「違う……違う、私、違う……」
インパルスのコクピットで、ルナマリア・ホークはフレイ以上にガタガタ震え続けていた。この状況はその場の全員が俄かには信じられないものだったが、一番信じられない、信じたくなかったのは撃った本人だったろう。
自分の射撃能力の低さを嘆いたのは一度や二度ではなかったが、今この瞬間ほどこんな自分の無能ぶりを恨んだことはなかった。
焼き尽くされ崩壊し、炎の中で海へ溶け崩れてゆくアマミキョを凝視しながら、ルナマリアはただ呟くことしか出来なかった。持ち前の根性で操縦桿だけは離すことはなかったが、その両拳は最早脳の命令を受け付けない。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……私、絶対にそんなつもりじゃ!」
<ルナ! しっかりしろ、ルナ! ルナアァア!!>自分を呼び続けるシン・アスカの必死な声も、ルナマリアには聞こえていない。「私、私……あの紅いのがやろうとしたのと、同じことした。とんでもないことをしてしまった」
いや、違う。あの紅のモビルスーツは、今考えれば多分レイの言う通り、ブリッジの中の人間を助けようとしていたんだ。必死で手を伸ばして、無理矢理にでも助けようとしていた。多分あの、血まみれの青年を。
私はそれすら勘違いして、妨害した挙句、あの人を撃った──!
空中でほぼ棒立ちとなってしまったインパルスを、紅の機体──ストライク・アフロディーテが振り返る。見えなくともすぐに分かった──血濡れの鬼神の眼球の如く真っ赤に煌くカメラアイを通じて、パイロットの怨讐の呟きが響いてくる。
──許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない……!!
ルナマリアの目に、その機体の紅はもはや血の色にしか見えない。両肩のIWSPは、血を塗り固めた真っ黒な悪魔の翼。
右腕のみでビームサーベルを抜き放ち、フレイの絶叫を乗せてアフロディーテはインパルスに突撃する。
<ルナ! 逃げろ、ルナ!!>
何度も自分を呼ぶシンの叫びにも、ルナマリアは反応出来ない。アフロディーテの紅い刃がそのままインパルスの胸部に突き立てられようとする──
その寸前、舞い降りてきたデスティニー・ガンダムのビームシールドがアフロディーテに一息に押しつけられた。そのまま2機は揉みあいながら海面へと突っ込んでいく。デスティニーからさらにシンが叫ぶ。<レイ! ルナを頼むっ>
その瞬間にはもう、レジェンドがインパルスの背後に回り込んでいた。<ルナマリア、撤退しろ。今のお前は交戦可能な状況にない!>
「で、でも、ヨダカ隊長、が……」レイの忠告に、ルナマリアはやっとそれだけを応答する。必要最低限に感情を抑えたレイの声は、強くコクピットに響いた。<うろたえるな、お前は何も悪くない。俺たちがヨダカ隊長の援護に回る、先にミネルバに帰投しろ!>


ミゲル・アイマンは唇を噛みながら、眼前の爆炎を眺めている他なかった。
確かにこれで目的は達成された。おそらく「御方様」の目的までも。
途中でフレイによる指示変更はあったものの、とりあえず当初の目的は達したのだ。しかし──
何という、後味の悪い結果だろう。こんな醜態を晒すくらいなら、最初から俺が先行してサイ・アーガイルごとアマミキョを撃沈させた方が、どれだけマシだったか分からない。そうなればフレイは俺を串刺しにぐらいはするかも知れんが、今の彼女の錯乱ぶりを目撃するよりは、その方がどれほど良かったか。
一本だけ残ったビームサーベルで無謀にもデスティニーに突撃していくアフロディーテの姿は、いつもの彼女を知っているミゲルとしては、実に痛ましかった。IWSPのバッテリーもそろそろ尽きることだろう。ザフトも、目的が達成出来なかったならとっとと退くはずだ──実際、アマミキョを撃ってしまったインパルスは踵を返し、素早く空の向こうへ撤退していく。その機体を追うつもりは、ミゲルにはさらさらなかった。
俺が悪かったのか。インパルスとアマミキョを結ぶ射線上に来てしまった俺が──いや、そこまで俺は計算したはずだ。例え俺が貫かれたとしても、その閃光がアマミキョに及ぶことがないように。
だが、相手がいつもいつでも自分を正確に狙ってくるとは限らない。射撃下手な奴なら、無茶苦茶に乱射することもあるのだ。そのうち一発がドハズレ中のドハズレだとしても何も不思議は──いや、それにしてもあの射撃能力の低さは特筆ものだろう。ザフトの射撃訓練は一体どうなってやがる? 「神様、ウラむぜ」
ミゲルの呟きもまるで無視して、なおもアフロディーテは追おうとしていた。とうに背中を向けているインパルスを。「おい、フレイ! もうやめろ、俺たちの目的は!」
<駄目だ、今のフレイには何を言っても!>追随してきたラスティのスカイグラスパーから、諦めに近い情けない叫びが響いた。


インパルスに追い縋ろうとするアフロディーテ、それを追うデスティニー。そのコクピットに、また別の通信が入る。<こちらヨダカ! 船体データの回収は完了した、これより全員帰投する!>
シンが素早くモニターを確認すると、炎と水柱を上げて崩壊していく船のすぐ後方から、ヨダカ・ヤナセの黒いジンハイマニューバ2型が浮上してくるのが見えた。黒ダガーLどもの攻撃を巧みにかわしつつ、海上を滑るように炎の間をぬってこちらへ向かってくる。あの速さは恐らくグーンに乗っているのだろう。
だが、シンやレイがヨダカに応答するより早く、アフロディーテが黒ジンに気づいた。
──サイを殺させたのは、貴様か。
瞬間、シンは紅の機体に凄惨なまでの怨念を感じた。インパルスに向けるよりもずっと根深い怨念が、機体のあちこちから呪術の黒煙の如く放散されている。関節部からの激しい摩擦熱と共に。
それは、怒りに燃えるシンの背筋すら一瞬凍らせるほどの、恨み。


「あの黒ジン……貴様か。ミネルバ隊を惑わせ、アマミキョを壊した者は!」
アフロディーテのエネルギーゲージが紅く点滅を始め、警告音が鳴り出した。稼働時間は残り50秒を切っている。フレイは一旦インパルスを諦め、黒い寸胴の機体に標的を変更した。
インパルスのパイロットが故意にサイを撃ったわけではないくらい、フレイは分かっていた。だが、インパルスを撃たなければ、どこへこの怒りを持っていけば良いのか彼女には分からなかった。
自分の感情がどうにもコントロール出来ず、ミゲルやラスティの声も聞こえていながら、聞いていなかった。
サイが殺されたことでこれほど自分が錯乱するとは予想していなかったし、これほど自らの感情が制御出来なくなることも、今の彼女にはかなり久しぶりの経験だった。
インパルスが悪くないというなら、では誰がどうやってサイの仇をとるというのだ。誰に怨讐をぶつければいいのだ。自分に残された最後の希望すら奪われた、その痛みをどうやって癒せというのだ。
そんな状態のフレイの眼前に現れたジン・ハイマニューバ2型。間違いない、アマミキョが残した魂が、奴が仇と教えている。アマミキョの過去が、奴が敵だと教えている。あいつはずっと執拗に私たちを追っていた。
分かっている。本当の敵は誰か、私には分かっている。本当に私が倒すべき者が誰なのかも。それはあの黒い寸胴ではないことも。
だが、サイに手をかけた──その一点のみで、十分だ。
瞬間、アフロディーテはビームサーベルを9.1m対艦刀に持ち替えた。レールガンを連射しつつ黒ジンに斬りかかる──このレールガンの一斉射が、海中からヨダカ機の支援に回っていたグーンに命中し、水柱が上がった。その飛沫を貫いて、血の女神はヨダカ機の目前に現れる。


ヨダカはとっさに斬機刀を構え、アフロディーテのあまりにも速い刃の一撃をどうにか打ち払う。実体剣同士による火花が、水飛沫の中で飛び散った。
「何をそれほど恨んでいるか知らんが──データが目的なら、渡すわけにはいかんな!」
アフロディーテは右腕一本のみで斬りつけてきながら、同時にヨダカ機のどてっ腹に膝蹴りの要領で右脚部を喰らわせていた。激しい衝撃によろめきながらも、ヨダカは機体左腰部に喰いこんだらしきブツを確認する。
「貫通弾(スティレット)かっ!」ヨダカ機は咄嗟に斬機刀を大きく一閃し、離れようとしない紅の機体を跳ね除けた。アフロディーテの右脚部が切断され、重量のある刃に吹っ飛ばされた機体は宙を舞う。だが黒ジンに喰いこんだ右脚部は決して離れなかった──それは、フレイの執念か。
「ここまでかっ……! 脱出機構を!」次の瞬間、衝撃と警告音と共にヨダカの眼前で盛大な花火が閃いた。機体に喰いこんだアフロディーテの脚が大爆発を起こしたのだ。
<隊長! 隊長おおおおおおおおっ!!>デスティニーからビームブーメランが投擲されたが、それより数段速く──
アフロディーテの対艦刀が、黒ジンを支えていたグーンごと、黒い無骨極まる機体を縦に一刀両断していた。


「そんな……隊長! ヨダカ隊長っ!!」火柱に包まれる歴戦の志士・ジンハイマニューバ2型を見つめながら、シンは血が出るほど唇を噛んで鉄の味を噛みしめていた。
<シン、もうやめろ。これ以上の犠牲は必要ない。
俺たちの任務は失敗に終わった。ならば、早急に撤退することが最善の──>
この状況においても冷静さを忘れないレイの声。だがシンは到底納得出来ない。レイの言葉を遮断し、左拳をパネルに叩きつけて叫ぶ。「俺は割り切れないんだよ!」
この後味の悪さが、シンにはどうしても我慢がならなかった。
救えるはずの人間を、誰も救えなかった。敵も味方も、傷つかなくともいいはずの者たちが大勢傷ついてしまった──撃ってしまった当人であるルナマリアを想いながら、シンは肩を震わせる。
あの機体。あの紅の機体のせいだ。
ついこの間まではアマミキョを守っていたはずなのに、どういうわけか今は船を壊す側に回っている。それだけでもシンには理解しがたいことだったのに、船を俺たちが破壊したらとち狂って襲いかかってきた。
その行動の一貫性のなさが、シンにはどうあっても不快でならなかった。──とある人物を思い出させて。
任務を果たして帰ってきたら、いきなり自分を殴りつけてきたあの男。敵のはずなのに、「キラは敵じゃない!」などと堂々と言い放ったあの男。挙句の果てにはメイリンまで巻き添えにしてザフトを裏切り、「議長の言葉は世界を壊す!」とか訳の分からないことを叫んでいたあの男。
「分かったよ。アスランそっくりだ、アンタは!」
不快感を身体中から爆発させると同時に、シン・アスカの脳裏で紅の光が弾けた。それはもう何度目かになる、SEED覚醒の瞬間だった。
デスティニーは飛沫を巻き上げながら一気にアフロディーテに迫る。アロンダイトと9.1m対艦刀がかち合う──
機体のパワーの差は歴然としていた。一瞬の間にアフロディーテの対艦刀が弾き飛ばされ、宙を舞う。


その刹那、アフロディーテのエネルギー残量はほぼゼロとなった。すかさずフレイは叫ぶ──「ラスティ!」
同時に残存電力をフルに消費して、ゼロ距離からありったけのレールガンをデスティニーに叩き込む。紅の翼の周囲に湧き上がる白炎。
咄嗟にデスティニーはビームシールドを展開したが、その隙にアフロディーテは最後の力で飛び立った。
ジャストタイミングで飛んできたラスティのスカイグラスパーから、ジェットストライカーが射出される。同時にアフロディーテは自らの翼であるIWSPを切り離し、そのまま炎熱の中のデスティニーに叩き込んだ。
ずっと、アマミキョを守り続けた翼だったIWSPを、フレイはこの時捨て去った──
アフロディーテ自体も何もかも吹き飛ばすほどの大爆発の中、落ち葉の如く揉まれながらもラスティは軽口を忘れない。<ヒュー、まさかIWSPをやっちまうとはねぇ! フレイ、やっと新型乗る気になったか?>


そうは言いながらも、ラスティは理解していた。あぁ──これでフレイは、完全にサイを諦める覚悟を決めたんだ。
サイと出会ったあの日から、ずっと使い続けてきたダガーL。改造に改造を重ね、頭部意匠までストライクに似せて、パーソナルカラーも紅に変更し、無理矢理IWSPまでつけて運用してきた──IWSPと、その膨大な消費電力を支えるパワーエクステンダーがなければ、アフロディーテはただのダガーLだ。とっくにどこかで撃墜されていたに違いない。
フレイ自身は決して口にしなかったが、ミゲルもニコルも自分も分かっていた──サイと会ったあの日に出会った機体がこれだったから、サイに真実の自分を晒すきっかけとなった機体がこれだったから、フレイがこの機体に固執し続けたことを。
何度も何度も新型に変えるように言ったが、フレイはのらりくらりと俺たちの忠告から逃げた。彼女の真意をうっすら悟った時は何という私情かと思ったものだが……
サイを失ってここまで荒れ狂うフレイを見ると、とても私情の一言で片づけられるものではない。
──フレイ。やっぱりあんた、サイのこと本気で好きだったんだな。俺だって、応援したかったよ。
でもそれは、あの方にとってはただの、少女の感情なんだ。あの方にとって、フレイ・アルスターはキラ・ヤマトが全てじゃなきゃ、駄目なんだ。
フレイの心がキラ・ヤマトで満ちること、それがあの方の願いの一つだから。
だから、今ここで思い出の詰まった機体を捨てるのは、フレイにとってもちょうど良かったんだろう。大人になって、あの方に従うことが出来る。
「それが本当に大人なのか、分からんがね」ラスティは軽くなったスカイグラスパーの中で、ふと吐き捨てる── だがその瞬間、ラスティは見た。デスティニーを包んだ炎のすぐ上で、ジェットストライカーへの換装を終えて再び飛翔するアフロディーテ。そこに、禍々しい蛍光グリーンに光る火の鳥・ドラグーンが接近してくるのを。


<フレイ! 逃げろおおおぉっ>
アフロディーテを包囲したドラグーンを、猛スピードで追撃してきたスカイグラスパーが次々と対空ミサイルで撃ち落とす。ミゲルのグフも、ドラグーン発信源であるレジェンドガンダムに迫る。
その刹那、フレイは見た。海上に巻き上がった爆炎の中から、ビームブーメランの紅の刃が飛んでくるのを。そして、その中で真っ直ぐにこちらへ向かってアロンダイトを構えて突っ込んでくるデスティニーを。ラスティの怒声が響いた。<あいつ……まさか、こんなに早く!?>
だが、フレイはすぐに気づいた。炎と硝煙の中に見えるその機体は既にそこにはいない。「違う、ラスティ! 後ろだっ」
デスティニーの持つ、散布したミラージュコロイドに自機を映し出す幻惑機能──そいつを使われた。おそらくデスティニー本体はアフロディーテの背後。
フレイは0.01秒もないうちにそこまで感づいて機体を操作しようとしたが、アフロディーテは彼女の思うように反応しない。IWSPを消失したことで先ほどまでのパワーを失ってしまったアフロディーテは、もはや他の量産型ダガーLも同然だった。
機体の反応速度の問題が、こんなところで持ち上がったか。アラートが響き渡る中、フレイはアフロディーテの残された片腕にビームサーベルを構えさせることしか出来ない。デスティニーが自分の背中を狙っているのは分かっているのに、反応が出来ないとは!
その瞬間──叫びが轟いた。<させるかよ! こんな所で、フレイをっ!>


アフロディーテのサブカメラが、その背後の光景をまざまざと捉える。
今まさに、太陽を背にして光の刃を構え、アフロディーテの首筋に突っ込んでくるデスティニー。動けないアフロディーテ。
その二つの点を結ぶ線のほぼ中心に、ラスティのスカイグラスパーが割り込んできた。
「愚か者! やめろ、やめるんだ、ラスティ・マッケンジー!!」血まで吐く勢いでフレイは叫ぶが、スカイグラスパーの速度は落ちない。雨あられとミサイルを放ちながら、真っ直ぐにデスティニーに突進していく。
ラスティの意思も運命も、もうフレイには分かってしまった。そんな彼女に、ラスティの通信が届く。<姫……いやさ、フレイ。これが俺の最後のつとめだ。
アスランを捕まえられなかった代わりに、シン・アスカの力を試してみせる! しっかりデータ取って下さいよぉっ!>
空中で、アロンダイトとスカイグラスパーが見事に交差する。次の瞬間、両機は白い光となり、その場の全てを染めていく。


「フレイ、ごめん。俺、何の役にも立てなかったな。結局、アスランにもろくに会えずじまいか」
全く……だから、さっさと新型に替えろって、あれだけ言ったのに。
俺、何しに生まれたんだろな。アスランを手に入れられないなら、俺、何も意味ないじゃないか。
なのに俺は、何でフレイを守る為に……しかも俺、それで満足してる?
そうだよ。結局俺もみんなも、フレイに幸せになって欲しかっただけなんだ。出来れば、サイと。それも出来なくなっちまったが。
シン、頼む。信じられないかも知れないけど俺、お前を殺す気はないんでな。ありえんとは思うけど頼むから、一緒についてこないでくれよ。頼むから、姫の力になってやってくれ。お前なら出来る。俺たちはずっとその為に、お前らを追ってたんだから。
カイキ、マユ、ナオト、サイ……今からそっちに行くけど、きっとタコ殴りにされるだろーな、俺。出来れば顔は勘弁してくれよ、これでも俺、結構イケメ──
光と熱の中、ラスティ・マッケンジーの意識はそこで途切れ、永遠に消滅した。


「ラスティ……?」
ずっと一緒に戦ってきた仲間の死。その光景を、フレイは何も出来ずにただ見ていることしか出来なかった。
爆光から片時も目を離さず、彼女は泣きも叫びもせずにひたすら動かなかった。
──ラスティ、分かっている。お前の想いは、分かっている。
だが私は、無駄と分かっていてもやらずにいられない。
その時には、フレイの覚悟は既に決まっていた。「サイと、お前たちの為に──!」
光と炎熱渦巻く中から、デスティニーの10枚の紅の翼が、全くの無傷で現れる。その場で失われたすべての血を吸いこんだかのような紅。蝶のように開く光の翼。光を背にして黒く染まる頭部。鬼のように煌くカメラアイ。
「流石だ、シン・アスカ」フレイの唇が笑いの形に歪み、口元に少女らしからぬ皺を刻む。「スカイグラスパーの自爆に無傷に耐えられぬようでは、貴様の為にラスティが命を落とす意味もない!」
ラスティ、安心しろ。奴は強い、惚れ惚れするほどに!
切れ切れの通信から、ミゲルの絶叫が響く。ラスティを、仲間を呼ぶ悲痛な叫びが。
だがフレイは一声のもとに、その叫びを押さえつけた。「女々しいぞ、ミゲル!
急遽ではあるが、これより第683回戦闘実験を行う。テストパターンはコード666(デストロイ)、被験者はシン・アスカ。
後は頼む!」
<待て、フレイ! やめろ、どうあってもサイの仇を取る気かよっ!?>
だが、すでにミゲルの静止はフレイには聞こえない。聞こえていても、従う気など彼女には全くない。アフロディーテはジェットストライカーのバーニアを爆発せんとばかりに噴かし、最大戦速でデスティニーに突っ込んでいく。
「見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
私はアルファであり、オメガである。
最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」


黙示録を詠唱するフレイの声が明らかに震えているのを、ミゲルははっきり感じた。
もう、どれほど言ったところでフレイは聞きはしない。御方様──もうフレイは、あんたの人形じゃなくなっちまった。
勝手に意思を持ち、勝手に動き、勝手に人を愛する人間になっちまった。
ラクス・クラインと同様に操れると思ったら、大間違いだったようだな。フレイは変わっちまったんだ──あんたがゴミと思っていた、ある人間によって。
ゴミ同然とあんたが見做していた人間が奇跡を起こし、フレイに変革を起こした。
だからあんたは、処分したかったんだろう──サイ・アーガイルを。フレイ・アルスターの心から完全に消えたはずの男を。
フレイの小さな過去でしかない男を。遥かな高みに登りつめたキラ・ヤマト、その足枷でしかないあの男を。
だけど人間ってのは、そんな単純に割り切れるもんじゃねぇ。遺伝子をいくらいじって自分の思い通りに作り替えたところで、意思だけはそう簡単に操作出来ない。特に、乙女の恋心なんてものは。
サイはただの過去なんかじゃなかった。キラの足枷でも踏み台でもなかった。ましてや、ゴミなんかじゃねぇ。そばで見ていた俺たちが、一番良く知っている。
事実、フレイがここまで混乱している。サイの死で、完全に常軌を逸している。あんたの鋼鉄のお人形でしかなかったあのフレイが。大切なものをあんたから守る為に、どんな非道でもやらかしたフレイが。姫が──
俺たちの姫様は、見つけちまったのさ。泥の中で輝く宝石の美しさってヤツを。
そいつに魅せられたのは、フレイだけじゃない。ラスティも同じだ。だからヤツはこんな所で逝っちまったんだ、フレイに従って、乙女を守って──サイに殉じて。
ニコルもそうだ。あいつの意思は今必死で偽ダガーLどもを制御している。サイを傷つけないようにアマミキョを破壊する、そのあまりにも無茶苦茶な操作が、今どれだけあいつの脳と身体に負担になっているか──それでもあいつは命がけで頑張っている。
そして──俺もどうやら、同じようだ。もっとも、フレイもラスティもああなった以上、俺が死ぬわけにはいかなくなっちまったが。
「さぁどうする、御方様。フレイ込みで、俺たちをお掃除するかい?」


左腕と右脚を失い、完全にバランスを失った紅の女神──ストライク・アフロディーテは、ビームサーベル1本のみで光の翼・デスティニーに正面から突っ込んでいった。
もう私は迷わない。
私はあの女を許さない。全ての元凶となったあの女を。サイの為に、命を操作された全ての魂の為に、私は私の遺伝子に反逆する。
──その怨念に、レジェンドのコクピットのレイ・ザ・バレルはその鋭い感覚で静かに触れていた。
何をそれほどまでに恨む。何があの女を、そこまで狂わせる? 俺の中の、キラ・ヤマトへの怨念に近いものを、あの女に感じる。
だが、その想いの正体が何であるか分かるまでは──恐らく自分はそこまで長くは生きられない。その現実も、レイはとうに悟っていた。
しかし、俺の代わりにあの女の行く末を見る者が現れることも、何故か分かってしまう。俺が、ラウから想いを引き継いだと同じに、この不可解極まりない俺の想いを引き継ぐ者が。
俺があの女に「母」を感じた理由、それはその者が──恐らく。
あの女が恨む者。これほどまでに根深く恨む者。
それは、今レジェンドが抱えているインパルスの中で震え続けているルナマリアではない。それは断じてありえない。
彼女もまた、そいつの被害者の一人であるだけだ。膨大な数の被害者、その一人として巻き込まれたにすぎない。
「ラクス・クライン……? いや違う、これは……」
レイはラクスの血を、その渦巻く怨念の中に感じていた。確かに感じる。あの女の中に、ラクス・クラインの香りを。
だが、本人ではない。あの女の奥底に鎮座している存在はラクス・クラインと同じではあるが、同じではない。
それは俺とラウと、アル・ダ・フラガとの関係とも違う。
分からないことが多すぎる。そして答えにたどり着くには、俺の命はあまりにも短い。恐らくこのままあの女を放置すれば、シン・アスカもまた今後、この女とその背後の血を巡る戦いに巻き込まれてしまうであろう。その類稀なる才能の為に。
だが、これだけは分かる。
ギルの計画を一刻も早く実行に移し、世界から戦いの悪夢がなくなれば──そのような事態にはならないことを。その為なら、自分は極限にまで弱まってしまったこの魂を、全く遠慮なく使うであろうことも。
そしてもう一つ──
「『母』は、オリジナルではないだろうに」


レイ・ザ・バレルが虚しく呟いたその瞬間──
激突したデスティニーとストライク・アフロディーテは爆光に包まれた。



















外部からひっきりなしに響きわたっていた轟音がようやく少しばかりおさまり、アマミキョブリッジクルーたちを乗せた救助艇は、冷たい海の底から浮上した。
戦闘空域の中心部から東へ、5キロほど離れた海上。上部ハッチを開き、慎重に頭を出したトニー隊長はまず安全を確かめる。意外なほどに、海面は静かだった。しかしすぐに、炎と煙と熱気の充満した真っ黒い空気がトニーの頬を打った。
トニーにしがみつくようにして、ヒスイ・サダナミもこわごわと救助艇の外、黒い大気の中へ這い出た。湿気と灰混じりの風で、ヒスイのストレートの黒髪は一気に汚れていく──そして、彼女は見た。
美しかったウルマの青い海を埋め尽くすように燃え上がる、無数のモビルスーツの残骸を。
四散して波に揉まれる機体からは血のような潤滑油や推進剤が漏れ出して引火し、水の上で弱々しく最後の炎を上げている。昼間のはずなのに、空は灰に覆われ真夜中よりも暗い。
葬送の行列の灯のように海を覆って揺れ動く炎の向こうに、ヒスイは見た──今もなお、激しい炎柱を噴き上げて崩壊を続ける、自分たちの船──アマミキョを。
ヒスイが密かに誇りとしていた、伝説のアークエンジェルにも似たトリコロールの美しいカラーリングは無惨なまでに溶け崩れている。自分たちの家も同然だった、幾多の避難民たちの希望だった船は今まさに、漆黒の海へと燃え落ちようとしていた。ヒスイにとって一番大切だった仲間──サイ・アーガイルとサキ・トモエの命も、恐らく飲み込んだまま。
その炎を目にした途端、ヒスイの全身は氷のように固まってしまった。
もう震えることすら彼女には出来ず、その唇はただただ新鮮な空気を求めて喘ぐ。両手は胸の前で、二度とほどけないだろうというほど強く組み合わされていた。
声も出せなくなってしまったヒスイを、トニーは背中からそっと抱きしめる。父親が、母を失った娘を抱きしめるように。
ヒスイに続いてハッチから数人のクルーが出てきたが、彼らもあまりの光景に、一瞬誰もが押し黙ってしまった。
そして次の瞬間、力が抜けて座り込む者、その場で泣き崩れる者、サイたちの名を声を限りに叫ぶ者──
皆、分かっている。ここで一体何が起きたか。
何故かは分からないが、ほぼ全員が、失われた無数の魂の重さを感じている。かすれた嗚咽と絶叫が、やがて降ってきた黒い雨と交差した。
それでもトニーはヒスイを支えながら、油の塊が降り注ぐ空を敢然と睨んだ。隊長として、これはまず絶対に言わねばならなかった。
「さぁ、みんな。戦闘は終わったんだ。
探しに行くぞ! サイ君たちを」



















──サイ、さん?
無機質なステンレス製の台車の音に刺激され、少年はうっすらと目を開いた。
全く見覚えのない白い部屋。網膜にとってかなり無遠慮な光量の蛍光灯が視界に飛び込んでくる。
少し頭を回してみると、どうやら自分はベッドに寝かされているらしいことが分かった。色とりどりの点滴が見え、そこから伸びるチューブは全て自分の身体へ繋げられている。
──僕は……フレイさんにやられて、死んだはずじゃ?
──ここはどこ? 僕は、確か……
マユ。母さん。ウィンダム。フレイさん。カイキさん。──アマミキョのみんな。サイさん。僕が、帰る場所。
ここは、アマミキョなのか? でもこんな病室、見覚えが……
あらゆるキーワードとイメージが記憶の整理よりも早く次々に浮かび上がり、少年の意識を混乱させていく。身体を動かそうとしたが、麻酔でもかけられているのか、両手ぐらいしか動かせない。少し腕を上げてみると、両腕はほぼ全て包帯に覆われていた。全身を走る痛み。頭を回す程度が精一杯だ。
「あ、見てシン! 先生の言ったとおりだ、この子やっと気づいたよ!」
唐突に響きわたる声。途端、少年の視界に蛍光灯の光を遮るように、一人の少女の頭が飛び込んできた。
少し紫がかった赤毛で、ちょっと特徴的なショートカット。大きな群青の瞳は本心から嬉しそうにこちらを見ている。その前髪は真ん中あたりだけやたら癖のある毛らしく、下手をすればその毛先だけ少年の額に刺さりそうなほど尖がっていた。
人なつこい笑顔に少年もつられて笑いそうになったが、その服を見て表情は凍りついてしまった。
──ザフトの、赤服だ。
僕たちに何度も襲いかかってきたザフト。僕の大事な人たちを殺し、大切な場所を僕から次々に奪ったザフト。
そのザフトに、どうして僕がいるんだ?
マユ、マユ、マユ! 返事をしてよ! 母さん、どこにいるの? 
キラさん、カガリ代表、ミリィさん、アークエンジェル!! どうして誰もいないんだよ!?
ねぇ、サイさん! カズイさん! みんな!! マユやサイさんたちをあれだけ感じることが出来たのに、どうして今は誰もいないの?
助けて……助けて、助けて!!
痛みも構わず、狂ったようにベッドでじたばた暴れだした少年を、少女は慌てて押さえつける。「あぁ、駄目! まだ動いちゃ駄目だってば!! 1か月も意識なかったのよ、貴方は!」
少女の柔らかな頬と豊かな胸が一息に覆いかぶさる。さらに、やけに強烈な腕力で両手首を押さえられ、少年の抵抗はたやすく終わった。それでもザフトへの恐怖は収まらない。全身が痙攣のように震えだす。
助けて、助けて、助けて……今度は何を僕から奪うつもりなんだ、ザフトは?
どんなに叫ぼうとしても、どうしてか声が出ない。どうして? 声は僕の武器だったはずなのに。荒い息だけが虚しく少女の耳を掠めるだけだ。
「落ち着いて、落ち着いて、お願いだから。大丈夫……大丈夫よ。
誰も、貴方に何もしないから」
少女はいつしか、少年にほぼ馬乗りになりながら彼の頭を抱きしめていた。頬にはガーゼを当てられていたが、その体温ははっきり少年にも伝わっていく。
肌の暖かさを感じ、少年の震えはわずかながら治まった。ザフトの、血の色にすら見える制服への恐怖は消えなかったが、髪をゆっくり撫ぜてくる手のひらの感触に、彼は思わぬ安らぎを覚えた。
「ルナ。お前こそ落ち着けよ」ふと壁際から、どこか投げやりな声が少女の背中へ飛んでくる。少女の左の脇ごしに、少女と同じ赤服の少年の姿が見えた。
ややぼさぼさの黒髪に、目の覚めるような白い肌。年齢は自分より2つほど上といったところか。ひときわ印象的なのは意志の強そうな黒い眉と、その紅の瞳だった。
──マユに、似てる?
唐突に浮かんだその思考に、思わず頭を振る。何を考えてるんだ僕は……この人は、どう見ても男じゃないか。
「どう見ても、俺たちを怖がってるだろ。ザフトはずっと、こいつらにとって敵だったんだから」こちらを見下げながら、壁に凭れかかって面倒そうに腕組みをしている。少女と同じ赤服ではあるが、その襟元は若干はだけている。よく見ると少女の方も、やたらと太ももが目立つミニスカートの制服だ。というよりも明らかに制服を改造している。
「今は違う」少年を抱きしめたまま、少女は反論する。「というか、元からこの子は敵なんかじゃなかったわよ。だって、民間船の……」
「そいつはそう思っちゃいない。ステラと同じだよ」黒髪の少年は腕を組んだまま、ぷいと顔を背ける。その言葉に、今度は少女の微笑みが一瞬だけ消えた。「また、ステラ……ね」
だがすぐに彼女は気を取り直し、笑顔に戻る。「でも良かった、本当に心配したのよ。見つけた時は正直、もうこれは無理かって思ったけど……
そうだ、名前聞かなきゃね」
「何言ってんだルナ、隊長から聞いてるだろ」
「バカね、こういう自己紹介からコミュニケーションが始まるんじゃないの」黒髪の少年を横目で睨みつけ、少女はまたすぐ満面の笑顔になる。まるで可愛い子犬を拾った幼子のような笑顔だった。「私はルナマリア・ホーク。あっちの、黒いのはシン・アスカ。ぶっきらぼうだけど、いい奴だから気にしないでね」
「おい、黒いのって何だよ」「髪真っ黒だから黒いの、文句ある?」
シン・アスカ──……って、そういえば……マユの……?
記憶が徐々に鮮明になる。思い出したくない血の記憶が。
──マユ・アスカにも本物の兄貴がいた。名はシン・アスカ。オーブ解放戦後の生き残りで、今はザフトとして戦っている。
思わず右手で頭を押さえこむ。どうやら頭もほぼ包帯で覆われていることに、初めて気づいた。あの後、僕は……
僕は母さんを守れなくて、カイキさんを殺して、マユも消えてしまって、フレイさんに殺されて。殺されたと思ったら、広瀬さんが助けてくれて……でも、その後が……
「どうしたの? もしかして、名前思い出せない?」ルナマリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「────…………!」
違う、自分の名前ぐらいわかる、バカにするな。僕は子供じゃないんだから。必死で頭を振る。「──…………?」
だが、いつものように声を張ろうとしても喉に力が入らない。何か鉄のようなものが一杯につかえているような感じだ。
喉の奥が重くてたまらない。
それでも彼は無理に声帯を震わせようとする──が、その途端鋭い痛みが喉に突き刺さり、少年は遂に一言も言葉を発せないまま激しく咳き込んでしまった。
「え、ちょっと、大丈夫!?」酷く震え続ける小さな背中をさすりながら、ルナマリアは青ざめる。肺が破れるかというほどのあまりの咳き込みに、シンも思わずベッドに駆け寄った。
「大丈夫かよ……まさか、声が出ないとか?」
シンが漏らしたその一言は、少年を酷くえぐった。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった頬は苦しさで上気し、唇からはぜぇぜぇと喘ぐ呼吸音しか出ない。底の知れない絶望が、少年の心に満ちていく。
──僕は……声まで、失った。





メサイヤ攻防戦終結から、約3週間。
これが、ナオト・シライシとシン・アスカ、ルナマリア・ホークとの、最初のまともな邂逅だった。


 

つづく
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