アマミキョから三発目の銃声が轟いた時、もうアフロディーテはビームサーベルを二刀流で構えデスティニーに襲いかかっていた。身体を貫く不可解な痛みに耐えながら、フレイは白目まで剥いて叫ぶ。「分かったぞ、貴様らザフトの目論見が!
アマミキョ内部の人間を殺し、船だけかすめとろうという算段か! 答えろ、シン・アスカ!」
<訳の分からないこと言ってんじゃねぇよ、人でなしが!>光の刃が空中で激突する。両機がその勢いで弾き飛ばされた直後、デスティニーの双対のフラッシュエッジが、アフロディーテの両側から挟み撃ちにする如く逆襲してきた。
だがアフロディーテは弾き飛ばされていた間に、右腕のサーベルをビームカービンに持ち替えた。さらに背部のIWSPからレールガンを撃ってフラッシュエッジめがけて炸裂させる。
それだけで海上に強烈な嵐が巻き起こったが、フレイの攻撃は終わらない。レールガンによってフラッシュエッジの軌道が変えられ、デスティニーに戻ろうとした瞬間を狙ってアフロディーテはビームカービンの閃光を放つ。
一瞬天空が黒くなり、光の華が大輪を咲かせてデスティニーを包む。まるで抱きつくように。
さらにアフロディーテはその光の中にまで猛然と突っ込んでいく。「シン・アスカ! 私は知っているぞ、お前のことをお前よりも!」
シンは目が眩む寸前となりながらも、対ビームシールドで光の華を防ぎきっていた。<何を言って!>
血にも似た光で空を染め、2機のモビルスーツが光となって衝突する。「お前のことも、フリーダムのことも、マユ・アスカのことも、ステラ・ルーシェのこともなぁ!」
直接機体に喰らいついて、デスティニーと取っ組み合う形となったアフロディーテから、女の哄笑が響きわたる。唐突にスピーカから出てきた名前に、デスティニーの機動が一瞬戸惑いを見せた。
憎しみを抱き続け復讐を完遂した敵、守れなかった妹、同じく守れなかった少女の名を次々に提示され、明らかにシンは動揺していた。<なんで……なんでお前が、マユとステラのことを!>
そこへ、さらにフレイは畳みかける。「彼女たちのことも、お前よりは知っているつもりだ。彼女たちは既に私の手の中にある……」
<なんで! お前が何を知ってるってんだ!>シンはこの口撃には、ひたすら叫ぶより対処方法がない。さらにフレイは笑う──「お前はいずれ私のもとに来るだろう! 彼女たちを追って、自らの正義の為に戦うことになる!」
<はぁ!? 錯乱でもしたのか、コイツ!>
必死にアフロディーテを振り切ろうとするシンだが、激しい動揺は隠せない。実際、この距離であれば十分相手を掌部ビーム砲・パルマフィオキーナの餌食にすることも出来たはずだが、この時のシンはそれが出来なかった。フレイはその笑い声だけで、デスティニーの機動を止めにかかっていたのだ。
だがデスティニーが形勢を逆転されかけた瞬間、アフロディーテの背後からドラグーンの光が空を切り裂いた。<その女に惑わされるな、シン!>
緑のハヤブサが自機に激突する寸前に、アフロディーテは素早くデスティニーから離脱した。笑い声を消さないまま。「レイ・ザ・バレル──もう一人のクルーゼ。もう一人のレイラ。哀れなる子羊の一人か」
彼女の笑いには同時に、激烈な怒りも含まれていた。怒りを消す為にわざと笑っている。彼女自身、感情の制御を失いかけている。自分自身、どう制御していいのか分からなくなりつつある。銃声を聞いてから、これほどまでに自分がコントロール出来なくなってしまうとは。「残念だな。お前の相手は、後ろだ! 貴様にはお似合いの相手よ!」
レイはレジェンドの6基の小型ドラグーンを再装填し、背後に迫った悪意に意識を向ける。そこには既に、先ほどの三倍以上の数量の黒ダガーL部隊が迫っていた。しかもそのうち4機に1機は、黒く塗られたウィンダムだ。シンの叫びが響く。<何だこりゃ……連合顔負けの物量作戦かよ!>
再び海上に降りそそいでいく紅の光の雨の中、レジェンドに向けてフレイの勝ち誇った笑いが流れた。「命令の為なら自らの命も惜しまぬ、捨て身の人形兵たちだ。貴様とは仲良くなれそうな連中だろう……フフフ、アハハハハハハハハハハ!!」


「答えて下さい……アムルさん。俺たちを撃ったのは貴方ですか」
次第に酷くなる痛みに耐えながら、サイはそれでも感情を押し殺して眼前の女に問う。銃を持ったままの右手で左肩を押さえるが、痛みも血も引いてはくれなかった。そして相手は笑って答えるだけだ。「当たり前でしょ。見て分からないの、サイ君?」
「では、航行システムを止めたのも貴方ですか」怒りを抑えろ、抑えてくれ、俺の右腕。冷静になってくれ、俺がいいと言うまで彼女に銃口を向けないでくれ。このアマミキョの大混乱が、全て彼女の仕業と決まったわけじゃない。冷静に──
だがそんなサイの心を嘲笑うが如く、アムル・ホウナはふっと長い髪をかき上げて答えた。「ええ、そうよ。もっとも、ここまでやれとは言われなかったけど。
ザフトの人からもらったプログラムじゃ、残念ながらエンジン爆発までは出来なかったのよ。だから、ちょっと小細工しちゃった!」てへ、と声に出さんばかりの微笑みと共に、アムルは言い放った。「どうやってここまで来られたか、知りたい? 貴方のお友達が、協力してくれたのよ」
傷ついたサイに向かい、アムルは笑って銃口を向けたままゆっくり歩みを進めていく。ブリッジが危険な状態にあることを知らせる非常ランプが紅く明滅を始める。その光と外の戦闘の爆光が混じりあい、アムルの姿は紅と白の光を帯びて異様に大きく見えた。
「まさか……カズイが」
「そう! 貴方に追い出された私を、ずっと匿ってくれたの。ご丁寧に、監視システムの死角まで教えてくれたわ。だから私も、無事にここまで来ることが出来た」
もういいだろう。もうこの女を撃たない理由はなくなった。
この女は俺たちの船を壊し、俺たちから居場所を奪い、絆を奪い、カズイを傷つけた挙句利用し、オサキを殺した。サイの右腕が血染めの左肩を離れ、ゆっくりと上がり始める──激しく震える銃口が、アムルに向けられた。真っ直ぐ狙いたいのに、痛みと動揺で腕が言うことを聞かない。息が上がる。自分で自分の息の熱さが分かる。
「サイ君? なぁに、それ?」アムルはふっと足を止める。顔に張りついた嘲笑はそのままだ。「ふぅん、意外。貴方でも銃口を他人に向けることが出来たのね。そりゃそうか、ローエングリンで村一つ吹っ飛ばしたくらいですものね、2年前には散々殺してるんですものね、当たり前か」
高まってくる痛みに、銃と一緒に震える右腕。落ち着け、落ち着け、落ち着いてくれ、サイ・アーガイル……聞かねばならないことはまだある。
オサキと俺をこれほど容赦なく撃ったこの女のことだ、アイツは……アイツはどうなったんだ?
「カズイは! カズイをどうしたんですか、返答によっては……!」
「あぁ、あの子? 知らないわ」サイの叫びにも、女はしれっと答えるだけだ。生ゴミを出すなんて面倒くさい、とでも言いたげに。「気づいたら、いなかったのよ。あの子逃げ足だけは早いからねー。ま、あんなナチュラル、私が手を下す価値もないけど」
カズイはまだ無事と判明してサイはほんの少し安堵したが、それでもアムルの最後の一言は、サイに再び銃口を向けさせるに十分な効果があった。
アムルの視線がふとオサキに向く。えぐられた首筋を晒したままのオサキに。「だけどこいつはホント、鬱陶しかったのよねー。ナチュラルの癖に何かっていうと私に噛みついてきて、まるでサイ君の犬だったわね。せいせいしたわ、やっと静かになって」
撃て、撃て、撃て! この女は今、オサキを、俺たちを最大限に侮辱した!
サイの頭に、目から噴き出しそうになるほどの熱い血が一気に昇っていく。血が出るほど歯を食いしばり痛みに耐え、サイは引金に指をかけた。
だが、アムルの反応は意外なほどに素早かった。彼女はサイの様子を見て不意に歩みを早め、銃を腰にしまいながら一気に大股でサイの鼻先、ほんの30センチ足らずのところまで近づいた。近づいたというより、ふわりと飛び込んだと言った方が正しいか。
白目の面積の広い、猫のような瞳が妖しく輝く。全くその気はないが、キスしようと思えば出来る距離だ。熱い息と共に、唇から吐かれる言葉。「でも、貴方には、ずっと会いたかったの。サイ君」
その途端、サイの右腕は銃ごとアムルの左手に捕らえられ、高々と差し上げられた。アマミキョから降りた時に見せた彼女の腕力も相当だったが、それとは比較にならないほど凄まじい力がサイを襲う。畜生、右腕の力は結構自信がついてきていたはずなのに──アムルを殴らんばかりの勢いでサイは抵抗しその手を振りほどきかけたが、同時に彼女は血を噴き出しているサイの左肩を、そのまま右手でむんずと掴む。長い爪が思い切り傷口に食い込み、サイは酷い悲鳴を上げた。
一気に身体の力を奪われ、サイはそのまま背後のメイン・コンソールの台座部分に背中から押しつけられていく。面白いくらいに勢いを増す左肩の流血、その痛みは心臓から頭までを貫く。アムルの力に圧され、ずるずると身体は崩れ落ちていき、しまいにサイは通路に座り込んでしまう体勢となってしまった。
それを狙っていたかのように、アムルはサイの上に馬乗りになる。長いスカートの裾に包まれたアムルの左膝が、傷つけられたサイの右足首を直撃した。
「う……ううぅおあああああアアアぁあぁああああ! やめろ、離れろ、離せ畜生っ……がああああああアアあああああぁあぁああああ!!」


「う……!?」暴れ狂うアフロディーテの中で、フレイは不意に身をよじらせた。自分の内側を貫く痛みを感じて。
原因は分かっている──アマミキョで、サイに何かが起きた。
フレイはすぐにモニター内のアマミキョを確認する。煙を噴き出しながら、それでも海上に留まって攻撃に耐え続ける、トリコロールの船。
その手前には、まだ諦めることなく立ち向かってくるデスティニー。アフロディーテの背後には、ダガーLとウィンダムをレジェンドが次々と撃ち落している。さらにデスティニーの後ろで、インパルスとハイマニューバ2型がアマミキョへ迫っていた。
スレイヤーウィップでデスティニーを牽制しながら、グフイグナイテッドのミゲルが叫ぶ。<フレイ、冷静になれ! 幾らザフトだって無抵抗の民間人を殺しやしねぇ、船を壊さず乗っ取ろうってだけだろうが!>
ミゲルを援護しつつ、ラスティのスカイグラスパーも追いついてきた。<そうだよ、フレイ! これ以上はニコルだってもたない、そもそも最初の命令は……>
「出来ない!」ラスティに皆まで言わさず、フレイは叫ぶ。叫ばずにいられない。「それだけは、絶対に出来ない! サイを殺すことだけは、絶対に出来ない!」
ミゲルもラスティも、その叫びで押し黙ってしまう。フレイはなおも続けた。「あの船の中で、サイが傷つけられている。その痛みが分かる……私には分かってしまったんだ!
すまない……すまない!」
数瞬の沈黙の後、ミゲルが口を開いた。<やっぱりそこまで、フィードバックの影響が進んでいたか……俺たちみたいに、安定剤で何とかなるレベルじゃなかったみたいだな。
サイの苦痛はあんたの苦痛だ。だから、一瞬で終わらせたかったのによ>苦虫を噛み潰したような声が響く。
「申し訳ない」フレイの口からは謝罪の言葉しか出ない。
<やめろよ、フレイ。フレイのそんな涙まじりの謝罪なんて、聞きたくないよ。覚悟してたんだろ>わずかに諦念が混じってはいるが、あくまで一定の軽さを忘れないラスティの声。
「お前たちには、申し訳ないとしか言えないのだ……今までのことも!」
デスティニーから一旦大きく離脱し、そのビームライフルを空中でかわしながら、フレイは謝り続ける。
<分かったよ>その時、ミゲルの声がフレイに応じた。意外なまでに明るく。<ラスティ、もうやることは決まったぜ。つーか、最初っから決まってたようなもんだったがな。
御方様のことはとりあえず置いといて、今はフレイ──あんたの命令のみに従う!>
ラスティからも、腹を決めた応答が返ってきた。<了解。フレイ、もう迷わないでくれよ。正直言うと、今のフレイを見てるの、嫌だったんだ>
二人の仲間の声を受けて、痛みで崩折れかけていたフレイの灰色の瞳に再び力が漲った。「分かった。二人の命、私が預かる!」
アフロディーテの紅のカメラアイが、輝く。「これより我らアマクサ組はアマミキョクルーの救出に向かう、その後にアマミキョコアブロックの破砕作業に移る!
邪魔者はザフトだろうと連合だろうと構わん、蹴散らせ!」


「とても、いい声……すごく気持ちいい。とっても」サイの絶叫を、アムルは半ば恍惚とした表情で聞きほれていた。
その爪はサイの左肩にさらに食い込み、皮膚を、肉を深く抉っていた。流れ出した血は既に、サイの制服の左半分をぐっしょりと赤く濡らしている。右足首にかけられたアムルの体重はさらに増していく。皮膚が破れ、肉が潰れ、神経が切断されていく音がサイの中で響く。二人の他にはオサキの死体以外に誰もいないブリッジに、痛みに満ちたサイの叫びがこだまする。
「あったかい。この血、この肉、この痛み、ずっと感じてみたかった。
サイ君。私、ずっと願ってたの。貴方がこうなることを。
貴方は私の心を覗いた癖に、私を分かろうとしてくれなかったから。ねぇ、どうして私だけなの?
貴方は他の人は、ハマーさんでさえも理解しようとしてたのに、私のことは少しも見てくれなかった。ねぇ、どうして?」
少女のような無邪気さを装い問いかけるアムル。何を言ってるんだ、今更。朦朧としかかる頭を振りながら、サイは敢然と彼女を睨みつけた。「簡単ですよ。
貴方、少しでも他人を分かろうとしたこと、ありますか? 人を知ろうとしたことがありますか!
カズイのことを少しでも分かろうとしたのなら、アイツにあんな真似は出来なかったはずだ」
目の前のアムルの瞳が、酷く細くなったように見えた。剥き出される白目。「やっぱりサイ君とは、どこまで行っても駄目なのね……所詮、子宮を持たない奴に、私のことが分かるわけがないんだ!」
激しくなる言葉と同時に、サイの背中が台座に二度、三度と打ちつけられる。「サイ君、私ね。ずっと母が憎かった……知ってるわよね」
出血の酷くなった左肩から指ですっと血を拭い取ると、アムルはサイの頬にその血をべっとりと塗りつけていく。化粧でもしようかというように。
自分の血の臭いで、サイは何とか気力を振り絞った。もう左肩から先の感覚はほぼない。真っ赤に染められた腕が、肩からだらりとぶら下がっているだけだ。アムルの指はサイの肩の肉を、神経を、組織を破壊し、そして今サイを汚していく。
「言ったはずよ。母にバイオリンを押しつけられたこと……
バイオリニストとしてコーディネイトされたはずなのに、私にその才能はなかった。やる気もなかったわ。母は無能な私に失望して、ずっと私を縛りつけた。
捨ててくれた方がよっぽど楽だったのに、私を普通のOLとしての人生に嵌めこもうとしたのよ」
絶体絶命の淵の淵まで追いつめられながらも、サイはそれでも諦めてはいなかった。絶対にこの女に負けてたまるか──「それが……お母さんの愛情じゃなかったんですか。野放しにしたら、貴方は何をしだすか分からないから!」
それを聞いたアムルの左手に、さらに力がこもっていく。右腕からどんどん力が抜けていく。何とか銃は落とさずにすんでいたが、とてもアムルを狙って引き金を引くほどの力は出ない。「愛情? 愛情ですって? あんなものが愛情なら、愛なんてない方がマシよ!
普通の幸せを掴むことが貴方にとって一番幸せだなんて、何で母が決めるのよ? 私はもっと違うことがやりたい、その才能もある! サイ君知ってるでしょ、私は戦えるの!
私はずっと探し続けてきたの、母の愛とやらから逃れる方法を! バイオリンを捨てたその時から、私は母の愛なんて古い概念は諦めたの。
私の解放こそが私にとっての母の愛だったのに、母は全く逆のことをした!
私は別の道を探したかったのに、オーブで無理矢理ナチュラルと一緒に働けと言われた! コーディネイターがナチュラルの中で働くことが、生きることが、どれだけつらいか貴方に分かる?
どんなに努力したって、コーディネイターだから当然って顔されて!
ミスをすれば、コーディネイターの癖にって顔されて!」
感情のままにとうとうと喋り続けるアムルを、どこか酷く冷静にサイは眺めていた。身体の痛みにも、目前に迫った危機にも関わらず、何故か自分にはこの女をからかえるほどの余裕がある。「それぐらいは……知ってますよ。全てにおいて優秀なコーディネイターなんてごく僅かで……大部分の人は、一部の能力だけ特化されただけか、或いは健康面だけは優秀で、他はナチュラルと全く変わりのない人もいると聞きました。
細かな作業が必要とされる事務が苦手という、貴方のような人がいたって、不思議じゃないですね」
「嬉しい、サイ君。まだ私をからかう元気があるみたいで」笑いと共に、サイの右足首にさらにアムルの体重が乗っていく。再びサイの歯の間から悲痛極まる呻きが漏れた。
「毎日毎日汗臭いナチュラルと一緒に満員電車に乗せられて、暑い日も寒い日もナチュラルと一緒に馬鹿なルーチンワークをやらされて、ナチュラルの作った馬鹿な常識や慣習に縛られて、やっと帰ってくれば母のうるさいバイオリンを聞かされながらくだらない皿洗いをさせられる。こんな歪んだ毎日を、私はずっと続けてた。続けざるを得なかった、母に縛られていたから!
どんなに隠してもコーディネイターってことはどこかでバレて距離を置かれたわ。自分たちは何も持たないナチュラルの猿の癖に、私を遠巻きにして、私を分かろうともしないで、話しかけてくるのはミスをした時だけで、何も知らない癖に群れるしか能がなくて、群れて騒いで私を馬鹿にして……!
みんな死んじゃえばいい。毎日毎日思ってたわよ!」
サイの意識は、既に痛みを感じられなくなるレベルまで朦朧としていた。目の前の女が自らの心情をここまで吐露しているのに、何故か何の感慨も湧かない。
それどころかサイの胸に湧き上がってきたものは、先ほどよりも一層強い、炎のような怒りだった。
こんな自分勝手な都合だけで、この女は今まで、どれだけ周りを振り回してきたのだろう。アムルの指先で血を頬にも襟にも髪にも次々と塗りたくられながら、サイはそれでも、ずれた眼鏡の奥からアムルを睨みつけるのをやめなかった。
最終的にこの身勝手さで、この女はカズイを傷つけ、アマミキョを壊し、オサキを殺したのだ!
「貴方は──お母さんや、一緒に働いていた人たちや、周りの人と、そのことについて話したことがあるんですか? 自分がどうしてほしいか、伝えたことがありますか?」
半分呻きながらも、サイは静かに尋ねた。そして返ってきたものは、予想通りの答え。
「はぁ?」まだ銃を持ったままだったサイの右腕が、アムルの手で力まかせに床に叩きつけられる。「話せるわけないじゃない! 母に話したって分かってくれるわけがない、ナチュラルの馬鹿たちにだって理解出来るわけないのよ!」
「やっぱりそうだ」サイも負けずに、声を振り絞る。絶対に負けるか、この女の幼稚な狂気に。「貴方は、人と話すことを最初から放棄したんだ。人に自分を伝えるのが怖くて、分かってくれるわけがないと思い込んで、最初っから人を拒絶したんだ。
俺にこうして初めて話してくれたのは……俺が、完全に無力だと分かってるからでしょう。こうでもしないと、こうでもして人を屈服させないと、安心して人と話せないんだろう、あんたは!」
その途端、サイの頬にアムルの右拳が飛んだ。血だらけの頬を直撃した拳は、もう一度その甲で反対側の頬を打つ。唇から血の塊が飛び、眼鏡がさらにずれた──だが、まだ落ちはしない。サイの意思そのものであるかのように、眼鏡はまだしっかり鼻の上に留まっている。
「私が人と話せない? 自分を伝えるのが怖い? 笑わせないでよ。
何であの母や、あのバカ猿どもと話す必要があるの? 理解されないって分かっているのに、無駄なことする必要なんか、あるわけないわ!」
サイの右腕を掴む手にさらに力がこめられ、遂にサイはその手から銃を落としてしまった。アムルは素早くその銃を蹴り飛ばすと、今度はサイのネクタイを掴んでちぎれんばかりにその身体を引きずり上げる。「まして、あんな男を押しつけてきた母さんなんか!」
憎しみを吐き捨てるようなアムルの言葉。サイは思い出した──ウーチバラ宙港まで彼女を追いかけてきた、不器用だが誠実そうだった長身の男を。「貴方の、恋人の男性ですか」
「恋人?」サイを舐めるように見下げながら、アムルは怨みを一気に叩きだす。「あんなの、恋人でも何でもないわ。ただ遺伝子情報が適合して子供が産めるってだけの、形式上の婚約者よ。
それでも母さんは、私はあの男となら幸せになれるとひたすら信じてた。医者だったしねー、ホント肩書きに弱い、老害よね」
この期に及んで散々冒涜される婚約者を、サイは無性に哀れに思った。ホウナ親子の最大の被害者はあの彼だろうとサイは常日頃思っていたし、アムルに対して実際そう言ったこともある。確か彼女に最初に酷い目に遭わされたのは、その直後だったか。
だがサイが元婚約者に同情している暇もなく、アムルは信じられない一言を吐いた。「私は誰かと一緒にいないと駄目だって信じてたみたい。私は一人で野たれ死んだって、全然平気なのに」
この女は一体何を言い出した? 追いつめられた末の強がりか? サイはアムルの意図が読めず、血に染まりかかる視界でアムルを穴があくほど見つめた。その表情を、アムルは待ってましたとばかりに笑う。
「何、意外そうな顔してるの? あぁそっか、ナチュラルには理解出来ないかもね。寂しくて寂しくて一人じゃ生きられない、一人になったら何も出来ない、群れてないと何も出来ないナチュラルには。馬鹿な恋愛ごっこでもしないと生きていけないなんて誇らしげにほざくナチュラルには!
正直、さっきの貴方たちの会話、吐き気がしたわ。こんな時になってもくだらないラブコメやらなきゃ気がすまないわけ、ナチュラルの女ってのは」
「何が言いたいんだ、貴方は……」またオサキを侮辱する気か! サイの右拳が握りしめられたが、アムルは空いている方の手で易々とその拳を押さえつけてしまう。リズムをつけて歌うような口調で、彼女は言った。
「まだ分からない? じゃあ、サイ君には特別に教えてあげる。
コーディネイターはね、寂しさを感じることはない。
コーディネイターは、一人でも生きていける。人は寂しさを感じて人を求める、なんていうナチュラルの腐りきった観念になんか、縛られることはないのよ。一人で何でも出来るんだから。
それが証拠に、コーディネイターはあんな宇宙の片隅に、素晴らしいプラントを作ることが出来た!」
サイは目を剥かずにいられない。本当に、この女が何を言い出したのか分からない。
コーディネイターは確かに俺たちより優秀なのかも知れない、だが──「違う! コーディネイターはそもそも、外宇宙との交流の為に生まれたんだ。普通の人間とのつながりを放棄して、どうやって外宇宙とつながることが出来るんだよ!?」
「寂しさを忘れるから、宇宙でも平気で生きていけるのよ」サイの抗議を、アムルは無下に否定する。「だから、コーディネイターは子供を産まない。産む必要がないからよ。プラントで開発中と言われる不老不死の技術が進めば、なおのこと」
「違う!」サイは絞め上げられながらも、必死でかぶりを振る。これだけは、こんな馬鹿な理論だけは、絶対に否定しなければならない。「俺が見てきたコーディネイターは、みんな誰かを求めてた。
キラだって、アスランだって、ラクスさんだってエルスマンだって、フレイだってアマミキョのコーディネイター達だって、誰かを守る為に戦って、誰かを失って泣いて苦しんで憎んで、それでも誰かを求めてた!」
キラは寂しさのあまりフレイを求め、居場所が欲しくて戦っていた。アムルのように、ナチュラルの中にありながらナチュラル──つまり俺たちを憎むことだってあったかも知れない。その結果トールを失ってアスランを憎んで、それでもアスランと分かり合った。フレイを失くした時、キラがどれだけ慟哭したかを知っていれば、今のアムルの理論がどれほど滅茶苦茶かはすぐ分かる。
アスランだってそうだ。キラを敵に回して悩み抜き、仲間を殺されて憎しみにかられた。それでもアスハ代表がいたから、キラと分かり合えた。
ラクスさんも、父親を殺された時静かに泣いていたそうだ。それでも殺し合いを止める為、立ち上がった。
エルスマンだって、ミリィを守る為に全てを捨てた。コーディネイターとして蘇った、あのフレイだって、本当は──「寂しさを感じないなら、人とつながる必要がないなら、そんな行動が出来るわけがない!」
途端、サイの腹にアムルのブーツが勢いよく乗せられた。多少ヒールのある重いブーツが一気に内臓を抉り、息が止まる。一旦アムルの手はサイの襟から離れ、足で通路に転がされたサイの身体は次々と、容赦のないアムルの蹴りを浴び始めた。「ホントに分かってないわねぇ! そいつらはみんな、ナチュラルの古い古い慣習に心まで縛られているだけよ!
ずーっとずっと長い間、人は一人では生きられないなんていうくだらない宗教に支えられてきたナチュラルの中で生かされれば、コーディネイターだって汚されるわ!」
腹を、傷ついた肩を、足を、顔を、身体中を重いブーツで蹴り上げられながら、サイはそれでも叫ぶ。「違う! フレイだってアマクサ組の連中だって、ハマーさんだってスズミ先生だってディックだって、みんな協力しあってアマミキョを支えてた。
知ってますよね、ハマーさんは昔家族を殺された、だからナチュラルをあれだけ憎んでた。一人でも生きていけるなら、あんな憎しみが生まれるものか!」
遂に顔を床に踏みつけられ歯を折られそうになりながらも、サイは言わずにいられない。「ナオトだって、人一倍誰かに構ってほしくてたまらない子供だった。いつだって誰かの愛を求めて演技までして、どんなに傷つけられてもそれでも誰かを求めてた。
コーディネイターが寂しさを感じないなら、ハーフのナオトはあれだけ苦しまずにすんだはずだ!」
蹴られた痛みで口から血混じりの涎が出ていたが、サイは構わなかった。「フレイだって、いつだって命がけで俺たちを守ってた。貴方には分からないかも知れないけど、フレイはずっと悩んで、それでも俺たちを守って、引っ張ってきたんだ」
「そうね、分からないわね。彼女たちもやっぱり、ナチュラルの悪習の犠牲者なのかしら」アムルはそのままサイの顔を、泥のついた靴でぐりっと踏みにじる。「もしくは、目的の為の手段に過ぎなかったとか。フレイなら十分考えられるわね!」
アムルはサイの前髪を掴み、上半身ごと引っ張り上げる。髪を引きちぎられる音を聞きながら、サイは無理矢理ブリッジ正面、メインモニターの方を向かされた。
メインモニターに映し出されているのは──フレイのアフロディーテがデスティニーを振り切り、一直線にこちらへ向かってくる光景。
「フレイはただ単に、貴方やアマミキョを利用しただけ。だから平気で貴方やアマミキョを捨てられるのよ。実際、こうして攻撃してきたじゃない。未だに信じてる貴方のほうが馬鹿よ?
私も同じ。誰かと一緒にいるようにしてたのも、誰かとしぶしぶ働いてたのも、誰かと楽しそうに笑うふりをしてたのも、あの男と付き合ったのも、母の命令を大人しく聞いていたのも全部、そうするのが都合が良かったからよ。
そうしないと、ナチュラルの作ったくだらない社会じゃ、生きていけないからね。特に、アスハやセイランの作ったオーブなんかじゃ!
男は春夏秋冬年がら年中働きに働いて戦って戦って出世して身体壊して、女も働いて働いて結婚して子供産んで次世代製作機になってそれでも働きに働くのが当たり前なんて、どこの前世紀よ!」
「違う……! お前みたいな自分勝手な女と、フレイを一緒にするな!」
アフロディーテがこちらへ向かってくる。俺を殺す為なのか、それとも……どちらにせよ、こんな姿をフレイに晒すのは、男として多少情けない。
この状況にも関わらず男のプライドなんてものを考える自分が、サイは少し可笑しかった。


アフロディーテを一気にアマミキョ直上に突進させた瞬間、フレイは黒煙で霞むブリッジの中に、信じられぬ光景を見た。
全身血まみれのサイが、何者かに頭を引きずり上げられている。誰かまでは分からないが、そいつはまるでフレイに見せつけるように、サイを無理矢理持ち上げている。
どうして。一体何故、アマミキョブリッジがこんな事態になっている? ブリッジにそこまで損傷は行っていないはずだ。肩も足も傷つけられ、それでも何かに抵抗するように、サイは眼前のアフロディーテを凝視している──モニターを通じて、フレイはサイの眼を見た。しっかりと自分に向いていた。
その眼を見た瞬間、フレイは絶叫していた。痛みと共に、その眼の奥に隠された心がフレイに流れ込んでくる。どんなに血を流そうとも負けない意思が。「サイ……サイいいいいぃいいいいいぃっ!!」
彼女の身体の中で全身の血液が沸騰し、神経は一息に研ぎ澄まされ──紅蓮の種が、割れた。
アフロディーテの行く手を阻むように、山神隊・竹中のウィンダムが立ちはだかる。<民間人に手を出す卑怯者めが! ここで自分がっ>
真正面からビームサーベルで斬り込んでくる竹中のウィンダム。あまりにも正直過ぎる攻めだった。フレイの灰色の双眸が、紅の光を映して炎の色に燃え上がる。「どけぇ! 若僧がぁっ」


時澤のウィンダムが駆けつける暇もなかった。時澤も伊能も、ダガーL部隊との戦闘に気を取られ、正義感いっぱいに飛び出していった竹中の援護に回る余裕もなかったのだ。
アフロディーテが双対のビームサーベルを抜き放ち、竹中のウィンダムと正面から激突したと思った次の瞬間にはもう、ウィンダムはその胸部を真横に、一刀両断されていた。
絶叫を上げる余裕すら与えられず、竹中玄はウィンダムごと真っ二つに切断され、ウルマの上空で炎の華と化していく。
──まただ。また、目の前で味方をむざむざ死なせてしまった!
目の前でその爆炎を見てしまった時澤の胸に、酷い悔悟が渦を巻く。真田も、風間も、そして竹中も、自分がそばにいながら何も出来ずに死なせてしまった。広瀬がいれば状況は少しは好転していたのかも知れないが、今そんなことをほざいた所で何も始まらない。
「竹中……竹中ーーーーーっ!!」
<時澤さん。時澤さん!> 絶叫するしかない時澤のコクピットに、キョウコ・ミナミの通信が割り込んだ。<時澤さん……今のは何ですか? 竹中さんはどうなったんですか!>
時澤はややヒステリックなその声で、逆に少し自分を取り戻す。落ち着け、フレイ・アルスターはこれで完全に俺たちの敵となった。ならば──
「ミナミさん、援護をお願いします。アフロディーテを倒す、竹中の為にも!」
だがミナミのユークリッドは、あまりの事態に茫然と海上で浮いているだけだ。<嘘……嘘よ、そんな、こんなにも呆気なく?>
無理もない。モビルアーマーにある程度慣れているという話は聞いていたが、ミナミは軍人ではない。それほど場数を踏んでいるわけでもなかろうに、ましてや味方の死亡だ。おそらく初めての経験なのだろう、声が明らかに震えだしている。あの強気な彼女が、完全に竦みあがっている。
しかし今は、動かねばどうにもならない。このままでは二人とも竹中の二の舞だ。「ミナミさん! 援護をっ」
<は、はい!> 時澤の怒声に圧されたのか、ミナミはいつもの威勢はどこへやら、おどおどと応答する。だが、ユークリッドは少しスラスターを動かしただけで、あれだけ撃っていたビームもリフレクターも展開する気配がない。
「ミナミさん! ちょっと、まさか……」時澤は思わず、自分でも間抜けだと思う声を上げてしまっていた。まさか、この局面でそんな大笑いな事態が。いや当事者としてはとても笑える事態ではない。もしくは笑うしかないのか。
<ご、ごめんなさい! もうバッテリーが切れてて、ビームもリフレクターも……>
だから言わんこっちゃない。そう言いたいのを時澤はぐっとこらえ、すぐに方針を転換した。自分一人でアフロディーテを相手にするのはあまりにも無謀だった、ならば──
「ミナミさん、一時後退です。エンジンはまだ動きますよね、一旦タンバまで戻って補給をして下さい。戻る間は自分が援護します」
<……分かったわ。お願いします>すっかり自信を失ったミナミの声を聞きながら、時澤はタンバへと方向転換する。あまりにも苦渋の選択だが、このままではミナミが的になるだけだ。
もう誰も、自分の目の前で死なせない為の、時澤軍曹の決断だった。


竹中のウィンダムがたまたまブリッジの至近距離で撃墜されたことで、その残骸と火花は容赦なく、沈没寸前のアマミキョにも叩きつけられた。
ブリッジも大きく揺さぶられ、船体が再び傾ぐ。直接ブリッジのどこかが損傷したのか、さっきまでクルーたちの眺めていたコンソールパネルの幾つかが火を噴いた。
ブリッジ右側通路の端からも火の手が上がっている。床が熱くなり始めていた。
一旦船が酷く傾いたことで、幸か不幸かサイもアムルもブリッジの端まで飛ばされ、サイは彼女の手から一時的に逃れていた。だが身体は殆ど自由にならず、右足と左腕はひたすら重いだけだ。
内臓の中身をぶちまけそうなほど酷く壁に背中を打ちながらも、サイは熱い床からどうにか顔を上げる。視界にオサキが映った。この揺れの中でも、死体となってもなお、オサキは操舵輪にしがみついている。最後まで死んでも絶対にサイを守る、その意思が確かに彼女の血まみれの背中から感じられた。
俺も負けない。オサキ、君の為にも、俺は絶対に、心だけは折れるつもりはない──傾いた床の上で、サイは必死で身体を引きずっていく。血の跡が床にべっとりと描かれた。
だが中央通路のメインコンソールまでたどり着いたと思った瞬間、サイはまたしても背中から襟ぐりを掴まれた。「どこへ行くの? 何をするつもりなの?
もう貴方には、何の希望も残ってない。自分の姿、良く見てみたら?」
無理矢理振り向かされると、炎に照らされ妖しく光るアムル・ホウナの細い瞳が、すぐ目の前にあった。そのままサイの身体は背中から力いっぱい床に叩きつけられ、再びアムルは馬乗りになる。
「サイ君、私夢だった。貴方をこの手で屈服させることが。
貴方の中にまだしつこく生きている母やあの男を、この手で叩きのめしたかった。決して、こうしないと貴方と触れ合えないからじゃない……
私が、貴方をこうしたかっただけ。貴方を傷つけて、壊して、潰して、破滅させることが、私の夢だった。
今、それが叶ったわ。貴方は無力さに打ちひしがれ、痛みに苦しんでる。仲間を失い、船を壊してしまった。フレイにも裏切られた。自分の命も風前の灯火。あれだけ優等生だったのに、あっという間に全てを失ったわね。面白いくらいに」
アムルの血まみれの両手が、ゆっくりとサイの首筋にかかる。一気にではなく、少しずつ圧迫されていくサイの頚動脈──じわじわと息が苦しくなっていく。
「俺は……貴方に屈服なんか、絶対にしない」それでもサイは苦しい呼吸の中、呟いた。「貴方みたいな寂しい人に、俺は絶対に負けない」
「だから、笑わせないで」アムルの頬はあまりの興奮で紅潮している。サイには体験しようもないが、性的暴力をふるう男というのは、女の視点からは今のアムルのように見えるものだろうか。「私は寂しさを感じないコーディネイターなのよ? 人の進化の証なのよ?
その私が、寂しいですって?」
「そうですよ。本気でそう思ってるんだとしたら、自分で自分の寂しさを感じ取れないとしたら、俺は心の底から、貴方を寂しい人だと思います」
またしてもブリッジのどこかで爆発が起こる。かすかな震えと共に、床の熱さが増していく。「寂しさを感じられないのが進化だなんて、俺は思わない。それは、むしろ退化ですよ。
いや──多分もう、人間ですらない」
サイを絞めるアムルの力が、一気に強くなる。「そうよ、私は貴方たちの言うところの人間なんかじゃないわ。
貴方も老害と一緒ね。古い人間はいつだって、新しい人間を否定して苦しめる。だからナチュラルは、あれだけ必死になってプラントを潰そうとしたのでしょう? 一人でも生きていける人間たちを認められないから、認めたくないから、存在ごと消滅させようとしたのよ!」
「違う! そんな理由で戦争が起こってたまるか!」いつの間にか切っていた額の傷から、血がどくどくと溢れ出す。息が、喉が苦しくてたまらない。全身が酸素を求めて喘ぐ。サイの気力は最早限界に達しようとしていた。
それでもサイは、抵抗せずにいられない。オサキの為、カズイの為、フレイの為、アマミキョクルーの為、キラの為、何より自分の為に、俺は全力でこの女を否定する。
その時、背後にサイは奇妙な力を感じた──アムルも同じ力の振動を感じたのか、ほんの少しその手の力が弱まる。その隙に、サイは後ろのメインモニターを振り向いた。
フレイが、叫んでいる。俺の名を何度も何度も呼びながら、俺を見て叫んでいる──そう錯覚したのは、一瞬。
モニターには、こちらに向かって突進しつつ、右のマニピュレータを伸ばしてくるストライク・アフロディーテが大きく映し出されていた。明らかにサイを掴もうとして、その腕を伸ばしている。
フレイ──結局君は、俺を守っちまうのか。あれだけ大見得切っといて、ご大層な予言めいた言葉吐いといて、結局命がけで俺を助けようとしてしまう。
そんな君が、俺は、たまらなく好きだ。好きになってしまった。
だが、もうあと少しでアフロディーテの手がブリッジの強化フロントガラスを破ろうとした刹那──
紅の光が、サイの眼前を染めた。


「ふざけるんじゃないわよ! そうやってブリッジクルーを殺す気!?」
アマミキョブリッジに到達する寸前のアフロディーテを真横からビームライフルで阻止したのは、ルナマリアのインパルスだった。
今のアフロディーテの行動は勿論、サイを直接救出する為以外の何ものでもなかったのだが、ルナマリアはそんな事情など知る由もない。それどころかルナマリアには、アフロディーテがクルーごとブリッジを叩き潰そうとしているようにすら見えた。
インパルスはブリッジを守るべく、アマミキョ正面に占位する。サブモニターに、すぐ背後のブリッジ内部がちらりと見えた。中で炎が上がっている。確かに人がまだいる、確認出来るだけで三人。
一人は操縦席らしきところで血まみれで突っ伏している。一人は長い髪の女、もう一人はその女に乗りかかられている、血まみれの青年──ルナマリアは訳が分からない。一体何があったの、あの船?
だが、考えている余裕など勿論ない。一旦はビームライフルを避けたアフロディーテだが、再び左腕にビームサーベルを、右掌にスティレットを構え、鬼気迫る勢いでインパルスに猛然と襲いかかる。声が聞こえる。<サイに触るな! ザフトの娘っ子がぁっ>
背部の翼が振り切れるかというほどの速さで、アフロディーテは直接インパルスの腰部に喰らいつく。分離機構を使う余裕すら与えられず、インパルスは組み伏せられ、そのまま海上に叩きつけられようとする──
「馬鹿にするな、そうそう易々とぉ!」すぐさまインパルスは対装甲ナイフ「フォールディングレイザー」を腰部から抜き放ち、力まかせにアフロディーテの翼に叩きつけた。同時にアフロディーテもその左手首をを180度回転させ、ビームサーベルをインパルスの右脚部へ、スティレットを左脚部へ叩きこむ。
ナイフで少しでも動きを止めなければ、コクピットにビームが刺さっていた。危ない危ない──ルナマリアは思い切りバーニアを噴かし、その機動力でアフロディーテを空中でふるい落とそうと試みる。あまりの噴射で、2機は激しい波飛沫に包まれた。だがアフロディーテはスティレットでインパルスに喰いついたまま、離れない。<サイを傷つけようとするなら、誰であろうと!>
「何を言ってんのよ、船泥棒が! あの船は絶対壊させないんだからっ」
そこへ、さらなる援軍──ジンハイマニューバ2型がグゥルに乗って突入してきた。<ルナマリア、無事か! 援護するっ>
ビームカービンを撃ちながら、ヨダカ・ヤナセが通信ごしに叫ぶ。<いいか、船は見ての通りだ! 絶対に甲板に乗るな、標的にされればそれだけで沈没する恐れがある!>
ヨダカの急襲でようやくアフロディーテはインパルスから離れたが、同時に左脚部に食い込んだスティレットが爆発した──畜生、物理的に切断はされなかったが神経接続が全てやられた。ビームで貫かれた右脚部も似たような状態だ。どちらもうまく関節部を狙われ、インパルスの両脚は何とか基礎構造部分とケーブルだけで繋げられているお飾りも同然となってしまった。 「分かっています! でも、ここからどうやって船体を保護すれば?」機体の状態に苛つきを抑えられず、ルナマリアは叫んでしまう。あの船、保護しようにももう半分がた火を噴いてるってのに。
<この機体には潜水装備をつけてある。海中から潜り、内部通報者と合流する予定だ。そうすれば船内の詳しい状況も分かる!>
いくら海中にグーンを潜ませているとはいえ、隊長一人で無謀な──と言いそうになったが、ルナマリアには何も言わさずそのままヨダカは一方的に通信を切り、グゥルごと自ら海へ飛び込んだ。
<逃がすか!>アフロディーテの翼からレールガンの光が放たれ、ヨダカ機に炸裂する。だがその一撃はヨダカ機足元のグゥルを破壊するに留まり、ハイマニューバ2型はそのまま海中へと潜っていく。
なおもアフロディーテのレールガンはそれを追おうとするが、ビームライフルを構えたインパルスが再びその眼前に立ちはだかった。「よくもやってくれたわね、ツギハギモビルスーツの癖にぃ!」
ルナマリアは精一杯張り切ってみせたものの、両脚部は火花を出しながらようやく胴体と繋がっている状態だ。空中戦ではいくら足は飾りと言われても、どちらかと言えば格闘戦を得意とするルナマリアにとって、足が使えないのは致命的だ。全く、大事なオーブ戦の前に機体を傷つけてしまうなんて!
既に海中深くに潜り込んだハイマニューバ2型を諦めたアフロディーテは、素早くインパルスにその頭部を向ける。あのフリーダムを血染めにしたが如き頭部意匠。その紅いカメラアイに睨まれただけで、ルナマリアは何故か下腹部がきゅっと締めつけられるのを感じた。
間違いない。この人、女だ。
その紅の機体の背後から、レジェンドが落とし切れなかったダガーLにウィンダムが殺到してくる。まずい、今のインパルスではあの大軍、捌ききれない──ルナマリアが思わず唾を飲んだ、その瞬間。
<ルナ、下がれ! そいつは俺がやるっ>今ではとても頼もしく感じるシン・アスカの一声と共に、対艦刀アロンダイトを上段に構えたデスティニーが紅い翼を輝かせ、太陽の煌く天空からアフロディーテに斬りつけていた。


「フレイっ!」サイが思わず声を上げたのと、アフロディーテの左腕がビームサーベルごと宙を舞ったのは、ほぼ同時だった。
「あらぁ、あのフレイが腕持ってかれるとはねぇ。結構やるわね、流石ザフトってところかしら」アムルは飄々と、自分の状況など忘れたかのように笑う。
間違いない、今フレイはSEEDの能力が発動している。そうでなければ、今頃彼女はコクピットごとあの馬鹿でかい対艦刀の錆になっていたはずだ。
どこか非常な安堵を覚え、サイは思わず微笑んでいた。その笑いが、目の前の女の何かに触れたのか──
アムルは再び、サイの首を両手で掴む。「サイ君、人の心配している場合? もうすぐ貴方は破滅するのに」
「貴方も、でしょう」サイはアムルのすぐ後ろで巻き上がった火柱をぼんやりと眺めながら、圧迫の隙間から何とか声を出した。「貴方は、ザフトと取引をしたんですよね。
この船のシステムを壊し、ザフトがこの船のデータを手に入れられるよう、貴方は手引きをしたんだ。違いますか?」
「その通りよ」さも当然というように、アムルは笑う。「その代償に、ずっと夢だったプラント行きも約束してくれたわ」
「ならどうして、すぐ逃げないんです。ここに留まる理由はないはずだ、クルーはもうほぼ全員避難したんだ」
それを聞いて、アムルは喉からくっくと声を出してさらに笑った。「やっぱり、何も分かってないんだ、サイ君。
確かに、プラント行きは私の夢だった。でもね、今は私、もう死んだっていいの」アムルの瞳の中の光は、まるで夢見る少女のそれだった。右手の指がゆっくりサイの頬を撫でる。「だってサイ君、貴方をこの手で壊すことが出来たんだもの。この手で貴方を破滅させることが出来たんだもの」
アムルの左手はサイの首を絞め続け、右手は再び左肩の傷を掴んだ。思わず痛みで呻くサイの耳元で、アムルは囁く。「痛いでしょ? 痛いわよね、だってこんなに血が出てるんですもの。
でもねサイ君、私の痛みを分かってもらうには、こうするしかなかったの。私の心がどうしても分からないなら、せめて身体で分かってもらう。
女はね、月に一度必ず、今のサイ君と同じくらいの血を流すの。一生で流す血の量っていったら、こんなもの比較にもならないわ。
貴方が味わっている痛みと同じ痛みを、女は毎月感じるの。貴方が今上げてるのと同じ悲鳴を毎月、上げてるのよ。
女である限り、子供を産む宿命を負っている限り、女はずっと苦しみ続ける。
だからコーディネイターの女って、矛盾に満ちてるのよ。子供が必要ないのに、血を流すんだもの。余計に苦しいのよ。分かる? 分かってくれる? 駄目?」
違う、分かるわけがない。そう言いたかったがアムルの手の圧迫はサイからその言葉さえ奪った。「だからね、サイ君。私が今まで流した血と同じ分の血を流すまで、私は貴方を壊すのをやめない。
貴方の心がどうしたって壊れないのなら、私は死んでも貴方の身体を破壊するまでよ」
呻き続けるサイの腹にアムルの両膝が乗り、唇から血が噴き出した。左肩からは血のみならず、潰された組織らしき肉塊までが流れ出している。
こんなことをして、何の意味がある──そんな月並みな問いを今のアムルにかけること自体、間違っていた。最早彼女には、どんな説得も意味がない。俺を壊すこと、それだけが彼女の全てなのだから。
俺が悪かったのか。彼女を一向に理解出来なかった俺が。彼女を拒絶してしまった俺が。
土下座して命乞いでもすれば──いや、それは絶対に出来ない。自分の中で、彼女に対する断固とした拒絶の意思が貫かれている。それは、2年前自分を頼ってきたフレイを振り払った時より何倍も強烈な、拒絶だった。
彼女の、母と恋人を冷たく見捨てる心を見て。
平気で罪を他人になすりつける姿を見て。
カズイへの酷い態度を見て。
俺は絶対に、彼女を受け入れられないと痛感してしまったのだから。
「あんたは、自分勝手のかたまりだよ」背中と床の間に流れる自分の血を感じながら、サイはそれでも言わずにいられない。「少しは、自分の周りで自分を思ってくれる奴のことを見ろよ。あんたみたいな女だって、好いてくれた人間がいるんだ」
「私の心を救ってくれない愛情なんて、鬱陶しいだけよ! 母も、あの男も!」
「そう思っている限り、あんたはどこまで行っても同じだ。
あんたはずっと、今のまま変われない。たとえプラントに行ったって!」
そんなサイの叫びを打ち消すが如く、首にかけられた指の力が一気に強まる。今度こそ俺が終わる──眼前に無数の虹色の光が飛び、顔中を針でつつかれたような感覚を覚えた。意識が遠くなりかかる。
その時、すぐ近くで肉の抉れるような鈍い音がした。
柔らかなものが何かで無理矢理貫かれるような──同時に、どんどん強くなっていたアムルの手の力が、少しだけ弱まる。
アムルのすぐ後ろに、別の人影が見えた。アムルの左の腰にぴったりと寄り添うように、その小さな人影は彼女に触れていた。明らかに震えている両手で何かを握りしめながら。
炎の照り返しで最初はよく見えなかったが、サイはその人物がぶるぶる震えながら顔を上げるのを見て、思わず呻きを漏らしていた。
それは、酷い悔悟による呻き。
あぁ──どうしてお前が、ここに来てしまったんだ。一番お前がいたくなかっただろう場所なのに。 こんな光景は、一番見たくないものだったろうに。
サイの血を存分に浴びたアムルのフレアスカートが、今度は自らの血で染まっていく。激しい憎しみを込めた瞳で、アムルはその人影を振り返った。恐らく、彼女がその人物に対して本当の感情を見せつけるのは、これが最初だったろう。
それでも彼は、必死で彼女の視線から顔を背けたまま、アムルから身体を離そうとはしなかった。その両手とアムルのスカートとの間には、食糧班でよく使う果物ナイフらしきものが生えていた。
その刃の輝きを見た時、サイの悔悟は一段と激しくなった。俺はアイツに、何ということをさせてしまったんだ。
アイツはこんな真似、絶対に出来るはずがなかったのに。アイツにだけは、こんなことをさせてはいけなかったのに!
「サイ……サイ、逃げろ、早く……逃げろ、逃げてくれ」本人にとっては絶叫のつもりだろうが、かすれた呟きにしか聞こえない声が漏れた──カズイ・バスカークの口から。


 

つづく
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