ずっと、見ていた。ブリッジから銃声が聞こえたその瞬間から。
戦闘が始まってからも延々と部屋に籠もっていたら、いつのまにかアムルは消えていた。どこへ行ったのか心配で、思い切って探しに出かけた。
いつもなら真っ先に逃げるはずの自分が、避難をすっかり忘れて、ずっと彼女を探していた。
そうしたら、ブリッジから銃声が響いた──駆けつけて扉の陰から恐る恐る見てしまったものは、恋焦がれた女性が仲間を殺し、親友を手酷く痛めつけている、あまりにも血みどろの光景。しかもすぐ外では、モビルスーツ同士の激戦が展開されている。その中にいるのもまた、かつて仲間だったはずの少女。しかも親友の婚約者ときた。
白兵戦対策にと渡された銃はアムルに渡してしまった。アムルを守る為だったはずのその銃は今オサキを殺し、サイを傷つけている。その事実に震え上がりつつ、食堂から取ってきた果物ナイフを握りしめながらずっとサイとアムルの口論を聞いていた。そして、分かってしまった。
アムルの心には最初から、自分の入る余地などなかった。自分どころか、どんな他人も入ることの出来ない、理解出来ない、ただただ恐怖に満ちている妖怪にも似た心──それが、アムル・ホウナという女の本性。
自分に何度も忠告してきたサイの言葉が蘇る。それなのに俺は、サイを疑い、サイに嫉妬し、サイを拒絶して引きこもり、アムルを庇ってしまった。
それでもサイは、引きこもった俺に言ってくれた。──お前と友達で、俺、本当に良かった。
あの時、俺は一体サイに何と言った? 二度と俺の目の前に現れるなとか……本当に酷いことを言ってしまった。
それでもサイは今なお、アムルと戦っている。あれだけ恐ろしい彼女の本性に敢然と立ち向かい、妥協することなく、冷静に彼女の論理を打ち破ろうとしている。ボロボロに傷つけられ、血みどろになってもサイは叫んだ──「少しは、自分の周りで自分を思ってくれる奴のことを見ろよ。あんたみたいな女だって、好いてくれた人間がいるんだ!」
サイ、ありがとう。俺もサイと友達で、本当に良かった。
それに、アムルさんだって、もしかしたら……とても儚い希望かも知れないけど、もしかしたら。
そして遂にカズイ・バスカークは決断し──アムル・ホウナを刺した。それが更なる惨劇を呼ぶと知らないまま。
 


PHASE-33  運命の終わり、黙示録の始まり



ウルマ上空で、左腕を消失したアフロディーテはデスティニーとの激戦を続けていた。
アフロディーテの援護にやってきたグフのビームカービンの閃光が、黒いダガーLの投げた3本のビームサーベルと衝突し、また一つ光の華が咲いた。
さらにアフロディーテはビームカービンをその華に撃ち放つ。閃光の威力と速度が増していき、雷鳴の塊のようになった巨大な光球がデスティニーに襲いかかっていく。
「同じ手を、何度も!」シンはデスティニーの両手甲部から「ソリドゥス・フルゴール」ビームシールド発生装置を起動させ、大型ビームソード「アロンダイト」を構えたまま突進した。デスティニーの腕から生まれた虹色の光膜が、空中の雷球と衝突する。
とんでもないエネルギー量が宙で爆発し、モビルスーツでも耐え切れぬほどの風圧と大波が発生した。その光の中心を突っ切って、アフロディーテは一気にデスティニーに迫る。一本だけ残った右腕のビームサーベルで。
堂々正面突破と来たか。受けて立とうじゃないかこの野郎! ビームシールドを手甲部から展開したまま、シンはアロンダイトでアフロディーテを迎え撃つ。「そっちの腕も、切り落としてやる!」
だが、シンが叫ぶと同時にアラートが鳴り響き、ルナマリアの絶叫がこだました。<シン、危ない! 両脇っ!>
瞬時にモニターを確認すると、左右からいつの間に近づかれたか、真っ黒の悪鬼──ダガーLが今にもデスティニーに喰らいつかんとばかりに迫っていた。アロンダイトもビームシールドも恐れる様子がない、まるで自分の命などどうでもいいかのような急接近だ。
そんなに命を粗末にしたいなら、お望み通りにしてやろうじゃないか。デスティニーはすぐさまアロンダイトで右側から迫ったダガーLに斬りつける。
デスティニーの全長より長い巨大剣により、コクピットごと横ざまに一刀両断されていく、鋼鉄の機体。ほぼ同時にインパルスのビームライフルが反対側のダガーLを直撃し、黒いモビルスーツは見事に火球となり四散していく。
だが、事はそれだけでは終わらなかった。シンもルナマリアも忘れていた、今自分たちが戦っている場所がどのような場所か。
「しまった!」シンの叫びは遅かった。両断されたダガーLの残骸はものの見事にアマミキョの甲板──ブリッジからほんの少ししか離れていない甲板後方部分を直撃し、爆発したのだ。


激しい衝撃と共に、非常灯の真っ赤な光が何度もストロボのように明滅した。先ほどとは逆方向へ傾いていく床、次々とひしゃげ爆発していくコンソール。メインモニターにも大きく亀裂が入り、映し出されているモビルスーツ達と青空にノイズが無数に入る。映像が歪んでいく。
遂に船体の傾斜がブリッジを海に呑みこませるまでに及んだか、それとも水循環機構のどこかが破損したか。内壁の一部が壊れ、ブリッジの床に潮水が流出を始めていた。
衝撃によりアムルとカズイが吹き飛ばされ、サイは必死でメイン・コンソールの台座に右腕のみでしがみついていた。しかし流れ来る海水が右足首の傷ごと、サイの脚を浸す。じわりと脳まで来た痛みにサイは思わず呻いたが、それでも明滅する血の光の中を、目で探した──カズイとアムルを。
やがて非常灯の明滅がやんだ。電気系統もいかれたのか、照明は半分がた落ちていた。
だが流れる水の中で燃え広がる炎が、ブリッジの中の光景をはっきりと映し出す。未だに操舵輪にしがみついているオサキ、亀裂の入った内壁、自分の血で汚れた中央通路、黒煙が充満する室内、噴火の如く炎を吹き続けるコンソール。
ムジカ社長、リンドー副隊長、アスハ代表、セイラン代表補佐、申し訳ありません。託されたはずのアマミキョを、俺はこんなに無残な姿にしてしまった。
そしてサイは目撃した──ほぼ正面、中央通路を挟んでアムルとカズイが対峙しているのを。
通路に尻もちをついてしまったカズイ。それを見下げ果てたかのようにアムルは銃を突きつけている。刺さった刃も血まみれのスカートもそのままに、アムルはその場に仁王立ちとなり、真っ直ぐカズイに銃口を向けていた。
カズイはと言えば、ただただかぶりを振り続けるばかりだ。「嘘だ……嘘だ、アムルさんっ」
恐らくこの期に及んでも、カズイはアムルをまだ信じていたかったのだろう。
今までのことは全て誤解にすぎないんだ、俺の顔を見ればきっとまた、優しい笑顔を向けてくれるはずだ。だって今までは彼女、俺にはずっと笑顔でいてくれたんだから。だから、正気に戻ってくれれば、また笑顔になってくれるはずだ──
アムルを刺してもなお、カズイはそんな希望を心のどこかで抱いていたに違いない。カズイ自身、馬鹿な願いだと分かっているんだろう。だが、そう願わずにはいられなかった。願わなければ、彼女を刺すなんて芸当が出来るはずがないのだから。
しかしその希望は今、完膚なきまでに打ち破られた。涙と鼻水を流しながら子供のように頭を振り続けるカズイを、アムルは蝿でも見る目で見下ろしているだけだ。
でも、とサイは何故かこの状況で冷静に分析してしまう。アムルの中で、カズイが今存在感を増したことも確かだ──「殺す価値もないゴミ」から「殺さなければ鬱陶しい虫」のレベルへ、であるが。
だとすれば、今やるべき事は一つ。
サイから見て、アムルとカズイはカズイの方がやや近い。ここから飛びついてアムルの銃を奪うのは、今のサイの負傷から考えて非常に難しかった。ならば──数瞬のうちに、サイの次の行動は決まっていた。
きっと、ここへ来るのも嫌だったろうに。血みどろの俺たちを見て、竦みあがってしまっただろうに。アムルの言葉を聞きながら、耐え切れなかっただろうに。
何より、自分が撃たれるかも知れないのに。
──それでもカズイは、大好きな女性を、刺した。
全ての恐怖を乗り越えて、俺なんかを助ける為に。そして、アムルに笑顔を取り戻してほしいが為に。
そんな友達を、俺の大事な仲間を、むざむざ死なせるわけにいくか!
ほんやりする視界を無理矢理にでも明瞭にするべく一つ頭を振り、サイは左足に一気に全体重をかけた。痛みでとてつもなく重くなってしまった身体を、カズイに向かって飛び込ませる。
俺は、傍観者でいるのは、もう絶対に──
震え上がったままのカズイにサイが全力で飛びついたのと、四発目の銃声がアマミキョを貫いたのは、ほぼ同時だった。


「あ、あぁ……オサキさん、副隊長……っ!」
完全に外部から遮断され、海中を彷徨う救命艇の中で、ヒスイ・サダナミは不意に呻き声を上げた。
ブリッジクルーのほぼ全員が詰め込まれた船の片隅、ヒスイは額に玉のような汗を浮かべて呻いている。汗かきではない彼女にしては珍しかった。黒い髪が肌に張りつき、ただでさえ白かった顔は白を通り越して青黒くなっているようにすら見える。
「大丈夫か、ヒスイ君!」横にいたトニー隊長が慌ててヒスイの肩を支える。見ると、他のクルーも何人か、はっきり見て分かるほどガタガタ震えている者がいた。
冷たく汗ばんだ手でトニーの腕に縋りながら、ヒスイは懇願する。「隊長、お願いします。浮上して下さい、アマミキョが……」
「気分が悪いのか?」いくら空気の読めなさで鳴るトニーでも、ヒスイが何を感じているかぐらいは分かる。しかし隊長として、その漠然とした不安を口にするわけにはいかない。これ以上クルーをパニックに晒すわけにはいかないのだ。「だが今は辛抱してくれ、上の戦闘が終わるまで……頼む、みんなも!」
「隊長は、隊長は分からないんですか? 副隊長と、オサキさんが……!」それ以上言うことが出来ず、ヒスイはただ震えるばかりだ。その頬に流れているのは、明らかに汗だけではなかった。
「分かっている。分かっているさ」トニーは大きな手でヒスイの背中を軽く叩いてやる。そのトニーの手も、先ほどから震えが止まらない。
何が起こっているのか、この場の全員が薄々感じ取っている。だが言葉にするわけにはいかない。トニー自身、信じたくないのだ。この現象自体も、起こっているだろう惨劇も。「今は、何も見ない方がいい。他の救助艇にもそう伝えてくれ、安全圏に到達するまで、絶対に浮上するなと。
サイ君もオサキ君も、大丈夫だ。我々は約束したんだからな……必ず、アマミキョを復活させると」


雲霞の如くのダガーL。その大軍を次々に撃破しながら、レジェンドの中でレイ・ザ・バレルは不可思議な感覚を覚えていた。
今デスティニーとインパルスが相手をしている、紅のストライク──あの中にいる女。
あのパイロットに、ついこの間の人工島の光を見た時と同じものを感じる。最初は否定したかった感情だった。あの女に何故、自分の「母」を感じるのか。
「母」という概念は、レイの中でははっきりと固まっているものではない。デュランダルやクルーゼから伝え聞いた言葉を元に、「母」というイメージを何とかレイは形成しているにすぎない。それが自分にはいない存在ということも、自分には不要な存在ということも分かっている。
なのに、何故か「母」の感覚に惹かれる自分をレイは感じていた。その奥で響く名前──あの女の奥底で、常に響いている名前を、レイは既に把握していた。「レイラ……? 俺と同じ存在、なのか?」
レイが思考している間にも、ダガーLはその牙を剥く。死角となる真下から来られたと思った時、連合の正規カラーのウィンダムが、レジェンドに迫ったダガーLをすんでの処で斬り伏せた。<危なかったな、ザフト君! まさかここに来て、君らと共闘することになるとはなァ!>
スピーカを通じて、多少年季の入った熟練パイロットの声が聞こえる。レイは勿論無視しようとしたが、相手は構わずスピーカごしに話しかけてきた。レジェンドの、甲羅の如き背部にウィンダムのジェットストライカーの翼がぴたりとくっついた。つまり両者は背中合わせになり、お互いの声がスピーカで聞こえる体勢となったのだ。
<自分は連合・山神隊の伊能大佐だ。我々の任務はアマミキョの衛護だが、どうやら偶然にも、そちらと目的は合致しているようだな>
何が言いたいのだ。レイは不審に思いながらもスピーカを開き、応答する。「我々の目的はアマミキョの保護だ。それ以上も以下もない」
<船体の破壊の阻止という点では一致しているわけだ。ではもう一つだけ聞きたい。
船のクルーについては、どうするつもりだ? まさか、殺害命令が出ているわけじゃなかろう>
何を馬鹿なことを言っている。議長から命令のない限り、そのような無益な行為をするわけがない。「言ったはずだ。船体及び乗員保護以外の命令は受けていない」
<やっぱりか……だが、あの赤ストライクのお嬢は、そうは思っていないようだ>
やってくるダガーLをビームライフルで払いのけながら、ウィンダムは頭部をアフロディーテに向ける。レジェンドの背部ユニットからも、間断なくドラグーンの炎が連射されていた。
「どういう意味だ」敵の効率的な排除の為にも、余計な会話を挟みたくはなかった。しかも本来ならば敵同士だ。
だが、今の情報は作戦遂行上、重要ではないか? そう判断したレイは耳を傾ける。
<多分彼女は、君らザフトは内部のクルーを殺害した上で船を奪うつもりだと思い込んでる。で、逆上してる>
「馬鹿な」レイは思わず眉を顰めてしまった。何の根拠があってそんな戯言を言う? 「乗務員ごと船を破壊するつもりなのは、奴らだろう?」
<違うね>相手はあくまで落ち着き払っていた。<俺たち山神隊は、最近まで奴らと一緒だったから分かっちまうんだなー、これが。確かにあのお嬢さんらの目的は船の破壊だが、あくまで中のクルーは全員逃がすつもりだろうよ。実際、脱出した救助艇は一切攻撃されていない。実は君らが来る直前な、アマミキョから彼女に直接要請があったんだよ。救助艇を脱出させるから一切攻撃するなと。それを彼女は承諾したんだ。
ついでに、プライベートな話ですまんが、ブリッジにはあのお嬢さんの婚約者がいるもんだからね。なおさらだろう。
もっとも、どんな事情があるのか知らんがさっきまでは彼女も迷ってたみたいだな。やっと腹くくったみたいだが>
「何だと……」俄かには信じられない話だ。だとすれば、今俺たちは、互いの目的を誤解したまま全力でぶつかり合っているというのか?
そんなレイの戸惑いを見透かすように、伊能の声が響く。<本来は、ゆっくりクルーを逃がしてから船体のみ破壊するつもりだったんだろうが、君らザフトが来ちまったもんだから彼女も焦ったんだろうね。
君らの電光石火の如きお早い到着が、皮肉にも船体の破壊を早めさせる結果となった……で、この大混戦だ>
この会話の間にも勿論、彼らを取り囲むダガーL部隊の攻撃は止まらない。ドラグーンとビームライフルでそれぞれ対処してはいるが、少しずつレジェンドとウィンダムのパワーも削られていた。
<いずれにせよ、民間人がまだ船内にいてのこの状況はまずい。お互いクルーを殺す気は全くないのに、誤解で撃ち合ってやがる>
そして伊能は、レイの心を一気に逆撫でする言葉を吐いた。<君の言う通り、この作戦があくまで船体の保護目的なら……民間人に何かあったら、デュランダル議長の面目丸つぶれだろうなァ。
ま、そうなればお得意の情報統制でもするんだろうが、ここにきて余計な手数はかけたくないだろうよ、議長も。ジブリールの首が目の前だってのにな>
「何が言いたい、貴様!?」デュランダルの名を出され、レイの口調が思いがけず熱を帯びた。だが返ってきたものは、さらに怒りをこめた叫びだった。
<だからァ! ドンパチやるならパンピー逃がしてからにしろって言ってんだ!>それまでの陽気さとはうってかわった、伊能の怒声だった。<あんな所で撃ち合い斬り合いしてみろ、中の人間にいつ何があってもおかしかねぇ! まだ全員が逃げたわけじゃねぇんだ、中の奴らに何かあったら、たちどころにお前らを叩き潰すからな!>
その伊能の声が、最後までレイに届いたかは分からない。彼の怒声とほぼ同時に、レジェンドは即座に戦闘から離脱し、邪魔をするダガーLをドラグーンで吹っ飛ばしながら一直線にデスティニーの元へ向かったからだ。


気がついた時、カズイの上にサイの身体が乗っていた。
撃たれた、と思って一瞬目をつぶり、両腕を目の前にかざした直後、誰かに大きく突き飛ばされた──そして、もう一度目を開けたら、こうなっていた。
うつぶせになっているサイが少しだけ身を起こし、カズイを振り向く。血まみれの笑顔で。「良かった。大丈夫か……カズイ」
見ると、サイの右腹部のあたりから血が溢れ出し、まだ右半分が染まりきっていなかったワイシャツを今度こそ真っ赤に染め始めていた。熱い血の感触が、カズイの太ももにも感じられる。
それでカズイは全てを理解した。俺をかばって、サイが、アムルさんに撃たれた──
その現実を認識した瞬間カズイは、これほど叫ぶ経験は過去にも未来にも絶対にないだろうほどの声で、絶叫していた。俺はサイを助けようとしたのに、サイを助ける為にアムルさんを刺したはずなのに、どうして、どうして、どうして!!
──いや、どうしてもクソもないだろう。
俺が悪かったんだ。まだアムルさんを信じていたかった俺が。こんな光景を見ても、あんな言葉を聞いてもなお、アムルさんを信じていたかった俺が。
アムルさんを止めたかった、アムルさんの笑顔を取り戻したかった、ただそれだけなのに。その思いさえ、あの人には通じなかった。最初から俺の想いなんか、あの人には通じなかった。彼女の言う通り、彼女にとって俺の想いなんか「自分を救ってくれない愛情」であり、そんな鬱陶しい想いを捧げてくる俺はゴミ同然の存在だったんだろう。俺自身、自分でそれを認めたくなかった。認めたくないあまり、俺が彼女を正気に戻せるとかいう妄想にとりつかれて、彼女を刺した──
その罰がこの結果だ。サイを助けるどころか、さらに傷つけることになってしまった!
カズイの絶叫を耳にしながら、サイは血と一緒に言葉を吐き出していく。「ごめん。ごめんな、カズイ。俺、お前にとんでもないこと、させてしまった。
好きな人を刺すなんて、お前に絶対、させちゃいけなかったのに。出来るわけなかったのに。俺、酷いことをさせてしまった」
苦しくなっていく息の中で、サイはこれだけを呟く。カズイは子供のように泣きじゃくり、首を振り続けることしか出来ない。
そしてふと見回すと、アムルの姿はどこにもなかった。サイにとどめを刺したと考えてすぐに逃げたのか、それとも──
炎と煙が充満し、海水が流れ込むブリッジの中で、サイとカズイはたった二人きりで取り残されていた。オサキの身体は魂を失ったまま、今もなお操舵輪を握り続けている。
「きっと、カズイのおかげだ。カズイのナイフが、アムルさんを正気に戻したんだよ」アムルを目で探すカズイに、サイはそう言って、力なく笑った。それが意味のない励ましであることも、カズイには分かっている。そんな奇跡が起こるはずがない。そんな妄想が実現するはずがない。サイだって分かっているはずなのに、それでもまだそういうことを言えるのか、サイは。
カズイは涙を袖で拭きながら、サイの身体をゆっくりと丁寧に床に仰向けにした。「サイ……傷、見せてくれよ。手当てしなきゃ」
「駄目だカズイ、早く逃げろ。ここはもう……」
「サイ一人置いて、逃げられるわけないだろ! どうしてそういうこと言うんだよ、畜生っ」
どうやらアムルの銃弾は、サイの右脇腹を削っていったらしい。幸いにも弾が貫通したとか体内にめり込んだというわけではないようだが、それでも傷口から溢れる血は止まらない。ハンカチで押さえても押さえても、流れる血液はサイとカズイに染みこんでいくばかりだ。
誰か、誰か助けてくれ! このままじゃサイが死んでしまう。命がけで俺なんかを守ってくれた友達が、死んでしまう!
流れ込む海水がサイとカズイの身体に染み込み、傷を洗っていく。そのあまりの痛みで、サイの全身が酷く震え出した。呼吸が速く浅くなり、唇が真っ白だ。カズイは慌ててサイを海水から起こし、ずぶ濡れになった上半身を抱きしめる。死なないでくれ、どうかこんなところで死なないで──カズイのパニックが限界に達したその時、思いもかけない人物の声が救世主のように響いた。
「お前ら! 何グズグズしてやがるんだっ」
涙を拭きもせずに振り向くと、壊れて開いたままの中央エアロックにハマー・チュウセイが仁王立ちになっていた。
恐らくハンガーからここまで迂回に迂回を重ねながら走ってきたのだろう。息はぜいぜいと上がり、髪やら作業服やらの至るところが焼け焦げ、全身が煤にまみれていた。下半身は海水で濡れそぼっている。
突然のハマーの出現にはカズイも驚かされたが、ハマーはその10倍は驚いたに違いない。
半壊して炎が広がり、海水まで溢れ出して無残な姿を晒すブリッジ。そのド真ん中で、首の皮一枚でようやく頭と胴体が繋がっているオサキの身体。血みどろになって虫の息なアマミキョ副隊長。それに縋ってただただ泣きじゃくるばかりのカズイ。
一瞬、ハマーの両目が大きく剥かれる。どうして、何だって俺は、こんな場面にまた遭遇しちまったんだ。教えてくれ、どうして俺はこの悪夢から逃れられないんだ。カズイに向かってそう言いたげにハマーは顔を歪ませたが、即座にその意味を理解出来るカズイではなかった。
視線が泳ぎ、強張った唇から言葉が漏れる。「ロゼ……?」
その一言に、カズイは気がついた。抱きしめたままのサイを思わず見つめる。そういえば、俺は殆どこの人に話しかけたことはなかったけど、サイが心配してよく話してたな。
ハマーさんは、サイに娘さんを重ねたんだ。ナチュラルの暴漢に傷つけられ殺された家族を。炎に包まれる家の中で、血みどろになって倒れていた娘さんや奥さんの姿を。ナチュラルとコーディネイターという構図こそ逆転しているものの、情景はほぼ同じなのだろう。ハマーの表情から、カズイには分かった。
だがハマーは懸命に頭を振る。まとわりついてくる幻影を振り払おうとするように──焦げた髪が盛大に飛び散った。一旦バシバシと両手で乱暴に顔を叩き、頭を上げる。その表情にもう迷いはない。それは自分のやるべきことに気がついたとでも宣言するような、清々しい顔だった。
ハマーはずかずかと大股で炎も海水も踏み越えてカズイの正面に座る。そして彼の手から有無も言わさず、サイの身体をぶん取った。正確にはサイを抱きかかえたのだが、ぶん取られたという表現の方が正しいようにカズイには思えた。「まだ息はあるな……このぐらいなら、大丈夫だ。俺にあれだけやられて大丈夫だったんだ、心配するな!」
着ていた作業着を素早く脱ぎ、ハマーはそれを一気に切り裂いていく。一瞬で何枚もの布切れとなった作業着の残骸で、ハマーはサイの腹の傷をまず押さえにかかった。「とりあえず、出血だけでも何とかなりゃ……おい、左肩押さえとけ」
言われるままにカズイは、渡された布切れでサイの左肩の傷を押さえる。手の震えがおさまらず、涙も止まらない。「もっと力入れんだよ! そんなんじゃ、止まるもんも止まらねぇっ」
ハマーに叱咤されながら、戦闘音がまだ鳴り響くブリッジの中、カズイはサイの傷口を押さえ続けた。何秒経過したかは分からないが、布切れ全てを赤く染めながらもサイの出血は少しばかり勢いを失っていく。サイの顔はほぼ真っ白になっていたが、それでも眼鏡の奥の瞳はうっすら開き、視線はカズイとハマーを追っていた。何か言いたそうに唇が動くが、殆ど聞き取れない。
腹の傷にあてがった布切れを紐で固定しながら、ハマーはふと操舵輪を握ったままのオサキを見やった。最早回復の見込みなど全くない彼女を。しょっちゅう喧嘩が絶えなかった彼女を。それでも怒鳴りあいながら、最近はやっと連携がうまくいくようになった彼女を。
静かな重い響きの声が、ハマーの唇から漏れた。「目ぐらい、閉じさせてやんな。あれでも女だったんだろ」
カズイは声に圧されるようにのろのろと立ち上がると、震えながらオサキの元へ向かった。鼻と口から黒い血の塊を垂れ下げ、首が今にも寸断されそうになっているオサキ──カズイはそんな彼女の姿を出来るだけ直視しないよう努め、薄目を開いて顔を背けつつ、彼女の両瞼に指を触れた。
指先で感じるオサキの柔らかな瞼は、まだ暖かかった。だがその奥の青い眼球は、もう全く動くことはない。光のない眼球と火薬の香りが、カズイに現実を教えていた。
落ちていた彼女の帽子を、そっと首筋の大きな傷口に被せる。こうするともうオサキは、単に操舵輪に支えられて居眠りしているようにしか見えなかった。いつも通りの彼女にしか見えなかった。
「洗浄ぐらいはしてやりてぇが……時間がない!」サイの傷をひとしきり見たハマーは、これ以上の手当てを潔く諦めた。そして両腕でサイの身体を軽々と抱きかかえ、立ち上がる。「脱出艇はまだある、カタパルトは生きてる! そこで治してやっから、絶対に死ぬんじゃねぇ!
死んだら殺すぞ、このドアホ!」
サイの耳元で、ハマーは全力で怒鳴り散らした。痛みで震えながらも、サイはその声に何とか反応する。顔をハマーの方へ向け、こくりと頷く程度の反応しか出来なかったが。
その微かな反応を確かめ、ハマーの唇から思わぬ笑みが漏れる。それはカズイが見ても他の誰が見ても、顔を歪ませただけの表情にしか見えなかっただろう。だがサイはハマーの腕の中で、確かにその笑顔に、笑顔で返した。痛みで呻き、意識が遠くなりながら、それでもサイは笑みを返したのだ。
それに元気づけられたか、ハマーは声をさらに張り上げる。「よし、二人とも行くぞ! 遅れたら置いてくぞ、バカヤロー!」
だが、カズイが慌ててハマーに追いつこうとしてオサキに背を向けたその瞬間──
ブリッジ全体に、白い光が満ちた。


アフロディーテに続き、オレンジのグフ・イグナイテッドまでがデスティニーに襲いかかる。アフロディーテのように正面からではなく、グゥルを駆使して上から下からいちいち死角に回り込み、グフはシンを翻弄していく。
その塗装も、シンを苛立たせる原因だった──勿論、ハイネ・ヴェステンフルスを思い出させるからだ。同じ機体に乗り、無残に空に散っていったあの、頼りがいのある兄貴分を。
あれとハイネは違う。そう理解してはいるものの、どうもこの連中と戦う時は身体の奥から湧き上がる気持ち悪さをシャットアウト出来ない。
今こそアフロディーテを一刀両断出来るという瞬間でも、それを狙ったかのようにグフのスレイヤーウィップがデスティニーに巻きつく。ウィップを斬れば後ろから、ダガーLがビームサーベルを投げつけてくる。ルナマリアのインパルスがそのダガーLを後方から斬ってくれるものの、シンはこのような無為な戦闘の繰り返しに、次第に疲労と怒りを感じ始めていた。
一体何機あるんだ、このダガーLとウィンダムは。もう30機ほどは落としたはずだが、減っている気がしない。レイのレジェンドと合わせれば50機近く落としただろうに──
何十度目かのアフロディーテのビームライフルをよけ、肩で息をし始めた自分を意識したその時、レイの声が飛び込んできた。<シン、やめろ! 攻撃を中止するんだ!>
信じられないレイの叫びに、シンもルナマリアも一瞬、動きを止めてしまう。レイの声は続いた。<まずは内部のクルーを逃がしてからだ! 戦闘はその後だ、救助隊の民間人が死傷したとなれば、ザフトの大きな傷となるっ>
レイは何を言い出したんだ。今俺の目の前でビームライフルを撃ちまくってるこの紅いのを、何とかしてくれよ。「んなこと言ったって、奴らがクルーを!」
だがシンにとって、レイの次の言葉はさらに信じがたいものだった。<それは違う! 南チュウザンは、クルーまでもを犠牲にするつもりはない!>
そんな馬鹿な。ヨダカ隊長の推測が間違っていたのか? そこへ、シンと同様に混乱したルナマリアの声が重なる。<で、でもさっき、あの紅い奴はブリッジを!>
<恐らく誤解だ。奴らは脱出したクルーを攻撃してはいないだろう!>
そんなことを言われても、どうしようもない。戦闘は始まってしまったんだ。「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!? このまま逃げて、むざむざ船がやられるのを見てろってのか?」
<ヨダカ隊長の連絡を待て! データを手に入れれば、船体保護の必要性は……>
だがレイの声は、突如響いたアラートにかき消される。同時にルナマリアの声。<シン、よけて! 下っ!>
いつの間に回り込まれたのか、デスティニーの直下にミゲルのグフが迫っていた。空中戦では一番の死角と言える足下から、こちらを狙いすまして真っ直ぐビームソードを構え、突っ込んでくる。
<シンっ! このオォーーーーッ!>すかさずルナマリアのインパルスから、ビームライフルの閃光が幾条も降りそそいだ。とっさにグフは対ビームシールドでその光を防いだが、勢いは止まらずそのままデスティニーに突っ込んでいく。
<ぼーっとしてんじゃねぇよ、シン・アスカの癖に!>ミゲル・アイマンの嘲笑が、グフのスピーカから轟いた。畜生、デスティニーならグフなんか楽勝のはずなのに──あいつだ。あの紅い奴が、俺のペースを乱した!
<シン!> グフの攻撃を防ぐ為、デスティニーが下方にソリドゥス・フルゴールを展開したのと、ルナマリアの砲撃と叫びが炸裂したのは、ほぼ同時だった。
そしてその直後、シン・アスカは信じられない光景を目撃する。
グフを狙ったはずのインパルスの砲撃が、狙いを外れた──その光は真っ直ぐに、きれいな直線を青空に描きながら、アマミキョブリッジのすぐ真下に突き刺さったのだ。


ブリッジが白い光と熱に包まれていく、その瞬間。
サイはカズイの悲鳴を聞きながら、光で見えなくなるオサキの身体と、全身で自分をかばってくるハマーの向こうに、確かに紅の髪の少女を見た。
紅蓮の髪に灰色の瞳を持つ、連合少年兵服の少女を。
──フレイ。フレイ、君なのか? 本当に、あの、君なのか?
少女は両肩を震わせ、こちらに向かって全身で何かを叫んでいる。散々涙を流しながら、サイに向かって叫んでいる。子供が駄々をこねるように頭を振っているので、紅の長い髪がふわふわ揺れていた。その目から涙が飛び散っていた。
──駄目。駄目。ダメ! まだ、貴方はこっちに来ては駄目!
サイは確かに聞いた。間違いない、2年前のフレイだ。2年前、最後に見た時のフレイだ!
思わず手を伸ばそうとしたが、届かない。動く方の右手を伸ばしているのに、届かない。俺の手は、やっぱり血まみれだからかな。君の手は、透き通るように細くて綺麗だもんな。
だがフレイは、サイの手を叩き払うように思い切り彼を拒絶する。
──駄目だって言ってるでしょ、馬鹿! 貴方はまだここに来る人じゃない、少しでも触ったら許さないからね! 私絶対に、サイを許さないからね!
そうか、やっぱり君は俺を許さないのか。そりゃそうだよな、君の名前を騙った女を抱いた俺なんて、そりゃ許せないだろうさ。
──違う、そんなこと言ってるんじゃないわよ……貴方、まだそんな罪悪感抱いてたの? 私は貴方を振った挙句に、もうどこにもいないのよ。
哀れむように自分を見つめるフレイに、サイは呟く。弁解にしかならないけど、俺は今でも君が好きだよ。君を好きになれたから、君をずっと好きだったから、「あの」フレイにも魅かれたんだ。
──な……っ、バ、バッカじゃないの? そんな非常識が通用すると思って……いやその、そうじゃなくて!
そうだな、非常識だな。でも事実だから、しょうがないさ。結局俺は、どっちのフレイも好きなんだよ。節操なしって罵ってくれて、全然構わない。
だからこうして、もう一度君に会えて、俺、すごく嬉しいよ。
サイは少女に触れようと、また腕を伸ばす。彼女は一瞬その手を包もうとしたものの、すぐに腕を引っ込めてしまった。
──サイ。貴方みたいな馬鹿は、絶対にこっちに来ちゃ駄目なのよ。貴方みたいな、馬鹿なほどのお人好しを必要とする人が、たくさんいるんでしょ。
──多分、「あの」私もそう。正直、サイにはあの娘を想って欲しくはないし、出来れば全然別の娘とお付き合いしてくれていた方が良かったんだけど、でも、あの娘はサイを求めてる。
──だから、まだ来ては駄目よ。まだ、貴方を死なせはしない。だって、「あの」私が貴方を必要としているから。
だから、こっちに来たら、絶対に、許さな──


少女の最後の言葉は、聞き取ることが出来なかった。
少女の手に触れることも出来ないまま、サイは白熱した光の中で、意識を失った。


アマミキョブリッジ付近から、天空を割る勢いで火柱が噴出した。
フレイの眼前で、今までサイがいたはずのブリッジは無残にひしゃげ、装甲ごと潰れて見えなくなる。ブリッジへの絶望的損傷が他パーツへの誘爆を引き起こし、アークエンジェルにも似たトリコロールの船体は今、真っ黒な煙と紅蓮の炎に包まれ、海に呑まれていく。
誰も、どうすることも出来ない。フレイも、ミゲルも、ラスティも、誰も。
アフロディーテのコクピットで、操縦桿を折れよとばかりに握りしめるフレイ。その全身は、痙攣と見まがうほどに震えていた。身体を貫く熱い痛みと共に、フレイは喉から叫ぶ。
守れなかった。使命を破ってでも、守りたかったのに。何があろうと自分は、あの男を絶対に守らなければならなかったのに──
自分に組み込まれた遺伝子の作用に逆らってでも、自分が一番大切にすべきものを切り捨ててでも、守りたかったのに!
「サイ……サイイイイイイィいいいいいいっっ!!!」
フレイの悲痛な絶叫が、炎の柱と共に青空を切り裂いた。


 

 

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