「ほら、あーんして、あーん。大丈夫よ、もう怖くないでしょう?」
病室の中で、ルナマリア・ホークはそっとベッドの上の少年に手を貸して、いつも通り食事を丁寧に口に運んでやっていた。少年が恐る恐る、ルナマリアの冷ましたスプーンから粥を口にすると、そのたびに彼女は笑顔で頬を撫でる。
無邪気そのもの。だけど僅かな恐怖をまだ隠し切れず、こちらを一心に見つめてくる大きな瞳。頬のガーゼはまだ取れないが、可愛くってたまらない。一日中見ていても飽きない。
まるで、シンに代わる弟分が出来たみたいだ。
口は一切きけない上に、何かを書かせようとしても言葉がなかなか出てこないらしい。また、やっとのことで書いた単語も全く意味をなしていないことすらあった。
何とか分かったのは、彼の名がナオト・シライシであること、ガンダム・ティーダのパイロットだったこと、オーブでレポーターをやっていたこと、アマミキョに乗っていたこと──せいぜいこの程度だ。
それでも──否それだからこそ、ナオトは今のルナマリアにとって、貴重な心の支えだった。
メサイア戦役で敗北し、ミネルバは墜とされた。上官であったタリア・グラディス、そして仲間のレイ・ザ・バレルを失い、妹であるメイリン・ホークとも離れ離れになり、失意のうちにプラントに戻ったルナマリアを待っていたのは、何も出来ない仔犬同然のこの子供だった。
ヤヌアリウスとディセンベル、合計6基のコロニーの崩壊。それによる大混乱から全く立ち直る兆しのないプラント。そんな中、ザフト施設内の病院に収容され、ほぼ監禁に近い状態で治療を受けていたナオトに、ルナマリアはどうしようもない庇護欲を感じたのだ。
メイリンが自分の元を離れてオーブへ行ってしまい、弟のように思っていたシンがいつの間にか自分よりはるかに実力をつけ──二人とも、自分が守るべき存在からかけ離れてしまったせいかも知れない。ナオトの頭を撫でながら、ルナマリアは自己分析をする。
素性もよく分からない、頼る者は誰もいない、伝える手段をほとんど持たず、大怪我をしてプラントに放り出された子供──ルナマリアはそんなナオトを放っておくことが出来なかった。
赤服の特権を行使して、ルナマリアはシンをお供に毎日のようにナオトの見舞いに来ていた。勿論名目としては、ガンダム・ティーダの情報を探るということにしていたが。
最初こそ、ナオトはルナマリアに触れられることを極度に嫌がっていた。無理もない、私たちザフトはずっとこの子の船を攻撃していた。私なんてこの子の船を──絶対に撃ってはいけなかった船を──
それでもルナマリアが手をさすり、動かない脚を診てやり、頭を撫で、全身で抱きしめたりするうちに、ナオトの表情からは次第に嫌悪が消えていった。もっともそれはルナマリアに対してだけで、シンに対してはまだ殆ど心を開こうとしてはいなかった。そしてシンの方も、ナオトを可愛がろうなどという気持ちは微塵もないようだった。
仕方がない──シン自身、心の余裕が全くない状態なのだから。

 


PHASE-35  動き出した時間



「ずっと、あんな調子なのか」
病室内のルナマリアとナオトの様子を、シン・アスカとアーサー・トラインは見ていることしか出来なかった。ロックのかかった重い扉。目の高さあたりに申し訳程度につけられた小さなガラス窓ごしに。
アーサーはシンとルナマリアを交互に見やる。そういえば、結構長い間、副長と話をしていなかった──そう思いながらも、シンは目をルナマリアから逸らさないまま続けた。「はい。会話は全く出来ないし、筆談も未だにうまくいかないことも多くて……」
「彼だけじゃない。ルナマリアも、かい?」
「はい?」思わぬアーサーの問いに、シンは生返事になりつつも顔を上げる。ルナマリアは相変わらず、ナオト・シライシの頭を撫でながら朗らかに笑っていた。それを見るたびに、シンの胸には今まで経験したこともないざわついた気持ちが生まれていく。いつの頃からか、自分にはなかなか向けられなくなった、ルナマリアの屈託のない笑顔──
いつからだろう、ルナが俺に笑わなくなったのは? アスランがメイリンを連れてザフトを裏切った時から? レイがいなくなった時から? ミネルバが墜ちた時から? アスランに月面で助けられた時から? 俺が、キラ・ヤマトと会った時から? それとも──俺がアスランとメイリンを振り切って、プラントに戻った時から?
俺には、女の心なんか分からない。だけどルナはそのへんの女の子とは違う、扱いに困るような娘じゃないと思っていたのに。
「いずれにせよ、君たちはザフトに戻ってきた。ミネルバは沈み、グラディス艦長を始め多くの仲間を失った──君たちの気持ちは、よく分かっているつもりだ。しかし……」アーサーはその先を言いづらそうに、言葉を濁す。
シンがその真意をただそうとするよりも早く、アーサーの背後から不意に、黒い髭面の大男がぬっと現れた。アーサーの逡巡を見透かすように。「しっかりしたまえ、トライン艦長。我々ザフトがこのプラントでやるべきことは、山ほどあるのだからな」
「貴方は!? ご、ご無事だったんですか?」シンは驚きのあまり、思わず素っ頓狂な大声をあげてしまう。ちょうどルナマリアも病室から出てきて、彼らと鉢合わせする形となった。「まさか! ヨ……ヨダカ、隊長!?」
「やれやれ、どう生き延びたか説明しろと言わんばかりだな」ヨダカ・ヤナセは黒い唇の間から白い歯を見せて豪快に笑った。「残念だが、その時間はない。君たちミネルバJr組には新たな任務があるのでね」
言いつつ、ヨダカは背後に控える女性が差し出したメモ帳を取り上げ、当然のようにナオトの病室に入ろうとする。ルナマリアは慌てて、その前に立ち塞がっていた。
「様子をご覧になりたいということであれば、徒労と思われます」
「彼の状態にろくな変化が見られないのは知っているさ。ただ、ずっと追い続けた者としては気になってね……」軽口を装いながらもヨダカはルナマリアの肩ごしに、小窓を通してナオトの姿を目ざとく確認していた。何も知らないまま、ナオトはヨダカをぽかんと見つめている。
一目見て、ヨダカの顔から笑みが消えた。「酷いもんだ……」
背後の女が、ヨダカの背をそっとつつく。それに気づいてヨダカはアーサーらに向き直った。「トライン艦長、私より君が直接伝えるべきことだろう。ミネルバJrは問題ない、何をためらう?」
「は……はぁ」アーサーは咳払いと共に、ようやく吹っ切ったという顔をでシンとルナマリアに向き直った。「君たちには、ミネルバJrで再び地上に降りてもらう。彼──ナオト・シライシと共に」



何処からか声が聞こえる。自分を激しく呼ぶ声が。同時に自分を拒絶する声が。
──しっかりしなさいよ! あの船のみんなを放っといて、私を放っといて私のところに来ようなんて、そんなの許さない!
──ナオトだってマユだって、みんな貴方を待ってる! 早く起きなさい、貴方は強い人なんだから!
──そうよ、キラよりずっと弱い癖に、キラより誰よりずっと強いんだから!
声はどんどん頭の中で大きくなる。耳を塞ごうとしても両腕は動かない。身体中に少女の声が響きわたる。
フレイ、駄目だ。行かないでくれよ……俺のそばにずっといてくれよ。
どうして君はどこにもいないんだ? どうして君は、また俺から離れた? やっとまた会えて話せたと思ったのに、フレイはフレイじゃなくて、しかも俺からまた離れて……君が俺から、みんなから離れたせいで、俺はまた全てを失ってしまった。
ネネも、オサキも、ハマーさんも、メルーも、ナオトも、マユも、カズイも、船のみんなも──
そこへ別の声が割り込む。少女と同じ声だが、少女とは違う声。
──何を言っている? 貴様はまだ、全てを失ったわけではない。
全てを失うなどと、軽々しく口にするな。それ以上の苦しみを味わったこともない分際で!
……君か? 君なのか? フレイ?
思わず手を伸ばそうとする。動かないはずの右手が、凄まじい重さを伴ってようやく動きだし──







サイ・アーガイルは戻ってきた。現実へ。
目覚めた瞬間に視界に映っていたものは、少女の大きな瞳。紅の長い髪。
「フレ、イ……?」何日ぶりに発されるかも判然としない言葉を、思わず呟いていた。目の前で自分を見つめる少女に向かって。
視界は非常にぼやけている。目の前のこの少女は誰なのか。紅に見えた髪の色は、思ったよりもだいぶ色素が薄い。淡い空色の瞳──フレイでは、ないのか?
「あらあら? 大変、びっくりさせてしまったようですわね」少女が少し慌てたように、額に手を当ててくる。ひんやりとした感触。身体は相変わらず殆ど動かない。全身を鋼鉄の鎖でがんじがらめにされ縛りつけられているみたいだ。
「どうしましょう……少し、落ち着いてくださいな」
少女の指の柔らかさを感じながら、サイはようやく気づいた。自分が全身包帯とギプスとチューブまみれでベッドに寝かされていることと、目の前の少女がフレイ・アルスターではないことに。
あぁ、俺は脳みそまでどうかしたらしい。この人とフレイを間違えるとは──「あ……貴方、ひょっとして!?」
やっと気づいたのですねと言いたげに、少女の笑顔が揺れる。淡い桜色のふわりとした髪、トレードマークとも言える三日月の髪飾りと共に。「ラクス……さん?」
少しばかり明瞭になってきた視界の中で、ぱちん、と軽い音をたてて少女は拍手してみせた。「えぇ。お久しぶりです、サイ・アーガイルさん。
私は、ラクス・クラインですわ」


シンとルナマリアはほぼ同時に抗議の声をあげていた。「何でまた!? デスティニーもインパルスも修理中なんですよ!」「ナオトを乗せるって、無茶です! あの子に何をさせるつもりですか!?」
慌てたアーサーはシンの反論にのみ回答する。「デスティニーとインパルスの修理は予定の倍のペースで進んでいる。何せプラントの一大事だ、作業用にでも構わないから少しでも動かせる機体が欲しいんだよ。一緒に乗るのは元ミネルバの仲間だから、特に問題もないだろう」
最後にちょっと照れてみせて、アーサーは頭をかく。「私が艦長というのは不安だろうが、我慢してくれ」
「私の質問に答えてください、どうしてナオトを!」何でこんな時に軽口なんか──ルナマリアは彼を責めたてる。と、ヨダカが代わりに答えた。「デスティニー、インパルスと一緒に、ティーダもミネルバJrに搭載予定だ。知ってのとおり、ティーダを動かせるのはあの子供だけだ」
「ティーダ……あの機体まで修復されたんですか?」シンが訝しげに聞く。「俺たちが見つけた時は、ほぼコクピットだけの状態だったはず……」
「修復じゃない、アレはほぼ新機体だ。だがシステム周りは生きていたから、やはり彼にしか動かせないんだよ」
「そうじゃなくて」ルナマリアがヨダカに噛みついた。「何でティーダが必要なんです!? あの子の状態、分かっていますよね?」
「ルナマリア・ホーク!」出過ぎたルナマリアの反論に、ヨダカは廊下中に鳴り響くほどの声を轟かせた。「それ以上の発言は上官への反抗と見做される。口を慎め!
アスラン・ザラ及びメイリン・ホーク脱走事件への関与の疑いが、完全に晴れたわけではないのだぞ!」
その一声で、ルナマリアの全身が縮こまる。メイリンのことを出されると、どうにも固まってしまうルナマリアだった。
「ルナマリア、落ち着いてくれ」アーサーが諭しつつ、説明を始める。「我々がかつて調査した南チュウザンの動きが、最近とみに活発化している。
プラントの混乱と連合の無力化に乗じ、タロミ・チャチャは一気に勢力を拡大してきた。北チュウザンはほぼ乗っ取られたに等しく、東アジア共和国はほぼ全域、彼の息がかかっているとみて間違いない。位置的にはカーペンタリアも近く、非常に危うい──近々、大きな一手を打って出るという噂もある。
そこで、我々ミネルバ隊とティーダの出番というわけだ。ティーダとあの子供の調査が進み、奴らに対抗しうる手段となりうるならば……」
「無茶ですよ!」ルナマリアが言うより先に、叫んだのはシンだった。「口もきけない、コミュニケーションもままならない民間人の子供に、何が出来るってんです!? まさか、無理矢理ティーダに詰め込んで出撃でもさせるんですか」
「シン! 君も調査中に見たはずだろう、神経を蝕むあの光がもしジェネシス級になったらどうなると思っている!?」
声を張り上げるアーサーに、ヨダカは大仰に頭を振った。「やれやれ、メサイア戦を経ても、反抗期は相変わらずか」
シンは唇を噛みしめる。彼が思わずナオトを庇ったのは、ルナマリアに同調すると同時にステラ・ルーシェを思い出したからだろう──本能的に、ルナマリアはそう感じていた。
まだ、やっぱり、彼女を忘れられないのね──妹のことも。
アーサーに一礼し、ヨダカはミネルバ隊に背を向ける。彼に同行していた女がふとルナマリアに視線をやった──が、すぐに目を逸らして去っていく。
長い金髪をお団子にまとめ、新しくしつらえたザフトの緑服を身にまとっている。目は若干、白目の面積が広いように見える。だがプラントにおける容姿のレベルでいえば、ごく普通の女性のように思えた。
──あの人、どこかで会った?
妙な既視感をルナマリアは覚えたが、その時はどうしても思い出すことが出来なかった。


「どうして……どうして、貴方がここに? というか、ここはどこです? 俺は一体どうしたんだ? 船のみんなは……カズイは、トニー隊長は、ナオトは」サイの乾ききった唇から、矢継ぎ早に飛び出す言葉。
「まぁまぁ」ラクスはサイの叫びを受け止めつつも、タオルケットを顎のあたりまでかけてくる。黙れと言いたいのか。「大丈夫ですわ、じきに全て分かります。酷い怪我をされていたのですから、今は養生した方が」
「養生なんて、してられない!」ラクスの声を遮るように、サイは叫ぶ。腕が動けばタオルケットを投げ飛ばし、何本も突き刺さっている点滴を引きはがすぐらいはしていただろう。「アマミキョは……脱出したみんなはどうなったんです!? 俺はみんなの所へ行かなきゃいけない!」
その言葉に──ラクスの表情から一瞬、笑みが消えたような気がした。だが同時に、全く別の方向から声が三つも飛び込んできて、ラクスは再びふわりと微笑む。
「サイ! サイっ、気がついたのね! 良かった……本当に良かった!!」
「凄いよラクス、サイがそろそろ気がつくって言ってたら本当になるなんて」
「……サイ!」
涙まじりの少女の声と、ちょっとびっくりしたように呆けた青年の声と、最後は他の二人より一段階も二段階も小さめの、押し殺した叫び。サイにはすぐに分かった。
ミリアリア・ハウに、キラ・ヤマトに……カズイ・バスカーク。
ずっと遠いような気がしていた、懐かしい顔が次々に視界に飛び込んでくる。真っ先にサイに抱きつくように駆け寄ってきたのはミリアリアだ。両腕で、サイの頭を抱きしめるように飛びついてくる。「サイ、サイ、サイ……貴方1か月近くもずっと寝てたんだからぁ! ずっとずっと呻いてばかりで、みんな本当に心配したのよ!!」
わんわん泣き出したミリアリア。彼女の、外に跳ねた髪がサイの頬を撫でる。僕たちにはこういう真似できないね、と言わんばかりにキラとカズイが顔を見合わせている。だがサイはそれどころではない──1か月だと? そんなにもの間、俺は何もせずに寝てたってのか?
「ちょっと待ってくれ……キラ、教えてくれ。ここはどこだ? アマミキョはどうなった? みんなは……」
必死に事情説明を求めるサイに、ミリアリアは悲しげにかぶりを振る。そして助けを求めるようにキラを見たが、キラはそんな彼女からラクスに視線を移す。そのラクスはゆっくりと、カズイに視点を定めた。まず最初にお話するのは、貴方でしょう? 何も言わずとも、彼女の瞳が語っていた。
抵抗不可能な無言の要請を受け、カズイはぽつぽつと喋り始める。「ここは、オーブのオロファト郊外の病院だ。あの後、俺たち二人はキラに助けられて、アークエンジェルに収容された──
そこまでは、覚えてるか?」
頭にまだ鈍い痛みが走ったが、サイは頷く。「やっぱり、あのモビルスーツは……キラ、お前だったんだな」
大分、フォルムが変化していた記憶がある。おそらく、撃墜されたというフリーダムの代替となる機体なのだろう。その言葉を否定しない代わりに、キラは促した。「その後は?」
──何も分からない。覚えていない。
ただずっと、炎の中に巻かれる悪夢を見ていた気がする。
炎上するカタパルト。自分の身体から発される、猛烈な血と煙のにおい。
そんな自分の身体を抱き上げ、炎の中をのそのそと進む男。──その男の背中には、十字架のようにも見える大きな金属片が突き刺さっている。
今目覚めた後もなお、サイの眼前にはその十字架がちらついていた。胸の傷がひどく痛み、サイは思わず呻く。その拍子にサイの胸元、病院服のポケットの中で何かが軽く音をたてる。サイにはそれが何なのか、もうはっきりと思い出せていた。
──俺のせいで、あの人まで失ってしまった。
「サイが治療されている間に、アマミキョのみんなは散り散りになってた。脱出したメンバーはみんなどうにか生き延びたって話も聞いたけど、今はどこにいるのか分からない。アスハ代表が調べてくれているけど、あの混乱の中じゃ……」
カズイはその後を続けられず、言葉を濁す。だがサイはそれだけでどこか安堵していた──そうか、みんな無事だったのか。あの時船に残った「彼ら」を除いては。
オサキの笑顔を思い出し、あの悲痛な最期を思い出し、サイの胸がまた酷く傷んだ。思わず咳き込むサイを、慌ててミリアリアが支える。
「サイにはまだ時間が必要だ。僕がゆっくり話すよ」キラが話し始める。サイたちが救出された、その後の物語を。


ユウナ・ロマ・セイランがジブリールを匿った為に、オーブが再び危機に晒されたこと。
その最中にようやっとのことでカガリ・ユラ・アスハがアークエンジェルを伴ってオーブに戻り、セイランから政権を取り戻したこと。
直後、宇宙に逃亡したジブリールの手でレクイエムが放たれ、プラントでユニウスセブンを遥かに上回る犠牲者が出たこと。
反撃に転じたザフトによってジブリールは葬られ、ロゴスは事実上壊滅したこと。
それから間もなく、ザフトのデュランダル議長が「ディスティニープラン」を発表。それに反駁したラクスらクライン派とオーブ軍は一斉蜂起、議長率いるザフト軍を壊滅させたこと。
どれをとっても、今のサイには俄かに信じられぬ現象ばかりだった。
キラが話している最中にミリアリアとカズイは病室を出ていたが、ラクスはじっとキラとサイを交互に見ながら、隅の椅子に腰かけていた。
「ミーアさんのことは」この件に関しては、キラはひどく話しづらそうだった。「ラクスもアスランもひどく傷ついた。 ラクスを騙っていたのは確かだけれど、そうさせたのは議長だからね」
「偽りはその存在だけで忌むべきもの──果たしてそうでしょうか? ミーアさんはそのことを教えてくれましたわ」ラクスの周りではいつの間にか桃色のハロと、もう一体の紅のハロが仲良さげに飛び跳ねている。恐らくその紅いハロが、ミーアという人物の持ち物だったのだろう。ラクスが愛しげに紅ハロを見る瞳だけで、サイには分かった。
「ミーアさんは私以上に本物でした。プラントの平和を彼女なりに考え、自分なりのラクス・クラインを演じていた──いえ、ラクス・クラインを『降ろしていた』という形容がよろしいですわね」
サイは思い出す。「あの」フレイと、今話に聞いただけのミーア・キャンベルが、別人に思えない。
「あの」フレイだって、フレイ・アルスター像を自ら創り上げ、単なる模倣に留まらない段階まで昇華させていた。
「多分、貴方は彼女と似た方をご存知のはずです」
「ああ、知ってます。とても良く知ってる」ラクスとサイの視線が空中でかちあう。何故だろう、この人と「あの」フレイの眼光はどこか似ている。
「そのミーアさんを、議長は消した」キラは俯きながらも、はっきりとした口調で続けた。「人の運命を好きに操って、人は最初からこうだと決めて、限られた可能性しか生きられないなんて──
そんなの、僕は許せなかった」
「それが、議長の本来の夢だったのか」お前にとっては許せないかも知れないが、かなりの人間にとってはありがたいことだったのかも知れない──そう言いたかったが、胸がまだ痛くてうまく喋れない。
ディスティニープランとは、要するに遺伝子を調べて最初から人の適性や職業、ひいては未来を決めるものだった。その概要をキラから聞いた時、サイは反射的にある人物を思い出していた。思い出したくもない彼女──アムル・ホウナを。
親から強制的に、明らかに自分と合わないバイオリンを押しつけられ、それ以降の人生でずっと迷走を続け、遂には親と婚約者の死すら願い、サイとアマミキョに対してあれだけの凶行に及んだ彼女を。
彼女はどうしたろう。やはりあの後、死んでしまったのか。
「そういう人たちにとっては、必要だったのかも知れないね」キラはまるで他人事のように言う。実際他人事なのだから当然か──「だけど僕もラクスも、人から決められた運命におとなしく従うのは嫌だった。
嫌、だったんだよ。それだけ」
サイはため息をつかずにいられない。それだけの理由で、数百万数千万のアムル・ホウナが救われる可能性を潰したというのか。「男の本能、ってヤツか」
「あら、男女はあまり関係ありませんわ。だって私も、想いはキラと一緒ですから」
「じゃあ人間の本能だ。それも……優秀な人間のな」サイは少し疲れ、思わず吐き捨てる。その言葉に、キラの顔から完全に柔らかさが消失した。多分、モビルスーツを操っている時と同じ表情を俺は向けられている。それでもサイは言わずにいられない。「何でも出来る人間は、そりゃ可能性を拘束されるのは嫌だろうさ」
「僕やラクスが、そうだと言いたい?」
キラの言葉には、明確に冷たい棘があった。俺はキラの心を刺激する言葉を、また吐いてしまっている。だが、構うもんか。殴るなら殴ればいい。本音を言った方が、お前だって気が楽なんだろう?
「ああ、そうだよ。お前は出来ることに限界がある奴らの気持ちなんか分からない!
自分の限界に気づけなくて、いつまでも迷走する人間なんて幾らでもいる。そういう奴らに議長の計画があれば、どれだけ楽になったか──お前はここまでと定められていれば、無駄な争いもなくなる。徒労に終わる努力なんてしなくていいんだ」
「同じことは、議長にも言われたよ。でも嫌なんだ」キラの冷たい眼差しは変わらない。憐みすらこもっているように思える。なんで分からないの、君は? 「だってサイ、考えてみてよ。現実が分かってないってサイもアスランも言うけど、僕はこれでも考えてるよ。
君は一生トイレ掃除以外の職業にはつけませんって言われたら、どう?」
思わぬ例えに、サイは吹き出しそうになってまた胸の痛みで咳き込んだ。「お前、トイレ掃除馬鹿にすんじゃないよ! 掃除だって立派な……っ」
「馬鹿にしてるのはサイじゃない? 同じことはパイロットにだって、研究者にだって、スポーツ選手にだって言える。貴方に適した職業はサッカー選手です。だけどそれ以外やっちゃ駄目って言われたら?」 サイは反論したかったが、咳き込みのあまり後が続かない。ラクスがくすりと笑った。「私も、一生歌だけ歌っていろと言われたら、やっぱり嫌ですわね」
「僕だって……一生死ぬまでモビルスーツに乗ってろと言われるのは、嫌だ。
結果的に同じことになるとしても、決めるのは自分でいたい。それだけだよ」
サイは何となく読めた。気絶している1か月の間に起こったこと──それは、キラの本能と、議長の論理の激突。
議長のプランは確かに、混迷するプラントやコーディネイターを導く、現時点での最善の方法だったのだろう。いずれ彼の研究はナチュラルにも及び、地球上でもプランが採用された可能性はある。実際、そんなものがあるんだったら俺だって興味津々で調べてもらうかも知れない。
でもキラは、感情でそれを拒んだ。自由を望み、可能性を信じて前に進む人間としての本能が、論理上の平和を拒んだ──どちらが正しいかなんて、これからの歴史しか証明しない。
じゃあ、これからどうするのか?
「一つの案を拒絶したからには代替案が必要だ。議長を失脚させたのであれば、当然お前やラクスさんにその責任が生じる。お前が正しいと主張するからには、何か他に計画はあるのか?」
答えが分かりつつも、サイは聞いていた。そしてキラは当然のように答える。「分からない」
予測出来た答えだったが、それでもサイは言わずにいられない。「分からないって……お前ら、バカ?」
すかさずラクスが呆けたように突っ込んできた。「お前ら? 私もですか?」
サイは一瞬躊躇したが、それでも言い放つ。刺すなら刺してみろ、この重病人を。「いや……その……
……そうですよ!」
ラクスはサイの一言に目を丸くしてぽかんとしていたが、突然ぷっと吹き出した。「これから皆さんで、それを探していけばいいだけのことですわ」
「いやその、そんな悠長なことを言っていられる状況じゃ……今の話だと、プラントはどえらい状況なんですよね? 地上もまだ火薬庫同然で……」
サイはふと言葉を切る──チュウザンは? 一体、今のチュウザンはどうなっているんだ。
アマミキョや山神隊が命がけで守ろうとしたあの島国は、今、どうなっている?


まさか、自分がプラントに来るなんて、思わなかった。
軍施設のガラス張りの回廊に映し出された、星々が輝く宇宙。それを見ながら、ナオト・シライシは思う。
今ナオトがいるのは、リハビリ用も兼ねたザフトの実験棟だ。プラント港湾部から突き出すようにして建設されたリング状の実験棟は、まるで砂時計の真ん中に突き刺さった剣にひっかかる、ガラスのドーナツだった。
プラントは僕が収容される直前に凄まじい攻撃を受けたらしいけど、ここからじゃ何も見えない──それもその筈で、一見ガラス窓のように宇宙を映し出しているのは全て映像モニターだった。擬似的に作成された宇宙の星々の風景が回廊全面に映し出されているだけで、その向こうは分厚い1万枚以上もの防御壁で覆われている。そしてさらにその向こうは──ナオトは考えたくもなかった。今でも恐らく、破壊されたプラントの残骸がそこかしこに漂っているはずだ。
ナオトはこの、久々の無重力空間の中で、誰ともまともな会話を交わせぬ日々を過ごしている。だが──
「よぅ! まーた部屋から脱走かよ? ルナにあれだけどやされた癖に、意外と度胸あんな〜」整備士の制服を着て、茶色い前髪をケチャップのように赤く染めた少年が、リフト・グリップを伝ってガラスの空間を泳いでくる。ナオトは急いで病院服の懐からメモ帳を出して、少年──ヴィーノ・デュプレに押しつけた。
「また、か?」それを見て、もううんざりという顔でヴィーノはナオトに答える。「ティーダ見せろとか、絶対無理なんだって。もうアレは俺らのもん。民間人には見せられないの」
ナオトはさらにヴィーノの眼前にメモを突き出す。乗れない、僕、しか。マユが。──何とかそこまでは解読可能な、乱雑な文字。
「やっと、ここまで書けるようになったんだな。それは褒めてやるよ、でも駄目だ」
気さくではあるが断固としてきっぱり拒否するヴィーノの態度に、ナオトは肩を落とす。マユがまだ、助けを待っているのに。
「だから言ったろ、マユって娘についてはルナや俺よりシンに話せって。まーだ何もしてないのかよ」
ナオトは首を振るしかない。シン・アスカとは未だに直接、話が出来ていないのだ。もとより他人との会話など、ルナマリアやヴィーノを介してしか出来ないナオトだったが、シンに対してはそれに加えて、恐怖があった──
ギガフロート・シネリキョで広瀬少尉から教えられた秘密を、ナオトは勿論鮮明に覚えている。ナオトの知るマユ・アスカはいわゆるコピーに過ぎず、本物、つまりシン・アスカの妹であるマユはとっくの昔に死亡していることも。ナオトの知るマユは、チグサ・マナベの魂を覚醒させる為の媒介にすぎなかったことも──
でも、マユは、いる。僕を待ってる。
確信があった。シネリキョからの脱出時、僕が最後に聞いたのは確かにマユの声だった。
──まだ、私は、ここにいるから。
分かってる。だから助けに行くんだ、もう一度ティーダに乗って。サイさんたちと一緒に。
祈りにも似たその確信と願いが、何もかもを失いザフトに囚われた今のナオトを生かしている全てと言えた。だからこそ恐かった──シン・アスカに真相をただし、どんな答えが返ってくるか分からなくて。


煌く宇宙の映像に囲まれ、目の前で肩を落とす少年をヴィーノ・デュプレはじっと見つめる。やっぱり俺らのこと、まだ完全には信用してないんだな。
ここがプラントだと知った時の、こいつの暴れっぷりは凄かった。腕力体力は殆どなかったものの、出ないはずの声を無理矢理に振り絞って叫ぼうとして、喉が破れかけて血を吐いたくらいだ。ルナと俺が取り押さえたから大事には至らなかったけど。
無理もない、とヴィーノは思う。思えば俺たちはこいつにとって、ずっと敵だった。俺たちがナチュラルやアークエンジェルを嫌っているのと同じくらい、こいつは俺たちを毛嫌いしてきたはずだ。ハーフとはいえ、ずっとナチュラルと一緒だったんだものな。
ルナが必死に介抱したおかげで大分ここまでコミュニケーション出来るようにはなったけど、それでも俺たちがやったことは──
ヴィーノは勿論、ルナマリアもシンもアーサーも誰も、ナオトにはアマミキョの件を話せていなかった。
仲のいい兄貴分がいて、大好きな女の子がいて、たくさんの仲間がいた場所。いつも胸元のお守りを手放そうとしないナオトを見れば、あの船がどれだけ大切な場所だったかは──特に俺たちにはすぐ分かる。
俺たちだって、帰る場所を失ったんだから。
「部屋に戻れよ、ルナの雷が落ちる前にさ。もうすぐまた地球に降りるんだ、リハビリもちゃんとやらなきゃだぞ!」つれなくヴィーノはそう言うと、リフト・グリップで逆方向に身体を流し始めた。ついてきやしないかと振り返ってみる。漆黒の宇宙で青く輝く地球を見つめながら佇む小さなナオトの姿が、遠ざかっていくのが見えた。
ここ数週間、やっとのことでナオトから聞き出した情報によると──アマミキョを離れてから、あのギガフロートの海域で発見されるまでに、ナオトはマユも、母親も、助けてくれた仲間も、次から次へと失ったらしい。アマミキョにいる最中にも、元々一緒にいたテレビクルーの仲間を失い、父親を失い、助けようとした女の子を失い、船の仲間も度重なる戦闘でいなくなっていったという。
そんなナオトがアマミキョ沈没の事実を知ったら──どうなってしまうか、俺には責任が持てない。
元々、帰る場所なんてないハーフコーディネイターだ。保護してやりたいというヨダカ隊長の気持ちは分からないでもないが多分、今のナオトに俺たちザフトを受け入れるのは無理だ。
俺たちがナチュラルを受け入れがたいのと同じように。オーブを理解出来ないのと同じように。
現に俺は──メイリンを奪い、レイを見捨て、ミネルバを墜とし、しまいにはヨウランまでもをあんな目に遭わせた──それだけでも、あのアスラン・ザラとアークエンジェルを許せない。
メイリンは死んだわけじゃない。ミネルバの仲間だって全員がいなくなったわけじゃない。シンだってルナだって戻ってきた。
ヨウランだって、まだ生きている──生きている、だけだが。
それなのに、俺は絶対にアスランとアークエンジェルを許せない。だから分かる。多分シンもルナも分かっているんだろう。
ナオトは、絶対に俺たちを許さないだろうってことが。


海水が流れ込み、炎上するカタパルト。
黒く燃える水の上を、のそのそ這いずるようにして動く男。背中に刺さっている鉄の破片。炎に照らされ、黒く輝く水の上にその破片が影を落とす。まるで、揺れ動く十字架だ。
──あれは、さっき俺とカズイを庇ったせいで。
ほぼ真っ黒焦げになった男に両腕で抱きかかえられながら、サイは何とか頭を回す。行く先には、ほぼ沈みかけている無重力作業用カプセルが見えた。
数時間にも思える時間をかけて、男は流れる炎と破片を掻き分けてカプセルに辿りつき、ハッチを開く。怒鳴り声。後ろからやっとのことでついてきたカズイが、ネズミのように慌てふためいて乗り込んでいく。
その直後、男は最後の力でサイをカプセルに横たえた──というより、投げ込んだと言ったほうが正しかったが。幸い、すぐ下に備え付けの簡易ベッドがあったおかげでそれほどのダメージはなかった。
男の血まみれの右腕が、何かを掴みながらサイに伸ばされる。数分前まで、あらゆる機器の内部を自由自在に操っていたその指は、中指から小指までがちぎれて消失していた。
血みどろの手がサイの胸元に押しつけられる。口元だけでニヤリと笑って見せる男。唇の端からも血が噴き出している。
「頼む──ロゼを」
瞬間、空気音と共にハッチは閉じられ、周囲が闇に閉ざされる。永遠に見えなくなる、男の血まみれの笑顔。


「ハマーさん!」
汗だくになりながら、サイは飛び起きた。
アマミキョの動向が気になって暴れかけたところまでは覚えている。その後、情けないことにどうやら気絶したらしい。興奮しすぎて。
窓の外はもうすっかり夜だ。月の光と枕元のライトだけがサイを照らしている。キラもカズイもミリアリアも出て行って──
サイは気づいた。すぐそばにまだ、ラクス・クラインが腰かけていることに。「落ち着かれました?」
思わず絶叫しかけてしまい、サイは慌てて息を止める。ラクスは相変わらず静かに微笑んだままだ。「大事なものを、託されたのですね」
今の俺の夢まで覗いてたってのかこの人は。その驚愕を見透かすように、ラクスは言い添える。「違いますよ? ずっと、それを握りしめていらしたので。目覚められる前から」
言われてサイは初めて気づく。ギプスが嵌められ、包帯だらけの左手に握られたものを。
それは、小指の大きさぐらいのガラスの小瓶。古びたコルクで栓がされている。重さはなく、振るとかすかにカラカラと寂しげな音をたてた。
月の光に翳してみる。黒い血痕が大量にこびりつき、3分の2が煤けているガラス瓶だが、確かにその中には見えた──
オーブでよく目にするヒマワリ。その、小さな種子が3、4粒。
ロゼの種。ハマーの娘、その唯一の形見。
ハマーさんは、命も同然のこれを──俺なんかに託したのか。
俺が一緒に、種を植える場所を探す──ずっとハマーさんは、そんな俺の言葉を信じていたのか。遂に俺は、約束を果たせなかったのに。
「その種子の意味を、私は問いません。貴方ご自身が、よくご存知のはずですから」ラクスはふとサイから視線を外し、窓の外の空を見上げる。月の光に照らされる白い横顔。
「ただ、一つだけ貴方にお尋ねしたくて、参りました」
「……何でしょうか」どう答えたものか分からず、サイはつい恭しい言葉を使ってしまう。だがラクスは気にするそぶりもなく続けた。
「キラから聞きました。貴方がたは、アークエンジェルと遭遇する直前に、ある海底基地へ行かれたということですね?」
オギヤカのことか。そんなこともあったな──あの時はナオトもマユもネネもハマーもオサキも風間中尉も、みんな元気だった。10年以上も昔のことのように思える。「そうです。俺ではないですが、そこでナオトが貴方と会ったと……」
「そこにいたのは、私ではありません」断言するラクス。その顔に、もう笑みはない。
彼女の醸し出す静かな凄味に、サイは少し圧倒されながらも答える。「ですから、俺じゃなくて会ったのはナオトです。しかも朦朧としていたっていうから、どこまで正しいか。でも確かに、歌を聴いて、顔を見たらしいんですよ」
そのことに関して、彼女がここまで拘る理由は何だ? ミーア・キャンベルの件があるからか、それとも……戸惑うサイに、ラクスはさらに尋ねた。「教えてください。私は恐らく、彼女に会う必要があります」
あまりに唐突すぎる。所在も分からない自分の偽物の情報を聞いて、俺にどうしろというのか。「ミーアさんと同じ存在を生みたくないという気持ちは俺にも分かるつもりです。ただ、俺はこのことに関してはそれ以外に、何も」
「そうではありません。
彼女にとっては、私の方が彼女の模倣であり──
そしてある意味で、それは正解なのです」
何を言っているのかさっぱり分からない。2年前彼女と言葉を交わしていた時もそうだったが、彼女の言葉の意味が分からず、こっちの話を聞いているのかどうかもよく分からず、戸惑うことがあったものだ。でも後になって考えると、実は彼女はちゃんと話を聞いた上で自分の結論を出している──だからこそ恐い。
音もなくラクスは立ち上がる。白いワンピースが、月の光の下で揺れた。「そろそろ──始まります」


 

 

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