──ナオト。ナオト! お願い、やめて! もうやめて! 私に気づいて!
狂気の淵の淵、まさに限界点と言える場所まで追いこまれていたナオトに、まるでその声は奇跡のように響いた。
「マユ……マユ? どこにいるの? 母さんがいないんだ……もう僕には、君しかいないんだ」大きな目は光を失ったまま、迷子の幼児にも似た声を上げながらナオトはコクピットを見回す。
──ナオト、気づいて。
「マユ……ねぇ、どうしたらいい? 母さんを取り戻すには、何が足りないのかな? せっかくカラミティをやっつけたのに、まだ何か足りないのかな? 今度は、アフロディーテをやっつければいい?」
涙を流しつくし、枯れ果てたかのようなナオトの瞳が、モニター上方のアフロディーテをぼんやりと見つめる。「そうだよね、だって母さんを守ろうとしたのに、フレイさんは邪魔したんだ。なら、フレイさんをやっつけないと」
ティーダの緑のカメラアイが、ぎょろりと音を立ててもおかしくないほど不気味に、アフロディーテを見上げた。
──駄目! ナオト、気づいて! こんなことやっちゃ駄目だって、ナオトが言ってたじゃない!
雷鳴のようなマユの声が、ナオトを撃つ。電撃の鞭に打たれたらこんな感覚かと思うほど強烈に、ナオトの身体の中へマユの声が響いていく。
──嫌いだよ! そんなことやってるナオトなんか、イヤだ、嫌いだ!
ナオトだって、私が同じことしたら私のこと嫌った癖に、そんなの、不公平だよ!
……そうだ。マユの声と共に、ナオトの胸に痛みの感覚が蘇る。
僕は、マユに人を傷つけちゃ駄目だって、言ったはずだ。
僕はマユに、人を殺しちゃ駄目だって言ったはずだ。人を侮辱したら駄目だって言ったはずだ。
そうだ。僕はマユを助ける、マユを守るって決めたはずだ。だからここまで来たんじゃないのか、僕は。
ずっと血の霧がかかっていたようになっていたナオトの心が、不意に晴れていく。
僕は今、一体何をしたんだろう? 母さんがいなくなって、僕の中で何かが弾けた──それから、僕は……
そしてナオトは気づいた。眼前に拡がる黒煙と、四散したカラミティの緑の装甲、腕、シュラークの残骸。放り出されたバズーカ。それらを呑みこみながら、水面で燃え続ける炎。その向こうで、まだ辛うじて首だけ動いているダガーLが、2機。
「あ……」その光景で、ナオトは自分が何をしたのか、ようやく理解した。血の霧に包まれた殺戮の記憶が、鮮やかに甦る。鬼神の如く暴れたティーダは、最終的に何をしてしまったか。憤怒に任せて自分が一体どういうことをしてしまったか。
「あ……あああぁああああぁぁああああああ、うわぁああああああああぁあああああぁああっ!!」
僕は、感情に任せて、覚醒した力に任せて、カイキさんを殺した。憎しみと狂気で、人を、殺してしまったんだ。
マユが力をくれてティーダを起動してくれたのに、僕はそのマユのお兄さんを、殺めてしまった。
やっと、カイキさんのことが少しだけ分かったと思ったのに。分かりかけたと思っていたのに!
「ごめん、ごめんよ、マユ! 
僕は、君に二度と顔向け出来ないことをしてしまった……本当にごめん……ごめんよ!」
マユからの返事はない。そうだよな、君はきっと、僕を許してはくれないだろう。兄さんを殺した僕を。
大量の出血と共に、絶望がナオトの胸を染めていく。眼前の光景に耐えられず、血まみれの両手が顔を覆う。母さんがいなくなった。マユも答えてくれない。カイキさんも殺してしまった。
こんな僕はもう、サイさんたちの所へは戻れない。僕にはもう、帰る場所はどこにもない。
キラさん、ごめんなさい。僕は貴方に憧れたから、モビルスーツに乗っても人を殺さないようにしてきたのに。どうしてこんな時に、大事な人を殺してしまったんだろう?
カイキさんとはずっと喧嘩ばかりだったけど、やっと分かり合えるかも知れないと思っていた。そんな人を、僕は──
ナオトはふと、手元の黒ハロに視線を落とす。ナオトの血と涙で汚れた黒いハロ。その丸い姿を見ながら、ぼんやりと思いついた。
ナオトはやおら、コンソール・パネルを猛然と操り始める。まだSEEDの効果が僕に残っているなら、僕一人でも出来る可能性はある。実際やり始めると、ナオト自身でも驚愕するほど自分のタイピングのスピードは速かった。マユが入力した時の倍以上の速度だ。
最初は、フェイズの一部を入力するだけでも精一杯だったのにな。マユにおんぶに抱っこだったっけ、あの頃は。
瞬く間に、モニター全体が遮光フィルタに包まれていく。ハロの両目が明滅し、コクピット中がうす暗くなる。血の海に沈んでいくかのように。
「ブック・オブ・レヴェレイション、オンライン!」ハロの声が、虚しい陽気さをもってコクピットに響いた。後席ががらんと空いたままの、コクピットに。
そうだ。これがせめてもの、僕の贖罪だ。ここが暴走するならすればいい。ここの人たちを全員、こんな戦いから解放する。こんな虚しい戦いから、少しでも誰かを助けたい。マユも、母さんも、カイキさんもいないのなら、せめて……せめて、僕に誰かを助けさせて。
──その願いが叶うなら、何度だって使ってやる。ティーダを。黙示録を!
その想いと共に、ナオトは全フェイズの入力を完了した。ブック・オブ・レヴェレイション──マユ抜きでは破れなかった禁断の兵器の封印を、ナオトは遂に一人で破ってしまったのだ。


ティーダの機体全体が、例の発光を開始する。「あの馬鹿……やっぱり、やりやがったか!」
広瀬にはもう止める術はない。光を防ぐ手段もない。アフロディーテは動かず、状況を見据えているだけだ。
黙示録の起動と時を同じくして、不可思議な現象が塔に起こり始めていた。どこからともなく、鐘の音が反響を開始したのである──まるで、ウェディングベルの如くに盛大に。
広瀬の頭の中でも同じ鐘の音が響く。こっちは黙示録起動と同時に毎回鳴り出すという音だ。アマミキョの連中が散々聞かされた音だ。
それにしても、身体の外側と内側から同時に響く鐘の音というものはたまらない。仮に巨大な鐘の中に閉じ込められて、外から何度も鐘を鳴らされたとしたらこんな感じだろうか? 不協和音で頭が割れそうになる。血まみれの手で思わず額を押さえながら、広瀬はちらと光る大樹を見る──そして叫んだ。
「やっぱりだ。塔自体が反応してやがる!」
白く輝く大樹は、黙示録の発動に合わせてその輝きをさらに増していた。まるで心臓のように光が柱の中で波うっている。黒い枝にも似た支柱にもそのエネルギーが伝導しているのか、鋼鉄の継ぎ目から白い輝きが血管のように漏れ出している。
いや、心臓という表現は少し違う──広瀬は感じた。「これは……子宮?」
助平な妄想をした訳では断じてないのに、何故唐突にそんな感じがしたのか、広瀬には分からなかった。どこからか、研究員の平静なアナウンスが聞こえる。<現時刻よりシネリキョ、モード・サブマリンに移行を開始します。残り10分で都市防御機構作動予定。Bブロック及びDブロックの作業員は至急、退避して下さい>
<Xブロックの担当者、至急指令所へお願いします><港湾部の作業員は、マニュアル1に定められた手順にて、潜航準備を>
塔全体が激しく揺れ出した。しかし、アフロディーテはこの事態をとっくに予想済みという風情で光の柱を眺めている。<子供の絶望により、大人の世界が変革される。皮肉なものだよ。なぁ、チグサ>
フレイはそっと、光の大樹のとある一点を見上げた。先ほどスキュラを喰らって粉砕された幹の一部。そこに生じた大きな亀裂はエネルギーの流入でさらに大きくなり──
やがて、卵が割れるように幹は砕けた。輝くガラスが雪のように、盛大に飛び散っていく。
そこから生まれ出たものを見て、広瀬は理解した。自分がこの柱を子宮だと感じた理由を。


塔の最下部、水面の上でうずくまっていたティーダからも、その光景ははっきりと見えた。マユを感じた、あの幹に。
ナオトの頭上で、白く輝く羊膜に包まれるようにして何かが生まれてくる。人じゃない、生物じゃない、不死鳥のようにも見えるけどあれは生物じゃない、あれは──あのシルエットは!
「何で……何でここに、フリーダムが?」
思わずナオトは呟いていた。憧れの、伝説の機体の名を。
光を背にして、火の鳥のように優雅に広げられる10枚の翼。光るカメラアイ、ティーダと同じ意匠の頭部、細身の胴体──確かにフリーダムに似てる。でも、明らかに違うところが一点。
「何で、真っ赤なんだよ」ナオトの知るフリーダムは、大空によく映える青い翼と白い胴体が、その名の通り自由を想起させる機体だ。だが今、目の前に浮遊するフリーダムは、翼から頭から胴から脚から、何から何まで血のように赤い。血の海から出てきたばかりというように。
その時ナオトは、スピーカから流れる妙な笑い声に気づいた。この声は──真っ赤なフリーダムが現れた時から、ずっと響いていた気がする。女の子の笑い声。
<くっくっくっ……ホンット、バッカだねぇ〜。こんなバカに、カイキ兄ぃはやられたワケ?>
「バカ」という部分に特に力をこめた、少女の低い呟き。<バカに教えるのは勿体無いけど、もうすぐ死ぬんだし、いいよね。
この機体はフリーダムじゃない。ストライクフリーダム・ルージュってんだ>
その時にはもう、ナオトにとって機体の正式名称なぞ全く問題ではなかった。この声は……この声は、この声は!
間違いない、マユの声だ! 幻じゃない、空耳じゃない、マユの肉声だ!
「マユ! そこにいるんだね、今助けるっ」黙示録の光をまとったままの状態で、ティーダはスラスターを機動させて最後の力で飛び立とうとする。だがそれを、紅のフリーダムの手にした銃から放たれたビームが、遮った。
<アタシはマユじゃない! もうカン違いするな、アタシはチグサ! チグサ・マナベだっ>
「チグサ? チグサ……さん?」何故「さん」をつけたのか、ナオトには自分でも理由が判らない。茫然と見上げるしかないティーダの眼前に、悠々と紅のフリーダムは舞い降りてくる。
少女の笑いと共に。憎しみと怨念のこもった笑いと共に。<よくも……よくもカイキ兄ぃを殺してくれたね、よりにもよってアンタが!
アンタのことなんか、本当は心の万分の一にでも置いとくのは気持ち悪かったのに。これでアタシは、アンタを憎まなくちゃいけなくなった。覚悟、出来てんだろうね?>
相手が何を言い出したのか、殆どナオトは理解出来ない。声がマユなのに、言葉がマユじゃない。この言葉が、マユのはずがない。これが、マユの中にいたという「チグサ」なのか? ナオトは混乱したまま、叫ぶしかない。「何を言ってるんだよ! 僕が話をしたいのはマユなんだ、貴方じゃない!」
<ったく、面倒かけるガキだねぇ。これ見ても、まだ分かんない?>
ナオトのすぐ正面まで降りてきた紅の機体。その胸部ハッチが、ゆっくりと開かれていく。
中から姿を現したのは、機体と同じ色のパイロットスーツに身を包んだ、幼い子供。
柔らかそうな身体を無理矢理スーツで締めつけられ、さらにスーツからは何本も黒いケーブルやらチューブらしきものが装着され、コクピットと繋げられている。
実にけだるげに、その子供はヘルメットを脱いだ──チューブが何本か引っかかり、鬱陶しげにそれらを振り払う。
やっぱりだ──ナオトが見慣れた、先端をリボンで結わえた黒髪。白い肌。ふっくらした頬。大きな黒い瞳。見間違えるはずがない。
「マユ……マユ! そこにいたんだね……やっと会えた、やっと会えたよ、マユ!」
もう涙なんか枯れ果てたかと思ったナオトの両眼が、再び涙で満たされる。血と煤で汚れたナオトの顔が、笑みを取り戻した。ティーダの右腕が、彼女へと伸ばされる。「今助けるよ、マユ!」
黙示録の発動中であるにも関わらず、ナオトはハッチを開けようとする。だがその寸前で、少女の怒声と共に、ティーダの腕はフリーダムのビームライフルの銃身で叩き払われた。
「触るな!
お兄ぃを殺したアンタなんかが、アタシの身体に触れるな! 汚い泣き顔見せるな!」
「え……? マユ、どうしたの?」ナオトは何が起こっているのか、理解出来ない。というより、現象に対する理解を拒絶していた。
「カイキ兄ぃはずっとずっと一緒だった。アタシが死んでも、アタシがこの身体で眠ったままでも、お兄ぃはずっと一緒にいてくれた。アタシにもマユにも優しかったんだ!
それをアンタは……何の容赦もなしに、粉みじんにして殺した!
しかも殺ってしまってから、分かりかけていたぁ? ふざけるんじゃないよ! 人を馬鹿にするのも、いい加減にしろ!
カイキ兄ぃの痛み、万分の一でもアンタなんかに分かってたまるか!」
今、少女の瞳には燃えるような憎しみと怒りしか映っていない。これが、あのマユなのか? 今、僕を罵倒し続けているこの女の子が、本当にあのマユなのか?
違う、この人は──この女は……マユ・アスカの身体の中で蘇った、チグサ・マナベなんだ。この女こそが、カイキさんがずっとずっと求めてやまなかった、妹だ。
じゃあ……マユは一体、どこへ行ってしまったんだ?
現実の把握を未だに拒絶するナオトを、少女は不意に鼻で笑った。明らかに嘲りの笑みだ。
「マユの中から、アンタのことはずっと見てたよ。
レポートも戦うこともロクに出来ないですぐ人に頼るくせに、口だけは達者で人をけなして怒鳴って、勝手な言い分一方的に主張してばっかで人の話全然聞かないで、周りを否定してばっかり。
勝手にマユを自分のモノにして、てめぇの自分勝手な生き方押しつけて、マユの人生まで無理矢理変えちゃって。
アンタのこと、ずーっと嫌いだったよ。一緒にいて、気持ち悪くてたまんなかった」
まるで害虫を見るような目つきの、少女の瞳。ナオトはそれでも追いすがる。追いすがらずにいられない。
「マユ、本当にごめん……僕が悪かった、カイキさんのことは本当にごめん。だから……」
そのナオトの口調に、少女はさらに激昂する。「アンタ、本当に分かってんの!?
アタシはマユじゃない! マユ・アスカはもう、どこにもいないんだよ!」
少女からの最後通牒が、ナオトの心臓に突き刺さった。そんな、そんな馬鹿なこと。そんなことあるはずがない、あっていいはずがない!
母さんもいない、サイさんのところにも戻れない。僕にはもう、マユしかいないのに!
「やめて……」ナオトは必死で声を振り絞る。「もうやめてよ、マユ! 返事をしてよ、お願いだから僕に答えてよ! マユがいなかったら、僕はどうすればいいんだよ。僕はどうやって、生きていけばいいの……」
少女がナオトを見下げる視線には、いかなる憐憫も情けもなかった。「簡単だよ。死ねばいいじゃん」
少女の言葉は、一つ一つが氷の刃のようにナオトの心臓を、胃を、肺を、臓物を抉っていく。ことに今の一言は、ナオトを完全に絶望に叩き落すに、十分すぎるほどの効果があった。
全身から力が抜けていく。唇から、一気に血が吐き出される。ろくに声が出ない。
マユを呼びたいのに、声が出ない。肺のどこかが傷ついたんだろうか。僕に残されたものはもう、大声くらいしかないのに。
大樹からの光量は、ナオトの絶望度合に比例するかのように輝きを増していく。いつの間にか、アフロディーテが少女とフリーダムの背後に飛来していた。姉妹のように並ぶ、紅のストライクとフリーダム──こんな状況でなければナオトは歓喜していたであろう組み合わせだ。
<戻れ、チグサ。このままではお前の身体ももたない。それに、いくら遮光コンタクトをしているといえど、この状態のティーダのそばに居続けるは危険だ>
「フレイ!」少女の顔つきがぱっと変わり、敬愛する姉を見るような無邪気な笑顔になった。「初めまして……って、言うべきなのかな」
<今はいい。兄の件では、すまないことをしたな>
「分かってる。しょうがないよ、フレイのせいじゃない。カイキ兄ぃの限界くらい、アタシにも分かる」少女は怨みをこめた眼を再びティーダに向ける。「それを刺激したのはアイツだ。アイツが全部悪いんだ。お兄ぃを狂わせたアイツが!」
少女はそのままティーダから視線を外し、再びコクピットに戻っていく。ナオトなどそこに居ないかのように振る舞い、無情にハッチは閉じられる。<あんな奴、安楽死なんかさせたかないけど……しょうがないね>
何も出来ずに動けないナオトの眼前で、紅のフリーダムはもう一度、光の大樹へと戻っていく。壊れた幹へ飛び込み、盛大に紅の翼を広げたかと思うと、大樹から一気に光が溢れ出した。
膨大な熱量の変化により発生した突風が、塔内を吹き荒れる。天井を貫く光。あの光は天空の遥か向こうまで届いている──ナオトはぼんやりと思った。
──マユ。マユ! それでも僕は、諦めたくない。君を諦められない!
声も出せないまま、ナオトは必死でレバーをもう一度両腕で掴み、力一杯バーニアを噴かした。君を取り戻すまで、君と一緒にもう一度笑いあうまで、絶対に諦めるもんか!
ティーダは再び飛翔を開始する。愛する少女をもう一度抱くために。
だが、帰って来たものは。<しつっこいなぁ! アンタの存在そのものが嫌だって言ってんだろ!>
マユの声による激しい罵倒と、ビームライフルの炎。
完全に虚をつかれたティーダは、最後の武装であったトリケロスを、右腕ごと落とされてしまう。それのみならず、頭部も、右脚も、次々ときれいに切り落とされていく。白い輝きを残したまま、ティーダは空中で見事に四肢を分断されていった。
黙示録の中でもあの紅のフリーダムが難なく戦えたのは、強力な遮光フィルタのせいだろうか? 突風の中でもみくちゃにされながら、ぐるぐる回転するコクピットでナオトはそんなどうでもいいことを考えていた。もう、現実を認識したくなかった。
僕の最後の意志まで、こうも簡単に押し潰されてしまうなんて。彼女の言葉で、こんなにも呆気なく踏み潰されてしまうなんて。
最早胴体と左足しか残されていないティーダは、力なく水面へと落ちていく──
もう駄目だ。結局僕は、何も出来なかった。
カイキさんを殺した。母さんを死なせた。フレイさんにも裏切られた、マユも助けられなかった。
この島に来れば、マユや母さんと一緒に生きていけると思ったのに。やっと、僕の場所が出来たと思ったのに。結局僕は、どこへ行っても幸せになんかなれないんだ。
逆さまになりながら、ナオトはそのまま重力と加速に身を任せていた。もう、何もしたくない。何もやりたくない。
チグサって子の言うとおりだ。僕はどこへ行っても、人を否定して、何も出来なくて、何やってもうまくいかなくて……
いつの間にか胸元から飛び出していた小さなお守りが、ナオトの心臓を叩く。最後の抵抗を促すように。だがもうナオトの気力も体力も、限界を超えていた。胸や腕や頭から噴き出す血を押さえようという気力すら、彼には残されていなかった。
眼前のサブモニターに、逆さまのアフロディーテが見える。頭を飛ばされた為、メインモニターはもう何も映してはいない。
あぁ、このまま僕はフレイさんに殺されるんだ。もしくは、捕らえられて実験台か。ティーダだけ取られて殺されるか。
もうどうなってもいい。どうでもいい。もうどうでもいいよ。
全部フレイさんの手の中なんだ。今までだってずっとそうだった。いくら僕がどう頑張ったって、全部──
だが、ナオトの疲れきった心が完全に諦念に支配されかかった瞬間。
<馬鹿野郎! てめぇの意識がまだある限り、諦めてんじゃねぇ!>
叫びと共に、アフロディーテが機体ごと突き飛ばされてモニターから消える。同時にティーダの胴体が、がっちりと何かに掴まれた。
カメラの大半を消失した為サブモニターには何も映らないが、ナオトには分かった。黙示録の効果だろうか──「ひ、広瀬さん!?」
分かる。何も見えなくても僕には分かる。広瀬さんのウィンダムが、ティーダを抱いて守っているのが見える。
<アマミキョに戻るんだ。戻って、全てをアーガイルに吐き出せ! お前のぶっ壊れた笑顔まで抱きしめられたあいつなら、全部受け止める!
今ここで起こったことを、包み隠さず、全部吐き出すんだ!>
ウィンダムはティーダを抱えたまま、鐘の音が不規則に鳴り響き、竜巻となりかかっている塔の嵐の中を力一杯飛んでいく。オーバーヒート寸前のウィンダムの翼──ジェットストライカーから、空対地ミサイル「ドラッヘASM」が発射された。
一瞬の閃光と轟音と共に、地上付近の壁に大穴が空く。ティーダを運びながらそこへ突っ込んでいくウィンダム。
だが勿論、そんな傷だらけのウィンダムとティーダを見逃すアフロディーテではなかった。
双対のビームサーベルを両方とも投げつけられ、ジェットストライカーの右翼が爆発し、ウィンダムの左脚部が寸断された。一息に竜巻に巻き込まれ、ウィンダムとティーダは落ち葉のように翻弄されていく。
傷つけられ機動不能寸前のウィンダムの背後で、大樹の光が満ちあふれていく。ナオトの耳に、様々な人々の想いが交錯するのがはっきりと聞こえた。割れんばかりの鐘の音と共に。
──風間、やめろって、冗談きついぜ。まだお迎えは早い、俺はこいつを送り出すまで、死ねない!
──お兄ぃを殺したアンタを、絶対に許さないからね!
──サイ、教えてくれ。こんな災いを呼ぶ母の呪いから逃れるには、どうすればいい?
人々の思念を飲み込みながら、光はやがて塔を破壊せんばかりに拡散を開始した。
想いが、爆発していく。暴走していく。その片鱗は、確実にティーダにも注ぎ込まれていた。
ナオトの目に、ボロボロのウィンダムとティーダが見えた。
大量の血を吐きながら、壊れかけたコンソールをいじり操縦桿を握り締める血まみれの広瀬が見えた。その腹に、深々と突き刺さっているコクピットパーツの破片が見えた。
激しく自分を拒絶し否定するチグサの、怒りの瞳が見えた。
意味があるのかないのかナオトには理解出来ないことを呟きながら、確かにサイを想って退避行動に移るフレイが見えた。
──マユ。もう一度会いたい。僕はもう一度、君に会いたい。
お願いだ、もう一度、君の声を……
そう願った瞬間、ナオトの意識は途絶えた。激しい光の爆発と共に。




──ナオト、心配しないで。まだ……私は、ここにいるから。




「何? 何が起こったの!?」
その異様な光景は、シネリキョまでわずか5キロの地点まで迫っていたミネルバ隊にも、はっきりと確認出来た。
目的地である人工島・シネリキョから突如、夜空の星を破壊せんというばかりの光の柱が、一直線に伸ばされたのだ。
その光はどこまで行くのやら、見当もつかない。静かな夜を切り裂く、真っ白な光──その光の発信源から、緋色の炎がわずかに見えた。
インパルスガンダムに搭乗中のルナマリア・ホークは、その光に見覚えがあった。おそらく他のミネルバ隊の二人も同じだろう。コロニー・ミントンやインド洋の時と同じ鐘の音が、かすかではあるが聴こえる。
<ルナ、レイ、急ぐぞ!> デスティニーガンダムのシン・アスカから、自分以上に気を引き締めているであろう通信が轟いた。
「シン! 生存者の救出が最優先よ、分かってるわね」
<言われなくたって!>
競うようにして、インパルスとデスティニーは滑空速度を上げる。だがそんな二人を、後方からレジェンドガンダムが押しとどめた。<待て、二人とも! 島全体がおかしい>
いつになく焦りの色を見せたレイ・ザ・バレルの声に、一瞬シンもルナマリアも島を凝視した──そして彼らはその眼をさらに大きく見張ることになる。
島は、沈み始めていた。まるでそれ自体が潜水艦でもあるように。
地上にあったビルや研究塔などの施設が全て、島の外周から浮き出してきた虹色の羊膜のような物質で覆われていく。ミラージュコロイドのようなステルス機能でもあるのか、半球状に島を覆った羊膜の中は全く見えなくなってしまった。
そのまま月まで飲み込むが如き大波をたてて、島はゆっくりと海中へ姿を消そうとする。その光の軌跡を空へ残したまま。
しかし、シンのデスティニーは紅の翼を翻し、それでも動いた。<行くべきだ! 沈んでしまっても、何か残されているかも知れない!>
一旦速度を落としかけたルナマリアも、シンに続いた。「調査に行ったら島が目の前で沈みましたじゃ、また艦長の雷が落ちるもんね!」
レイも二人を放ってはおけないのか、それともこの事態を放っておけないのか、黙って二人に追従していく。目の前の恐るべき出来事に夢中になっている二人に、レイのひっそりとした呟きは聴こえるわけがなかった。<あそこに……俺の、母がいる?>


「ナオト!」サイは絶叫しながら、仮眠から飛び起きた。
夜中となり、すっかり静まりかえったアマミキョ。その副長室でサイは横になっていた。脱ぎかけてそのままだった制服は汗でびっしょりと濡れ、息は上がっている。
ひどく現実的な夢を見た──
シネリキョにいるはずのナオトが、血を吐きながら絶叫していた。ティーダが、爆光に呑まれながら落下していた。頭も腕も脚もなく、胴体のみとなったティーダが。ナオトは髪の毛から足の爪先まで血まみれで、どういうわけか全てに絶望していた。
マスミさんはどうした? マユは? フレイは? 一体何があったんだ、ナオト──サイが手を伸ばそうとした時、光が溢れて目が覚めたのだ。
心臓の激しい鼓動が止まらない。制服のボタンだけ無造作にかけて、サイは反射的に副長室を飛び出してブリッジに向かった。ブリッジではオサキとヒスイが二人で、モニターに映し出されたチュウザンの地図と睨めっこしつつザフトの進路予測をしていたようだが、いきなり飛び込んできたサイに二人とも仰天した。
「どうしたんだよサイ? こんな夜中に……」「顔が真っ青ですよ、お水か何か飲みますか?」
慌てて声をかけてくる二人に、サイは勢い込んで尋ねてしまう。「何か、感じなかったか?」
サイは願った。二人にぽかんとしていてほしい。笑い転げてほしい。夢でうなされるなんて子供かよ、そう言って笑ってほしい──だがその願いは、すぐに打ち破られた。
「そういえばさっき……急に鐘の音が聞こえたな。どっかで結婚式でもやってんのかと思ったけど、よく考えたら夜中だ、ありえねぇなぁ」
「私、さっきちょっと海を見たら、光の柱のようなものを見た……気がしました。疲れかなと思ってもう一度見たら何もなかったんですが」
「なんだ、ヒスイもか? アタシはてっきりカジノのライトかと……」
そこまで喋り、二人はサイの顔色を見て口をつぐんでしまう。「わ、悪かったよサイ。アタシら二人ともこっちに夢中になっちまって、気にならなかったんだ」
自分が見た夢とは違うものの、アマミキョクルーであるこの二人が似たような感覚を共有している。それが何を意味しているか、サイは考えたくもなかった。
──アマミキョが、人の意識を束ねる船だからだ。
──無数の意思は一つとなり、その刹那、個々の精神の境界はほんのわずかだが、薄れる。それらを『黙示録』なる物理的な力に変換するモビルスーツが、ティーダ。
フレイの言葉がサイの中で不吉に響く。もしサイの夢とこの二人の感覚が、同じ現象から導き出されたものだとすれば……ティーダに、ナオトに、マユに、何かが起こったということではないのか?
二人が作成していたザフト進路予想図のモニターに、サイは視線を落とす。元々サイが作成を指示していたものだ。
「すまない、驚かせてしまって」言いながらもサイは、正面メインモニターの方へ目をやらずにはいられなかった。今はアマミキョ正面の夜空と海と街を映しているだけのメインモニター。夜はまだ明けない。空は曇って星はろくに見えず、街の灯もまばらだ。重い静けさと湿気だけが、アマミキョの外を覆っていた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」オサキが心配そうに聞いてきたが、サイは努めて明るく答えた。「大丈夫、悪い夢で飛び起きただけだよ。情けないよな、この歳になって」
「悪い夢……ですか」ヒスイは全く笑わず、しばらく考え込んでしまう。言い知れぬ不安が、三人の間に漂った。
──ナオト。フレイ。マユ……何もないよな。何も起こってないよな。無事でいてくれよ、頼むから。
サイは何も見えない夜空に、祈ることしか出来なかった。


12時間後。
フレイ・アルスターは、かつてアマミキョが停泊していた海底基地「オギヤカ」への帰還を果たしていた。
旧日本の和室を思わせる9畳程度の部屋。部屋の隅に活けてあるスズランの他には、特に飾り気のないその「謁見の間」にて、フレイはじっと伏している。彼女の「御方様」と会う為に。
「大変ご苦労でした、フレイ。セレブレイト・ウェイヴ発振装置のテスト、無事終了したようですね。
チグサ・マナベも復帰したようですし、何よりです」
ゆるくウェーブのかかった桜色の髪をふわりとなびかせた少女が、上座に腰を降ろす。同時に彼女は、背後のミニライトに手を伸ばした。雪の結晶を模した蝋燭にも似たライトが、部屋を暖かく照らし出す。少女の影も、フレイの上に大きく伸びていった。
フレイは決して、自ら顔を上げようとはしない。少女の前髪を止めた満月の髪飾りが、静かに光をたたえている。「恐れながら、ガンダム・ティーダ及びナオト・シライシ、研究員のマスミ・シライシ、そしてカイキ・マナベを失いました。
この損失は、決して小さくはありません」
少女は、玩具を取り上げられた子供のようにしょんぼりとしてみせて、首を傾げる。「確かに、あのハーフ君は勿体無かったですわね。可愛らしいお顔をしていたのに……ハーフのSEED保持者なんて、滅多に出会えないですわ。
マスミさんともお話させていただいたことはあるのですが、良いお友達になれそうな方でした……本当に残念です」
その他は……つまりカイキ・マナベの件はどうでもいいとでも言いたげな少女の口調だった。フレイの両拳がぎゅっと握られる。
そんな微かな動作を、少女の青い瞳は決して見逃さなかった。「何か、仰りたいのではありませんか? お顔をお上げなさいな、フレイ」
言われて初めて、フレイは極めてゆっくり顔を上げる。その灰色の瞳は金属のように、平板な光しかたたえていなかった。「第二回のテスト準備を急がせます。チグサも目覚めたばかりで不安定なところがあります、慎重に調整をせねばなりません」
少女はにこやかに笑う。「そうやって話を逸らさないで下さいな。貴方には、別の任務を用意させていただきました」
握りしめられたフレイの拳が、微かに震える。それを見て、少女は満足げに微笑んだ。聖母の微笑みだった。「シネリキョが問題なく機能し、アマミキョのハーモニクスシステムのデータも揃いました。あとはセッティングを行なうだけです。
となれば──『アマミキョの抜け殻』は、不要ですわね。
不要というよりも、災いを呼んでしまいます」
フレイはひたすらに身を固くするだけだ。次に来る言葉の攻撃は、とっくに分かっているというように。
それを見越してか、少女はそれまでの呑気な口調から、がらりと声を変化させた。白い頬が引き締まり、冷徹な女王としての言葉が、その唇から発せられる。「これよりフレイ・アルスター及びアマクサ組に、アマミキョ・コアブロックの消去を命じます。
タロミ・チャチャに害をなす可能性のある、一切のデータを残してはなりません」
水をうったような静けさが、部屋を包んだ。フレイの拳はあまりにも強く握りしめられすぎて、指が真っ白になっている。
やがて、再び頭を下げたフレイの身体から、押し殺した声が流れた。「了解しました」
その静けさを吹飛ばすように、少女は再び声を上げて笑う。「うふっ。整理整頓の基本は、いらないものをすぐ捨てることですよ。これは、貴方の数少ない肉親としての忠告です、フレイ。
ティーダの損失と比べれば、そうそう高くつくものではありませんわ」
水色の布地に梅の花が咲いた着物をゆっくりと直し、少女は頬に手を当てる。「そうそう、ラクス・クラインがインフィニット・ジャスティスガンダムを入手したそうですよ。貴方も頑張ってくださいな、フレイ」

 

つづく
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