処はカーペンタリア基地。
それが必然であるかのように、ただ静かにその場へ佇む、新生セイバーガンダム。
いや、新生ガンダム・ティーダと言うべきか。
──まさか、ティーダが呼んだ? ナオトを?
突拍子もない思いつきに、ルナマリアはその思考を振り払おうと頭を振る。
激しく息をつきながら、彼女の腕に縋りつくようにして、何かを訴えかけようとするナオト。
だがその声は、未だに言葉の形をなさなかった。無理に声を出そうとして、彼は咳き込んでしまう。
そんなナオトの肩を軽く抱きながら、ルナマリアは呟いた。
「……アビー。お願いだから、このことは内密に」
「勿論そのつもりだし、もしバレても艦長なら許して下さるとは思うけど──
二度目はないと思って」
そう言いつつも、アビーは酷い咳を続けるナオトの背中を、不器用ではあるがゆっくり、さすっていた。
ミネルバJrの中で、ナオトの立場は非常に弱い。
ただでさえオーブの民間人である上に、ハーフコーディネイターだ。
ルナマリアやシン、ヴィーノといった顔見知りは、今は特に支障なくナオトを受け入れているものの、まだ乗員の中にはナオトをあからさまに蔑視する者も少なくない。
そんな中アビーは、ナオトを近すぎず遠すぎず、適度な距離を保ちつつ冷静に見守っている数少ない人間だった。
「それよりも──緊急連絡です」
アビーは立ち上がり、まっすぐにルナマリアとヴィーノの二人を見据えて言った。
「正体不明の巨大戦艦が、ベンガル湾北端より浮上。
北チュウザンに向けて発進したとの情報です。ミネルバJrにも出撃命令が出ました」
「出撃!? 今?」
思わず素っ頓狂に叫んでしまったルナマリアに、あくまで冷徹にアビーは伝えた。
「恐らく、所属はタロミ・チャチャの南チュウザン。北チュウザンへの侵攻部隊と推測されます。
北チュウザンが落ちてタロミの勢力が増せば、ここカーペンタリアも危うくなる──
既にシン・アスカはデスティニーの調整を始めているわ。貴方たちも急いで」
眼前に輝くCG上のコロニーを眺めながら、フレイは淡々と語っていた。
「コロニー・ウーチバラは、あの事件の後、南チュウザンの手による改修が行われた。
あのテロは、あらかじめ秘密裡に計画されたものだった。南チュウザンと、そして、セレブレイト・ウェイヴの恩恵を与る者たちの手によって──」
「文具団が──あの社長がそういう手を使う人間だっていうのは知ってたよ」
「なら、話は早いな」
フレイが指を鳴らすと同時に、サイの眼前で、白く輝くコロニー・ウーチバラはその開口部を大きく変化させていく──
そのさまは、コロニーのエネルギーを丸ごと使用する巨大砲塔のようにも見え、また、宇宙いっぱいに花開こうとする光のヒマワリのようにも思えた。
ヒマワリの中心部が黄金に輝き、その光は数秒のうちに収束し──
一筋の、巨大なエネルギーを持った線となる。
その閃光は広大な銀河の中を、何度か小さなコロニーらしき中継地点を経由しては屈折を繰り返し、わずか数秒の間に地球へと到達する。
「これは……!?」
サイは息も出来ずに、光の筋の行方を見守る。その到達地点は──
北チュウザン首都・ヤエセ。
あくまでこれは、予想進路図。CGによる偽りの映像だと分かっていても、サイは動揺を隠せない。「どうして……
何故、この光がヤエセに!?」
「お前たちが、新たなるアマミキョをヤエセに建造しようとしているのは我々も知っている。
それはタロミ・チャチャにとっては不都合だ。一度撃沈したとはいえ、システム周りが漏れている可能性もあるからな。
だからこそ、セレブレイト・ウェイヴの試射に、真っ先にヤエセが選ばれた」
フレイはCGを眺めながら、相変わらず淡々と語る。「もっともタロミにとって、この光は人類の革新へ向けた魁とも言える光だ。
その祝福を最初に浴びられること、光栄に思うがいいと──彼ならそう言うだろうな」
「何が魁だよ……」
最早サイは怒りを抑えられない。「君は本気でそう思っているのか?
君はどう思ってるんだ、タロミじゃなく君自身は!
ヤエセは、今まで君が命がけで守ってきた街だぞ!?」
その言葉にフレイは顔を背け、ぽつりと呟く。
「私も、光栄に思う。
この時の為に……私はチュウザンを、ヤエセを、守ってきたのだから。
あの光はサイクロプスや核爆発、レクイエムやジェネシスなどという破壊兵器とは全く異なるものだ。人体には何らの影響も……」
「俺の目を見て言えよ!」
強引にフレイの肩を掴もうとするサイ。だがそうする前に、彼女に右手首を酷い力で捕らえられた。
「まぁ、急くな」
「……!!」
口元は微笑んでいるが、その灰色の瞳は全く笑っていないフレイ。そんな彼女に包帯だらけの手首を押さえつけられ、サイは思わず呻く。
「サイ──よく、聞いてほしい。
私の言葉ならば、タロミ・チャチャは受け入れる。これがどういうことか、お前には分かるはずだ」
──そうか。
サイは何となく理解した。酷く心が踏みにじられていく感覚と共に。
ヤエセには今、カガリ・ユラ・アスハの一声によって、新生アマミキョの乗員が続々と集められている。
トニー隊長も、スズミ先生も、ヒスイも、ディックやマイティも……知った顔が次々と脳裏をよぎる。
恐らく、希望と強い意志を持って集った新たな仲間も、大勢いるだろう。
彼らがセレブレイト・ウェイヴとやらを浴びたら、一体どうなる?
身体に影響はない? ナオトやマユまで犠牲にして生み出された光が? ティーダのあの強烈な閃光が元になったであろう光が?
冗談じゃないぞ、何の影響もないはずがない。
例え本当に「身体には」影響がなかったとしても──あれは──
──でも、彼らの命全てと引き換えに、俺に婚約を迫っている。この女は。
その現実に、サイはぽつりと呟いた。
「悲しいよ。
こんなことをしなくても、俺は──
俺は、君と一緒になるつもりだったのに」
フレイはそんなサイの言葉にも、眉一つ動かさない。「それは、受諾の証ととって良いのか?」
「違うって言ってるだろ」
「では、拒絶か?」
「……!!」
どうする。どうすれば、フレイにうまく伝えられるんだ。
どうしたら、アマミキョを助けられるんだ。
サイの中で思考がぐるぐる回る。畜生、フレイの眼を見ていると、何も冷静になれない!
沈黙してしまったサイを前に、フレイはそっと伝えた。
「……今より24時間、待ってやる。その上で決めるがいい。
それ以上は、私でもタロミを説得出来ない」
「キラとラクスは、まだ行方知れずか……」
オーブ首都・オロファト。内閣府官邸・執務室にて。
アスラン・ザラとミリアリア・ハウを前に、カガリ・ユラ・アスハは溜息を隠せなかった。
そんなカガリに、ミリアリアは畳みかける。「つい先ほど、通信が入りました。
南チュウザン軍は、北チュウザン首都ヤエセに向けて大規模侵攻を開始。
複数のモビルスーツ部隊が順次、移動を始めているそうです。その総数は確認されただけでおおよそ、300機超」
「遂に、北チュウザンを丸ごと刈取りに来たか……タロミ・チャチャは」
カガリはそれでも比較的冷静さを保ちつつ、じっと両手を唇の前で組み合わせながら、報告の続きを促した。
「それで、ヤエセの状況は? アマミキョはどうなっている?」
「時節柄の大雨の影響で、住民の避難が遅れている」アスランが言葉を繋ぐ。
「新たな人員も含め、アマミキョも可能な限り稼働している。
しかし、パーツの30%以上が未完成の状態では、やれることはどうしても限られる。何とかフル稼働出来ているのは医療ブロックぐらいだ」
ミリアリアも唇を噛んだ。「ヤエセには連合の山神隊も待機していますが、どこまでもつか……
せめて、サイがいてくれれば」
そんなミリアリアに、カガリは呟くように答える。「サイたちの保護に関しては、何度も連合と交渉した……だが、のらくら逃げられるばかりでな。
恐らく、我々の救出の手は握りつぶされているのだろう」
カガリは机に手を置きながら、ゆっくりと立ち上がる。「先ほど、キサカからも連絡が入った。
ベンガル湾北端にて、正体不明の巨大戦艦が浮上した。それと前後して、バングラデシュ首都近郊の、連合の軍用施設が襲撃を受けたらしい。
戦艦の進路は推測だが、北チュウザンと思われる。
同様の情報は恐らく、ザフトにも流れている。カーペンタリアでも動きがあったようだ」
どうやっても、新たなる争いは避けられないのか。
ディスティニープランを巡る戦いがようやく終わったと思ったら、今度は──アスランは歯噛みを隠せない。
「北チュウザンをめぐって、連合とザフトとタロミが三つ巴となるか……
何としてでも、早くキラとラクスを見つけ出さないと! バルドフェルドからの連絡は!?」
「全く無い」
にべもなく答えるカガリに、アスランは感情を爆発させてしまう。
「カガリ! キラとラクスがいなければ、アークエンジェルだってどうなるか分からない!!
今のラクスがどれだけの力を持っているかは分かっているだろう、彼女はザフト軍を一斉に止められるだけの力を……」
「いない者をあてにしたところで、どうしようもない。
その為にアークエンジェルには、お前の機体とアカツキを引き続き配備しているんだ」
そう言いながら、アスランを冷徹に見つめるカガリの黄金の瞳。そこに、以前彼に縋り涙目になってばかりだった頃の弱々しさは、全くなかった。
「今はそれよりも、状況の分析が先だ。
アスラン──コロニー・ウーチバラはどうなっている? ジュール隊から情報は入っていないか?」
「あ、あぁ……」カガリの落ち着きに内心驚きつつも、アスランは平静さを取り戻す。
巨大なラクス・クラインの映像が突然コロニー外壁に浮かび上がったという、聞くだに空恐ろしい数か月前の事件。
そんなものを目撃し一旦退散を強いられながらも、ジュール隊は今なお果敢にコロニー・ウーチバラの調査を続けていた。
ザフトと袂を分かったアスランだが、ディスティニープランの事件が終結をみた今、少しずつ彼らとも密かに連絡を取り合うようにしている。その中に、ウーチバラの情報もあった。
「数日前から、急激にコロニー周辺の作業艇が増えたという話だ。
ほぼ同時に、L4付近での文具団や南チュウザンゆかりのコロニーもいくつか、閉鎖状態になったらしい」
カガリはそれを聞きながら、室内をゆっくり歩きだす。テレビドラマの探偵のように。
カガリにこんな癖が出来たのはつい最近だった。どうも、こうすると思考が落ち着くかららしいのだが。
「北チュウザンへの、連合とザフトの集結。
それと時を同じくしての、ウーチバラの奇妙な動き。
何が起きている……?」
カガリが言わんとすることに、ミリアリアがいち早く気づいた。「まさか……
例の最新兵器を、北チュウザンに向けて?!」
その恐るべき可能性を、カガリはいとも簡単に肯定する。「可能性は高い。
アジアに残るザフトと連合の勢力を一網打尽にし、神の復権を目論み、チュウザン及びアジアの王者たらんとするタロミ・チャチャにとっては、うってつけの舞台だろうな」
アスランは彼女の言葉で、忌まわしき記憶を思い出す──
オペレーション・スピットブレイクの時も、ザフトの主戦力が集められた瞬間にサイクロプスが放たれた。
核も、ジェネシスも、そしてついこの間プラントに放たれ、ザフトが撃ち返したレクイエムも──
目標は全て、人の多く集まる場所だ。
「そうだとすれば──
ミリアリア。今すぐマリュー・ラミアスを呼べ」
「えっ?」
戸惑うミリアリアに、カガリは間髪入れず言う。「アークエンジェル、出撃だ」
突然のカガリの指令に、アスランも疑問を呈した。「ウーチバラへ向けて、か?
しかし、アークエンジェルといえどもあそこまでは日数がかかる。最新兵器の迎撃に向かうには時間がかかりすぎるし、キラもいない今──」
「誰がウーチバラへと言った。
目的地は北チュウザン、ヤエセ。逃げ遅れた住民の保護、及び救助隊の支援だ」
全く迷うことなく言ってのけるカガリ。そのあまりに毅然とした物言いに、アスランは反駁する。「北チュウザンだと!?
それこそ無謀だ、アークエンジェルをむざむざ最新兵器の餌食にする気か!?」
そんなアスランの言葉にも、カガリは全く動じなかった。
「蘇ったばかりの希望の船アマミキョを、二度も潰させるわけにはいかないだろう。
そんな事態になれば、オーブの名誉は失墜もいいところだ」
「分かったわ。艦長を呼んできます」アスランが反論するより先に、ミリアリアはさっと踵を返し、風のように執務室から出て行った。
その行動の早さに呆気にとられつつも、アスランは言わずにいられない。「カガリ……
君は、アークエンジェルを贄にする気か!?
万一レクイエム級の兵器が使用されたら、いかにアークエンジェルとはいえひとたまりもないだろう!!」
「その最新兵器とやらが炸裂する前に、住民を一人でも多く避難させるのが先決だ。その為のアマミキョであり……
アークエンジェルは彼らの、大きな助けとなるはずだ」
一体いつから、カガリはこんな依怙地な女になった。
焦りを隠せずに彼女を見つめるばかりのアスランを、カガリはふと、微笑みながら見つめ返す。「大丈夫だ、アスラン。
私はオーブの為に、北チュウザンとアマミキョを守る道を探っているにすぎない。
アークエンジェルは、その最善手なんだ」
その微笑みは、どこか寂しさをたたえつつも、奇妙に力強く──
周囲に取りすがってパニックに陥るばかりの頃の彼女の面影は、空の彼方に消え失せていた。
あまりにも絶望的な結果に終わった、フレイとの再会の後──
サイは、用意された部屋に戻されていた。半ば、監禁に近い形で。
ベッドやらテレビモニターやら小さめのテーブルやら、生活するには十分な調度品が整えられた、こじんまりとした部屋。
だが灯りをつける気にすらなれず、常備灯だけがほんのり輝く部屋で──
枕を壁に投げつけシーツを引き裂き、机上にあったノートやらを引きちぎり、ひとしきり暴れる以外に、サイに出来ることなど何もなかった。
タキシードを脱ぎ捨ててしまいたかったが、そんな気力も消え失せていた。
ボロボロにしてしまったベッドの上で、サイはスーツのまま突っ伏して、小さく呻くしかなかった。
確かに、フレイの言うとおりに俺が彼女と共になれば、北チュウザンはタロミの魔手から救われる。
俺も念願かなって、フレイと一緒になれる──
何を拒絶することがある。何を迷っている?
──分かっている。
俺の求める答えは、こんなことじゃないからだ。
こんな形で、フレイと共になることじゃない。
フレイの真実を受け入れられていないのに、彼女と共になるわけにはいかない。そもそも、あれがフレイの真実なのかどうかも分からないのに。
何より、命を天秤にかけるような形で俺に結婚を迫るフレイの胸中も、全く分からない。
まだ、あのフレイ・アルスターには、俺に打ち明けていない何かがある──
サイは全くの直感で、そう考えていた。
だからといってフレイの申し出を拒絶すれば、俺はもとより、アマミキョもカズイもどうなってしまうか分からない。
俺には最初から、選択肢などないのか。
そもそも、フレイの背後にいるタロミ・チャチャは、明らかにアマミキョや俺を敵視している。
街一つを巻き込んで俺を殺そうとしたり、俺ごとアマミキョを潰そうとしたことからして、そいつは明白すぎるほど明白だ。一国の為政者ともあろう者が、何故そこまで執拗に俺一人を殺そうなどとするのか、それは皆目意味不明だが──
サイがそこまで頭を巡らせた時、不意に扉の外で、微かにエアロックが開かれる音がした。小さな話し声と共に。
「気をつけて。さっきまで暴れてたっぽいし」
「無理もありませんわ。姉上があのようなことを仰るなんて、私にも想像出来ませんでしたから」
「何かあったら、すぐ呼んでくださいよ」
「何度も何度もくどいですわ、トール。
貴方が思っているようなこと、あの方がなさるはずがありません」
「……分かりました。でも、一応見張りはつけておきますから」
その声に、のそりと頭を上げるサイ。ほの暗い室内に、廊下からの光が射し込んだ。
サイの上に落ちる、一人の少女の影。
少女は、荒れた部屋をひとしきり見回して、ため息をついた。
「サイ様」
少女がフレイの妹を名乗るレイラ・クルーだということはサイも気づいていたが、この状況で彼女と何か話し合うつもりにはなれなかった。
無礼だとは思いつつも、サイは子供のように枕に顔を埋めてしまう。しかしレイラは構わずに灯りをつけ、サイのそばに寄ってくる。
付き人たるトールはどこへ消えたのか、既に気配はない。
「サイ様。
──お願いに、参りました」
サイの耳元で、レイラはそっと囁く。
今更、何がお願いだ。どうせフレイの結婚の後押しだろう。
そう決めつけつつも、サイはのろのろと身を起こす。髪と着衣が若干乱れているのが無礼に当たるかと思ったが、構うものか。
しかしレイラは、そんなサイの胸中を知ってか知らずか、単刀直入に告げた。
「……姉を、助けていただきたいのです」
ほら見ろ。結局そう来たか。
サイは失望しつつ、軽く溜息をつく。「君もやっぱり、俺にフレイと結婚しろと?」
だがレイラはそれに対し、意外な言葉を吐いた。「そうではありません。
ここから一旦、脱出してください」
「へっ?」
何を言われたのか一瞬理解出来ず、サイは素っ頓狂な声を上げてしまっていた。それでもレイラは、サイに取りすがるように懇願する。
「カズイ様の居場所は既に把握してあります。合流、及び脱出の手筈も整えてあります。
あとは、サイ様のご決断一つですわ。
ここから逃げて、アマミキョと北チュウザンの住民に危険を知らせて下さいまし!
今それが出来るのは、サイ様だけです。さぁ、早く!」
「だ、脱出ったって……一体君は、何を言ってる?」
冗談ではないことは、彼女の眼を見れば分かった。
先ほどとはずいぶん違う、真剣なスカイブルーの瞳が間近にある。その眼光は気のせいか、フレイのそれとも似ている──
「今この艦は、ベンガル湾を抜けてマレーシア上空を通過、チュウザンへ向かいつつあります。同時に、モビルスーツ部隊も多くが北チュウザン本島を目指しています。
セレブレイト・ウェイヴ照射実験の支援、及び事後処理の為に……」
それを聞いて、サイの背筋がぞくりと震えた。
やはりこの艦は、北チュウザンを破滅させるつもりなのか。
「私は姉に、そのようなことをさせたくはありません。
しかし、姉の想い人たる貴方に、人民を盾にしての強引な婚姻を迫る姉も、見たくはないのです。
サイ様は──姉に残された唯一の希望だと、私は思っておりますから」
「希望? 自分が、フレイの?」
サイは目の前の、幼い少女の大きな青い眸をじっと見つめ返す。どう見ても、嘘を言っている顔ではない。
レイラの小さな唇は、さらに衝撃的な事実を語る。
「姉は──
とある理由で、タロミ・チャチャへの反逆が出来ません。
もっと言うならば、タロミ・チャチャよりもさらに上位存在への……いえ、ここで話すことではありませんね。
その件は、ご存知でしたか?」
「いや……全く知らない」
サイはベッドから降りながら、ゆっくりと少女の目線の高さ、それよりやや低い位置へ片膝をつきながら座る。
彼女は恐らく、とんでもない話をしている。自らの命さえ危うくなるほどの。
レイラは少しばかりサイから視線を外しつつ、年齢に見合わぬ自嘲的な笑みをこぼす。
「そうでしょうね。打ち明ける人ではありませんから」
「どういうことだ。フレイはタロミに、何か弱みでも握られているのか?
例えば、人質とか」
「それもありますが……
もっと絶対的で、根源的な理由によります」
「根源的? そりゃ、どういう……?」
レイラはさらに声を落とし、囁くように言う。
「それは申し訳ありませんが、今お話出来ることではありません。この部屋は監視されていますし、それに──
タロミ一族、そして南チュウザンの実態を知らなければ、到底理解していただける話ではないのです。
中途半端に知ってしまえば、今のサイ様は余計に姉への疑惑を深めてしまうでしょう」
顎のあたりできれいに切りそろえられた金髪が、かすかに震える。
レイラの、どこか寂しげな横顔を見ながら、サイは確信した。
つい先ほどまで、あれだけ利発で朗らかだった少女に、ここまで悲愴な表情をさせるものとは──
やはり、フレイの一連の不可解な行動には、全て理由があったんだ。
アマミキョを沈めたのも、ナオトを殺したのも、マユたちを利用したのも、今またアマミキョや北チュウザンを破壊しにかかっているのも。
理由があるからといって決して許されるものではないが、それでもサイは、どこか安心している自分を感じていた。
「とにかく──
貴方は姉にとって、地獄の帳に射し込んだ唯一の光なのです、サイ様。
姉は恐らく、今貴方と婚姻を結びさえすれば、貴方を守ることが出来ると考えたのでしょうが──
私はそうは思いません。
婚姻を結んでしまえば、貴方はもうタロミから自由にはなれません。アマミキョを救うことも出来ません。
未来永劫タロミの元へ囚われるか、早暁殺されてしまうか、どちらかですわ。
貴方がそうなれば、その時こそ姉は、終わってしまう」
言いながらレイラは、懐に隠していた小さな包みを取り出した。
包みをゆっくりと開くその手は、微かに震えている。それもそのはずで──
中にあったものは、折り畳み式ナイフだった。
その感触を確かめるように、レイラは慣れない手つきで刃を出し、指先を触れる。慌ててサイはそれを止めようとした。
「あ、危ない! そんなもの、貴女が持っちゃ駄目だ!」
「私ではありません。貴方が使うものですわ」
「え?」
レイラはほぼ無理矢理に、サイの手にそのナイフを握らせる。
何をやっているんだこの娘は? このナイフ一本で、警備を突破してオギヤカから脱出しろとでも言うのか? アスラン・ザラじゃあるまいし、そんなこと俺には無理すぎる。
だがそんな疑問を呈する前に、レイラはそっとサイに身体を寄せ、囁いた。
「その刃を私の喉元に押し付けたまま、私の指示通りに動いてください。
そうすれば誰も、貴方に手出しは出来ません」
「……はぁ!!?」
つまり──
自分を人質にして、この艦を脱出しろというのか、この娘は。
「大丈夫。あらかじめ、脱出ルート上の警備は手薄になるようにしていますから」
「いや、そういうことじゃなくて!」
反駁するサイを、レイラはその口調だけで押しとどめる。
「サイ様。
もう、時間はありません。
私は貴方に、姉も、アマミキョも、助けてほしい。
そして姉やアマミキョを助けられるのは、貴方をおいて他にはいない。
だから決めました。さぁ、私をとらえなさい!!」
幼いなりに気勢を張り、右手で軽く胸を叩いてみせるレイラ。
その気迫に、サイは逆らうことが出来なかった。
俺は、まだ戦うのか。ここで。
北チュウザンに向けて出撃したミネルバJr、ハンガー内。
修復されたデスティニーガンダムのコクピットで、シン・アスカは悩み続けていた。
──議長も、レイも、グラディス艦長もいなくなった。
ディスティニープランが頓挫した今、自分は何の為に戦えばいいのか。
レクイエムによるプラント崩壊により、未だ混乱を極めるザフト。ラクス・クラインが議長として立つという噂もまことしやかに囁かれる中、シンは決めあぐねていた。
己の、今後とるべき道を。
クライン一派が戦前より、ザフトで相当な勢力を誇っていたことはシンも知っている。シーゲル・クラインが暗殺されたとはいえ、直後にその娘のラクス・クラインが雄々しく立ち上がり、プラントの危機を救った武勇伝は有名だ。
そして今も、ディスティニープランを打ち破った功労者として、ラクス・クラインは祀り上げられている。本人が不在なのに。
だがデュランダル議長がいなくなったからといって、すぐにクライン一派に乗り換えられるほど、シンは器用ではない。
それに、議長の手駒としてラクスたちに剣を向けた自分を、彼女らはすんなり受け入れてくれるのか。
シンは思い出す。久しぶりにオーブに……オノゴロの慰霊碑に祈りを捧げたあの日、会った者たちを。
アスラン・ザラにラクス・クライン。そして、キラ・ヤマト。
ラクス・クラインもそうだけど、俺がキラ・ヤマトに直接顔を合わせてまともに話をしたのは、あの時が初めてだった。
──俺はあいつらを許せない。許したくない。
ステラを殺した、あいつらを。
俺たちを裏切ったあいつらを──そう思っていた。
だけど、実際にキラ・ヤマト本人に会ってしまうと、あれだけ燃え盛っていた憎しみはどういうわけか、薄れてしまった。
どれだけのスーパーパイロットかと思っていたら、見た目があまりにも朴訥とした、やたらと素直そうな青年だったからというのもある。
だけど、それだけじゃなく──
自分の中には、彼に謝りたいという気持ちが、どこかにあったのではないか。
ステラを殺したのは、確かにキラ・ヤマトだ。
でも、あの時の状況から考えて、そうしなければどうしようもなかったのかも知れない。
俺とステラの間でどんなやりとりが交わされたかなんて、彼は知らない。
フリーダムが目の前に現れたことで、ステラがどれだけ怯えて狂ってしまったかも──彼は知らなかった。
あの時、彼の最善を尽くしデストロイを止めようとした結果が、ステラの死だった。
頭のどこかでそれを理解していながら、俺はキラ・ヤマトに刃を向け、その命を脅かした。
だから俺は──
シンの中では、未だにキラへの相反する想いが渦巻いていた。デスティニーの調整にも身が入らなくなるほどに。
脳裏で繰り返されるのは、ルナマリアの言葉。
──あの時、キラ・ヤマトと握手したのは何だったの?
一緒に戦おうって言われて、めそめそしながら頷いてたのは何だったのよ!
彼女の言うとおり、俺はあの浜辺で、キラ・ヤマトの手を取り、彼と和解した──つもりだった。
何故そうしたのかというと、そうしたくなったから、という以外に他はない。
自分が折れてしまえば、それは死んでいった家族やステラへの裏切りとなる。そう分かっていても──
それでも俺は、差し出された手を握りしめた。
もう、疲れたのかも知れない。憎しみに囚われたまま戦い続ける自分に。
復讐以外に生きられる道を、俺は心のどこかで渇望していたのかも知れない。
そんな自分が酷く嫌で、ついこの間はナオトに当たり、ルナマリアに怪我までさせてしまった。
でも──
シンはじっと目の前の、何も語らないコンソール・パネルを見つめる。
じゃあ、俺は、どう生きればいい?
俺はずっと、家族の復讐を果たす為に。その為だけにオーブを捨て、ザフトへ入った。
その憎しみを捨てるというなら、じゃあ、俺は何の為に生きればいい?
俺に道を示してくれた議長は、いなくなってしまった。
俺をいつも導いてくれたレイ・ザ・バレルも、うるさいと思いつつも何だかんだで世話になったグラディス艦長も。
──レイ。
あいつは、どんな顔して死んでいったんだろう。
シンの記憶に浮かんだのは、穏やかなレイの笑顔。
自分の素性を明かし、余命が長くないことを明かした時の、どこか寂しげな笑顔。
あいつは、少しでも安らかに死ねたんだろうか。
アスラン・ザラに月面で救出された時に、俺はレイと議長、そしてグラディス艦長の死を伝えられた。
その時はもう、色々なことが起こりすぎて、涙なんか枯れ果てていた。レイの最期がどんなだったかは、自分には分からない。アスランも多くは語らなかった。
自分たちを裏切った上、彼ら三人を見捨てた形となったのであろうアスランへの激しい嫌悪感は、今でも確かに心の隅で燻り続けているが。
──過去にとらわれたまま、戦うのはやめろ!!
──未来まで殺す気か、お前は!?
あの言葉を思い出すと、今でもムカついてくる。
あの野郎にだけは金輪際、絶対に心を許すことはないだろう。ミネルバを破壊して多くの仲間を傷つけておいて、よくもまぁ──!!
シンは虚しいと分かりながらも、コンソールに右拳を叩き付ける。
「俺の未来って、何だよ……」
「うふふ。タキシードの殿方に抱かれながらの逃避行も、悪くないですね」
「ここで言う台詞じゃないでしょう……」
サイはレイラに命じられるまま、彼女を連れ部屋を出て、比較的監視の薄い風呂場のダクトから天井裏へ侵入していた。
小さなレイラを抱えながらサイは、人二人分がやっと通れる狭さのほの暗い通気口の内部を、這いずるようにして進んでいく。ダクトから漏れる光だけを頼りに。
タキシードでは目立ちすぎるため着替えたかったが、替えの服が用意されていなかったのだから仕方がない。生暖かい風が吹き抜ける天井裏を、サイは汗だくになりながら進むしかなかった。
「上着だけでも、脱いでくれば良かった」あまりの暑さでクロスタイを緩めるサイを見て、レイラはくすりと笑った。
「そうですか? 私、埃まみれのスーツも大好きですよ。
戦う男性という感じがします」
「そりゃどうも……」
レイラの話では、既にカズイにも話はつけてあり、脱出方法を示唆したそうだ。手回しの早さにサイは内心舌を巻かずにはいられなかったが──
この妹の行為に、あのフレイが全く気付かないなんてことが、ありうるのか?
激しいエンジンと送風の音にかき消されそうになりつつも、サイはそっとレイラに尋ねる。
「……トールは、どうしましたか」
「彼なら大丈夫。姉とのミーティングで出払ってます」
「自分とカズイの脱出が明るみになれば、トールは恐らく責任を追及されるでしょう。
貴方が人質にされたのなら、なおさらだ」
「やっぱり優しいですね、サイ様は。
ご自分を殺そうとした相手にすらも、情けをかけられる」
「そうじゃありません。
あいつは、俺の友達だ。カズイやキラや、ミリアリアと同じに」
「でも、命を脅かされたのでしょう? それに、彼の記憶は……」
「それでも、です。
あいつが自分でトールだと名乗る限り、あいつはトール・ケーニヒなんだ。
気にもなりますよ」
その言葉に、レイラは笑みを消して顔を伏せる。
「……彼のことなら、私が何とかしますわ」
何とか出来るような力が君にあるのか。そう尋ねたかったが、喉元で押さえこんだ。
そもそも、レイラの企みがフレイに全て暴露される結果となったら、レイラ自身もどうなるのか。
フレイは妹を許すのか、それとも──
そこまでサイが考えた時、不意に前方で何か、ゴソゴソと蠢く音がした。
同時に見えたものは、微かなミニライトの灯り。
「あぁ、もう! 危ないから灯りは持ってくるなと申しましたのに」
レイラのため息の直後、現れたのは──
「ご、ごめんなさい。こうしないと、怖くて……」
おずおずと声を出す、頭から埃を被りまくったカズイ・バスカークだった。
それから十数分というもの、サイとカズイの二人はレイラの指示により、通風孔を左へ右へ、上へ下へと匍匐前進の要領で移動させられ、三人とも汗まみれになってしまっていた。
「でも、良かったよ。サイがすっかり元気になって」
「カズイも、無事で良かった。本当に……」
「ていうか、何だよそのカッコ? 何でタキシード?」
「説明は後だ。お前こそ、どこでそんな埃だらけになった?」
命の瀬戸際を助け出された直後、サイと引き離され訳の分からない場所に連れてこられ、相当不安だったのだろう。随分久しぶりに会う気さえするカズイは、心底ほっとした顔をしていた。
「でも……脱出ったって、どうやるんだ?
今、この艦がどこにいるかも分からないのに?」
サイが教えられたのは、この艦がチュウザン本島に向かっているということだけだ。
カズイの問いに、レイラは即答する。「今は恐らく、マレーシアを抜けてタイランド湾に出たあたり。その上空です」
当たり前のことを言うなと言わんばかりの答え。カズイは思わず大声を上げてしまった。「え?
ってことはこの艦、空飛んでるってこと?
そこからどうやって、俺たち逃げ出せばいいんだよ!?」
「しぃっ! 大声を出してはいけませんったら」
至極当然の、常識的な質問である。
空を飛んでいる船から逃げだす方法など、そうそうあるはずがない。
息せき切ってカズイは続けざまに尋ねる。「もしかして、補給でどこかに寄港するの? その時に、荷物に紛れてとか……」
それはサイも考えていたことだった。というより、それ以外にまともな脱出方法などないだろう。
だがレイラは、頭を大きく横に振るばかりだ。「そんな余裕、この艦にはありません。
補給はせず、そのままチュウザン海域へ向かうはずです」
「へ? じゃあ、どうやって……」
「そろそろ着きます。気をつけて」
言いながら、レイラは両腕にうんと力を入れつつ、ダクトの開閉口を引き上げる。
熱風と共に、サイたちの眼下には、どういうわけか最新式のカタパルトがいっぱいに広がった。
同時にレイラが小さく叫ぶ。「あ……ごめんなさい。
ちょっと、間違えてしまいました!」
カタパルトと隣接したハンガーの隅には、屹立するモビルスーツが数機。
大空へ通じるであろうモビルスーツ出入口は今は勿論閉鎖されていたが、整備兵が十数名、ハンガーで右往左往し、モビルスーツに取りついている。
そのうちの1機に、サイの眼が止まった──
かつて、フレイ・アルスターが搭乗した、ガンダム・アフロディーテ。
それとよく似た意匠を持ち、アフロディーテ同様の深紅にカラーリングされた機体が、そこにあった。
しかしアフロディーテと違い、より一層目を引くのは、背部に取り付けられた──
機体をほぼ覆い隠すほど、巨大な亀の甲羅。
よく見るとそれは甲羅でも何でもなく、円状に広がった8基の砲塔だった。機体背部に呪詛のように取りついた甲羅は中心部から二つに割れ、双対の半円を描き、砲塔を4基ずつ四方へ伸ばしている。鈍重な亀の足のように。
その背部武装だけは機体と同系の紅ではなく、漆黒で塗られていた。
サイはふと思い出す。あれと似ている機体を、俺は知っている。
アフロディーテとはまた違う機体。あれは──
2年前のヤキンの戦いで、フラガ少佐を傷つけ、キラと激戦を繰り広げた機体。
──そして、フレイを殺した機体。
ラウ・ル・クルーゼの機体。
カズイの震え声が聞こえる。「ま、まさか、モビルスーツに乗って脱出しろとか?」
「違います。あんなところに行けば、すぐに見つかってしまいますし──
モビルスーツを奪って発進するような真似をしたとて、撃墜されるだけです。閉めますよ」
どうやらレイラは出口を間違えたらしい。慌ててはいるものの、慎重に開閉口を元に戻すと、別の道に進み始める。
だがサイは、今目撃した紅のモビルスーツが、どうしても頭から離れなかった。
あれはやはり、フレイの乗る新たな機体なのか。
アマミキョ沈没のあの日、ザフトによってアフロディーテが撃墜された件は、伊能大佐やトニー隊長を訪ねた時に聞いていた。
あの時確かに、フレイは俺を助けようとしていた。
アマミキョを攻撃していたにも関わらず、俺を助けようとした。
あの時のアフロディーテの挙動は、忘れようにも忘れられない。俺を掴もうとするように、メインモニターに向かってマニピュレータを伸ばしてきた、ガンダム・アフロディーテを。
──あの機体、なくなっちまったのか。
サイが「あの」フレイと初めて会った時、彼女が手に入れた機体。
どんなにピーキーであっても、周りから文句を言われようとも、フレイはアフロディーテに乗り続けた。
フレイ自身は否定していたものの、あれは恐らく、俺と出会った時に入手した機体だったから──
それが消え失せ、タロミ・チャチャの王妃として新たに起ったフレイ・アルスターを示すかのような機体がそこにある。
サイはそのことに、一抹の寂しさを感じたが──
その時不意に、床全体がほんの少し震えだす。カタパルト・デッキのシャッターが開かれたらしい。
同時に、機体のバーニアの激しい音も近づいてきた。それが着艦したのであろう、サイたちのいる場所も轟音と共に揺さぶられた。
直後に聞こえてきたのは、通信ごしの幼い少女の声。
<──ねぇ! フレイは?
そろそろ「お兄ちゃん」が来るって言うから、急いで帰ってきたのにー!!>
──あの声、まさか。
「マユ・アスカ!?」
サイは衝動的に、レイラが閉めたばかりの扉をもう一度開こうとする。突然のことに、レイラは慌てふためいてサイを止めた。
「な、何をなさいます!? 見つかってしまいますわ!」
「待ってくれ。あそこにいるのは、マユか?
ナオトと一緒にティーダに乗ってた、マユ・アスカなのか!?」
息を弾ませて尋ねるサイに、レイラは悲しげに頭を振る。
「彼女は……マユ・アスカの姿をしていますが、マユ・アスカではありません。
また、サイ様たちが知る彼女とも、違う娘です」
頭を垂れるレイラを見て、サイは確信した。
やはり、広瀬少尉の報告書は正しかった。
「つまり彼女は既に、チグサ・マナベだということか」
サイの言葉に、レイラは困ったように微笑んだ。「やっぱり、もうご存知だったのですね。
さすがですわ」
ハンガーデッキからは、彼女の明るい声がまだ響いていた。
<えぇ? まだ待機? なんでー?
アタシ、さっさとパイスー脱ぎたいんだけどなー。このコードも鬱陶しいし!>
年相応にわがままで、いかにも勝気な少女の声。
チグサ・マナベとしての彼女の声を聴くのは初めてだが、まだどこかに、俺の知るマユ・アスカの部分も残っている──
サイはそんな気がしてならなかった。そう思いたいだけかも知れなかったが。
僕は、どうすればいいんだろう──
チュウザン本島へ向かうミネルバJr。その、医務室の片隅にあるベッドで。
ナオト・シライシは、途方にくれていた。
身体の方は大分治り、もう自由に歩き回ることが出来る。あのケータイ事件直後は、あまりのショックで立ち上がることすらおぼつかなかったが、それもかなり落ち着いた。
だが、声は相変わらず戻らない。
母さんを失い、マユを失って。
しまいには自分がザフトに捕らわれたと分かった時は、狂ってしまいそうだった。唯一の取り柄とも言える声まで奪われて。
でも、ルナさんやヴィーノさんが優しくしてくれたから、何とか死なずに済んでいた。
そのルナさんが、アマミキョを沈めただなんて──
サイさんまでが、いなくなっただなんて。僕は絶対にサイさんを守るって、そう誓ったのに。
しかも、サイさんを殺したのが──ルナさんだったなんて。
その衝撃は未だにナオトを苛み、身体は治っても、心はますます固く閉ざされてしまっていた。
僕をヨダカ・ヤナセの養子にするなんていう話もあるようだけど。
実際、それらしき人物が何度か、僕に会いたがっていたみたいだけど──
そんなことをしたら、僕はきっとあいつを殺してしまうだろう。殺さずにはいられないだろう。僕から何もかもを奪い去ったあいつを。
そして、僕はプラントにすらいられなくなる。
結局、僕の生きる道なんて、この世界にはどこにもなかったんだ──
絶望に囚われるあまり、彼はしばらく食事すら出来なかった。点滴で栄養を摂取させられたほどだ。
そんな折、ナオトは聞いたのだ。どこからか、マユ・アスカが自分を呼ぶ声を。
導かれるようにふらふら出て行ったら、いつの間にかティーダの格納庫前に来ていた。
ティーダの姿はすっかり変わってしまったけど、確かに僕は、マユの声をあそこに感じた。
二度と近寄るなとルナさんには言われたけど──
でも、あそこに行けば、何かが変わる気がする。
もう一度、ティーダに乗ることが出来れば。
もう一度、マユに会えるかも知れない──
ミネルバJrの片隅で、ナオトはそんな切なる願いを抱き続けていた。
「先ほどは、大変失礼いたしました。
こちらです!」
カタパルトへの出口からさらに奥へ進んだ場所に、少し小さめのハッチがあった。レイラはサイたちに向かって、嬉しそうに微笑む。
そこでカズイが、当然の疑問を口にした。「モビルスーツで出ないとするなら、他に手段があるの? 作業用モビルアーマーとか……」
「似たようなものですわ」
レイラはいそいそとハッチを開いた。そこには、先ほどのものとは随分小規模なカタパルトがあった。
天井も一段と低く、整備員らしき者の姿もない。作業用モビルアーマーが一機、ようやく射出出来るか否かというほどに小さなカタパルトだ。
「ここは、私専用のカタパルトです。
主に、コメット操縦練習用です」
ハッチからそっと上半身を乗り出しながら、サイはあたりを見回してみる。
カタパルトの隅には、ザフトのグゥルに良く似ているが、それをかなり小型にした形のサブフライトシステム(SFS)がぽつんと置かれている。それ以外に機体らしきものはない。
「コメット?」
「あら、ごめんなさい。私の愛機の名前ですわ。
正確には、民間用小型SFSのことです。ご存知ありません?」
「いや、何度かやってみたことはあるけど……」
サイは思い出す。そういえば学生時代に、アレに似たものを操縦した経験はある。
ちょうど、モビルスーツがグゥルに乗る時と同じ要領で人間が乗って、一定時間滑空することが出来る。バーニアと、機首に取り付けられたハンドルだけで方向調整し、あとは風に任せて飛行するタイプのものだ。意外と乗り心地は良く、慣れてからはサイも滑空を楽しむことが出来たのを覚えている。
但しそれは、コロニー内の調整された気圧の中で飛ぶことを想定されたものだ。勿論、地上で乗ったことはない。
そしてカズイは全く経験がないようで、その言葉だけで縮み上がってしまった。
「ま、まさか……アレに乗って、飛んで逃げろって?」
そんなカズイにも、レイラは当然と言いたげに返す。「それ以外に、どんな方法がありまして?」
「ひ、ひぃ! 俺、高いところ苦手……」
思わずタキシードにしがみついてくるカズイ。サイも内心同感だった。
飛行中の艦から生身で飛び降りるようなものだ。誰だって怖い!
しかしサイたちの恐怖を、レイラはこともなげに笑い飛ばした。「心配ご無用、ちょっと変わったグライダーのようなものですわ。
通常はコロニー内での飛行に使うのですが……
今は緊急時ですから、仕方ありませんね」
コロニー内? ということは、この艦はコロニーでの運用も可能なのか。もしかしたら、宇宙までも。
ちょっとした街ひとつを形成するほどの規模を誇る海底要塞が、大気圏内を飛ぶということだけでも驚きだ。というか、現在の技術でそんな芸当が可能とも思えない。
恐らくこの艦は、海底のオギヤカから分離されたパーツの一部なのだろう。
かつてアマミキョがアークエンジェルを追ってオギヤカから飛び立った時も、アマミキョを収容した部分だけを切り離していた。この艦も同じように──
レイラはサイたちにお構いなしに喋り続ける。
「ここ、スプラトリー諸島のあたりは連合領となっていますが、調べたところ、アスハ家と親交の深いベント家の買い上げていた島がいくつかありました。そこには私有の軍も駐留しているはず」
「ここから飛び出して、その島へ不時着して救援を求めろってのか……
危険すぎる賭けだな」
「そんなことは百も承知です。しかし、そうでもしなければサイ様もカズイ様も、ここからの脱出は叶いません。
既にナビはその島へ向けて設定してあります。後は飛ぶだけですわ」
レイラは言いながら、サイに身体を押しつける。「さぁ、私にナイフを。ここからはしっかり監視がついてます。
私は貴方に囚われた、力なき姫です。サイ様!」
ウインクしながら言う台詞ではないだろう。サイは溜息をつきながらも、ゆっくりレイラの首に後ろから左腕を回す。
カズイは一瞬ぎょっとしていたが、サイの目配せ一つで彼は黙りこくった。
「じゃあ……失礼します」そろそろとレイラを抱きかかえながら、彼女から渡されたナイフの鞘を抜き放つ。そっと彼女の柔らかい首筋に、申し訳程度にその切っ先を向けた。
そのままの体勢で、サイは開かれた天井ハッチからゆっくりと下へ、ステップを足で探りながら壁伝いに降りていく。すぐにステップを手で掴まなければならなくなり、ナイフを口にくわえながら右手でステップを掴んだ。レイラを落とさないようにしながら、少しずつ下へ降りていくサイ。
指まで包帯の巻かれているサイの左腕を目の前にしても、レイラは驚かなかった。
しかし先ほどまでのはしゃいだ様子は消え、彼女はふと労わるようにサイを見上げる。
「無理をなさらないで。
……随分、苦労されたのですね」
「大丈夫。貴女を抱き上げられないほど、弱っちゃいませんよ」サイはその気遣いに、少し微笑みさえ見せながら答える。
どうにか床に足を降ろすと、サイはそのままコメットの横の壁にすり寄る。かなり整備は行き届いているようで、すぐにでも飛べそうだ。
レイラをかかえたまま、サイはコメットに跨ってみる。ハンドルを握りしめるだけで、手が汗ばんだ。包帯を取らないでいて良かったのかも知れない。
「カズイさん、そこのコンソールを開いてくださいまし。
私の言う通りに操作出来ましたら、すぐにサイ様と一緒にコメットに乗ってください。
コメットは二人乗りですので」
「え? は、はぁ……」
カズイは戸惑いながらも、レイラの指示どおりに壁のパネルを開き、言われた通りの操作をしていく。すると、空気音を立てながらシャッターが上下へ開いていく。
激しい突風が吹きこんでくると同時に、彼らの眼前に広がったのは──
果ての見えない、雲の海。
その上は、どこまでも高い紺碧の空と、太陽しかない。
タキシードの裾が激しく煽られ、服ごと持っていかれそうだ。レイラのワンピースも大きく翻り、中のドロワーズがサイにまで見えた。
ここまで上空を飛んでいるとは思わなかった。てっきり海のすぐ上あたりかと、高をくくっていた。しかし今サイの目の前にあるのは、海は海でも雲海だ。
あまりの高度に、思わず足がすくむ。しかもすぐ下はかなり分厚い黒雲で覆われて全く見えず、わずかに雷光らしきものすら雲間を走っている。
「下は土砂降りのようですわね……」突風に顔をしかめるレイラに、サイは言った。
「仕方ありませんよ。チュウザンのあたりではこの季節、海は荒れやすいそうですから。
カズイ、早く!」
サイはカズイにもう一度目配せする。カズイは呆気にとられて外の景色を見ていたが、やがて気を取り直すと、空を見ないようにしながらそろそろとコメットに乗ってきた。
目を半分がた閉じてサイの背中に抱きつくと、取り付けられていた命綱がわりのバンドを二人の身体に、縛りつけるように巻きつける。
そしてカズイは、うっかりすると聞き漏らしてしまうほどの小声で呟いた。
「お、俺、もう迷わないから……
決めたから……サイを守るって」
──ちょっと前なら、足がすくんでたか、逃げ出してただろうにな。
ごめんな、カズイ。何で脱出しなけりゃならないのか、お前は半分も理解してないだろうに。
俺だって、ちゃんと分かってるわけじゃない。
ただ、一刻も早くアマミキョに急を知らせなければいけない。それだけだ。
──彼らを救うことが、フレイを救うことにも繋がるのならば。
「大丈夫だよ。必ずアマミキョへたどりつくから」
サイはカズイの体温を背中に感じつつ振り返り、力まかせに微笑んでみせる。
かなりぎこちないと自分でも分かる笑みだったが、それでもカズイはほんの少しだけほっとしたようだ。
──だが、その刹那。
「待ちなよ」
ここにいてはならないはずの少年の声が、はっきりとその場に響く。
振り返らずとも分かった。これは、トール・ケーニヒの声。
同時に、カズイの小さな悲鳴。
サイの腕の中で、レイラがきゅっと身を縮める。金色の頭が僅かに震えだしていた。
「こっちを向くんだ、サイ・アーガイル。
場合によっては撃つ」
俺は何度、トールに銃を向けられなきゃならないんだろう。
姿勢を崩さないよう、サイはコメットに乗ったまま、そろそろと上半身だけで振り返る。
レイラが小声で呟いた。「サイ様。私は貴方の人質ですわ」
「分かってる」
サイは手にしたナイフの切っ先を、改めてレイラの喉元につきつけた。今度は、少しでも動けば喉を抉りかねない位置へ。
カズイだけは状況がつかめず、サイとトールを交互に見比べている。
「な、え、トール……?
どうして? どうしてだよ、何でお前こんなこと!!」
それを遮るように、レイラは叫んだ。「トール! 手を出してはなりません。
どうか、この方々を見逃してくださいまし。サイ様はアマミキョを守りたいだけで……うぅっ……」
さすがはフレイの妹だけはある。本心から恐怖に満ちた涙声で、しかしいつもの利発さは失わないよう計算された演技。
実に苦々しい面持ちでレイラを見つめ、拳銃を構えたまま首を振るトール。その背後には何人かの警備兵も駆けつけている。
「レイラ……だから、気をつけろとあれだけ言ったでしょうに!」
囚われたレイラに対しどう対応すればいいか判断出来ないようで、トールは若干の歯ぎしりを隠せなかった。
「サイ! 彼女を離せ、でなければ今度こそお前を殺す!!」
迷うことなく、サイに銃口を向けるトール。
その瞳には、いつか自分を殺しに来た時の余裕は微塵もなく、ただ燃えるような怒りがあった。元々ちぢれていた髪が風に煽られ、さらにその表情を険しくさせる。
──多分これは、本気だろうな。
このトールは、本当にレイラを大切に思っているのだろう。
恋愛感情とはまた違う、一心に姫を慕い守り続ける、騎士として。
万一俺のナイフが彼女の頬をほんの少しでも掠めれば、間違いなく俺の頭は次の瞬間爆砕されるはずだ。トールの一撃で。
そのことにサイは心のどこかで安堵を感じながら、呟く。
「安心したよ、トール。
お前の必死な顔、久しぶりに見られて」
「な……っ!?
何をほざく! まんまと俺を騙して、彼女を危険に晒しておいて、それが答えかよ!?
これでも俺、お前を信用してたのに!」
サイの言葉にトールはさらにいきり立つ。だが──
その時、彼の背後から凛とした声が響いた。
「待て、トール。騙されてはいけない」
そこにいたのは勿論、
タロミ・チャチャ第三王妃。
連合の外交官、故ジョージ・アルスターの娘。
アマクサ組一番隊・元隊長。
サイの婚約者──フレイ・アルスター、その人だった。
つづく