その日の昼前──チュウザン首都・ヤエセ。
河で分断されたこの街に、サイは再び降り立っていた。
アマミキョ内部で待ち合わせをしては騒ぎになるということで、サイは駅前でフレイを待つことにしていた。フレイと再会した、あの日と同じ駅で。
焼けつくような陽射しとむせかえるような湿った空気は、あの日と何も変わらない。文具団の勢力下の工場街。
ここで俺たちは、再び出会い、久々のデートをした。今日もう一度二人で連れ合えるというのは、どういう運命のめぐり合わせだろう?
天気もあの日と全く同じ、憎たらしいほどの快晴だ。
あの日と違うのは──まず、街の風景。
ブレイク・ザ・ワールドの惨劇、そしてさらに激化したテロは、この街を確実に壊していた。華美なネオンサインに彩られていたホテルは、真っ先にテロの標的となり破壊され、今では熱射の下、砂だらけの瓦礫と化している。所狭しと並んでいた細いビル群は見る影もなく、崩れた壁の中で弱弱しい鉄骨を露にしていた。泥水が溢れ出し、巨大なネズミが3匹ほど這い回っている。
今こうしてサイが駅前に無防備で立っていられるのが不思議なくらい、チュウザン──ことに、コーディネイターとナチュラルを隔てる川沿いでは暴動が頻発していた。アマミキョ不在の間も、チュウザン政府と山神隊の力でどうにか文具団工場周辺のテロは鎮圧に成功していたが、いつまた大規模なテロが起こるか分からない。
ついさっき、満員電車から人の頭上に押し出されるようにしてサイが降ろされた駅も、半分がた修復工事中だった。
ここは川の「向こう側」の街。目を輝かせて人々が働いていた街。コーディネイターとナチュラルが共存し、利益を上げていた工場街──のはずだった。
開戦前はかなり小奇麗だった街の姿も、今では至るところに青いシートが敷かれ、放置された焼け野原となり、汚濁にまみれた人々が路上で商売をしている。それを追い立てる、チュウザン兵と軍用犬。河の手前側の貧民街の人々の生活が、反対側まで溢れ出していた。それでも懸命に祭りの準備に動き回り、ぼろい屋台の準備などをしているさまは、さすが祭り好きの住民というべきか。
サイは紅のワイシャツと黒のネクタイ、チェックのズボンという姿で、通信機を一個だけポケットにしのばせて柱時計の前に立ち、暫く思考を巡らせる。
この状況で、どうやってこの街を守れるか。この街の人々を、どうやって助けられるか。──ハーフムーンをこの手で潰した俺に、チュウザンの人々を助けられるのか。
ザフトの侵攻は着々と進み、デュランダル議長によるロゴス・スキャンダルにより連合も内部崩壊寸前だ。オーブ本国は頼りにならないときた。
サイは川の反対側の景色にふと目をやった。まだビルやショッピングモールが辛うじて残っているこちら側と違い、向こうの街──色とりどりのバラックがひしめいていた貧民街は、巨大なゴミ捨て場の平野と化し、大量の虫とネズミが湧いている。そのそばに、焼け出された人々がゴミのような家を建て、ゴミの山で蟻のように動き、熱射の中で生きようとしているのが見えた。
サイが思考に耽溺しかけた、その時──「おっまたせー、サイ!」
屈託のない、朗らかな声が場違いなほどに響く。振り向くと、いつの間に近づいたのやら、サイのすぐ背後でフレイがにこにこ笑っていた。勢いよく振り向きすぎたサイの頬に、フレイの人差し指が見事に埋まっていた。「へっへー、引っかかった!」
 


PHASE-25 涙



同じ頃──
アマミキョカタパルトでは、ちょっとした騒動が発生していた。
鬼の形相でカタパルトに飛び込んできたカイキ。ティーダの前で暴れようとする彼を何とか宥めすかしたのは、ラスティだった。二発も殴られた後で整備士たちの助けも借りてどうにかカイキを押さえ込んだ後、ラスティはとんでもない事態を知った。「マユがいない?」
「あのガキだ。あのガキまで消えてやがる!」整備士たち5人ほどに床に押し付けられながら、カイキは唾を飛ばして叫ぶ。「あのガキとティーダが、マユを変えちまった!」
動揺しながらも、ラスティは懸命にカイキを宥める。ここでカラミティパイロットのカイキにまで何かあってはたまらない。「祭りだからだろ……マユはお祭り好きの子だ。庇護を離れて出歩きたくもなるだろ」
「てめぇ、何を呑気な! 畜生っ」カイキは涙まで流し、床を叩く。「あのガキを探しに行ったんだ。あいつにはもう、苦しい思いはさせないって決めたのに……」
そこへ、ティーダ脚部の調整をしていたミゲルが割って入った。「通信機は持ってるはずだ、心配するな。何たって、今やティーダ唯一のパイロット嬢だからな」軽口は叩いているが、決して笑顔ではない。「ニコルが位置を特定した。街中だよ、いつでも呼び戻せる」
カイキのもとに近づき、ミゲルは腰を降ろして彼の耳に小声で囁いた。「計画の要、そうやすやすとロストするはずがないだろ」
返す言葉もなく、俯くカイキ。その両拳が床の上で握り締められた。お前の不注意でもある──ミゲルの目は、明確にそう言っていた。


あの日と全く変わらない、フレイの姿だった。薄水色の爽やかなワンピースに、白い帽子。熱風に煽られ白い脚が垣間見えるフレアースカートも、一緒だ。
瓦礫やネズミなど殆ど気にすることなく、あの日と同じに街を歩きながら、フレイは軽く4時間ほどもサイと一緒にはしゃぎ回った。しぶとく生き残っている喫茶店やレストランで思う存分食事をし、ゲーム場でひとしきり遊んだ後は、祭りの屋台を眺め、救助隊らしく手伝いなどもした。
たったそれだけのことだったが、一応の目的である潜入捜査など忘れてしまいそうなほどに、サイは幸せだった。ここまで俺だけ幸せでいいのかと、後悔するぐらいに。
午後の遅くになっても、フレイは洋品店やケーキ屋のショーウインドウを眺めては、いちいちサイを呼びつけていた。全く、あの日と一緒に。フレイと決別するつもりで最後のデートをしたあの日を、俺はもう一度繰り返している──
「何だかんだあっても、ちゃーんといいものは残るのねぇ。ねぇ見て見てサイ、あのタキシード、絶対サイに似合いそう!」
「いつどこで俺が着るんだよ」
「あらぁ、サイだってもう立派な副隊長よ? ちゃんとしたもの着なきゃ駄目、何よそのヤンキーオヤジ崩れみたいな恰好は」
「ヤ、ヤン……何だって?」「コオヤジが進化してヤンキーオヤジ」「退化だろうが! 全く、これでも俺は結構頑張って……」
「ま、サイにしちゃ頑張った方かもねー。いつかのファイヤージャケット着てきたら殺してやろうと思ってたとこ」
「え? アレ、気に入らなかったんだ?」
「当ったり前でしょ! サイだから許してたのよ、他の奴だったらその場でひっぱたいてサヨナラね」
その時にはすっかりフレイのペースに乗せられていたサイだったが、その言葉でふと思い出した。 「アレを着てたのって、ヘリオポリスにいた頃だよな」
「そうよ。2年前」並んで歩きながら、フレイはふと目を逸らす。「何もかもが、変わってしまった場所」いつの間にか二人は大通りから外れ、日の当たらないビルの裏道を歩いていた。
もうそろそろ、本題に入らなければならない。あの日と同じに。
「フレイ。2年前から、俺たちは大きく変わってしまった。
それだけじゃない。この街でもう一度出会った時からも──俺たちは、変わってしまった」
「私は、変わったつもりはないけど?」フレイはふっとサイの前に出て、勝手に歩み出す。人通りはなく、白く砂埃の舞う道。サイは慌てて追いかける。「君はもう、無邪気な記憶喪失の少女じゃない。それを俺は知ってしまった」
サイは逃げるフレイを追うようにして、思わず彼女の手首をつかみかけた。だが、寸前でフレイの手はサイからするりと逃げていく。跳ね回る魚のように。
「フレイ! これだけは、はっきりしておきたい。記憶は、戻ったのか?」
踊るようにくるりと回るフレイ。スカートの裾がひるがえる。「キラを、好きだった記憶? それとも、貴方を好きだった記憶?
貴方の欲しい答えは、どっちかな」
「どっちだって構わない。それが君の真実の記憶なら、俺はどちらだって……」
フレイはそのまま、ビル陰の白い道を駆けていく。日陰と日向の作る鮮やかなコントラストの中を、優雅に走っていく。「記憶の定義って、何かしらね。どこまで思い出したら、私は貴方の望むフレイになれるのかしら」
まるで、自分が何処に向かっているのか分かっている、そんな足取りでフレイは走っていく。サイは追いつくのが精一杯だ。埃と熱射の中を無我夢中でフレイを追い続けると、やがて真っ白いドーム状の建造物が見えてきた。
灼熱の国・チュウザンにはあまり似つかわしくない、どちらかと言えば街並みから浮いている、そんな建物が、不意にサイの眼前に現れた。日光を反射し、銀色に輝く丸い屋根。
日は次第に西へ傾き始め、かすかな赤みを帯びていく。サイとフレイの影が次第に長くなっていく。青空に、午後の埃っぽい空気が混じり始める。
それらの風景全てを振り払うように、フレイは真っ直ぐにドームの入り口へ入っていった。「おい! どこだよここ、まさか軍用施設じゃ……」
叫ぶサイには目もくれず、フレイは半分はしゃぎながら奥の暗闇へ消えていく。「冗談! ただのプラネタリウムよ、今は閉鎖中だけどねっ」
彼女に導かれるがままに、サイはドームに入った。やや埃のたまったガラス張りのエントランスを抜けると、不意にサイの周囲は真っ暗闇と化した。
烈しい陽射しから突然何もない闇に押し出され、サイは一瞬、平衡感覚を失う。
そこにフレイの声が響いた。「サイ。貴方が貴方自身と定義出来るものって、何?」
目の前の闇に、ふっと一輪の真っ赤な薔薇が現れた。うっすらと紅の光を放ちながら、それはサイの顔を照らす。手に取ろうとしても、手は薔薇をすり抜けた。薔薇の光はやがて少しずつ強くなり、周囲の光景を映し出す──そこは、サイの周囲いっぱいに広がる、星だった。
足元を見ると、いつの間にか薔薇の敷き詰められた小さなひし形の花壇がサイを支えるように拡がっており、それが満天の星空に浮かんでいた。星たちは天を流れ、花壇も空を滑り始めた。まるで、宇宙を悠々と航行しているように。
それが鏡ばりの部屋によるトリックだということをサイは頭で認識してはいたが、脳の芯を揺るがすような不安定な感覚は否定出来ない。サイの両手の間で、薔薇が二輪に分裂する。フレイの声。「貴方をサイ・アーガイルだと証明出来るものは、何?」
「俺は俺だろ……何を言ってるんだよ?」
サイの言葉に答えるように、フレイの姿が正面に現れた。正面と言ってもそれは、星空の遥か向こう側のようにサイには見える。同じようなひし形の薔薇の花壇が現れ、フレイがその中心に立っている。ワンピースが薔薇の中で白い光を放っていた。
「人を人として形づくるもの、それは積み重ねられた記憶、過去、名前。
サイが当たり前のように自分は自分だと言えるのは、その記憶が確かだから。
でも私は、その全てを失くしてしまった」
星空が凄まじいスピードで回転を始める。同時に、噴水のように薔薇がフレイの足元から散った。二人を乗せた花壇がゆっくり星空を不規則に回り、近づいては離れ、離れては近づく──そういえば、オーブにもこんなアトラクションがあった。無重力疑似体験とか……
「フレイ!」サイは眩暈を起こしそうになりながらも叫ぶ。「君は、記憶を取り戻したんだろ?」
「どうかしら? 私が記憶を取り戻したと言ったら、貴方は信じるの? 虚しいことよ」
「さっきから、君は何を言ってるんだよっ」
「人の記憶というものはとても曖昧なものよ。例えば──昨日あった出来事を、貴方は正確に全て、思い出せるかしら? 昨日あったはずのことは、実は全て夢だった。そうじゃないと断言出来る?」
近づいては遠ざかるフレイの紅の髪。飛び散る薔薇と星の中で、サイは必死で反論を試みる。「そりゃ、日記とか、業務ログとか、昨日までに自分が積み重ねてきたものがあるだろう。残してきた記録があるはずだ」
自分で言っていてアホウだと思った。だがその言葉についとフレイは近寄り、細い指を優しくサイの左肩に触れる。「そうね。貴方の傷も、貴方が確かに傷を受けたという事実を証明する」
「それだけじゃない、周りの人間だってそうだ。俺が忘れても、周りが覚えていることなんて幾らでもある。それが」
「そうね、サイ。貴方の周りにはたくさんの人たちがいる。でも私には、誰かいたかしら?
ちゃんと、私のことを知ってくれる人が」
フレイの指が見る見るうちにサイから離れ、二つの薔薇の床は宇宙の端と端に別れてしまう。サイは懸命に呼びかける。「俺がいる。俺だってキラだって、ミリアリアだっていたじゃないか!」
離れ離れになったサイとフレイの間に宇宙は流れ、薔薇が流れていく。「アークエンジェルから離れた後は? あの後の私を知る人は、誰かいるかしら?」
無限の星空の中に自分が浮かび上がっているように錯覚させるこのアトラクションは、トリックを理解していても平衡感覚の乱れは止められない。
サイの眼前に現れたり消えたりしながら、フレイは語りかける。優雅に泳ぐような仕草で。「ザフトには、クルーゼしかいなかった。その彼も死んでしまったわ。
ドミニオンにはナタルさんがいたけれど、彼女も死んでしまった。殺したのはアークエンジェルよ」
そうだ──あの時、ほぼ機械的にしろ俺はオペレーターとして、ローエングリンを撃った。あの時からもう、俺の手は血で汚れていたんだ。いや──もっとずっと前から。
「ドミニオンから脱出した人たちも、みんな死んでしまった。私と一緒に。
だから、私が最期に何を想ったのか、知る人は誰もいない。その時私が『いた』ことを証明するものもない。
唯一確かなのは、救助艇が撃たれたあの瞬間から、フレイ・アルスターとしての記録は途絶えたということ。
フレイ・アルスターの時間は止まったということ。
それ以降、誰の記憶にも、フレイ・アルスターはいないはずよ」
サイは真っ向から反論する。「しかし、君はフレイなんだろ。君はフレイだ、自分でそう言ったじゃないか! 今ここにいる自分が、フレイ・アルスターの真実だって!」
あの炎の街でフレイが言い放った言葉は、未だに強烈にサイを捉えて離さない。その言葉に縋りたい自分を、サイは感じ始めていた──何を恐れている、俺は? 何を迷っている? フレイの真実をあれだけ求めていたのに、俺は怖がっている──何を?
フレイはぽつりと淋しげに呟いた。「そうよ。私の存在こそが、現状のフレイ・アルスターを示すもの」
フレイが手にした薔薇が、ふっと消える。吐息と共に。「彼女は貴方に、ずっと言いたかったはず。
キラが貴方に謝りたかったのと同じに、彼女もずっと思っていたはず」
サイを愛しげに見つめる群青の瞳。やめろ、やめろ、やめろ、その先を言うな。サイの中で何かが叫び出す。薔薇の花びらが血の流れのように闇を飛ぶ。
フレイはサイを真っ直ぐに見たまま、ゆっくりと、一言ずつはっきりと口にした。やめろ、言うな。その言葉を言えば、全て終わってしまう!
だがフレイは、サイが最も恐れていた、そして最も欲していた言葉を、優しく告げた。「だから──
ごめんね。サイ」
淋しげな微笑と共に、彼女の姿はふっとかき消えた。
その言葉の意味も分からないまま、分かりたくないまま、サイはたった一人で星空の中に立ち尽くす。だがそれも一瞬で、再び星空はサイの周りで高速回転を始め、全てが光の弧を描く流星となった。
どういう意味だ、今のは。全てを終わらせるような彼女の謝罪の言葉を、サイはただ考えていた。眩暈を起こさぬよう、反射的に右腕で両目を覆い隠す。その耳に、フレイの言葉だけがこだました。
──ごめんね。彼女は貴方に、ずっと言いたかったはず。
「彼女」?
閉じた瞼の裏側の闇に、うっすらとオレンジ色の光が差し込んだ。フレイの声は、まだ聴こえていた。「サイ。貴方は必死で、自分の時間を動かそうとしていた。でもずっと、私が止めてしまっていたの。
だからもう、終わりにしましょう」
サイはその声で、ゆっくりと片目を開く。眩しい夕陽が、まず目に焼きついた。
その大きな夕陽の前に立つもの。紅の髪の少女──それは確かに、フレイ・アルスターのはずだ。見間違えるはずのない、サイの記憶と全く同じフレイだ。「ここは?」
見渡すとそこは、いつかサイがフレイと共に出かけた高台の公園だった。サイが全てをフレイに打ち明け、彼女の記憶を取り戻させようとした場所。柱時計に寄っていく蛾。燃えるような陽。血のように赤く染まる人影。足元だけは、一面の薔薇の海だった。
「あの場所はテロで破壊されてしまったが、今もこうして再現することが出来る。いい世の中になったものだな」
フレイ・アルスターは自嘲的に笑う。既に先ほどまでの朗らかなフレイの声も表情も、何処かへかき消えていた。明らかに、「姫」フレイが戻ってきてしまっている──
チュウザンの街が見渡せる高台。あの時のままに、まだ焼けていない街が再現されていた。高台を囲むように造られた、腰ほどの高さの柵。その柵に手を触れながら、彼女はそっとサイに目をやった。「ミーア・キャンベルという少女を知っているか?」
「いや……」サイはそれ以外に答えようがない。唐突に出された、見ず知らずの女性の名前。
「その名を知るものはごく僅かだ。だがサイ、お前は知っているはずだ。ラクス・クラインに擬した彼女のことを」
サイは懸命に会話の意味の理解に努める。「まさか、そのミーアって娘が、今ザフトにいるラクス・クラインだと?」
あのラクスが偽者ということはキラから聞いていた。しかし、このような処で出す話題か? しかもそのような重要情報を、何故今わざわざ俺に? 何故君が知っている?
じれったさにサイは叫びたくなったが、フレイは続ける。「彼女は完全に平和の歌姫・ラクスとしてのつとめを果たしている。懸命にラクスを擬した結果として、今の彼女がある。ほぼ全ての人々が、彼女をラクスと認めている。むしろ以前の彼女よりもファンが増えたくらいだ。
ただ一つのミスを除けば、彼女はずっとラクスでいられただろう」
ただ一つの、致命的なミス。ここまで話されればサイにも分かった。「ラクス本人を、消さなかったことか」
「その通り」顔色一つ変えずにフレイはサイに人差し指を突きつけてみせる。「ミーアは純にラクスを想い、ラクスを研究し、ラクスとなる努力を欠かさぬ少女だ。仮にラクス本人がいなければ、彼女は本物のラクスとなり得ただろう」
「待てよ。待てって……」サイは反論しかかる。だが頭の中で何かが凝固した。思考を先に進めたいのに、何故か結論が浮かばない。『分からない』という白い霧の中へ、思考が沈んでいく。
黙ってしまったサイに、フレイはずいと顔を寄せた。結論を促すように。「お前はどう思う? ミーアをラクスだと認められるか? たとえ、ラクスが消えても」
「ラクスさんは、キラの大切な人だ。不謹慎だよ」答えから逃げている自分を、サイは自覚した。だが、会話からの逃走を試みる相手を逃がす彼女ではない。「仮の話をしている!」
フレイはサイの顎を持ち上げ、強引に視線を合わせてくる。「答えろ、サイ」
「無理だ。俺には……」サイは何とか言葉を絞り出す。相変わらず頭は霧の中だ。答えはこの霧の向こうにあるはずなのに、肩が重くて手が伸ばせない。「何より本人が、自分はミーアだと分かっているんだろう? どんなに否定しても、彼女はミーア・キャンベルだよ」
「そうか」フレイはぷいと視線を外すと、サイに背を向けて腹で柵にもたれかかった。流れる紅い髪が血のようだ。「では、質問を変えよう。
お前が今日死んだとする。お前の今までの記憶は、お前と顔も身体つきも、遺伝子まで全く同じ、いわばクローンに移されたとする。手術をした医者や関係者は全て消されたが、そのクローンだけは無事にオーブへ戻った。クローン自身は何も知らない。事実を知るものはいない。さて、そいつはお前かな?」
挑発するようなフレイの台詞に、サイの脳裏で何かがカチリと鳴った。それは、銃の安全装置を外す音にも似ていた。
「冗談じゃない!」考えるより先に、叫んでいた。「俺はそいつを俺だなんて認められないよ。たとえそいつに悪意がなかったとしても、そいつは俺の全てを奪って、俺が死んだという事実さえ奪う奴だ。
俺が死んでるなら、呪い殺してやってもいい。そいつには悪いけどね……勿論、そいつを生んだ奴らが一番許せないけど、死んでるんだろ。君の仮説だと」
自分でも驚くほど、スラスラと激しい言葉が飛び出した。同時に彼女の髪が風で煽られ、薔薇の花びらと共に夕空に拡がる。濃くなる夕闇の中でも、目の前の少女の瞼がやや下を向くのが、はっきり分かった。呻きにも似た呟きが響く。「そうか。それがお前の定義か」
彼女はそのまま、柵に背を預ける。そのまま柵の向こうの崖に落ちかねないほど、彼女は身体を傾けていた。ただ、視線は再びしっかりとサイを捉えていた。
「サイ、一度しか言わない。よく聞くがいい。
お前のヒトの定義から導くと──私は、フレイ・アルスターではない」


その頃、ナオトは川岸にじっと座っていた。
電車がごうごうと通過する橋の下に隠れるようにしながら、草むらの中に腰かけて、ぼうっと対岸を見ていた。
オーブに戻る意志も、アマミキョに戻る意志もなく、ただナオトは失意に身を任せていた。目の前に流れる、赤茶けて腐った牛乳にも似た河を眺めながら、ナオトは何も考えずぼうっとしていた。
対岸は、ナチュラルの集まるスラム街──その跡地のゴミ山が広がっている。その山のふもとで、子供たちや老人たちが露店の準備で大忙しだった。ダンボール箱の中から、ピンクや青や緑、色とりどりのキャンディーのような小さなライトが見える。破壊され、虫や悪臭のわく街の中で、そこは妙に輝いていた。子供たちは無邪気な笑顔を見せて、老人たちが台車をひくのを手伝っている。
「何だってこんな時に、祭りなんだ」
ナオトは吐き捨てたが、無意識のうちに胸元のお守りを握っている自分に気がついた。
メルーもハーフムーンの人たちも、危機的状況と分かっていながら、最後まで神様を信じていた。真田さんも──
サイの言葉がこだまする。──みんなでこの星に生を受けたことを祝うと同時に死者を悼む、そういう願いをこめた祭りでもあるんだ。
「神様なんて、いないのに。祭ったって、無駄なのに」膝を抱え込むナオト。子供たちの歓声が、嫌でも耳に入ってくる。小さな女の子に、踊りを教えている老婆が見えた。「いや……危ない状況だからこそ、信じて、祭るのか?」
自分で口にしたその可能性を、ナオトは嘲笑した。まさか──危機に瀕していると分かってるのに、みんなで神を祭るだなんて。


サイには、目の前の女の言葉の意味が掴めていなかった。
霧の向こうへ、ずいっと押し出されていくような感覚。暖かな霧の中から、無理矢理自分が追い立てられていく。
嫌だ、行きたくない。俺は何も知りたくない。この先には行けない、行かさないでくれ。頼むから、俺の時間を進めないでくれ!
サイの中で何かが血を吐いて叫び出す。俺はずっとここにいたい。何も知らないままでいい。真実なんか見たくない。同じ音を繰り返す壊れたレコードのように、サイの心は同じ叫びを吐き続ける。
それでも頭のどこかでは、冷静に彼女の言葉を分析している自分がいた。霧は次第に晴れていく。ずっと自分を閉じ込めていた霧が。
「俺は……分からない」眼前の、得体の知れない紅の髪の女を凝視しながら、サイは両手で頭をかかえ、後ずさった。逃げ出したい衝動。
だが、サイの頭の中では全ての現象がパズルのように組み合わさっていく。散らばったままだったピースが、彼女の言葉一つで次々と動き出していく。
ああ──自分を失っていたのは、フレイじゃない。俺だったんだ。
その可能性に、最もありうる可能性に、何故俺は気づかなかった? キラは一瞬で見破ったじゃないか、その真実を。だからこの女に執着することもなかったんだ。
キラが俺にこのことを話さなかった理由は──俺自身で答えに辿りつかなければ意味がないことを、キラは分かっていたから。
フレイ・アルスターは、2年前に死んだんだ。キラの目の前で、一瞬で炎に巻かれ、消し飛んだ。
キラから聞かされたその真実を、俺は2年経っても理解していなかった。
今、フレイを名乗っていた「まがいもの」が俺の目の前に立っている。誘うように、その唇から言葉が漏れた。「私は、お前に殺されても仕方のない存在だ」
フレイが死んだという証明。それは、フレイの偽者。
この女の存在そのものが、フレイの死を意味している。まさしく、現状のフレイ・アルスターを示すものだ。
だがサイの中で、もう一つ激しい叫びがこだまする。違う、これはフレイだ。これはフレイなんだ。俺との記憶だってちゃんと持ってた、何故って、彼女はずっと俺を──
「さぁ、私を殺せ」彼女の形の良い胸が紅い空に向く。「私はフレイ・アルスターの記録をもとに、その姿を擬して作られた人形だ。
キラ・ヤマトのSEEDの調査の為、キラの覚醒時の鍵となった人物──フレイ・アルスターはその足跡を入念に、綿密に調べられた。それこそ自宅のアルバムから個人的な日々の記録、ヘリオポリスの残骸、ドミニオンや救助艇の残したボイスレコーダーに至るまで。
相当な手間はかかったが、フレイの人物像を探り当てることまでは成功した。そして私は」
そこで彼女の言葉は途切れた。無我夢中になったサイが薔薇の茂みの中に彼女を押し倒したから──それ以上、声を聞きたくなかった。フレイを名乗る女の、フレイと同じ声を。
「フレイはナチュラルだったはずなのに君がコーディネイターだったのは、強化されたわけでもなんでもない。元々君がコーディネイターだったからだな」
揺れる薔薇の中で、サイは女の襟ぐりを掴む。それでも彼女は苦しげな素振り一つ見せなかった。「そうだ」
「俺に近づいたのも、キラの情報とフレイの記憶の補充が目的か」
「そうだ」訥々と呟くフレイ。サイは白い首を押さえる手に、思わず力をこめそうになる。だが、出来なかった。サイと空を見上げながら、呟く女。「2年前、私は本来の自分を捨て、ジョージ・アルスターの娘、フレイ・アルスターの身体を持つに至った。容姿・血液型・指紋・歯型・声に至るまで殆ど同じ身体に……究極の整形手術だ。
ただ、記憶を丸ごと植えつける技術は当時はまだ未発達で、私はフレイの記録を覚えることは勿論、フレイを知り、深く理解する必要があった。
だから……」
「俺に近づいたか。そんな技術が許されるのか……マユやカイキ、ニコルやラスティやミゲルたちも同じような連中なのかよ!」アマミキョを幽霊船だと言った、エルスマンの言葉が蘇った。
「彼らは私とはまた違う出自の者だ。彼らにまで殺意を抱くのは勘弁してもらいたいな」
サイの怒りと混乱は頂点に達した。違う、違う、違う、誰かがまだ叫ぶ。その叫びを放置したまま、サイは女の上に完全に馬乗りになった。飛び散る薔薇。
「消えてくれ! お前はフレイを陵辱した。フレイだけじゃない、キラもミリィもカズイもアークエンジェルのみんなも、フレイを知るみんなを辱めたんだ!
それだけじゃない、フレイのことを何も知らなかったナオトの心まで、君は踏みにじったんだぞ! ナオトは俺に、君の記憶が戻るまで頑張ろうって……ネネだって、フレイの為に一生懸命だった……みんなも君を、ずっと信じてた。
嘘だと言ってくれ! でなければ、消えろ!」
いつしか嗚咽しながら、サイは女を揺さぶる。違う、違う、違う。白い首を絞めそうになるサイの手、だがその手はどうしてもそれ以上動かない。
「違う……」サイは女の上で呻く。幻の夕陽はいつしか最後の光を放ち、今まさに落ちようとしていた。海の向こう、最後の炎のしずくが水平線から零れる。
「何が違う?」彼女は首をかしげ、少々意外な風にサイを見た。「証明は終わったはずだぞ」
「違う、違うんだよ。君はフレイだ。だって君は……」
そうだ、これこそ最後の可能性。彼女がフレイだという最後の可能性。直視できない現実からサイを遠ざけていた、彼女の行動。サイは半分がたしゃがれた声を絞り出し、消滅寸前の希望にすがる。「君は、ずっと俺のそばにいてくれた。
いつでも、俺を助けてくれた。どんな危険を冒しても、君は俺を助けてくれた。
君と再びここで会った時から、君はずっと俺を助けてくれた」
彼女の表情は殆ど変わらない。ただ、いつも通りの嘲笑が唇に浮かんだだけだ。「自分のことを想うフレイだから、自分を好きなままでいるフレイだから、自分を助けている……か?
なんと夢見がちな」
「そうだよ、俺は傲慢だよ」なりふり構わず、サイは心情を吐露していた。「だけど、それ以外に理由がないだろ。大体、キラの調査の為に君がフレイになったのなら、アークエンジェルから離れてアマミキョに執着する理由が分からない」
今度は声をわずかに漏らして女が笑う。「そこまで、自分を好きでいたフレイにこだわるか。キラに心を移したフレイではなく? キラではなく自分を選んだから、本物のフレイだと?
本当に傲慢な男だ」
「殴るぞ……」サイの心で何かが、乾いた泥のように剥がれていく。駄目だ、剥がれるな。俺は何も見たくない。「だったらどうして、アークエンジェルじゃなくアマミキョに戻る?
どうして、俺を助ける? こんな身勝手な俺を!」
少女は笑みを消し、目を見開いた。フレイと全く同じ色と形の群青の瞳が、薔薇の中から真っ直ぐにサイの心の真中を射抜いた。「お前だからだ、サイ・アーガイル!」
何だそれ。意味が分からない。
そう心で呟きながらも、強い言葉だけで、サイの両手は少女の首から離れた。
心を包んでいた、母乳の如く濃い霧が、突然晴れていく。血の通っていなかった心臓に、間欠泉のように熱を持つ血が溢れ出す感覚。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。サイは子供のように叫ぶ自分に気づく。俺の中でフレイが死んでいく。俺の中のフレイが死んでいく!
「サイ、目を開け。お前の定義によれば、フレイ・アルスターは死んだのだから」
身体の中から激情が溢れ出す。サイの中で、フレイが炎に巻かれ、服も髪も瞳も全てが一瞬で焼け焦げて灰より細かい塵となって吹き飛び、髪留めだけが残っていく。サイの手に落ちようとする髪留め、だが手に触れた瞬間に、僅かなフレイのかけらすらも吹き飛んでいく。サイの手のひらで分解され、散り散りになる髪留め。
髪留めが消えた時、サイは全ての現象を理解した。
彼女が俺を助けてくれたのは──フレイが彼女の中にいたから、ではなく。
そもそもフレイは、既にこの世のどこにも存在せず。
フレイではなく、「彼女」自身が俺を──望んだから、俺を助けた。
「卑劣だよ、そんなやり方……これじゃ君を殺すどころか、殴ることも出来ないじゃないか。そんなこと言われたら、俺は君を憎むことすら出来ないじゃないか!」
脳裏で、パズルのピースが組み合わさる。フレイと同じ顔の彼女の白い頬。そこにいつの間にか、2、3滴の水の粒が流れていた。
目の前がやたらとぼんやりしている。サイは考えた──スプリンクラーの誤作動だろうか? 女の頬に落ちていく水滴はさらに増えていく。
彼女の右手が薔薇の中から持ち上がり、夕闇の中、そっとサイの耳たぶと頬を撫ぜた。「やっと、泣いたな」

 

 

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