時間は少し遡る。
カズイ・バスカークは、ふと我に返った。
そこは、ひどく薄暗く狭い空間の中。血と潮水と油の臭いが充満している。激流に投げ出された樽のようにひっきりなしに揺れている──そんな脱出用カプセル内部に、カズイはいた。
──俺たちは、何とか逃げのびたんだ。あの炎の地獄から……だけど。
頭をゆっくり回してみる。カズイのすぐ正面、1mと離れていない場所に簡易ベッドがある。そこには、血みどろの包帯だらけの青年が寝かされている。揺れで落ちないように、何重ものベルトでベッドに縛りつけられている状態で。
全身ずぶ濡れで出血もじわじわ続いている。ついさっき炎のど真ん中を通過した為か、カズイと同様に顔は煤で真っ黒だ。それでも彼は、ガーゼで半分覆われた唇の間から、かすかに苦しげな呼吸を続けていた。
「サイ……ごめん。ごめん。
結局俺は、サイを助けられない」
もう何度繰り返したか知れないその呟きを、カズイはまたも反芻しながら膝の間に頭を埋めてしまう。
脱出時の衝撃で方向指示器が壊れたらしいこのカプセルは、今や荒海を漂う一枚の落ち葉にすぎなかった。外の戦闘音と爆発音の狂想曲は脱出後1時間ほどしてようやく静まったものの、カズイにとってその1時間は1週間にも1か月にも思える長さだった。いつ撃たれても蒸発しても全く不思議ではないその恐怖の中、カズイは必死で青年の──サイ・アーガイルの手当てを続けていたのだ。襲いくる自分のパニックをようやく抑えつけながら。
そして戦闘がようやく終わったと分かった今でも、絶望的状況がそれほど変化したわけではなかった。
居住空間がおおよそ直径2.5m、長さ4mほどのこの小さなカプセルは、既にウルマ沖10数キロの地点まで流されている。海上は季節柄の暴風雨。元々宇宙用に作られたカプセルはほぼ沈みながら海流に流されていくままだ。どこへたどり着くのかもさっぱり分からない。アホみたいに大量の救難信号を打ち続けてはいるものの、どこのチャネルからも応答はない。
結局、俺はダメだ……何も出来ない。
苦しげなサイの呼吸だけが満ちる閉鎖空間の中、カズイはどんどん心を閉じ込めていく。
サイは俺なんかの為にアムルさんに立ち向かい、ここまで酷い怪我をしてしまった。そんなサイと俺を助ける為に、ハマーさんも……なのに、俺は。
目の前で死んでしまうだろう友達を、眺めていることしか出来ないなんて。
サイの呼吸に、わずかに呻きが混じる。カズイはのろのろとサイににじり寄るようにして近づき、包帯の具合を見た。煤で汚れた頬に、玉のような汗が浮かんでいる。血の気のない唇。腫れ上がった頬にはガーゼを当てているものの、そのガーゼも血まみれだ。
腹部と左肩の傷は、血と潮水まみれになったワイシャツを切り裂いて手当てをし、包帯を巻いている。だが未だに出血は止まらず、包帯をじわりと紅く染めていく。サイの命の残りを示すように、包帯の白い部分はどんどん血の赤に浸食されていた。まだ息があるのが不思議なくらいだ。
カズイは無気力ながらも、サイの左腕の包帯を替える作業にとりかかった。もうこの包帯もガーゼも使い物にならないが、カプセルにあった救急用品は早くもサイ一人の手当てで底を尽きかけている。それでもカズイはガーゼをそっと外した──乾ききらない血の塊がぽろぽろ落ちて、両手を汚す。
そのままカズイは傷口に消毒液を少しずつ注ぐ。琥珀色のビンから液体をガーゼに浸し、傷口を拭いていく。鼻をつく強烈な薬品臭はもう慣れた。真っ黒に腫れ上がり、血の噴火口のようになっている傷に触れるたびに、サイの息づかいが乱れた。「うぐぁっ! ……う……はぁっ、うぅ……」
左肩と腹を傷つけられたサイの上半身は、左側がほぼ赤黒く変色していた。おまけに右足の銃創もある。皮膚は激しく熱をもっていた。唇から漏れる微かな呟き。「さむい……フレ、イ……」
カズイは裂かれてぼろぼろになったサイの制服の左半分を、そっとかけてやる。このぐらいしか出来ない自分が歯痒く、悔しさで涙が溢れた。
──どうしてこんな俺を、サイは助けたんだ。こんな酷い思いまでして。
溢れ出た涙は押さえられず、カズイの頬を濡らしたばかりかサイにも落ちていく。何滴目かがサイの煤だらけの頬を洗った時──ふと、サイは瞼をうっすらと開いた。
眼鏡を外したサイの青い瞳を、カズイは久しぶりに見る気がした。視点は定まらず、目の下は死の兆候を示すどす黒い隈に侵食されているが、それでもカズイはその深い青を、きれいだと感じた。
「カズイ……?」弱くなる息の中で、それでもサイは懸命に言葉を発する。思わずカズイは覆いかぶさるようにサイを見つめた。「サイ! 大丈夫なのか」
「……ハマーさん、は?」
それは今のカズイにとって、最も答えたくない種類の問いだった。「覚えて、ないのかよ」
カズイはふと、サイの右肩にかかっている制服の胸ポケットを見た。その視線に気づき、サイはまだ動く右手でそっと胸ポケットに触れる。乾いたガラス瓶の軽い音が、ごく小さく響いた。「……そうだった。バカだな、俺。こんな大事なこと」
カズイはただただうなだれるしかない。次々に涙が頬を伝う──ぐしゃぐしゃになったその頬に、不意にサイの右手が触れた。「カズイ。良かった、カズイが無事で」
「何、言ってんだよ……どうしてサイはそんな、人のことばかり」
「違う。俺は、幸せ者だなと思って」
カズイはその言葉に、思わず顔を上げる。どこまでも優しい空の青が、そこにあった。それは、サイの眼差し。
「いつだったか……フレイはさ。
メンデルのあたりで、同じようにして、戦闘中にこうやって、カプセルで投げ出された。宇宙空間の中をだ。
その時、フレイはたった一人だったって……キラが言ってたよ。
キラだってそうだ。たった一人で、いつ死ぬか分からない戦いの中を、俺たち守って、一人で戦ってた。
フレイやキラの苦しみに比べたら、俺、すごく幸せだよ。
だってカズイが、ここに、いてくれる。俺は一人じゃない」
言葉を発するのですら苦しいはずなのに、サイは激しい息の中で、しっかりと一言一言、カズイに語りかけた。声は相当掠れてはいたが、言葉ははっきりしている。
「サイ。今はそんな状況じゃ……お前、自分がどういう状態か分かって」カズイは涙ながらに訴えたが、サイはゆっくり首を振った。
「分かってる。ごめんな、こんなところまで、付き合わせちまって。
ありがとな、助けてくれて。アムルさん傷つけてまで、俺のこと、助けて、くれて。
俺、それだけ、言いたかった」
最後のあたりは殆どかすれ声にしかなっていなかった。息も絶え絶えにサイはそれだけ言うと、そっと右手でカズイの頬を撫でる。カズイは思わずその手を両手で握りしめる。氷のように冷たかった。
カズイの体温に触れて安心したのか、サイはその瞼をゆっくり閉じた。何かを呟きながら──
「サイ! 馬鹿野郎、何言ってんのか分かんねぇよ!」カズイは爆発したように叫びながら、サイの頭を抱きしめる。
──はやく、みんなのところへ。
カズイにはやっとそれだけしか聞き取ることが出来ない。どんなに耳をこらしても、サイの言葉はもうカズイには聞き取れなかった。
どうしよう……どうしよう、どうすればいいんだよ、俺。このままじゃサイが死んでしまう……
さっきはハマーさんがいてくれたのに、今はもう誰もいない。ここじゃ、逃げ出すことも出来ない。
二年前もずっと俺を支えてくれて、俺を励ましてくれて、最後まで俺を見守ってくれてたサイが……今度こそいなくなってしまう!
弱くなっていく息。焦げた髪からはまだ火の臭いがする。カズイの両手がサイの血でまた汚れる。
アムルさんを止められなかった、サイを疑ってしまった、こんな矮小で卑劣な俺なんかもうどうなったっていい。俺なんか生きていたって、何もいいことなんかない。アマミキョにいたって何もなかった。
サイと一緒にアマミキョに行けば、俺でも何か出来るかも知れないと思ってた。だけど結果は──何一つ出来ないどころか、サイに致命傷を負わせてしまった!
なぁ誰か、サイを助けてくれ。頼むから、サイを助けてくれ──
祈るような涙まじりの呟き。
答えのない深海。
波に揺られるだけの閉鎖空間。
血が流れるままの友の身体。
猛烈な血と潮の臭い。
情けない自分の涙。
閉じられていくサイの瞼を見つめながら、カズイが今度こそ完全に心を閉ざしかけたその時──
不意に、空間全体が大きくガコン、と音をたてて揺れた。何かに抱きとめられたように。
ずっと続いていた、荒波による不快な揺れがそれきり止まる。次に来たのは、自分たちが急速に上方へ移動させられている感覚。高速エレベーターに乗せられた時のように。
戦闘音は一切しない。溺れていた小鳥が、やっとのことで親鳥に助け出された──そんな安堵が、何故かあった。
しばらくの逡巡の後、カズイは恐る恐るハッチに手をかける。モニターの位置表示を見る限り、少なくとも海水が流れ込んでくることはないはず。
サイを助けるにはどっちみち、開くしかない扉だ。開いた途端に撃たれる運命だったとしても──それでも、この中でサイが死んでいくのを見ているよりは、ずっといい。
重い空気音と共に、ハッチが開く。暗闇に慣れきったカズイの目に、痛みすら伴うほどの強烈な光が差し込んだ。
視界に飛び込んできたものは──
チュウザン特有の晴れ晴れとした美しい青空と、太陽。そしてその空よりも素晴らしく青く輝く、10枚の翼を持つ巨神。
「あれは──」カズイは思い出す。二年前もそうだった、俺たちが完全に死を覚悟して、俺なんかはあの場から逃げ出そうとまでしたあの時、救世主のように「アイツ」は天空から降り立ったじゃないか。
だいぶ形状が変化してはいるが、今俺たちを救ったのは──あれは間違いなく、「自由」の名を持つ「アイツ」のモビルスーツだ。
燦々と降りそそぐ光の中、サイもまたうっすらとその瞼を開く。そして薄れゆく意識の中でやっと呟いた──二年前のあの時と同じ言葉を。
「キラ……だ」
つづく