「ロード・ジブリールを保護してるって? オーブが?」
それは、ナオト・シライシがフレイ・アルスターらとシネリキョにて激闘を開始する10時間ほど前の、アマミキョでの出来事だった。
「あくまで噂にすぎませんが、ザフトは確たる証拠を掴んだようです。それを元に、オーブに攻め込むらしいと……」
ヒスイからもたらされた情報に、サイは思案にくれる。「ウナト宰相が、そんな愚かなことを……オーブからの支援が止まったのも、そのせいか」
ブリッジに沈黙が落ちる。今、ブリッジクルーは1日1回の定例ミーティング中だった。
アマミキョの支援物資も無限ではない。2週間に1度の割合で定期的にオーブからの支給を受けなければ、いずれ食糧も医薬品もライフラインも尽きてしまう。現状の備蓄では、今いる避難民が1ヶ月もつか否かといったところだ。そして避難民は減るどころか、1日ごとに増えつつある。
「それに」ヒスイを押しのけてオサキが口を出す。「ザフトがここにも攻めてくるって噂、キャンプで持ちきりだぜ」
それを受けて、ヒスイも声を落とした。「みんな不安がっています。クルーも含めて……今、ここには山神隊しかいないし」
オーブ侵攻の余波をチュウザンが被るというのか。サイは静かな怒りにかられたが、現実的に考えられない話ではない。アムルの件もある。
今、南チュウザンは「神の復活宣言」により、ザフトから危険視されている。デュランダル議長がこれを見逃し、オーブのみを狙うとは考えにくい。しかも北チュウザンは今も政情不安定だ。混乱に乗じ、南チュウザン制圧の足がかりとする為、ここ北チュウザンまでザフトが侵攻してくることは十分に考えられた。
「アストレイのビームサーベルだったら、いつでも1個小隊行ける用意はあるぜ」扉付近に突っ立って、しぶしぶミーティングに参加していたハマーが口を出す。「どんなナチュラルでも大丈夫なようにしてあるからよ」
ハマーの毒舌と皮肉にはもう慣れたサイだった。これでも以前に比べれば大分優しくなったと感じる──「アマミキョのモビルスーツはあくまで作業用ですよ。それに今後を考えると、機動力の強化をした方が良いでしょう。スラスターの総点検をお願いします」
返事の代わりに、ハマーは面倒そうに片手を上げる。その時、珍しく外回りではなくブリッジに引き上げていたトニー隊長が口を挟んだ。「当面の問題は、避難経路の確保と食糧だな。外を周ってみると気づくが、現在の経路では雨が降った場合、ぬかるんで女子供が通りにくくなる可能性がある」
「では、まずは避難経路の整備。無理なようなら既存経路の変更ですね。ミストラルをもう3機ほど、山神隊から借りられるよう、かけあってみます」
サイの言葉にトニーは反論した。「3機では足りん。5機だ」
「無理です。山神隊の戦力も考えると3機が限界です」
「なら4機だ。それ以上は譲れん」
現場をよく知るトニーだからこその注文だったが、サイもそのまま呑むわけにはいかない。こういった交渉事が、ここのところ連日だ。「では4機で話をしますが、伊能大佐に殴られたら責任は取って下さいよ」
「殴られるのは最早君の専売特許だろう! 眼鏡代ぐらいは何とかしてやるよ、ワハハ」
何がワハハだろうか。サイは心中嘆息しつつ、食糧備蓄リストに視線を落とす。「それから、提携中の市内工場に、非常用食糧の増産を頼めますか?」
クルーの中から溜息が上がる。「もうどこも一杯一杯だって……」
「万一ザフトが来たら、避難民は現在の比じゃなくなる。無理そうなら、自分が直接掛け合います」
「十八番の土下座でもするか?」「場合によっては」ハマーの嫌味にも、サイは真顔で答えた。
南チュウザンもいつ、どう動くか分からない。最悪の場合、ザフトのオーブ侵攻に乗じて、弱りきった北チュウザンを奪いにかかる──などというシナリオも考えられる。
ヤエセの街が、アマミキョのいる場所が、ザフトと南チュウザンと連合、三つ巴の激戦地となることだってありうる。
──いずれも、仮定の話だ。だが確率は低くはない。その為にサイは、自分がやれるだけの対策はするつもりだった。
「なぁ、アークエンジェルに応援は頼めねーのかなぁ?」オサキが操舵士の椅子に凭れながら、面倒そうな口調で言う。それもサイは無下に否定した。「無理だ。オーブの件で手一杯だろう……フリーダムだって、修復もされていないようだし。第一、ここ1週間音信不通だ」
「しょーがねぇか。フリーダムがいなきゃ、アークエンジェルもただの的だしな」
サイはふと、メインモニターに映るヤエセの空を眺めた。どんよりと雲が低く赤くたれこめて、今にも雷とスコールがいっぺんに来る寸前という気配だ。
トニーが声を張り上げる。「じゃあ、そろそろ皆持ち場へ戻れ。今ごろ外はてんやわんやだ、また台風が来るって話だぞ」
クルーが三々五々散っていく。もういちいちトニーやサイの指示に反抗することもなく、クルーたちはてきぱきと動くようになっていた。サイも一旦、ヒスイとオサキに後を任せてブリッジを離れた。
食糧もそうだが、薬の備蓄もそれ以上に逼迫している。もう一度医療ブロックでスズミ女医の話を聞き、必要とあらば供給ルートを確保しなければ。オーブからの支援が期待出来なくなった以上、チュウザン国内の工場や農場からの供給に頼るしかないが、それも現状ではさっきのクルーの言葉通り、限界に近い。ロゴスの騒動以来、ムジカ社長との連絡も不通のままだ。
サイは考える。どこぞの救世主でもあるまいし、1個のパンを100人で分けるなどという芸当は不可能だ。だとすれば、いかに無駄なく効率的に食糧・薬・水や電気などのライフラインを供給するかが今後の鍵となる。どこがが余ってどこかが足りないということが発生してはならない。量産体制に入っているが運べない、などは言語道断だ。もう一度、輸送ルートと供給ルートを見直し、稼動可能な工場がまだないか、調べてみる必要がありそうだ。
テロの被害で焼け落ちたが、細々とでも稼動を再開している工場はいくつかあった。やってみる価値はある──
そこまで考えて、サイは立ち止まる。いつの間にか彼は、カズイの部屋(本来はサイとカズイとナオトの部屋)の前まで来ていた。
少し躊躇したが、サイは思い切って扉の外から声をかけた。「カズイ。ちゃんと食事とってるのか? スズミ先生も心配してた。本気で調子悪いようなら、診てもらえよ。
何度も言うようだけど、こもりっぱなしは身体に悪いぞ」
相変わらず、カズイの返事はない。副隊長権限で引きこもりを許しているのも限界がある。それに加え、今はアマミキョの一大事だ。カズイがいてくれなければ困る局面だってある──
もっとも、アマミキョはいつでも一大事を抱えている気はするが。
帰ったら、もう一度声をかけよう。そう思い、サイは扉の前から去った。今は、他に優先すべきことが山ほどある。


「じゃあな。また来るから」
サイの声が去っていくのを確認し、カズイは暗い部屋の中でほっと溜息をついた。後ろめたさと安堵が混じった吐息が、部屋にこだまする。
机上のライトとパソコンの画面だけが点灯している部屋。カズイは部屋の入り口から見て左側の、二段ベッドを眺める。上段はかつて、ナオトとカズイで交互に使っていた場所だ。今は誰もいない。カズイもたまにしか使わない。反対側にある普通のベッドの方が、カズイにとっては心地良かったのだ。
下段はサイの場所だったが、当然のことながら今は誰にも使われていない──はずだった。
だが今そこはタオルケットが不自然に盛り上がり、息苦しげな呼吸が中から聞こえている。
「もう大丈夫ですよ」
カズイが声をかけると、タオルケットの中から金色の頭がひょいと飛び出した。「良かった……ありがとう、カズイ君」
カズイはにこりともせず、ベッドを振り返る。「何があっても開けませんから、大丈夫です。ベッドの下段は、監視システムの死角にもなるようだし。
ずっと照明を落としていれば、何とかなりますよ」
ベッドには、長く美しい金髪をぼさぼさにしたまま、けだるげに頭を上げる女性がいた──カズイの憧れ、アムル・ホウナが。
「ありがとう、カズイ君」彼女ははちきれそうな笑顔をカズイに向け、もう一度感謝の言葉を吐いた。「かばってくれるなんて思わなかった。私、貴方にあんなに酷いことしたのに」
カズイは嬉しさを胸いっぱいに感じながらも、思わず真っ赤になりどもってしまう。「だって、当たり前ですよ。ザフトに追われてるなんて話聞いたら、普通こうします。
貴方を追い出そうとした、サイの方がおかしいんだ」最後はアムルの顔をまともに見ていられない。アムルはこの船を出た時の服装のままだったが、ブラウスの胸元が若干はだけている。それがさらにカズイの心を刺激した。
「信じてくれて、ありがとう。生きた心地がしなかったの」アムルはそっと、タオルケットに顔を埋める。ちょっと悪戯っぽくカズイを見上げるその視線は、少女そのものだった。
あんなに酷い別れ方をしたのに、今ここにアムルがいるだけでもカズイにとっては奇跡だった。なのに、こんなにたくさん「ありがとう」なんて、嬉しい言葉をかけてくれるなんて。
「本当に、ありがとう」──私の願いを叶えるお手伝いをしてくれて。
その「ありがとう」に隠された真の意味に、この時のカズイが気づくはずもなかった。


 


PHASE-30 祝福の鐘の中で





<カイキさん、やめて下さい! ナオトを離して!
ナオトもおとなしく下がって頂戴、お願い!>
ナオトの母・マスミの悲痛な声が塔に響く。と同時に、水をかき分けるようにして真っ黒なダガーLが3機、わらわらと群れて壁の下から出現した。
畜生、何とか少しだけ劣勢から持ち直したと思ったら。広瀬は舌打ちを禁じえない。
アフロディーテとの戦闘から一足先に離脱した広瀬のウィンダムが、ティーダに馬乗りになっているカラミティを、機体の勢いのみで猛然と突き飛ばした。「シライシ! その女に構うな、今やることを考えろっ」
広瀬の怒声がティーダコクピットに轟く。だがナオトは母の一言だけで、雷に撃たれたように動けなくなっていた。
<母さん……どうして、そこにいるの?
何でそこにいるんだ、何で僕を止めるんだ!>
「馬鹿野郎落ち着け、その女はもう母親じゃない!」血を吐くような──いや、実際血を吐きながらの広瀬の叫び。だがナオトの混乱は止まるどころか加速するばかりだ。
<違います! どうあっても、母さんは僕の母さんなんです!
誰が何と言おうと、母さんなんだ。僕を抱きしめてくれた母さんなんだ!>
「貴様、今更何言ってやがっ……!」言い終わらないうちに、ダガーLのビームカービンがウィンダムを襲う。その間に、フレイのアフロディーテは支柱の上に着地し、機体の足首の爪先を使って支柱の一部分をこじ開けていた──そのまま左脚部を足首関節部まで支柱の中に沈みこませる。それはまるで、ヘアードライヤーのコンセントを差し込むように手慣れた動作だった。
広瀬にはその動作が何であるか、すぐに分かった。「あの女……あの機体で一向に電池切れしないから、おかしいと思ったぜ。この塔自体が、電力供給装置ってことかよ」
ダガーLの閃光をシールドで防ぎながら、ウィンダムも次第に防戦一方となっていく。「シライシ! マユを助けたいんじゃないのか、だからティーダも起動したんだろ?
お前の望みに、ティーダは答えたんだろ? だったら、ちゃんと答え返してやれっ」
<分かってます……でも、でも、母さんは、母さんは!>
またしても、駄々をこねるだけの子供に戻ってしまったか。だが広瀬はこの時気づいた──ナオト・シライシは、単純にそこに母がいるから、巻き込んでしまうのが怖くて戦闘が出来ないのではない。
母の言葉によって、マスミの一言だけで、完全に動きを止められてしまったのだ。母の存在を熱望してやまないナオトのような子供にとって、母の言葉はそれがどんなものであれ、絶対的呪縛となる。
母の愛情を求めながら、その愛情を正しい形で受け取ることが出来なかった子供。
愛情を与えながら、その愛情表現が著しく間違っていた母。
よくある母子のすれ違いだが、それがよりにもよってこんな所で露出するとは!
<ナオト、お願い、今は下がって!> その声は、少年の純なる決意すらもおしとどめる力があった。
<僕は……僕は、マユを助けるんだ、助けなきゃ> ナオトは必死で自らに言い聞かせるように呟くが、どうしても機体が動かない。身体が動かない。
もう無理だ。少なくともマスミ・シライシがこの場にいる限り、ナオトは動けない。母の呪いを受けたまま、立ち上がれない。広瀬は窓に貼り付くように動かないマスミに怒鳴る。
「マスミ・シライシ! もう黙れ、貴様の声は子供を危険に晒すだけだ!」広瀬の声は虚しく反響するばかりだ。モビルスーツからの音声は、ガラス窓の向こうの研究室には届いていない。「身勝手すぎるぞ! 息子を戦わせようとしていた分際で、今更戦うななどと!」
その間、突き飛ばされ吹っ飛んでいたカラミティも体勢を立て直す。カイキには、マスミの嘆願など勿論聞こえてはいない。音声として認識していても、言葉として聞いていなかった。
カラミティは全くの容赦なく、ティーダとウィンダムに向けて580mm複列位相エネルギー砲スキュラを撃ちはなった。輝く水面の上で一瞬、白熱した火球が暴発した。大樹の下で巻き起こる光の嵐。その場の全員、あまりの光に一瞬目が眩んだ。
このスキュラは勿論ティーダを狙ったものだったのだが、間一髪のところでウィンダムはティーダを無理矢理背中から抱きかかえるようにして持ち上げて飛翔し、閃光から離脱させていた。
「何だ? どうしたんだ、カイキ・マナベは?」
光が少し治まったところで見回すと、ダガーLが1機、両脚部をもがれて水面に浮いていた。広瀬はそこで初めて、カラミティのパイロットの異常を確信した。
ティーダを殺しに来たばかりか、味方まで撃ちやがった。
あのファントム・ペインを見れば分かる通り、強化されて戦わされる子供は薬や精神操作などで調整しなければ、心や身体のバランスを崩す。カイキ・マナベは強化された子供の中でも比較的安定していると思っていたが、まさかこんな局面で、精神崩壊が発生したのか?
カラミティのスピーカは開かれたままだが、明らかに呻き声らしきものが漏れ出ていた。マユとチグサの名を、交互に連呼していた。
「いや、こんな局面だから……か」広瀬は自らの傷を押さえつけながら、それでも哀れまずにはいられなかった。カイキ・マナベの境遇を。


俺は、俺がチグサを取り戻すんだ。
違う、俺がマユを守るんだ。チグサの為に。いや、マユの為だ。違う、チグサの為だ。
俺のほかに、誰がチグサを助けられるんだ。マユの幸せを守るのはマユの為じゃない、チグサの為だ。
チグサは俺の全てなのだから。俺だけが、チグサの感触を覚えていられる唯一の人間なのだから。俺だけが、チグサを愛せる男なのだから。
だからマユ、お前は生きていてはいけないんだ。成長なんかしちゃいけない。幸せだけを感じながら、そのまま消えていければいい。マユ、お前は笑っていられればそれでいいんだ。幸せな笑顔で消えていければ。
痛みなんか感じるな。俺の前で苦しまないでくれ。俺の前で泣かないでくれ。「生きていたい」なんて、そんな残酷なことを言わないでくれ。
チグサを守る為にお前を殺そうとする俺は、間違っているのか? 他には何も方法なんてないんだ、選択肢なんてどこにもなかったんだ。
──本当に? 本当に、何も出来なかったの、お兄ちゃん?
──私、生きていたいんだよ。本当に、どうしても、駄目なの?
マユ……頼む。お前は元から、幸せには生きられない娘なんだ。この世界に生まれてはいけなかったんだ。俺を責めるならいくらでも責めて構わない。死ぬまで責め続けてくれて構わない。俺はお前がいなくなっても、本当に本当に他に選択肢はなかったかと死ぬまで悩み続けるだろう。それが、お前の魂を産み落としてしまった、俺の責任だ。
ただ、俺はお前に、少しでも幸せに逝って欲しかっただけなんだ。それだけは分かってくれ。
──マユを助けて、チグサさんが目覚めてもマユが生きられる方法を、探すんです。
──カイキさんだって、本当は嬉しかったはずだ。マユを好きだったなら、嬉しかったはずですよ!


<ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
マユが感情を覚えて、俺が嬉しいわけがないだろうが……!>
カラミティはさらにティーダに向けて、両肩の大火力エネルギー砲・シュラークを撃ち放つ。
射線上にアフロディーテがいようがもう関係ない。ただティーダのいる方向へ向けて、どんなにかわされても狂気のように閃光を放ち続ける。痛烈な叫びと共に。
「どうするよ、フレイ・アルスター!
お互い、相方で苦労するようだな」ティーダを抱えて飛びつつ火線を避けながら、広瀬はフレイに悪態をつく。フレイからの応答は何もなかったが、必死でスキュラをシュラークをかわす挙動から、彼女にとってもこの事態は予想外だったことが広瀬には分かった。
広瀬はふと、ティーダに呼びかける。「シライシ。お前、カイキ・マナベに何か言ったんじゃないだろうな? 奴を刺激するような……」
冗談まじりで言った広瀬だったが、返ってきたのは意外な答えだった。<言ったかも知れません……マユのことで。
チグサさんだけじゃなく、マユを愛してたんじゃないかって。確信したんです>
「やっぱり、か」広瀬は嘆息する。カイキがひた隠しにしていた最も脆い部分を、この子供は一番痛い形で突き刺してしまったのだ。「ここで言ったのはマズかったな。おそらく奴の精神は、今のマユ・アスカの状況だけで擦り切れる寸前だったはずだ」
<だったはず……って?>
「見りゃ分かるだろ。壊れちまったんだよ」
その間にも、飛んでいるウィンダムとティーダをカラミティは執拗に狙う。7度目のスキュラが炸裂した時、盾がわりにしていた大樹の一部もエネルギー砲をまともに受け、ティーダの眼前で白い光の木肌を散らせた。


その光の破片の中に、ナオトは一瞬、白とはまるで違う色の物体を見た。何だ、あれ? 血のように赤いあれは……翼? あの赤いものに、何故かマユを感じる?
すぐにスキュラの次の一撃が来襲し、その物体は見えなくなってしまう。
あの赤い翼……確かにどこかで見たことがある。あの形は、まさか……
だが状況は、その翼に思いを馳せることが出来るほどナオトに時間を与えてはくれなかった。


母の声は響き続けていた。鐘の中にでもいるように、その声はナオトの中で反響する。<ナオト、お願い! もうやめて、戻ってきて!
マユちゃんのことだったら、私たちも出来る限りのことをするから!>
その言葉で、ナオトはさらに動揺する。<母さん? マユを、助けてくれるの?>
すかさず広瀬は遮った。「嘘に決まってる。そうでなければ、出来もしないことを出来ると思い込んでやがるだけだ。勘違いの集大成なんだよ、あの女は」
<でも……母さんがそう言うなら>
いつものナオトであればこのような戯言は、「大人は嘘ばかり!」などと一蹴する癖に、こんな時に限って何故ホイホイ聞いてしまうのか。広瀬は本日何十度目か知れない舌打ちをしたが、その時カラミティが一瞬、動きを止めた。
そのカメラアイがぐるりと回り、壁の一点を向く。瞬間、広瀬の背筋を氷柱のような悪寒が突き抜けた。
カラミティは背中からビームブーメラン・マイダスメッサーを取り出していた──その標的はただ一つ、マスミ・シライシ。モビルスーツで殴れば一発で壊れるであろうガラスの一枚向こうにいる女。ナオト・シライシの母親。
間違いない。今、カイキ・マナベは笑った。まんまと引っかかるであろう獲物に向けて、笑ったのだ──畜生、まだそんな悪知恵を働かせる余裕があったとは! 
広瀬はウィンダムを最大戦速で下降させようとしたが、その時胸からの激痛が全身を襲った。口から吐かれた血が、コンソールを盛大に汚していく。
瞬間──<母さん!>
母の危機を察知したナオトは、ほぼ何も考えずにウィンダムを振り切り、ティーダを真っ直ぐに母のいる場所へと飛び込ませていく。
その脳には、母を守ること以外に恐らく何もない。マユを助けるという決意さえ、この瞬間吹っ飛んでいたのではと広瀬が疑うほど、恐るべき敏捷さでティーダはカラミティの前へと突っ込んでいった。そして──


マイダスメッサーが一直線に、マスミに投擲される。紅の光を放って自分に向かってくる巨大な刃。あまりの恐怖でマスミの表情が凍りつき、声が途絶える。
だが、その刃がマスミをガラスごと切り刻む直前に、ティーダの純白の機体はマスミと刃の間に割り込むことに成功した。
まともに右腕の攻盾システム「トリケロス」に激突するビーム刃。トリケロスそのものは火花を上げ大きく傷ついたが、ナオトは一瞬、満足感でいっぱいになる。
やった。見てたでしょ、母さん。僕、母さんを守ったよ。母さんを守れるくらいに、強くなったんだよ。
だから、僕を愛してくれるよね、母さん。僕はこんなに強くなったんだ。こんな僕なら、母さんも好きになってくれるかな──モニター内から見えるマスミは、涙まじりの笑顔だ。それを見て、ナオトの大きな目にも涙が溢れる。
母さん。お願いだ、僕を抱きしめ──


その瞬間こそが、カイキの狙いだった。
カラミティ胸部の砲口に、白熱した光が満ち始める。<お前だけは、俺の手で殺してやる! ナオト・シライシ!>
放たれる、最大火力のスキュラ。ティーダは母を庇ったまま動けない。吐き出される血を止められないまま、上空からそれを凝視しているしかない広瀬。
光が溢れる。全てが終わった──広瀬は観念した。


スキュラをまともに浴びた。
あの、ミリアリアを助けた時喰らったビームとは段違いの火力のスキュラ。そしてティーダには、あの時サイとキラが作ってくれた装甲はもうない。
ナオトは思わず、両腕で目と頭を守っていた。拡がる光から己をかばうように。
同時に、不意に上方へ引っ張られるような衝撃がコクピット全体を襲う。もう駄目だ、僕は母さんもマユも守れずに、焼け死ぬだけなのか──
ナオトは目を瞑ったまま、次に全身に来るであろう灼熱の波をただ待つしかなかった。1秒、2秒、3秒……恐ろしいまでにゆっくりと、時間が刻まれていく。
だが、10秒待っても自分が焼かれるような感触は一切ない。スキュラが爆裂したような轟音は聞こえたが、ティーダにもナオトにも何も起こっていない。
ナオトは震える両腕を元に戻し、ばちばちと音が出そうなほど瞬きしながらモニターを確認する。電波障害なのかモニターの映像は若干乱れていたが、サブモニターでは何故か、ストライク・アフロディーテの紅の両腕が見えた。どうやら、ティーダの上半身を抱えるようにして飛んでいるようだ。
フレイさんが、助けてくれた? どうして……いや、それよりも。
母さんは。母さんはどうしたの? 声が聞こえない。母さんはどこにいるの?
不安が満ちていくコクピットの中で、ナオトは幼児のように頭を回し続ける。やがて、メインモニターが回復した。
ナオトが真っ先に確認したのは勿論、母のいる場所だった。必死で探す。もうもうと上がる水の霧で隠されている壁を、必死で探し続ける。母のいる場所を。母さんが、僕を抱きしめてくれるはずの場所を。
結論から言うと──そんな場所は、もうなかった。消失していた。
母が今の今までいたはずの、ガラスで覆われた清潔な研究室。その部屋のあったはずの壁はきれいに、あとかたもなく消失していた。
そのかわりに、直径30mほどの巨大な真っ黒い空間が、活火山かというほどの煙を吐き続けている。全てを呑み込むブラックホールのように。
スキュラごとマスミの身体を呑み込んだであろうその黒い空間を、ナオトはひたすらに凝視し続けていた。
いない。いない。どこにもいない。母さんがどこにもいない。ここにいるはずなのに、ここにいたはずなのに、さっきまでここにいたのに、どこにもいない。もう、どこにもいない。
僕を認めてくれる母さんは、僕を褒めてくれる母さんは、もう、どこにもいない。
僕を抱きしめてくれる母さんは、どんなに求めても、もう、手に入らない。
その現実を認識した瞬間──ナオトの喉から、それだけで塔が崩壊しかねない、痛みに満ちた絶叫がほとばしった。


ハーフムーンでティーダを濁流から救った時と殆ど同じに、アフロディーテはティーダをスキュラの光波から救出していた。
そのコクピットで、ナオト・シライシの絶叫をただ噛みしめながら、フレイは呟きを漏らす。「母の呪縛から遂に解放されなかった子供──私も、同じか」
その眉がわずかに顰められたが、彼女の言葉と表情に気づく者は、誰もいなかった。
やがて、スピーカから届くナオトの絶叫は、呪詛の言葉へと変化していく。──<殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、よくも……よくも、母さんを!>
喜べ、マスミ・シライシ。愛する息子は遂に覚醒するようだ。お前の死によって、ようやくお前の望みが叶えられる。
それを見届けられなかったのは、お前への天罰だろう。


「僕は、お前たちを許さない! 絶対に!」
涙と血でペインティングされた顔を敢然と上げるナオト。その瞳孔からは光が消失している。
同時にナオトは、闇の中で白く輝く宝石を、幻視した。虹色の光を放ちながら、雪の結晶のように輝く石はナオトの叫びと共に、粉々に砕かれる──まるで、母の身体のように。
まずナオトは、アフロディーテを振り切ろうともがいた。そして初めて、異変に気づく。
あれ? アフロディーテの力は、こんなに弱かったかな? フレイさんがまた手抜きをしたのかな?
ティーダがバーニアを全開にしつつ右腕のトリケロスを振り回すと、一瞬にしてアフロディーテはティーダから離れた。ナオトはそれほど苦労することなく、トリケロスからビームサーベルを発振してそのままアフロディーテに斬りつけた。
左手首でアフロディーテには防がれたが、ティーダの刃はそのままその手首を斬り飛ばす。どうも変だ、アフロディーテの動きがおかしい。まるで水の中にいる人間みたいに、鈍い。
その時、コクピットにアラートが響いた。背後からロックオンされた──すかさずティーダは上空へ飛翔する。スキュラの波がまた来た、でもやっぱりおかしい。こんなに簡単に避けてもいいものなの?
おかしい。おかしい。母さん、どうして? これは何? カラミティの動きも全然速くない、まるでスロー再生を見てるみたいだ。
今度は両肩のシュラークが撃たれることが、撃たれる前から分かる。左から来るダガーLは、カラミティよりもっと遅い。
あまりに鈍重なダガーLの頭と左腕と右腕を、ティーダは丁寧に、彫刻でもするようにビームサーベルで切り落としていく。反対側からシュラークが炸裂したが、ひょいと飛ぶだけで簡単にかわせた。ほら、誰にだって出来るんですよ、モビルスーツの操縦くらい。簡単でしょう?
機体が飛んでかなりの衝撃がナオトにもかかっているはずなのに、殆ど痛みを感じない。血は止まっていない、腹のあたりには赤い池が出来ている。でも、痛くない。
それに気づいて、ナオトの唇から笑みがこぼれる。やった、やったよ母さん。これがきっと、母さんの言ってた、SEEDなんだね! キラさんも持ってる、SEEDなんだね!
母さんはずっとずっと、この僕を求めていたんだ。こうして強くなった僕を!
見て、母さん。やっと僕は母さんの願いを叶えられた──ナオトの顔いっぱいに、喜びが溢れる。
今度は上から、浮力を失った風船のような遅さと頼りなさで、ダガーLが飛びかかってくる。ナオトの目にはそれは飛びかかるというより、ふわりとかけられる暖かい毛布のようにしか見えない。余裕をもってトリケロスを構え、電磁を帯びた超高速運動体貫徹弾・ランサーダートを一発、発射する。槍にも似たそのダートは酷く正確にダガーLの首関節部を直撃し、機体全体に激しい電撃を与えたばかりか大爆発を起こした。
母さん。どんなに痛めつけられても、僕は負けなかった。
母さんの望みどおりの僕に、今僕はなったんだ。
だから、母さんを守れるよ──だから、お願いだ。僕を褒めて。僕を抱きしめて。
こんなに強くなったんだ、ねぇ、返事をしてよ!
カラミティからの砲撃は今のナオトにとって、蛇口から落ちようとして頑張っている水滴ほどに遅く見えた。シュラークとスキュラ、そしてプラズマサボット・バズーカ砲「トーデスブロック」までもが塔の中で乱れ飛んだが、どれ一つとしてティーダには命中しない。ティーダはプロ画家の絵筆のように、優雅に踊るように閃光をかわしていき、あっという間にカラミティの正面に飛び出した。
母さん、そこにいるんだね。こいつをやっつければ、母さんは笑ってくれるんだよね。
だってこいつが母さんを殺したんだ、こいつを殺さなきゃ、母さんは戻ってこないよね。心配しないで、簡単だよ、今の僕なら!
ティーダはスラスターを全開にして飛び上がると、一瞬でカラミティの背後に回りこむ。どうかしてるよ、カイキさん。僕はすぐ後ろだよ。いつも人を馬鹿にしてる癖に、どうしてこんな時にぼーっとしてるのかな?
「カイキさん! 母さんを返してもらうよっ」その一声と共に、カラミティの背部のほぼ中心が非常に正確に、ティーダの攻盾システム「トリケロス」からのビームサーベルで貫かれた。


「チグサ……マユ……
俺は死なねぇ、お前たちを、幸せにするまで……見届けるまで!」
それがカイキ・マナベの、最期の言葉となった。
最後まで最愛の妹と会えなかった悔悟と共に、最後の最後でマユの幸せを奪われた怨みと共に、全てを奪っていったナオトへの復讐を成しえなかった無念と共に、カイキの魂と身体は、一瞬で炎熱の中へ呑まれていく。


アフロディーテがティーダに振り切られてからカラミティが炎に包まれるまでの時間は、ほんの15秒あるかないかだった。
ほんの15秒の間に、ティーダはアフロディーテを追い払い、ダガーLを2機仕留め、カラミティにとどめを刺したのだ。しかも、全くの無傷で。
「あれが……SEEDなのか」支柱の上に機体を降ろし、広瀬は茫然としながらティーダの恐るべき機動を眺めているしかなかった。
狂気に汚染されてしまったナオトの声が、絶えず響いている。それは絶叫から、いつしか笑い声に変貌していた。それも最初は含み笑いのようだったのに、カラミティが炎に呑まれた瞬間には爆発するような大笑いになっていた。
<あははははははははは、母さん、やっと僕、強くなれたんだよ! 痛みなんか感じないくらい、強くなれたんだ! 
あっはははははは、あははは、母さん、返事してよ、どこにいるの? カラミティは倒したよ、だから、お願いだから、返事してよおぉ!!>
笑っているんだか泣いているんだか、サブモニターで直接ナオトを見ている広瀬にも判断がつかない。だが、今の広瀬にはどうしてやることも出来なかった。自分の意識を保っているだけでも最早手一杯だ、瞼が重くてたまらない。腹のあたりはちょっとした血の池に変わっている。左腕の感覚はもうない。
そしていつの間にやら、ウィンダムのそばにはアフロディーテが飛来していた。ウィンダムの頭部にビームサーベルを突きつける紅の機体が、広瀬の目にはっきりと見えた。
「勘弁してくれよ……降参だ、参った。お嬢さん、どっちにしろ俺はもうすぐあの世行きだ。
その前に、ちょっと言わせてもらっていいかな」
アフロディーテは答えない。光の刃をウィンダムに突きつけたまま、微動だにしない。
「俺、大人として責任感じるよ。
なんでこんな……子供がこんな、痛々しい目に遭わなきゃならねんだろなって。
シライシといい、マナベ兄妹といい、マユ・アスカといい……シライシのあのぶっ壊れた笑顔、あんたも見たことあるはずだろう?
アレを2回も見ちまった俺としては、3度目は勘弁してほしかったよ」
サブモニターでは、ナオトはまだ笑っている。光を失った目で、涙を流しながら笑っている。フレイの声が響いた。
<もうこのようなことを起こさぬよう、私たちは行動している。
不幸な子供を増やさない、それが私たちの願いだ>
「あんたも含めて、言ってんだよ。俺に言わせりゃ、あんたが一番痛いよ、フレイ・アルスター。
あんただって、子供だろうが。ひよっ娘だろうが。なのにどうして、いっちょ前にどでかいモン背負ってんだ?
悪いこた言わねぇ、全部捨てて戻れよ。アーガイルのところへ」
広瀬の声はかすれかけていたが、それでも言わずにいられない。「それから……あんたも、SEED持ちだろ。だったら、カイキ・マナベを助けられたはずだ。
何故、何もしなかった? 仲間だろ」
感情を完璧に消しているフレイの声が、流れた。<あの男はどちらにせよ、もう限界だった。
マユとチグサのことで長い間葛藤し続け、精神を磨耗しすぎた。マユが消えれば、カイキの精神もそのまま崩れてしまっただろう。ここで死ねた方が、むしろ幸せだ>
「そうやって他人の幸せを勝手に決めるのが、痛すぎだって言ってんだよ……
だったら、アイツもここで殺すか?」
広瀬は口調こそ軽いものの、無念さを消せぬままティーダを見やる。響いていた笑い声は、次第にか細くなりつつあった。
<あはは、あはははは、母さんがいないよ? マユ、どうしよう……母さんがいない、どこにもいないんだ。母さんがいないのに、僕一体どうすればいいの……?>


 

 

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