眼前の出来事が、サイには、二重三重の意味で信じがたかった。
死んだと思っていたかつての友人が、生きていた。さらに彼が今まさに、自分を殺そうとしている──しかも、笑いながら。
炎を巻き上げ崩壊していく街の片隅で、サイは黒の巨神を前にして、動くことが出来なかった。
そんなサイに向かい、レイダー・ガンダムを駆る少年は悠々と語る。「木を隠すなら森の中。殺人を隠すなら戦争の中、ってね。昔の人はよく言ったもんだよなぁ」
トールを名乗る少年はほぼ真上からサイを見下ろしていた。そのままの体勢で少年はゆっくりと、レイダーの右腕を水平まで上げた。その腕部には、2連装52mm超初速防盾砲──シールドと2連装機関砲が組み合わさった、複合武装が唸りを上げている。そのままその腕が武装ごと、サイへ向かって振り下ろされてきた。
熱い風を切って、10トンを超えるかというほどの鋼鉄が頭上へ落ちてくる。真っ直ぐに、自分に向かって。思考をめぐらせている暇などなかった。
撃とうともしなかったのは、撃つエネルギーすら俺ごときを殺すにはもったいないということか。サイは侮辱にも似たものをその単純な攻撃に感じながら、必死で身体を動かそうとした。その瞬間──
「サイ! 逃げろおぉおおおおっ」
矢のように飛んできた声に、サイは反射的に振り向いた。
走ってくる。紅の髪の少女が炎と瓦礫の中、ひたすらに自分に向かって駆けてくる。フレイと同じ姿形の少女が、今までからは信じがたいほどに口元を歪ませ、大声で叫びながら、遠目でも分かるほど汗を肌から飛び散らせ、走ってくる。「この空爆の目的は、お前だ!」
この少女の姿と声を認めた瞬間──レイダーの動きが、明らかに鈍った。
トールを名乗った少年の目が、僅かに驚きで見開かれる。その表情の変化は地上のサイでも分かった。
その数瞬のためらいの間に、サイは動いた。咄嗟に踵をかえし、崩れかけたドームの陰に飛び込む。ちょうど、レイダーからは死角だ。
このトールは、冷静さと軽さを装っているように見えて、かなり実直な性格なのではないか。かつてのトールにも、そんな処があった──ぼんやりと考えた時、頭上で轟音が響いた。
埃まみれになって見上げる。ガラスと一緒に、割れたパウンドケーキのような壁が降ってくる。再び少女の絶叫。
「サイっ!」
叫びと同時に、暴動の街に似つかわしくない柔らかく暖かな感触がサイを包み、身体ごと宙に浮かび上がった。目の前に広がる、少女の紅の髪。上半身に力いっぱいおしつけられる、弾力のある胸。炎の中で僅かに鼻をつく、ジャスミンの香り。涼やかなフレアスカートの感触。
──彼女は、フレイではないけれど、フレイだ。
サイが何故かそんな確信を抱いた瞬間、少女の白い背中から、真っ赤な血が飛び散った。
まるで、炎に舞い散る紅い花びらのように。
 


PHASE-26 血みどろの懺悔



暴徒と巨神が溢れかえって街へなだれ込んだ頃──やや静かになった川のほとり。
砲撃音がやや遠くなる場所が、そこにあった。半壊した木造家屋が乱雑に並んでいる、石と泥とゴミだらけの河岸。
祭りのパレードで出す予定だった、紅白の電飾に彩られた巨大な魚がそこに鎮座している。人5人ほどが乗れるその魚のそばには、パレードスタッフが2名ほど、血を流して倒れていた。彼らは既に息をしていないがケーブルはまだ断線しておらず、魚は狂ったように明滅を続けていた。
そこより少し離れた河原で──ナオトは今、草むらの上に無理矢理投げ出され、しりもちをついていた。
巨神たちの暴走から必死で逃げている最中、目の前の母子連れの母親の方が突然現れた暴徒に殴られ、2秒で川に落とされた。母親はそのまま浮き上がってこず、子供が恐怖のあまり泣き出した。思わずその子を庇うようにして前に出た時──
いきなり横腹を蹴り飛ばされ、倒れたところを腰から幼子のように軽々と抱え上げられたのだ。子供がどうなったのか分からないまま、ナオトは足を虚しく空中でばたつかせる以外になす術もなく、ここまで連れてこられたというわけだ。
全く、僕の体重はどれだけ軽いんだ──毒づきながら顔を上げてみると、既にナオトは5人ほどの屈強な男たちに囲まれていた。
「どういうことですか! あんたたちはこんな時まで、何をしようとしてるんだよっ」
砲撃音はまだ鳴り止まず、赤黒い空には子供と女の悲鳴がこだまする。男たちはナオトを見て何事か喚いていたが、そのうち一斉にナオトを睨んだ──というより、舌なめずりをしていた。唇に光るピアスが見える。ナオトの抗議に答える者は、誰もいない。
川の音がすぐ右で聞こえる。川とは言ってもそこは毒の泥をたっぷり含んだ下水と同じだ。生活排水と工業用の薬剤とゴミが大量に混ざってそのまま流れているようなもので、赤茶けた泥土が水を含んで流れているのと変わらない。ナオトから見て右斜め前にはくぼ地が出来ており、そこにはさらに汚れ、腐りきった緑茶色の泥が流れ込んで池となっていた。
「ここにだって、いつ砲撃が来るか分からないだろ! 一刻も早く……」
ナオトの言葉に全く耳を貸さず、無言でじりじり近づいてくる男たち。既にどこにも逃げ道はない。熱風が激しくふきすさび、ナオトのネクタイが翻る。思わずナオトは襟をきゅっと締めなおし、胸元に隠したお守りを握った。激しくなる風が、フレアスカートのようにナオトの半袖をはためかせる。二の腕までまとわりついてくる生暖かい空気が、気持ち悪かった。無意識のうちに唾を飲み込む。
と、やおら男の一人がナオトのデイバックを取り上げると、中身を全て河原にぶちまけた。
「何するん……っ!」思わず立ち上がって抗議の叫びを発しかけたと同時に、頭を拳で殴られた。光が目の前で飛び跳ね、ナオトは赤茶けた土の上に横ざまに倒される。左の頬に、妙に大量の汗が流れ始めた──と思って手を当てたら、それは自分の血だった。ワイシャツの襟に、真っ赤な血が滴っていく。
次の瞬間、男がナオトの胸倉を引きちぎらんばかりに掴み上げ、口汚くナオトを罵った。言葉は地方なまりが酷く殆ど聞き取れない有様だったが、どうやら男たちはナオトがオーブ出身のレポーターということに気づいていたらしい。そして──ハーフコーディネイターである事実も。
両足が地から離れてしまうほどに持ち上げられながら、ナオトは直感した。これから、自分に向かって吹き荒れる暴力を。だが同時に、ナオトは彼なりに覚悟は出来ていた。
──構うもんか。こんなの、今までいくらでもあったじゃないか。随分昔から、一人で遊んでいたらこういう場所に連れてこられて……
唇をなめて血の味を噛みしめながら、ナオトは戦う決断をした。大丈夫、僕はこれでもティーダに乗ってたんだ。そう簡単に、こんな奴らにやられるもんか。
ぺっ、と血混じりの唾を目の前の男に吐きかける。その途端、足元から浮き上がっていた身体がさらに高く差し上げられ、次の瞬間河原の土に叩きつけられた。今度はしたたかに腹をうち、動かなくなってしまう身体。近づいてくる、男の口笛と叫びと靴音。
無理矢理首すじを掴まれて起き上がらされる。男たちは奇妙に大きめのカボチャを2個と、ビール瓶を持ってナオトを取り囲んでいた。カボチャは祭りの仮装用のもので、大人の頭ぐらいならすっぽり入ってしまうほどの大きさだ。目と鼻と口に当たる部分が三角の形にくりぬかれている。
カボチャの顔面は今、逆さになってナオトを笑っていた。電飾の紅白の光が、カボチャの表面のぬめりを照らし出す。砲撃音。また子供の悲鳴。地鳴り。ナオトの心拍が一気に上昇する。自分でもわかるほど、心臓がどくんどくんと早鐘の如く鳴っていた。
黒い目と鼻と口には、人の髪の毛が詰め込まれている。2つのカボチャの中には、川で汲まれた油まみれの泥水と生ゴミがたっぷり詰め込まれ、ひどい異臭を放っていた。近づいてくる足音とカボチャ。中のビーフシチューのような泥水まではっきり見えた。
反射的に逃げようとしたナオトだったが、いつのまにか背後から腕を締め上げられていて全く動けない。二人の男がナオトの腕を丁寧に一本ずつ、折れそうなほどに引っ張り上げていた。足を踏ん張って立ち上がろうとしたが、男の革靴がナオトの膝を裏側から無造作に押さえつけている。耳元にかかる男の口臭。背筋に凄まじい震えが走った。父の顔が脳裏に浮かぶ。──この世界で生き抜くには、お前のようなよりよい種を残すことが重要なんだよ。
「い……嫌だ、イヤだイヤだっやめろおおおおおぉおおお!」
こいつらは──僕を陵辱する気だ。それを悟った時、ナオトは全身で叫んでいた。


サイが気を失っていたのは、ほんの10秒ほどだったらしい。
すぐに硝煙と砂の臭いが鼻孔を刺激し、熱風で煽られる身体を感じる。地表に転がっている自分──そして、依然として悠々と空にそびえる黒い鋼鉄の塊。爆音と悲鳴がサイの耳に復活した。
だが、鋼鉄とサイの間に立ちはだかる者がいた──サイを守るように両手を広げ、レイダーに正面から立ち向かう紅の髪の少女が。
炎の粉の中、長い髪は女神の旗のように流れる。サイの真上で翻っているスカート。だがその布地は半分近く、血の赤で染まっていた。
「フレイ!」サイは思わず、少女の偽りの名を呼んで立ち上がる。既に彼女の身体は背中から腰のあたりまで大きく切り裂かれ、懸命に身体を支える白い脚には細かなガラスが幾つも突き刺さっている。スカートは裾から大きく裂けて左太ももがむき出しになり、背中から流れる血は水色のワンピースを紅いチャイナドレスに変貌させつつあった。
それでも少女は、サイの前から離れようとはしない。レイダーの上の少年の顔は先ほどの余裕はどこへ消えたか、明らかに動揺で歪んでいた。「姫ぇッ! 何故です、これは姉上の命です!」
「トール! トール・ケーニヒッ」その言葉を一閃する如く、少女は声を張る。「貴様、第103号通達を忘れたか! 私のことは……」そこまで言いかけて、彼女は痛みで脚をふらつかせた。サイは思わずその肩を支える。
「しかし……」少年は溢れる感情をぐっとこらえ、かなり歪んだ笑顔を作ってみせる。その笑顔にありったけの力を総動員している様子なのが、サイにも分かった。「ねぇフレイ、頼むよ。残念だけど、サイは君に生じたイレギュラーと判断されたんだ。どういう意味かは、君には分かるよねぇ」慌てて作ったらしい精一杯の猫なで声は、若干うわずっている。
だが、この努力を目の前にしても、少女はその場から一歩も動こうとしなかった。「駄目だ。この男は──私が見つけた、奇跡なんだ」
サイは俄かにはその意味が掴めず、少女を見つめるしかない。この少女と出会ってから訳の分からないことばかり続き、さっきようやく全貌が見えかけてきたと思ったら、この事態だ。
俺が、この女にとって、奇跡だと?
レイダーの2連装52mm超初速防盾砲の砲口が、ゆっくりと少女とサイの眼前に突きつけられる。「僕は、貴方がたご姉妹二人とも、結構好きなんだよ。やめてほしいな、そういうこと。
これだから、ニコルたちには任せたくなかったんだよ!」
黒髪の少年は髪を片手でかきむしりながら、少女を怒鳴りつける。少女はゆっくりと頭を横に振り、それに答えた。「分かっている。お前が姉上の命には逆らえないことも──
なら、遠慮なく私を殺すがいい」
「出来るわけないだろ! そいつは卑怯だフレイ、どいてくれよっ」
「どかぬ! この男を殺すというなら、私を一緒に殺せぇっ!」
少女は頑なに、サイをかばったまま石のように動こうとしなかった。サイはその耳に、そっと声をかける。「無理するな」
少女はレイダーを見据えたまま呟いた。「心配無用だ、この程度……私はコーディネイターだぞ、フレイの忌み嫌った」
「そんなこと言ってんじゃないよ」みなまで言わさず、サイは少女の背中を抱き、自分の肩に腕を回させた。「これだけ血が出たら、誰だって危ない」
レイダーの上の少年は、ふぅとため息を漏らして両手を振っていた。振る演技をしているようにも見える。「そうかい。そこまで、思いつめているのかい」
余裕さを装いながらも、自分の中の若い感情をどうしても隠せないでいる──トールではないと思いたいサイだったが、何故かトールと符合するものを感じずにはいられない。
「トール!」サイは敢えてその名を叫び、彼に正面から立ち向かった。「ひとつだけ、聞きたい」
少年は訝しげにサイを見下げる。お前が俺に話しかける権利などない、と言いたげに。そんな彼に、この問いを発して良いものか? 自分たちをさらなる危機に追いやるのではないか。サイの中で一瞬逡巡が生まれたが、それでも声を張り上げた。「お前──いや、君がトール・ケーニヒを名乗る理由は何だ?
顔と姿を変えてまで、俺たちの前に現れた理由は何なんだ!」
「へぇ……」少年は呆れると同時に少し感心した、という感情を露にしてサイと少女を交互に見やる。「もうそこまでバラしちゃったのか、フレイ。カイキやマユ、ザフト組が可哀相だと思ったことないの?」
少女は黙って唇を噛む。その口元からは僅かに出血していた。少年はさらに続ける。「俺も、再会してみて分かった。サイは勇敢だし、冷静だ。頭もいいし、肝も据わってる。俺がかつて友人とした理由も分かった。
だけど残念ながら、姉君にとってはイレギュラーなんだよ。
言ってみれば、ゴミなんだ。君とキラ・ヤマトにとりつくゴミだ」
「何だと……」皮肉でなく真顔で言ってのける少年に、今度は少女が怒りを露にした。少年は彼女から一瞬眼を逸らし、スピーカから漏れるか漏れないかぐらいの小声で呟く。「怒るなよ、フレイ。俺だって似たようなもんだからさ」
「俺の質問に答えろ」サイは割り込んで怒鳴る。今の発言は、さすがにプライドが軽く傷ついた。「フレイは弱ってる!」
レイダーの砲口の角度が僅かに少女から逸れ、今度は真っ直ぐにサイに突きつけられる。直径1mを超えるかとすら思えるほど巨大な、黒い砲口。少年の指先一つで、サイの魂も身体も粉みじんに吹き飛んでしまうであろう位置だ。
少女が懸命に前に出ようとしたが、サイはそれを制止して背中で少女をかばった。サイの襟からほんの10センチちょっとのところで、熱せられた2連装52mm超初速防盾砲が唸りを上げている。この奥にほんの僅かでも閃光が見えたら、それが最期だ。武装の熱で、サイの皮膚から一気に汗が噴き出した。その中には幾分か、冷や汗も混じっていただろう。
「ふぅん。やっぱ、強い奴だね」それを見て、少年は諦めたようなため息と共に、笑いを漏らした。「分かった、教えるよ。勇敢なる友である、サイに免じて」
少年はひとつ熱風を吸い込むと、さらに言葉を継いだ。「トール・ケーニヒを名乗る理由はごく簡単だ。
俺が、トール以外の何者でもないからだよ。姿も顔も、変えた覚えはないね」
「何だって?」サイは一瞬、愕然とする自分を感じた。
完全な偽者だと思いたかった──俺を平気で殺そうとしたこの男が、トールであるはずがないと思いたかった。キラを助け、俺たちを守るために飛び出していったきり帰ってこなかった優しい友人と、今の皮肉屋の殺人者が同一人物だなどと、サイは信じたくなかったのだ。
思わず少女を振り返る。彼女はただ、じっと目を伏せたまま動かない。否定も肯定もしない。
そこへさらに、トールの声が被った。「ただ、記憶は戻っていない。サイやミリィたちと友人だったっていう記憶は、残念ながら後から与えられた情報でしかないんだ」
「だったら!」サイは砲口に触れる寸前になるのも構わず、レイダーに近づく。もし、お前が本当にトールだというのなら、何よりやるべきことがあるじゃないか!──サイの感情は、あまりの現実の連続からか、昂ぶりすぎていた。「俺より、ミリアリアに会いに行けよ。お前がいなくなって、彼女がどれだけ苦しんだと思ってる!」
だがその昂ぶりに水を浴びせるが如く、少年はひらひら片手を振る。「たった今言っただろ? 記憶がないって。そんな状態で彼女に会っても、苦しめるだけだ。サイなら分かるはずだけどな」
その言葉で、サイは我に帰った。そうだ、全くその通りだ──こんな男をトールだと言い張ってミリアリアに会わせたところで、彼女は混乱するだけだ。フレイと再会した(と思っていた)俺が、そうだったように。
「サイ。色々報告は聞いてたけど……お前、優しいんだか残酷なんだか分からないよ」
レイダーの砲口が徐々に上がっていき、サイの前から熱と光による0.01秒の焼死の恐怖が消えていく。「まぁ、いいさ。フレイとサイの勇気に敬意を表して、今日は退散する」
少年はコクピット内のディスプレイをちらりと確認しながら、にっこり笑って見せた。「もう一つの目的は果たせそうだし」
その言葉に、少女が雷に打たれたように顔を上げる。「待て! 今なんと……まさか、まだ早すぎる!」
だが、少年は冷たくその言葉を退けた。「フレイ。これ以上君のわがままは聞けないんだよ、もう実は十分熟してる。あとは、弾けるのを待つだけだ。
それとも、そんなにサイに嫌われるのがイヤかい?」
少女は傷ついた背中もそのままに、黙り込むだけだ。こんな彼女は初めて見た──いや、言い負かされて悔しげに唇を噛む表情は、かつてのフレイ以外の何者でもないようにも見えるが。
彼女は、本当に、フレイではないのだろうか? 横顔を見れば見るほど、フレイそのものに見える。紅の髪も、白い肌も、海と同じ色の瞳も、細い首筋も。
さらに追い打ちをかけるように、少年は告げた。「あと、サイ。これだけは忠告しておくよ。
今俺がやらなくとも、いつか必ずサイを消しに来る奴は現れる。それも、かなり近い未来に」
サイは俄かには意味が分からない。俺に、それほどまでして消したい何かがあるというのか? 平凡な民間人にすぎない、この俺に──サイがもう一度レイダーを見上げかけた、その瞬間。
「逃げろ、アーガイル! アルスター嬢っ」時澤軍曹の絶叫が、その場に轟いた。
少年は身を翻してコクピットに飛び込む。ほどなく、炎に染まった空中から、ジェットストライカーの巨大な翼を閃かせた歴戦の機体・ウィンダムが舞い降りた。サイたちを守る神のように。
そのまま、自然の重力に任せてレイダーを殴りつけるウィンダム。肩部に刻まれた「天海」のエンブレムが、炎の中輝いた。レイダーは咄嗟に、破砕球ミョルニルでウィンダムの拳から機体を守った。
<無粋だよ! 友との再会を邪魔するなんてさっ>
青と白のカラーリングの輝きは、レイダーの黒とは対照的に、ひどく清浄なものにサイには思えた。時澤の声が、サイに向かって響く。<B31ブロックに広瀬少尉がいる、すぐ合流しろ! そこなら安全だっ>
レイダーの後方の幹線道路を、津波の如くダガーLの集団が流れていく。その先で、通り道で、そこかしこで爆発が起こる。ろくな武器も持っていないのか、モビルスーツの集合体はただ子供のように歓声を上げ暴れ回り、街を踏み荒らしているだけにも見えたが、それでもこの街は加速度的に破壊されつつあった。
サイはもう一度しっかり少女を支えながら、レイダーとウィンダムの戦いに背を向けた。血まみれの少女の細い身体は、何とか必死で自ら立ちあがろうとしている──だが、限界があった。
立っていられるのが不思議なほど、少女の背中は酷く切り裂かれていた。常人であれば、死んでいてもおかしくはない。血の気の失せた頬に、うっすらと塗られた紅が映えた。
「フレイ。しっかりつかまれ、頑張れよ」サイが声をかけると、少女の血まみれの唇が笑いの形を作った。「お前はまだ私を、フレイと呼ぶのか」
「君が本当の名を言わない限り、俺は君をフレイと呼ぶしかないだろ。それとも姫とでも呼んでほしいか、さっきみたいに」
爆音で揺れる地表。砂だらけの道路をゆっくり踏みしめながら、サイはフレイの腰を支える。「私はお前を、ずっと欺いてきた女だ。見捨てることだって出来るぞ」
「バカ言え」炎で熱せられた瓦礫を乗り越えつつ、サイは道を切り開いていた。「俺を好いてくれた女を守れないなんて、もう、ごめんなんだよ!」
背後では、ウィンダムがレイダーに対してやや優勢に戦っていた。かなり長めの銃身を誇った2連装52mm超初速防盾砲は、ウィンダムの最初の2撃ほどで叩き壊されている。機体の素早さを利用し、ひたすら拳を叩きつけてくるウィンダムに、レイダーは次第に防戦一方になっていた。時澤が吼える。<二年前の新型ではなァ!>
<やめろよ! 俺はあんた達と戦う気はないんだよっ>
<貴様はチュウザンの救援部隊に銃を向けた! その一点のみで、十分戦闘の理由になる!>
有無を言わさず最小出力のビームサーベルを抜き放ち、ウィンダムはレイダーに斬りかかる。破砕球を振り回しながらウィンダムをよけるレイダーだったが、遂にビルの壁に思い切り叩きつけられてしまった。ウィンダムにのしかかられるレイダー──その時、破砕球ミョルニルが光を放ち始めた。
<全く……連合は強情っぱりだ!>
トールの叫びとともに、直径2.5mを誇る破砕球はウィンダムまでも包み込み、大爆発を起こした。


ナオトの叫びも虚しく──頭上から、冷たい泥水が降ってきた。女の髪の毛、血の塊、腐った魚、リンゴの皮、カビまみれの雑巾と一緒に。
「あ……うああああああぁあああっ!」 悲鳴と共に、泥水は一気にナオトの服と身体に染み込んでいく。洗ったばかりのミントグリーンのワイシャツが、赤茶けた泥で汚されていく。炎の音や砲撃と一緒に聞こえる、男たちの笑い声。両袖から流れ出るトマトカレーのような水を、ナオトはどうすることも出来ない。
もう一人がナオトの襟ぐりを後ろから引っ張り、首すじからビール瓶の中身を注ぎこんだ。黒く濁り、濡れたタバコが詰まったタール状の水が、背中と腹を汚していく。一方的にナオトの身体に降りそそいでいく、ゴミ混じりの毒水。冷たさと屈辱にうち震え、ナオトは喉の奥から小さな悲鳴を上げ続ける──だが意地でも、絶叫はしなかった。
──僕は悪くない。僕は何も悪くない。こんなナチュラルたちに、絶対負けない!
その意地を嘲笑うように、もう一個のカボチャの中の泥がナオトの頭からざんぶと浴びせられた。虹色に光る、ぎらぎらしたガソリン混じりのぬめり水。さっきまで生暖かだった風は、急に冷たくなって濡れた身体を撫ぜていく。
さらに、そのカボチャは無理矢理ナオトの頭から被せられた。視界が真っ暗になり、嘲笑と爆発音だけがわんわんと響く。カボチャの中は吐しゃ物と血の臭いで充満していた。
これを被っていただろう子供は、一体何処に行ったんだ。泥にまみれた身体をどうすることも出来ないまま、ナオトはぼんやり考える。
そして彼は、道路に転がされるカボチャを幻視する。口に当たる部分から流れ出している吐しゃ物、そして首にあたる部分から見えるものは──血が噴出している、脳髄と首の骨の断面。それも、幼い子供のもの。
最も恐ろしい考えに突き当たり、ナオトはカボチャを振り落とそうと激しく暴れる。だがカボチャは重く肩にのしかかり、さらに羽交い絞めにされた身体は河原を引きずられ始めていた。
何も見えない闇の中、川の音が次第に大きくなる。間違いなく、奴らはナオトをどぶ川に突っ込もうとしていた。それも方向からして恐らく、泥とゴミと油まみれの水がせきとめられている、くぼ地の溜池に。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……やめろ、やめろよ畜生っ!」ナオトは必死で足を踏ん張るが、土の上に虚しくスニーカーの引きずる跡をつけるだけで、成人男性の力にはとても抗えない。
まず腰が、ぬめりだらけの泥の中に引きずりこまれた。腹から冷たい泥水が侵食してくる──ひどい悪臭に、ナオトの息が詰まりそうになる。必死で踏ん張っていた足が滑り、ナオトの下半身は一気に泥の沼へ落ちた。
引っこ抜くようにしてカボチャを脱がされる。見るとナオトは、黒緑のぬめりの池に肋骨の下あたりまで浸かっていた。羽交い絞めにされた状態のまま、さらに深い場所まで引きずられていく。笑いながら同じくドブ池に入り、ナオトの周りを囲んでいる男たち。両腕だけでなく両脚までがっちり押さえつけられ、ナオトはもはや殆ど自由に動けなかった。胸が沈むか沈まないかというところまで来た時点で──
いきなり、ナオトのまだ幼い胸板に足が乗せられた。「う……あぁああああああぁぎゃああっ」
思い切り男の体重が乗り、そのまま一気に暖かい泥の中へ頭まで沈められる。幸い水深は20センチ程度のものだったが、池の中で肺から空気を強制的に吐き出させられたナオトは、つい水を飲んでしまう。ひどいガソリンと生ゴミの臭いが口に充満した。
次の瞬間ネクタイを掴まれ、ナオトは頭だけ水面へ引きずり上げられる。肺と心臓が猛然と稼動し、空気を求めて喘いだ。咳き込んで水を吐き出すナオトを、面白そうに男たちは眺め──そして汚れた手が、嬉々としてナオトの身体を弄び始めた。
「嫌だっ、イヤだあああぁああっこん畜生っ……ああぁあああうぁああああああ!」
泥とゴミとカビを掴んではナオトの皮膚へ、顔へ、笑いと罵りを浴びせながらべっとりと塗りつけていく男たちの手。まるで、子供が泥人形をつくっているかのように、男たちは楽しげだった。ナオトがどんなに叫んでも暴れても、そのたびに顔を殴られ、首を絞められ、胸を靴で水底へ押しつけられた。四肢は全く動かず、ナオトには激しく喘ぐ自分の胸を見ていることしか出来ない。ワイシャツの裾から、袖口からも手は入り込み、身体に泥を塗りつけていく。
──あの時も、同じようにして僕は喰われた。父さんの前で。
阿鼻叫喚の街の片隅で、燃える空に向かって絶望と恥辱に喘ぎ続ける少年の心を、誰も振り返ろうとはしなかった。


すぐ後ろで爆発音が轟き、1秒ほど遅れて激しい爆風がやってきた。サイはフレイをかばいながら、咄嗟に地面に伏せる。
「時澤軍曹!」サイの叫びは虚しく爆発にかき消されたが、思ったほど炎の威力は激しくなかった。数秒もすると聴覚は戻り、風はやんだ。ふと背後を振り返ると、崩れかけて炎を上げるビルの向こう側に、まだ動き続けるウィンダムの白い鋼鉄が見えた。
「良かった」レイダーの黒い姿はどこにもない。どうやら今の爆発は、ウィンダムの前から逃走する為の目くらましだったようだ。
瓦礫の上で横になっているフレイ。その上半身をゆっくり起こしてみると、酷い出血がサイの手を染め抜いた。サイは腰につけていたバッグから素早くガーゼと包帯を取り出し、剥き出しの左肩の手当てを始める。白い素肌は、黒く乾いた血でべっとりと汚されていた。
まだ煙の臭いの充満する中、二の腕の柔らかな感触を確かめながら、サイは静かに彼女に問う。「フレイ。トールの言っていたことは本当か? あれは、トールなのか」
暫くの沈黙の後、短い答えが返ってくる。「そうだ」
「君は、自分はフレイじゃないと言った。君はフレイの記録を元に、彼女を模して作られた人形だと、自分で言ったね。
トールは、違うのかい?」
「違う」彼女の答えはあくまで淡々としていた。「似ているが、違う。彼はトール・ケーニヒだ、間違いなく。
そうでなければ、彼は自らを定義するものを何も持たなくなってしまう」
「それは、どういう……」サイがさらに聞き出そうとした、その瞬間──
何かが、サイに入り込んだ。酷く異質なものが、サイの脳に、感覚に、神経に、無遠慮にずかずかと入り込んできた。
全身を、何かで汚されていく。とてつもなく不快な感情が、下水のように湧きあがる。サイは思わず自分の両腕を抱きかかえた。「何だ……これ」
ほぼ同時に、フレイも目を大きく見開いていた。明らかにサイと同じ気持ち悪さを味わっているようで、必死で身を守るように、包帯をされたばかりの左腕を右手で握り締めている。歯が鳴っていた。「これは……今までよりも強烈だ。まさか」
自分を汚そうとする粗暴な意志が、サイとフレイの皮膚を駆け抜ける。どこかで、似たような感覚を味わったことがある──サイはすぐに思い出した。ヤエセの、あの忌まわしい工場の中だ。
それに気づいた瞬間、サイは叫んでいた。「ナオト……ナオトか!?」


分かってる。こいつらは、僕を本気で殺そうとしていない──それだけは、ナオトにもぼんやりと分かった。
聞き取れた彼らの言葉から判断して、彼らの目的は、ナオトを無残な姿にして晒し上げることだった。ティーダに乗るオーブのレポーターで多少は顔を知られ、ナチュラルとコーディネイターの融和の象徴として少なからず偶像化されていたナオトを徹底的に痛めつけることは、オーブとアマミキョ、文具団の無力ぶりを晒すことになる。コーディネイターに富と仕事とプライドを奪われ続けてきたナチュラルにとって、ナオトは恰好の獲物といえた。
尤もそれは口実に過ぎず、単に戦闘で高揚しきった感情の捌け口を、幼く無力な少年に一方的に叩きつけているだけかも知れないが、今のナオトには分からない。分かったところでどうしようもなかった。
いつの間にかナオトは後ろの岩に背中を押しつけられていた。ちょうど耳元のあたりの岩の間からちょろちょろと赤い水が噴きだし、頬と肩あたりの泥を一瞬だけ洗い流していく。
──僕は悪くない。僕を裏切った父さんが悪い、僕を捨てた母さんが悪い、僕を見てくれなかったフレイさんも、何も出来なかったサイさんも、何も分かってないマユだって……
なおもナオトを汚し続ける指。それはワイシャツの裾から下腹部まで入り込んだ。細く小柄な少年の身体を容赦なく泥で撫で回し、弄び、べっとり油で汚していく指。
「ちくしょう! 離せよ、離せよっうぁあおああああぁあああああがああああっ」
あまりの気持ち悪さから必死で逃れようと、ナオトは絶えず叫んで暴れ続けていた。それを制するように、ネクタイがぐいと引きずり上げられる。その勢いで、男の指で強く掴まれていた右袖が、肩口からびぃと裂けた。露になる白い肩の肉。
──駄目だ。しっかりしろ、あれだけは絶対に守らなきゃ!
首も四肢も自由にならないまま、ナオトは泥の中で必死に髪を振り乱してもがいた。胸元だけは、守らなきゃいけない。あのお守りだけは!
「僕は、僕は何にも悪くない! 悪くない、悪くないんだ!!」
無茶苦茶に叫びながら、胸を庇うようにして力いっぱい身をねじる。今度は左の襟が大きく引き剥がされボタンが飛び、鎖骨と左肩と二の腕が剥き出しになった。同時に下腹部に指が入り、ベルトに手がかかる──引きむしられる!
男の嘲笑が、獣と化した少女の犬歯の記憶と重なった。ナオトの身体も精神も、恐怖に一瞬硬直する。
だが、その瞬間を見透かしたかのように、川のすぐ下流で大きな水柱が立った。激震と共に。


同時刻──マユは、炎を上げるビルの脇の横道に倒れていた。
「い……嫌、イヤ! 助けて、助けて……お兄ちゃ……」
別にマユを誰かが襲っているわけではない。彼女はたった一人で、ゴミ捨て場の横で倒れ、身をよじらせていたのだ。
ただそれはマユにとって、襲われているもほぼ同然の状態だった。何しろ酷い頭痛と共に、50本以上の指で全身を弄り回される感覚が、彼女を貫いているのだから。「ナオト……っ!」
殆ど身動きが取れず、何故か呼吸まで苦しい。小さな胸を揉まれ、ブラウスを裂かれ、首を絞められ、全身を汚され、下着やスカートの中まで撫で回される感覚。「ナオト、なの?」
サイやフレイを襲った感覚の数倍ほども強く、マユは痛みと羞恥を感じていた。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん? 大丈夫かいっ、早く逃げなきゃ!」見知らぬ中年の女性が慌てふためいてマユの肩に手を置いたが、マユは悲鳴と共にその手を振り払う。尋常ならざるマユの様子──それを前にして、中年女性はほとほと困ったという顔で逡巡していたが、砲撃音が炸裂すると致し方なくマユを置いてその場から逃げていった。
「あ、あああぁ、ナオト……ナオトぉ!」割れるような痛みが、一人残されたマユの脳を襲う。それでもマユは分かった──
これは、ナオトの痛みだ。ナオトの悲鳴だ。
ナオトの心が踏まれてる。あの工場の時と同じに。だったら──
「助けなきゃ」マユの唇から、自然にその呟きが漏れた。
その思いが芽生えた瞬間、マユは再び両腕を自らの意志で動かすことに成功した。そして彼女は埃を振り払いながら、二本の脚で何とか身体を起こす。
「助けなきゃ。助けなきゃ……ナオトを」
頭痛と不快感は消えていなかったが、それでもマユはふらふらと歩き出した。


街の異変を感知したアマミキョからは、作業用アストレイを中心に、救助用モビルスーツが次々に出動していた。山神隊のウィンダムは、既にタンバから全機出撃済みだ。
「こんな時に、フレイ嬢とクソ副隊長が仲良くデートたぁ……全くこの船も運がねぇな」
カタパルトにて、ハマーは灰だらけになった作業用アストレイを回収しつつ悪態をついた。このアストレイも、炎の中から市民を助け出してアマミキョに運んでは街へ戻り、既に6往復をこなしている。他の機体もほぼ同様だ。ほどなく、カタパルト内部は硝煙の臭いで充満した。
ハマーは出動位置についたソードカラミティを眺める。高エネルギー長射程ビーム砲・シュラークは何とか間に合ったが、まだ頭部の破損は修復出来ていない。にも関わらず、カイキは飛び出そうとしていた。目的は当然、ただ一つ。<マユを探す! ソードカラミティ、カイキ・マナベ、出るぞ!>
それに呼応するように、ブリッジからややヒステリックなアムルの声が飛んできた。<待って、まだメインカメラの修復が! 無茶です、ハマーさん! 止めて下さいっ>
「アンタがやってくれ! 今のアイツの前じゃ、何しても踏み潰されちまう」ハマーが通信機に怒鳴り返すその横で、整備士たちの制止も振り切ってカラミティは走り出していく。炎の街へ。
喧騒の中、奥のティーダとアフロディーテは沈黙したままだ。スカイグラスパーのそばで、ラスティとミゲルが怒声を交わしている。「ラスティ、スカグラはフレイが戻るまで待て! アフロの準備だってまだなんだぞ」「でも、フレイはどこだよ! ロストしたままじゃねーかっ」
ハマーはふとティーダを見やった。乗る者もなく、その場の全員からほぼ無視されているモビルスーツを──
その時だ。ハマーの全身を、酷い嫌悪感が捉えたのは。
剥き出しになった太い腕を駆け上がってくる不快感。十匹以上のミミズが這い上がってくるようなあまりの気持ち悪さに、ハマーは思わず口元を押さえてかがみこむ。
「ハマーさん? どうしたんスか」整備士の言葉も、ハマーには殆ど聞こえていない。忘れようとしていた血の記憶が、否が応にも呼び起こされていく──「ロゼ……っ!」
冷や汗でシャツをびしょ濡れにさせながら顔を上げるハマー。反射的にティーダを振り返る。
その瞬間ハマーは、遂にアルコールの症状が脳神経と視神経を腐らせた、と錯覚した。
カタパルト全体が、奇妙な白い光で包まれていた。錯覚ではないとハマーに気づかせたのは、整備士たちのざわめき。「おい、ありゃ何だ?」「ティーダ? って見ろ、首が動いてやがる!」
ハマーも整備士たちも、発光源にはすぐに気づいた。ガンダム・ティーダの、白い鋼鉄の肌そのものが、太陽を浴びた雪のように輝き始めている。
カメラアイは起動を示す青い光で溢れ、頭部は何かを探し求めるように回り始めている。ハマーの呟きが漏れた。「意思を持ってるってのか……この鉄の塊が!」
同時にハマーはティーダに向かって走り出す。ティーダの足元に置いてあった簡易モニターをひったくるようにして取り上げると、すぐにステータスウィンドウを開いた。
子供の心を餌に、成長する精密兵器──ティーダの状況を逐一伝えているモニター内では今、おびただしい量の紅いエラーコードが滝のように走り出している。途端、ハマーは叫んでいた。「ヤバイ! 全員、ティーダから離れろ!」
既にティーダの両腕、両脚はゆっくりと動き出している。ブリッジから再びアムルの声。<どうしたんですか!? ティーダが……まさか、動いてる?>
ハマーはその声を半分無視して、モニターとティーダを交互に凝視していた。「パイロットが……二人乗ってる、だと!?」
<馬鹿な、無人のはずだろ!>いつもは弱弱しいはずのカズイの、驚愕の叫び。
そんなやりとりをしている間に、ティーダは右腕の攻盾システム・トリケロスを大きく天井へ振り上げる。その腕の先端からレーザーの光が溢れ、轟音と共にカタパルトの天井は大きく風穴が開けられた。
全ての人々の驚きをものともせず、ティーダのスラスターに火が入り、白い機体は浮上を開始する。アマミキョカタパルトに空いた大穴を突き破り、そのまま炎の空へと浮かび上がっていく。
ティーダはそのまま輝きを消すことなく、やがて悠々と、ヤハラの空を滑り始めた。何かを探し求めるように、ゆっくりと。


街中の砲撃が、遂にここまで届いてしまった──既にナオトらのいるこの場所も、危険に晒されつつあった。
大地が揺さぶられ、一瞬だけ男たちの腕力が緩む。その刹那を、ナオトは見逃さなかった。
襟を掴んで着衣を引きちぎろうとしていた暴漢の指に、力まかせに噛みつくナオト。口の中に泥と砂が充満しジャリっと音をたてたが、構わずナオトは歯に力をこめた。怒りをこめた犬歯はべりばりと指の骨まで到達し、遂には男の指を食いちぎる。男の絶叫と一緒に、ナオトの顔に大量の血が飛び散った。
同時にナオトは川底の丸石をひっ掴むと、自分でもわけの分からない言葉を喚きながら別の男の顔を殴りつけていた。再び川に水柱がたち、熱い霧のような水がこちらにも降ってくる。危険はすぐそばまで迫っていた──ナオトにとってはこの状況そのものが既に危険極まりないものであったが。
ひるんだ暴漢たちの腕をくぐりぬけ、無我夢中で河岸へと這い上がる。全身に塗り込められた泥が重く、もう一度川に突っ込んで洗い落としたい気分だったが、それより何よりナオトの中では、暴漢どもに対する純粋な怒りがいっぱいに湧き上がっていた。
それは、14歳なりに高めに持っていたプライドを残忍に傷つけられた、激昂。
生暖かい手でいいように身体を汚されたことに対する、狂気にも似た憤怒。
そしてこいつらは、父さんの記憶を無理矢理穿り出した──忘れようとしていたのに。
「……よくも」血と泥と油が混じった毒水をぺっと吐き捨て、脱げかけた左の襟を直し、ナオトは再びゆらりと立ち上がった。頭から泥を跳ね飛ばし、大きな右目のみで男たちを睨みつける。左目は殆ど開かない──左のこめかみのあたりがひどく腫れぼったかった。
息はひどく荒く、肺からぜいぜいと音がする。すっかり泥と同じ色になったワイシャツは濡れそぼり、ズボンと靴は汚水をたっぷり吸い込んでいる。裂けた右袖は羽衣のように腕に絡みついていた。下に着ていた黒のタンクトップはいつの間にやら腹のあたりからちぎられ、残った胸の部分だけが辛うじて、ナオトの最も大切なもの──お守りの存在を隠していた。
それでもナオトは、右手の中の小石を握りしめる。僕は──
マユがいなくても、ティーダがなくても、サイさんがいなくても、戦える。戦ってやる。
サイさんみたいに負けたりしない。フレイさんみたいに非情にもならない。マユみたいな獣にもならない。もう、父さんなんか怖くない。ナオトは男の血だらけの指先を吐き捨てた。
「僕はもう、晒し者じゃないんだ」


 

 

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