走った。ともかく走った。脳裏に浮かぶ黒髪の少女を目指し、ひたすらナオトは走り続けた。
PHASE-29 ティーダ・エモーション
どのぐらい、時間が経ったのだろう。
ナオトは、頬に当たる冷たい水流の感覚で眼を覚ました。頭を回してみると、どうやら自分は緩やかな水の流れの中、寝そべっていたようだ。
水深はだいぶ浅く、仰向けになってようやくナオトの耳が浸かるかといった程度だ。
「マユは……つっ!」身体を起こそうとして、ナオトは激痛に喘ぐ。見ると、右腕と左横腹からの出血が、ナオトの服の半分ほどを真っ赤に染めていた。
痛みに耐えながら、ナオトは周囲を見回す。殆ど真っ暗だが、かなり天井の高い空間だ。少し向こうには大きな水路があり、ナオトはちょうどその支流に迷いこんだ形になっていた。
大きな水路の反対側には、ライオンだかドラゴンだかの巨大な像があり、その口から水が絶え間なく吐き出されている。像の口腔の奥は全くの闇だ。その上には──
「……ひっ!」
ナオトは思わず悲鳴を上げかかる。そこにあったものは、逆さ吊りにされ苦悶の表情を浮かべている、10数体もの海賊だった──いや正確に言うと、海賊の人形だったのだが。
そのかたわらに、アラビア風の赤い服と帽子を着けて三日月にも似た大剣を振りかぶり、お供の猿と一緒に得意げな表情を浮かべている人形があった。
自分こそが、この舞台の主役だと言いたげな顔。背後には山のような金塊。
それらの人形は今、静寂の中で全て動きを停止しており、魂のない眼をひたすらナオトに向けていた。
突然、人形たちの舞台の下部から赤い光が灯る。まるでスポットライトのような光を浴びた人形の肌や眼球が、血のように赤く輝いた。
──もしかして、これがマユの言っていた……?
ナオトの呟きに答えるように、声が響いた。「お察しの通り。ようこそ、ここはシネリキョ名物、パイレーツ・アイランドだ。
正確には、海賊ランドに偽装した、化物モビルスーツ秘密工場幽霊つき、ってとこか」
声の出所は、大剣を振り上げた赤い人形の背後だ。ナオトは思わず身を震わせ振り返る──この声は、さっきの……
人形が身体ごとゆっくりと持ち上げられ、その下から白衣姿の男が現れた。「トミグスクの事件から気になっていた。ティーダ、アマミキョ、アマクサ組、そして南チュウザンの関係の裏に何があるのか。
旧琉球王国の創造神・アマミキョと対になる神、シネリキョ。その名を持つこのふざけた島で、ようやくその謎も解けそうだ」
そこにいたのは、先ほどマスミからナオトを逃がした男──山神隊・広瀬少尉。
人形たちの舞台から、彼は難なく数メートル下の水路脇の通路へ飛び降りると、つかつかとナオトの元へやってくる。相も変わらず冷たく、皮肉めいた口調が、ナオトに突き刺さった。
「なかなか苦労させてくれるじゃねぇか、王子様。お前の行先から追っ手をまくのは骨がいったよ」
水路脇、横幅わずか30センチほどの通路を渡り、ナオトの目の前まで来た広瀬は、いきなりナオトの左腕をつかんだ。「いた……っ!? 離してください、何のつもりですか!」
「何って、助けるんだろ。マユ・アスカを」
当たり前のように飄々と答える広瀬。そんな彼を、ナオトは憎しみすらこもった眼で見上げてしまう。「そのつもり……ですけど」
この男を、そこまで信用することは出来ない。この男は、さっき母さんを侮辱したんだ。
ナオトはその手を振り払おうとするが、力が入らない。流れる水がナオトの気力を奪っているようだ。
「ぼやぼやしてると、マユ・アスカは殺されるぞ」広瀬の声に、ナオトははっと顔を上げる。さっきの忌まわしいビジョンと、マユの悲鳴が蘇る──「どうして、貴方がそれを?」
「消される、と言った方が正しいか」広瀬は一旦ナオトを離すと、ポケットに手を突っ込んだ。
「少し、長い話になる。マユ・アスカに関する重要な話だ、寝るなよ」
「マユの話……? 何か、知ってるんですか」とりあえず、一旦情報だけは手に入れておいた方がいいだろう。そう判断したナオトは、少し黙っていることにした。
「2年前、東アジアの連合軍実験施設から、子供が二人逃げ出した。わずか14と11の兄妹だ。
二人は辛くも追っ手をまいたが、その時妹の方は全身に重傷を負った。そのまま彼らは南チュウザンの軍用施設に逃げ込み、救助された──しかし、妹は意識不明のまま、植物状態に陥った。
聞くところによると、無事だったのは頭部のみで、あとは四肢切断、全身火傷という状況だったらしい。生存しているのが不思議なくらいの重傷だったそうだ。
「だが、兄貴は妹を諦めなかった。妹を救う為、南チュウザン軍と取引をしたんだ──
そこで現れたのが、フレイ・アルスターだ」
「何ですって!?」ナオトは思わぬ名前に、つい広瀬の白衣の裾を握りしめる。「2年前に、フレイさんが南チュウザンにって……どうして?」
逸るナオトを広瀬は手で制しつつ、ポケットから出したハンカチをナオトの顔に押しつけた。「血、おさえとけ。
兄貴はフレイと取引をした──
妹を復活させることを条件に、フレイ・アルスター率いるアマクサ組に協力すると。
だが、妹の復活にはいくつもの条件をクリアしなければならなかった。当然だ、死んでいるに等しい者を生き返らせるんだからな。しかし成功すれば、兄貴は勿論、フレイ側にも多大なメリットとなる取引だったんだ。
まず彼らは、妹の新たな身体となる人間を探さなければならなかった。ちょうどその頃、オーブで大規模な戦闘が発生した──お前も覚えているだろう、連合軍によるオーブ解放戦だ。
あの戦闘では民間人にも多数の死傷者が出たが、フレイはそのデータを徹底的に調べた。
その結果、死亡者の中で、新たな身体に適合するデータの持ち主が存在した。しかもそれは、フレイのもう一つの目的にも合致する、これ以上ない理想的なデータだった」
ここまで話されれば、ナオトにも分かった。「それが、マユ・アスカだったんですか。そしてそのお兄さんというのは──カイキ・マナベ、ですね」
「意外に察しがいいな。ついでに言うと、カイキ・マナベの本当の妹の名前──奴が必死で助けようとした妹の名前が、チグサ・マナベだ」
ナオトは思い出す。カイキが時々呟いていた名前──通信ごしに、わずかに聞き取れた無念そうな呟き──それが、「チグサ」。
広瀬は続けた。「チグサ復活が成れば、人類史上誰も成功しなかった、死者の復活が果たされる。
南チュウザン首領、タロミ・チャチャの神の復活宣言がより強固なものとなる。
だが、フレイ・アルスターはマユ・アスカの身体に、もう一つの可能性を見出していた。それが、SEEDだ」
SEED。その単語に、思わずナオトの身は震え上がった。父も、そして母も囚われていたこの単語。この言葉は、どれだけ僕を狂わせれば気が済むのだろう。
ナオトの気も知らずか、広瀬は淡々と語る。「マユ・アスカにも本物の兄貴がいた。
名はシン・アスカ。オーブ解放戦の生き残りで、今はザフトとして戦っている」
ナオトの脳裏に、閃光のように記憶がまざまざと蘇る。
──このまま水遊びしよっか? 昔みたいに!
ストライクに似たあのザフトの機体を目の前に、マユは躊躇することなくハッチを開き、相手に姿を見せた。
あれは、相手が絶対に自分を撃つわけがないと分かっての行動だったのか。だからフレイもカイキも無反応だったのか。相手がシン・アスカ──自らの兄だと分かった上での……
「シン・アスカがSEED保持者という事実は、2年前の時点で既にフレイは掴んでいた。兄がそうなら、当然妹もSEED持ちの可能性はある。
フレイはその能力に賭け、マユ・アスカを当時開発中だった機体──ガンダム・ティーダのテストパイロットとすることに決定した」
「待ってください!」ナオトは混乱しつつ頭を振り、広瀬を止めた。「じゃあマユは、オーブで死んだってことですよね……でも、チグサっていう娘の身体もボロボロで、その状況でどうして、マユ・アスカの身体を使ってチグサさんを再生出来るんですか? マユの身体は、ほぼ無傷だったとか……」
「違うね」広瀬は無下に否定した。「マユ・アスカの身体は、腕一本だけを残して後は黒コゲだったそうだ」
「じゃあ、一体どうやって……」
「コーディネイターとして生み出された人間は、その遺伝子データを登録される。オーブでもプラントでも、それは同じだ。
それを使えば──ヒトの復活が成る」
「は? そんなバカなこと! データだけで、死んだ人間が復活出来るっていうんですか」
「当然、常識では不可能だ。だが、現在の南チュウザンの技術を使えば──可能だそうだ。アレを復活と定義していいものかどうだか、個人的にかなり抵抗はあるがな。
言っておくが、クローンじゃない。クローン人間では寿命の問題がある。だからフレイは、別の方法を使った。
既に存在している人間の身体を作り変えてマユ・アスカの身体とし、さらに頭にはチグサ・マナベの脳を移植したんだ」
広瀬の言葉の一つ一つが、ナオトにとっては全く信じられない。既に存在している人間を作り変えた? フレイがそれをやった? そして、マユが作り変えられた存在? チグサの脳を移植して?
「ちなみに、これは南チュウザンだけの技術じゃない。南チュウザンはどこぞの組織で開発された技術を流用しただけだ。『カーボンヒューマン』と呼称され、裏世界じゃ結構有名な話だそうだ」
「そんな……そんな、そんな馬鹿なこと!」ナオトは叫ぶ。叫ばずにいられない。「それじゃ、今まで僕がマユと呼んでいた娘は誰なんだ。マユでもあって、チグサでもあって、それでいて誰でもないなんて……そんなのって、そんな馬鹿なことってあるかよ!」
「俄かに受け入れられないのは当たり前だ。倫理なんて言葉がどっかに吹っ飛んだ、どう考えたってツギハギ人間だからな。
まぁ、既に存在する人間を利用したと言ったが、気にしなくていい。存在するだけの人間だ、実験用に培養されただけの……意識は胎児と同じだ。どっかで普通に生活している人間を無理矢理拉致したわけではないらしいから、その点は心配するな」
「そんなの関係ない!」あくまで淡々とした広瀬に、ナオトは逆上する。こんな話を、こんな馬鹿な話を、何故こうまで冷静に話せるのか。「フレイさん……どうして、どうしてそんなことが出来るんだよ!? サイさんとやっと分かり合えたはずなのに、どうしてそんなことをしてるんだよ!!」
ナオトは叫んでいるうち、別の疑問に辿りつく。「そうだ……それを言うなら、フレイさんは?
フレイさんだって、2年前はアークエンジェルにいたはずでしょ? サイさんたちと一緒にいたはずだ、でなければ、ザフトの捕虜になっていた時期のはず……
不可能ですよ。フレイさんは、当時は普通の女の子だったはずです。そんなこと、出来るはずがないんだ」
広瀬は煙草の煙を吹き出すように、ため息をついた。「そいつはさらに長い話になっちまう──
とにかく今、フレイはマユ・アスカの中のチグサ・マナベを復活させる最終工程に入っている。それが何を意味するか、お前に分かるか?」
「何って……」広瀬のハンカチで腹の傷を押さえながら、ナオトは一瞬考え込む。ハンカチはあっという間に、赤く染まっていった。
「今までお前らがマユと呼んできた娘は、2年前に生み出された魂だ。マユ・アスカでもなく、チグサ・マナベでもない。いわば、チグサの代用品だ。
ということは、チグサが復活してしまえば、『マユ』はもう不要となる──」
そこまで言われれば、もう間違いない。マユは──僕の好きな「マユ」は、今まさに消されようとしている!
ナオトは広瀬の手を払いのけ、傷口を押さえながらよろよろ立ち上がる。ズボンの裾から、盛大に水が流れ出した。「分かってます。だから、助けに行きます。でも……」
「でも?」
「貴方の力は借りない。僕ひとりで十分です」
「……はぁ?」今度こそ広瀬は、心底呆れたような声を上げる。「お前、自分の状態分かってんのか?」
ナオトは一切、広瀬と視線を合わせようとしない。「分かってますよ……貴方が僕を追ってきた理由も。
僕を追えば、マユの居場所が分かるからでしょ」
「否定はしないさ。ティーダに一緒に乗っていたお前なら、最も強くマユ・アスカを感じ取れるはずだからな」
「やっぱり……」ナオトは唇を血が出るほど噛みしめながら、水路の中を歩き出す。だがすぐに、左足に激痛が走り、思い切りバランスを崩してしまった。
背後から、広瀬の皮肉っぽい声が襲いかかる。「ろくに歩けもしない癖に、どうやって助けるってんだ」
「何とかします」
「ふざけるな。そのままじゃお前もマユも死んじまうぞ!」広瀬もまた水路の中へ駆け込んで、ナオトの腕を掴む。水の上で揉み合いが起こり、静かな水路に白い飛沫が立った。
「離して下さいよ! 貴方と一緒にマユを助けたって、どうせ同じだ!
どうせ貴方も、マユや僕を利用するつもりなんでしょ。僕たちとティーダを連合軍に引き渡して、実験に使うつもりでしょう! そんなこと……」
叫びはやがて涙声になり、後が続かない。「どうせ同じなんだ、みんな同じだ、フレイさんも母さんも……みんなで僕を裏切るんだ!」
自分で思った以上に、母の裏切りはナオトに酷い衝撃を与えていたらしい。フレイにしても同じことが言えた──今、一部だけ明かされたフレイの秘密は、ナオトにとってはそれだけで重大な裏切り行為に他ならない。
こんなフレイを知ったら、一体サイはどうなるだろう?
ナオトは不意に、切実に思った──帰りたい。
アマミキョに、マユと二人で帰りたい。帰って、サイやみんなに、洗いざらいぶちまけたい。目の前が涙でくもり、ずぶ濡れの身体が痛みで崩折れる。「助けて……助けてよ、サイさん」
ナオトが思わず、弱音の極みとも言える呟きを漏らした瞬間──襟ぐりを、思い切り掴まれた。「いい加減にしろ」
眼前には、銀縁眼鏡の奥で光る冷たい切れ長の目だけがある。ほぼ全体重を相手に引っ張り上げられ、ナオトはもうその眼から視線を逸らすことが出来なかった。
「利用されるから何だってんだよ!」広瀬の怒声がナオトを貫く。「お前らみたいな生意気なクソガキでも、何の利用価値もないのに助けるお人よしなんざ、サイくらいのもんだ。
あぁそうさ、俺はこの腐った計画の全てを暴きたい。その為に、ついでにお前とマユを助ける、それだけだ。お前がティーダを動かして暴れてくれさえすりゃ、チグサ復活も止められる可能性があるからな。
それを利用だとか実験台とかごちゃごちゃぬかすなら、勝手に野たれ死ね。マユを見捨てて!
言っておくが、俺一人が暴れてこの基地を破壊する方法は3通りある。ただしいずれも、マユの命もお前の命も保証出来ない。
二人とも助かりたければ、俺に従うことだ」
ナオトは答えない。濡れた髪の間から大きな眼で広瀬を睨みつけるだけだ。誰が信用するか、誰が──
だがそんなナオトの両の頬を、広瀬はつねり上げんばかりに掴んだ。今度こそナオトは、広瀬から全く視線を外せなくなる。「お前、自分で忘れてるだろ。てめぇがジャーナリストの端くれだってこと……
俺が信じられないなら、それでもいい。だが、お前には義務がある。
ここで何が起こったのか、そのデカイ眼で真っ直ぐに見て、生きて帰り、それを伝えることだ」
その言葉と広瀬の眼光で、ナオトの心が一瞬、ほどけた。そうだ──
僕は、アスハ代表の命を受けてレポーターになったんじゃないか。父さんと母さんを探す為にテレビに出た、それは確かだけど、僕があの、憧れのアスハ代表に命じられたことも確かなんだ。
──ナチュラルとコーディネイターの、融和の証を見せて欲しい。
そう。僕は代表に誓ったんだ。だから僕は、父さんにあれだけ傷つけられた時だって、何とか仕事をこなしたじゃないか。
だったら──
全てを納得したわけではない。だが、ナオトは不承不承ながらも抵抗をやめた。
「信用したわけじゃありませんよ。マユを助けるためです」頭の中のビジョンは次第に鮮明になっていく。頭痛がするほどに。
「いい子だ」ニヤリと笑ってのけた広瀬は、ナオトに一旦背を向けてその場にしゃがみこんだ。「それじゃ、つかまれ」
ナオトはその意図が俄かには理解できない。「……は? 何、してるんですか?」
「は?じゃねぇよ、その怪我でどうやって移動する気だったんだ。100mも行かずにぶっ倒れちまう」
「い、い、嫌ですよぅ! いくら何でも! それって、おんぶってことじゃないですか!」
全くどうでもいい理由で拒絶を始めたナオトを、呆れ顔で広瀬は振り返る。「だから、これ以外にどんな移動手段があるってんだ?
俺だって恥ずかしいんだよ、早く乗りやがれ!」
「どのツラ下げて戻ってきやがった!」
ナオト・シライシがマユを救助する決意を固める、数十時間ほど前──
アマミキョでは、またまたオサキの怒声が響いていた。二度と戻ることはないだろうと思われたアムル・ホウナが、あっさりとサイやオサキたちの前に姿を現したのだ。
知らせを聞いてブリーフィングルームに駆けつけたサイたちの前で、アムルはゆっくりと頭を下げる。「ごめんなさい。配属はどこでも構わないわ」
「んなもん了解出来るか! てめぇはもうアマミキョを捨てた人間なんだよっ」
いきりたつオサキを手で制し、サイはあくまで冷静に対応する。ブリーフィングルームのドアの陰から、数人の好奇の目が光っているのが分かった。その中にはカズイもいるだろうか?
「アムルさん。今また乗船する意志を示していただけたことは感謝します。
しかし貴方の場合、失礼ながら下船の理由がやや利己的すぎた。再搭乗の理由をお聞かせ願います」
これは丁寧すぎたかと反省しかけたサイに対し、アムルは頭を下げながら平静に言ってのける。「ザフトのスパイがいたの。ヤエセの街に」
「スパイ? って……」「ザフトの? 一体なんで」サイとオサキがほぼ同時に戸惑いの声を出した。
「私、とても怖かった。アマミキョ内部の状況を詳しく教えるよう脅されたわ。多分、アマクサ組が離れた今を狙ってやってきたのだと思う」アムルの声が震えだす。顔は伏せたままだ。
これが演技なのかどうか、サイにはどうにも判別がつかない。アムルの言葉は続く。「急いで戻らないと、船がやられてしまうと思ったの。そりゃこの船は嫌なこともあったけど、いくら何でも、民間の船を壊すだなんて、酷すぎるわ」
「ザフトがこの船を調べるチャンスを窺っているのは分かります。今までも散々狙われて、傭兵を使ったとはいえこちらから撃ったこともある……」
サイは改めて目の前の女を凝視した。スパイに脅されて逃げ帰ってきたというのが本当なら、彼女自身にも容疑をかけねばならない。それは彼女も分かっているはずだ。だが、彼女自身もスパイ活動に手を貸しているのであれば、敵がいたなどと堂々と言う理由がない。
いや、敢えてそう言い放つことでサイたちを術中に嵌めようとしている可能性もある。アムル本人がそこまで頭が回るかどうかはともかく、街で出会ったというザフトの者から言わされている可能性もある。
ややあって、サイは判断した。「アムルさん。今、この船と北チュウザンは、孤立無援の状態となりつつある。そこへ、敢えて火種となる可能性があるものを入れるという決断は、自分には出来ません」
「私が、火種だっていうの?」頭を下げたまま、アムルはサイを見上げる。その目には何の感情もなかった。
「無礼を承知で言わせてもらいます。可能性はある」
「私は相手の顔を知っている。船に近づいてきたら警告することも出来るのよ」
「ザフトを甘く見ない方がいい。彼らが貴方をみすみす、ここまで逃がすはずがない」
サイの言葉に、アムルは怒りを隠せない。「命からがら、必死で逃げてきたって言ってるじゃない! 私の行き場所はここだけなのっ」
それでも、サイは態度を変えなかった。「そうであれば、大変失礼ですが、身体検査をしてもらう必要があります。
あらかじめお断りしておきますが、形式的なものではありません。スズミ先生にお願いして、徹底してやっていただきます」
フレイがいた時は、このようなケースでは当たり前にやっていたことだ。スズミの手が空かない時は他の看護師に頼み、それこそ身体中の隅から隅までを洗いざらい調べ上げていたものだ。
だが、アムルは納得出来ていない様子だ。「私に爆弾が仕掛けられてるとでも?」アムルお得意の、嘲笑。久しぶりに見た気がする。
「真面目な話、その可能性も考えています」
「随分と冷たくなったのね、サイ君」
サイは上目遣いに自分を睨みつけてくるアムルを敢然と無視し、続けた。「拒否するのであれば、再搭乗を認めるわけにはいきません」
オサキがここぞとばかりに怒鳴る。「ったりめーだ! どんだけいらんトラブル起こしたと思ってんだ、テメェ!」
「オサキさん、ちょっと黙って」暴走しかけるオサキをサイは制したが、彼女は止まらない。
「いい加減お人好しはやめろよ、サイ。こんな女とっとと放り出して、ザフトに撃たれちまえばいいんだ」
「オサキさん!」
だがオサキは、それまでの鬱憤を叩きつけるように、アムルに怒声を浴びせた。「サイの良心に取り入ろうったって、そうはいかねぇからな。てめぇのおかげで、サイがどんな目に遭ったと思ってんだ!
ザフトのスパイがいようがいまいが、アタシらは二度とテメェを受け入れる気はねぇよっ」
オサキの怒責に応えるように、アムルの金髪が震えだす。犬猿の仲というのは、まさに彼女らのことであろう。ナチュラルとコーディネイターの壁もあり、さらに性格がお互い、相容れない。
オサキとヒスイは正反対の性格同士の友人だが、オサキとアムルのように相容れないわけではなく、正反対故に魅かれあっている点が多い。だがオサキとアムルは、第三者から見てもはっきり分かるほどに、お互いがお互いを嫌悪しあっていた。絶対に分かり合えない者同士の衝突が、そこにはあった。
「……分かったわよ」アムルはオサキの声を振り払うように、顔を上げる。白い部分の多いその目には、ただひたすらサイとオサキに対する軽蔑が溢れていた。「貴方たちがそこまで言うなら、私ももういいわ。
今度こそ二度と、貴方たちの元へは戻らないから」
アムルはそのまま踵を返すと、足早にブリーフィングルームを出て行った。後には憤怒のオサキと冷たく見守るサイ、そして数人のギャラリーだけが残された。
この時のサイの選択は、後に起こる大事故から考えれば実に正しかった。選択自体は。
ただこの時サイは、最後の最後で痛恨のミスを犯した──それは、アマミキョ全艦監視システムに頼ったあまりの、サイの見落としだったかも知れない。
彼は、船を去ろうとするアムルに、見張りをつけることを失念したのだ。
あらかじめ予測出来ていたことだ。アムルは平静を保つ為、唇を噛んだ。
あれだけ派手にこの船を出たのだ、簡単に許されるはずがない。その程度のことは、アムル自身も予測していた。
だからこそ、真実の半分を明らかにしてまで信用を勝ち得ようとした──ヨダカの指示通りに。それは先ほど、見事に失敗に終わった。
しかし実は、アムルが物理的に船に乗った時点で、ほぼ目的は達していたようなものだったのである。後は、まだ有効だったパスを使ってどこかの端末を指示通りに操作すれば良いだけのことだった。
パスの即日解除も出来ないとは、よっぽどお忙しいのねナチュラル様は──既にアムルはそんな愚痴を吐きながら、ヨダカの指示を完遂していたのだ。サイたちと一戦交える前に。
それだけであれば、船にこっそり侵入して目的を果たしてさっさとヨダカの元へ戻る方が、余程効率的ではあった。むしろ、わざわざヨダカの存在を半分明示してまでクルーに復帰しようとする行為は非常に危険だ。
だが、アムル自身の目的を達するには、そうする必要があった。
あの、いつの間にかフレイばりの上から目線になった生意気なナチュラル──サイ・アーガイルから全てを奪い、自らの手でとどめを刺し、その醜態を最期まで見届けること。
それこそが今や、アムル・ホウナの存在意義ともいうべき目的だった。勿論このことはヨダカには内緒である。彼には何度も止められたが、自分が最後まで船にいなければ、作戦が成功する確率は低いと適当に理由をつけておいた。
しかしこの船にいられないと分かった今、自分はどうするべきか──ヨダカの言うとおり、ここはさっさと退くべきか。プラントに行くという夢を目の前にして、そこまでこの船に拘泥する理由はないはずだ。
その時だった。アムルの視界に、とぼとぼと一人で通路を寂しげに歩く少年の背中が見えたのは。
うまくいくかも知れない。プラントに行く夢、そして私の復讐、両方叶えることが出来るかも知れない。
アムルは明るめの声色を装い、思い切ってその背中に呼びかけた。「久しぶり! カズイ君」
「フレイ・アルスターの正体──そいつは未だにはっきりしない。
タロミ・チャチャお抱えの秘書だとか愛人だとか、様々な説がある。確実なことは、彼女はタロミの片腕に近い存在だということだ」
ずぶ濡れのままのナオトを背負って走り続ける広瀬。その白衣も水気を吸って重くなり始めていた。
二人はいつしか、地下深くの巨大な吹き抜けの空間に出ていた。底の見えない縦穴にも似たその場所──穴の直径は100mほどもあるだろうか。真っ黒な闇しかない地下から生暖かい風が吹き出している。壁を埋め尽くす、螺旋状の階段。
遥か下に何があるのか見当もつかないが、ナオトはその闇の中心に、確かにマユを感じた。
「つまり、マユたちアマクサ組もみんな、タロミ・チャチャの」
「手先ってことになるな。
ついでに言うと、奴らはカイキ・マナベを除いて、全員死亡しているはずなんだ。
──2年前に。勿論、フレイ・アルスターもな」
この広瀬の独白に、ナオトは意外に冷静に応じた。「フレイさんが元のフレイさんじゃないってことは、知ってます。サイさんから聞きました」
広瀬は螺旋階段を降りつつ、話を続ける。足早ではあるが、音は立てていない。「アーガイルから? 何故?」
「フレイさんが、自分で明かしたそうです。──サイさんからは口止めされましたけどね。今のアマミキョクルーにとって、フレイが本物かどうかは関係ないからって」
「アーガイルに対しての罪悪感、か」
広瀬は10数メートル降りきったところで、別の通路へ繋がる扉を見つけた。慣れた手つきで軽くロックを調べると、片手で解除してしまう。「アマクサ組はガンダム・ティーダを使い、ある実験をしていた──ティーダのブック・オブ・レヴェレイションシステムから発振される、あの光だ。
あの光を、アマクサ組やシネリキョ関係者は『セレブレイト・ウェイヴ』と呼称している。
奴らの言うところの、『戦争を止める力』だ」
「戦争を止める……争いをなくす?」ナオトは思わず声を上げる。黙示録発動のたびに敵味方双方が戦意を喪失し、不可思議な鐘の音と共に光の中、モビルスーツごと堕ちていく光景が蘇った。
「最終的にタロミ・チャチャは、あの光で世界中を覆い尽す気なんだろう。おそらくその為に、フレイにSEED保持者を探させていた。保持者に近しい者が何故か蘇り、アマクサ組にいたのもその為だ。
あいつらがいわゆるクローンなのかカーボンヒューマンなのか、そいつははっきりしないがな……
SEEDの集結、死者の復活、セレブレイト・ウェイヴの拡大──これだけ揃えば、タロミ・チャチャは神となる。その宣言通りにな」
広瀬はナオトごと、低い扉をくぐり抜ける。そこはただひたすらだだっ広い倉庫──の、中2階あたりのキャット・ウォークだった。
ただそのだだっ広さは、中に何もなければおそらく広いのだろうと感じる広さで、今は決して広い空間とは感じられない。何故なら──そこには所狭しと、無数のモビルスーツが並べられていたのだ。
ナオトは状況を一瞬忘れ、思わず感嘆の声を上げてしまう。「すごい、何だここ……
ストライクがあんなに沢山……IWSPつきのものまである。あっちはデュエルにバスター? 真っ赤なデュエルなんて新鮮だなぁ……」
ナオトがさらに驚いたのは、連合製と思われるそれらのモビルスーツに並んで、ザフトの一つ目や三角帽子──ザクやバビまでが複数並べられていたことだ。そしてその隣にはまた連合製の、カラミティやフォビドゥンまでがある。その奥にはM1アストレイが部隊を成していた。
「本当にすごい……まるでモビルスーツ博物館だ!」
「その通り。だが、どれ一つとして本物はない」ナオトの感激に、広瀬は水を差す。
「え?」
「ザフトに連合にオーブ、全ての機体がこんな平和な状況で一堂に会しているなんざ、通常は考えられんだろ。
全て、横流しされたか盗んだかしたデータで製造された、紛い物だ。ただし、使われている技術は本物同様だがな。勿論、強さも」
広瀬は一旦ナオトを降ろし、白衣を脱ぎ捨てた。白衣はナオトと同じく既にずぶ濡れで、ナオトの血がべっとりと付着している。下の背広にまで血は染み込んでいたが、広瀬は全く気にせず白衣を引きちぎり始めた。
「一つ気がかりなのは──何故、アマクサ組がティーダと一緒にアマミキョをここに持ち帰らなかったか、という点だ」
広瀬は白衣を長めに、細かく裂いていく。広瀬の手中であっという間に、白衣は白い縄状のものへと変化していく。
「アマミキョはティーダと違って、オーブと文具団主導で建造された船だからじゃないですか」
「確かにそうだが、システムはチュウザン製のブラックボックスだ。おまけに船はティーダと完全に連動し、乗組員にまで影響を与えている。少なくともサイ・アーガイルは、ティーダの異変と同時にお前の危機をいち早く察知した。
アマミキョがなければ、ティーダはその真の性能を発揮出来ないはずだ。にも関わらず、フレイはアマミキョを捨てた──」
「つまり……どういうことですか」何本かに裂いた白衣の端と端を、広瀬はしっかり固く結んでいく。その時点で、白衣は完全に1本のロープになりつつあった。
「アマミキョの代わりになるものを見つけたか、作ったか、どちらかだろう。もしくは、この『シネリキョ』そのものがあの船の代わりか……ネーミングからも想像がつく」
ナオトの背筋に、新たな悪寒が走った。アマミキョは不要と見做されたということか。おそらく「極秘」事項を多く隠し持っている船、それが不要とされたということは──
「このままでは早暁、アマミキョは始末される」断定に近い口調で広瀬は言ってのける。「ただでさえ北チュウザンの内乱、ザフトの侵攻で孤立無援だってのに、アマクサ組の引き上げだ。タロミの意思により、アマミキョは……」
長い長い一本のロープとなった白衣の端を、広瀬は近くの鉄柵にくくりつけた。それを眺めながら、ナオトは言う。「じゃあ、サイさんたちを助ける為にも、ここを潰してマユを助けて、ティーダを取り戻す必要があるってことですね」
ナオトを振り向き、広瀬はニヤリと笑う。「正解だ。悩んでる暇なんかねぇぞ、王子様! まずはティーダを奪回する」
言われて、ナオトは思わず倉庫中を見渡した。すかさず広瀬の突っ込みが飛んでくる。「ドアホ、こんな処にティーダが放置されてるワケねぇだろ! 先立つもんが必要だ、俺につかまれっ」
言うが早いか、広瀬は背広の袖口でロープを掴んだ。慌ててナオトも広瀬の腰にしがみつく。
考えるより先に、身体が動いていた。一番最初にマユを助けた時と同じに。
これ以上、誰も失いたくない。これ以上、大人の好き勝手にはさせない。僕もマユも生きているんだ。マユをフレイさんの好きになんて、絶対にさせない。ましてや、サイさんたちに手出しなんて、絶対にさせるもんか!
母さんのことは──とりあえず、考えるのは後だ。
ナオトと広瀬の眼下10数メートル下には、連合軍量産機・ウィンダムを模したらしきモビルスーツが見えた。広瀬はそのまま、その機体めがけてナオト共々、宙に身を躍らせる。袖口が擦れるのも構わず、ロープと化した白衣を伝って二人は一気に滑り降りた。
ジェットコースターにも似た恐怖とわずかな快さを感じながら、広瀬とナオトはどうにか、ウィンダムもどきの右肩部への着地に成功した。着地の衝撃はほぼ全て広瀬が耐えてくれたが、さすがにナオトの傷にもこの衝撃はてきめんに響いた。
そして着地から約2秒ほども、広瀬は動けなかった。いくら鍛えられた軍人とはいえ、モビルスーツとほぼ同じ高さを滑り落ちたのだ。しかも、二人分の重量を負って。
痛みに耐えつつ広瀬は頭を回し、ウィンダムの胸部を見た。「いい感じだ。コクピットハッチもモノホンと同じだな、あと問題はOSか……
ここで待ってろ、今こいつを動かす」言いながら、広瀬はロープを強引に引きちぎる。その手際の良さをぼんやり眺めながら、ナオトは痛む足をさすっていた。「どうしてウィンダムなんですか? 他にも良い機体は……」
「一番手慣れてるからだよ。ムラサメに比べりゃ地味かも知れんが、パイロットによっちゃストライクよりよほど優秀だぜ」
ロープはほんの3メートルほどが広瀬の手に残った。その端を、ウィンダムの整備用ステップにくくりつけ、広瀬はナオトを残して再度ロープを滑降し、コクピット部へ到達した──その瞬間。
耳をつんざく轟音と共に、ナオトと広瀬が先ほどまでいたキャット・ウォーク付近の壁が、爆砕された。
広瀬とナオトが振り向くより先に、無数の破片が雨あられと飛んでくる。そんな中、ナオトはウィンダムの肩部装甲の陰に隠れてどうにか破片の直撃を逃れた。その間に広瀬は素早く手動でコクピットハッチを開く。と同時に頭を回して、たった今破られた壁の向こう側を確認する──
同時に、広瀬は叫んでいた。「しまった! シライシ、飛び降りろ!」
そこにいたのは、圧倒的火力の砲門を誇る、禍々しいエメラルドの巨神。
ストライク、アフロディーテ、そしてティーダと同じ頭部意匠を持ち、同じ名を持つ「災厄」の機体──カラミティ・ガンダム。
「まさか、カイキさん!?」ナオトが叫ぶより早く、カラミティは幾多の無人の機体を複列位相エネルギー砲「スキュラ」の一閃により蹴散らした。一瞬のうちに辺りを業火の海に変えながら、カラミティはウィンダムに向けて右腕部を伸ばす。正確には、ウィンダムの右肩にしがみついたままのナオトに向けて。
カラミティのスピーカから、くぐもった声が聞こえた。<時間がないんだ。貴様に来てもらう>
それは間違いなく、カイキ・マナベの不機嫌そうな声だ。ナオトは叫ぶ。「カイキさん……カイキさんなんでしょ!? お願いです、攻撃はやめてください!」
だがナオトの声にも直接は答えず、そのままカラミティの鋼鉄の手は無造作にナオトの身体を丸ごと掴んだ。広瀬の叫びも虚しく、ナオトはそのままカラミティに捕らえられてしまう。
続けてカラミティは、ウィンダムの至近にあったダガーLを2機、両肩に装備された高エネルギー長射程ビーム砲・シュラークで撃ち抜いた。まだコクピットハッチを開けたまま、しかも外側へ身体を出したままだった広瀬は、咄嗟に身を翻してコクピット内部へ飛び込む。
「凶かよ、こん畜生!」
光の一閃。一瞬遅れて、ダガーLの爆発による凄まじい炎の嵐と轟音がウィンダムを襲った──が、この時には広瀬は間一髪、炎がコクピットを貫く直前に足で開閉スイッチを蹴飛ばし、強引にハッチを閉じていた。
激しく息をつきながら、広瀬はコクピット内でウィンダムのOSを起動させた。メインモニターに光が入っていき、コンソールパネルのライトが明滅するのを確認しつつ、素早く思考を巡らせる。
おそらく今のは、カイキ・マナベなりの情の一発だ。一時的とはいえ、共闘していた相手への──そして二度目はない。ベルトを締めながら、広瀬は唇を噛む。血の味がした。
幸いなことに、純連合製のウィンダムとさほど操作方法は変わらないようだ。これが万が一、コーディネイター用OSだったらと思うと寒気がしたが。
モニターで映し出される、右やや側面にいるカラミティ。その手には既にナオト・シライシが捕らえられている。カラミティの手はがっちりとナオトを掴んでおり、首と両肩、足の爪先だけが辛うじて外側から確認出来るという状態だ。鋼鉄の指がナオトを締め上げる力はかなり強いらしく、この時点で既に彼は痛みの悲鳴を上げてしまっていた。
次の瞬間に来たカラミティの炎。咄嗟に右に跳ね、どうにか広瀬のウィンダムは回避に成功した。パイロットスーツではないので衝撃はいつもの3倍増し。しかも慣れない背広だ。爆風に煽られ全身が煤けた上、細かな破片で至るところが切り刻まれている。あの伊能にでも見られたら大笑いされるに違いない、畜生。
さらに悪いことに──右腹部からの血が、急速に広がっていた。ナオトの血ではない。確かに彼の血で背広は大分汚れていたが、明らかに他人の血ではない自分の血で、紺のスーツはどす黒へ、薄水色のワイシャツは真っ赤に変色しつつあった。
広瀬のすぐ右側で、無人のダガーLが1機、2機と炎上していく。さらに迫るカラミティの火線。
モビルスーツの森とでも言うべき倉庫内で、ウィンダムは他モビルスーツを盾にしつつ、炎をくぐり抜けていく──汗だくで操縦桿を握り締める広瀬。今度はその左腕に、激痛が走った。
「大凶……ってか」照明の薄暗さで気がつかなかったが、左の袖が下のシャツごと大きく切り裂かれ、腕全体が腹と同じ、血の色で染まりつつあった。
迂闊だった。操縦に直接影響する腕をやられたのは、詰めが甘いと伊能に罵られても仕方がない。
カラミティのシュラークがまたも火を放つ。今度こそ容赦なく、真っ直ぐにウィンダムを狙ってきた。響きわたるアラート。広瀬は全力でレバーを押し込む──
よけろよ、偽者。偽者でも、ウィンダムだろ!
その執念が通じたか。その火線はウィンダムがいた床をえぐり、大穴を開けるにとどまった。逃げてばかりでは芸がないのは分かっているが、今の時点ではどうしようもない。ジェットストライカーが既に装備されているのは確認したが、今そいつを使って飛び上がりでもしたら、次の瞬間に俺は灰になる。このモビルスーツの群れに隠れて次の対策を練るのが妥当だ、ナオト・シライシを取り戻す為にも──
M1アストレイ部隊の陰に、ウィンダムは隠れる。次の火線を待ちながら、広瀬はじっと息を潜めていた。2秒、3秒と、あまりにも遅く時間は刻まれていく。
だが、覚悟していた砲火は来なかった。
その代わり、バーニアの轟音があたりに響く。最初に開けた大穴から、ナオトを捕らえたままカラミティが背を向け、飛び去っていくのが見えた。ここで下手に戦って、いたずらに時間や戦力を浪費するのは愚策と見たか。
とりあえず、当面の危機は去った──敵地である以上油断はならないが、広瀬は大きく息をついてシートに背を押しつける。暑苦しく鬱陶しかったネクタイを引きちぎるようにして外すと、右手と歯を使って素早く左肩に巻きつけた。ぎりぎりとネクタイの端を噛みしめながら出血を押さえ、さらに腹の傷も確認する──そして気づいた。
奴らの時間も残り少ないのかも知れないが、多分、俺の時間はもっと少なくなった。
広瀬は急いで思考を切り替える。ならば、自分に残された道はひとつ。
知りえた真実全てをナオト・シライシに開示した今、彼を何としてもここから、生きて脱出させることだ。
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