45秒ほども経過した時、作業用アストレイの右マニピュレータが、そっと濁流の中から灰色の大きな泥だまりを救いだした。
雨がその泥を洗い落とし、その中にいた青年の赤いメガネフレームと栗色の短髪、女性の白い両腕が見えた一瞬、人々の中から嘆息とも歓声ともとれるざわめきが上がった。
<サイ君、無事か! 息があるなら返事をしたまえっ>トニー隊長の絶叫が雨中に響く。アストレイの頭部ライトが川面で揺れる。オサキは唾を飲み込みながら、じっと見つめていることしか出来ない。
トニーの声が届いたのか、アストレイの掌で泥だまりがゆっくりと動いた。わずかに見える眼鏡とネクタイの色で、オサキには何とかそれがサイだと分かった。叩きつけるように降りそそぐ雨がその泥をシャワーのように洗い流していき、やっと泥人形の正体がいつものサイの横顔だと確認出来るまで、オサキは全く落ち着くことが出来ないでいた。
ごうごうと水飛沫を上げる川とほぼ同じ速さで、黒雲も空を走っていく。雷がまだ遠いのが幸いだった。
身体中を流れ続ける雨もそのままに、サイは上半身を起こし、助けたばかりの母親の頬を軽く叩いてみる。幸い水も飲んでおらず意識はしっかりしており、サイの呼びかけにも女はすぐに応じた──
サイたちを乗せたアストレイの掌がゆっくりとコクピットハッチに吸い寄せられたかと思うと、トニー隊長が飛び出してきて、母親を掌からもう1機のアストレイへと移していく。
間もなくそのアストレイから母親はミストラルに移され、数分後には親子は無事な再会を喜ぶことが出来るだろう。
その間、サイは激しく息をつきながらも荒れ狂う川面をじっと見つめていた。泥に覆われていた身体は豪雨で洗われ、流れる水はサイの足元、アストレイの指の間から川へと落ちていく。
アストレイの作業用ライトの光を頼りに、サイは水面と岸辺をひたすら睨みつけていた。サイの上を流れる雨と、肌に張りついた服は次第に、その身体の線を光の中へくっきりと浮かび上がらせていく。
その輪郭から、オサキは目を離すことが出来なかった。目を離せば一生後悔する、そう思った。
まだ少年ぽさの残る首筋、引き締まった頬、出発時より少し伸びた前髪、締まってはいるがそれほど盛り上がっていない筋肉、すっと伸びた背中、眼鏡ごしに見える大きな青い瞳。それらが全て、アストレイのライトと雨の中、幻のようなシルエットとなって浮かび上がる。
その一瞬の光景を、オサキは不意に、綺麗だと感じた。激しく吐かれる息すらも、絵の一部のように感じたのだ。
どれほど雨にうたれても、ひたすらに獲物を追い続ける獣──そう思えたからかも知れない。水墨画のように白と黒で埋め尽くされた世界の中で、紅に光る巨神アストレイとその光輪の中心にいるサイは、唯一色を持つ存在として生きている。そんな気がしたからかも知れない。
サイが獣と違うのは、目で追う対象が獲物ではなく、助けるべき人間であるという点だけだ。
<サイ君、君も下がりたまえ。一人だけで全てを助けられるものではない、それを分かれ!>
トニーの声が水面にこだまする。その声に、サイはようやく川岸から視線を引き剥がし、立ち上がる。だが──
「待って下さい、隊長。気になることがあるんです……オサキさん、ミストラルは戻っていいよ。怪我人が心配だ」
オサキははっと気づくと、途端に怒鳴り返していた。「馬鹿野郎! お前置いて帰れるかってんだっ」
サイはオサキにもトニーにも答えない。ただ、曇天の空の向こうへと視線を投げただけだ。
オサキがもう一度怒鳴ろうとしたその時、一段と強烈な突風が一行の正面、つまり川下から吹きすさび、山全体が風に揺れた。
空に轟音が満ち、黒雲は風に圧されたように一瞬、途切れた。不意に、紅の光が雲間から射し込んでくる。
子供がはしゃぐ声が、ミストラルの中から聞こえた。「夕焼けだ! お母さん、夕焼けだよっ」「ホントだ、キレーイ!」「そうだねぇ、明日はやっと晴れるのかねぇ」
天空を覆っていた黒雲の間から、茜、紫、薄紅色の暖かな光が川面とアストレイと森を照らし出す。一瞬だけ雲の晴れた西の空。いつもより巨大に見える紅の太陽が、今まさに最後の光を放ち、山の向こうへ沈もうとする直前だった。雨は未だにおさまっていなかったが、少しだけ勢いを弱めたようにも見える。
帰れとは言われたが、オサキはどうしてもその時のサイから視線を引き剥がすことが出来なかった。勿論、サイ一人を置いて帰れないというのもあるが──
心臓をうたれるほど、眼前の光景が美しかったのだ。
突風で翻ったサイの濡れた服が、沈みかける夕陽の欠片の激しい光を浴びて、煌く。そのさまが、オサキにはまるで淡く紅に輝く、透明な翼のように見えたのだ。
風に飛ばされそうになりながらも、サイはアストレイの指につかまってしっかりと前方を──太陽の方向を見据えている。今にも飛び立とうとする鷹のように。
その襟元で、アマミキョの象徴とも言えるバッジが、夕陽とは違う青の輝きを小さく、宝石のように静かに放散していた。夕陽を受けてアストレイの紅の装甲も金色に輝き、小さなサイの命と身体を支えるように飛沫の中に堂々と立っている。
まるで、黄金の巨神を導く精霊だ──
数秒か数十秒かは分からないが、オサキは自分の役目も忘れてサイを凝視していた。胸の高鳴りが、どうしても抑えられなかった。
そんなオサキの気も知らぬまま、サイは静かに振り返ると、よく通る声でトニーに告げた。「隊長。今すぐ、この周辺一帯から南と西の住民へ、避難指示をお願いします。出来るだけ早く!」
<何を言っているんだサイ君……まだ南チュウザン軍はここには至らない、焦ることはない>
戸惑うトニーの声を遮断するように、サイは言い放つ。「ザフトが来ます。予想以上に早く」
言われて初めてオサキも気づいた。どうも雨に紛れて、西の空から何か煙たいものを感じると思っていた──それが何なのかさっぱり見当もつかず、変な鼻風邪をひいたとばかり思っていたのだ。
まさかそれが、ザフトの感覚だったというのか。
「オサキさんも急いで! 一刻も早く、皆をアマミキョへ運ぶんだ!」同じ感覚は、多分サイも感じていたのだろう。サイの方が2年前の実戦経験の分、鋭敏さも上だ。オサキは軍属経験はあるものの、実戦はない。だからサイはザフトの速さに気づいたということか。
胸の鼓動が鎮まらないまま、オサキは指示どおりにミストラルを発進させていた。サイのあの姿をもっと見ていたい、そんな願いを振り払いながら。


「毎回毎回、何してくれてんだテメェは! こんなに泥まみれになりやがって、幼稚園児かっ」
「うわ熱い、熱いですってハマーさん! いきなり熱湯はやめて下さ……うわぁああ!」
アマミキョ・カタパルトに戻ってくるなりサイはハマーにとっつかまり、洗浄所で頭から熱湯のシャワーを浴びせられていた。服のまま洗剤を頭から顔から背中から乱暴にぶちまけられ、泡だらけになったところをハマーの手で強引にひっかき回される。
「せ、せめて服くらい脱がさせて下さいよ!」
「バカタレ、こうした方が洗濯も一緒に出来て効率的だろうが! それに、てめぇのストリップなんざ誰も見たかねぇんだよ! 周りの迷惑も考えやがれ」
整備士たちは泥まみれのアストレイとミストラルに次々と取り付きつつ、にやにや笑いながらサイとハマーを眺めていた。それをさらに遠巻きにしつつ、オサキとヒスイ、そして偶然医療ブロックからやってきたスズミが、三人揃って腕組みしながら見ていた。
「サイ君ってば、またなの?」呆れたようにスズミはため息をつく。「破傷風にでもなったら大変だって、あれほど言ったのに」
「すまなかった、止められなくて……」眉間を押さえてオサキは呟いた。さっきまで、伝説の勇士の如く雨の中アストレイを導いていた青年と、今ハマーの熱湯から逃れようとしてもがきわめき続けている目の前の情けない男が同一人物などと、とても思えない。思いたくない。
「い、いいじゃないですか。サイさんのおかげで、ザフトの急接近が分かったんです。今隊長たちも全力で動いてくれているし、こちらも早めに手をうてそうですよ」ヒスイが必死でフォローする。
「それじゃ、医療班も急いで準備をしないとね、薬と機材は今でも足りないのよ、これがリスト。サイ君にも伝えておいて」
スズミはヒスイに紙束を渡し、さっさとその場を離れていく。渡されたヒスイはそのぶ厚さに仰天し、慌ててスズミを追いかけていった。「ちょ、ちょっと待ってください先生、無茶ですよ今の供給体制では……先生〜」
「やれやれ、アタシはブリッジで状況確認でもすっか……」オサキもサイには一瞥もくれず、そのままカタパルトをぶらぶらと出て行く。後には、殆ど涙目でハマーに頭を洗われているサイが取り残された。
ハマーは女三人組が出て行ったのを確認し、さらにアストレイに整備士全員がかかりきりになっているのを見て、一旦シャワーの勢いを弱めた。「胸、出せ」
非常にぶっきらぼうな一言に、サイは頭から流れる湯もそのままに「はい?」などと生返事をしてしまう。それに苛立ったのか、ハマーはいきなりサイの襟ぐりを掴むと、有無を言わさず胸元を広げた。ほどけかけていたネクタイが、湯の中へ落ちた。
「……まだ残ってんだな、その傷」
サイの胸を見ながら、ハマーはぽつりと呟いた。下に着ていた青いシャツの奥、右肩から心臓のあたりにかけて、黒く醜く刻まれた跡が隠されていた。あの雨の日、ハマーが憎しみのあまりサイに刻み込んだ傷だ。
あぁ、と笑いながらサイは答える。「傷は残ってはいますが、痛みは殆ど消えてます。下手に広げなければ、特に心配はないそうですし」
「だが、やっちまったのは事実だ」その傷口に、ハマーはゆっくりと暖かな湯を注いでいく。背中に当てられたハマーの手は、妙に大きいと感じた。「どうかしてたとか何とか、妙な弁解なんぞしねぇよ。だが、俺がやっちまった……左腕、見せてみろ」
言われるがままに、サイは濡れた袖を捲り上げて左腕を出した。黒く変色した痣は肩から二の腕までくっきりと残り、さらにその上に火傷の跡まである。何も知らない人間がいきなりこれを見れば、反射的に目を背けてしまうだろう傷跡だ。透けたシャツを通しても、その醜い傷ははっきりと確認出来た。
「まだ、十分に動かねぇんだろ」その言葉に、サイは一瞬答えに詰まった。左腕の動き方が今でも鈍いのは確かだ。ハマーだけの責任というわけではなく、あの後もサイが散々無茶をやって腕を痛めた結果なのであるが。
「マッサージ、ちゃんとやってもらってんのか」その問いにも、サイは首を横に振る。ネネを失って以降、サイの足は医療ブロックから少し遠のいてしまっている。副隊長として多忙になったからというのもあるが、何よりネネのいない医療ブロックを見るのは辛かった。それに、スズミも常に忙しい中で、容易にマッサージなど頼めるものではない。
「ドアホ。無茶ばかりやる癖に、その後のケアを何も考えちゃいねぇ。やっぱりてめぇも、アークエンジェルの連中と同じだな」言いながら、ハマーはサイの左手首を揉みほぐし始める。その行為に、サイは一瞬戸惑った。
あのハマーが、不器用なりにではあるがサイの左腕をいたわっている──ネネのマッサージとはほど遠い、痛みばかりを感じる乱暴なマッサージではあったが、サイはハマーのマメだらけの手を通じて、心臓に暖かいものが流れ込むのを感じた。
「ナチュラルの怪我なんて、俺にはどう治したもんか分からねぇし……このぐらいしか、やれるこたねぇ。
俺は今でも、ナチュラルもてめぇも嫌いだがよ。やっちまったことの償いぐらいはしねぇと、俺の気がすまねぇ。借りは必ず、一生かけてでも返す」
「そんな……俺は、貴方に何かを返してもらおうなんて思ったことはありませんよ。ハマーさんは今のまま、しっかり整備班を支えてくれていれば、それで十分です。それに」
左腕を洗われながら、サイは言葉を継いだ。「ハマーさん、最近全くお酒、口にしていませんよね。中毒になると、自力でお酒を止めるのが非常に難しいと聞きました。スズミ先生からも聞いたんですが、治療プログラムを受けたそうですね」
ハマーは湯を流したまま、サイのマッサージを続ける。ぶ厚い唇が見たこともないほどとんがっていた。「だ、だから何だってんだ。それがてめぇと何の関係がある」
「大ありですよ。そのおかげで、整備班の動きが非常にスムーズになりました。ブリッジともいい連携が取れているし、とても助かってます。
本当に、ありがとうございます」
真正面からにっこり微笑むサイに、ハマーは思わず耳まで真っ赤になった。「別にてめぇなんぞの為に酒止めたわけじゃねぇ! 馬鹿にすんな!」
「それは承知してます。アマミキョの為ですよね」
「あぁ、当たり前だ! 誰がてめぇみたいなドアホのド無茶野郎なんぞの為に! 全く……!」言い終わらないうちに、ハマーは再びシャワーの勢いを最大にして、思い切りサイの笑顔目がけてぶちまけた。
「うわ、ちょっと、ホントに熱いですってやめて下さいハマーさ……ちょっと何するんですかっ、下は自分で洗えますから!」
「うるさい、こうなったら穴という穴全部洗ってやるから覚悟しろ! おいお前らちょっと来い、副隊長様が丁寧に鼻の穴まで洗って欲しいってよー!」
「え、ちょっと待っ……」「ホントですか!?」「おー、副隊長の右腕俺一回触ってみたかったんだよなー、あの細っこい身体のどこからあんな力出るのかと」「ちょ、ちょっと待って下さい皆さ……うわぁあああああ!」
その後、整備士たちも交えてサイが上から下まで盛大に洗浄されたのは言うまでもない。


だが、アマミキョクルーが揃って心から笑うことが出来たのは、その日が最後となった。
ザフトの勢いは思いの外早く、この24時間後には南チュウザン軍とザフトの激突がヤハラの南、僅か数10キロの地点で発生。
アマミキョはこの時点までに総がかりで、南から避難してきた全ブロックをコアブロック近くに集結させていたが、それからまた北への移動を余儀なくされた。
山神隊に守られて移動しながらも、アマミキョは避難民の収容を続けた。時にはバビの急襲を受けながら、雨中を逃走した。全ブロックで収容した避難民の総数は、最大時で5000人を超えていた。
アマミキョ出発時に計算されていた収容可能人数の倍以上になる人数だったが、避難民はまだ増え続ける。
しかし、一人でも多く。一人でも多くの命を助ける。その志は、アマミキョクルーのほぼ全員が一致していた。


それでも。
何をどうやっても、限界というものは来る時は必ず来るものだ。
サイにもオサキにもヒスイにもハマーにもカズイにも、その限界は既に、足音を隠しもせずに堂々と近づいていた。
アマミキョはじりじりと、日ごとに北へ北へと追いつめられていく。そして──
その日が遂に、訪れてしまった。


「俺たちだって不本意だ。だが、いざとなれば自分らの身は自分らで守ってもらうしかねぇ」
そんな伊能大佐の言葉と共に、山神隊の手で白兵戦に備えての拳銃が各自に配布されたその日、アマミキョはウルマの海へ出た。当初の予定とほぼ同じに──予定といっても、最悪の場合の予定だったが。
ウルマ沖へ出て、各ブロックから避難民をオーブ行きの輸送船に移動させる。その後アマミキョはウルマに留まりつつ、集結してくる人々を手助けし迎え入れる予定となっていた。
風雨がやっとおさまり、快晴の青空の下、海上へと次々と送られていく輸送船を見送りながら、クルーたちはようやくほっと胸を撫で下ろしていた。
連合艦はタンバも含め、視認出来るだけでスペングラー級が6隻。山神隊の護衛もある。避難民を乗せた輸送船は既に9割がた、このチュウザンを離れた。
ここであれば、さすがに南チュウザン軍もザフトもまだ来ないだろう。最後の輸送船を見送り、クルーのほぼ全員が、久々の青空に心を癒されていた時──
ブリッジの中心に立ち指示を続けていたサイの脳裏に、突如として妙に赤い閃光が走った。
──サイ、逃げろ。今すぐに、私から。
こめかみを殴られたような衝撃に、サイは顔を上げる。「……フレイ?」
サイが呟くのと、連合艦のうち西端にいた一隻が盛大な火柱を起こしたのは、ほぼ同時だった。
一秒遅れて、ヒスイの、最近の彼女にしては珍しくなったパニック気味の叫びがあがる。「何ですか、あれ!? 四時方向、東の空が……」
アマミキョの眼前で幾つもの水柱が上がる。見ると、海原の向こう、突如として沸きあがった真っ黒な雲が東の青空を覆いつくしていた。
──いや、雲ではない。それは、ジェットストライカーを装備した、無数のダガーLの群れ。それもどういう意匠か、機体の全てのパーツが隙間もないほど真っ黒に塗りつぶされている。その数は、およそ30機を超えていた。
黒雲は一気に連合艦隊へと押し寄せ、ビームカービンの紅の光弾を雨あられと浴びせていく。瞬く間に、もう一隻が決死の対空砲火も虚しくまた火柱を上げた。


ダガーLの大群の出現に、すぐさまタンバから飛び出したウィンダム3機が、一斉に攻撃をかけた。
山神隊の伊能、時澤、そして竹中の3名だ。中でも憤りを露にして憚らないのが竹中だった。<連合に与する気もない癖に、ダガーLなど使って! 南チュウザンには、戦争のルールってものがないのか!>
<急くな、竹中。カラーリングとトサカ部分が違う、ライブラリ照合したろ? あいつらは南チュウザン軍の偽ダガーだよ>落ち着きはらった伊能の声。
<パクリの集大成には違いありませんがね。行きますよ!>時澤機も負けじとそれに続く。他の艦から出撃したウィンダムも、次々に彼らに追従していった。
その黒雲の中から、ひときわ紅い機体が閃光のように飛び出してくる。その閃光は、連合艦隊の砲火や山神隊のビームをも次々に踊るようにかわし、すり抜けていく。
<あれは……まさか! 冗談キツイぜ、そりゃあ!>伊能が思わず叫んだが、漆黒のダガーLを4機も5機も相手にしているのではどうにもならない。時澤も竹中も、他のウィンダムにしても状況は同じだった。そんな山神隊を尻目に、紅の閃光は一気に連合艦隊の遥か後方──民間救助船・アマミキョの直上へと占位した。


その姿を、サイは勿論のこと、アマミキョの誰もが見間違えるわけがなかった。同時に、見た者全員が自らの目を疑ったのだが。
「まさか……」「嘘でしょ!?」「何でだよっ」「ねぇ、どういうこと。どうして?」「ありえないよ!」ブリッジのみならず、船内各所で砂嵐のようなざわめきが巻き起こった。
勿論ブリッジでも、オサキが一番の怒声を張り上げていた。「どういう意味だよ! なぁサイ、教えてくれよ。どういうことなんだよ、コレ!」
どういうことも何も、サイも何も分からないまま上空を見上げる他はない。ただオサキたちと違うのは、予感があったか、なかったかの違いだ。
「そうか。これを恐れていたのか君は──フレイ・アルスター」
サイの視線の真っ直ぐ先には、IWSPを装備した紅のガンダム──ずっとずっと、アマミキョを命がけで守ってきたはずの、ストライク・アフロディーテの勇姿があった。
ただし、その右手に構えたビームサーベルの切っ先は、アマミキョに襲いくる敵にではなく、ほぼ一直線にアマミキョ・ブリッジに向けられていた。
悪魔の瞳の如く爛々と輝く、紅のカメラアイと共に。


「サイ、許せ。私はお前を──殺さねばならんのだ」
海上に浮かぶアマミキョを見降ろしながら、フレイ・アルスターの唇から呟きが漏れた。追従してきたスカイグラスパーからラスティの声が響く。<フレイ、無茶はしないでくれよ。こちとら後はジェットストライカーだけなんだから>
それに続くように、グゥルに乗って颯爽とダガーLの群れから飛び出してきたグフ・イグナイテッドからミゲルが通信を送ってきた。完璧に修復され、輝くほどのオレンジに塗り替えられた装甲が眩しい。<アマミキョは俺たちに任せて、フレイは後方から指示をくれりゃいい。グフだけでも何とかなる。言っとくが、機体性能はこっちが上だかんな。
あんたはこれ以上、手を汚すな>
好きな奴を、わざわざ自分から殺すことはない。明確に言葉にせずとも、仲間の意図するところはフレイにも読めた。だが、それを了承するわけにはいかない。
「自分のけじめは自分でつける。連合艦に構うな、目標はアマミキョ、一点のみだ!」
フレイの灰色の瞳がぎらりと光る。自分の中から追いすがる全てを必死で振り払おうとして。
その脳裏に閃くものは、サイの言葉。
──話、つけに行くよ。俺が君を憎くて憎くてたまらなくなった時は、話しにいく。何の理由があるのか、話を聞きにいくよ。
「だから貴様は甘いと言った、サイ」
今は、話をする余裕などどこにもないというのに。


アマミキョブリッジで、サイは微かに笑っていた。
何がおかしいのか他人には全く理解出来なかっただろうが、サイは笑わずにはいられなかったのだ。あまりにも合点がいくことばかりで。
──お前の今の気持ちの分だけ、お前は私を憎む。
──私がお前を殺すかも知れんのだ!
そうか、こういうことかフレイ。こういう意味だったのか。何で俺はもっと早くに気づかなかったんだろう。これじゃ確かに、話し合ってる余地なんかあるわけがない。争いってのはそういうもんだって、分かっていたはずなのにな。
その間にも、ブリッジは紛糾する。「あれがフレイなわけないだろ! 別の奴が乗ってんだ」「そうよ、何だかんだで彼女はずっとこの船の為に!」「じゃあアレは誰だよ? フレイ以外に、誰があんなゲテモノモビルスーツを扱えるってんだ!」
そんな混乱の中で、サイは静かに、だがよく通る声をその場に轟かせた。「みんな、静かに!」
一斉にブリッジ中の視線がサイに集まる。サイは淡々と続けた。「あれは間違いなく、フレイ・アルスターだ。俺たちの知ってる彼女だよ」
だからどうするんだ、どうすればいいってんだ。今まで俺たちを守り続けていたフレイが、どうして……戸惑いと怒りの目が次々にサイを射抜く。
彼氏だったら何とかしてくれよ。どっかの三流ドラマじゃあるまいし、どうして彼女が彼氏に銃向けてんだ!
「マイティ、可能な限りチャンネルを開いてくれ」サイは落ち着いて、震え続けるマイティに指示した。「フレイに呼びかけてみる。絶対に攻撃はするな。
みんな、アマミキョはここから全速で後退する。山神隊にも伝えておいてくれ」
「で、でも、もう……」マイティはコンソールをいじりながらも、涙目で上空のアフロディーテを見る。アフロディーテは空中で静止し、ビームサーベルを構えたままだ。
今のうちに逃げろとでも言いたいのか。意図が掴めず、サイは紅の機体を凝視してしまう。と、そこへウィンダムが1機、アフロディーテに体当たりを食らわしてきた。
「天海」のエンブレム──時澤機だ。何とかダガーLの大軍を振り切りアマミキョの防衛に回ることに成功したウィンダムから、時澤の怒声が響く。<アルスター嬢! 何故貴方がここにっ……一体、何をしているんだ! アマミキョに刃を向けるなどとっ>
感謝します、時澤軍曹。この隙を利用して、アマミキョは一気に後退を開始した。その間に、サイは声の限りにオープンチャンネルで呼びかけた。「フレイ! 聞こえているなら、答えてくれ。
みんな、君に問いたがっている。何故、アマミキョを攻撃する?
ミゲルとラスティもそこにいるんだね。ナオトとマユ、カイキはどこにいる? 君たちがいるなら、ティーダやカラミティもいていいはずだろう?
アマミキョを沈めて、君に何のメリットがある? 可能なら、教えてほしい!」


コクピットまで届いてくるサイの声を聞きながら、フレイは機体の右腕のサーベルはそのままに、ゆっくりと左腕にビームカービンを構える。誰にも聞こえない程度の呟きと共に。
「アマミキョを作り、育て上げ、処理する。それが、私に課せられた使命だからな……サイ。
私は、お前が思うような立派な女ではない。使命が全ての、つまらぬ人間にすぎない」
真っ直ぐにビームカービンの閃光がアマミキョに向け飛んでいくが、ウィンダム──時澤機のシールドがその光を打ち払った。<アーガイルの声が聞こえなかったのか、アルスター嬢!? 話し合いを望む民間船に攻撃など、言語道断!>
「アマミキョはただの民間船ではない!」フレイもスピーカを通じて叫ぶ。但し感情は交えずに。「そのことは貴公らも気づいているはずだ、時澤軍曹!」
ウィンダムはシールドごと機体をアフロディーテに突進させる。アフロディーテの右手のビームサーベル、ウィンダムのビームサーベルが空中で刃を交えた。<少なくとも、乗っているのは民間人だろう!>
「果たして、そうかな? 私にこの命令を下した人間は、そうは思っていない!」
<え?>
明らかな戸惑いの声が、ウィンダムのスピーカから漏れた。その瞬間、アフロディーテの後方から不意に、紅に熱せられた鞭が飛んできた。
<フレイ! それ以上こいつらに喋るこたぁねぇっ>オレンジの塗装が眩しい、ミゲルのグフ・イグナイテッドのスレイヤーウィップだ。鞭の先端は蛇の如く空をうねって海上を突っ走り、アフロディーテを素通りして下方からウィンダムの左脚部を捕らえる。それをウィンダムが叩き切るより先に、鞭から電撃が放たれた。
アマミキョの眼前で、紅い電撃に呑まれる時澤機。<アマミキョ乗員が、民間人ではないと? どういう意味だ……っ!>スパークする電流に苦しみながらも、時澤はフレイへの問いかけをやめない。
<フレイの代わりに答えてやるよ!>ミゲルが叫ぶ。<連中も、あんたらも、俺たちまで含めて……アマミキョに関わった人間は、ただの一般人とは見なされないってことさ!>


ミゲルはウィンダムの右脚部にまで鞭を絡ませ押さえつけつつ、機体左腕のビームガンを機動させる。機体も、そして新たに作られた自分の義手の調子もいいようだ。グフの銃口は真っ直ぐ、アマミキョブリッジへ向いた。「悪いな、サイ……お前、どこまでもいい奴だったぜ。だからこそ、こんなことになっちまったんだが」
後退を続けながらも、アマミキョからのサイの声はグフのコクピットまで響く。<ミゲル・アイマン! 教えてくれ、君たちの行動の理由を! 俺も含めて、みんなワケが分からなくなってる!
攻撃ならせめて、クルーの皆を避難させてから……>
その声を振り払うように、ミゲルはロックオンを完了したアマミキョブリッジに向けて、引き金を引く──なに、気にすることはない。手元のボタンをちょいと押すだけだ。あのミリアリアって娘には悪いことをしちまうが、サイ、みんな、出来るだけ苦しまずに──
グフの様子に気づいたのか、アフロディーテから思わぬ通信が飛び込んだ。<やめろ、ミゲル! アマミキョは私がやる、私がやらねばならん!>
畜生、やっぱりまだ迷っているのか、フレイも俺も──舌打ちと共にミゲルの手元が一瞬鈍ったその時、響きわたるアラートとほぼ同時に真横から思い切り衝撃を喰らった。右から、山神隊竹中のウィンダムが体当たりしてきたのだ。
<卑劣な連中めが! ずっと仲間のふりをして、民間の救助船を欺くなど、どんな理由があろうと許せることでは!>若さ故の怒りに燃えたぎった竹中は、ダガーLとの戦闘から離脱して一直線にアマミキョのところへやってきたのだ。そのおかげで時澤のウィンダムも電撃から解放される。サーベルに散らされた鞭の先が、力なく宙を舞い海へ落ちていった。


解放された時澤のコクピットに、伊能から通信が入った。<時澤、奴らの目標は艦隊じゃない! アマミキョだけだ!>
見ると、後退してきた伊能のウィンダムのすぐ背後にまで、ダガーLの真っ黒な大軍が押し寄せてきている。黒い機体に真っ赤なカメラアイだけが光るその姿に、時澤の背筋に氷のような戦慄が走った──人間が乗っている気がしない。
山神隊や艦隊からの攻撃をどれほど受けようが、どれほど装甲を剥がされようが仲間を落とされようが、彼らは意にも介さずアマミキョに向かっていた。光を目指す虫のようにアマミキョに集まってきたダガーLどもは、ビームカービンの一斉射撃を開始する。
目標はただ一つ──救助船・アマミキョのみ。


<アーガイル、とっとと後退しろ! もう話し合ってる暇なんかねぇぞっ>伊能の怒声がブリッジに叩きつけられると同時に、紅い光の雨がアマミキョに降りそそぐ。
「全員伏せろ! 装甲部付近にいる者は、大至急内部ブロックへ退避!」サイが船内オールで叫ぶや否や、激しい震動がブリッジを襲った。
アラートと悲鳴がブリッジ中を交錯する。「左舷B4ブロックに被弾!」「E7から11区画までの通信途絶! 隊員の状況も不明ですっ」「B6の食糧庫に火災発生!」「C2中央通路もだ!」
サイの手元のサブモニターは船内の状況を分かりやすくCGで表示していたが、緑で描かれた船のディテールの上に「LOST」「ERROR」の赤文字が加速度的に増えていく。まるで、乾いたコンクリートの道路を一気に黒く染めていく雨粒のように。
その間にも、青空だったメインモニターを真っ黒に埋めたダガーLからは次々と光の雨が降る。ブリッジへの直撃こそ伊能たちのウィンダムが防いでくれているが、それもいつまでもつか。
「オイ、ヘルダートは撃たないのかよ! 立派な正当防衛だろっ」操舵輪で身体を支えるようにしながらオサキが叫ぶが、サイは否定した。「駄目だ、この距離じゃ近すぎる。下手に撃ち抜いて甲板にでも墜落されたら、どうする!」
このダガーLどもの勢いから見て、十分にその可能性はあった。山神隊が撃っても斬っても、達磨のようになってもダガーLはアマミキョに向かってくる。磁石にひきつけられる砂鉄のように。
彼らはただひたすら、アマミキョの破壊だけを目的としている機体のように見えた。例えこちらが撃っても絶対に退くことはないだろう。避けもせずに被弾し、そのまま突っ込んでくるはずだ。そうなれば、普通に撃たれるよりアマミキョの被害は大きくなる。ダガーL自体が、アマミキョに向けられた弾丸そのものなのだ。
第一、避けられると分かっていてもフレイに銃口を向けたくはない。それに、可能性は非常に低いがナオトやマユ、カイキが万一、あのダガーL軍団の中にいたら。それを考えると、正当防衛がどうの民間人の戦闘行為がどうのという以前に、ヘルダートの砲門を開く決断は、サイにはどうしても出来なかった。腰抜け副隊長と呼ぶなら呼ぶがいい。
サイは唇を舐めた。フレイの目的がこのアマミキョコアブロックのみだとすれば、まだみんなが助かる道はある。フレイは、避難民の誘導が完了する時を見計らって攻撃をしかけてきた──ならば、クルーたちの避難もうまくいく可能性はある。
フレイが、「人」は殺さないのであれば。船だけが目的ならば。
「ヒスイ、トニー隊長とカタパルトへの通信状況は?」「まだ大丈夫です」揺さぶられる船の中で、サイはヒスイと言葉を交わす。ヒスイも、自らのパニック症状に負けずに随分冷静になったものだ──サイは心中感心しながら、彼女に次の指示を出した。
「至急、救命艇をクルーの人数分用意してくれ」
え?と顔中に書かれたような表情で、ヒスイはサイを振り返る。だが構わずにサイは続けた。「潜水装備を忘れないように伝えて。負傷者がいたら、最優先で医療ブロックへ」
ヒスイは幾つも幾つも言葉を発したいのを、整理出来ずに唇の裏ギリギリで押しとどめているようだ。抗議や疑問の代わりに彼女の口から出たものは、いつもの何気ない言葉。「……了解、しました」
サイの真意を半分ぐらいは理解したのだろう、ヒスイは何も問わずに通信を繋いだ。だがその時、すぐそばでやりとりを聞いていたオサキが割り込んでくる。「どういうことだ、サイ! 全員ここから逃げろってかっ」
揺れがまた酷くなる。オサキはサイの右肩を掴んで震動に耐えながら叫んだ。「アタシらを含めて、なのか!?」
こうまで大声で言われて、ブリッジ中に響かないわけがない。ブリッジクルー全員の驚愕の視線がサイに注がれたが、サイはにべもなく答える。「当たり前だよ。君たちを死なせるわけにいくか」
言いながら、サイはコンソールをいじって医療ブロックに通信を繋いだ。用件をごく手短に話した後、サイは淡々と続ける。「スズミ先生、負傷者及び病人、妊婦の避難が最優先です。あと申し訳ないですが、船内の負傷者の受け入れもお願いします。
準備が終わったら、チャンネル2で連絡を下さい。医療ブロックごとパージを開始します……ルート29での避難開始を、お願いします」
<サイ君……待って、貴方本気なの!?>ノイズだらけの通信ごしに、スズミの茫然とした顔が明滅する。サイは静かに答えるだけだ。「コアブロック以外に、フレイたちは攻撃をしかけては来ない。あれだけのダガーLがいるのに、現在後方へ離脱中の他ブロックが損傷したという報告も入っていません。
彼女たちの狙いは、俺たちが今いるコアブロックのみです。他のブロックは無関係だ」
<だからって……やめなさい! ネネやリンドー副隊長から貴方を託された大人として、それだけは許すわけにはいかない!>
スズミの必死の声が、揺れとアラートの嵐の中でもサイの胸に響く。ネネを失った直後、何度も謝りながら俺を抱きしめてくれた時と、同じ声だ──だが俺は、ここで甘えるわけにはいかない。
「先生。自分はアマミキョ副隊長です。船を預かる者の一人として、クルー全員を守る義務があります……指示に従って下さい。
チャンネル2からの合図後、5分後にパージを開始します。固定が必要な患者は至急準備を」
<サイ君! 貴方、どこまで自分を傷つければ……>
サイは無礼を承知で、スズミの言葉が終わらぬうちに通信を切った。
──ありがとう、先生。何度も俺を助けてくれた先生のこと、俺は絶対に忘れません。
すぐ横では、オサキが突っ立ったままぶるぶる震えながら両拳を握りしめている。今にもサイをぶん殴りかねない。「お前……まさか」
それ以上を言えず、顔を伏せて帽子を目深に被ってしまったオサキを尻目に、サイはクルーに指示を出していく。「医療ブロックのパージ完了後、コアブロックに接続中の他ブロックも全て切り離す。救命艇への避難が間に合わないと判断したクルーには、パージ予定のブロックへの移動を指示してくれ。救命艇かパージ予定ブロック、どちらかに乗れれば構わない。
海岸線まで後退し、クルー全員の避難が完了次第──
速やかに、アマミキョ自沈プログラムを実行する」

 

つづく
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