──出来ないはずのことが出来てしまった結果が、この俺だ。



ぼんやりとした夢うつつの中、軍服姿の男が見える。
泥まみれになった身体を弄り回された挙句、生き埋めにされかけた自分を、すんでの処で救ってくれた男。
あの後自分は、冷たい川へそのまま投げ込まれた。そして、容赦なく俺を照らし出した夕陽のおかげで──
俺は彼に、自分の傷のほぼ全てを曝け出してしまった。
無意識のうちにずっと隠していた、癒えることのない左腕と胸の傷。
濡れそぼった服から透けて見えた、真っ黒い傷。
俺の惨めさを、無情なまでに照らし出した、血のような夕陽。
──それでもあの人は、一切、俺の傷に触れようとはしなかったのに。



あの人の血が見える。
呆気なく鋼の塊の下敷きとなった、アークエンジェルのかつての勇士の一人。
苔むした岩の上に流れ続ける、黒い血液。
それは自分の足元まで流れ込み、じわりと冷たさが身をよじ登ってくる。
──分かるのか、お前らに。祖国に裏切られた俺たちの気持ちが!
軍曹は3年前、言っていた。アークエンジェルが連合に見捨てられたと分かった時──俺を、殴りながら。
そんな軍曹は今でも、祖国を想い、家族を想い──
そして、自分を曲げた。
その結果、彼は、何かを守ることが出来たのだろうか?



あの人の血が、俺に問う。
全てを捨てて何かを守ろうとして、得られるものは何なのか。
結局トノムラ軍曹は、命がゴミのように投げ捨てられていく収容所の中で、幾多の命と同じように、散った。
平和を望み、幸せを願い、アークエンジェルで最後まであのヤキンの戦いを生き抜いた男の末路が──
あんな、無惨なものだなんて。



軍曹の血が、魂ごと俺を絡めとる。
あの時、身体中に塗り込められた泥のように、黒い血は俺を沼の底に沈めようとしている。
──嫌だ。
俺はこのまま、死にたくなんか、ない。
まだアマミキョを再建させてもいない。カズイも、みんなも、どうなったのか全く分からない。
フレイの真意も、まだ分かってない。
俺は何としても、もう一度、フレイと──









眩いが暖かな光をまぶたの裏に感じ、サイ・アーガイルはようやく目を開いた。
そして気づいた──
自分が素っ裸にされ、そこまで熱くはない適温の湯の中へ横たえられていることに。
「うわっ!!?
な、何だこれ……薬湯?」
暖かな湯の中は、治癒効果のあるらしきダークグリーンの草でいっぱいに満たされ、湯そのものも淡い緑に染まっている。
カモミールにも似た香りが、心を落ち着かせてくれる。
──天国か? ここは。
そいつは困るな。俺にはまだ、やらなきゃいけないことがあるのに。
天井にうっすら輝くオレンジライトの光を眺めながら、サイは思い出す。
記憶はすぐに戻ってきた──




そうだ。俺、カズイと一緒に、トールに捕まっちまったんだ。
ここは──確か、オギヤカ。あの、超弩級移動要塞の中。
いつだったか海底でオギヤカを散策した時も、その威容は信じがたかったけど、まさか空まで飛ぶとはね。
──そうだ。カズイは!
俺がトールに捕まった理由は何となく想像はつくが、カズイは無関係なはずだ。
だが無関係だからといって、そうそう簡単に逃がしてくれる相手ではない──最初は俺を殺しに来たくらいだし。
何としても、カズイを助けなければ。
あの収容所の中で、必死で俺を守ろうとしてくれたあいつを。
俺がどれだけ振り払おうとしても、逃げなかったあいつを──



サイはざっと水を払い、立ち上がる。 薬湯の効果は想像以上で、もう彼はふらつきもせず平気で歩くことが出来た。丁寧にガーゼが巻き直された指先の痛みはまだ取れないが、動かせないほどではない。
改めて自分の右の二の腕を眺めて、サイは感じる。
──右腕の筋肉が、だいぶついてきた。
左腕を動かせない分、右の筋肉が異様な発達を遂げている。誰かを怒りに任せてうっかり殴ったりしたら、殺してしまうのではないかと思えるほどに。
それにしてもこの風呂は、アークエンジェルに増設された風呂を思い出させる。あそこまで大きくはないものの、オーブの温泉に似た造りなのは確かだ。
扉を見ると、戦艦や宇宙船と同様のエア・ロックだった。
まさかこの船も、宇宙に出るんじゃないだろうな。そしたらこの風呂もやっぱり閉鎖に……
そこまで考えて、サイはつかつかと入口まで歩きエア・ロックを開いた。
その瞬間──
「は……はわわっ!!?」
「え?
……う、うわぁああぁあああっ!!?」
突如風呂場に響きわたる、素っ頓狂な幼い少女の悲鳴。
反射的にサイは、そばに置いてあったバスタオルを掴むと、慌てふためきつつも前を隠す。
もうもうとたちこめる湯気の中、現れたのは──



ストレートの金髪をあごのあたりまで切りそろえ、エメラルド色のワンピースを身に着けた少女。
ワンピースと同じ色のカチューシャで髪を整えた彼女は、薄い水色の瞳を皿のように大きくして、サイを見つめていた。その身長は、サイの腰をようやく超えるといったところか。
少女は真っ赤になりながらも、ぺこりと頭を下げて弁解する。「も、申し訳ありません!
突然のことで、驚いてしまいまして!!」
サイもサイで、顔どころか上半身真っ赤になりそうな勢いだ。「い、いや、俺も……俺の方こそ、すみませんでした!」
思わず敬語まで使ってしまい、サイも頭を下げる。
何故かこの少女には、頭を上げるわけにいかない──そんな気がして。
すぐに服を着なければ。そう思ってサイは周囲を見回したが、それらしきものは何もない。清潔な象牙色の洗面台と、全裸の自分を映す大きな三面鏡、そしてロッカーが幾つかあるだけだ。
収容所で捕らえられていた時に着ていたワイシャツやスーツは、恐らく捨てられてしまったのだろう。原型を留めないほどボロボロだったし。
そのかわり、少女が背後から、その背丈の半分以上はあるであろうスーツケースを引っ張りだしてきた。
「サイ・アーガイル様ですね?
お着替えでしたら、こちらに!」
そのスーツケースを、思わずぽかんと見つめてしまいつつも、サイは尋ねる。「き…… 君は、誰?」
そういえば、この少女には見覚えがある。
確か──フレイの、例の演説の時に、彼女に剣を譲渡したあの少女だ。
サイの疑問に、少女は素直に答えた。「申し遅れました。私、レイラ・クルーと申します。
詳しいお話は、後程ゆるりと致しましょう。まずはお着替えになって下さいまし、フレイ・アルスターがお待ちかねですわ!」
ワンピースの裾をつまみながら随分とませた口調でそう言うと、彼女は廊下へ繋がるエア・ロックの向こうへと、素早く消えていく。
ぽつんと残されたサイは、呆然としたままスーツケースに視線を落とすしかなかった。
髪から滴る水も拭ききらぬまま、ケースを開く。
その中にあるものを見た瞬間、サイは思わず苦々しく舌打ちしていた。
「──着ろってのか」




 


PHASE-38 天空の花婿




 

「す、素晴らしいですわぁ〜!!
さすがはお姉様の意中の殿方だけのことはありますわぁ〜!!!」
着替えを済ませ、髪を整えて眼鏡をかけ直したサイが風呂場から出た途端、レイラのおませな声が廊下に響いた。
サイに用意された服は、上等な絹のタキシード一揃い。
濃いグレーを基調としたスーツに、清潔な白のワイシャツに臙脂色のクロスタイ。
新しい革靴や時計まで用意されていた。時計だけでも、オーブの20代男性の平均年収の半分はするだろうという代物だった。
それだけで──
既にサイには想像がついていた。このオギヤカで、自分を待つものが何なのか。
サイは聊かも態度を軟化させず、少女に尋ねる。「聞きたいことがあります。
カズイは何処ですか」
すると、彼女はすぐ顔を曇らせた。「それは……
お姉様かトールに、直接お尋ねになって下さいまし。私には何の情報ももたらされておりませぬゆえ」
「お姉様というのは、フレイ・アルスターのことだね。
フレイに妹がいたなんて、初耳だけど」
こつこつと小さな靴音をたてながら前を歩く少女に、サイは敢えて少し砕けた言葉を投げつける。レイラの背中が、明らかに固くなった。
「──私たちが、サイ様に謝っても謝りきれない所業をはたらいたことは、重々承知しております。
ただ、今はどうか、お気持ちを抑え、姉と話し合っていただきたいのです」
少女の言葉に、サイは軽くため息をつく。やはり、ここで俺を待つのは──
「元から、こちらはそのつもりだ。
方法はともかく、フレイともう一度話が出来そうなことについては感謝している。
それと──君が、本当にフレイの妹なら」
「それが、どうかしましたか?」
レイラはきょとんとしてサイを振り返る。何を言いたいのか分からないというように。
「昔はともかく、今のフレイはタロミ・チャチャの第三王妃という身分なんだろう。
その妹なら、こんなことをしちゃ駄目だ」
「こんなこと?」
「俺に着替えを持ってくるなんて、君がやることじゃない。
君の部下の仕事だろう」
「違います!」
眉を逆ヘの字にして、レイラは感情を前面に出してぷんぷん怒り出した。「これは、私が好きでやっていることですわ。
お姉様が心を寄せた御方がどのような殿方か、一度お会いしてみたかっただけです」
「そのおかげで、自分は君に対して図らずも、大変無礼な真似をすることになった」
「私は全く気にしておりません」
「自分が気にします。
現に今だって、君に対してどういう言葉づかいをすればいいのか分からない」
サイが正直にそう言うと、レイラは肩を竦めつつもくすりと笑った。「面白い御方ですわね。
役職持ちなのに積極的に最前線に出てしまう方が、仰ることではないでしょうに」
ずばりやり返されて、サイは思わず口を噤んだ。
結構、色々と知られてしまっているようだ──フレイの妹を名乗るだけのことはある。
しかし、サイは言わずにいられない。「俺のことは別です。それでは、部下が納得しませんよ。
部下がやるべき仕事を上官が行なうのは、逆に不信を招く結果になりかねない。
その余裕があるならば、他に君が為すべきことがあるはずだ」
10歳にも満たぬように見える子供に言う台詞ではないと思ったが、サイは言葉を止めなかった。
彼女が怯まずに答えてきたからでもあるし、「あの」フレイの妹を名乗るならば、その程度言っても差支えないだろうという判断もある。何より──
何処か、似ていたからだ。この少女は。
あの──ムウ・ラ・フラガに。



薄いアイスブルーの瞳を見ていると、何故か彼を思い出した。アークエンジェルを守り、散っていった兄貴分に。
フレイの妹というよりも、フラガの妹と言われた方がしっくりくるほどに。
そもそも、フレイの妹なる存在を、サイは今の今まで全く知らなかった。
元々のフレイ・アルスターから聞いていないのは当然として、「今の」フレイからも、そんな話は聞いたことがない。
それに、クルーという姓は何なのか。秘密裏に民間の養女として育てられたとでも言うのか──
ただ、彼女がフレイと全くの赤の他人だとも言い切れない何かはある。うまくは説明出来ないが、何かが。
──いずれにせよ、フレイに会えば分かることなのか。



そんなことを考えつつ、レイラの小さな背中に従うようにしながら何度もエレベータの乗降を繰り返し、景色の変わらない無機質な廊下を歩いていくと──
やがて行く手に、連合の少年兵服姿の男が現れた。
茶色い癖っ毛に、人なつこい笑顔、青い軍服──トール・ケーニヒだ。間違いない。
彼はこちらに気づくと、慌てて駆け出してくる。「レイラ様!
何故このような……客人の誘導なら自分が!」
言わんこっちゃない。サイが呆れたようにレイラを見下ろすも、彼女は元気よく答えた。「いいのですよ、私の意志です。
私だって、お姉様がぞっこんの御方を一目見る権利はありますわ。
それに……トール・ケーニヒ!」
彼女がその名を呼ぶと、トールは直立不動となる。さすがは、「あの」フレイの妹といったところか。
「103号通達、失念したわけではないでしょう? 私のことは……」
その言葉で、トールは何故か苦々しく唇を噛む。「承知しており……
あ、いや、その、分かっちゃいますけどね。未だに慣れないんスよ、レイラ」
トールはわざとらしくぞんざいに喋ってみせ、レイラの前でお手上げの仕草をしてみせる。
どういうことだ。王妃の妹たる彼女が、呼び捨てを許している? いやむしろ、呼び捨てを強要している?
慌てふためくトールを尻目に、レイラはサイを振り返ってウインクまでしてみせた。「これが、オギヤカ流というものですわ」
「そう。新時代の上司と部下の関係……ってとこだね」トールはサイに向き直りつつ、言ってみせる。
「とってつけたような慇懃無礼な言葉なんて不要だ。旧時代のあらゆる軛を外す、それが俺らのやり方だよ」
新しい軛に縛られてるように見えるが、気のせいだろうか。
サイはその言葉を喉元で呑み込みつつ、無感情のまま言った。「新時代はともかく──
助けてくれたことには、感謝するよ。久しぶりだな、こうやってトールとゆっくり話をするのは。
いや……初めて、というべきか?」
サイはトールの瞳を真っ直ぐに見据えて言い放つ。銃があれば突きつけていただろう。
殺気すら帯びたその視線を受けながら、トールの表情から笑みが消えた。「カズイのことなら、心配するなよ。
ちゃんとお前と同じく、客人として扱ってる」
「それを聞いて安心した」
「ちっとも安心してなさそうなツラで言うなよ……
まだ怒ってるのか? トノムラのこと」
心の内を完全に見透かされているのも苛々したが、トールの物言いがさらにサイを苛立たせる。「あのままじゃお前、カズイと一緒に死んでただろ?
それともお前、自分らと一緒にトノムラまで助けてほしかったとか、無茶言うわけ?」
「殺す必要はなかった」
「その判断をしている余裕はなかったさ。巨大兵器相手にそりゃ無理だ、俺はキラじゃないんだし。
どの道あの人は、死んだ方がマシな口だったろ」
虚を突かれ、サイは言葉を継げなくなる。
トールの切り捨て方の冷酷さもそうだが、彼の言うことは──
ある程度、理が通っていた。
あのまま収容所で無聊をかこっていたところで、トノムラに幸福はありえたのか。
自分自身を殺してあのまま大量殺戮を続け、彼は──



──出来ないはずのことが出来てしまった結果が、この俺だ。
だからアーガイル。お前は……



彼が言えなかった言葉が、自然に脳裏に思い浮かぶ。
二の舞になるなと、そう言いたかったのだろうか──トノムラ軍曹は。
サイが思慮に沈みかけたその時、レイラの明るい声が響いた。「お喋りは終わりですわ、お二人とも。
着きましたわよ!」
そこには、他の部屋と寸分違わぬ、無機質なベージュのエア・ロックの扉があった。
「こちらが、フレイ・アルスターの部屋になります。
私たちは退散いたしますので、久しぶりの逢瀬、ごゆるりとお楽しみ下さいましね!」






サイが一歩足を踏み入れると──
そこはいつか見た、不可思議な闇に包まれた、宇宙にも似た空間だった。
扉が音もなく閉められると、足元の床が消失し、まるで無重力であるかのような錯覚がサイを襲う。身体の周囲を一気に、流星にも似た小さな光がいくつも駆け抜ける。
その光はやがて少しずつ大きくなり、花びらのような輪郭を形成する。やがて、それが色づいていく──
血のような紅に。
サイは気づいた。これは、フレイがフレイじゃないと明かされた時の、あの空間だ。
彼はゆっくりと、闇の中に足を踏み出す。すると、前方にぼんやりと誰かの姿が見えてきた。
紅の長い髪。薄い水色のロングドレス。
剥き出しになった両腕もうなじも、ほのかに青白い。胸元のネックレスに嵌められた小さなアメジストが、闇の中で妖しく輝いた。
亡霊のようにも見えた彼女は、やがてサイを振り向く。
薄い灰色の瞳。それを確認してサイは一つ、ため息をついた。
「間違いなく君だね。フレイ・アルスター」
「久しぶりだな。サイ・アーガイル」
約三か月ぶりの、二人の再会──
だが、残念だ。記念すべきこの奇跡の再会が、これほどまでに憎悪に満ちたものになるとは。






「ずっと、聞きたかった。
何故、アマミキョを沈めた?
何故、みんなを殺そうとした?
南チュウザン代表を名乗り、一方的に北チュウザンへ攻め込むのみならず、多くの国へ喧嘩を売るような真似をするのは何故だ?
君は今、世界中を敵に回しているんだぞ!」
サイの質問には、直接答えることなく──
フレイ・アルスターは、ただじっと彼を冷たく見据えたまま、言った。いつの間にか、二人の距離は手を伸ばせば届くまで近づいている。
「パレスティナ公会議で、世界から神は失われた。
あらゆる宗教が否定される形で──史実には、そう記されているのは知っているな」
「今、歴史の授業を聞いている余裕はない」
「そう急くな。
あの会議の主目的は、神を秘密裏に殺すことだった。
度重なる宗教戦争により、人は疲れ果てていたからな」
「殺す? 神を?」
「コーディネイターの出現により、人類は神を超える進化を始めた。
人が、神など要らぬと叫んだ時代。既に神は不要とする人々の手により──
あらゆる宗教指導者たちが、会議の直後から、紛争により意図的に歴史から消された。
それだけではない。信者たちもまた、殆どが紛争に駆り出され、壊滅した。
争いの中で命を落とした指導者は、大概の場合信者から、殉教者として祀り上げられる。そして宗教の勢力そのものはさらに拡大する。それが、宗教戦争が泥沼化する一因でもあった。
だが、その信者さえも消えてしまえば──
後は、何も残らない。
神が消えたという事実があるだけだ」
「それが、パレスティナ公会議の真相だとでも言うつもりか」
「つもりではなく、真相だ」
「では、それが真実だとしよう。
今、何故チュウザンは──君は、神を復権させようとしている?」
「人には神が必要だ。信じるものが。
お前も、先の大戦を見ただろう? つい数か月前の、ディスティニープランを巡る騒乱も。
神の不在により、多くの人々が、人の死に方ではない死に方をした光景を」
サイの拳が、静かに握りしめられる。「……神が健在ならば、あのような惨劇は防げたとでも言うつもりか?
神がいたから、人はその倫理を外れ、どんな卑しい手段にも出た。それが、血で血を洗う宗教戦争だったと──
神の名の元に、人はどんな殺戮でも行なったと!!
俺は、そう習ったが?」
「それは違う。そんな旧時代においても、人道はあった。神を信じることで、人は人でいられた。
神さえいれば、人は倫理を外れなかった──タロミ・チャチャはそう考えている」
「つまり、俺が受けた授業とは真逆の考えをしているということか。タロミは」
「だから新たな神となり、人を導くものが必要だと──」
「それが、SEEDを持つ者たちということか?
キラやラクスさんを神に仕立て上げ、自分は神官となり裏で彼らを操るのが、タロミ・チャチャの目的か?」
しれっとフレイは、唇に笑みすらたたえて言い放つ。「よく調べたようだな。流石だよ」
それがさらにサイを苛立たせたが、彼女はなおも聞いてきた。「トール・ケーニヒや、アマクサ組の者らの正体は知っているか?」
「予想はしているが、当たってほしくないと思ってる。
SEEDを持つ者たちを集める為に、死者から造られた人間──ってとこか?」
否定で答えてほしかったが、フレイはあっけなく肯定で答える。「ご明察だな」
「収容所で、結構考えを巡らせる時間はあったもんでね。
SEEDを持つ者たちと縁の深い死者たちに似せて、死者の人となりなどのデータを収集し、完璧なまでの演技でSEED持ちたちの心を揺さぶり、取り込む為の、死神部隊。
その筆頭が君、ってわけかい?」
「訂正すべき点が何もないとは、驚きだ」
訂正してほしかった。というか、真っ向から否定して欲しかったがな。
右の拳がいつのまにか、血が出るほどに握りしめられる。「死者の復活は、何よりも人の心を揺さぶる──例えそれが、偽りであろうとも。
死神部隊の目的は、単にSEED持ち集めだけに留まらない。君たちの存在そのものが、人にとっては奇跡であり、脅威だからね。君たちは多分、南チュウザンの宣伝部隊の役割も担っているんだろう──
でも、倫理を取り戻すと言いながら倫理から外れているのは、君たちの方じゃないのかい」
フレイの矛盾を突いたサイだったが、それでも彼女の表情は崩れない。「人道に外れる行為を成すのが、歴史上、私たちが最後になると言ったら?」
「タロミ・チャチャを始めとして君たち全員、外道となりその罪を被って、その結果人類は平和になるとでも?
アマミキョを潰したのは、その一環にすぎなかったと!?
馬鹿げた妄想だ」
「馬鹿げた妄想はどちらかな。
死神部隊とやらのお前の推測は正しいが、どうやってそれを実現出来たのか、何も立証出来てはいないだろう?
何故、何から何まで死者とそっくりの人間を、我々が用意出来たのか」
「クローン技術の使用、じゃないのか?」
「似ているようだが、違う。
正確には、カーボンヒューマンと呼ばれる技術によるものだ」
カーボンヒューマン──
サイには聞き覚えがあった。伊能から受け取った、広瀬少尉から命がけで齎された報告書。その中に、その忌まわしい単語は存在した。
「知っているよ。
クローンでは寿命の問題がある。だから君たちは、とある組織から提供されたカーボンヒューマンの技術を使っている。
蓄積された特定の人物の情報に基づき、記憶や遺伝子などのパーソナルデータを、全くの別人に植え付けることで生み出されるモノだ。
特に、遺伝情報の入手がたやすいコーディネイターなら正確なコピーが出来る。情報さえ豊富であれば、身体の完全なコピーだけでなく、感情や記憶の再現すら可能なようだな。
……吐き気がする」
「全く、勉強家だなお前は。満点に近い回答だよ」
本当に嬉しそうに、屈託なく笑うフレイ。だが勿論、サイに相好を崩す気はない。
──今、君はどういう話をしているのか、分かっているのか。
「ただ、疑問はある。
パーソナルデータを植え付けるには、その為の身体が必要だ。
君たちは……いわゆる『移植先』を、どうやって用意した?」
サイは言葉を選びつつ、懸命に怒りを抑える。だが、フレイは飄々としたものだった。
「何かと思えば、単純な質問だな。
安心しろ。どこかで普通に生活している人間を拉致して無理矢理、というわけではない」
「それをしていたら、絶対に君たちを許せなくなるところだったよ。
でも、そうじゃないことは分かってる。なら、君たちの方法は……」
「南チュウザンは貧しい国だが、人口は多い。
避妊や堕胎の技術はあれど、市井の者が利用するには金がかかる。
ここまで言えば──後は、分かるな?」



考えたくもないが、考えるまでもないことだった。
恐らく、捨てられた子供を──もしくは、育てられないと分かっている腹の中の子を、胎児の段階から──
サイは歯を食いしばる。
チュウザンの親たちは、自らの子供を、国に売った。
その身体どころか、存在も、魂も、全て。
そして出来上がったのが、既に死んだはずの者たちの名と身体と記憶を持ち、人を翻弄する者たち。



だが、サイにはまだ分からない。
何故──何故、フレイが、そんなものに加担している?
「君は、そんな外道を最も嫌う人間だと思っていた」
憤怒を抑えるのが精いっぱいの、サイの震え声。
その言葉にも、フレイは用意された答案を読み上げるかのように、淡々としたものだった。「個人の好き嫌いの問題ではない。
私はタロミ・チャチャの第三王妃。同時に──
フレイ・アルスターの名を持つ者として、『連合とザフトの間で運命を弄ばれつつも、奇跡の復活を果たした英雄の乙女』としての、宣伝塔の役割を担っている。
それと引き換えに、あらゆる自由も保障されているがな。浮気の自由、怠惰の自由、思想の自由はもとより──
重婚の自由も」
音もなくサイに近づき、そっと唇を近づけるフレイ。
ドレスの衣擦れの音が小気味よく響く。薔薇のほのかな香り。
豊かな胸の間で、アメジストの首飾りが揺れる。「それも、タロミ・チャチャの導く未来を創造する為。
人倫を外れた我らが、人の未来の礎となるSEED部隊を導く。皮肉だとは思わないか」
信じたくない。
信じられない。
命をかけてアマミキョを導き守っていたのは、全てその為だったというのか。 キラにあのような形で接触したのも、全てその為なのか。
フレイはさらに、サイの心に突き刺さる言葉を吐く。「その筆頭が私であり、マユ・アスカだ」
「マユ……が?!」
「彼女は今、我々の先鋒として戦っている──なかなかの戦士となったぞ」
「じゃあ……」
やはり、チュウザンや各地を破壊して回っている紅のストライクフリーダムは、彼女なのか。
いや、正確には彼女はマユではない。「チグサ・マナベ」なる、元少年兵だ。広瀬の報告書によれば。
心優しい少女に成長したと思っていたマユ・アスカは、殺戮を繰り返す凶暴な「チグサ・マナベ」に、呆気なく書き換えられてしまったのか。
目の前の、紅の髪の女によって。
──ならば。
サイの中で、どうしても尋ねておきたいことが一つ、残っていた。
「ナオトは──
ナオト・シライシは、どうした? あいつは……」
「あの子供なら、死んだ」
「は?」
身体中を、予想以上に大きな衝撃が駆け抜ける。
ナオトが既に殺されているかも知れないことは、想定したくはなかったが、想定せざるを得ない状況だった。
しかし、でも、あいつは──
あいつは言ってたじゃないか。必ず、サイさんを守るとかなんとか──
幼さゆえから出たであろう、あいつの別れの時の言葉に、俺は未だに縋っている。そんな自分に気づき、サイは内心驚いた。
動揺を隠せないサイの耳に、さらにフレイは囁く。「状況を知りたいか?
私が殺した」
──意味が分からない。
ナオトは母親と一緒に、フレイに連れられて──そして──どうなった?
心音が跳ね上がる。頼むから、その先を言わないでくれ──
「連合の山神隊・広瀬を覚えているか?
奴に唆され、ナオト・シライシはセレブレイト・ウェイヴシステムの中枢に触れた。
やむを得ない措置だった」
措置……って、何だ?
君は何を言っているんだ。やむを得ず、ナオトを殺しただと?
「私はセレブレイト・ウェイヴシステム起動の為、マユ・アスカをシステムに組み込んだ。
それを解除しようと、ナオト・シライシは広瀬と共に、モビルスーツを使って所内で暴動を起こした。
結果、システムは暴走寸前の状態に陥った。その過程で、カイキ・マナベ、そして、マスミ・シライシも落命した。
よって、私がナオト・シライシと広瀬を処分した」



では──死んだのか。
ナオトも。
カイキも、マスミ・シライシも。
絶望的状況ながらも伊能がひたすら生存を信じていた、広瀬少尉も。



セレブレイト・ウェイヴについての全貌は不明だが、伊能から託された広瀬の報告書によって、サイもある程度は把握していた。少なくとも、ティーダパイロットの素養があるマユ・アスカが起動キーとして使われることぐらいは。
すると、アマミキョであの夜、俺たちが感じたあの光は。
シネリキョの爆発事故、その真相は。
「君は……
アマミキョや俺たちのみならず──
マユまで利用して、ナオトを殺したってのか」
「その通りだ」
──否定してほしかった。
みっともなくてもいい。未練がましくてもいい。どんな形であってもいいから、何らかの弁解が欲しかったのに。
私の本意ではなかったとか、少しでもいいから、言ってほしかったのに。
フレイから返ってきたものは、何の感傷もない、完全肯定。
「セレブレイト・ウェイヴの完成により、ティーダもあの子供も不要となった。
そのまま大人しくしていれば、まだ実験台としての価値もあったが──
必要以上に中枢部へ首を突っ込み、暴走した」
「だから殺したってのか!」
サイは思わず、目の前の女の、ドレスの襟ぐりを両手で掴む。レースがちぎれるかという勢いで。
「嘘だと言え……嘘だと言えよ!!」
いや、嘘じゃなくてもいい。ナオトを殺したのも、アマミキョを沈めたのも、俺たちを実験台にしたのも、全て、自分の本意じゃなかったと──せめて、それだけでも。
だが、フレイは決して、サイの求める答えを返さなかった。「それは出来ないな。
我が未来の夫に、嘘はつけない」
「ふざけるな!」
もう少し前に出れば接吻が可能な距離で、サイとフレイの視線が激突し火花を散らす。
笑いの形に歪む、フレイの唇。
「私はアマミキョを散々利用し、ティーダとそのパイロットを利用し、最後には全て捨てて破壊した。
これが、私の真実だ。
それでもお前は、受け入れられるか? サイ・アーガイル」



──話をすれば、分かるかも知れないと思っていた。
会って話さえすれば、フレイに対する誤解がとけ、その行動もやむを得ないものだったと、納得出来るかも知れないと──
心のどこかで、俺はそんな甘い期待を抱いていた。
だが、明かされたのは、絶望的なまでに真っ黒く、人の道を外れた、狂った女の姿。
否定どころか弁解の一つすらしないのは、このフレイらしいのかも知れない。
だが、俺は──精一杯の否定と弁解を求めていた。
俺は話をしたかったんじゃない。ただ、フレイから、弁解の言葉を聞きたかっただけだった。
そんな俺の甘さと情けなさを、真っ向からこの女は破壊してのけた。



「……いつか言ってたな、君は。
君を好きな気持ちの分だけ、俺は君を憎むって」
フレイの眼を、まともに見られない。
彼女の襟を握りしめた両手に、さらに力がこもる──
殴ろうと思えば殴ることも出来た。だが、それだけはやらない。俺は、それだけは。
突き放すようなフレイの言葉。「その通りに、なったようだな」
サイは消え入るような声を絞り出し、肯定せざるを得ない。「……ホントだよ」
ところが、次にフレイが発したのは、思いもかけない一言。
「サイ。
私の、お前への気持ちは──変わってはいない」
「何を言いだすんだよ。今更!」
「言ったはずだぞ。我が未来の夫、と」
言うが早いかフレイは、そっとサイの腰のあたりへ細い手を回す。
それだけで、情けなくも──サイの両腕の力が、ほんの少し抜けてしまった。
その機を逃さず、フレイはあっという間にサイの両手首を掴み取る。
「ふ、ふざけるな! お前……っ!!」
一瞬の隙をつかれた。フレイの白い手はサイの手首を簡単にねじり上げ──



唇が塞がれる。女の唇によって。
優しくはない、強くねじ伏せるが如き、再会の接吻。
それ以上の抵抗を、甘い薔薇の香りと腕力で、強引に抑え込まれてしまう。
眼前で揺れる、アメジストの小さな煌き。そのまま口腔に侵入してくる、女の舌。
サイの全てを絡め取ろうとする、舌の動き。



──違う。
サイの中で、再び忌まわしい記憶が蘇る。
──これは違う。絶対に違う。
こんなもの、あの時と一緒じゃないか!!



それは、収容所の寒空の下、無理矢理男に汚されかけた記憶。
泥まみれにされた俺の身体を、奴は無遠慮に撫で回して──
俺の傷までほじくり返し、悲鳴を上げ続ける俺を、奴は嗤いながら押さえ込んだ。
そして、顔と言わず口内と言わず──もう、思い出したくない。
容赦ないトノムラ軍曹の銃弾がなければ、俺は──



──フレイと、再び会えたというのに。
これほどの失望を、憎しみを、彼女に感じてしまうなんて。
あの狂った男と同じものを、彼女に感じてしまうなんて。
「……サイ?」
彼の中の酷い拒絶を感じたのか、フレイはふと唇からサイを引き剥がし、じっと彼を見つめる。
自分をまっすぐ見つめてくる彼女の灰色の瞳に、狂気は何も感じられない。
いや、狂気を感じ取らせないからこそ、真の狂人なのか。
「──サイ。今一度言う。
私の夫となれ」
それはずっと、フレイから待ち望んでいたはずの言葉。
自分がフレイにかけるつもりだった、言葉。
もう、絶対にフレイとの間で交わされるはずのなかった、言葉。
「お前にはずっと、私のそばにいて欲しい」
だが──
サイが言えることは、ただ一つ。
「……出来ない。出来るわけない。
こんな気持ちのまま、その願いに答えられるわけないだろ!」
「願いではない。命令だ」
「命令だとしてもだよ!
俺に、そんな大切なこと、この状況で選べっていうのかよ!!」
大切な言葉だから──
もっと大切に、言ってほしかった。
それなのに、散々俺の心をかき乱した直後に、君は!!
そんなサイの心も知らず、フレイは言い放つ。
「拒否は出来ない。
そしてもうお前に、悩んでいる時間はない」
「は?」
サイが顔を上げると、周囲を満たしていた広大な銀河が不意に切り替わる。
現実の、宇宙の景色に。
それが現実だと分かったのは、サイの眼前に、突然シリンダ型コロニーの巨大な威容が現れたからだ。
宇宙で輝く蛍光灯にも似た、白く輝くコロニー。
あれは──大分、改装されてはいるが──
「まさか……コロニー・ウーチバラか?」
「その通り。
サイ・アーガイル。よく聞くがいい。
今から説明することは幻想でも妄想でもない。現実だ」


 

 

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