星祭りに乗じた暴動が鎮まり、24時間後の深夜。
紅の非常灯しかついていない暗がりで、フレイはゆっくり目を醒ました。枕元の椅子には、制服姿に戻ったサイがきちんと膝を揃えて座っている。
時刻は午前2時を過ぎていた。にも関わらず、サイはきっちり起きていて、フレイの様子を見ている。
「どうだ? 傷の具合は」にこりともせず口にするサイ。「治療を受けてからずっと眠ってた。さすがに心配だったよ」感情のこもらない声が部屋に響いた。
「ここは……ハラジョウか」フレイはつと身を起こす。サイは静かに背中を支えた。「そう、君たちの作業艇。救護室らしいな」
「よく入れたな。私の命でも盾にしたか」視線を合わせず言ってのけるフレイに、サイも凹凸のない言葉で返す。「バカ言うな……きちんと話したら、通してもらえただけだ。
尤も、俺はもうすぐ死ぬから何見られようが構わない、ってだけかもな」
「バカを言っているのはそっちだろう、サイ」自嘲的に笑うフレイだったが、サイは口の端を上げる程度の笑いすら一切見せず、立ち上がった。
「歩けるようなら、言ってくれ。来て欲しいところがある」

 


PHASE-27 俺は、君が好きなんだ。




サイがフレイを支えながらやって来たのは、強化ガラスで仕切られた集中治療室──その前の廊下だった。
二人の向こうのベッドに横たわっているのは、全身をほぼ包帯で覆われ、呼吸器に繋がれチューブだらけになり、苦しげな息を繰り返す、傷だらけの少年──ナオト。
他に誰もいない、暗い廊下。フレイを椅子に腰掛けさせたサイは、彼女に背を向けてガラスごしにじっとナオトを眺める。「救出直後は会話が出来たから大丈夫かと思ったが、すぐ意識が混濁した。頭部打撲に右手首骨折、ふくらはぎに2度の熱傷。肋骨も2本やられてるそうだ。スズミ先生が確認したところ、刃物による切り傷が14箇所」疲れきり、感情を交えるエネルギーもないようなサイの声が廊下に流れた。
「最大の問題は──汚水を大量に飲まされたらしい。喉から肺、胃にかけてひどい炎症を起こしてる。高熱がひかない。ここ数日が勝負だそうだ」
「マユ・アスカは?」
「あの後からずっと寝てるよ。相当脳神経を酷使したんだろう……アマクサ組に引き取ってもらった」
サイはフレイに背中を向けたまま、ひたすらナオトを見ているだけだ。その唇から、呻きのような言葉が漏れる。「これは、俺の無力の結果だ。
俺がナオトをティーダに乗せた。だからこそ、俺はナオトを何があっても守らなきゃいけなかった。キラと同じ目にはあわせたくなかった──なのに」
そこから先は言葉にならない。ただ、ナオトの苦しげな呼吸音だけが微かにガラスを通じて伝わってくる。
「サイ、お前だけのことではない。ナオトを乗せ続けた私にも当然責任はある。だから、お前は私をここに呼んだのだろう?」
フレイは立ち上がり、サイの横顔をのぞきこむようにして語りかける。サイは今にもガラスを叩き割らんばかりに握り拳を固めていたが、決して暴れず涙も見せなかった。
「違う──君は何も悪くないよ。もし君に罪があったとしても、そこには何らかの理由があるはずだ」
「随分と聞き分けがいいな。どうしてそう思う?」
「そう思ってしまえるんだ。あの時、君の心をほんの少し見てから」
沈黙が二人を支配する。船のどこかから、作業用ドリルの金属音が響いていた。
やがて、サイはそっとフレイを振り向く。「ただ、教えてほしいんだ。ナオトを、ティーダの呪縛から解放する術を。
既にナオトとマユは、ティーダを自らの意志でリモート・コントロール可能になってしまった。ただパイロットの権限を外すだけでは、もうナオトもマユもティーダから引き離せない。最悪、ティーダを破壊でもしない限りは」
「もう分かっていると思うが、ティーダとアマミキョのシステムはリンクされている」フレイはサイの問いに対し、淡々と答え始める。だがそこにはサイが初めて知る、衝撃的な事実も含まれていた。「無闇に壊せば、船への影響は避けられない。パイロットのみならず、アマミキョ乗員の精神崩壊に繋がる危険性すらある──本来、アマミキョはティーダ運用の為の実験船なのだから」
「何だって?」
「インドからの技術班に期待するしかあるまい。ナオト・シライシゆかりの者もいる」
サイは慌ててフレイの言葉を止める。「待ってくれ……何だ、その実験船ってのは? この船はティーダの為に造られたものだと?」
フレイは哀れみすら籠もった目でサイを見やりながら言葉を継いだ。「不思議には思わなかったか。何故、ティーダの黙示録を目撃することで他人の顕在意識を、一時的にでも垣間見ることが出来るのか。
何故、アマミキョに乗った者にその傾向が顕著に現れるのか」
「それは……不思議に思わないわけがないだろ。だけど俺にはいくら考えても分からないんだ、黙示録を何度も繰り返し目撃することで、人の心がわずかでも見えるようになるとしか……」
「それも原因の一つではある。だが本当の理由は別にある。
アマミキョが、人の意識を束ねる船だからだ」
サイはいつの間にか、まじまじとフレイを見つめていた。いつも以上に、言っていることの意味が分からない。「頭、診てもらうか?」
それはサイにとって、自分でも冗談か本気か分からぬ一言だった。冗談にしてしまいたいが、冗談ではすまされない過去の現象が頭をよぎる。そしてフレイの横顔──どこからどう見ても、ジョークを言っている顔ではない。
「単に搭乗者だけではない。船に助けられた者、船を攻撃した者、この船に関わる者たちの意識全てを統一し、収束するのがシステム・アマミキョ──全艦監視システムの正体だ。無数の意思は一つとなり、その刹那、個々の精神の境界はほんのわずかだが、薄れる。
それらを『黙示録』なる物理的な力に変換するモビルスーツが、ティーダ。
パイロットはその媒介となる。パイロットが子供でなければならない理由もそこにある──成熟しきった大人の精神では、多くの人々の心を包み込み受け流し、ティーダに伝播させることは出来ないからな」
初めて聞かされる、あまりにも信じがたい事実の羅列。目の前の女はどこぞのエセ宗教かぶれなのか、そうであってほしい──しかしサイにはどうしてもそうは思えない。今まで現実で起こったこと全てが、フレイの言葉を実証しているのだ。黙示録の発動時、あれだけ人の心が見えたのは何故だ。あれだけ自分の心が裸にされたと感じたのは何故だ。俺はあのユウナとすら、お互いに心を見せ合ってしまったじゃないか。
「だからあらかじめ、マユが選ばれていたのか。だから、ナオトをパイロットとして使い続けたのか。
マユ一人では多くの人の心に耐え切れないから、もう一人の子供のパイロットが必要だった──それがたまたま、SEED持ちのナオトだったってのか。 君たちがそんな酷いことを続けるのも……何か理由があるんだな。人の心を踏み台にして、子供を犠牲にしてもやらなければならない何かが。
人の心を覗くなんて、ファンタジーでしかありえないと思っていたよ」
フレイはそれには答えずサイから視線を外し、肩の髪をかき上げた。「だが、それももう終わる」感情の籠もらない声。「ナオト・シライシは今度こそ、ティーダと無縁になる。お前は何もしなくていい。
そして、アマクサ組もアマミキョを離れ、アマミキョは役目を終える」
「どういうことだ……君たちが離れる?」
「言ったとおりの意味だ。アマミキョ衛護の契約は、残り1ヵ月半で終わる。
アマミキョの守りは山神隊ら、連合軍に委任されることとなる」
「そんな……」またしてもフレイを責めそうになった自分を、サイは必死で押しとどめた。アマミキョは救援船だ、戦艦ではない。今のような過剰な武装を持つこと自体がおかしかったのだ。強すぎる力は、争いを呼ぶ──カガリの口癖が蘇る。
アマクサ組を奪われるのは痛いが、フレイやマユに血みどろの戦いを押しつけるよりはいい……
サイは自分を納得させようとするが、どうしても心のどこかで強烈な、拒絶の感情が渦巻いていた。
──このままだとチュウザンは、炎に包まれる。確実にね。
今度はユウナの言葉が蘇る。既に暴発を開始しているチュウザン、こんな状況下でアマミキョが見捨てられるのか──単純に、その理不尽に対する怒り。
だがその怒りと同時に、サイの中でもう一つの強い感情があった。それはそのまま言葉となって、サイの喉から零れ出す。「俺は──君と離れたくない」
その瞬間、フレイが意外そうな顔で振り返った。「驚いたな。副隊長ともあろう者の口からそのような私的発言を聞くとは」
「ちっとも驚いてなさそうな声で言うな……でも、本当のことだ。
ナオトがこんなことになってるのに、チュウザンも酷いことになっているのに、俺は自分で自分が恥ずかしいよ」
サイはあくまで淡々とした口調を維持しようと努め、ゆっくりと想いを口にする。「君はフレイを騙っていた。俺だけじゃなく、ナオトにもキラにも皆にも、君は酷いことをした。君がいたことで俺は殺されかけた──
なのに」サイは言葉を切る。感情が胸から溢れ出さんばかりだ。
「なのにどうしても、君のことが頭から離れない。
瓦礫を片していても、子供たちを教えてる時も、リンドー副隊長の本を読んでる時も、通信してる時だって、どんな時だって君のことが頭から離れないんだ!」
冷静に話そうとしているのに、感情に任せて声は次第に荒ぶっていく。サイはもう自分を止められない。「俺は、君をもっと知りたい。君のことをもっともっと知りたい。
どうして君はフレイなんだ、どうして君はフレイじゃないんだ、どうして君はフレイになったんだ!」
サイがそこまで心を曝け出した瞬間──その言葉と感情を遮るように、背後から柔らかく甘い感触が、彼を押し包んだ。多少不器用ではあるが、とても優しく。
もう何も言うなと言いたげに、フレイは、背後からサイを抱きしめていた。
サイはそれきり、フレイの腕の中で何も言えなくなる。彼女もまた、何も語らない。黙示録も何もなく、お互いの心のうちは見えない。ただ、フレイが母鳥のように自分を抱きしめている──その事実だけが、歴然とそこにあった。雲間から、やや弱い月の光が差し込んでくる。
どれだけの時間、そうしていただろうか──サイの眼前のガラスの向こうで、ふとナオトの瞼が動いた、ような気がした。
開こうとして頑張っているが、開けない。目の前の光景を見ようとして、苦しげな痙攣を繰り返す少年の瞼。
「駄目だ」サイはゆっくりと、フレイの両手を肩から外した。「ナオトが戻るまで、俺は君と想いを交わせない。交わすべきじゃない」
そんなサイの意志を汲み取ったのか、フレイも抵抗はせず、そのまま手を離した。ただ一つだけ、言葉を残して。「お前の気が向いたら、私のもとへ来い。私は、いつでも待っている」


祭りの日の惨劇に隠れていたが、アマミキョ内では同時に、もう一つの事件が発生していた。
サイもナオトもいなくなった暗い部屋で、カズイはじっとベッドに座り込んでいた。数日前に作り上げ、丁寧にラッピングしたクッキーを目の前にして。
カズイはなるべく一緒に作業している者たち全員にクッキーを配れるよう、自分のポイントを削りに削りながら材料を用意した。自由時間を割き、深夜の調理室で頑張った──独りで。
全ては、アムル・ホウナに想いを伝える為だった。他のメンバーの分も用意したのは、アムルのみに渡すことで人間関係に角が立つことを恐れたからだ。
ただアムルの分だけには、彼女に似合いそうなエメラルド色のリボンをかけ、何回も推敲を繰り返した手書きの短いメッセージを添えた──そして祭りの日、あの暴動が起こる前に、カズイはアムルにクッキーを手渡しすることに成功したのだ。
出来るだけさりげなく、できるだけ彼女に重いと思われないように。
──俺、ちょっとだけ本気ですから。ちょっとだけ、祭りの話、信じてますから。
そう言ったら、彼女は優しく笑ってた。少し驚いていたようだけど、少なくとも嫌がってはいなかったはずだ。
なのに今、カズイの目の前には、泥にまみれ、明らかに踏み砕かれた贈り物の残骸があった。泥に染まってはいたが、確かにかかっているリボンはエメラルド色──間違いなく、アムルへ渡したものだ。カズイが書庫で作業をしていたら、何故かその前のダストシュートに放り込まれていたのだ。破り捨てられたメッセージ・カードと一緒に。
アムル自身がこれをやったなどという考えを、カズイは必死で拒絶していた。そんなはずがない、だって彼女は優しい人だ。いつも一緒にいて、優しく俺を教えてくれたじゃないか。
きっと、誰かのイタズラだ。アムルさんが、誰かに取り上げられて……
──でも、だったら何故、プレゼントがこんな状態で俺の目の前にある? まるで俺に見せつけるように?
アムルさんじゃないとしたら、誰がこれをやった? フレイか? 何を考えているか分からぬ彼女ならやりかねない所業だ、最も考えうる選択肢ではある。オサキ、ヒスイ、スズミ、ハマー、隊長……次々と仲間の顔を思い浮かべては、可能性を吟味する。そして……「サイ? サイなのか?」
まさかと思いながらも、カズイの頭は疑念でぐるぐる回り続ける。サイは俺にずっと、アムルさんのことを諦めさせようとしていた。危険だとか何とか、意味の分からないことを言っていた。本当は、自分がアムルさんを手に入れたいから?
──いや、馬鹿な。サイはずっとフレイを追っかけていた、祭りの日だって。それにサイはあの日以来、作業時以外はずっとナオトにつきっきりだ。フレイも一緒に。
「いつからあいつら、より戻したんだよ」カズイの中で、どす黒い感情がとぐろを巻いていく。
そうだ──サイには責任がある。この船を背負わなきゃいけない、俺なんかと違って。
だから、俺を作業に集中させる為に、俺にアムルさんを諦めさせようとしてこんなことを? 自分はフレイと一緒にいる癖に?
そのままカズイは枕に顔を埋める。自分の汚さに絶望して。「何、馬鹿なこと考えてんだ……俺」


翌々日の深夜も、作業の指示を一通り終えたサイは集中治療室の前にいた。ガラスの向こうで、スズミ女医と看護士たちがせわしなく動き回り、ナオトの点滴やチューブを付け替えている。サイはパイプ椅子に座り込んだままじっと見ていることしか出来ない──そんな時。
「何してんだ。もう峠は越えたんだろう」
サイの頬にふと、ソーダ水の瓶が当てられた。思わぬ冷たい感触に反射的に顔を上げると、仏頂面の広瀬少尉が突っ立っていた。「もう3日だ。ナオト・シライシも何とか回復しそうだな……現状、君に出来ることなど何もない。君がやるべきことは他にあるはずだ」
「そうみたいですね。でも、俺は出来るだけここにいます。ナオトが目覚めるまで……俺の責任ですから。全治2ヶ月なんてことになったのは」
広瀬はやれやれ、と言いたげに壁に凭れる。「まぁいいさ。ただ、どうも引っかかることがある。
単刀直入に聞く。今回の件、ナオト・シライシは何故、襲われたと思う?」
不意の質問に、サイは目を瞬かせた。「ハーフコーディネイターとして、目をつけられたから……だと、俺は思ってます。ただでさえナオトは世間に顔が知れている。それなのに、何があるか分からない混乱の中で、たった一人でほっつき歩いていたんだ」
「一般的見解だな」広瀬はポケットに手を突っ込んだまま、サイから視線を外す。「隊が後から調べて分かったが……あの河原に、パレード用の電飾装置があったのを覚えてるか」
そうだ──ナオトと暴徒たちが倒れていた場所から少し離れた草むらに、異様にきらびやかに輝き続ける巨大魚の電飾があった。「あの装置だが、一部のケーブルが断線していた。火災や着弾などではありえない、きれいな切り方だったよ。ご丁寧に、パレードスタッフの死体つきだった」
「何が言いたいんですか」
「恐らく奴らは、ナオト・シライシをあの後も徹底的に痛めつけるつもりだったろう。あの魚に磔にして微弱電流を流し、パレードでもやるつもり……」
広瀬はそこで一旦言葉を切った。サイが怒りで立ち上がっていた為だ──下手すれば広瀬を殴りかねない勢いで。
「落ち着けよ。俺が言いたいのはそこじゃない」憤りを何とか抑えているサイの前で、広瀬は淡々と語り続ける。「問題は、何故そこまで周到に、ナオト・シライシを傷つける必要があったか?だ」
あくまで落ち着きはらった広瀬の態度に、サイは何とか自分をもう一度椅子に座らせることに成功した。「ハーフへの、またはオーブへの怒り……それに加え、祭りとテロが同時に来たことで興奮状態になった群衆が暴徒化したのではないでしょうか」
「ありえないとまでは言わんが、考えにくい。怒りとその場の興奮のみで襲いかかったのなら、とうにナオトは墓の中だ。……だから、怒るなよ」
目を剥いたサイを、広瀬は軽く宥めた。手渡されたソーダを一口飲みながら、サイは何とか一息つく。再び広瀬は話し始めた──「あの切り傷を見ただろう。酷い痛みを負わせてはいるが、いずれも急所は外れている。そして、準備されていた電飾……」
ここまで言われれば誰でも分かる。「ナオトへの襲撃は、あらかじめ計画されていたと?」恐ろしい予感がサイの脳裏をよぎった。「まさか……SEEDが」
思わず声に出た呟きを、広瀬は聞き逃さない。「SEED? ナオト・シライシが工場でレポートしたって噂のアレか」
サイは口を噤む。連合である広瀬に迂闊に言えることではない。
広瀬はそんなサイの肩をつかみ、いきなり壁に押しつけた。「俺が調べた時には、レポートはアマクサ組に削除された後だった。一時は貴様とカズイ・バスカークを脅してでも真相を掴むってのも考えたが──」
広瀬は薄い眼鏡のレンズの下から冷酷な眼光を覗かせる。「まぁいいさ……今は、その顔と沈黙だけで十分だな」
意外にも、そのまま広瀬はサイから手を離した。「脅しは性に合わない。何か話したくなったら、言ってくれ」
「俺は、何も知りません。本当に何も知らないんです」知っているのは単語だけだ。そう言おうかどうかサイが逡巡した、その時。
「ナオト! ナオトなのねっ?」
廊下に響いた若い女性の叫び声に、二人は反射的に振り向いた。そこでは、美しい金髪の女性が一人、泣きそうになりながら立ち尽くしている。
たった今、走ってここまで辿りついたらしい。耳の横からくるくると巻かれた豊かな髪はやや乱れ、小洒落た喫茶店のメイドのような服の襟元からは、大きな胸がのぞいている。15歳くらいの少女かと思うほど愛らしいその女性は、集中治療室のガラスにぺたりと張りついて涙を浮かべていた。「ナオト……ナオト! 良かった、無事で……本当に本当に、強くなってくれた」
その女性の声が届いたのか。ガラスの向こう側の少年がゆっくりと薄目を開き、その唇が微かに動いた。微笑みの形になった唇は、呼吸器の中で確かにこう動いた──「かあさん」と。


「マスミ・シライシ。インドから来たティーダ研究員だってさー」
オサキはそうするのが当然とでも言いたげに、堂々とアマミキョ・ブリッジの副長席にふんぞり返っていた。ヒスイはそれを諦めに近い表情で眺めている。「凄く若々しい人みたいですね。いいなぁ、やっぱりコーディネイト技術なのかなぁ」
「若々しいなんてもんじゃねぇ、14か15ぐらいのロリにしか見えねぇってよ。子持ちバツイチの癖になー」
「隊長がマミさんマミさんって、うるさくて。男の人ってどうして、胸のある人がいいんでしょう?」
「勝手に渾名なんかつけやがって、マミじゃなくてマスミだっつーの」
今ブリッジにいるのはその二人と、カズイとアムルの4名。騒乱後の片付けもどうにか落ち着き、ナオトも回復を始め、ようやくメンバーにも余裕が出てきた──はずなのだが、何故かアムルとカズイの間は空気が凍りついている。
カズイはちらちらとアムルの方を見てはため息をつき、アムルはそんなカズイを一顧だにしない。彼女は殆どカズイに声をかけようとせず、業務が終わればブリッジの空気を嫌うようにその場を去っていく。そんな毎日があの日以来、ずっと続いていた。
要するにカズイは、誰が見てもこっぴどく振られたわけなのだが、カズイ自身は未だ事実を認識していなかった。事実を拒絶していた。
「アムルさん……あの、アムルさん、聞こえてます? すみません、カタパルトから通信が」カズイのおずおずとした声がアムルにかかると、彼女は返事もせずに黙ってカタパルトに繋いで通信を開始した。「了解」の一言すら、カズイには返さない。
それを後方から見ていたヒスイが呟いた。「問題……ですよね。いくら何でも」
「業務上でも声かけないって、ありえねぇだろ。フレイに報告するか?」
「とはいえ、最近フレイさんも丸くなっちゃいましたし……もうすぐ、いなくなっちゃうし」
「サイはナオトにつきっきり、隊長は走り回るばっかで頼りねぇし」
オサキはふと天井を見上げてため息をつく。「これから……どうなっちまうんだろ。この船」


あの祭りの日から、10日が経過した。
ナオトはようやく集中治療室から通常の病室に移された。だがまだ喉の炎症が酷く、うまく喋ることが出来ない。
それでもナオトは、サイと言葉を交わした。今までになく落ち着いて。
サイがフレイのことを全て話した時、ナオトは本当におかしげに笑った。怒るでも悲しむでもなく、くすくす笑った。「だから、僕が言ったじゃないですか。あのフレイさんは偽者だって」
「そうだな……考えてみれば当たり前の話だ」包帯の巻かれたナオトの額のあたりを撫でてやりながら、サイも笑う。「死人がそう簡単に現世に舞い戻っていいはずがないんだ。だけど、俺はずっとフレイの生存を望んでた。だから、当然のことにも気づけなかった」
「でも」ナオトは軽く咳こみながらも、サイに尋ねる。「どうするんですか? 今のフレイ・アルスターを」
サイは一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えた。「どうしようもないよ。もうすぐアマクサ組は離れる、ナオトもティーダやアマミキョから離れられる。みんな、出発前の状態に戻るだけだ」
「じゃあ、サイさんはここに残るんですか。フレイさんと離れて」
サイは頷きながら、少しずれた毛布をナオトにかけ直してやる。「ああ、俺は残るさ。
お前はお母さんと一緒に行けばいい。ティーダの件で色々調べられることはあるかも知れないが、多分戦わされることはないよ。マユも恐らく一緒だろう。良かったな」
ティーダから離されると聞いても、ナオトは以前のような異常な反応を示さなかった。母親を取り戻したことで父親から受けた傷が和らぎ、ティーダに乗り続ける理由も薄れたのだろうか──ただナオトは、何か言いたげに毛布を口元まで引っ張りあげる。「母さんが来てくれたのは、嬉しいんです。とっても」
「色々聞いたよ。想像以上だった」サイはマスミから聞いた、ナオトの生い立ちの話を思い出す。決して幸福ではなかった、ナオトの生まれを。
オーブにおいて、コーディネイター同士で結婚したシライシ夫婦の間には、ずっと子供が出来なかった。マスミ・シライシは子供が欲しいあまり、ナチュラルの男性と関わりを持った──その結果として、家庭は崩壊。ナオトに愛情を持てなかった父親は激しい虐待の末、ナオトとマスミを追い出した。ナオトの実の父親はといえば、ナオトの存在を認識していたかどうかすら分からぬまま、大戦中に亡くなったという。
そしてマスミは傷心のあまりナオトの育児を放棄し、親戚に彼を預けたまま研究に没頭し、そのままナオトの前から姿を消した。それから数年──
ヤハラの工場での父親の所業を耳にしたマスミは、いてもたってもいられずナオトを迎えに来たのだという。
その話を、マスミは涙まじりでサイに語った。その涙に嘘偽りはなかった──少なくとも、あの父親に任せるよりはずっと安全だろう。「あのお母さんなら、大丈夫だ」
「でも、サイさんは」ナオトはかすれた声でなおも反論する。「サイさんはオーブに帰らないんですか? ここにいたら危険ですよ」
「危険だから、俺たちがいるんだろ」
「分かってます……だけど、ティーダもアマクサ組もいなくなるんですよ。チュウザンだって、もっと状況が酷くなって」
そこまでナオトが話した時、サイの後ろから野太い声がかかった。「あんまり俺らをバカにすんな、ガキんちょ」
ポケットに手を突っ込んだまま、ずかずかと病室に入ってきた作業着の男──ハマー・チュウセイがそこにいた。「元々、てめぇはアマミキョの人間じゃねぇだろ。
帰る処があるんだったら、とっとと帰んな。子供がこれ以上関わんな、てめぇなんぞに心配されるほど落ちぶれちゃいねぇよ」
「貴方が口出すことじゃ……ないでしょ」ハマーに対しては嫌悪の感情を隠しきれないナオトは、ついそっぽを向く。いつもであれば怒鳴り返していただろう。
サイはため息をつきながら二人の間に入る。「ナオト、そういうわけだから。嫌な思いばかりさせて、本当にごめんな。
しまいにはこんな怪我までさせて、お前の母さんに顔向け出来ないようなことになってしまった。ここでマスミさんが来てくれたのは、僥倖だったよ」
「サイさんが謝ることなんて、何もないですよ。ティーダに乗って黙示録を起動したのは僕の意志です。マユを助けようとして」
「そうだ、マユもやっと元気になったよ。早く会いたいって言ってた」
ナオトの表情がぱっと明るくなった。「そうですか……良かった。でも、今度会う時なんて言えばいいかな。何だか、恥ずかしくて」
「何だよ、お前らしくもない。マユは今度のことで、ホントの本気でお前に惚れたんだぞ」
言われて、ナオトが真っ赤になってうつむく。胸元には、ナオトが必死で守り通したお守りがぶら下がっていた。サイが作業の合間に修復しておいたものだ。
「もういいだろ」と、ハマーがサイの肩を掴んだ。「てめぇもクソ忙しい癖に、たまの自由時間はコイツの面倒ばっか、いい加減にしやがれ。てめぇみたいなアホでも、倒れられたら困るんだよ。
俺が代わるから、もう作業に戻れ」
「えぇ!? い、嫌ですよぅ」サイが答えるより先にナオトが思いっきり膨れっ面で、サイとハマーを睨む。この人とナオトを二人きりにするのか──サイもさすがに不安になってハマーを見るが、彼はナオトのそばから動こうとしなかった。
「アホか、殴りゃしねぇよ」そう言ってハマーは、脇に置いてあったリンゴに手を伸ばすと、ポケットからナイフを取り出して皮を剥き出した。あっという間に器用にリンゴを剥いたハマーは、一切れナオトの口元にぐいと近づける。「ほれ、あーんしろ、あーん」
「い、嫌です嫌です! 何言ってるんですか」「バッカおめぇ、ろくに手ェ使えねぇだろうと思って俺がわざわざ差し出してやってんじゃねぇか! ほれ、口開けろ」「嫌ですってば、ちょっと待っ……サイさんってば!」
ナオトは真っ赤になりながらサイに助けを求めるが、サイは笑って返すだけだった。「人の親切は素直にもらっておこうな、ナオト」「こんなの親切じゃなくて、押し付けっていう……むぐ」
有無を言わさず口の中にリンゴを突っ込まれたナオトに、サイは思わず吹き出してしまう。それを見て、今度はハマーが真っ赤になった。「お、おいてめぇは、いつまで突っ立ってんだよ? さっさと作業に戻りやがれ!」
「はいはい、分かりました」「はいは一回だろうが!」「はーい」「そんなに殴られたいのかてめぇは! さっさと行きやがれ」残りのリンゴをサイの口に投げつけかねない勢いでハマーは怒鳴る。そんな二人を残して病室を去りながら、ふとサイは思った。
久々に、心から笑った気がする──と。


それから、さらに7日後。
アマミキョはサイの指示の的確さもあり、てきぱきとテロ被害の後始末に励んでいた。マスミ・シライシらの研究班がティーダとマユを連れていく正式な日取りも決まり、同時にナオトもマスミたちに同行することとなった。
サイは本とデータだらけの副隊長室で一日を過ごすことが多くなっていた。ブリッジへの距離が近く、自室よりも利便性が高い為だ。カズイとアムルの件は気にかかってはいたが、それよりもやるべきことの多さに忙殺されているサイだった。
気になっているのは、オーブからの支援が滞りがちなことだ。担当区域全てには食糧や薬が行き渡らず、住民の不満は次第に増している。山神隊は2名の増員があったらしいが、それだけでは心もとないのが現状だった。
「何やってんだ、あのモミアゲ野郎」サイは、ユウナの帰還を伝えるオーブの新聞を横目に、独り愚痴るしかなかった。ロゴス一味として暴露されてしまったムジカノーヴォ社長とも、連絡が取れない。
アマクサ組とティーダが離れたら、今後どうやって救助活動を続けていけるのか。どうやってテロに対抗していくのか。
そんな時だった。一人の意外な客が副隊長室を訪ねたのは。
「よぅ、元気でやってるか……って、無理みたいだな」その男──ラスティ・マッケンジーは、いつもの如く陽気にサイに話しかけてきた。「最近お前と、あんま話してないなと思ってさ」
トールの件以来サイはアマクサ組を警戒し、必要以上の会話をしていなかった。アマクサ組は確かに、「あの」トールの仲間──いや、仲間ではないにしても、あの時漏れ聞いたフレイとの会話から判断するに、知り合いであることは確実だ。
──今俺がやらなくとも、いつか必ずサイを消しにくる奴は現れる。
これ以上の不吉さを望めないほど不吉なトールの言葉が、サイの脳裏でこだまする。「その理由は、君たちなら分かってると思うけどな。
友人の姿を借りて俺を殺しに来るような奴らを、信用出来るかよ」
ラスティの表情から陽気さが消え、真っ直ぐにサイを睨んだ。「もしかして、俺がお前を殺しに来たとか思ってる?」
「そう思わないほうがおかしい状況なんだけどね」サイは横目で彼を睨み返しながら、わざと音をたてて読みかけの本を閉じる。
ラスティはため息をつきながら呟いた。「そのことに関しちゃ、俺は何も話せる立場にない。弁解も出来ないさ。ただ、伝言ぐらいは信じてくれよ」
「何でしょうか」サイはわざと皮肉をこめ、馬鹿丁寧に答えた。ラスティはアマクサ組の中では比較的話をしやすい人物だったので、多少心苦しくもあったが。
しかしラスティは動揺ひとつせず、淡々と応じた。「来いよ。フレイが呼んでる」


 

 

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