「真実にお前が耐えられるかどうか、分からなかった。だからアマミキョでは、何度もお前を試した。
「何、これ……?」一人きりで街をふらふらしていたマユは、不意に出くわした得体の知れない感傷に戸惑っていた。
ゴミためのような街の広場の中、漫画のキャラやらリンゴやらに扮した大人の周りを、子供たちがはしゃぎまわっている。カボチャの被り物をしている住民が多いのはおそらくAD時代のハロウィンの影響だろうが、マユはそんな単語を知る由もなかった。とっくに壊れて乾ききった噴水のそばで、マユは座り込んでいた──
ナオトを探していたはず。ナオトがお祭りに朝から出てったって聞いて、お兄ちゃんにも黙って、街へ出てきた。すごく暑い電車にまで乗ったのに、ナオトはいなかった。ヘンな被り物をした人たちの中にいないかと思ってここにきたけど、やっぱりいない。何人かつかまえて脱がしてみたけど、騒がれるか怒られるか逃げられるだけで、ナオトはいなかった。
ティーダに乗っていれば、いつでもナオトを感じたのに。
マユは砂ぼこりの積みあがった噴水の端に腰かけ、両脚をぶらぶらさせながら考える。10時間近く歩きどおしだったが、戦士として強化されたマユの足は全く疲れを知らなかった。
どうして、ナオトがいなくなっちゃったんだろう。どうして、ナオトが分からないんだろう──
一日中、マユはその答えを探して街を彷徨い続けていたのだ。パレードの出し物である巨大な電飾ケーキを見て30分ほど子供と一緒にはしゃいだりもしていたが、マユは答えの分からないもどかしさに駆られ、歩みを進めるしかなかった。夕暮れまで。
そんな時だ。彼女が不意に、強い感傷の渦に囚われたのは。
胸の奥から湧きあがった衝撃に、マユは思わず立ち上がる。自分の中から生まれたものではない。近くで発生した、強烈な叫び。人を揺さぶる、魂からの絶叫。
自らに施された強化と、ティーダの能力によって研ぎ澄まされたマユの知覚は鋭敏にその感情を捉え、それは彼女にこれまで感じたことのない情熱を呼び起こす。
知ってる。私知ってる、すごく知ってる、この人を。違う、ナオトじゃない。ナオトは近くにいるけど、ずっと遠くにいるから、私もナオトも何も分からない。
これは、サイだ。サイの心だ。
よく分からないけど、私、サイの心を見てる。サイをフレイが包んで──サイが、泣いてる。
……泣いてる? 泣いてるって、何?
気がつくとマユは、砂の舞う道の上に腰を落としてしまっていた。感情の奔流に耐え切れずに。
むき出しになった幼い太ももの上に、暖かな水滴が落ちた。
何だろう、この水? 私の目からこぼれる水。痛い時だけ出るもの。お前は流す必要のないものだって、お兄ちゃんが言ってた──私、今どこも痛くないのに。悲しいから? 淋しいから? 嬉しいから? 私、そんなことないのに。
「違う。これは、その全部だ」
ラグランジュポイント──太陽と月と地球の重力が均衡する場所。
L1からL5まで5つあるこの中和点のうち、L3は地球の反対側に位置するポイントだ。そこに、工業用コロニー・ウーチバラは佇んでいた。
つい数ヶ月前に大規模テロのあったコロニー周辺では、ザフト軍による監視が一層強められていた。だがウーチバラ内部では、あれだけの破壊があったにも関わらず、異常とも思える速度で復興が進んでいた。
あの一件以来、殆どの内部情報が閉ざされている。テロ当時、連合とザフト双方から攻撃を受けた理由も謎のままだ。にも関わらず、民間企業ゆえという理由で、ザフト軍は必要以上の手出しは避けて監視のみにとどめていた。
「だが、現在は状況が違う。オーブもチュウザンもザフトの敵国となった。それに」スカイブルーのザクファントムの中で呟きながら、イザーク・ジュールはひたすら機体を一直線にガラスの巨大円筒・ウーチバラへ進めていた。淡く輝く月がかすかに右のモニターを流れる。「ロゴスの存在が暴露され、文具団が繋がっていることも明らかにされた。そのはずなのに……」
<ウーチバラは現状を継続、呑気なモンだよねぇ〜。よっぽど上はチュウザンとタロミ・チャチャがお好きなようで>
草色のザクウォーリアが左モニターに現れると同時に、ディアッカ・エルスマンの陽気な声がコンソールから響いた。能天気を装いながらも、真相に近いことをズバリ衝いてくる言葉はいつも通りだ。
「消されても知らんぞ」イザークはそれだけ応答し、既に限界近くまで上がりつつあった機体の推進力をさらに上げていく。ひゅう、とディアッカの口笛がコンソールから漏れた。
<で、見つかった? そのアンノウン>コロニーの周囲では、作業用モビルアーマーが幾十台も、光に群がる虫のようにせわしなく飛び交っている。
「まだだ」短いイザークの答えに、ディアッカの声に多少焦りが混じった。<早くしないと、帰還予定時刻を過ぎちまう。越権行為ってことぐらい、分かってんだろ>
イザークは答えない。ディアッカの愚痴はさらに続いた。<たは〜、だからシホを連れてくりゃ良かったのに。俺ら二人だけでたった一機の捜索って>
「ハーネンフースは母船でウーチバラ駐屯部隊との通信任務がある。連れていくのは得策ではない」
<んなこと言っちゃって、巻き込みたくないだけだろ。ミントンの件もあるしね>
「今すぐ消されたいか、ディアッカ」
<へいへい>
現在イザークたちが追っているのは、8分前にウーチバラから突如飛び出した、正体不明のモビルスーツだった。
沈黙を保っていたはずのウーチバラから、モビルスーツが射出された事実自体は特に不思議はない。ウーチバラは工業用コロニーであるし、これまでもコロニー間での作業艇の移動は何度となくあった。勿論、作業用モビルスーツの往来も。
イザークが母船で探知した該当モビルスーツが作業用でないという保証は何もない。だがイザークは殆ど動物的な勘で、その機体の異常性を感じていた。そいつが単なる作業用と明確に違う点は──
真っ直ぐに、地球へ向かっているということだ。しかも、尋常ならざる速度で。
<あの速度じゃどっちみち、このザクじゃ追いつけないぜ>
だがディアッカの言葉を打ち消すように、イザークは声を上げる。「ミントンとウーチバラでの屈辱を忘れたか!」
<イザーク! 感情だけで先走ったら、2年前の……>
陽気な口調を一変させて諌めにかかったディアッカに対して、イザークは冷静に続けた。「勘違いするな、単なる斬り合いによってではない。
自分のこの双眼で、あそこで何が起きているのか確かめる!」
それが屈辱を晴らす唯一の方法──イザークはそう信じていた。ティーダの件でヨダカから受けた屈辱は相当なものであったが、2年前ストライクに負わされた傷を考えれば毛ほどのものだ。自分は、あの傷すらも乗り越えた──その自分が、顎をいじられた程度で激してどうする。
幸い、イザークたちの居場所はウーチバラからそれほど離れておらず、彼らはすぐにウーチバラの黒い外壁に到達出来た。宇宙に溶け込むように、黒く閉ざされたガラスの円筒。
その向こうに、イザークは輝く月を見た。さらに向こう側にはわずかに青い光が見える──地球だ。
同時に、イザークは紅の光点を目撃した。それは地球の光に群がる蛾のように、紅の炎の粉を撒き散らし黒い翼を広げて飛んでいく鋼鉄の塊。ディアッカの叫びがこだまする。<あれだ!>
黒い威容を無重力空間に静止させたままのウーチバラを背に、ザクファントムとザクウォーリアの2機は星の海を突進していく。何とか紅の光に追いつこうとして──間もなく、機体情報がコンソールに表示された。
それを見て、二人は仲良く声を上げる。<何だこりゃ? レイダーだと!?>「何故、連合の機体がウーチバラに?」
一瞬コロニー内テロの可能性を考えたイザークだが、すぐに否定した。もし何かあれば母艦に連絡がある。そして何より──あいつは、ウーチバラの意思そのものだ。
確信があった。だからこそ追跡もした。そいつがウーチバラの真実を握る鍵になる、その確信はすぐそばの戦友も共有しているはずだ。
2年前のヤキン・デューエで激闘を繰り広げた、連合の忌まわしき機体。そいつが今イザークとディアッカの眼前で、まんまと逃げおおせようとしている。ディアッカの呆れ声。<あいつ、単機で大気圏突入する気か!?>
「捕らえろ! 何としても捕まえるんだっ、重力圏に到達する前に!」
二機の必死の推進力が功を奏したか、もはや肉眼でもはっきりとレイダーの姿が見える。ディアッカのザクウォーリアのオルトロス──高エネルギー長射程ビーム砲が、火を噴いた。イザークのモニターの下部を通過していく、幾本もの紅の光条。しかしレイダーは蝙蝠を思わせる動きで、ひらりひらりと光を避けていく。<イザーク、無理だって! このままだと、俺たちまで地球行きだっ>
ディアッカの声を嘲笑うように、レイダーの正面に白く巨大な傘──バリュートが展開された。
「何だ、ありゃあ?」イザークは思わず間の抜けた声を上げてしまう。<地上の奴らの、大気圏突入用装備だ。こうなってはもう……>
もうお手上げ、と言いたげなディアッカのザクウォーリアを尻目に、イザークのザクファントムはビームアックスを振りかぶり、さらに進もうとする。「諦めるな! あいつは、チュウザンに行く気だっ」<チュウザンだと? 理由は?>「勘だ!」
ディアッカが呆れて止めようとしたその時、ちょっとした雑音が通信に紛れた。
その0.5秒ほど後だった──予想だにしなかった人物の言葉が、イザークのコクピットに響いたのは。
『おやめなさい』
懐かしい声に、イザークの機体は衝撃のあまり急停止してしまう。もしこれが機体でなくイザーク本人だったら、確実に武器を取り落としていただろう。
それは並行して飛んでいたディアッカもほぼ同様の状況だったが、彼の方が若干冷静だったと言える。発声出来た分だけ。<何だ? 通信異常か?>
その美しい声は、全ての通信を遮断して、一方的に彼らのコクピットに侵入していた。『おやめなさい。無益な戦いは、もう、おやめなさい』
目の前のレイダーは既に大気圏突入を敢行し、地球とレイダーの間に張った傘の周りに紅の光が広がりつつあった。これだけ眼前にしながら、何も出来ないだと?
そんな感情をものともせず、声はまだ響く。イザークが尊敬してやまない声──それは紛れもない、ラクス・クラインの声だった。
「な……どうして? 何故ここで」
うろたえるあまり、疑問をそのまま口に出してしまうイザーク。勿論、ラクスが現在地上で議長と共に戦地を巡っていることは知っている。しかし今の声は、地上にいるはずの「現在のラクス」とは明らかに違う、厳かな雰囲気を持っていた。現在のラクスが持たぬもの──2年前、イザークが敬愛していたラクスに近いものを、イザークはその声に感じた。
イザークに言わせれば「現在のラクス」は、カリスマを失い戦意高揚に利用されているだけの、只の普通の少女である。好きか嫌いかと問われれば、迷いなくイザークは「興味がない」と答えていただろう。彼の中で、現在ラクスと定義される存在は、そこまで堕ちていた。
その意味で、今しがたイザークが聞いた声の方が、彼がかつて愛したラクスに近いものであった。失われたラクス・クラインが、今イザークの前で復活したというのか?
彼の動揺も知らず、声は続く。『おやめなさい。母船に戻るのです』
だが、ラクスの声には人を癒す力があったはずだ。今の、底冷えするような声は何だ? 声色は全く変わっていないはずなのに。
イザークはメットの中の冷や汗を感じ取る。瞬間、ザクウォーリアの機体が故意に左側から衝突してきた。もし通信が正常であれば、割れんばかりのディアッカの叫びが飛び込んできたはずだ。──あれを見ろ、イザーク!
そのままザクウォーリアに左肩部を掴まれ、イザークは機体の方向を強引に逆にされる。
その瞬間、イザークは知った。状況が想像の極限を超えると、自分の唇が笑いの形になることを。いや、自分だけではあるまい。これを見れば大抵の人間はそうなるはずだ。ディアッカはもっと間抜けな顔をしているだろうが。
そこにあったものは、宇宙いっぱいに広がる、巨大なラクス・クラインの笑顔。
薄桃色の柔らかな髪を星の海に拡げ、宇宙を抱くように優雅に両腕を開き微笑み続ける、イザークの女神。
<イザーク、落ち着け! 機体が動いてないぞっ>ようやく通信が回復し、ディアッカの声が何度も反響する。それでイザークは幾分か冷静さを取り戻した。
落ち着いて状況を把握する──コロニー・ウーチバラの外壁いっぱいに広がるラクス・クラインの映像が、イザークたちに迫っていた。
外壁を構成している何百万枚もの強化ガラスがモニター代わりとなり、粒子のようにラクスの姿を合成し、宇宙を彩る光となってラクスを浮かび上がらせていたのだ。
通信は再び途切れ、声がまた響き出す──女神の微笑みと共に。
『私は、ラクス・クラインです。戦いをおやめなさい。私はラクス・クラインです』
そろそろ日が傾きかけた、ヤハラの川岸。対岸では祭りの準備がひと段落し、子供たちは親に手を引かれ、三々五々引き上げていく。
それでもナオトは未だ、絶望を抱えたまま座り込んでいた。薄くなっていく人の気配。ただ漠然と、赤茶けた川は流れていく。
膝の間に顔をうずめたナオトの耳に、ひときわ低く長い汽笛が聞こえる。川を通過するコンテナ船の汽笛だ。
無気力に顔を上げてみると、目の前を、戦艦二隻分ほどの巨大な船が、今にも沈みそうなほどの荷物を搭載して川を下りつつあった。船の影はナオトを飲み込まんばかりに覆いつくしていき、彼の目からは対岸が全く見えなくなる。
だが、ナオトの目には船は見えていても、心で感じていなかった。ナオトはただひたすら、自己の内部に引きこもり、意識を閉じ込めていた。何が起きようとそこから動かぬつもりだった。
だが、ティーダによって中途半端に鋭敏になってしまったナオトの感覚は、無理矢理に彼を現実へ引っ張り上げていく。生活排水と工業排水がたっぷり混じった泥の川を悠々と横切る白い船──その向こうに、ナオトは意志の存在を感じた。
こちらへ向かおうとする意志。こちらへ突進しようとする意志。──攻撃の意志。
「何だ……?」この感覚はどこかで感じたことがある。どこで? ウーチバラで、ハーフムーンで、チュウザンでも何度も──暮れていく太陽の熱気の下で、緊張に膨れ上がっていく空気。
ナオトは反射的に立ち上がる。「ヨダカ・ヤナセ?」
脳裏に浮かんだその名を思わず口走り、ナオトは必死で頭を振った。「違う、これは奴じゃない。奴はいないはずなんだ、フレイさんが……」
そうだったか? フレイがヨダカを殺したと断定しかけてナオトは思い出す。あの時、僕は状況が殆ど見えていなかった。ヨダカがどうなったか、全く把握していなかった。ティーダを攻撃してきたディンは確かにアフロディーテがやっつけたはずだ、しかし後方にいたヨダカは?
だがナオトは激しく否定した。「いや違う。確かに違うんだ、これは奴なんかよりもっと……」
そんなナオトの前を、コンテナ船が白煙を吐きつつゆっくりと、1分ほどもかけて通り過ぎていく。そして対岸がもう一度見えかけた、その時──
ナオトは見た。川の向こうに、今までなかったはずの黒い城壁が築かれている光景を。
堂々と夕空高く、煙の中でそびえる壁──ナオトの良い視力は、それ以上の現実を瞬時に、残酷に彼に伝える。
「何で? ダガーが……」
城壁ではなく、それは灰で汚れたモビルスーツ──ダガーLだった。いやダガーLだけではない、ストライクダガーに腕のないウィンダム、そしてミストラルなどのモビルアーマーまで。それが何機も何十機も、いや何列も地獄の亡者の如くに折り重なるように整列し、川岸を埋めている。
ほぼ全ての機体に共通するのは、整備不良で腕やら首やらが損傷している上、元の色が何だったかよく分からぬほどに装甲が泥まみれだということだ。そして機体の肩に、手に、腕に、1機につき5人ほどの割合で人が乗っている。巨神を先導する悪魔のように。
夕闇の中、ダガーLとストライクダガーたちが一斉にカメラアイを光らせ対岸のナオトを睨みつける。紅に光る巨神の、幾百もの眼球。唸りを上げる機動音。
瞬間、ナオトの気が遠くなる。血が頭からひいていき、何も聞こえなくなる。身体が動かない。
対岸から轟くときの声。チュウザン中を揺さぶる、人々の絶叫。今のナオトの唯一の武器とも言える大声も、天空を揺るがすエンジン音とときの声で脆くも踏み潰されていく。地鳴り、いや地震と言ってもいい震動と共に、巨神たちは一息に走り出した。後方で待機していたダガーLの砲が、一斉に炎を噴く。
「チュウザンを救え! 意識を変えろ! 文具団を潰せぇ!」
川を突っ切って、波を蹴立てて、悪魔となった人々は神を従え、攻撃を始めた。全てを蹂躙し、全てを変革し、全てを壊す為に。
幻の夕陽はすっかり水平線の向こうへ消え、輝く月がドームに出現していた。
サイと、フレイ──フレイを名乗っていた少女はプラネタリウムの中心で、ずっと疑似の星空を見上げていた。
薔薇は既に消え、周囲には紅の座席が扇形に並んでいる。全くの無人だ。円形の劇場の中で、サイと少女は二人きりだった。
2年分の涙を流しつくしたサイは、疲れきって座席を倒して横になっていた。その右手に、少女はそっと触れようとする。だがやんわりとサイはその手首を掴み、自分に触れさせようとしなかった。
「君が、俺のことを想ってくれることは、嬉しいよ。本当に心から嬉しいんだ」
泣きはらした眼としゃがれ声が、自分でも恥ずかしかった。おまけに先ほどは鼻水と涎まで、少女に指摘されて慌てて拭いていた。
「だけど、君のことをちゃんと知らないと、俺は君の望みを叶えることは出来ない」サイはそれでも淡々と話し続けた。「知りたいんだ。君は誰なのか。
俺なんかを好いてくれた君が、誰なのか」
その時、少女はつと身を起こした。幻の月だけが輝く闇の中を、探るように眼を凝らしている。「今の私は、フレイ・アルスターだ」
「それは違う。君の本当の名前が、俺は知りたい」
「出来ない。私に許された名はそれだけだから」
「意味が分からない……名前は人間を現すものだ、許されるも何もあるものか。君は本来の名を奪われてフレイを名乗らされている、そうじゃないのか?」
サイに横顔を見せたまま、少女は答えない。サイは畳みかける。「今の君の言い方だと、そう思えてならないよ」
「静かにしろ」
見ると少女は、鷹のように目つきを変貌させていた。その異常に、サイもようやく気づく。「どうした?」
「砲撃が聞こえる。川の方向からだ」
言われてみて、サイは初めて気がついた。ドーム全体を、妙な軋みが襲っている──機器の異常かと思っていたが、違ったのか。それに、あれだけ暑かったはずなのに妙な底冷えがする。冷房の効きすぎではなく、身体が敏感に危険を察知したせいなのか。
「出るぞ! 状況を確かめる」少女は紅い髪をかきあげて立ち上がり、サイの手を強引に引っ張って出口へと向かう。
ほどなく、地鳴りの如き砲撃音が彼らを揺さぶった。幻影の星空が瞬時に消え、全ての電源が落ちる。非常灯の赤い光だけを頼りに、二人は座席の間を走った。怒りをこめた少女の呟きが流れる。「姉上……予定とは40時間も違う!」
揺れの中、出口へ走る少女。サイも倒れこむようにしながら何とか出口へたどりつく。
ガラス張りのエントランスは激しい震動を続け、天井から建材の粉が落ちていた。滑らないようにしながらエントランスを駆け抜け、サイたちは外へ飛び出した。
映画館から出た時と同じ、幻想から現実へ戻された時の眩暈がサイを襲う。そして、次に眼にしたものは──
「何だ……コレ」
あまりの状況に、サイにはそれ以外の言葉が出せない。そこにあったものは、祭りを祝うイルミネーションだったはずだ。豊穣を願うため、オレンジにタマネギにパイナップルに魚、生きとし生けるものを模った様々な巨大な出し物が配置され、豪華な電飾を施されていたはずだ。
それが今、外装を破られ、ケーブルだらけの内臓をぶちまけられ、劫火に包まれている。夕陽がまだ沈んでいないと錯覚したのは、激しい炎の照り返しのためだった。炎を上げる街の中を蠢くもの──それは、ダガーLの黒い影。悲鳴と怒号。砲撃。子供の叫び声。
「同じだ。殆ど同じだ。君と初めて会った時と」眼前の光景から目を離せないまま、サイは少女に呟く。楽しげな雰囲気だった街は、一瞬にして地獄と化した。
さっきのドームの光景と同じく、これも幻であることを願わずにいられないサイだったが、桜のように舞う火の粉は容赦なくサイの服や腕、髪を少し焦がしていた。アマミキョへの通信を試みたが、既に通じない。
そんなサイを庇うように、少女が炎の街とサイの間に立つ。「お前はここにいろ。私はアマミキョへ連絡する、今のところここが一番安全だ」
そういうが早いか、サイの答えも聞かずに少女は炎の中へと駆け出した。またモビルスーツの強奪でもする気か──そう思う間もなく、彼女はビルの間の喧騒の中へと消えていく。
あっという間に見失ってしまったサイは、ただひたすら通信機をいじる他はない。あちこちで噴き出す火花と爆撃、ビルと家の間をのしのしと歩くダガーL、確認できただけで3機。ニュートロンジャマーの影響が強くなったのか、それとも混乱の為か、回線はほとんどつながらなかった。50秒ほど通信機と格闘した後、サイは諦めて今出たばかりのドームを振り仰ぐ。ドームの向こうの空は、赤黒く燃えていた。
彼女がああ言うのだ、ここが一番安全なのだろう。理由は知らないが、彼女の断定が外れたことはない。初めて会った時もそうだった。
サイは根拠のない予測にすがり、ドームの陰に身を潜めようとする──その刹那。
サイの全身を、真っ黒い影がぬう、と覆いつくした。
思わず空を見上げる。と、すぐ上空をすっぽりと、象のような巨人がサイの視界を埋め尽くしていた。
よくサイが目にするティーダ、アフロディーテ、そしてフリーダムと同じ顔の巨神。街を徘徊する汚れきったダガーLとは違い、全身が真っ黒に輝いている。縁を紅に彩られた黒い翼をはばたかせ、そいつは上空から舞い降りてきた。サイを吹飛ばしかねないほどの震動を伴い、ゆっくりと瓦礫だらけの道路へ着地する。
そしてサイは見た──黒の巨神が、直径2.5メートルほどもある鉄球を、天空に振りかざす光景を。しかもその鉄球は、漫画で見るようなふざけたトゲもどきを何本も生やしている。
その鉄球は間違いなく、サイ一人を狙っていた。
あれは2年前、アークエンジェルやフリーダムを苦しめた連合のモビルスーツ・レイダー──そう認識した瞬間、サイの身体は地面から1メートルほど浮き上がっていた。灰燼と共に。
同時に、たった今までサイがいたはずのドームのエントランスが、粉みじんに砕けた。サイの上に雪のように降りかかるガラスの粉。
次の0.3秒で、サイは身体ごと砂だらけの地面に打ちつけられる。そのままゴムまりのように2、3度跳ね、道路の反対側まで飛ばされて塀に背中を激突させてしまう。血まじりの唾が、喉から飛び出した。
肺が潰れるかという衝撃で気を失いかけたサイだが、それでも砂だらけになりながら身を起こす。歯を食いしばり、頭を振った。
せっかく動き始めた時間、こんなところで止めてたまるか!
サイは外れた眼鏡を拾い上げ、目前に迫った黒い巨体を振り仰いだ。街のあちこちで起こる火柱にも一寸たりともたじろぐことなく、ゆうゆうと巨神はそそりたつ。
と、スピーカから声が流れ出した。状況に似つかわしくない、呑気な声が。
<ここも暑いなぁ。大気圏突入したばっかりなのに、人使い荒いよ全く>
胸部の下に配置されているらしきコクピットブロックが、機動音と共に開いた。
まだ少年のような体格を黒いパイロットスーツに包んだそのパイロットは、サイを見下ろす形でゆっくり立ち上がる。また響く声。<あれ? 意外としぶといねぇ>
サイはそのまま動けない。物理的にも、そして精神的にも激しい衝撃を受けていた。この声──この口調──
俺は知ってる。まさか、あいつが生きていたっていうのか?
2年前、俺たちが死なせてしまったようなあいつが──サイの足がふらりと1、2歩後退した。
嘘だ、やめてくれ。お願いだ、頼む。まさかお前まで、フレイと同じように俺たちを混乱させようってのか!
レイダーはサイの方向へ一歩、踏み出した。道路が揺れる。壊れたガラスで転びかけながらも、サイは必死でレイダーから逃げようとしてドームの陰に戻った。鉄球をぶらぶらさせながら、レイダーはまだサイへ近づこうとする。開かれたコクピットでは、パイロットがメットを外していた。
やめろ、お願いだ、やめろ──サイの願いも虚しく、メットはゆっくりと外された。<あ、そうだ。聞きたいんだけどさ、ミリィは元気?>
メットの下から、癖のあるちぢれた黒髪が出現する。白い肌には大量の汗が流れているようだが、その汗は決して焦りによるものではない。今しがたサウナに入ってようやくさっぱりした、という按配の、気持ち良さそうな汗だ。
サイは壁まで追いつめられる。息は上がり、心臓が破裂寸前に波打っている。もう間違いない、こいつは──!
コクピットの少年は、にっこり微笑んでサイを見下ろした。スピーカを通さずとも、その肉声がはっきり聞こえる位置まで、サイと少年は近づいていた。「お久しぶり、サイ・アーガイル。
俺だよ、トール・ケーニヒ。2年ぶりだし、忘れちまったかなぁ? 今日はお前に用事があってさ……」
再び振り上げられようと機動する、左腕の鉄球。少年は笑顔を崩さず、ウィンクまでしながら明るく言った。小銭貸して、と言う時と全く同じ口調で。「ごめんっ。悪いけど、ちょっと死んでもらっていいか?」
つづく