炎が溢れ、猛獣と化したモビルスーツが暴れ狂う街中で──サイは、そこにいないはずの少年の魂を、幻視した。
──僕はもう、晒し者じゃないんだ。
──僕は何も悪くない。僕は何も怖くない。僕は、一人だって戦える! 
──誰にも邪魔なんかさせない、僕は戦える!
これほどまでに強情な意思を、サイは一人を除いてお目にかかったことがない。「ナオト! そこにいるのかっ」
叫びながら、サイは目の前に現れた少年に思わず手を伸ばしていた。そこにいないと分かっていても、サイには少年を無視することは決して出来ない。傷つきながら、たった一人で何かに立ち向かおうとしている小さな子供──ナオト・シライシを。
一体何と対峙しているのか、サイにはそこまでは分からない。ナオトがどのような状況なのか、こんな幻だけでは殆ど分からない。ただ、異様に荒い息づかいは耳元まで聞こえてくる。酷く汚され、傷ついている──それだけは確かだ。
その時サイは、通信機を割らんばかりの叫びで我に帰った。<サイ君! 返事してよっ、早く! サイ君っ>
無我夢中のあまり、副隊長の呼称をすっかり忘れているアムルの声だった。業務上の自分の呼び名について、皆に一旦注意すべきなのかどうか0.1秒ほど迷ったサイだったが、そんな迷いなど一瞬で吹っ飛ばしてしまう現実が、通信機から飛び出してくる。<ティーダが、ティーダが勝手に起動して……出動したのよ! 今、ヤハラ上空を飛んでいるはずだわっ>
あまりの事態に、サイは通信機をぶん殴るように掴んだ。「どういうことだ! パイロットは……マユが無断出動でも?」
<違うの! 誰も乗ってないのよっ> 耳をつんざくアムルの声に、フレイが反射的に身を起こす。かすかな舌うちの音が聞こえた気がした。「遂に……来てしまったか」
サイは思い出す──アークエンジェルで、ナオトが激しい絶望を露にし、マユが突如暴れ出した時のことを。
あの時もティーダは、頭部のみとはいえ、確かに無人の状態で起動していた。当時のログはアマクサ組によってきれいさっぱり消去されていたが、マリューとマードックの二人がティーダの様子を証言してくれていた。その時マリューは直感したという──ティーダは、子どもの感じやすい心を喰らって成長を遂げる、魔物の如き兵器だと。
「遠隔起動……」その言葉を口にした瞬間、サイの背中にひどい悪寒が走った。ティーダが首を回しただけのあの時ですら、ナオトとマユにかかった負担は甚大だった。今回、一体どれだけの危機が二人に迫っているのか?
──今すぐ助けないと、二人とも死ぬ!
脳裏でナオトを追いながら、サイは確信する。これほどはっきりナオトの危機が分かるのも、ティーダの力なのか。サイの中でナオトは、ひたすらに無謀に、抗えぬ力に向かって暴走しようとしていた。荒ぶる幼い魂が、走り出す。大きすぎる力に向かって。
サイは誰も聞かないと分かっていても、それでも声を上げずにいられなかった。「バカ、逃げろ!」


手負いの獣の如く変貌したナオトを、暴漢たちが再び取り囲む──それでもナオトは逃げようとはしなかった。川の水柱はいつの間にか、炎の海と化して河原を照らし出す。
ナオトの脳裏に閃く声。──バカ、逃げろ!
だがナオトは、その声を敢然と拒絶する。
サイさん? 僕は貴方とは違いますよ。戦わない貴方とは違うんだ。
僕にだってプライドはあるんです。それを穢す奴らは、絶対に許さないと決めたんだ。
フレイさんみたいに、いざという時逃げる人とも違う。マユみたいに、哀れな子供でもないんだ──僕はもう、嘘ばかりついて媚びていた僕じゃないんだ。僕を否定しようというなら、誰だろうと許さない。父さんが死んだ時から、僕はそう決めたんだ!
ナオトの思考が再び強固になり、心は頑なに閉ざされ、入ってくる声を遮断した。目の前の敵だけを睨みつける、充血した眼──その時。
左肩から背中にかけて、鋭い熱さが一閃した。熱いと思って振り向くと、左肩から真っ赤な血が噴き出すのが見えた。「え……っ?」
続いて襲ってきた激痛に、ナオトは思わず膝を落としかける。何とか踏ん張り、肩を押さえて振り返る──血で鈍く光る包丁が見えた。
いつの間に背後に回りこまれたのか。考える暇もなく、今度は石を握っていた方の二の腕が斬りつけられた。「ぎゃああぁあああああ! あ、あ……あぁっ」
気がつくと男たちのうち2、3人はナイフや出刃包丁を構えていた。既に何人も切り裂いてきたのか、その刃は血みどろでボロボロに刃こぼれしている。ナオトを斬りつけたものも同じで、それ故に刃は服と皮膚を裂くのみに留まったのだが、それでもナオトは膝をつき、石を取り落としてしまった。慌てて体勢を立て直そうとしたが、右太ももがさらに斜めに斬りつけられた。体液と血が一斉に噴き出す。
その1秒後、全身を貫く痛みが襲いかかってきた。何も出来ず、呻きながらもんどりうって土の上に倒れたナオト。両手首を掴まれる。
殺されるか──一瞬恐怖したナオトだったが、すぐに否定した。違う、殺すなら刺すはずだ。
そう判断しても、もはや身体は痛みでろくに動かない。引きずられていく身体を感じながら、ナオトの意識は徐々に遠くなっていった。


光を発する白い巨神──ティーダは、炎と黒煙を噴き上げる街の上空を、吊り上げられるように浮かんでいた。
誰を攻撃するわけでもなく、ただひたすらにティーダはカメラアイをせわしく明滅させている。何かを捜し求める人間のように。
ティーダに気づいた地上からは、オンボロダガーLからの砲撃が何発かあったが、最小限の電力によるトランスフェイズ機能で輝き続けるティーダの前では何の意味もなかった。不可解なまでに精密に動き続けるスラスターは、機体を地上20数メートルの重力に勝利しうる程度に浮かび上がらせ、決して速度を速めたりせず、無駄な動きを一切しなかった。
それはまるで、地獄の釜の底に降り立った、白き救世主。
実際、ティーダの光に導かれるように、逃げのびた人々が続々と集まりつつあった。「お母さん、あれ何?」「神さま、って言うのかねぇ、アレが」「それとも、天使かな?」
そして勝てないと見るや、ダガーLの軍団は素早くティーダの前から逃走していく。破壊出来ないものに、彼らは興味がなかった。
アストレイの一団を率いて行動していたシュリ隊隊長トニーは、しばし部下たちと共に唖然としてこの光景を見上げていた──が、すぐに自分の使命を思い出し、これを好機とばかりに素早く動いた。「今だ、何をぼっとしているアストレイ隊! 動ける者は避難民をアマミキョへ誘導するんだ! ティーダの後を追えば、避難民がついてくるっ」


「何だありゃ……」12機目のダガーLを爆散させたところで、カイキ・マナベはようやく上空のティーダに気づいた。
得体の知れない気持ち悪い感覚に襲われた上、マユが一向に見つからない苛立ちも手伝い、逃げる人々を無視するかの如く暴れていたカイキのソードカラミティ。今の彼の戦い方は、助ける為というよりもむしろ、破壊する為といった方が正しかった。街を徘徊する汚れたダガーLたちと同じに──何しろ怒りに任せ、対艦刀まで持ち出しビルごとモビルスーツ3機を一気に薙ぎ払ったほどである。
空からの白い光に気づいたのは、そんな苛立ちが最高潮に達していた時だった。
アーマーシュナイダーを二刀流で振るい続けていた機体は瞬時に静止してしまう。その中で、カイキは息を飲んで上空を凝視していた。「マユ?! マユなのか、そこにいるのはっ」
当然そうだろうと思ったカイキだが、マユからの応答はない。「まさか……無人、だと?」
こんな一大事が、何故俺に知らされなかった──カイキは思わずコンソールパネルを睨んだが、通信は既に全て切られていた。戦闘中に、カイキ自身がシャットアウトしていたのだ。
マユの感覚がそこにないと言ったら嘘になる。確かに、マユをティーダの中に感じる。マユの心は確かに、あの白い巨体の中にある。だが、肉体は別の場所だ──「マユ! 答えろ、俺だ! 今、どこにいるっ」
その刹那──カイキは闇の中で、自分を振り向く少女を見た。
濃い栗色の柔らかな髪に、大きな瞳。胸元の紅いリボンが揺れている。いつもと変わらないマユの姿。だがそこに、いつもの笑顔はない。ただ、淋しそうな冷たい瞳でこちらを見ていた。「マユ! こっちへ来い、何をやってるんだっ」
──嫌。
カイキは一瞬、自分の目と耳を疑った。それは、実際には聞こえていないはずの声。だが、耳を塞いでも聞こえる声。絶対に、マユが俺に言うはずのない言葉。拒絶の言葉。
──嫌だよ。私はナオトのところに行く。
「どうして……」カイキはカラミティの機動も一瞬忘れ、燃えさかるダガーLの群れの中で棒立ちになる。
──ナオトは私を見てくれる。ナオトは私を求めてる。
だけど、お兄ちゃんは違う。私を見ているふりをして、違うひとを見ている。私を守っているふりをして、私の向こうの誰かを守っている。
「待てよ、マユ!」マユが自分から逃げていく。一番大切なものが逃げていく。その恐怖に、カイキは思わずコクピットの中で両の手を伸ばしていた。
──私は、ナオトを助けに行く。お兄ちゃんのところには戻らない。
だからお兄ちゃんも、本当に大事な人のところへ、行こうよ。
その言葉を残して、マユはカイキの目の前から消え失せた。それきり、カイキがどれほど呼びかけても、マユの声が戻ることはなかった。
街の残滓の中、炎で熱せられているカラミティの中で、カイキはひたすら呻くしかない。「違う……分かれよ、分かってくれよ、マユ。
俺は、お前だって大事なんだ。大事になっちまった!」
炎を飛び越えて、またしてもストライクダガーの軍団が押し寄せてくる。完全に冷静さを失ったカイキは両肩部の長距離ビーム砲・シュラークを機動させ、言葉にならない絶叫を上げつつ正面の敵に斉射した。ソードカラミティから生まれた巨大な光条はストライクダガーたちを押し潰し、飲み込んでいく──全ての現実を、否定するかのように。


「遮断された……?」サイが幻視していた少年が、背中を向けたまま不意にその姿を消した。明らかに意図的に、サイを拒絶して。──僕は貴方とは違いますよ。戦わない貴方とは違うんだ。
「どうあっても俺は嫌だってのかよ、ナオト」
サイとフレイの周囲では、炎に追われ瓦礫から這い出てきた人々や子どもたちが逃げ惑う。サイの腕の中で血を流したまま、フレイを名乗る少女は激しくサイの二の腕を掴んだ。「私を、起こせ! 彼らを助ける。お前は大至急ナオト・シライシの救出を要請しろ」
そのままフレイは、瓦礫の上で自ら立ち上がろうとする。あまりの行動に、サイは思わず彼女を力いっぱい抱きとめざるを得なかった。「気絶寸前の癖に何言ってるんだ! アマミキョに任せろっ」
「私には、この地の民に責任がある!」止めるサイを振り切り、彼女はなおも脚を踏ん張り、少し高めに積もった瓦礫の山を登ろうとする。包帯の間から血が噴出し、ぼろぼろになったワンピースの残骸を濡らした。
「やめろってば! 何する気だっ、その身体で」
慌てて身体を支えたサイを無視して、フレイは声を張り上げた。「皆の者、静まれ! 冷静になり、L27地下通路からアマミキョへ避難しろっ」
人々は突然現れた血みどろの少女の行動に目を剥いたが、フレイの凛とした声はそんな人々を納得させるだけの力があった。「通路は右手の菓子屋のすぐ隣だ、急げ! 
地下ならまだ安全だ、ただし決して無茶はするな! 危険だと思ったらしばらくとどまれ、必ずアマミキョが助けるっ」
サイはそんな彼女を後ろから抱きしめるように支えた。二人は熱せられた瓦礫の真上で、揉み合うような体勢になってしまう。「無茶ばかりしてるのは、君だって同じだろっ」
その瞬間、サイは感じた──この少女の皮膚と肉と血を通じた、彼女の魂とも言うべき感覚を。
「フレイ」の体温の奥底に、鼓動する脈の向こうに、流れる血の匂いの中に──彼女の心を。


頭上から降りそそいだ冷たい水の感触で、ナオトは目覚めさせられた。
改めて自分の状況を確認する──両手首を黒いゴム紐でがんじがらめに縛られ、その紐でナオトは空中に吊り下げられていた。吊り下げられているのは、川のそばの廃屋──大きく突き出した、ぼろぼろの洗濯用ベランダの下。燃え上がる空がだんだんと黒くなっている。雨が近かった。
見上げると、ナオトが吊り下げられているすぐ上で、カボチャを持った男が笑っていた。何回か川の水を浴びせられたらしく、先ほどまで服にこびりついていた泥はいく分か削げ落ちていた。宙に浮いた足の数十センチ下では、腐敗した水が流れて小さな支流を作っている。
大地から完全に両足が離れ、脇や背中を冷たい風が駆け抜ける。呼吸も心拍もひどく荒く、胸はお守りと一緒に激しく鼓動していた。肩と太ももから流れ出す血が爪先から流れ落ち、下の泥水へ落ちていく。ズボンの裾からこぼれた、腐った脂の塊と一緒に。
刃を閃かせた男たちが、完全に無防備となったナオトの姿を笑っていた。包丁の刃先で、濡れたワイシャツごしにナオトの左胸を笑いながら撫ぜる者。皮膚が透けていた。
痛みと恥辱と絶望がナオトの身体を駆け上がる。「い……」嫌だという言葉を、ナオトは何とか飲み込んだ。
──裸と同じだ。
全身が震えだし、歯が鳴り出した。じわじわと近づいてくる刃。ナオトの口から、絶対に出すまいと思っていた言葉が溢れかかる──「たすけ……」
その呟きを叩き潰すように、まず腹を、横ざまに斬りつけられた。斬りつけたというより、刃で殴られたと表現したほうが正しいが──錆びた刃が着衣の裾を引きちぎり、肋骨と臍が露出した。噴き出していく血液。「あ……あぁあああああああああああぁあああああああああうあああああ」
ナオトの絶叫と同時に、右頬に錆びた刃が当てられた。そのまま左胸までがざっくりと裂かれていく──まるで豚でも解体していくように、切り裂かれていく少年の身体。頬から襟元に流れ出した血は、濡れそぼった服を一瞬で紅に染めていった。「ひぃあああああああ、うあああああああああああああああ」
──助けて、誰か……
ひどい痛みによる、発狂寸前の絶叫。いつしかナオトの右目から、もう絶対人前で出すまいと思っていたものが溢れ出す。血と一緒にナオトの頬を流れるもの──それは、涙。
──助けて、フーアさん……アイムさん! 
羞恥と痛みと恐怖でひくつく肋骨を、今度は幼児の腕ほどもある木の枝で殴りつけられた。「ぐっ………うあぁああああああ!」絶叫と砲弾の音をバックに、笑いが起こった。
──助けて、メルー……
またしても頭から浴びせられる水。傷口に汚水が染み込み、吊り下げられたままのナオトは力なく足をばたつかせる。うるさいとばかりに左ふくらはぎが縦に切られ、もはや唯一の抵抗手段であった足すら動かせなくなる。ズボンが膝から縦に裂かれ、頼りなく風に吹かれるままの、血の流れる素足が見えた。
──助けて、真田さん、風間さん。
急所を巧妙に外されていることに、ナオトは気づいていた。相手の攻撃は、本来の用をなさぬほどに錆び付いた刃やざらついた枝を、ひたすら叩きつけるだけ。皮膚だけを掠め取るような打撃が殆どで、中には血を流さず着衣だけを引きちぎるような攻撃すらあった。殺気も怒りも相手からは感じられない。ただ、なぶりものにして弄ぼうという邪悪な欲求があるだけだ。
それでも、絶えることのない刃は、少年の意地と力と命を確実に削いでいく。錆びついて赤茶けた細いパイプで胸を殴られる。ネクタイと一緒に胸元が縦に裂かれ、ボタンがはじけ飛んだ。──助けて、ネネさん。
この時にはもう、全身を走り続ける激痛で、ナオトの力は完全に奪われてしまっていた。レポーターとしての技術も、作り笑顔も、ティーダの操縦技術も、少年らしい正義感も、持ち前の大声すら、荒ぶる暴力の前では何の意味も持たなかった。自由になろうと手首をじたばたさせても、二の腕にまで絡みついたゴム製の紐は暴れれば暴れるほど手首に食い込んでいく。
──僕は、無力だ……何も出来ない。
血を噴き出しながら、ナオトはぼんやり自覚しはじめる。今更のように。
吊り下げられた右腕に枝が叩きつけられる。ヤスリの如き表面を光らせ鞭のようにしなる枝は、何とか腕に巻きついていた袖を食いちぎった。皮膚と共に。
──助けてよ、アークエンジェル! アスハ代表っ……僕にはこんなに、力がない。キラさん…… お願いだ。お願いだよ、助けてよ! 撃墜されたなんて、そんなの嘘だって僕には分かってるんだ。キラさん……!
意識が朦朧としかけると、すぐ上からぬめりのある汚水が降ってきた。流れる冷たい泥と暖かな血が、ナオトの身体の上でコントラストを描く。なされるがままにされる自分を自覚しながら、ナオトは思い出す。
──あの時のサイさんと同じだ。僕は……
雨の中、血と泥にまみれて腕を割られ、のたうち回っていたサイの姿が脳裏をよぎる。マユが血祭りだと喜ぶほどに、仲間たちの暴虐に晒されていたサイ──ナオトは今でも鮮烈に思い出せた。
「畜生」
それでもナオトは歯を食いしばる。違う、僕はあんなに無力じゃない。無力になってたまるか。僕は、サイさんじゃないんだ。これでも、半分コーディネイターなんだ。こいつらとは違うんだ。
それに僕は、父さんに言われたじゃないか。世界を変える力を持つ子供だって……
今度は左肩の付け根あたりを刃先で縦に真っ直ぐ裂かれた。ちぎられる皮膚。「あああぁあああああああああああああああああがああああ」
──負けない。僕は負けない。ティーダの中で、こんな痛みは何度もあったじゃないか。僕は、負けない……
宙吊りにされたまま、ナオトはくるりと逆向きに回転させられる。暴徒どもに剥き出しにされる背中──想像通り、背筋のあたりを思い切り刃で殴られた。斬られたようには感じなかったが、背中から脚へ、生暖かいものが腰を通過し流れていくのが分かる。一瞬遅れで来る激痛。吊られているおかげで、余計に傷口が広がった。もはや悲鳴はまともな言葉をなさない。
あまりの激痛で、ナオトは一番大切なものが消えたことにも気づけなかった。胸元にあったお守りはとうに紐が切断され、河原に転がっていた。


これも、ティーダの力なのか。サイはまたしても目の前に拡がった幻の光景に、息を飲むことしか出来なかった。
それは、どこまでも黒い空の下、真っ赤な血の海の中で佇む、白い下着姿の少女。
彼女の周囲は血みどろの腐った死体で埋め尽くされ、下着の裾や膝のあたりまでが血に染まっている。少女の呟きだけが、その場に流れる唯一の音だった。──守る。私は守る。
サイからはその少女の顔は殆ど見えない。白い顔は、紅の血で染まった長い髪でほぼ覆われていた。 元の髪の色が何だか分からないほど、血に染まった髪。サイが目を凝らしてみると、その髪は何故か、桜色にも思えた。
この髪の色は、確かにどこかで見たことがある。あまりに血の量が多くてうまく思い出せないが──いや、まさか。あの人が、こんな処にいるわけがない。
顔のない少女は、ひたすら呟く。──守る。守る。私が、守る。
これは何だ? これが、この「フレイ」の心だというのか? よく見ると、少女の両手には明らかに人間の臓物の一部と思われる、血の肉の塊が握られていた。
それは、全身罪に汚れ、無数の生命を背負い、それでも前を向いて歩こうとする、真っ直ぐな魂。
サイはこの魂の形に、思い当たるひとつの言葉があった。──これは、「王」の心?
何故そんな単語が浮かんだのか、自分でも分からない。だが、彼女の心に一瞬だけでも触れられたこの刹那、サイはわずかながら彼女の正体が見えた気がした。
恐らくこの少女は、多くの人々の生殺与奪を握る高潔な立場にある。アマミキョどころではなく、下手したら一国を背負うほどの。
彼女の行動は全て、民衆を守り、幸せへと導く為のものだ。フレイと名乗っているのも、アマクサ組を率いているのも、SEED関連の不可解な行動も、キラやアークエンジェルへの言動も全て。
理由は分からないが、心を砕き、身を切り刻み、死よりもひどい苦しみと矛盾を抱え、彼女は生きている。
サイはゆっくり目を閉じる。俺はその心の全てを肯定するわけにはいかない。ユウナ・ロマ・セイランもウズミ・ナラ・アスハも、かつて世界を滅ぼしかけたパトリック・ザラやムルタ・アズラエルですら、ある一面から見れば、民衆の平和と幸せを優先して行動していた誇り高い為政者だったのだから。
君が背負うものがどれほど大きかったとしても、罪が消えるわけじゃない。それは、君自身が一番よく知っている。この心象風景が何よりの証拠だ。
「フレイ」サイはそっと、目の前の少女に声をかけた。「君がどうしてフレイなのか、どうしてアマミキョにいるのか、何故SEEDを求めるのか、何を行動原理としているのか──俺には分からないことばかりだ。本当に分からないんだよ」
気がつくと、人々はフレイの導きに従い、徐々に移動を始めていた。これほどたやすく人が動くのも、彼女の声のなしうる技か。
静かにフレイはサイを振り返る。炎の照り返しで、その頬は真っ赤に染まっているように見える。サイは支えながら、語り続けた。「きっと、色々な理由があるんだと思う。だから──
帰って、話そう。
ティーダのこと、キラのこと、トールのこと、アマクサ組のことも。話せるところまででいいから、話してくれ」
「トールの警告を忘れたか? 知れば、お前は確実に殺される。いや……ただ死ぬよりさらに酷い目に合う」そう言ったきり、フレイは動かない。
「聞こえなかったのか? 話せるところまででいいって言ったろ」
フレイが反駁するように口を開きかけたその瞬間、彼らを守るように、ウィンダムが轟音を響かせながら上空から降りてきた。山神隊・広瀬少尉の声と共に。
<時澤から聞いた! アーガイル、アルスター嬢は無事か!>
「広瀬少尉!」文字通り、サイたちにとって天の助けだった。広瀬の声はさらに響く。<暴走ダガーどもは82%まで鎮圧を完了した、あとは消火作業だけだ。カラミティが必要以上に暴れ狂ってくれてな、全く気楽なもんだったよ>
ちっとも気楽でなさそうな広瀬の言葉を聞きつつ、サイは咄嗟にフレイの前に出る。風圧から彼女を庇うように。「フレイをすぐに収容してください! それから、俺をティーダのもとへ連れていってください!」
「何だって?」二人を収容するべくコクピットを開いた広瀬は、サイの言葉に一瞬戸惑う。「ティーダが無断出動したのは知っているが……アルスター嬢は」広瀬はフレイの傷を見やった。
それに気づいたフレイは、自らその心配を跳ね除ける。「構わぬ、治療ならコクピット内でも出来る。それより今は、ティーダだ」
「お願いします。ティーダのもとに、おそらくナオトもマユもいるはずです」
その言葉を聞いて、広瀬も了解したようにサイに目配せをした。「分かった。ナオト・シライシについては、自分も正直気がかりだった……急げ!」


──負けない。マユ……僕は、負けない。一緒にずっと、こんな痛みに耐えてきたんだ。だから……
もはやナオトの全身は少しずつ切り刻まれ、上着の残骸は赤黒く変色し肌に貼りついていた。それでも彼の意思は、必死でまだ生きていた。
いきなり両手首のロープが外れる。ちぎれたのではなく、明らかにわざと切られたのだ。そのまま、下の小さな支流へとナオトの身体は落ちかける──膝が泥に埋まり、ふらりと前のめりに倒れかかったところを前髪を無造作に掴まれ、無理矢理上半身を引き上げられた。振り上げられる刃──そのままなす術もなく、まともに左肩を撫でるように切られる。今度は布と一緒に皮膚が大きく削がれ、真っ赤な肉が露出した。「ああああぁうあああああああ! こん畜生……っ」
一瞬後に噴き出す血。土の上に投げ出されるナオト。──僕は、負けな……
遠くなる意識。靴で身体を転がされ、仰向けにされる。顔の上から降ってくる水。既に、身体を起こす力さえ、彼には残されていなかった。
──バカね。どうしてこんなことになったか、貴方何も分かってないじゃない!
ナオトの耳に、今ここにいないはずの女性の声がおぼろげに聞こえる。自分を叱咤する声。「ミリィ……さん……?」
──分かっているはずよ、貴方は。本当は誰が一番悪いのか。ちゃんと見なさいよ……ホント、無駄に大きな目、してるのね。
続いてまた違う声。女性の、凛とした声だ。
──私たちも、君を助けることは出来ない。君自身が、助けを拒絶しているから。ナオト・シライシ……よく見るんだ、君に手を差し伸べている者たちを!
アスハ代表──僕には誰もいませんよ。メルーもフーアさんもアイムさんも真田さんもネネさんも、優しい人はみんな死んでしまったんだ。
男たちの靴音が再び、ナオトの周りを固めていく。血まみれの右腕が軽く引っ張り上げられる。炎を背にした男たちの表情はまるで見えないが、笑っていることだけは確かだ。
そこに重なる、青年の声。ずっと尊敬していた、英雄の声。
──どうして君はずっと、耳を塞いでいるんだい? 誰の声も聞こえないよ、それじゃ。
「キラさん……」そこにいるのなら、助けてよ。訳の分からないことを言っていないで、助けてよ……
呟きかけたその時、男の一人が0.5リットルほどのアルコール瓶のような、濃い茶色のガラス瓶のキャップを差し出した。
大丈夫か? まだ死なない、大丈夫だ。この程度で死ぬものか、何たってこのガキは──こんな意味の言葉がひどい訛りで囁かれている。そして、瓶のキャップが外され、中の液体がナオトの左ふくらはぎに向けて落とされた。無色透明のその液体は、どろりとした粘り気をもって、きれいな垂直の軌道を描いてナオトの脚に落ちていく──
それが脚を濡らした瞬間、まだへばりついていた着衣と泥が煙を噴いて溶け出した。ナオトの皮膚と共に。
「うあ、ぎゃあああああぁああああああああああイヤだぁあああああああうああああぁ、ああああああアアアアアア誰か、誰か助けて、誰か、誰か、お願いだから誰か助けてぇえええええ!!!」
溶けていく。泡を噴きながら、布切れと一緒に肉が溶けていく。既に傷つけられていた切り口にも薬液は入り込み、それは痛みを3倍以上にも増強させ、ナオトの最後の意地とプライドを奪いにかかった。
肉を溶かし、神経を焼ききり、骨まで痛めつける液体。それはどの暴力よりも強烈に、ナオトを苦しめていく。
「う、うぁ、あああぁあああああああぁああああっ……もうやめて……お願い、もう、やめてください……おねがいだ……うぁあああああああっ」
いつしかナオトの右目からは、はばかることなくぽろぽろと涙が溢れ出していた。血だらけの唇から、絶対に漏らすまいとしていた言葉が、溢れる。「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……だから、もう……許して」
無意識のうちに両手で右足を抱え込み、痛みを和らげようとする。肋骨にまた男の靴が乗せられた。
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
全身を走る熱い痛みの中で、ナオトはそれだけを呟き続ける。誰に? 勿論こんな奴らにじゃない。
僕が、本当に謝らないといけないのは……
──大きすぎる力は、君を壊す。
──泣いてくれなきゃ、どうしようかと思ってた。
──偽りを演じながら14年も生きてきたのなら、それは偽りじゃない。本質だよ。
──君もマユを信じたいはずだ。それだけ言いたかった。
──私、貴方のこと知ってるよ。
──会いたかったっ、ナオト!
──マユは、ナオトとずっとティーダに乗りたい。
懐かしさすら感じる声が、ナオトの中でこだまする。あぁ……僕は忘れていた。忘れようとしていた。
ずっと、僕を支えてくれた人を。ずっと、僕と一緒にいてくれた女の子を。
……そうだ。僕は、謝らなきゃいけなかった。
サイさんに。そして、マユにも。散々迷惑かけたみんなにも。
サイさんはずっと、僕のことを考えて助けようとしてくれていた。どうして今になって、僕は気づいたんだろう。
一緒にフレイさんの記憶を取り戻そうって約束したのに、そんなことすら守れずに、僕は船を飛び出した。反抗してばかりで、何の役にも立てなくて、しまいにはサイさんを殴りつけた。
それに僕は……マユに、一体何をした?
マユだって、あんなに僕のことを心配してくれたのに。メルーのマフラーを持ってくるなんて、今までのマユならありえなかったのに。
それなのに僕は、マユを疑った上に、ひどいことをした。
あのお守り──どこへ行った? あれだけは、みんなの魂だけは、絶対に……
また水が浴びせられる。咳き込みが激しくなったが、その胸をまた軽く蹴り上げられた。
びしょぬれのままで何とか頭を回す。と、1メートルほど右前方の石畳に、泥まみれになった小さな布袋が見えた。血が飛び散り、白かった布地は半分がた赤く染まっている。ネネが作ってくれたお守り──ナオトは手を伸ばす。あれだけは。あれだけは、死んでも守らなきゃ!
血まみれの右手が、お守りに伸ばされる。肩と脇、肋骨に走る激痛。傷口が開き、血液が流れ出す。溶かされた足は動かず、ナオトは倒れたまま必死で身体を引っ張るしかなかった。「う……うああっ………うおああああああ!」
どんなに僕が痛めつけられてもいい。全身溶かされても構わない。あれは僕が最後まで、絶対に守らなきゃいけないものなんだ。フーアさんやアイムさんに何も出来なかった僕が、メルーを死なせてしまった僕が、ネネさんや真田さんに迷惑ばかりかけていた僕が、サイさんやマユを傷つけてばかりいた僕が、たった一つ出来ることなんだ。
──だが、その動きを相手が見逃すはずもなかった。ナオトを靴で押さえつけていた男の目が、お守りへ向いたその1秒後。
大股でナオトの眼前に踏み込む革靴。伸ばされた右手は容赦なく、男の靴に踏み砕かれた。
石の上で、手首と薬指の骨が、ほぼ確実に粉砕される。「ぐ……ぎゃあああああぁあああああああああああ」
さらに男の体重のほぼ半分がナオトの手首に乗っていく。全身を貫く痛みに耐えながら、ナオトは左手で男の足をどかそうと、決死の抵抗を試みる。その喉から、ナオト自身がその支えを拒絶に拒絶してきた者たちの名が、遂に空を裂く悲鳴となって溢れ出た。「助けて……助けて、助けて、サイさん! マユ! たすけて、たすけてえええぇえええええ!」
男がナオトを踏み潰したまま、お守りを取り上げる。泥で濡れたその布袋に、ライターが差し出される──やめろ、やめろ、やめろ、やめてくれ!
男の手元から火が放たれ、その火が布袋に燃えうつった。「やめろおおおおおおおおおおおおぉああああああああああああああ」
その瞬間──天空に、光が満ちた。


途切れそうな意識の中、ナオトは見た。光り輝く巨神が、黒い空と炎の河の間で浮遊している光景を。
それは、ナオトが見慣れていたはずの鋼鉄の兵器。太陽と同じ光と名前を持つ、アマミキョの守り神。炎の街に舞い降りた、白銀の光を纏った神──ガンダム・ティーダ。
「どうして……ティーダが?」
突然のことに驚愕した暴徒たちは、ナオトを踏んでいる足をそのままに茫然と空を見上げている。火のついたお守りが、男の手から落ちた──ナオトは思わず、まだ自由になる左手を伸ばす。
状況はさっぱり分からないが、ともかく守らねばならないものは目の前に転がっている。濡れたお守りについた火はなかなか燃え広がらず、端からちょろちょろと小さな炎を上げていた。ナオトは一瞬も躊躇することなく、左手でそのお守りを掴んだ。
「ぐ……っ」凄まじい熱さが手のひらを焼いていく。黒い煙がナオトの指の間から漏れた。そのお守りを、ナオトは無意識のうちに胸元へ抱え込んだ。手のひらで火は消えたものの、布袋はまだ熱くナオトの胸で燻り続ける。命を焼く音と共に。
──メルーは、こんなものよりもっと痛かったはずだ。いや、痛みも感じられずに、メルーは……
「ナオトを踏んだよね」まだ幼い少女の、静かな声が響いた。顔を上げてみる──太陽の化身を背にして、小さな黒髪の少女が立ちはだかっていた。
見慣れたリボンつきのブラウスと、紅のミニスカート。先っぽを結わえた長い黒髪がはためく。少女は大きなウサギの縫いぐるみを抱いて、光の河原に立っていた。
「貴方たちは、ナオトを傷つけた」少女の唇から、呪詛にも似た言葉が流れる。「たくさんの人を傷つけた。メルーやネネ、フーアさんやアイムさんって人まで傷つけた」
光を背にして歩いてくる少女は、ゆっくりと両手に抱いたウサギを正面へ差し出した──
「人を傷つけちゃ、いけないんだよ」5発ほどの乾いた撃発音。同時に、男のうち3人が頭から血を噴出し、仲良くどうと倒れていく。
ウサギの首につけられたリボンの部分から、銃口が覗いていた。残りの暴徒はこの光景を前にして、悲鳴を上げて駆け去ろうとする。逃げていく男の頭すらも、少女は正確に撃ち抜いた。
彼女の表情は、ナオトが見たこともない憤怒で満ち満ちていた。一瞬にして動くものがいなくなった河岸──ティーダだけが輝き、河へと降りていく。さざ波が立った。
少女はゆっくりとナオトを振り返った。そこに、いつもの能天気な笑顔はない。痛みをこらえてお守りを抱きかかえているナオトの頭のあたりに、少女はぺたんと腰を降ろす。ウサギがゆっくりと横に置かれた。
「マユ? どうして、君が……」ナオトは喋ろうとして、胸の痛みに咳き込んだ。畜生、顔をろくに上げることすら出来ないなんて。
マユ・アスカが──こんなに近くにいるのに。もう絶対に触れられないと思っていたマユが、すぐそばにいるのに。
「ナオト、ごめんね。人を殺しちゃ、いけなかった?」マユは静かに、ナオトの血まみれの左手を両手で包んだ。
「ごめんね。私、ナオトのことが分からなくて。
私ホントは、人を今のナオトみたいにするのが、楽しかったの。人の血をたくさん出したら、とっても褒められたから、かな」
ナオトは黙ったままだ。もっと触れたいのに、指がそれ以上動かない。動かそうとすると痛みが走る。
「でも、ナオトはそれは違うっていった。怒ってた。それが分からなかったの」
マユはゆっくりとナオトの手のひらを返し、握りしめられたお守りを見る。
「痛いから、苦しいから、血を流すのは気持ち悪い。ナオトがこうなって、私もなんだかすごく痛いよ。でも、どうしてだろ……」
焼けて動かない手を、マユの柔らかな肌が撫ぜていく。体温が伝わってきた。
「ごめんね、ナオト。今でも私、嬉しいの。ナオトを見て、すごく嬉しいと感じたの。
だって、ちゃんとメルーのマフラー、守ってくれた」
マユは雛鳥でも撫でるように、ナオトの手のひらを開く。燃えて破れた布袋の裂け目から、桜色の爪と──紅のマフラーの、僅かな残滓が覗いていた。フーアとメルーの魂の欠片は、確かにそこに残っていた。
「ナオトはメルーを、ちゃんと持っていてくれた。必死で、メルーを守ってくれた。
とてもカッコよかったよ。だから、嬉しかった」
ナオトの手を、そっと自分の頬に当てるマユ。汗でもなく血でもない、暖かな水の感触がナオトの焼けた手のひらに伝わった。塩分のしみる、かすかな痛みと共に。
これは、涙なのか? ナオトは思わず顔を上げた。
愛しい少女が、目の前にいる。黒曜石のように大きな綺麗な瞳。二つの眼球は今、潤みながらナオトだけを見つめていた。──マユが、泣いてる? 僕を見て?
ひどい後悔がナオトの心を切り裂いていく。マユから目を背け、うずくまったままの肩が震えだした。
恥ずかしかった。こんな状態の自分をマユに見られることが──足はまだ煙を噴いている。全身を汚され切り裂かれ、少し前のマユなら彼女の言葉どおり、「血祭りだ!」などと騒いでいただろう。今の今まで、ナオトはそんな侮辱を覚悟していた。
だが、彼女は確実に変化していたのだ。血を見てはしゃいでいた彼女はどこにもおらず、今マユはナオトを癒そうとし、涙まで流している。「ナオト──私、なぐさめるよ。こうすればいい?」
ナオトの頭に優しく手を置くマユ。ゆっくりと不器用に幼い手が動き、こびりついた泥を落としていく。
あぁ──こんなことすら、僕は分かっていなかった。マユがとっくに、血を喜ばない普通の少女になっていたことすら。これほどまでに君を理解していなかった僕を、ここまで情けなく倒れた僕を、君はカッコいいとまで言ってくれた。
「ごめん、マユ」ナオトは毒水と一緒に血を吐きながら、それだけを呟く。
「どうして、あやまるの?」マユのきょとんとした声が降ってくる。
僕はずっと、君に怒ってた。君のことが分からないままの癖に、君のことを知ろうともせずに、君を怒ってた。君はずっと、僕を知ろうとしてくれていたのに、僕は君を殺そうとまでして、傷つけて、逃げた。
本当に悪かったのは、僕自身だった──
こう伝えたいのに、ナオトの唇からはかすれ声と血の塊しか出ない。やっとのことで呟くことが出来たのは、たった一言だけ。「本当に、ごめん」
それだけ言い切ると、ナオトの意識が急速に遠くなる。マユの悲鳴がどこかで聞こえる。
この子の悲鳴なんて、攻撃された時以外で初めて聞く──そう思った時、ナオトの感覚は闇の中へ沈んでいった。


サイとフレイを救出した広瀬のウィンダムは、ようやくティーダに追いついた。
フレイをウィンダムに残し、サイは急いでウィンダムの掌部分から河岸へ飛び降りる。河の中央で静止したまま、巨神の輝きは、まだ落ちてはいなかった。
「黙示録が発動寸前だ……フェーズ3か?」
ティーダの光を頼りに目をこらす。ほどなくサイは、マユの背中を見つけた──河原で血を流して倒れている、男たちの向こうに。
一体何があった。酷く嫌な予感に、サイは河岸を走る。血だらけ泥まみれで倒れている誰かにすがりついたまま、マユは泣きじゃくっている。あの娘が泣きじゃくるなんてことが、今まであっただろうか? 泣きじゃくらせるほどの何かがあったというのか。
そして──マユのもとに到着すると同時に、その疑問は氷解した。瞬間、サイの中で何かが切れた。
「何てこと……しやがる」それが、サイがナオトに再会しての第一声だった。
一瞬溺れたのかと勘違いしかけたが、すぐに違うと分かった。左目がどこにあるか分からぬほど腫れ上がった頬に、かまいたちにでも出くわしたかのように切り刻まれた胸に腕。右手首はありえない方向へ折れ曲がり、右ふくらはぎに至っては着衣もスニーカーもべっとりと溶かされ、蝋のように皮膚と一体化しつつあった。全身が泥で濡れており、ワイシャツは赤黒いボロ布のように肩から垂れ下がっている。両袖はきれいに引きちぎられ、剥き出しになった左肩は激しく出血していた。明らかに、故意の暴力による傷ばかりだ。
何があった。一体、何があった!
サイに気づいたマユが振り向いた。涙で真っ赤に潤んだ大きな眼。
「サイ! お願い、何とかしてぇ! ナオトが、ナオトが動かないよぅ!
私じゃどうにもならないの、お願い、ナオトを助けてぇ」
マユは泣きながら、ナオトの血だらけの手を自分の頬に当てていた。「どうしたの、どうしたの、ねぇ、ナオトぉ!」
「大丈夫だ」何が大丈夫なものか。そう心中で毒づきながらも、サイはマユの肩を押しのけてナオトの身体を抱き起こしかかる。途端、小さな悲鳴と一緒にナオトの口から血と毒水が溢れた。
背中に当てた手を見ると、べっとりと血で染まっていた。一日に俺は何回、同じ場面を見るハメになるのだろう。しかもどうやらあばらまで折っているらしい──サイはすぐに叫ぶ。「マユ! 材木持ってこい、ナオトの腕と同じぐらいのヤツだっ」
叫びながら、サイはナオトをもう一度ゆっくりと仰向けに土の上に降ろした。通信機に向かって怒鳴る。「広瀬少尉! 救急セット、お願いします。それから出来るだけきれいな水も!」
言いながらサイはナオトの心拍を確認する。呼吸も脈もあるが、肺はぜいぜいと嫌な音をたてて唸っていた。手持ちの救急セットはフレイに使ってしまって既に無い。サイは自分の左袖を引きちぎり、ナオトの身体を拭き始める。傷口を一つ一つ確認してみると、左肩の出血と手首の骨折、左ふくらはぎの火傷以外の傷は皮膚を掠めた程度で、それほど深くはない。切り傷は動脈までは達しておらず、急所は全て外されている。下腹部まで暴力が及ばなかったことだけが、この少年にとって不幸中の幸いだろうか。
そう考えた時、サイは自嘲した。何が幸いなものか。何があったか知らないが、たった14歳の幼い少年に、ここまで苛烈な暴力の嵐が吹き荒れて、一体何をもって幸いなどといえるのか。
マユから手ごろな木切れを渡され、サイは自分のネクタイでナオトの手首と木切れを固定した。通信機からはひっきりなしにアマミキョからの通信が響き、サイはそれに対応しながら布きれでナオトの身体を丁寧に拭いていく。「L17の連絡が不能? じゃあ汎用の修正バッチを使って、L19まで何としてでもつなげるんだ。でないと避難経路が2つも途絶する、L62の状況は? じゃあアストレイを2機、空き次第至急回せ」
すぐに布は汚れ、使いものにならなくなる。サイは反対側の袖口も切り裂いてナオトの左肩の傷にあてがった。「頑張れ、もうちょっとだけ頑張れナオト、今すぐ助けるから。絶対助けるから!」
ウィンダムから降りてきた広瀬も、ナオトの状態に少なからず衝撃を受けていたようだが、それでもテキパキと動いた。「フレイ嬢は心配ない、意識はしっかりしている」それだけいうと、広瀬はナオトの足の応急処置にかかった。タオルで足を覆い、上から救急用の水をかける。
「ハーフだから……かよ」サイにだけようやく届くような呟きが、広瀬の口から吐き捨てられた。
「ティーダはこちらで確認した。いや、黙示録は発動までは至っていない。それよりエリア23のヘリポートの状況は? まだ使えないならルートGを使って負傷者を搬送しろ。トニー隊長は?」サイは通信を続けながら、岩のようになっているナオトの左目に濡れたガーゼを当てた。その冷たさか、ナオトはようやく薄く目を開く。「サイ……さん?」
いつもの大声からは想像も出来ないかすれ声に、サイは動揺しながらも何とか笑顔を作った。「良かった……ナオト、もう大丈夫だ。すぐ運ぶから、ちょっと我慢してくれよ」
包帯で頭のガーゼを固定したサイだが、ナオトはその手をどけて自分で起き上がろうとした。サイは慌てて支える。「おい、無茶するな! あばら折れてるんだぞ」「平気です。殺されたわけじゃないんだ」
まだ動く左手で上半身を起こし、ナオトはサイたちをよけるようにして後ろの岩にもたれかかる。サイの通信機から、また怒鳴り声が聞こえてきた。ナオトを支えたまま、サイは通信機に答える。「いや、グフはまだ早いです隊長! 防護用にとっておいてください」
そんなサイと視線を合わせようとせず、じっと自分の状態を眺めて──ナオトは、その場の誰もが予想しなかった反応を示した。
「あははっ。もう、参ったなぁ」血まみれの顔のまま、ナオトは笑い出したのだ。それも、とびきりの笑顔で。「こんなに痛いの、久しぶりだよ」
あぁ──忘れていた。サイは愕然とする。
あの工場の時と同じ、全てを拒絶する満面の笑顔が、そこにあった。
そうだった。この子供は、マユやメルーといった他人が傷つけられると烈火のごとく怒る癖に、自分が傷ついた時は笑い飛ばそうとする。そうやってずっと生きてきたから。
「やだなぁサイさん、そんなにじろじろ見ないで下さいよ。結構恥ずかしいんだから」ナオトはぼろぼろになった自分の状態を眺めながら笑い続ける。「あーもうっ、ホントひっどいことするよなぁ。この服、嫌いじゃなかったのに。フーアさんにも、可愛いって言われてたのになぁ」
明るい口調で言いながら肩で息を続け、左手はお守りを力いっぱい握りしめたまま、ひどく震えていた。
そんなナオトを見て、広瀬が無言でサイから通信機を奪い取る。そのまま広瀬はその場から離れ、通信を続けた。「トニー隊長か? 現在副隊長は負傷者を救出中だ、用件は自分が受ける」
マユが不安げに駆け寄ってくる。「ナオト、どうしたの? 痛い時は、泣くんでしょ?」
それでもナオトはけたけたと笑っていた。「ぶかぶかだろってアイムさんにはからかわれたけど……でも、フーアさんは成長するからこれでいいんだって言って……すごく幸せだった。それまで、褒められることなんて、めったになかったから」
笑いながら、ナオトの身体はがたがた震えていた。咳き込みながら無理に出した声はうわずっている。「楽しかったなぁ……すごく楽しかった。僕、戻れるなら戻りたいなぁ、フーアさんたちのところ」
発熱でも始まったのか。夢見る目つきであさっての方向を見ながら、ナオトは痛ましいまでの心の防御を続ける。
俺は──土足でもいい、今、踏み込まなければいけない。
「この、大馬鹿野郎!」サイは小さく叫びながら、笑い続ける少年を両腕で、力の限り抱きしめた。
血に濡れて冷え切った身体の感触が、直接サイに伝わってくる。ひどい泥の悪臭が鼻をついたが、サイは構わなかった。今俺が抱きしめずに、一体誰がこの発狂寸前の子供を抱きしめられるんだ!
「ナオト。泣いていいんだ、怒っていいんだ、叫んでいいんだ。
ここで耐えるのは、強さなんかじゃない」
いつかの工場で同じ笑顔を見た時に言えなかった言葉を、サイは一言一言確実に、ナオトに伝えた。
俺はこう言える資格を取り戻した。つい数時間前に。
「サイさん? な、何言ってるんですか……僕は別に、なんともないですよ。
あんな奴らに……心だけは、負けるわけないじゃないですか」
そう言いながらも、ナオトの傷ついた背中がしゃくり上げる。「そうだよ、僕はもう負けないって、決めたんだ」
俺は、守らなければいけなかった。どんなことがあっても、守らなきゃいけなかった。強情で意地っ張りで、突拍子もない行動ばかりだが、本当はひどく傷つきやすい心を抱えた子供を。
「僕は、心だけは、折れるつもりなんか……だから」そこから先はもう言葉にならない。喉が詰まり、声が消えていく。
「痛かったら、泣こうよ。ね、ナオト」マユがナオトの左手をとり、胸に抱えた。必死で歯を食いしばっていたナオトだったが、やがて喉から嗚咽が漏れ始めた。まだ輝き続けるティーダのそばで、少年の呻きは次第に高まっていく。サイは何も言わずに抱きしめ、マユは手を握り続けていた。
そしてこぼれた言葉は、謝罪。「……サイさん、ごめんなさい」
「何で謝るんだよ。俺のほうだよ謝るのは……遅くなって、本当に悪かった」
ナオトは静かに頭を振った。「僕は、フレイさんの記憶を取り戻すって約束したのに、何も出来なくて……サイさんにもマユにもひどいことをした」
「いいんだ。フレイのことはもう、いいんだ。全部じゃないけど、今日で色々分かった。
さすが星祭りだな……想いを伝える祭りか」
「え?」思わずナオトは顔を上げる。大きく見開かれた右目から、涙が落ちた。「どうして……」
「帰ったら話す。ティーダと星祭りが、俺たちの想いを伝えたんだ。
お前のおかげだよ」
サイの優しい言葉に、ナオトの嗚咽が止まらなくなる。肩に巻かれたサイの服の切れ端の上に、ぼろぼろと涙が落ちていく。「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
「だから、何で謝るんだよ。もういいんだって」
マユが微笑む。涙の跡を隠さないまま。「やっと泣いたね、ナオト」
サイは傷に気をつけながら、ナオトの背中をさする。「ナオト。確かに俺は頼りないかも知れない、キラや代表やフレイや、お前みたいにモビルスーツで戦うことも出来ない。お前をティーダに乗せてしまったのは俺なのにな。楽しいことも出来なくて、いらつかせるばかりで、本当にすまない。
だけどさ、忘れないでくれよ。俺はお前がいなくなったら、すごく悲しい。お前が無茶をやって何かあったりしたら、悲しむ人間がここにいるんだ。涙を流す人間が、ここに確かにいるんだよ。
それだけは、頼むから忘れないでくれ」
その言葉で──ナオトの中で何かが切れた。精一杯せき止めていた感情が、爆発する。
次から次へとこぼれ落ちる涙は抑えようもなく、嗚咽は次第に叫びに変化していく。「う……あああああ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!
本当は、すごく痛かった、苦しかった、悔しかった……怖かった。
本当に怖かったんです……う……ううあああああああぁああああああ!」
恥も外聞もなく、いつしかナオトはサイの胸で、声の限り号泣していた。
妙にプライドが高く正義を曲げない意地っ張りの少年に、ここまで酷く弱りきった言葉を吐かせるとは──どれほどの暴力が、ナオトの上に叩きつけられたのか。
サイは改めて、血を流して動かない下衆どもを眺めた。こんな男たち相手では、ナオトなど翼をもがれた小鳥同然だったに違いない。
砲撃の音は次第に遠くなり、空の炎が次第に闇に覆われていく。黒い雨が降り出した──それでもティーダは輝きを消さないまま、少年たちの前に静かに佇んでいた。

 

つづく
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