アマクサ組作業艇・ハラジョウ──その内部に、サイは再び入室を許された。天井が意外に高い、フレイの自室へ。
山神隊旗艦・タンバでも、一つの変化が起こっていた。
具体的には、2名の人員の増加である。両者ともそこそこのモビルスーツ操縦技能を持ち、手薄になるアマミキョ防衛にはうってつけの人材、との触れ込みだった。実際、山神と伊能が見たところ、2名の実力は確かなものではあった。
うち1名、竹中玄一等兵は軍に入ってわずか半年の新人。とはいえ、真田のようにどちらかといえばのほほんとした性格とは正反対で、一言で言えば直情怪行を絵に描いたような青年だ。曲がったことが大嫌いなのはいいが、どんな戦闘でもすぐに前に出たがり、統率を乱す傾向がある。要するに若さが過ぎるあまり、上層部に疎んじられ山神隊に飛ばされたのだろう──というのが、隊全員一致の見解だった。
もう1名、キョウコ・ミナミ──この女はそもそも軍属ではない。東アジア共和国内の某民間軍需産業の広報課課長で、出向と称してチュウザンの山神隊にやってきたのだ。
連合と深い繋がりを持つ彼女の会社は、公表はされていないものの当然のことながら、ロゴスとも無関係ではなかった。そんな理由から、彼女は良く言えば上層部からのお目付け役、悪く言えばスパイだろうという見解を、これまた全員一致で山神隊は出していた。
実際、彼女は山神たちの前で言ってのけたのだ。細いパンツスーツを着こなし、170センチ以上もの背丈を大きく伸ばしながら──「東アジア共和国から、こともあろうにザフトへ寝返る裏切り者が後をたたない。おかげさまで、連合軍の戦意は低下しています。ここ山神隊でも同様の傾向が見られます!
何故、ザフト主導と分かっている混乱を徹底的に封じ込めないのです!? ここ1ヶ月の被害状況を、貴方がたは理解していらっしゃるの?」
この時は時澤が反論した。「ザフト主導と決まったわけではありません。ここは表向き連合の管轄ですが、コーディネイターとして暮らす一般人も多いことを忘れないでいただきたい。自分たちが戦っているのはザフトではなく、この地とアマミキョの安全を脅かす者だけです!」
だが、背丈で大幅に勝るミナミは時澤を見下げ、こう言ったのだ。「場当たり的で中途半端な中立体制をとっているからこその、今の事態ではなくて? コーディネイターは確かに敵ではありませんが、ザフトは明確に私たちと敵対するものです。
忘れないでね、おチビさん」
この最後の一言で時澤が大憤慨し、さらにひと騒動があったが──思い出せば出すほど、山神にとっては頭が痛くなるばかりの増員だった。
「仕方ありませんや、この隊では」伊能は二人の件を一笑に付したが、山神も伊能もこの先を考えると、憂鬱を隠せなかった。フレイたちアマクサ組やティーダが一度に抜けるのは、想像以上に痛い。
さらに、山神たちにはもう一つの懸念があった。「広瀬は、どうしても行くというんですか」
「人工島や南チュウザンの動向を探らせるには、必要だろう。例のトミグスクの工場やティーダの件も気になる。
周到に準備はさせてある、心配はいらんよ」
だが伊能は納得出来ずに、一歩進み出た。元々広瀬とは性格の差からか口論が絶えないが、伊能は彼の、真面目故の不器用さに不安を感じずにいられなかった。「あいつで大丈夫でしょうか。何なら自分が」
「いや」山神はゆっくり首を横に振る。「奴は奴なりに何かを勘付いている。ティーダの裏にあるものをな」
「し、失礼しました!」
とんでもない恰好のまま、サイとフレイはニコルにまじまじと凝視されていた。
少年は白い頬を一瞬紅に染めてフレイを見、次いでサイに視線を移す。汚いものを見るような目つきで見られるだろう──サイは覚悟したが、意外にもニコルの目に軽蔑の色は混じっていなかった。勿論、大いに驚いてはいるようだったが。
「あ……サ、サイ、また制服の替え用意しなきゃですね。在庫あったかな」慌てふためきながらも車椅子を動かし、笑顔まで作って部屋を出ていくニコル。フレイはというと──動揺ひとつせず、背を伸ばしてじっとニコルの動きを睨んでいた。足ではサイをベッドに押さえつけたまま。
思わぬ来客でフレイの手からようやく解放されたサイは、破れた服を直しながらそっとフレイに声をかける。高まりは未だおさまらなかったが、それでも何とか話が出来る程度には冷静さが戻っていた。
「君は、別に俺から何か奪おうとする必要なんかない。君はいつでも待ってると言ったじゃないか、だから俺はここに来たんだよ」
フレイはニコルの去った扉から目を離さない。恥部を見られたにしては、あまりにも冷静すぎる態度だった。それもまた、「この」フレイらしいといえばらしいのだが。
「……知っていた」サイの言葉には答えず、フレイはぽつりと呟く。
「え?」
「あやつは、私が何をするか知っていた。あえて中断させたのだ──このような方法は間違っていると」
サイを見もせずに、フレイは俯く。彼女の足の力はいつの間にか抜けていた。絡んでいた女の脚からようやく脱出し、大きくずれた眼鏡をかけ直しながら、サイはフレイの横に腰かける。
すぐそばに置かれたフレイの手。戦闘ばかりにも関わらず、以前のフレイとほぼ同じに細い手首、整えられた爪。その手を、サイはそっと握りしめた。
いつものこの少女に似つかわしくない、自信を失った小さな声でフレイは呟く。「さっきお前が言った通りだ。私はこんな方法でしか、他人から奪えない」
「どうして、そんな風に思いつめる? 俺は……」
「お前が愛しているのはフレイ・アルスターだ」その横顔に、微かに笑みが浮かんだ。どこか自虐的な笑みが。「そのフレイに成り代わった私を、フレイの名も身体も奪った私を、お前が許せるわけがない」
サイは気づいた──俺は今、絶対に言わなければならない。
一旦手を離し、サイはフレイの両肩を掴んで無理矢理にでも正面を向かせた。それでも彼女は視線を合わせようとしなかったが、サイは構わなかった。今しかない。今を除いて他はない。
「俺は、君が好きなんだ。
君がフレイになった裏にどんな理由があるのか、俺は知らないよ。だけど君は、ずっと俺を見てくれていた。俺を追いかけてきてくれた。俺を、ずっと守ってくれた。色んなことを背負っているのに、それでも俺を見てくれた。
そんな君が、とても可愛いと思ったんだ」
その一言で、フレイが初めて顔を上げた。海の色の瞳が大きく見開かれ、頬がかすかに染まる。
あぁ──この娘は、やっぱり本質は普通の女の子だ。今の顔なんて、何もなかった頃のフレイそのものじゃないか。「か、可愛いだと? 私が?」
「そうだよ、君はすごく可愛い。君がフレイになった事実も含めて、俺は君が好きなんだ」
彼女はまじまじと、信じられないものを見る目つきでサイを眺めていたが、やがてその言葉を嘲笑するようにため息をつく。「お前はまだ何も知らぬ。
私がやってきたこと、私がこれからやることを知れば、お前は間違いなく私を憎む。
お前の今の気持ちの分だけ、お前は私を憎む」
かつて俺が、キラやフレイを憎んだと同じようにか──彼女の言葉を、サイは否定しなかった。「それは、ナオトやアマミキョや、キラにも関係あることか?」
フレイは何も答えない。それもまた答えか。「人の感情なんて分からない。特に自分のはね……憎悪だって同じだ。
だから今後、俺が君を憎まないなんて保証は正直、ないよ。今だって、こんな時に置いていっちまう気かって……ちょっと憎たらしいもんな」
サイはゆっくりフレイの背中に両腕を回し、その右耳に囁く。意外なことに、彼女からの抵抗はなかった。薄いワイシャツを通した彼女の体温が伝わってくる。「話、つけにいくよ。
俺が君を憎くて憎くてたまらなくなった時は、話しにいく。何の理由があるのか、話を聞きにいくよ。
その上で、俺はどうするか決める。2年前、俺はそれすら出来なかったんだ」
「馬鹿な……甘いことを!」フレイはばっと顔を上げ、髪を振り乱して叫ぶ。ちゃんと正面から俺を見てくれた──それだけで、サイは嬉しかった。「トールの言う通り、私のせいでお前が死ぬかも知れないんだぞ! それだけではない、私がお前を殺すかも知れんのだ! もっと酷いことなどいくらでも考えられる、あの方なら……」
これほど感情を露にした「この」フレイは初めて見た。気のせいか、涙すら浮かんでいるようにも見える。
「あの方……って?」
その問いにもフレイは答えない。答えれば俺もフレイも殺されるレベルの人物ってことか。
「お前と初めて会った時──」しばらくの沈黙の後、両膝をぎゅっと握り締めたままフレイは話し始めた。「お前の話は、衝撃だった。こんなお人好しが、この世にいるわけがないと。嘘だと思ったが、お前はそんな細かな嘘を言える顔ではないしな」
キラとフレイとの、砂漠での話をした時か。あの時、一瞬「この」フレイが表に出てきたように思ったのは、彼女が動転した為だったのか。「随分な言われようだな」
「今まで生きてきて、初めてだった。お前のような人間は──奇跡だったんだ、私にとって」
それが、トールに言い放った「奇跡」の意味か。「俺よりいい奴なんて、いっぱいいるさ。でも、そう言ってくれると嬉しい」
サイはそっとフレイの右耳に口づけ、未だ動かしづらい左手でフレイの背中の包帯に触れた。乱暴ではなく、少女を労わるように。
今までずっと感情を押し込めたまま、毅然とあらゆる困難に立ち向かっていた少女。今なお話せぬ秘密を抱えながら、かつての婚約者を名乗って自分に近づいた少女。玉のような汗が流れる肌から、その熱い感情の一部が見え隠れしている。
耳から頬へ、サイは静かにフレイに口づけた。再びあの声が聞こえてくる。
──そう。貴方はやっぱりするつもりね、その女と。
──どうなっても知らないから……ホントに馬鹿ね。
──勘違いしないでよ。その女を手に入れたからって、私を手に入れたわけじゃない。私に化けた、コーディネイターの女なんかと……私はそんな女、絶対に認めない。
執拗にサイを追いかけてくるフレイの声。だがサイにはもう分かっていた。これは、俺が生み出したフレイの幻だ。
フレイが最期まで俺を想っていたと思いたい、俺の情けない心だ。そんな俺の卑劣さが、歪んだフレイを生み出している。
それでもサイは、少女を抱きしめる手を緩めなかった。少女の額に張りついた髪を指で直してやり、サイは唇を重ねる。今度は奪い奪われるのではなく、与え、分け合う接吻が交わされた。
フレイ、すまない。君に罵られながら、俺は彼女を抱く。
現実の君は俺のことなんて、これっぽっちも想っちゃいないだろうけど。
「……そんなことは、ないだろう」
「何が?」
「フレイは俺を想っていない──って、さっき」
「あれ。俺、そんなことを?」
「言っていた」
「疲れたのかな……さすがにね。でも、どうして分かるんだ。どうして断言できる」
「彼女のことはお前よりもずっと知っているし、知らされてきた。お前をそう簡単に忘れられるほど、彼女の頭は悪くはないはずだ」
「そうだと嬉しいよ……ちょっと、眠らせてくれ」
「もしや……初めて、だったのか?」
「言ったろ。フレイとはキスまでが精一杯だったって……軽蔑したか?」
「違う、卑下するな。健気な男だと思っただけだ」
全身を包帯で覆われながらも、やっと松葉杖で歩けるようになったナオトは、惹かれるようにカタパルトへ来ていた。眼前には、真っ白な輝きを放つモビルスーツ──ガンダム・ティーダが悠々と岐立している。整備士たちが何人もとりつき、天井近くのキャット・ウォークからはマスミ・シライシがてきぱきと指示を出していた。「あぁ、違うわよ! EDNSモードをEENSに切り替えないと、ハーモニクス値のバランス調整が出来ないわっ」
ティーダコクピットは開放され、座席が見えなくなるほどの無数のケーブルに埋め尽くされている。ティーダはナオトが見上げても、特にこれといった反応はない。ナオトは後から聞かされて俄かには信じがたかったが、確かにティーダはあの日、ナオトの心の悲鳴に反応したのだという。意志を持つ生物のように彼の目の前に降りたティーダを、ナオトははっきり覚えていた。
ティーダコクピットに移動しようとしていたマスミはナオトに気づき、素早くワイヤーを伝って上から降りてきた。「ナオト! もう大丈夫なのね」
マスミは床に飛び降りるが早いか、ナオトを豊かな胸で思い切り抱きしめた。作業用ノーマルスーツの間から漏れる、母の汗の匂い。香水の香りが残るその匂いが、ナオトは懐かしかった。
「あと3週間で出発よ。準備をして、身体を休めておかなきゃ」
「ありがとう、母さん。だけど僕はもう、ティーダには乗れないの?」
母親を取り戻したとはいえ、ナオトの心にはまだティーダへのこだわりがあった。少年らしい純粋な正義感と、キラへの憧れ──それは酷い傷を受けたことで、却って強靭な執着になったとも言える。
「この前も言ったでしょ。貴方次第よ」マスミはただ微笑みながら、そんなナオトの頭を撫でた。「研究所に行って、色々聞かせてもらうことになるわ。身体を調べられることもあるでしょうね。だけど、その後どうするかは、自分で決めなさい。
大丈夫、貴方は強い子だから」
「僕、SEED持ってるの、知ってるでしょ。僕はもっと強くなって、ティーダでみんなを守りたいんだ。キラさんみたいになって、メルーみたいな子を守りたい。ティーダだったら、出来るでしょ!」
「いい子ね」マスミは優しくそう呟き、ナオトをうんと抱きしめる。「とってもいい子に育ってくれて……あんなに泣いてた子とは思えない。
勿論、貴方が望めばティーダに乗り続けることも可能よ」
「ホント!?」ナオトの顔がぱっと輝く。「僕、頑張るよ。母さんの為にずっと頑張ってきたんだ、これからだって……」
ナオトが早口で母への慕情を伝えようとした、その時。「ナオト!」
背後から呼びかけられ、母子の時間はしばし中断された。振り返ってみると、そこには黒い髪の小さな少女が立っている。
随分久しぶりに会う気がする。ナオトは純粋に嬉しく、思わず声をかけた。「マユ! 良かった、何ともなかったんだね」
マユはゆっくりとナオトに歩み寄り、その吊られた右腕を撫ぜた。必死でお守りを取り戻そうとした腕を。「もう、大丈夫なの?」
「うん!」ナオトは力いっぱい笑ってみせた。ガーゼがまだ取れない頬がかすかに痛む。「君も母さんもいるんだ。僕、こんなに幸せなことってなかったよ。
アマミキョを離れても、僕は君とずっと一緒だよ」
ナオトはまだ使える左手で、マユの手をぎゅっと握り締める。胸元のお守りが揺れた。
「あれ? お守り、直ったんだ!」
「うん、サイさんが直してくれたんだ。サイさんたちと別れるのはつらいけど、僕はもっと強くなって、キラさんぐらい強くなって、きっとアマミキョへ戻ってくる。世界で一番強いレポーターになるんだ。
その時は、君も一緒だよ。マユ」
ナオトの勢いに一瞬ぽかんとしたマユだったが、すぐに嬉しそうに笑った。本当に嬉しそうに声を上げて。「うん。私たち、ティーダがあれば最強だもんね!
キラだってアークエンジェルだって、やっつけちゃうよっ」
「違うよマユ。僕たちは人殺しはしない、人助けをするんだ。キラさんやサイさんと力を合わせて、人をたくさん助けるんだよ!」
「ふーん……何だかよく分からないけど、ナオト、カッコいいよ!」
マユはとびきりの笑顔を見せると、いきなりナオトに飛びついた。「うわ!?」突然のことに、ナオトは杖を取り落としてしまう。身体中の痛みに耐えて、何とか倒れずにマユを抱きとめたが──その時ナオトの頬に、マユは小さな唇を押しつけた。
それは、あまりにも幼いが、純粋に好意のこもったキスだった。「マユ……いきなり何を」
ナオトは突然のことに真っ赤になって、左腕の中のマユを凝視するしかない。しかし、マユは相変わらず笑顔だった。「こうすると、男の人は強くなるんだって。スティングが言ってた」
マスミがくすりと吹きだし、にやにやと二人を見ていた整備士たちが囃し立てる。笑いと歓声の渦に包まれるカタパルト。
だが、一人だけこの光景を笑わずに凝視していた者がいた──その男、山神隊・広瀬少尉はアフロディーテの陰で苦々しく呟く。「んな簡単に、乗せられるかよ」
「あのヤキンの空域から、ボイスレコーダーの残骸まで回収するなんて……どんな情報収集力だよ。それじゃきっと、今の俺たちの会話も筒抜けだな」
「調べようと思えば、人一人の情報を割り出すなどたやすい。だが、その情報をもとに人物像を形成するのは至難の業だ」
「それも、君の役目だったのか。そこまでして、キラに会いたかったのかい」
「間違えるな……会わねばならなかった、だ。SEEDを持ち、最優秀の遺伝子を保有する戦士──あの能力は、国を三つほど潰してでも手に入れたいものだ」
「……ははっ」「何がおかしい?」
「ごめん。笑っちゃいけないんだけど──こんなに真面目で自分に厳しい君が、フレイをどうやって演じるか、考えていたところを想像すると……い、痛てて」
「演じていた、ではない。降ろしたのだ」
「そうだね、さっきの君の言葉からするとそうなんだろう。ノイマン少尉も似たようなことを言っていたよ──だけど、二重人格でも何でもなくて、君があのフレイを、ねぇ」
「二重人格のようなものだ。フレイの魂を降ろしている間、私は私ではない。フレイ・アルスターだ」
「だったら、どうしてフレイのままでいなかったんだ?」
「当初は、その予定だった。お前と会って予定は全て狂った。お前のもとでは……」
「普段の自分でいたかった?」
「……ほ、他にも理由はある。あの性格のままでは、アマミキョを統率出来ぬ」
「俺のせいで、君に色々考えさせてたんだな……長いこと理解出来なくて、本当にごめん」
「お前は私が初めて見つけた奇跡だ。それを手に入れるのなら、安いもの……戦いの中で人を救うなどという奇跡を起こせるとしたら、お前しかいない。私はそう思っている」
「買いかぶりすぎだ。それが出来るのは、キラだよ。あいつは人を殺さずに、戦いを止めようとしてる」
「それが矮小な自己満足でしかないこと程度、お前も気づいているはずだが」
「だけど、それを言ったら俺なんかどうなるんだよ。俺は戦いの後始末ぐらいしか出来ない」
「戦争で最も大変なのは後始末だぞ」
「ありがとう……そういえば、ずっと俺を試してたって言ったね。それは、奇跡を起こせる人間かどうかってことかい? キラじゃなく、俺だって?」
「正直なところ……私にも分からない。ただ、お前であってほしい。
だから、敢えてフレイの人格でお前を傷つけるような言動もした。すまなかったな」
「そう何度も謝らなくても、俺は大丈夫だから。
でも、俺は平凡な人間で、ナチュラルだよ。君は何を期待してるんだ?」
「事実、私の心にお前は変革を起こした」
「そう言ってくれると、嬉しいよ。だから君は俺を守りながら、アマミキョで育ててくれたんだね……って、痛い痛い! 脇はやめてくれよ、脇は!」
「嫌味な言い方をするからだ」
「皮肉に聞こえたなら、謝るよ。本心だったんだけど」
「お前は気づかぬうちに、人の心に変化を及ぼす力がある。それは遺伝子操作では決して手に入らない強さだ。それは人望と言われるものでもある。
一時、あれだけアマミキョ中の怨みを一身に受けたにも関わらず信頼を回復できたのは、その強さがあったからだろう。
生まれもったものでも、与えられたものでもない。お前が傷つきながら、自分で身につけてきた力だ」
「やっぱり、君は買いかぶりすぎだよ。嬉しいけどね」
「警告もこめて言っている。その力を羨む者は少なくないだろうからな」
それから数日──
サイはアマミキョの体制変更、アマクサ組からの引継ぎ事項のとりまとめ、各グループの再編成、ティーダのシステム変更に関する研究班との連携……などの膨大な作業に追われた。
作業は早朝から深夜まで及び、ブリッジと避難所と医療ブロックとカタパルトと副隊長室を飛び回る日々が続いた。夜になってもハラジョウで、フレイと今後のアマミキョ運用についての議論を交わし、そのまま二人で眠る──それが、今のサイの毎日だった。
アマクサ組のしいた統制はサイが副隊長となっても続いていたが、サイはもうこの仕組みを否定はしなかった。責任を取る側に立ってみると、アマクサ組の構築した管理システムがアマミキョにとっては最も効率が良いことが分かったのだ。さらに各員の能力も、過去に算出された作業効率の履歴により、詳しく知ることが出来た。これにより、トニーもサイも殊更議論することなくメンバーを再配置することが出来たのである。
ただサイは、グループの連帯責任制は廃止させた。元々は大気圏外で食糧備蓄の節約の為に緊急に作られたシステムであり、備蓄に若干余裕が出来てきた今では特に意味がないと判断した為だ。
その代わりにサイは、作業の遅延・ミスに関しては鬼のように細かなリスク報告書を即時提出させることとした。原因を細かな部分まではっきりさせることで、次に起こりうるミスを防ぐためだ。それも、出来るだけ早く。
人を責めるのではなく、原因を明らかにする。そうすれば、かつてアムル・ホウナと自分が起こしたような忌まわしい事件を未然に防げる──その思いからでもある。
あまりの報告書の細かさに文句を言う者もいたが、それでも連帯責任制よりはマシなようで、クルーの大半は素直にサイのルールを受け入れていた。
だが、この報告書がきっかけで、今また一つの事件が発生しようとしていた。
「アムルさん。この前のBAAC関連のリスク報告書の提出がまだです」
ある日の午後、ブリッジでモニターを凝視していたアムルにサイは声をかけた。「もう三日ですよ。本来なら12時間以内に提出してもらうんですが」
「サイ君ったら」アムルは呆れた、という声色で笑う。「あんな量の報告書をいちいち書いてたら、作業が全部止まっちゃうわよ。他の業務だって詰まってるのに、初期報告ですらあの量ってどういうことなの」
「同じミスを二度と起こさない為に、必要な報告です」
「分かってるわ。でも、どうしてそんなに早く報告しなきゃいけないの」
「出来る限り早くミスの内容を全員に知ってもらい、過ちを回避する為です。俺たちの仕事は、命が関わるものなんですよ──作業がさばききれないようなら、人員を回します」
その言葉で、アムルの唇から笑いがさっと消えた。「優等生な答えね。でも残念、私にヘルプは不要よ」
それほどまでに無能と思われたくないのか、彼女は。サイは感情を押し隠しつつ会話を続ける。「一人で何でも抱え込むのは、良くないですよ。そもそもこのミスだって、どうして誰にもチェックを頼まなかったんです?」
出来るだけ彼女を刺激しないよう、サイは言葉を選ぶのに必死だった。「あらゆる作業は複数人の目を通す必要があります。コードチェックを頼まずにそのまま通信したから、エラーが出てパーツ搬入が10時間遅れた……一見簡単な作業でも、簡単だからこそチェックが必要ということもあります」
だが、サイの気遣いも虚しくアムルの目には怒りが溢れてくる。「そんなもの不要だって言ってるでしょ。私、コーディネイターなんだから」さすがにこの発言は敵意を招くと知っているのか、やや小さめの声でアムルは言った。今、ブリッジにはほぼ全員が揃っている──
実際貴方はミスをしたじゃないか。ナチュラルが10のミスをしてもコーディネイターは1ですむかもしれない、だが両者ともミスを犯した事実は変わらない。そう言いたいのをぐっとこらえ、サイは言い放つ。「どんな人間でも、人である以上、ミスを犯す可能性はある。その為のチェック体制で、リスク報告書です」
「それ、ナチュラルの古い考えよね」「リンドー副隊長の講義にもありました」
カズイがいつの間にか、サイの後ろからこわごわ様子を見守っている。ブリッジクルーもこちらに気づいたのか、数人が興味深げにサイを見ていた。
アムルにはすまないが、彼女が強固にルールを拒絶するならこちらも強く出るしかない。
「アムルさん──言いたくはないんですが、貴方の最近のミスは目立ってます」数は言わない。言うのがはばかられるほどの量だからだ。「二重チェック、ちゃんとしていますよね? カズイでも、ヒスイさんでもいいんです。チェック出来る人員はいつでも配置するようにしています」
だが、サイが多少強気になったのが裏目に出たか──突然、アムルは髪を振り乱して立ち上がった。
「いい気にならないでよ!」プライドの高い彼女にとっては、これ以上他人の前で恥をかかされるのはたまらなかったのか。それともカズイやヒスイの名を出したのがまずかったのか。二人とも、今のアムルとの関係が良いとは言いがたい。その上、二人はナチュラルだ。
だがアムルは、サイの予想とは全く外れた言葉を吐き捨てる。「偉くなってフレイと元鞘に戻ったからって、大きな顔しないで! 毎晩毎晩、フレイのところにばっかり行って、ホント鬱陶しいのよ!」
この発言に、クルー全員が今度こそぎょっとしてこちらを向く。カズイも驚愕してサイを見上げている──暫く部屋を空けると話はしていたつもりだったが、フレイのことまでは伝わっていなかったか。
それにしても、何という恥知らずだろう──今は全く無関係の、仕事の話をしていたはずだ。どうしてそんな方向へ話が飛ぶのか、サイには理解出来ない。こんな話を持ち出せば、サイもそうだがアムル自身も傷つくと、何故分からないのか。
だがサイはそんな怒りを決して表に出さなかった。どうせなら、ここで堂々と宣言しておいた方がいい。「フレイ・アルスターと自分との婚姻契約は、復活しました。
自分は彼女の未来の夫として、当然のつとめをしているまでです」
アムルがぽかんとすると同時に、オサキがひゅうと口笛を吹いた。ヒスイが顔を真っ赤にして口を押さえている。ざわめきがブリッジに溢れる──サイは間を置かずに言った。「話を戻しましょう。ちゃんと二重チェックはしてくださいね、手が空いていれば俺がやりますから」
だが、アムルはサイと視線を合わせようとせず、眼前の現実を放り出すように言葉を投げる。「ディックにしてよ。彼なら確実にチェックしてくれるし」
サイはため息をつきそうになり、慌てて喉元で止めた。ディックはコーディネイターだから……そう言いたいのだろう。確かにコーディネイターに頼むのは一理あるかも知れないが、それよりも業務に精通しているナチュラルに頼む方がよほど理に叶っている。実際、ディックがアムルから頼まれたチェック業務で辟易しているのを、サイは知っていた。コーディネイターの人員はそれほど多くない──しかもコーディネイター故か、他からの頼まれごとも多い。アムルのように、自分の仕事だけで手一杯になっている者はごく少数だ。
どうやって伝えるべきか──サイが思案しかけた、その時。
「いい加減にしないか、アムル・ホウナ!」
ブリッジ2階部分のデッキの上から、フレイの声が砲弾のようにブリッジ中を貫いた。そろそろ業務に余裕が出てくる時間帯のこの思わぬ事態に、全員がまるで戦闘配備を告げられたかの如く緊張する。
「貴様、自分の仕事がどれだけ周囲に影響を及ぼしているか、考えたことがあるのか? 副隊長とて暇ではない、これ以上手をわずらわせるな」
フレイは怒気のこもった口調で、上からアムルに言葉を叩きつける。先ほどのアムルの暴言を聞いていたのか──彼女までがいつもの冷静さを若干失っていることに、サイは気づいた。いけない、フレイ、ここで私情を挟んでは!
だがアムルも負けてはいない。フレイの出現でさらに彼女の意地は強固になってしまっていた。「だから前から言ってるでしょ。私はブリッジより、モビルスーツに乗りたいの。適性試験の結果はここよりもずっと良好なのよ、何故早く配置換えをしてくれないの!?」
カズイがまたも驚いたようにサイを見る。アムルが秘密裏に試験を受けていたことはサイも知っていたが、カズイは勿論知るわけがない──フレイとの件といい、何で教えてくれなかった。その目が明確にサイを責めていた。
「アマミキョは人を助ける船だ」フレイは断固としてアムルを斬り捨てる。そして彼女ははっきりと告げた──サイとフレイがアムルの配置換えを行なわなかった理由を。「破壊する為にモビルスーツに乗るような者に、M1の運用は任せられん!」
「ふん」だがアムルはフレイの言葉を嘲るだけだ。「自分が破壊ばかりしておいてよく言うわ。その論理でいくと、ブリッジも駄目ってことね」
アムルは既に、ブリッジに残る気はないのだろう。でなければ、こんな言葉を吐けるわけがない──二人の応酬に入り込めぬまま、サイはうっすら気づいていた。
俺はただ、彼女にきちんと仕事をしてもらいたかっただけなのに。サイのほんの少しの注意の結果、アムルはブリッジメンバーへの配慮すら忘れ、他人への憎悪を剥き出しにしている。これではもう、ブリッジメンバーが彼女を受け入れることは難しいだろう──カズイ以外は。
それでもフレイは容赦しない。サイとの件を暴露された彼女も、わずかではあるが精神の均衡を崩しかけていた。「フレイ、話なら後にしろ! 今はまだ業務継続中だっ」危うさを感じたサイは叫んだが、構わずフレイはアムルに対して決定的な言葉を浴びせる。
「貴様は危険な女だ。モビルスーツなどに乗せれば、いつかその銃口はブリッジに向く。
私が気づいていないとでも思ったのか? 我が未来の夫、サイ・アーガイルに罪をかぶせ、陵辱し、破滅させかけた事実を!」
ブリッジ中に、ローエングリンにでも狙われたかの如き戦慄が走る。何故今、こんなところでそれを言う!──サイの声も今や絶叫に近い。「フレイ! 何言ってんだ、今はそんな話をしている時じゃないっ」
フレイの下へ駆け出そうとしたが、そんなサイの右腕を痛いほど掴んでくる者がいた。「ちょっと待てよ副隊長!」操舵士オサキが、黙っていられるかという顔でサイを睨みつけている。「今のって……まさか、やっぱりティーダの大気圏突入の時のアレかよ」
ヒスイも席を立ち、オサキの後ろからサイを見つめていた。「でしたら、私たちにも知る義務があります」
「何言ってるのよ、何を言い出すのよ!」アムルは突然突きつけられた現実に、最早錯乱を隠せなかった。白眼の面積がいつもよりさらに広くなり、恥辱と憎悪が剥き出しになる。「私は何もミスはしてない。過失があるとしたら、サイ君のミスを見逃したことだけよ!」
あの時と全く同じに、アムルは必死で自己正当化をしていた。自分でそう思い込むことで、自分すら騙そうとして──だが、そんな逃避もフレイは許さない。
「アマミキョ全艦監視システムは嘘をつかない。トランスフェイズシステム・プログラムの入力担当者分析など、アマクサ組の手にかかれば造作なきことだ。ずっと逃げられるとでも思っていたのか」
そういえば、ずっとうやむやになってたもんなぁ。やっぱりあの女だったのよ、ミス率凄いもんね。ねぇ、あの女にちょっとは他を手伝ったらどうですかって言った時、なんて答えたと思う? 何で担当外の業務をやらなきゃならないんですか、よ。そりゃそうよ、担当でさえ手一杯みたいだったし。でも、ヒスイと業務量そんなに変わらないのに。ちょっと待って、だったらサイ君はずっと庇ってたってこと? 優しいんだよ、副隊長は。
ブリッジ中で囁きが交わされる。サイは唇を噛んだ──これじゃブリッジどころか、アマミキョのどこにもアムルの居場所はなくなってしまう。俺がやられたことを思えば、それ以上の報復を彼女は受ける。
事実、ブリッジ全員の好奇と蔑視にアムルは全身を刺されていた。どんな時でも曲がらない背筋と整えられた長い金髪が、ふるふると揺れている。
見ていられず、サイはフレイの言葉を取り消しにかかる。「違う、あれは俺がやったんだ。俺の無能が全ての原因だ!」
「いい加減にしろ、副隊長! アタシらが何も気づかないと思ってんのかよっ」オサキが思い切りサイの右手首を両手で力いっぱい握りしめ、サイの抵抗を中断させた。強気なはずの彼女の目には、いつの間にか涙までたまっている。「ホントのこと、言ってくれよ。でないと、アタシらお前に何て謝っていいのか、分かんねぇよ!」
「私たち、ずっと副隊長にとんでもないことをしていた。船内でも、未だにあの事件を引きずっている人たちがいるんです。お願いします」
オサキとヒスイの懇願。二人の強い視線にサイは思わず口を開きかけたが、思いとどまった。
アムルがここにいられる望みを、完全に絶ってはいけない。だが口を閉ざしていても、状況は悪くなるばかりだ。彼女の名誉を出来る限り傷つけず、真実を伝えるには──「すまない、みんな。一旦業務に戻ってくれ」アムルとフレイの3人で、別室で話をしようと言いかけた、その時。
「やめろよ!」思わぬところから、腹の底から絞り出すような叫びが上がった。「やめろよ……もうやめてくれ、サイ。アムルさん、怖がってるだろ」
両の拳をぶるぶる震わせながら、普段からは信じられないほどの声量で叫んでいたのは、カズイ・バスカークだった。「俺はずっとアムルさんを見てたんだ。みんな誤解するかも知れないけど、とっても真面目で優しい人なんだよ!
俺の知らないアプリケーションをたくさん知ってて、いつも親切に教えてくれた。時々ミスもあったかも知れないけど、そんなの誰だってするだろ。これだけの仕事と数値を扱ってれば!」
畜生──サイの歯噛みは止まらない。俺はこんな即席裁判みたいな事態を恐れたから、やってもいない罪を認めてしまったんだ。その結果、アムルもカズイもみんな傷ついた。こんなカズイを、俺は見たくなかったのに。
「カズイ、いい加減目ェ醒ませ! この女はお前を……」オサキが言いかけたが、カズイは彼にしては珍しく、他人の意見を中断させた。「分かってるよ!
俺のことなんかどうでもいいんだ、頼むから、もうこれ以上アムルさんを傷つけるのはやめてくれ!」
この必死の言葉で、ブリッジがしんと静まる。サイにしても、アムルの痛々しい姿はこれ以上見ていられなかった──カズイの気持ちを理解し、少しでもブリッジに留まろうという意志が芽生えてくれれば。サイは願わずにいられなかったが、アムルの次の行動はサイの思いとは全く逆のものだった。
何も言わずにいきなり金髪を翻し、素晴らしい瞬発力でサイやオサキの手を振り払い、アムルはブリッジから駆け出したのだ。フレイのいる場所とは別の下方出入口から、猛然と走り去っていくアムルの背中。誰も止めることなど出来ず、全員が呆気にとられた──
フレイも何もしなかった。何も出来なかったのではなく、冷たくアムルの後姿を見送るだけだったのだ。
「アムルさんっ!」サイはフレイを一瞥しながら、ワンテンポ遅れて駆け出した。何故止めなかった──そう睨みつけるサイに、逃げたい者は逃がせとでも言いたげに嘲るフレイ。
今夜だけは、君のところには行かない。サイはそう決断し、アムルを探しに走っていった。
つづく