フレイがアマミキョから離れるにあたり、サイは非常に重大な問題をただしておく必要があった。二人で向かい合い、解決すべき問題が。
「お世話になりました」
別れの朝──ティーダやアフロディーテが次々と搬出されていく轟音に満ちたカタパルトで、ナオト・シライシは深々とサイに頭を下げていた。
一応頭を下げてくれるくらいは、素直になったか。いや、素直に戻ったというべきか。サイはそう思いつつも、この間のちょっとした口論が忘れられない。「どうしても、乗るつもりか。ティーダに」
またそれを言うのかと言いたげに、ナオトの頬が見事に膨れて唇が尖る。「僕は決めたんです。母さんも、マユもいるんだ。本当に最後までサイさんは……」
「分かったよ」ナオトに皆まで言わせず、サイはふっと笑顔になってみせた。「俺の負けだよ。最後くらいは、ケンカはなしだ」
思わず顔を上げるナオトの後ろで、マユがはしゃぐ。「あ! やっとサイも分かってくれたんだね。戦いは男のクンショウだよ!」
「そーそー、こいつってどうも男の癖にかーちゃんみたいなこと言うからな」いつのまにかオサキがサイの背後を取り、ウインクしながら思い切りサイの腰をひっ叩いていた。「男は少しぐらい、鍛えられた方がいいんだって!」
オサキについてきたヒスイも笑う。「ギガフロート・シネリキョは生活施設も充実してると聞きました。ショッピングモールに遊園地まであるそうじゃないですか、大丈夫ですよ」
「うん! シネリキョはすごいんだよー」マユはナオトの袖をつかみながらさらにはしゃぐ。これから遠足に行く子供そのものだ。「ナオトもあの海賊ランド、行ってみようよ!」
「海賊ランド?」
「いーっぱい海賊のお人形があるところを船で進むんだよ。私一回貸切で遊んだことあるんだ、お兄ちゃんと!」
「貸切って、それ他に人がいないってことじゃないか! 怖いんだけど」
「怖くないよ! だってお兄ちゃんと一緒だったもん、ナオトも一緒なら怖くないって」
そんなマユとナオトを見ながら、サイは思わず噴きだしてしまった。
きっとすぐまた会える──そう思いながら、サイは二年前のフレイとの離別を忘れることが出来なかった。せめて笑顔で送り出したい。どんなにケンカをしていても、離れる時はちゃんと笑顔で別れたい。それがサイの今の心情だった。
ナオトもきっと同じ思いなのだろう──きちんと、母からもらった新しい服を着込んでいる。淡い桜色のワイシャツに、紅のリボンタイが似合っていた。手首からまだちらりと見える包帯が痛々しかったが。
唯一、カズイがこの場にいないのが心残りだった。「まだ、治らないんですか。カズイさん……会いたかったな」
「今生の別れみたいなこと言うなよ」残念がるナオトを、サイは笑ってみせる。「そのうち、きっと戻ってくるから」
「大丈夫だって! いつのまにか気がついたら、あいつもまたブリッジで走り回ってるさ」オサキがにっこり白い歯を見せた。
サイやオサキたちの笑顔に、ナオトは思わず涙ぐむ。「サイさん、皆さん。僕、必ず戻ってきますから。必ず、パワーアップしたティーダで、サイさんのところに戻りますから、だからそれまで……」
ナオトは頭を上げたが、今にも号泣を始めそうな顔だった。生きていてくださいと言わなかったのは、意地か、縁起かつぎか。
アマミキョを取り囲む情勢が日を追うごとに悪化しているのはナオトにも分かっている。南北の対立が一層鮮明になり、大小問わずテロが毎日頻発している。おかげでナオトたちを見送りに来られたのは、サイやオサキ、ヒスイといったごくごく親しい少数だけだったのだ。後は皆、テロの後始末に追われている。
「だからやめろって、そういうの」ナオトの手を握り締めながら、いつかカズイに向けたのと同じ言葉を、サイはかけていた。「お前こそちゃんと身体治して、元気でいろよ。今まで付き合ってくれて、ホント、ありがとな……
それじゃ。お母さんが呼んでるぞ」
それからもナオトは何度も何度も名残惜しげにサイを振り向いたが、やがてその姿はフレイやマユ、カイキやマスミらに阻まれ、エンジンの入った移動艇・ハラジョウの陰に隠れ、完全に見えなくなった。
サイはフレイに視線を送ることだけは忘れなかった──ナオトを、マユを、頼んだぞ。
今までの経緯を考えると心もとない願いではあったが、サイは願わずにはいられなかった。
「私の願い、叶えていただけるなんて思いもしませんでした」
ヤハラのビジネスホテルの洗面所で、アムル・ホウナはブラウスを着けながら感謝の言葉を述べた。心から晴れやかな表情で。
「モビルスーツ起動試験のデータ、持ってきておいて良かったわ」
「間違えないでほしい。君を正式に私の部下とするのは、ミッションを果たしてもらってからだ」ヨダカ・ヤナセの声が寝室から響く。「君は──仲間を売ることになるんだぞ」
「それは……分かっています」とりあえず、ここは沈んだ声で対応しておくのが得策だ──アムルはそう判断した。仲間を喜んで裏切るような女と思われれば、今後ヨダカとうまくやっていくことは難しい。
「心苦しいことではあります。ですが、あの船の運用に関しては私自身、以前から疑問でした。
救助隊なのに見合わぬ力を持つ、それ自体が矛盾しています」
「ティーダについては、昨夜までに君からもらった情報で間違いないようだ。民間船を乗っ取り、モビルスーツを好き勝手に操る傭兵集団がいたとは──出自といい、気になるな」
うーんと伸びをしながらベッドの上でシャツを取替えつつ、ヨダカは呟く。「ハーフムーンにて、ティーダを護ったあの紅の機体──あれもアマクサ組なる傭兵集団の私物か」
「ええ。よく生還出来ましたね、あの紅の魔女から」
「あの時は敵も味方も大変な混乱状態に陥っていた。全速力で逃げるのが手一杯だったよ」
アムルは髪を梳かしつつ、尋ねてみた。「本日より、アマミキョとティーダ、アマクサ組は別行動をとる予定です。動かないのですか?」
「ティーダの件については本隊に連絡を入れてある。アマミキョはまだ早い──連合軍の守りが薄くなってからの方が得策だ」
ヨダカは髭をかきむしる。ジャーナリストと偽りアムルに近づいてきたヨダカが真相を打ち明けるまでに、そう時間はかからなかった。元々誠実な男であり、己を隠すことが苦手なのであろう──アムルがアマミキョに対し、悪意に近い感情すら抱いていると判断した瞬間、ヨダカはすぐ自らの素性を明かしたのだ。
数日間この男と行動を共にしながら何もされなかったことは、さすがにアムルも女としての不満を感じてはいたが、それ以上に彼女は喜びと希望に溢れていた。
この男は約束してくれた。この男についていけば、プラントに行ける。夢にまで見たプラントに行ける。母も彼も皆が反対し私を縛りつけ、絶対に叶うことはないと思っていた夢が叶う。
プラントで、モビルスーツに乗ることが出来るんだ。この私が、堂々とモビルスーツに搭乗出来るんだ。その為ならアマミキョぐらい、喜んで売ってやる。いやむしろそうさせてほしい。私はやっと、本当に呪縛から逃れられるのだ。
母と彼から逃れても、あいつらは私を追ってアマミキョまでやってきた。あいつらは身体を消し飛ばされても、執念はとんでもなく凄まじくこの世に残った。形を変えて私を縛りつけた、私の自由な夢を奪った──サイ・アーガイルという形となって。
アマミキョでサイと出くわすたびに、私はいつまでも母と彼の幻影に苦しめられた。あの子は私の心を覗いた上に、潔癖さと善良さで私を許さなかった。
あの子がいる限り、私は母と彼から逃れられない。だから──
ヨダカから渡された、薬のカプセルにも似たメモリを蛍光灯に翳す。こんなものが、私の未来を開く鍵となるなんて──私の願い全てを叶えてくれるなんて。
アムルは決意する。私はこれで、サイにとどめを刺す。サイ・アーガイルを捻り潰し、アマミキョを吹き飛ばして、私は空へ飛び立つのだ。
ナオトたちの行き先──ギガフロート・シネリキョ。
そこはまるで、ナオトが昔よく漫画で見た未来都市そのものだった。
直径が約15キロといったほぼ円形の人工島に、空港や長距離軌道ターミナル、工場や研究施設、ショッピングセンターや遊園地がところ狭しと立ち並んでいる。モノレールに乗り換えたナオトは、車窓から銀色に輝く道路を眺めては、いちいち歓声を上げていた。
「すごい! 本当の要塞都市だよ、ここは! まるでプラントみたいだ」戦争の色を感じさせず、太陽をさんさんと浴びて光り輝く街。街路樹も整然と植えられ、ビルの奥には植物園らしき森まで見える。埃と泥と騒音に満ちたヤハラからここへ来たナオトにとってそこは、希望溢れる未来都市だった──人の姿が作業員以外、殆ど見られないことを除けば。
「ナオト、あのお城が遊園地だよ!」マユが指差した先を見ると、島の中心にロケットのような塔が見えた。太陽の光を浴び、銀色に輝く塔。「あれが、この島の中心。塔を真ん中にして島が出来てるんだよ」
「貴方もあそこに行くのよ、ナオト」マスミがナオトの隣でにっこり笑う。フレイやカイキ達は別室でミーティング中で、ナオトの周りには何人かの研究員らしき白衣の男女がいるだけだ。
「今から皆さんにご挨拶するのだから、ちゃんとしましょうね」マスミはナオトの紅いリボンタイを直す。それだけで、ナオトには嬉しかった。母からプレゼントされるなんて、一体何年ぶりだったろう。マユにもさっき褒められたばかりだった──マユは喜んでもいた。自分のリボンとナオトのそれが、ほぼ一緒だったから。「お揃いだね、ナオト! すごく可愛い。大好きだよっ」
可愛いという形容が若干男としては引っかかるものがあったが、マユのその言葉がナオトにはまた壮絶に嬉しかった。
怪我をした右手はまだ痛んだが、もう動かせるぐらいには回復している。マスミから貰った缶ジュースを飲める程度は。
やがてモノレールは速度を上げ、島を半周した後、螺旋を描くように地下へと潜り込んでいった。
「お疲れ様、ナオト」ギガフロートの地下に拡がる研究所の一角で、ナオトはマユたちと離れ、母と二人になった。
「本当にすごいや、この島。外からは分からなかったけど、地下にたくさん人がいたんだね。挨拶、さすがに疲れちゃったよ」
「ホントね。優秀な技術者たちが大勢集められたのよ、ティーダのために」
「ここでティーダを強化すれば、無敵だよね!」「えぇ。そして貴方も、きっともっと強くなれる」
マスミの個室であるこの部屋は、研究所というよりは洋風喫茶店とも言うべき内装だった。家具は落ち着いたチョコレート色に統一され、床も派手さのないベージュの絨毯で敷き詰められている。アンティーク調の丸テーブルが部屋の真ん中にあり、ナオトとマスミは木製の椅子に座っていた。薔薇の模様が施されたテーブルクロスの上には、カップに入ったローズティーが二杯、湯気を立てている。そんな中、ナオトの右側の壁にかけられた大きなモニターが異彩を放っていた。
マスミとナオトの他には、研究員が二人、ドア付近で立ち尽くしていた。白衣を着込み、一人は帽子を目深に被っている。
ナオトはどうにもそれが気に喰わず、不審げな視線を投げかけずにはいられない。それに気づいたマスミは優しく諭した。「ナオト、貴方は大切なお客様なの。何かあったら大変でしょう?」
「僕って、そんなにすごい奴なのかな。まだ実感ないや」
「今でも十分にすごいわ」マスミは優雅に紅茶を口にしながら、嬉しそうにナオトを見やる。「こんなに強くなってくれるなんて……夢みたい」
「マユを守りたいんだ」ナオトは母の褒め言葉に舞い上がりながらも、自分の主張は忘れない。「マユとサイさんたちを守りたい。だから、僕はもっと強くなりたいんだ。
ティーダがあれば、出来るんでしょ。それに僕の力──
SEEDがあれば!」
「勿論よ」崩れない笑顔。「その為に、私は貴方をここに連れてきたのよ?」
「母さん……」赤くなってうつむくナオト。暖かな光の下、紅茶がゆらゆら揺れる。
こんな幸せな気持ちは、生まれて初めてだった。
僕は母さんに捨てられたものだとばかり思っていた。だから強くなって、レポーターになって、母さんを取り戻そうと思っていた。だけど、母さんは優しかった。こんなに優しい人だった。
絶望に負けそうになった僕のところへ、助けに来てくれたんだから。
僕にはこんなに優しい母さんがいて、マユがいて、サイさんたちもいてくれる。
きっと強くなって、みんなを守って、戦争が終わったらまたオーブで、レポーターの仕事を頑張るんだ。死んでいったみんなの分まで、僕は生きる。強くなる──
その時、幸せの感情でいっぱいになったナオトに、マスミはふと呟いた。「本当に良かった。貴方を試して」
ナオトは一瞬ではその意味がつかめず、まじまじと母を見つめてしまう。「え? 試した?」
「えぇ。
私は貴方にSEEDがあると分かって、すぐにでも会いに行きたかった。
会って、試してみたかったの──貴方の力を」
紅茶を啜りながら微笑む母。その笑顔は夢見る少女のそれと全く変わらない。ナオトがずっと憧れていた、可愛い母の表情。
でも、今耳にした言葉は何だ? 「母さん、僕を試したって……? それって、今までわざといなくなってたってこと?」
「ナオト、違うわよ。ずっといなくなってたのは本当にごめんなさい……何度も謝ったけど、謝りきれるものじゃないものね。だけど、試したっていうのは別のこと。貴方のSEEDよ」
「母さん?」ナオトには全く意味が分からない。手にしたカップがぶるぶる震えだす。母の無邪気な表情と悪意のない言葉。その奥に潜められたものの恐ろしさに、ナオトは震えていた。
やめろ、やめてくれ、母さん。お願いだからその先を言わないで。やっと僕は幸せになれたんだ、母さんと一緒に。やっと僕は、母さんに会うっていう夢を叶えたんだ!
「貴方が強いならきっと耐えられると思ってた。残念ながらSEEDそのもののデータは取れなかったけれど、ティーダの覚醒を促すことは出来たわ」
マスミは言いながら、手元のリモコンを慣れた手つきで操作し、モニターのスイッチを入れた。自動的に部屋の照明が落ち、モニターに光が溢れる。「映像で何度も何度も確認したのだけど、まだSEEDの目覚めには至らなかったみたい──ごめんね、ナオト。痛い思いをさせて」
モニターに映し出されていたのは、ナオト自身の姿。
同時に部屋に轟いたのは、ナオト自身の絶叫と悲鳴。
──それは、ナオトが記憶から追い出そうとしても追い出しようのない、あの夜の暴行の映像だった。
宙吊りにされ、泥水を浴びせられ、おびただしい血を流し、苦痛の叫びを上げ続け、相手を憎しみの目で睨みつける自分──あの悪夢の光景が何故か今、ナオトの眼前で再生されていた。
一体何処から撮影したのか、随分近くまでカメラが寄っている。びしょ濡れになって透けた肌までがはっきりと見えた。丸裸にされたも同然のあの時の恐怖と恥辱を、ナオトは否応なく思い出してしまう。
「でも、よく頑張ったわね、ナオト。母さん嬉しい」
太ももを裂かれ悲鳴を上げるナオトの映像を前に、マスミはいつもどおりににっこり微笑んだ。
僕は……一体今、何を見てるんだ? どういうこと?
母さんが、傷ついたあの時の僕を見て、笑ってる?
それだけでも信じられないのに、母さんは……母は……この人は!!
それ以上の現実の認識を拒絶し、ナオトは椅子からふらりと立ち上がる。部屋に響く自分の悲鳴がモニターからのものなのか、今自分が出しているものなのか、判別出来なかった。
そんな息子を見ながら、母は少し首を傾げる。「どうしたの、ナオト? 私、何か変なこと言ったかしら?」
ナオトの中で、彼を支えていたもの全てが崩れかかる。母さんの言葉が本当なら──
僕は一体、どうすればいいの。僕は母さんに会うために、今までずっと生きてきたのに!
SEEDのせいで父さんに傷つけられた時はすごく悲しかった。だけど、きっと母さんに会えると思って、それからも頑張って生きてきたんだ。僕にはまだ母さんがいるから。父さんがあんなことになっても、まだ母さんがいるから。
でも、これじゃ……母さんは、父さんと同じじゃないのか?
母さんは、父さんと同じに、僕を、傷つけた?
ナオトの周囲の部屋がぐらぐらと揺れ出す。母の裏切りを認識することは、彼にとって世界の崩壊を意味していた。「サイさん……サイさん、助けて……」
あの夜振り絞った叫びと同じ言葉を、ナオトは今また、無意識のうちに呟いてしまっていた。ティーカップの中の液体が、もはやナオトには血のようにしか見えない。
「嫌ね、ナオト。そんなに怖がらないで」目の前の母は両腕をのばし、ナオトの頬を包む。背後のモニターでは、彼女の息子が宙吊り状態から泥の沼に落下し、さらに肩を切り刻まれ肉を露出させ、水をぶちまけられていた。か細くなっていく悲鳴、怒りの呪詛。
母はこれを、何度も何度も見ていたのか。傷つき汚され呻き続ける僕を、何度も何度もこの暗闇の中で冷静に見ていたのか。SEED覚醒の瞬間をとらえる為、それだけの為に。
ナオトは思わず、自分に触れる母の手を払いのける。自分の行為が信じられなかった。さっきまで幸せの象徴だったはずの母の笑顔が、こんなにも恐ろしくなるなんて!
「ナオト、どうしたの? いい子だから言うこと聞いて、ね?」優しいはずの母が、ナオトを抱きしめる。それでもナオトの震えは止まるどころかさらに増幅していく。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だっ、離して、離してよ母さん、どういうことか説明してよ!」ナオトは自分でも信じられない力で、母の腕を引きちぎる。
その瞬間──銃声と共に、モニターと再生装置が破壊された。
部屋を満たしていたナオトの叫びが突如途切れ、部屋のあかりは非常灯の青白い光、ただ一つだけとなる。
青い闇の中、冷徹な声が響いた。「まさか自分から告白してくれるたぁ、予想外だったよ。
つまりこういうことか──あんたはSEEDの覚醒の為に、自分の息子を襲わせたってわけだ」
つかつかとナオトの背後から靴音が近づく。ナオトも何度か聞いたことがある声だ。帽子を被っていた白衣の研究員が、ゆっくりと母子に忍び寄ってくる。
「襲わせただなんて、人聞きが悪いですね」思わぬ闖入者の言葉に、マスミは眉をしかめながらも冷静に対応する。こういう状況には慣れているのか。
「じゃあ正しく言い直すか? 強姦とでも」毒を吐かずにいられないという風情で、研究員は帽子を取った。もう一人の研究員は既に腹に一撃を食らわされたのか、床で気絶している。
「試したのです」マスミはあくまでも冷静に対応していた。「研究員を装ってここまで潜入するなんて、なかなか連合の方も優秀ですね」
ナオトの背後から近づいてきた白衣の男は、マスミからナオトを庇うように割って入った。ナオトはどうして良いか全く分からず、男を見上げる。軍人にしては細い身体にきっちり着込んだ背広、それに対しややだぶついた白衣。鼻の上の眼鏡と短髪、そして厚めの唇が印象的だった──
サイさん?とナオトは言いかけたが、すぐに違うと分かった。この男ほど、サイは神経質そうでも皮肉っぽくもない。
「ご家庭の事情に踏み込む気は全くなかったんですがね。あんまりにも酷すぎるだろ、あんた」男の銃口は真っ直ぐマスミに向いている。それでもマスミは動じていなかった。
「踏み込みすぎですよ。山神隊の広瀬少尉……でしたか」
「覚えていただいているとは光栄です」銃口を決して逸らさず、彼は得意の酷薄な笑みを浮かべる。だがマスミは決然と銃口を睨み返した。「何を仰りたいんです? ナオトの為には必要なことだったんですよ」
この一言は、広瀬の笑みを消したばかりか彼の感情を暴発させた。「SEEDの為だろ。息子にSEEDがあると分かって、捨てたはずの息子探してクズどもに金渡してリンチさせて、その後でいけしゃあしゃあと母親面して現れやがった、これがSEEDの為でなくて何だってんだ!!」
真実を拒絶していたナオトの胸に、広瀬の言葉は強烈に突き刺さる。違う、そんなの違う、母さんがそんなことするはずがない、母さんは僕の為に……
「いいえ、ナオトの為です」ナオトの混乱をおさめるように、マスミは言い放った。確固たる信念と共に。「ナオトの成長には、ナオトが生きのびるには必要なことだったんです。
私はナオトを信じていました。ナオトなら大丈夫、強い子だから耐えられる!」
「もし死んでも、そこまでの息子だったってか」マスミの動じなさに、広瀬は思わず唇を舐めた。動じているのはむしろ彼の方だったかも知れない。「本気で言ってんなら──
あんた、母親どころか人間失格だよ」
この一言は、ナオトにとってあまりにも重かった。「やめて……やめて下さい、広瀬さん! やめて!!」現実全てを振り払うように、いつしかナオトは絶叫していた。母を庇うようにして、広瀬の銃口の前に立ちはだかる。
ナオトの行為に、冷静さが売りのはずの広瀬の感情がさらにヒートアップしてしまう。「何言ってんだお前……ここにいたら、何されてもおかしかないって十分分かっただろう!」
「分かりません! 母さんは優しいんだっ」
「そこをどけ! お前の後ろにいるのは母親なんかじゃない、お前の父親と同じ、狂人だっ」
「違います!」
「ああ違うな、後天的に頭がおかしくなった父親とはワケが違う。元からネジが飛んでやがるんだ!」
「違う!」
「諦めろ! 初めから母親のところに、お前の居場所なんてなかったんだ、ナオト・シライシ!」
「それ以上言うなら、僕は貴方を殺します、広瀬さん!」どれほど否定されても、ナオトは力の限り声を絞り出す。やっと掴んだ幸せを守る、それだけが今のナオトの全てだった。
「やってみろ、このクソガキが! お前の父親だってこの女のせいで……」
「絶対に違う! たとえそうだったとしても、それでも母さんは、僕の母さんなんだっ」その絶叫は、紛れもなくナオトの意思そのものだった。「母さんの為だったら、強くなる為なら、僕は何でもするって決めたんだ。何されたっていいよ。
母さんと一緒にいられるなら、電気だって水責めだって鞭打ち100回だって、耐えてみせるよ……だから」
ナオトはその場に崩れ落ちる。それは広瀬に対する、土下座の姿勢にも似ていた。「だから、お願いです。僕から母さんを……奪わないで」
「この、大馬鹿野郎」広瀬は舌打ちしながらも、銃口を決して下げはしなかった。「んなこと言われたら、なおさら一緒にいさせるわけにいかねぇだろうが」
だが、チョコレート色の絨毯にナオトが頭を押しつけた──その刹那。
ナオトの脳裏を、何かが走った。少女の絶叫。
──助けて、ナオト!
雷に打たれたように、ナオトの身体が跳ね上がる。「マユ!?」
混乱した頭に、さらに不可解なビジョンが次々に展開される。
白い手術着を着せられ、フレイと共に歩いていくマユ。
マユに背を向け、嗚咽をおさえながら壁を殴っているカイキ。
何かに耐えながら、妹を見ようともしないカイキ。
不安げに振り向くマユ。彼女の進む先には、病院の手術室にもよく似た扉があった。
──ナオト、ごめんね。
──ナオト、私もうダメかも知れない。
──遊園地にも行けなくて、ごめんね。おいしいクレープ屋さんがあったのに。
そうだ。僕が守るべき人は、僕の居場所は、まだあったじゃないか。
そう感じた瞬間、ナオトの身体は恐ろしい速さでドアへ突進した。広瀬にも母にも背を向けて、ナオトは扉を壊しかねない勢いで部屋から飛び出し、そのまま声の方向へと走り出す。
何処へ行こうというあてなど、まるでなかった。ただ、マユのいる方向へ。それだけを目指して。
僕にはマユがいる。まだ、マユがいる。大切な人がいる。
守ってくれる存在に絶望しても、僕にはまだ、守るべき人がいる。そのマユが、助けを求めている──「ティーダが……マユが、僕を呼んでるんだ!」
シネリキョより約1500キロ北、太平洋上──ヘブンズベース戦を経たミネルバが今、オーブに向けて航行中だった。
そこへ入った一報に、シン・アスカは唇を尖らせる。「その人工島を調査せよって言うんですか?」
「これは議長命令よ、シン」艦長であるタリア・グラディスは表情一つ変えずにシンを諌めた。「ヨダカ・ヤナセからの連絡です。チュウザン近海に、不穏な動きをする人工島アリ……研究施設が密集し、マスドライバーが存在するとの情報もある。
オーブにロード・ジブリールがいると判明した今、警戒するに越したことはないわ」
「しかし……」言いかけてシンは唇を噛む。レイ・ザ・バレルはといえば、議長命令と聞くや何ら疑問を持たずに機体の調整を始めてしまった。デュランダル議長から託された新しい機体──レジェンド・ガンダムを。
「オーブのジブリールを討つのが先、と言いたい?」タリアの口調が厳しくなる。「ガンダム・ティーダ──貴方も覚えているでしょう? あの機体に記憶を奪われ、逃げ帰ってきた屈辱を」
タリアの言うとおり、その敗戦はシンにとって、フリーダムに翻弄された時と1、2を争うほど屈辱的なものだった。ただ敗れたならまだしも、肝心の戦闘中の記憶も戦闘ログも消失している。対策の練りようがない。
ほんの数時間のこととはいえ、自分の脳が他人にいじられた──その気持ち悪さは、シンにとって耐え難いものだった。フリーダムに勝利し、ヘブンズベース戦で輝かしい戦果を挙げ、ネビュラ勲章を受けFAITHとして認められた今ですら、あのもやもやは消えない。
──ステラ。君はこれよりよほど大きな不安を抱えながら、ずっと生きてきたのか。
シンの腕の中、冷たくなっていった少女の感覚が蘇る。戦うたびに記憶を消され、兵器である以外に存在意義を認められなかった少女。自分が救えなかった少女。
暖かな記憶全てを抹消され、デストロイガンダムを駆る悪魔と化した彼女は、無数の命を奪った末に自らも消えた──シンという過去をわずかに取り戻したと同時に、彼女の命は散った。はかない星屑のように。
「その人工島に、あのロドニアの子供たちのような存在がいる可能性は低くはないそうよ。それでもシン・アスカ、貴方はジブリール掃討を優先しますか」
「いいえ」シンはタリアの言葉に敢然と答えた。「自分を行かせてください。人をオモチャにするような奴らに、負けるつもりはありません」
つづく