「カイキさん、やめて下さい! 離して! 広瀬さんを助けないとっ」
カラミティは水流の中を軽やかに滑走していく。水路の中にモビルスーツ運搬用のレールがありそれを使っているだけなのだが、傍目には華麗に水を吹き飛ばして滑っていくサーファーのようにも見える。元はソードカラミティだったはずの機体だが、今はすっかり砲撃戦装備のカラミティに改造されている。だが、ビームブーメラン・マイダスメッサーなど一部ソードカラミティの装備も残っているようだ。それが、完全には覚悟を決め切れないカイキを象徴しているように、ナオトには思えた。
その右手で、ナオトはひたすら叫び続けていた。「カイキさん! お願いです、話を聞いて下さい! 僕はマユのこともフレイさんのことも、まだ知らないことがたくさんある!
聞きたいことが、山ほどあるんです!」
またもや全身に水飛沫を浴び、半分水を飲まされかかりながらもナオトは声を張り上げる。「カイキさん! チグサっていう妹さんのことは僕はよく知らないけど、マユのことだって、カイキさんは大事だったんじゃないんですか? 大事だったんでしょ?!」
答えない代わりに、カラミティは進行方向を左へ90度変更する。そこで水路は突然、坑道にも似た横穴の通路へと変化した。
──間違いない。この先に、マユがいる。
水流が弱くなったのか、飛沫は少しおさまってきた。数十メートルおきに配置された青い非常灯が水面を照らし出すその様は、まるで水の迷宮のように思えた。
<──2歳だ>波を立てながら、スピーカから静かな声が流れる。<貴様がマユと呼んでいた娘の年齢、そして寿命。たったの2歳だ>
「カイキさん……?」無表情なカラミティの奥から響く声。だがナオトはこの時初めて、カイキ・マナベという男の真の感情に触れた気がした。
<ある程度はあの連合野郎から聞いているだろうから、詳しい説明はしない。
ただ、貴様には言っておかないといけない、これだけは……!>
どこまでも永遠に続くかと思われる水のトンネル。青い空間の中で、カイキはナオトに呟き続ける。<マユ・アスカのデータを元にチグサの身体が再生されたのは、2年前だ。
俺は姿かたちがどれだけ変わってもいい、チグサの魂だけでも救われればいい。
俺は、それだけを考えていた>
ナオトは考える。カイキとチグサがいたという、連合の実験施設──反射的にトミグスクの工場の記憶が蘇り、ナオトは吐き気を覚えた。子供を実験体として扱い、キメラにまでしてしまった父。そのキメラとなった少女に、自分を襲わせた父の姿。
<あの工場でも思い出したか。あんなのはまだユルいぜ、俺たちなぞ仲間同士で殺し合いをさせられるなんて、日常茶飯事だったからな。
だが俺は、妹だけは守りたかった。物心ついてからたった一人だけ、ずっと一緒に生きてきた妹だ。だから生き延びる為に、施設を出た。妹と俺同士で、殺し合いを命じられた夜のことだった──>
そして、広瀬の言うとおり、カイキはチグサを護りきれず、チグサは重傷を負った。そこにフレイが天使の如く現れ、マユ・アスカの話を持ちかける──
いつもよりずっと冷静な、カイキの独白。ナオトはじっと耳を傾けていた。<正直チグサとマユ・アスカは、似ても似つかん容姿だ。だがそれでも俺は構わなかった、チグサがチグサとして生まれ変わることが出来るなら。
だが、現実はそううまくは運ばない。チグサがようやく目覚めたと思ったら、それはチグサとは全く別のものだった──チグサの記憶どころか、知識も知能もない、まっさらな赤ん坊と同じ魂だった>
「それが……マユだったんですね」
<そう。お前らがマユと呼んでいた娘だ>ここにきて珍しく、ナオトとカイキの会話が成立してきた。思えばアマミキョにいた頃は、カイキさんとは喧嘩ばかりだった──
<マユ・アスカでもチグサでもない、そいつはイレギュラーで生まれた命だった。
だがチグサの魂を完全に復活させるには、その何もない魂が必要だったことが判明した。チグサをマユ・アスカの身体でいきなり目覚めさせれば、拒絶反応によって両方とも死んでしまう可能性が高い。だからその、何もない魂がチグサとマユの媒介する者として必要だった。
俺達はそいつを、コロニー・ウーチバラ──つまり宇宙空間でしばらく過ごさせて、身体が安定するのを待った。
いずれ、ティーダのテストパイロットになる身体だ>
「待ってください」カイキの言葉をナオトは一旦止める。「カイキさん。彼女を、生まれたばかりのマユをティーダのパイロットにすることに、抵抗はなかったんですか!?
モビルスーツに乗るってことは、戦うってことですよね」
<黙ってろ、何も知らねぇ坊ちゃんが>カイキの反応はあくまで冷たい。<貴様と違って、チグサも俺も戦争の真っ只中で生きてきた。今更戦いのない世界でなぞ、生きていけねぇ。戦いが生活そのものだった、俺たちにとっては。そもそも、あいつをティーダに乗せることがフレイの条件の一つだったのに、蹴られるわけがない>
「そうじゃない、そうじゃないんです! カイキさんが、そのことをどう思っていたか、僕は知りたい!」
<平気だったわけがねぇだろ>カイキの声が震えだした、と感じたのは気のせいだろうか。<新しく生まれた魂は、俺たちやチグサとは違う。何も知らない、何も分からない、まさに真っ白な心しか持たない子供だった>
ナオトを絞めつけているカラミティの指に、やや力がこめられた。あまりの苦しさにナオトは悲鳴を上げる。傷口からの出血が止まらない。
それでもナオトは、何とか右腕だけでも引っ張り出そうと身をねじる。過剰に力を入れたせいで、ブラウスの右肩口が音を立てて破れた。
「じゃあなおさらです! どうして彼女を戦わせたんです、戦いしか知らない子にしたんです!?」
<何も知らない癖に、知った風な口を!>カラミティの指にさらに力がこもると同時に、カイキの感情が暴発する。<俺だって、そんな娘を殺し合いになんざ出したかない、チグサの二の舞になんざしたかねぇ、だがチグサをパイロットとして生き延びさせるには、元々の身体──つまりその赤ん坊も戦いに慣れる必要があった!
俺にはどうしようも、どうしようもなかった!>
身体中の骨が折れるかというほどの激痛の嵐の中で、ナオトはそれでも理解した。
あぁ、カイキさんも人間だったんだ。僕は何も知らずに、陰でカイキさんを罵倒することしか出来ないでいた。
<調べた結果、チグサの完全覚醒までは2年かかることが分かった。つまり、いずれにせよ名無しのその娘の寿命も2年ということだ。
フレイもアマクサ組の連中も皆、これには悩んださ。貴様には分からんかも知れんが、あいつらだって好きでマユやチグサの命を操作してるわけじゃねぇんだよ。
なぁ、教えてくれ……
2年しか生きられないと分かっている赤ん坊は、どう育てればいい? 答えがあるなら、教えてくれよ>
鋼鉄の指の関節に当たる部分がさらに絞め上がり、ナオトの身体に新たな傷口を生む。金属が軋む音と共に、桜色のブラウスがどんどん紅に染まっていく。絞め殺される──
それでも、ナオトは聞いた。聞きたかった。口から血を吐きながらでも。
「だから……悲しみも苦痛も感じない子にしていたんですね。楽しいことだけを感じられるように」
最初にマユと出会った時もそうだった。あの子は酷い怪我をしていたのに、まるで痛みを感じていないようだった。
相手を叩きのめすのが大好きだったのも、そうすることが幸せだと教えられていたからだろう。人を傷つけ殺しても、カイキ兄ちゃんが褒めてくれた──いつかマユはそう言ってたじゃないか。
<殺し合いでも何でも、全てを楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことと感じていれば、苦痛を味わうこともない。自分の存在に悩むこともない。
それがあいつのせめてもの幸せの為に、俺たちが選択した道だった。それであいつが幸せに消えられるなら。
だが……>
カラミティは一旦、水上滑走を停止した。恐ろしい静寂があたりを包む。
ナオトとカラミティの眼前には、モビルスーツ2機分の高さほどもある巨大なハッチがそそり立っていた。
<貴様が、あいつの全てを変えちまったんだ>はっきりと、カイキの声が静寂に響く。
そうだ。苦痛を感じないはずの身体だったのに、何故大気圏突入の時、マユは痛みを訴えた?
怒るなんて感情を知らなかったはずなのに、何故ナオトの父に怒りを露にした?
何故、メルーに対してマユは嫉妬した?
何故、マユは傷ついた僕を助けようとした?
<ティーダやアマミキョの連中も勿論マユに影響を及ぼしたんだろうが──最大の要因は間違いなく、貴様だった。
貴様さえ早く始末しておけば! あいつは苦しみも痛みも悲しみも何も知ることなく、幸せなまま消えられた!>
だがナオトは痛みの中で、必死で声を張り上げる。カイキの悲哀を打ち破るように。「それは違う! 違いますっ」
<何だと……何が違う!>
「カイキさん。本当に、ごめんなさい」ナオトは声を絞り出す。肺自体が潰れそうだ。肋骨も2本ぐらいは折れてしまったかも知れない。「今の今まで、僕はカイキさんを誤解していました。
カイキさんはマユを戦いに利用しているだけだって、勝手にマユを自分のものにしているだけだって、何も分かっていないマユをコントロールして、何らかの形で利用しようとしているだけだって……そう、思ってました。
でも違った。表面的には当たってたけど、違ったんです」
カラミティは、ナオトを捕らえていない方のマニピュレータをハッチ開閉スイッチに伸ばす。スイッチが反応し、扉が重々しく開いていく。その内部は青い光と水に満ちた、宮殿の中央とでも呼ぶべき場所だった。
「カイキさん。貴方も、マユを心底愛していたんですね」
その言葉がわずかな動揺を誘ったのか──ナオトを掴んでいる指の力が、ほんの少しだけ緩められた。その瞬間に、ナオトは右腕を引っ張り上げる。破れていた肩口から袖が全てちぎれ、血まみれになった右腕がやっとナオトの眼前に現れた。
「広瀬さんから話を聞いた時、正直カイキさんを憎みました。やっぱりカイキさんは、マユを利用しているだけだって……チグサさんの再生しか考えてなくて、マユのことなんて……僕が好きなマユのことなんて、何も考えてないんだって。
でも、僕はそこでも誤解していた。カイキさんは僕と同じくらい、いやそれ以上にマユが好きだったんだ。
当たり前ですよね、あんなに可愛い子なんだから」
<……何が言いたい?>
ナオトは静かに、カラミティの頭部に向けて自らの右手を差し出した。まるで、カイキと握手でもしたいというように──
包帯は半分以上ほどけて傷口が露出し、細い腕は血染めだったが、それでもナオトは差し出さずにはいられなかったのだ。
「だから、一緒にマユを助けましょう。
マユを助けて、チグサさんが目覚めてもマユが生きられる方法を、探すんです。
人の復活が出来るくらいなんです、マユが生きるくらい許されるはずですよ!」
カラミティからの応答はない。ナオトにコクピットが見えていたなら、歯をくいしばり、折れよとばかりにレバーを握り締め、俯いたまま激怒を抑えるカイキに気づいたはずだが、不幸なことにその姿はナオトには見えなかった。
<……ふざけるな>
あまりの重低音な声を、ナオトは一瞬聞き取ることが出来なかった。「え? カイキさん……」
ナオトの右足爪先あたりで、カラミティの小指第二関節接合部の装甲の一部が、不意に取り外された。10センチ四方の金属板となった装甲が、遥か下の水面へ音を立てて落ちていく。整備用のものだろうかとナオトが怪訝に思った、その時──
<ふざけるなっ!>
ナオトの脳の全領域に、激しい火花が散った。いや脳だけではない、身体全体を凄まじい熱と痺れが貫いていく。まるで雷にでも撃たれたかのようにナオトの身体は酷い痙攣を始めた。少年の凄まじい絶叫が坑道に響きわたる。
それに重ねるように、カイキも叫んだ。<ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
俺たちがそのぐらい、何も考えなかったとでも言いたいのか!?>
カイキの、悲鳴にも似た絶叫が、頭の中でスパークを続ける火花に苦しむナオトの耳を貫く。血液が沸騰して逆流し、心臓が焼け、脳がえぐられていく痛みと共に、カイキの痛みがナオトへ流れ込む。
<考えたさ、俺たちだって死ぬほど考えたさ! マユとチグサを両方生かす方法があるのなら、俺は魂ぐらいいくら売っても構わなかった! フレイだってニコルだってラスティだってミゲルだって必死でマユを生かそうとした、だから俺も奴らを信用したんだ!
だが、どうやっても駄目なんだ。2年経てばどうやっても、マユの……あいつの魂は消えちまう。
例えチグサの覚醒が成らずとも、あいつは、あいつの魂はマユ・アスカの身体に定着出来ない! それが、俺たちが散々調べた結果だっ>
火花が止まった。痺れからようやく解放されたナオトは、頭と右腕をぐったりとカラミティの親指にもたれさせてしまう。だが、まだ意識はあった。
整備用ケーブルから直接電圧をかけられたんだ。本当なら一瞬で、全身黒コゲになるところだ。多分最小限の電圧で、カイキさんは僕を黙らせたんだろう──
随分と焦げ臭いと感じてナオトは頭を上げた。髪や服の一部が焼けていた。襟元や紅のリボンタイの先端は、焦げてボロボロだ。右足の膝から下の感覚がない。ケーブルを押しつけられた部分だ。
<何も知らん分際で……今更分かった風な口きくんじゃねぇ。
今度ふざけたことを抜かせば、通常電圧で貴様を殺す>
朦朧とする意識の中、ナオトは力を振り絞って周囲を見渡す。坑道を抜けた後の扉の向こうの光の空間は、まるで巨大なガラスの塔の中心だった。
おそらく直径1キロ以上あろうかという円状の床は、ほぼ全て清浄な水で満たされている。壁は青いガラス張りで、天井が見えない。天井までの高さがどれほどあるのか見当もつかない。100キロと言われても、ナオトは疑わなかっただろう。
レンガが積まれたように、細かく区切りの入ったガラスの壁。そのレンガはところどころに光が灯り、その中で何かが移動している──よく見るとそれは、実験室らしき部屋の中からこちらを観察している、研究員らしき人間たちの姿だった。
そしてひときわ目を引くのは、何と言っても部屋の中央部から天井までを貫く、白く輝く円柱。
それは、壁から水平方向に突出したいくつもの鉄製の支柱で頑丈に支えられ、何ものにも脅かされない風情を保ち、そこにあった。
一見すると、黒く太い枝を何十本も生やした白い大樹のようにも見える。この大樹が、研究所、いや島全体を生み出しているような錯覚さえする。
ナオトは思わず唾を飲んだ。──間違いない。あそこに、マユがいる。まだ生きてる。
「カイキさん、お願いです」ナオトはもう一度、意を決して声を出した。声帯も痺れているのか、さっきほどの大声は出ないが、それでも。
「マユを助けて下さい。助け出して、どうにかしてマユを生かす方法を、もう一度考えましょう!
僕は、僕はマユと一緒に、生きたい! 僕はマユを守るって、そう決めたんだ」
途中からその声は詰まりかける。ナオトの両目からはいつしか、大きな涙の粒が幾つも溢れ出していた。煤と血で汚れた頬を、涙が洗い流していく。
「2年しか生きられないって……2年だけなんて、そんなのってないよ。酷いよ、そんなの……」
<無理に延命しようとすれば、マユの身体組織の崩壊と共に精神も瓦解する。そんな苦しみを味わわせるくらいなら!>
「だからって、マユをここで殺すっていうんですか」
<何故生かしたと恨まれるくらいなら、な>
「違う、そんなの違う!」ナオトは必死で首を振る。「マユが感情を覚えていって、僕はすごく嬉しかった。
苦しみや悲しみや痛みを覚えるってことは、誰かの痛みも分かるってことだ。誰かと心を分かち合うってことだ。
マユが初めて苦痛を覚えた時、マユは言ってたんです……僕と同じ痛みを分け合えて、嬉しいって。
その時の僕はさっぱり意味が分からなかったけど、今ならよく分かる。誰かと感情を共に出来ることが、マユは初めてで、嬉しかったんだ。それが例え痛みであっても!」
カラミティは動かない。静かな水のほとりで、じっとナオトの涙声を聞いている。
「痛みを感じるから、人に優しく出来る。苦しみを感じるから、人の優しさが嬉しいと感じる。
僕のせいでマユが苦しみを覚えたのなら、僕は正直、嬉しいです。
マユが、僕と同じ人間になれたから……」
ナオトはそっと、右の手のひらでカラミティの指の装甲に触れた。「カイキさんだって、本当は嬉しかったはずだ。
マユを好きだったなら、嬉しかったはずですよ」
だが、その言葉はカイキの感情を一気に狂わせる結果となった。<……黙って聞いていれば、きれいごとを!>
カイキの叫びと共に、二度目の電流がナオトの身体を駆け抜ける。眼球が飛び出し、耳が吹き飛ぶかというほどの衝撃がナオトを襲う──が、それでもナオトは気づいた。
電圧が、先ほどと変わらないことに。
<他人とこの先ずっと関われるならそれも結構だろうがな! 2年だぞ! マユには、2年しか時間がなかった!
例え空虚なうわべだけの喜びや嬉しさでも、マユがそこに幸せを感じて苦しまずに逝ければ、俺はそれで良かった……
普通の人間として生きられないのが分かっていて、どうして普通の人間と同じに感情を交えて、苦しみや痛みを感じなきゃいけない!? 
痛みも成長も、あいつにとっては虚しいだけのことだ。人との関わりだって……逝く時に、あいつをもっと苦しめるだけだ!>
カラミティの指にかかる力が一層強くなる。身体の至るところから血と火花が噴き出す。電撃と共に、ナオトの意識は飛びかかっていた。
<それを、貴様が全て壊した! マユの幸せを、俺たちの願いを、貴様はガキの恋心と自己満足で、全てぶち壊しちまったんだ!
何と言われようと、俺は絶対に貴様を許さん、マユの幸せを奪った貴様を!
マユの代わりに苦しんで苦しんで、死ね!>
幸か不幸か、カイキの絶叫の最後のあたりは既にナオトの耳には届いていなかった。ナオトの意識が完全に消失したとほぼ同時に──
ナオトを掴んでいたカラミティの手首関節部が、上空からの光の矢によって突如、切り落とされた。女の声と共に。<感傷に溺れ過ぎるな、カイキ!>
大樹の遥か上から舞い降りてくる紅の機体──ストライク・アフロディーテ。光の矢はそのビームカービンからの最小出力で放たれたものだった。静かな水面に、盛大な飛沫を上げてカラミティの手首が落下していく。ナオトを掴んだまま。
アフロディーテから、カイキを諌めるフレイ・アルスターの声が冷たく響いた。<言ったはずだぞ。ティーダの完全覚醒を促すには、ナオト・シライシが必要だと>
<分かっている……分かっていたんだ、だが!>
感情の昂ぶりを抑えられないカイキの声。そこには狂気が若干混じり始めている。その言葉を聞きながら、フレイはじっと、泡立ち続ける水面を見つめた。<だが、結果的にはどうにかなりそうだ。手段はいささか乱暴に過ぎたが>
その灰色の瞳には、少しの情も無い。<50秒待っても変化が無ければ、救出に向かう。ここであの子供を失うは得策ではない>
カイキは何も答えない。静けさを取り戻しつつある空間に、フレイの声だけが響いた。<本心を衝かれたか? あのような子供に>
<馬鹿を言え。いくらアンタでも許さねぇぞ>必死で冷静さを保とうとするカイキの声が、ひどい低音で水面に流れた。


冷たい水の中を、ナオトの身体はどこまでもどこまでも沈んでいく。カラミティの指と共に。
ナオトが落とされたのは、偶然か必然か、白く輝く大樹のそばだった。水面からでは予測できないほど深い水底へ、ナオトは沈んでいく。力を失ったカラミティの指は水圧に押され、ナオトの拘束は自然に解けていった。
──ナオト。ナオト! 大丈夫?
消えていたナオトの意識に、呼びかける少女。その声で、うっすらと彼は目を覚ました。
──カイキ兄ちゃんてば、ひどいよ……ナオトをこんなにボロボロにするなんて!
今ナオトの身体はほぼ逆さになり、水底へ落ちつつあった。息を止めながら、自分の状態をゆっくり確認してみる。
大樹からの光で、意外に水の中は明るい。感覚のなかった右足は、ズボンの膝下から先がなくなり、スニーカーだけが残っていた。布地はおそらく焼けて吹き飛んだのだろう、白い素足に真っ黒い火傷が出来ている。
ブラウスの右袖も破れて消失し、左の袖もちぎれかけて、ティッシュペーパーのように頼りなく何とかナオトにくっついている。裾も大きくちぎれて、腹が見えていた。ブラウスの大半は真っ赤に染まり、元の桜色がほぼ見えなくなっている。あぁ、ごめんなさい母さん。母さんからもらった服を、僕は台無しにしてしまった。
──お兄ちゃん……何でこんなひどいことするんだろ?
ナオトの目には、何故かマユ・アスカの姿が映し出されている。耳にもマユの声が聞こえている。
これは、夢なのか? 夢でも何でも構わない、マユと少しでも話が出来るなら。僕は、まだマユに話したいことがたくさんある。マユの話だって、たくさん聞きたい。ナオトは白く輝くマユの姿へ、その手を伸ばしていく。
マユ。カイキさんは、優しい人だよ。優しいから、僕をこうせずにはいられなかったんだ。
──どうして? 人を傷つけちゃいけないのに?
マユには、まだ分からないかもな。僕も、ちゃんと説明は出来ないけど。
マユ。僕は君のこと、チグサさんのこと、色々教えてもらったよ。本当にごめん……マユ。
僕は君を、不幸にしちゃったのかな? 僕は、マユの幸せを奪っちゃったのかな?
僕と出会わなければ、君は幸せなまま死ねたのかな?
──分からない。だけど、ナオトと一緒にいて、私、嬉しかったよ。
──お兄ちゃんたちと一緒にいた時は楽しいことばかりだったけど、私、どこか虚しかった。お兄ちゃんはいつも私を見てくれるけど、大事なのは私じゃなくて、私の向こう側にいる人なの。他のみんなも同じ。
マユ、違うよ。カイキさんはちゃんと、君のことも見てた。
──ナオトには分からない? 私は、私だけを見てほしかったの。
マユの声はさらに続く。最後の感情を振り絞るように。
ナオトの胸元からは、白い布袋に包まれたお守りがいつの間にか飛び出して、マユの前で揺れていた。
──でも、ナオトは違った。ずっと私だけを見てくれた。私にいろんなものをくれた。
──その中には私が知っちゃいけないものもあったのかも知れないけど、全部、私が欲しかったもの。
──多分、ナオトは私に、心をくれたんだと思う。それは、幸せかどうかは関係なく、ヒトがヒトである為に必要なもの。カイキ兄ちゃんは私に身体をくれたけど、心はくれなかった。
マユ、それもちょっと違うと思う。君に心をあげたのは僕だけじゃない。
サイさんやカイキさん、アマミキョの人たち、メルーやハーフムーンの人たち、色んな人たちがみんなでマユに心をあげたんだ。
──そうかも知れないね。でも、ナオトがいなきゃ、私はそれも分からなかった。だから……
ナオトの眼前で、マユは大きく両腕を広げた。全てを包み込む聖女のように。
──私の力を、全部あげる。ナオトに私を、全部あげるよ。
──私、ナオトと一緒に生きたい。まだ、生きていたい。苦しくてもいい、痛くてもいい。
「まだ、生きていたい!」
それは幻でも何でもなく、はっきりとした、肉声だった。
ナオトがそんなマユの叫びを聞いた瞬間──ナオトの目の前で、大樹が不意に輝きを強めた。
眼が眩むかというほどの光だったが、それはほんの一瞬。
ナオトがゆっくり目を開くと、大樹の幹にあたる部分が氷のようにうっすらと透けていた。
どうして。何故これがここにある? いや、ここに在るべくして在ったのか。
透明になった幹の中には、実に見慣れた真っ白いモビルスーツが眠っていた。大樹の光はこの機体が発しているかと思うほど、ナオトにとってその光は眩かった。たとえ、慣れた機体であっても。
──ガンダム・ティーダ。
自分をここまで追い込んだ運命のモビルスーツの名を、ナオトは心で呟く。水中でなければ、呪詛のような呟きとなっていたかも知れないが。
今、マユの意思ははっきり分かった。なら僕は、それに応えるまでだ。
ナオトは逆さの状態から体勢を立て直し、ティーダを真っ直ぐに見つめる。憧れのストライク、フリーダムと同じ顔を持つ、宿命のモビルスーツ。もう息が限界まで来ていたが、それでもナオトは念じた。
ティーダ。お前に意思があるのなら。僕とマユの命を吸う機体だというのなら。
僕はどうなってもいい、手足ぐらい飛んだって構わない。
どんなに血を流しても、魂ごと焼かれても構わない。
ただ、マユを助けたい。助けたいんだ。だから……
僕の呼びかけに、答えろ!!


ティーダのカメラアイに、再びエメラルドの光が灯った。
激しい純白の輝きと共に。


「来たか!」
静けさを取り戻しつつあった水面が、突如爆発した。フレイの笑みと同時に。
水面が一息に盛り上がり、激しい水飛沫と共に光の柱が空気を裂く。大樹の光と酷似したその光柱は、水の宮殿の中心で、十字架のような輪郭を形づくっていく。
その正体は、空中に浮上したガンダム・ティーダ。
両側のマニピュレータを曲げ、何かをおし抱くように胸部へ抱え込んでいる。背中のバーニアから噴出する光はあまりにも白く熱く燃えさかり、翼のようにさえ見えた。その姿勢とバーニアの光が、機体全体を十字架のように見せている。
<あのガキ……生きてやがったか!>いきりたち攻撃を加えようとするカラミティを、アフロディーテが制する。神聖な儀式の邪魔は許されない、とでも言いたげに。


ティーダの手のひらで、ナオトは激しく息と水を吐きながら、何とか身を起こしかけていた。眼下にはアフロディーテとカラミティが見える。
すぐ背後にコクピットハッチがあるのは分かっていた。自分が今、何をすべきなのかも。
カラミティの指と違い、ティーダのマニピュレータは雛でも抱くように優しくナオトを支えていた。その指を頼りに、ナオトは傷をおして立ち上がる。バーニアから巻き起こる熱風で、髪や破れた服が激しく煽られている。
その姿は傍目から見れば、敗走に敗走を続ける部隊の中から、血まみれの剣とボロボロの旗を抱え、雄雄しく立ち上がる勇士のようにも見えた。
聞こえるかどうか分からないが、言ってやる。叫んでやる。あんたたちには、言いたいことが山ほどあるんだ──
「フレイさん! そこにいるなら、聞いて下さい。カイキさんも……!
僕は今はっきりと、マユの意思を確認しました。『生きていたい』──これが、マユの言葉です。『まだ、生きていたい』」
一言一句明確に、ナオトは叫ぶ。今こそ大声の力を発揮する時だ。
「こうして動いたティーダが、何よりの証拠です。ティーダは僕とマユの二人でなければ動かせないでしょ。僕だけじゃ、動かせない──マユの意思で今、ティーダは動いてます。
マユは、生きたいんです。痛みを感じても、生きたいんですよ! だから、お願いだから、マユを助けて下さい!」
折れているであろう肋骨の痛みが身体中を貫く。出血は未だに止まっていない。それでもナオトは、血を吐く勢いで叫び続けた。
「それでもマユを消すというなら──僕は、貴方たちと戦います!
僕は何があっても、マユを助けます!」
その叫びが終わるや否や、アフロディーテが両の腰からビームサーベルを抜き放った。勿論要塞内での戦闘を意識して、出力は最小限度である。
<いいだろう、ナオト・シライシ! 貴様がそこまで成長するとは思わなかったぞ……
その強靭な意思こそが、私の糧となる!>
フレイの言葉が終わると同時に、カラミティがティーダの至近距離へ砲火を放った。まるで、それが戦闘開始の合図とでも言うように。<マユが生きたいと思うのは当たり前だ、貴様がそうさせちまったんだ!
貴様がマユを、人間にしちまったから!>
<早く乗れ、シライシ。たった一人で、その傷で、その意思でどこまで私たちに抗えるか、見せてもらおう!>
フレイはもとより、カイキにもマユを助ける意志はない──その現実に絶望している余裕はなかった。
最早、あの二人とは戦う以外に道はない。ナオトは身を翻し、コクピットハッチを手動で開く。
「ナオト、オカエリ。ナオト、オカエリ!」中では、随分懐かしい気がする黒ハロが飛び跳ねて、ナオトを出迎えた。二人乗りのコクピットだが、今はたった一人。後席が寂しく感じるが、そんなことは言っていられない。
「ただいま、ハロ」ナオトは笑顔を作り、ハロを撫でた。黒い球体の表面に、わずかにナオトの血がついた。「……頼むぞ」
「ガンバレ、ナオト。ガンバレ。システム、オールグリーン」ハロの音声と共にコクピットハッチが閉ざされた。OSは既に起動しており、モニターもすぐに鮮明になる。ベルトを締めると、ナオトはすぐに眼前の2機を捉えた。
「マユを探す!」だがナオトは2機と戦うよりも先に、マユの救助を優先した。反射的に、大樹の遥か上を睨みつける。間違いない、この光の柱の中にマユはいる。
水の中にティーダは隠されていたが、おそらく逆にマユはかなりの上空にいる。直感でナオトは分かっていた。どのような形で捕らえられているのかは想像したくもないが──
ともかくバーニアを最大出力で噴かし、ティーダは大樹の枝、黒く突き出した支柱まで飛び上がる。すかさず、カラミティのシュラークの火線が追いかけてきた。すんでのところでティーダはそれを回避したが、それだけで予想以上の衝撃がナオトを襲っていた。
ベルトで締めつけられた右胸から、枝分かれした糸のように噴き出す血液。多分、そう長いことは戦っていられない。
真横に生えた支柱が盾になり、カラミティもそうそう派手な攻撃はしてこないと思っていたが、太さがゆうにモビルスーツ5機分ほどもある支柱は、砲撃の2発や3発ではびくともしなかった。ティーダの右を左を、カラミティの閃光が駆け抜けて暴発する。
ナオトは咄嗟に左腕の有線ロケットアンカー・グレイプニールを射出すると、すぐ上の支柱に食い込ませた。食い込ませた三又巨大爪が元に戻るその力を利用して、機体を一気に上に引っ張り上げる。
幸い、巨大爪が支柱の上で跳ね返るということはなかったので、これで少しずつ上に行けそうだ。ナオトが一瞬安堵し、一段上の支柱に着地したその瞬間──目の前に紅の風・アフロディーテが現れた。
<やはり遅いな。マユ抜きではこんなものか!>
「フレイさんっ……僕は、貴方を信じたかったのに!」
右腕の攻盾システム「トリケロス」の先端からビームサーベルを発振させ、ティーダは真正面から応戦する。呼応するように、アフロディーテもビームサーベルで対抗してくる。
フレイにしては、あまりにも正直過ぎる攻め。馬鹿にしてるのか。「どうあっても、マユを消すつもりですかっ」再び上空に向けてグレイプニールを射出し、飛び上がるティーダ。それを追うようにして、アフロディーテも飛ぶ。
<子供の我がままに付き合っている余裕はないのでな>
「何なんです……何なんです、貴方は! サイさんを裏切って、マユを殺して、しまいにはアマミキョも潰すつもりですか!?
貴方は、サイさんが好きだったんじゃないのかよ!」大樹の枝の間で、ビームサーベルの光が乱舞した。
<最終的には、私は皆の幸せを願っている。大局を見ろ!>
「セレブレイトウェイヴとやらがそうだっていうのかよ! マユを消すことが、大局を見るってことなのかよ!
そんなこと言う大人に、ろくな奴はいないんだっ」
ナオトの言葉こそ攻撃的ではあったが、ティーダは意外に巧くアフロディーテの攻撃をかわし、紅の刃から逃れながらグレイプニールを操り、少しずつ上空へと飛び跳ねていた。
<サイに恨まれることなど、元より承知の上だ。それでも責任は果たさねばならぬ!>上段の支柱へ逃げるティーダを、執拗に追いかけるアフロディーテ。既に2機は水面から100mほど上空まで来ていたが、それでも塔の最上階は見えなかった。延々と高くそびえる青い壁。
まさか、塔の一番上にマユが眠っているなんてオチじゃないだろうな。ゲームじゃあるまいし──
あまりの高さに疲労を感じ、一瞬思考を止めてしまうナオト。その隙を見逃すフレイではなかった。ビームサーベルが、ティーダの左腕関節部を一閃する。
「しまっ……!」あまりにも呆気なく切られてしまった左腕。ティーダの左腕が切られたということは、支柱を登るのに利用していたグレイプニールごと切られた、つまり巨大爪を使って上空へ行くことが不可能になったということだ。切られた巨大爪は力を失い、下段の支柱に幾度も轟音を立てて衝突しながら落下していく。ジャングルジムから落下していく玩具のように。
<もう少し、楽しませてくれると思ったがな……>ナオトの眼前にアフロディーテが迫る。すぐにビームで始末しないのは、やはり馬鹿にされているのか。それとも、すぐに殺してはデメリットがあるからか。
最早ナオトにとって、フレイ・アルスターという存在は、カイキよりよほど理解不能な化物だった。
フレイさんは、サイさんが好きじゃなかったのか。婚約を復活させたんじゃなかったのか。「フレイさん、僕には分かりません……サイさんを裏切ってまで、どうしてこんなこと!」
<くどいぞ。私は今なおサイを愛している……奴は、私が初めて出会った奇跡なのだから>
その言葉に嘘偽りがあるのかどうか、ナオトには到底判断がつかない。「ひょっとして、セレブレイトウェイヴを発動させることが、サイさんの幸せになるって言いたいんですか」
<今は、そう取ってもらっても構わんな>
他人事のように呟くフレイに、ナオトの感情が爆発した。「そんな勝手な! 幸せの定義を、勝手に決めるな!」
<やはり答えを急ぐ子供には、何を言っても伝わらんか!>
怒声と共に、アフロディーテは右の拳を、がら空きとなったティーダの胸部へ叩きつけた。元々重量バランスが悪く、左腕を失ったことでさらにバランス維持が難しくなっていたティーダはそれだけで体勢を崩し、機体はあっという間に支柱から落下を始める──コクピット内に響くアラートと、ナオトの悲鳴。さらに、彼がバーニアのスイッチに手をかけるより早く、下方からカラミティのシュラークがティーダを狙っていた。
今度こそ撃たれる! 落下運動の加速度に耐え続けるナオトが、思わず目を瞑った時だった。
<子供じゃなけりゃ、質問に答えてくれるのかい? お嬢さん!>
どこかの外壁で爆発音がした0.5秒後、コクピットに声が飛び込んできた。機体を揺さぶる衝撃と共に、不意に落下速度が減少を始める。
モニターを確認して、ナオトは思わず嬉しさを隠せず叫んだ。「広瀬さん!」
空中から飛来した広瀬のウィンダムが、落下しつつあったティーダを支え、カラミティの射線上から引き剥がしていた。すぐそばを通過していく閃光。
ナオトがほっとする間も与えず、広瀬は叫ぶ。<喜ぶのはまだ早い、バーニアは生きてるか?>
「だ、大丈夫です!」咄嗟にナオトはバーニアを噴かし、ウィンダムと連れ立つようにして水面直上の支柱へと降り立った。
両機は一旦背中合わせになり、通信でお互いの状況を確認する。それが繋がった途端、スピーカからは広瀬の荒い息が飛び込んできた。サブモニターで相手のコクピットを見て──
ナオトは息を飲んだ。背広の3分の2以上が血まみれじゃないか、あの人は!
最悪の兆候を示す目の下の濃い隈まではっきり見える。厚い唇はほぼ真っ白になり、血が流れていた。だが、息を飲んだのは向こうも同じらしい。
「広瀬さん、ホントに大丈夫なんですか? すぐに手当てしないと……」
<アホ……お前、自分を棚に上げて何言ってやがる。そのシャツって、真っ赤だったか?>
それでも広瀬は、皮肉っぽい笑みを崩すことはなかった。<どうやらお互い、あんまり無事とは言いがたいようだ。あの女と違って……>
言いながら広瀬は、上空で悠々と待機しているアフロディーテを睨みつけた。<幸い、あの女もカラミティも、ティーダのコクピットを狙う気はないようだ。それをやっちまったらおそらく、奴らの目的そのものにも響くからな>
「だけど、マユを助けるにはどうしたら……マユは多分、あの光の柱の中にいるんです。僕たちを待ってる!」
<俺がフレイを引きつける。カラミティの砲撃さえ気をつけりゃ、ティーダはもっと楽に上まで行けるはずだ。
但し、これだけは覚えとけ。黙示録は最終手段だ>
「どうして!?」今、アフロディーテとカラミティに対抗出来るティーダの武器と言えば、黙示録しかない。自分に残された唯一の勝利の道は黙示録起動だけだと、ナオトは思っていた。
<アレをここで使っちまったら、研究塔のバイタルラインであるこの場所にどんな影響があるか分からん。この柱はセレブレイトウェイヴ発振装置の試作バージョンみたいなもんだ、だからティーダもこの下にあったんだろ? 恐らく、起動キーとして。
黙示録が発動したら、同時に柱が暴走を引き起こす可能性がある。むしろ、奴らの狙いはそれかも知れない……てか、俺の本来の目的もそれだがな。今それをやっちまったら、マユもお前も助からんだろ>
「冗談やめてくださいよ! じゃあ、どうしたら……」
<最初にお前がやろうとしていた通りだ。ある程度上空まで行ったら、力技で柱を叩き壊してマユを助けるしかなかろうな。黙示録はその後だ。その為にも、右腕だけは絶対落とされるなよ>
ナオトが唇を舐めつつ、ティーダの右腕──今や唯一の武器とも言える攻盾システム「トリケロス」を眺めた、その時。
<相談は終わったか?>フレイの声が突如割り込む。待ってましたとばかりにビームサーベルで2機に飛びかかるアフロディーテがモニターに映し出された。激しいアラートと共に。
ティーダとウィンダムは同時に別々の方向へ跳ねて、その攻撃をかわす。ジェットストライカーで思うままに飛翔するウィンダムは、そのまま空中でアフロディーテと光の剣を交えた。火花が炸裂する。<俺だったら、色々話してくれるかな? フレイ・アルスター!>
<ここまで追ってくるとはな……どうやら山神隊の力、甘く見ていたようだ!>
<アマミキョの守りは山神隊がやってんだ! あんたがアマミキョを潰す気なら、見逃すわけにはいかねぇな>
<その決定を下すのは私ではない。私はあくまで要請通りに動くだけだ>
ナオトを相手にした時と違い、フレイの声から若干余裕が失われていた。広瀬はさらに畳みかける。<タロミ・チャチャの要請ってか? つまりあんたは奴のお人形に過ぎんわけだな……
あと5年もすりゃ、いい女になると思ってたが!>
<民を守る為だ>
<その民の中に、アマミキョやシライシやマユは入ってないってのか!>剣戟の隙を利用して、ウィンダムは対装甲貫入弾・スティレットを腰から投げつける。サーベルでそれを一閃するアフロディーテ。塔を揺るがす大爆発が起こり、両機はナオトの視界から一瞬消えてしまった。
「広瀬さん!」叫びながら飛ぼうとするナオト。だがアラートが響きわたる──ほんの10数メートルまで近づかれていたカラミティに、完全にロックオンされていたのだ。カラミティの胸部が白熱の光に満ちていく──スキュラだ。
舌打ちと共に、ナオトは機体を跳ねるように真横へ移動させた。今までいた場所が、真っ白な火球に変貌する。「カイキさん……手加減をしていない?」
ナオトはひどくなっていく呼吸と共に呟く。ティーダコクピットは狙われないという読みは間違っていたのか?
いや、違う。本来の作戦上、ティーダのコクピットが狙われないのは間違いない。だからこそティーダを温存していたのだろうし、危険を冒してナオトをここまでわざわざ連れても来たのだ。フレイの言動から考えて、ナオトがティーダに乗り込むところまで、彼女の想定範囲内だったのだろう。悔しいが、それは認めざるを得ない。
だとしたら、カイキがナオトの命を乱暴に消しにかかるのは──そうそう考えずとも分かる。カイキさんは、作戦なんかどうでもいいほど僕が憎くてたまらないんだ。
最大出力のバーニアで跳躍したカラミティは、そのまま支柱の上のティーダに喰らいつく。一瞬揉みあった両機は支柱から落下し、そのまま下の水面へ飛び込んだ。幸か不幸か先ほどナオトが落ちた場所よりそこはずっと浅く、水底で跳ね返って2機はすぐに浮上した──が、カラミティの暴走は止まらない。
<フレイが言っても、俺は貴様を許せない。貴様の存在を許さない!>
喰いついたティーダに向かって、カラミティはビームブーメラン・マイダスメッサーの刃を振り上げる。その光の切っ先は真っ直ぐティーダコクピットに、ナオトに向けられていた。
駄目だ、今度こそ殺される。ナオトが目を瞑りかかった、その瞬間。
「やめてぇえ! ナオトを離して!!」
塔全体に、思わぬ人物の絶叫が響いた。壁に取り付けられたスピーカから鳴り響き反響する声に、その場の全員が動きを止めてしまう。
まさか。ナオトは反射的に、機体中のカメラというカメラを駆使して音の発生源を探った。先ほどまで研究員たちが何人かたむろしていたはずの、ガラスの壁の向こう──予期せぬ戦闘が始まって、研究員はとっとと避難したと思っていた。だが、一人だけ残っていたのだ。というよりも、一人だけここへ来たというべきか。
丁度ティーダの真正面、カラミティの背中にあたる壁のガラス窓──そこに、一人だけ金髪の女性が残っていた。
「母さん……!」絶望なのか安堵なのか、自分でも判断がつかない溜息が、ナオトの肺から漏れた。

 

つづく
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