むこの威圧感は、一体何なのだ? すごすごと立ち去るユウナを尻目に、サイはそのままフレイについて部屋を出ながら、ふとそんなことを考えた。


連合軍港湾施設内に係留中のアマミキョから、ローエングリンが搬出されていく。既にこの陽電子砲は、発射の衝撃で焼け焦げて砲身に巨大な亀裂が入っており、最早使い物にならないのは素人目でも明らかだった。
また、スティングの乗っていたムラサメもアマミキョから降ろされ、オーブ艦へ戻されていた。山神隊の生き残り・時澤軍曹が、連合軍へデータディスクを渡している。その中には恐らくアークエンジェルや、風間中尉の戦闘記録もあるのだろう。ティーダとカラミティの修復作業は何とか進んでおり、ハマーがいつも通りの怒鳴り声を上げていた。ティーダの足元ではカイキとラスティ、そしてマユが何かしら会話をしている。ナオトの姿はない。
開放されたハンガー、その3階部分のキャットウォークの上から、それらの忙しく行きかう人々を眺めるサイとフレイ。サイの首にかけられた8個の通信機からは、ひっきりなしに彼を呼ぶ声が飛び交う。聞きながら、サイはため息をついた。「ナオトは、結局来ないか」
視線の先には、連合軍の用意した移送用バスに乗せられる避難民たちがいた。ハーフムーンの子供たちの姿も見える。何人かはこちらに気づき、名残惜しげにサイに懸命に手を振っている。フレイと共にステップを降りながら、サイは子供たちに分かる程度には大きく手を振りかえしていた。
そんな彼に、フレイはつと声をかける。「セイランも、既にオーブ艦に乗った。そして、リンドー・エンジョウ副隊長も、ここで降りることが決まった」
「えっ」思わぬ一言に、サイは振り返る。「そこまで、あの怪我が酷かったのか?」
「老いぼれの怠け者の上、両脚のない副隊長が役に立つか?……との伝言だ」
これで、アマミキョの全責任は俺とトニー隊長が被ることになるのか。何だかんだいってもトニー隊長はこまごま走り回ってくれるが、頭が回るほうではない。いつでもブリッジにどっしり居座っていたリンドーの存在感を、サイは改めて実感する。リンドーの役目全てを自分が担いきれるとは思えず、サイはまたもため息をついた。 子供や老人を詰め込んだバスが、サイたちの目の前から一台、また一台と走り去っていく。海からの風は非常に冷たく、新調した長袖の制服のジャケットでも寒風は肌にしみていく。
その時、ハンガーの奥からものものしい連合軍の兵士たちがわらわらと現れた。ベージュの制服の集団のかもし出す異様な雰囲気に、整備士たちも一旦手を止めてそちらを見てしまう。
その中心にいる存在にいち早く気づいたのは、カイキと共にティーダのそばに控えていたマユだった。「行っちゃうの、スティング?」
サイの位置からもはっきり見えた。後ろ手に手錠をかけられ、拘束服を着せられ、口に猿ぐつわを嵌められ連行されていく緑髪の少年が、そのど真ん中にいた。
「スティング!」弾かれたようにサイは叫び、思わずステップを駆け降りていた。「スティング、待ってくれ! 一言ぐらい……」だが瞬間、複数の銃口がサイに向けられる。スティングはサイを振り返ったが、その目には何の感情もない。あの時──ネネの死に遭遇した時に彼が見せた熱さは、もう欠片も残っていなかった。
そのまま静かに前だけを向いて、スティングは歩いていく。一言も残さずに。
「やめろ、サイ」フレイはゆっくりサイを後ろから押しとどめる。「コーディネイターとの戦いの為だけに使われる彼らの存在は本来、極秘事項だ。一般人にすぎないお前が、易々と触れられるものではない」
「だが、スティングは俺たちを助けてくれた! 俺が戦わせてしまったんだ、彼を! せめて謝るくらい……スティングっ」なおも身を乗り出して駆け寄ろうとするサイを、フレイが羽交い絞めにする。柔らかな胸がサイの背中を撫でた。「落ち着け、サイ」
しかし、サイの叫びは止まらない。フレイを振りほどく勢いでサイは暴れ出す。「スティング、行っちゃ駄目だ! 君は俺たちと同じ、ただの子供じゃないか! 軍に戻ればまた、君は兵器としてっ」
「まだうなされてるか、サイ!」
「俺は、俺たちには、君が必要なんだっ」
「ここにいても、奴にとってはつらい記憶しかない!」
その言葉で、サイははっと冷静さを取り戻す。
そうだ──これ以上アマミキョにいたところで、彼はネネとのつらい記憶に苛まれるだけだ。
そして、俺は恐らく再び彼を戦わせてしまうだろう。ナオトやフレイを戦わせようとしたように──連合と俺と、一体何が違うというのか。サイはがくりと膝を落とす。両の拳が床に叩きつけられた。
サイたちを完全に無視したまま、どんどん歩き続けるスティング。その姿はやがて兵士たちの背中に隠れ、その兵士たちもすぐに車の列に隠れ、見えなくなってしまった。
「ことづけだ。奴から預かった」俯いたままのサイに、フレイから紙切れが差し出される。「心配はいらない。これで奴はもう、アマミキョでの記憶に苦しむこともないだろう」
手のひらほどに畳まれた紙片を受け取りながら、サイは訝む。「どういう意味だよ」
「戦う為だけに作られたモビルスーツの生体パーツに、余分な記憶はいらないということだ。それ以上は、自分で考えろ」
それだけを言い残すと、フレイはさっさとその場から離れ、ティーダとアフロディーテ、カラミティの方向へと去ってしまった。
「余分な記憶……って?」意味は掴めないながらも、その単語の孕む冷酷さに軽く衝撃を覚えるサイ。彼はそれ以上、フレイを責めることは出来なかった。
と──その背後から、不意に明るい声がかかる。
「サイー、いつまでモタモタしてんだよ! すっかりフレイと仲良くなりやがって、隊長がカンカンだぜっ」フレイが離れた瞬間を狙っていたかのように、オサキとヒスイが揃ってサイを呼びに来たのだ。
二人と直接顔を合わせるのは久しぶりだ──ハーフムーン脱出以来、ろくに話もしていなかった。ネネを失い、二人とも酷く傷ついているに違いないのに、俺はやっぱり何も出来ていない。そう思いながらも、サイはスティングのことづけの方に気を取られていた。「すまない。もう少し待っててくれるかい」
手すりに寄りかかりつつ、サイは渡された紙片に目を通す。破ったメモ帳の切れ端に、乱暴に書き殴られた文字。
「なになに、今度はラブレターかぁ? モテる男は忙しいねぇ」「オサキさんってば!」
からかい半分に後ろから覗き込むオサキと、止めるヒスイ。だが手紙の内容に気づき、二人とも押し黙った。


《──サイ、もう大丈夫だ。アマミキョはチュウザンに帰る。だから俺も、連合に戻る。
ネオとステラが待ってるからな。アウルのことを思い出させてくれたのは、感謝してるぜ。
この手紙を読んでる時のあんたのツラは軽く想像出来る。この船には君が必要だ、きっとあんたはそう言うだろう。
だけど、この船を守ったのは俺じゃない。あんただよ、サイ。あんたが俺に命令を下したから、俺は動いただけだ。命令を下せるあんたこそ、この船には必要なんだ。
だからサイ──命だけは、大事にしろよ。
アイツが愛したてめぇの命、てめぇで絶ったら俺は許さねぇ。何があっても許さねぇから、覚えとけ。
俺だけじゃない。きっとフレイ・アルスターだって、そう思ってるさ。
んじゃ、マユによろしくな。あんまり変なこと覚えさすんじゃねーぞ》


手紙の内容は、ここで乱暴に終わっていた。
「変なことって……君が言うかよ」サイは笑おうと努力したが、引き攣った表情にしかならない。紙切れがサイの手の中で握りつぶされる。
ヒスイが嗚咽していた。オサキもぷいと横を向いたが、その肩は僅かに震えだしていた。
連合の制服たちが去った後を眺めながら、オサキもヒスイも涙を流していた。ネネを想って。凍てつく空気の下、その涙はサイの目にはガラス細工のイヤリングのように美しく見えた。
何故こういう時、俺は泣けない?
それはサイにとって、狂おしいほどに悔しかった。自分の中を、悲しさはからっ風になって通り抜けていき、何もしみ通らない。悲しみも苦痛も幸福感も心に満ち溢れることはなく、胸の奥底の砂漠に吸収されてしまう。
気がつくと、マユとカイキがハンガーの向こう側から、じっとこちらの様子を見ていた。
スティングと同じ、「生体パーツ」として生み出された彼ら──フレイの言った、「余分な記憶はいらない」とは、どういう意味だ。
マユの無垢な視線を見返しながら、サイは思う。おぼろげながら意味は掴めてしまっているが、頭が理解を拒否していた──これからスティングを待つ運命を。
確かにその方が、彼にとってはもしかしたら幸せなのかもしれない、つらい記憶などなくしてしまえば──俺だって、何度思ったか分からない。
しかしサイの中で、何かが全力でスティングの運命を拒絶する。握りしめられる紙片。
痛みの記憶というのは、自分の大切な何かを傷つけられたり失ったりした時の記憶であり、それを失うということは、自分を失うと同義だ。例えば今の俺からフレイの記憶を消去したら、俺は俺でなくなるじゃないか!
オーブにいた時には噂でしか聞いていなかった「生体CPU」の現実が、今サイの目の前にあった。やはり取り戻すべきだった、スティングを。スティング自身が選んだ道だと言い聞かせてみても、サイの中で激しい悔悟は渦巻く。「畜生! 文字通りの畜生だろ、それじゃ!」
何が何でも、軍の手から解放するべきだった──涙を流すことも出来ないまま、サイは紙片を握った手で壁を殴る。
フレイになされていたのは、記憶の消去と人格の操作。スティングになされていたのは、ネネたちの証言から想定するに、おそらく過去の記憶の消去。
ならば──マユやカイキになされている操作は、何だ?
サイが虚しい思いをめぐらせているうちに、マユはカイキに連れられてその場を去っていた。


それが、サイがスティング・オークレーを見た最後となった。
この時から12時間も経たないうちに、スティングはアマミキョでの記憶を全て消去された。ネネも、サイも、マユも、アマミキョで出会った出来事の全ても、彼は忘れ去った。思い出すことが出来たかつての仲間たちのことも。
そして、それから1ヶ月後に、彼は死亡した。
デストロイガンダムの生体CPUとして、連合軍最後の砦・ヘブンズベース守備の最前線に投入された彼は、シン・アスカの駆るデスティニーガンダムの犠牲となった。
待っていると信じていたネオ・ロアノークとステラ・ルーシェはどこにもおらず、仲間の記憶までも再び消された彼は、自分が孤独だということすらも分からぬままひたすらに戦い、戦い、戦うだけの獣となり──
何も思い出すことのないまま、雪原に散った。


一方、この時アマミキョを離れたユウナ・ロマ・セイランもまた、オーブ帰還後に酷い運命に弄ばれることになる。
しかし同時期に、サイとアマミキョはユウナ以上に過酷かつ凄惨な状況に突入していた為、サイはユウナの件をろくに思い出すことはなかった。また思い出したとしても、あのように堕ちたセイラン家をまだ利用できるかという、袋のネズミの如き追いつめられた思考の中以外はなかった。
従って、アマミキョメンバーがユウナの末路を詳しく知るのは、だいぶ後のことになる。


「もう一度言う。貴様を正式に、アマミキョ副隊長に任ずる、サイ・アーガイル」
医療ブロックで治療を続けていたリンドー副隊長は、サイを目の前にして改めて宣言した。
既に両脚を切断しているリンドーは、上半身をスズミとトニー隊長に持ち上げられるようにしながら車椅子に乗せられる。「やれやれ、とんだ要介護老人だな」などとボヤきつつも、皺だらけの顔の中から凛とした眼差しをサイに向けるリンドー。
「隊長、スズミ先生、そして……フレイ・アルスター。あんたらが証人だ」
サイの後ろにはフレイが控え、じっと副隊長と相対している。サイもまた、何も反論せずにリンドーの言葉を受け入れていた。
リンドーはそんなサイの緊張を見て取り、眼鏡の奥でにやりと笑ってみせる。「ナニ、ワシがやったことをそのままこなしてりゃいいだけの事よ。講義の内容は完璧だろ? お前なら」
「リンドー副隊長、貴方の求心力はこの船になくてはならないものです」サイはやっと口を開いた。自分の責任が格段に重くなるのは覚悟しているが、それ以上にこの、いつでも余裕を崩さないマイペースなボヤキ熟年がいなくなることが、サイは恐怖だった。「半身を失ったとしても、その事実は変わりません。どうかもう一度考え直してください、俺ではとても……」
「決定事項だ」リンドーは容赦ない。「セイランも、お前を認めている!」
「代表補佐が……ですか」サイは戸惑う。セイランに認められても逆効果ではないか……とは思ったが、そんなサイの懸念もリンドーは見透かしていた。
「あの男はああ見えて、なかなかどうして人を見抜く力はそれなりにあるもんだ。例えそれがティーダの力に助けられたものだとしてもな。ワシにすがって、必死でお前が欲しいと泣きついとったぞ」
「それで副隊長、何て言ったと思う?」スズミが横で笑った。ネネを失い、多忙に多忙が重なっている彼女の顔は、隈と疲労でどす黒くなりつつあったが、それでも彼女は精一杯の笑顔を見せていた。「オーブに帰って、成すべきことを成してから、サイ君を嫁にもらえって。それまでサイ君はアマミキョで花嫁修業、ですってよ」
「花嫁って……」随分命がけの花嫁修業もあったもんだ。サイは半分本気で身震いした──漫画であれば、俺の額のあたりに5本ほどの縦線が入っているはずだ。間違っても、頬に5本ほどの微妙な斜線、ではない。
「俺に、アスハ代表の代わりにウェディングドレスでも着ろっていうんですか」場を和ませようと、サイはリンドーのジョークに付き合ってみせる。リンドーも調子に乗ってウィンクしてみせる。「そうしかねん勢いだったぞ」
「それじゃあまた、フリーダムにかっさらってもらうかね、サイ君! ワハハ」トニーが大笑いしつつ、サイの背中を叩く。だが笑っているのはトニー一人だけで、全員が黙ってしまう。この場でフリーダムの撃墜を知らないのはトニー隊長だけだった。
リンドーはそこで笑みを消し、サイに向き直った。「どこぞのお船様のように、戦いを止めるとか、人間を救うとか、自由と平和を守るとか、ワシはそんなことを考えたことは一度もない。ただ──
自分より年下の者を死なせない。
自分より年上の者より先に、自分が死なない。
この二つさえ守れば、どこもかしこも平和になる。ワシはずっとそう信じて、ここまで来た」
サイは唇を噛みしめる。自分はそれすら出来なかった──こんな単純なことを守ることが、一番難しい。
その心情を見通してか、リンドーはサイの手を握りしめた。「出来るか出来ないかは問題じゃない。ただ、この二つの言葉は常に念頭に置いておけ。最後の講義だ──
それとサイ、お前には特に言っておく。間違っても、自分が死ねば人が助けられるなどと思うなよ」
その手は、幼い頃の父の手を思い出させるほど強く、あたたかだった。

 

 

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