サイがアムルの姿をようやく見つけたのは、夕陽が暮れようとしている時だった。
彼女が逃げてすぐに後を追い部屋まで調べたものの、どこをどう巧みに逃げたのかサイは彼女を探し出せず、気がつけばこんな時間になってしまっていた。
血のような夕陽を直接全身に浴びながら、サイはアマミキョコアブロックから大分離れた避難キャンプの裏で、荷物をかかえた彼女をやっと見つけた──
そして、言葉を交わさずとも姿を見ただけで、サイには分かってしまった。彼女の意志は、どうあがいても変わらないだろうということを。
片手でおさまるほどの小さな荷物しか持たず、アムルはサイに背を向けていた。夕陽が真正面から射しこみ、ぴんと背筋を伸ばした彼女の姿は真っ黒に染まる。
「大人げないですよ!」サイは呼びかけた──息切れのあまり、言葉とは逆に弱弱しい叫びにしかならなかったが。「部屋を見ました。随分早く荷物まとめましたね……
分かってたんですか、こうなること」
「貴方も望んだことでしょう。貴方、ずっと私を嫌がっていたもの」ちらりとサイを肩越しに見やりつつ、アムルは自虐的な笑みを返す。「私も貴方が嫌だった。
だってサイ君、心の中を見たんだもの。それでいながら、母や彼を庇ったんだもの」
出発の時のことか──あの時からずっと、母親への殺意を見られた時からずっと、彼女は俺を恨んでいたのか。今は、それに拘泥している時ではないのに。
「戻ってください」サイは息を整えながら、言葉をつぐ。「ブリッジから出るにしても、引継ぎが必要です。まずは戻って、フレイや俺と話をしてください!」
「まだ分かってないの? 私は戻るつもりはないわ。また心を覗き見てみたら?」
「何言ってるんですか……」年齢の割にはあまりに子供な嫌味に、サイはため息をつく。その態度に、アムルの口調はさらに冷酷になった。
「酷い人ね。あれだけの辱めを受けて、また戻れって言うわけ」
「俺がやられたようには、させませんから」背後から駆け足で、誰かが近づいてくる。音だけでサイは分かってしまった──カズイだ。
サイの背後のカズイに気づいたのか、アムルはさらに眉をしかめる。「私が嫌なこと、貴方に分かる?
ナチュラルにいいように命令されることよ。しかも貴方、年下でしょう。
貴方から命令されて、私が何も感じていないとでも思ってた?」
サイの呆れは限界を超える寸前だった。「業務に私情を挟まないで下さい」
「挟んでないわ。私仕事中は何も言わなかったじゃない」
俺がいけないのか。一向に彼女を理解出来なかった俺が。彼女に幼さしか感じられない俺が──「今後の配属は、考えます」
「他にもあるわ」サイの精一杯の言葉を、アムルは斬り捨てる。
「ナチュラルの中で、同じ作業を延々とすること。
ナチュラルに疎まれること。ナチュラルに情けをかけられること。
あと、ナチュラルに惚れられること。気持ち悪かったのよね、ずっと」
最後の一言は、カズイにはっきり聞こえるように彼女は吐き捨てた。舐めるようにサイを眺めつつ、汚物を見る目つきでカズイを見下げる。ずいとサイに近寄ったアムルは、その左腕を掴んだ──酷い痛みが走る。
「うあ……あ、ああああああっ!!」
あの雨の日に砕かれた骨が、再びアムルによって痛めつけられていた。微かな呻きが喉から漏れる。それを聞いて、アムルの頬にやや満足げな笑みが浮かんだ。
今度はサイにしか聞こえない呟きが、アムルの唇から零れた。「でもね。一番嫌いなのは──自分より優秀な、ナチュラルよ」
彼女自身も認めたくないのだろう──吐かれる声の、恐ろしい冷たさからサイには分かった。同時にその対象が自分であることも。
アムルはカズイの目の前で、サイの左腕を掴みつつ引き寄せる。あまりの痛みに、サイは思わずアムルの身に寄り添う形となってしまった。
「ねぇ、カズイ君。これで分かったでしょ?」アムルはサイをそっと抱きしめるような恰好で、カズイにいつもの笑顔を向けていた。口調も優しくなる──だがその言葉は、カズイが経験したどんな責め苦の言葉よりも屈辱的だった。
「私、ずっとサイ君が好きだった。だからもう、いい加減諦めて? 貴方につきまとわれて、ホント、鬱陶しかったの」
嘘だ、この女──! サイは叫びたかったが、その口をアムルの強引な唇で塞がれた。カズイに見えないようにサイの左腕を掴みながら、痛みで震えるサイの身体を一方の手で優しく抱きしめる。愛などない、憎しみだけがこもった接吻がサイを侵していく。女の色香など何も感じられず、サイはただ呻くことしか出来ない。
カズイはといえば──血の満ちるような空気の中、その光景を見ていられず、何も言わずに踵を返して駆け去ってしまった。
カズイが行ってしまうと、アムルはすぐにサイを地面に放り出した。よろめきながら肩を押さえ、尻餅をつくのだけはどうにかこらえるサイ。
フレイにされた時よりも不器用に、乱暴に締めつけられた左腕の痛みは、頭までを貫いていた。それでもサイは、最後の意地で呟く。「アムルさん……戻ってください」
「自分の手で殺れないのが残念でならないわ。貴方のこと」
氷のように固まった表情でそれだけ呟くと、紅に輝く金髪を靡かせ、アムルは背を向けて歩き出し──それきり、アマミキョには戻らなかった。

 


PHASE-28 グッバイ・フレンズ




「カズイ。食事持ってきた──少しは食べないと」
その日の夜、サイはカズイの(本来はサイとナオトと三人の)部屋の前にいた。
ドアはロックされ、カズイは一歩も出てこない。サイは努めて平静さを装い、声をかける。「中からのロックは禁止しているはずだ。残り30分で強制解除する、いいな」
「……なのかよ」わずかながら、カズイの声が中から聞こえた。サイは耳をドアに近づけ、慎重にその声を聞き取る。間違いなく、カズイはドアのすぐ向こうにいた。
小さな、くぐもった声はさらに続く。「本当なのかよ。大気圏突入の時のこと……アムルさんが、トランスフェイズシステムを」
サイは逡巡したが、カズイには言っておかねばと判断した。「そうだ。
ただ勿論、故意じゃない。単純なミスだよ」
「当たり前だろ」
投げ捨てられたカズイの言葉。人のいない廊下に、暫し沈黙が満ちた。やがて、扉の向こうからまた声が漏れる。「どうして、ずっと黙ってたんだよ。
どうしてずっと、アムルさんを庇ってたんだよ」
「カズイ。多分、お前の思ってる通りだ」サイは自分に言い聞かせるように、ゆっくり言葉を選んで話し始める。「全てが丸くおさまるなら、俺はそれでいい──あの時、俺はそう思ってた。実際、丸くおさまりかけていたからな」
「また、それかよ……」吐き捨てるような呟きが、硬いドアの間から漏れた。「二年前もそうだった。キラとフレイをあれ以上責めずにいたよな、サイは。
そのおかげで、あの二人がどうなったと思ってるんだよ」
痛かった。カズイの一言一言は、ただひたすらに心が痛かった。サイはドアを背にして座り込みながら、その言葉を甘んじて受け止める。「分かってる。分かってるよ……」
「分かってないだろ。分かってるならどうして何度も同じことするんだ」
「多分」サイは自分のネクタイを無意味に握りしめながら、自嘲するかのように呟いた。「俺には、それ以外の選択肢がないんだと思う。
俺はどうしたって、周りが丸くおさまるようにしか行動出来ないんだろうな」
「そのせいで、アムルさんがあんなことになったんだろ!」突然の怒鳴り声が、ドア越しにサイの背中を打った。「サイが黙ってるからみんな混乱して、アムルさんだって話せなくなったんだろ。もっと早くに話していれば、彼女を助けられたかも知れないのに!」
今まででは想像も出来なかった、カズイの怒鳴り声。悲鳴にも似たその叫びを聞きながら、サイは答えられない。ただ、涙まじりの声を受け止めるだけだ。
「サイ。前に、キラを見てると惨めになるって、お前言ってたけど……その気持ち、今ならよく分かる。
サイを見てると、自分が酷く……酷く……」
自虐にも似たカズイの、感情の迸り。人っ子一人いない暗い廊下で、その奔流を受け止められるのはサイだけだった。自分が酷く惨めに思えて仕方ない……か。
サイは、いつかの自分が同じような言葉をキラにぶつけたことを思い出していた。最後まで言わないのは、カズイの男の意地か。「どうしてそう思う?」
「何で俺はサイみたいに、人から好かれないのかって。
何で俺はサイみたいに、心を強く出来ないのかって。
お前はあれだけ嫌われていたはずなのに、いつのまにかみんなを取り戻してる。フレイまで取り戻した!」
そうだ──俺、フレイのことを殆ど話してなかったよな。本当に悪いことしてた。カズイはこれだけ俺を思ってくれていたのに、俺は何も考えていなかった。
カズイを巻き込みたくないってのも勿論あるが……そんなのは言い訳にしかならない。
「カズイ、フレイのことは……」
だがサイの弁解を、カズイは切り捨てる。「いいよ、分かってる。俺に話すのが面倒なだけだろ。お忙しいもんな、副隊長は……
どうせ俺は、サイが危ない時に何も出来なかった、臆病モンだよ」
いちいち心臓に突き刺さるカズイの言葉。おそらくこの扉の向こうに、カズイも座っているのだろう──扉を挟んで背中合わせに座っているような気もする。
「俺、今ならこう思えるんだ」さらに流れるカズイの呟き。「キラももしかしたら、サイが羨ましかったんじゃないかって。
カトーゼミの時のあいつ、俺と同じでずっと一人だったろ、サイが声かけるまで。キラは力は凄いかも知れないけど、サイみたいに人を集める力はないと思うんだ。
勿論、俺だって」
だからキラは、フレイを奪った……などと言わないのは、カズイの精一杯の優しさだろうか。「俺はそんなタマじゃないよ。それに、いつの間にかみんなが集まったわけじゃない。散々失敗だってしてる」
「……分かってんだよ!」再びカズイの感情が昂ぶる。ドアを殴る衝撃が、サイの背中にも伝わった。「その、どんなに失敗したって負けない力が羨ましいって言ってんだ!
何でサイは、いつもそうなんだよ!? 何でサイの周りにはいつでも人が集まって、いつの間にかフレイを取り戻して、気がついたら全部手に入れてるんだ!?
何であれだけ酷い目に遭っても、周りばっかり気遣っていられるんだよ! どれだけ傷ついても、どうしてサイは笑顔でいられるんだよ! 
二年前だって、自分が一番辛いのに、俺を笑顔で降ろして……!
お前の力が、俺は憎くて憎くてたまらないよ! きっとそれは、遺伝子いじったくらいじゃ絶対手に入らない! 俺がどんだけ望んだって、絶対手に入らない!!」
フレイも同じことを言っていたな。人望、とか言われるものなのか、それが。これだけカズイを傷つけても、俺にそんな力があるってのか。あのカズイをこれだけ慟哭させ、自虐に自虐を重ねさせ、怒らせても?
「なぁ……頼むよ。その力で、頼むからアムルさんを助けてくれよ!!」
カズイがアムルにどのように振られたか、サイは今更のようにオサキから聞いていた。クッキー作りに必死だったカズイを思い出すと、アムルへの怒りで心臓が破れそうになり、カズイへの気遣いが出来なかったことが悔やまれた──にも関わらず、カズイはアムルへの恨み言など一つも言わず、ただただ彼女を心配している。
「助けられないのなら、何の為のその力なんだよ! 俺のことなんかどうだっていい、アムルさんを……!
あの人、一人じゃどうなっちゃうか分からなくて……不安なんだ」
「分かってる」俺と彼女のキスなどという光景を見せつけられてもなお、カズイは彼女を想えるのか。サイは既にアムルを取り戻すなどということは諦めていた──いつの間にか、隊長宛に除隊申請書までが届けられていたのだから。「お前、やっぱり優しいよ」
サイのこの言葉が、またもやカズイの感情を刺激する。何かが爆発したような声が轟いた。「何でだよ。何でそういうことばかり言うんだよ!
俺には優しさなんて何もない。臆病で、不甲斐なくて、すぐ逃げ出して、何の力もない! それでいて、サイが憎いんだ……アムルさんに気味悪がられて当たり前なんだよ、俺は! あの人の心は、サイのものだってのに」
「カズイ、それは違う。彼女は俺に気があって、あんなことをしたわけじゃない!」思わずサイも声を荒げる。その誤解だけは解いておかねばならない──だが、次のカズイの言葉は少し予想外のものだった。
「分かってるって言ってるだろ!
ずっと見てきたんだ、アムルさんを。あの人だって、サイが憎いんだ。皆の前であんなことされて、憎まないわけないよ。
彼女の心は、サイへの憎しみで満ちてる。その意味で、サイはアムルさんを独占してる」
そうか──カズイはあんな小手先の芝居に騙されたわけじゃなかったのか。それを知って、サイは少し安堵した。だがカズイの慟哭はまだ止まらない。
「あの人をそんな風にしたのも、サイの力なんだよ。サイの偽善者っぷりだよ!
八方美人で誰にでもいい顔しようとして、一番酷い結果を招いてる。
責任取れよ! アムルさんを取り戻すまで、俺に何もするな! 俺に声かけんな!
お前の声聞いてると、吐き気すんだよ! 金輪際、俺に近寄るな!!」
もう俺を惨めにさせるな──カズイがこの言葉を必死で抑えているのが、サイには分かった。あのカズイが、これほどの激情にかられて自分を責めている──そんな呪われた力が、俺にあったとはな。
「人には優しい顔ばかりして自分は聖人ですみたいなツラして、どれだけ人が傷つくかも知らずに励ましの言葉吐いて、どれだけ人が悲しむかも知らずに自分を犠牲にして……
そんな生き方、俺は大っ嫌いだ。
お前なんか、お前なんか大っ嫌いだ! 二度と俺の目の前に現れるな!!」
最悪の拒絶の言葉が、ざっくりとサイの心を刺していく。
あぁ──ナオトやフレイやアークエンジェルやアマミキョ運用に気を取られるあまり、俺はとても大事なことをすっかり忘れていた。サイは目をつぶり、カズイの言葉を背中で全て受け止めていた。
ごめんな、カズイ。俺、こんな生き方しか出来ないんだ。どれだけ拒絶されても、俺はこんな生き方以外は選べないみたいだ──
暫くそのまま座りながら、サイは呼吸を整える。カズイはまだ扉の向こうにいるだろうか──相手がやや落ち着いた頃を見計らい、サイは再び声をかける。
「カズイ……俺さ」
「何だよ。まだいたのかよ」壁の中に消え入るような声が、サイの背中を微かに震わせた。
「嫌かも知れないけど、聞いてくれ。
俺がアマミキョに行く為に、空港行きの列車に乗った朝さ──覚えてるか?」
応答は何もない。それでもサイは話し続けた。「お前、大荷物かかえて、慌てて駆け込んできたよな。
俺は一言声をかけただけなのに、正直、ついてきてくれるとは思ってなかった。カズイにはオーブで、他にやりたいことがあるだろうと思ってた。
それでもお前は、自分で決めて、俺と一緒に来てくれた。随分ギリギリまで迷ってたってのが、顔で分かったよ。
それだけで俺は、すごく嬉しかった。俺は正直、フレイのことしか考えてなかったのに、カズイはずっと俺のことを考えてくれた。多分、一晩中」
「そうやってまた自分を卑下する……フレイのことしか考えてないわけないだろ。サイが」
「でも、本当に嬉しかったんだ。実際これまで、カズイがいてくれて良かった、って思うことも何度もあった。逃げたい時だって何度もあっただろうに、お前はずっとついてきてくれた。
俺の力は、俺だけのものじゃない。カズイがいてくれたから、俺はここまで頑張れたんだと思う。
お前と友達で、俺、本当に良かった」
カズイはそれきり黙りこむ。気配が遠ざかっていくのが、扉のこちら側からも読み取れた。サイはドアから背中を離し、もう一度声をかける。
「ちゃんと食事取れよ。ロックは……好きにしろ。
ナオトには、別室で寝るように言っとくから」


サイが副隊長室に戻ると、入り口でナオトが座り込んでいた。ずっと待っていたらしく、うとうとしかけている──「おい、ナオト」サイが声をかけると、ナオトは驚いて跳ね起きた。
「サイさん! あ、アムルさんはっ」言いかけて、まだ傷が痛むのか頬を押さえる。サイは何も答えずにエア・ロックを開き、ナオトを副隊長室に入れた。「あの、ブリッジで何かあったって聞いて……彼女がアマミキョを降りたって、本当ですか」
「カズイの調子が悪くてな、暫く部屋には入れない。悪いけど、今日はここで寝てくれ」
「やっぱり、戻ってこないんですね。アムルさん」サイの言葉でナオトはその現実に気づき、肩を落とす。しかしすぐに気を取り直し、サイに胸を張ってみせた。
「でも、大丈夫です。僕が必ず、アマミキョに戻ってきますから!」
「え?」ナオト用に薬をまとめていたサイは、すぐにはその言葉の意図が掴めず、まじまじとその大きな眼を見つめてしまう。「それは嬉しいが……」
ナオトはさらにまくしたてた。「だって、フレイさんもアマクサ組もいなくなっちゃうんでしょ。それにアムルさんまで……
だから僕、もう一度ティーダに乗って、アマミキョに戻ります!」
サイもようやくナオトの意志を読み取った。が、ここまでナオトを見てきた者として、到底この言葉はそのまま受け流せるものではない。
「やめとけ」口をついて思わず出たのは、そんなそっけない台詞。「ティーダに乗って、どんな酷い目に遭ってきたと思ってるんだ。
俺はもう、お前には二度とティーダに関わって欲しくない。出来れば研究所にだって行ってほしくはないんだ、マスミさんがいるから大丈夫だとは思うが、そうでなけりゃ……
ちょっと腕出せ、薬塗るから」
「また! サイさんはすぐそれだ」素直に腕を出しながらも、ナオトは案の定反抗してくる。「母さんだって賛成してくれたんですよ。
僕はまたティーダに乗れるって、太鼓判押してくれたんです! サイさんが止めたって、無駄ですからね」
「何?」あまりに意外すぎる事態に、サイは思わず手を止めていた。
明らかに作業用ではないモビルスーツに乗るということは即ち、戦争に参加すると同義だ。人殺しをしに行くのだし、何より自分が命の危機に晒される。
それを知りながら、反対しない母親などいないだろう──サイは今の今までそう思っていた。
実際、サイがアマミキョに乗ると決めた時ですら、母は泣いて反対したものだ。二年前の悪夢を思い出してパニックを起こしかけた母を、父が何とか落ち着かせて、サイはアマミキョ行きを許されたのだ。
ヤキン・ドゥーエ戦の後、トールの家に行った時も、彼の母親はずっと後悔し、寝込んでいた。どうして止めてやれなかったのかと、延々自分を責めていた。自分の息子が戦艦に乗ることを、どうして止められなかったのかと──俺を詰ってくれたほうが、よっぽど気が楽だったのに。俺はトールのそばにいながら、止められなかったのに。
男親ならともかく、母親が子供をモビルスーツに乗せることを、そうそう簡単に承知出来るわけがない──母親たちを見てきたサイはそう思っていた。しかし今のナオトの言い方だと、まるでマスミが積極的に彼をティーダに乗せようとしているみたいじゃないか。
「お前の勘違いだ。マスミさんがそんなことを勧めるはずがないよ」
「嘘じゃないですよ! 母さんは僕を分かってくれたんです、望むとおりにしていいって!」サイの気も知らず、無理にガッツポーズまでしてみせるナオト。「マユも一緒に乗れるみたいだし、僕、頑張りますよ!」
マユもまた乗るのか。あの娘はアマクサ組だからとサイは半ば諦めていたが、妹のような年頃の娘がモビルスーツに乗り込んでいくのを見るのは、やはり気分のいいものではなかった。
「ともかく、俺はこれ以上……」
その時、エア・ロック作動音と共に、不意の女性の声がサイの言葉を中断させた。「乗ってほしくない、ですか?」
驚いてサイが振り向くと、いつの間にやらマスミ・シライシが入り口に立っていた。大きな紙包みを胸に抱えて。
「母さん!」素直に声を上げ、ナオトは足を引きずりながらも急いで母に駆け寄る。マスミは笑いながら、ナオトにゆっくり手を貸した。「あと6日で出発よね。ナオトに新しい服、買ってきたの。可愛いだろうなと思って……お邪魔だったかしら」
「そんなことないよ!」ナオトはぶんぶん首を振る。ここは一応俺の部屋なんだがというサイの呟きなど、彼は聞いてはいなかった。
「母さん、ティーダとアマミキョの分離作業はもういいの?」
「ええ、予想外に時間がかかったけど、大丈夫。無事ティーダはアマミキョを離れられそうよ」マスミはナオトの頭を撫でながら、サイに声をかける。「アーガイルさん。せっかくですから、お茶にしませんか? トラブル続きで大変と聞いていたので」
「申し訳ないですが、遠慮させていただきます」サイは反射的に答えてしまう。「自分は、アマミキョとティーダ間の第三接合データのチェックがありますので……」
「私のこと、冷たい母親とお思いになります?」硬化したサイの態度を見透かすように、マスミは単刀直入に言った。「確かに、子供がモビルスーツに乗ることは危険です。私のような母親が少数派であることも、承知しています」
ということは、マスミは本当にナオトのティーダ搭乗を認めたというのか。サイは改めてマスミに向き直る。「そんな……どうしてです」
「ナオトがこれだけ望んでいることを、どうして拒絶できますか? 危険だとばかり言っているようでは、何も進化しませんよ」
「進化……ですって?」子供を戦いに巻き込むことが進化か。サイは言いそうになったが、寸前で止めた。マスミはサイの代わりにナオトの腕を見てやりながら続ける。「ティーダは戦争の道具ではなく、戦いを止める為に生み出されたツールです。
私は長年、ティーダを研究してきました。ティーダを正しく使う為に自分の息子が乗ってくれるのなら、それは母親としても研究者としても、とても喜ばしいことなんですよ。それに、ナオトにはその力もある。この子、強いから。
世代を超えて、平和への願いを叶える。私の夢を、ナオトが叶えてくれる。それが、ヒトの進化につながっていくんです」
ナオトはマスミの胸に抱かれ、気持ちよさげに頭を撫でられるままだ。「ね、僕の言った通りでしょ、サイさん!」
本当にいいのか──サイの中で、何かが引っかかる。マスミなら大丈夫だろうという確信が、何故か揺らぎ始めていた。
「心配することはありませんよ、ティーダは本来、研究開発用のモビルスーツです。戦う為にナオトがティーダに乗ることは、もうありません。
今までナオトがお世話になり、本当にありがとうございました」
にっこり微笑んで礼を述べるマスミ。だがサイはその言葉の裏に、強い拒絶の意志を感じた。
私の息子に、これ以上干渉するな──母親しか持たぬ、強固な意志を。


数時間後──サイは眠れず、カタパルトでガンダム・アフロディーテの前に突っ立っていた。
幾たびもの戦闘であちこちにガタが来ているフレイの機体。強引に、頭部をかつてのストライクに似せた上にIWSPを装備させてはいるものの、元は整備不良のダガーLである。特に関節部分と、IWSPの重量がかかる肩部分の劣化は肉眼でも分かるほどで、今もミゲルが右肩部に取りついてケーブルを直していた。
その上この機体は、人間で言えば膝関節に当たる部分を「前方に」曲げて戦ったことすらある。そんな曲芸的戦法でもなければ、この機体ではアマミキョを守れないからなのだろうが──
そのような小手先の戦法が、今後も通用するとはサイには思えない。同じ懸念は当然、アマクサ組も抱いているはずだ。
それでもフレイはこの機体に乗るつもりだろうか。その奥にあるティーダにも視線を向けつつ、サイはため息をつく。
その時突然、背中から女の声が響いた。「アフロディーテの顔が、そんなにおかしいか」
「どうして君がこの機体を使い続けているのか、不思議でね。君なら他に山ほど、適した機体はあるだろうに」サイは振り向きもせず答える。
「私に合う機体だからな」紅の髪を靡かせ、フレイ・アルスターはサイの左肩へ身体を寄せてくる。「ハラジョウへは、ずっと来ないつもりか。私たちが離れるまで、あと1週間もない」
「ティーダとアフロディーテのことを考えてた」サイはフレイの顔を見ずに呟き始めた。「マスミさんはティーダを進化させようと、躍起になってる。一方で君は、何に拘ってるのか、ずっと同じ機体に乗り続けている。その違いが、面白いなと思ってね」
「面白い?」
「もしかして、俺と初めて会った時に乗った機体がこれだったから──君は、これに乗り続けているのかい?」
サイが振り返ると、フレイは何も言わず横を向いていた。ただその頬は、ほんのり赤くなっている。サイはそれを確認すると、わざとフレイの横であぐらをかき座り込んだ。「……だとしたら、結構な乙女だな」
「人をからかうな。予算削減だ」こともなげにフレイは言い放ったが、サイも言い返した。「IWSPを無理矢理くっつけてスカイグラスパーにまで無茶な運用させて、予算も何もあるか」
「機体を新しく用意するよりは安上がりだ」「君が危険だろ」
フレイもサイにならい、ゆっくりと腰を下ろす。「私はそうそう簡単には討たれない」
「それでも、だよ!」サイは思わず声を上げてしまう。自分でも不思議だと思ったほどの、感情の爆発だった。
幸い、ミゲルはずっとアフロディーテの肩部の中で作業をしており、夜勤の整備士はティーダやカラミティにとりついていて、サイとフレイには気づいていない。「どうして、ナオトもマユも君も、そんなに自信過剰なんだよ!
あれだけ人が死ぬのを見ている癖に、どうして自分だけは無事だって思えるんだ。今ある危険も認識出来ないで、何がヒトの進化だよ」
フレイは大きく瞳を見開いて、サイを凝視する。「落ち着け、サイ。言っていることが滅茶苦茶だぞ」
「俺は落ち着いてるよ。君たちの方が変なんだ」サイはわざと鼻を鳴らしてフレイから顔を背ける。アムルとカズイの影響もあってか、自分が妙に昂ぶっていることは認識していた──しかし俺は、間違ったことは言っていないはずだ。サイはそう信じていた。
「俺への妙な拘りがあるんだったら、とっとと捨ててくれ。頼むから、新しいちゃんとした機体に乗ってくれ。人形ごっこやってるんじゃないんだ。
それが出来ないってんなら、戦闘なんかするな! 前線なんかに出るな! オーブの山奥かどっかで、畑でも耕しておとなしく読書でもしてろ!」
「サイ!」フレイの手が、折れよとばかりに強くサイの両手首を掴む。その握力に、サイは思わず顔をしかめた。「一体何を言い出すんだ……お前らしくもない」
「俺らしさって何だよ。誰にでもいい顔して最悪な結果招くことが俺らしさってのか」
「カズイ・バスカークの件か」
「カズイは関係ない! ただ俺は、もう誰にも死んでほしくない、誰にも傷ついてほしくないんだよ!」
サイはフレイの手を振り払い、一発、思い切り鋼鉄の床に拳を叩きつけた。その痛みと床の冷たさに、サイは少し落ち着きを取り戻す──嗚咽が出かけていたが、涙までは流さずにすんだ。「ごめん。昂ぶりすぎた」
「謝ることはない」フレイはゆっくりと、サイの両肩に腕を回した。雛を抱く母鳥のように。「サイ──誰も戦わず、誰も傷つかない世界がお前の望みか」
「出来るならな。そんなことが」
「皆が土を耕し、自然に感謝して豊かに生き、寿命をまっとうする世界を望むか」
「出来るなら……」フレイの暖かい胸の中で、サイは眠るように呟く。俺はとても疲労している──フレイに抱かれるがままになりながら、サイは精神の磨耗を自覚していた。
「ヒトがヒトでなくなっても、か」
不意に浴びせられた強烈な台詞。サイはその言葉に、思わず顔を上げる。「どういう意味だ?」
「今ある人間の定義から外れても、という意味だ」
「フレイ……ごめん。君が何を言っているのか、訳が分からない」
「私たちの行動は全て、その目的の為にある──人が戦わず、傷つかず、心を汚されることもなく、寿命をまっとうする世界。
それが可能になる世界とは……一体どんな世界だろうな。貴様は本当に、そのような世界を望むか?」
サイは考える──目の前で半分自虐的に微笑む女は、一体何を考えているのかと。フレイはさらに言う──「私は、お前の望みどおりに動くことに決めた。
お前が平和と停滞を望むなら、そうしよう。進化と戦いを望むなら、それを叶えよう」
「フレイ、君が何を言っているのか分からないんだが……」俺はこの言葉を、何回フレイに言うのだろうか。
「いずれ分かる時が来る。お前が選択すべき時が来る──その時に考えろ。
忘れるな。私にはどちらも叶える力があることを」


同時刻。
アムル・ホウナは、破壊されたヤエセの街で彷徨っていた。
こういう事態になったのは少々予想外ではあったものの、彼女はいずれ近いうちにアマミキョを出るつもりだった。異動の申請が受理されなかった以上、もうあの船にいる理由はない。何故なら自分には、もっと適した場所があるから──シュリ隊除隊届もとうの昔に書き上げていたし、あとは提出するだけだったのだ。
焼け残った電灯が何とか点滅し、瓦礫が積もった夜の街をアムルは歩き続ける。オーブ行きの飛行機には、明日でなければ乗れない。それまで、ここで彼女は最後の夜を過ごさねばならなかった。
アマミキョには全く未練はないと言ったら嘘になる──ただそれは彼女の場合、決してあの場所が恋しいとかそんな理由ではない。
出来うるならば、自分の手で完膚なきまでにあの船の連中を叩き潰したかった。それが出来ないことが、アムルの苛立ちを増幅させていた。あれだけ私を馬鹿にして、気持ち悪がらせて、非協力的で、心の中まで覗き見たナチュラルども──あそこにいたコーディネイターたちも、どうしてあれだけナチュラルの肩ばかり持っていたのだろう。所詮、ナチュラルに与するコーディネイターも、ナチュラルと同じよ。
アムルは埃まみれのベンチに腰を降ろし、自分の手のひらをじっと眺めた。アマミキョに乗って唯一、楽しかったことといえば──サイ・アーガイルの惨めな姿を見られたことと、最後の最後に彼をこの手で痛めつけられたことだろうか。
アムルの手に、サイの腕を締めつけた時の快感が蘇る。あの雨の日の絶叫も震えるものがあったけど、この手で実際に体温を感じ、腕を潰しかけたあの時の感覚とは比べ物にならない。
あれだけ惨めな思いをさせたのに、いつの間にか人望を取り戻し副隊長にまで登りつめたあの、生意気なナチュラルの男。フレイばかりを見て、私など歯牙にもかけなかった男。まだ男の子と形容してもいいくらいの顔つき体つきの癖に、私にくだらない干渉ばかりしてきた男。
私の心を、覗いた男。
サイの、押し殺したようなあの呻きを聞くだけで、アムルの中では他の全ての不満の半分ほどが解消出来てしまっていた。ただその代わりに、恐ろしい欲求が自分の中で膨れ上がってくるのを、アムルは自身で冷静に分析していた。
まだ若く、鍛えられきっていないあの筋肉をこの手で潰してしまいたい。肌を突き破って血を噴出させ、内臓までもを抉り出して、骨を叩き潰したい。フレイの大切なものを、彼女の目の前で破滅させたい。
昨今の政治事情を鑑みる限り、いずれ近いうち、アマミキョ共々サイはそうなる運命だろう。そこに自分がいないのが、とても残念──
「こんな処にいると危ないですよ。お嬢さん」
不意に声をかけられ、アムルはふと顔を上げる。焦茶の短い髭で黒い肌を覆い、さらにサングラスをかけた男が、アムルの眼前に立っていた。年は髭でよく分からないが、40そこそこといったところか。
「貴方、アマミキョの方ですね。キャンプで拝見させていただいたことがある」そう言って男はアムルに、大きな手を差し出した。
「どちら様ですか? 私、貴方とは面識が……」
「あぁ、失礼。あの船の情報を集めている、しがないジャーナリストですよ。
ともかくここでは危ない、あちらの幹線道路を抜けたところに喫茶店があります。そこでお話させていただきましょう」
数時間後、アムルは知ることになる。この男が自分の願いを叶え、自分の新たな運命を切り開く道しるべとなってくれることを。
そしてこの男はジャーナリストなどではなく、幾度もアマミキョを危機に陥れ、ティーダを執拗に追いかけてきた男──ヨダカ・ヤナセであることを。


 

 

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