奇蹟としか言いようがない形で、見事ナオト・シライシの手で救出されたサイ。
だが、新生ティーダのコクピットから外の様子を確認しながら、彼は気づいていた──
ナオトと再会出来たからといって、これが決して、手放しで喜ぶことが出来る状況ではないことを。
膝に抱え込んだカズイの背中からは、まだ出血がおさまらない。幸いなことに、急所は外れているが。
内ポケットからハンカチを取り出し、無造作にだがカズイの傷を押さえる。苦しい息遣いが、コクピットに流れる。
ハンカチは一瞬で真っ赤に染まっていったが、それだけでも多少楽になったのか、カズイの呼吸は少しずつ落ち着いてきた。


──それにしても。
何故、ナオトがまた、ティーダに乗っている?
ティーダは、フレイの手で破壊されたのではなかったのか?
そもそもどうして、ザフト軍から、ティーダが舞い降りてきた?
だが──サイは思い直す。
ナオトの方から見れば、自分たちこそおかしいだろう。
何故、こんな恰好でオギヤカから飛び出してきたのか。
しかも、こんな危険極まりない手段で。


それでもナオトは何の疑問も持たずに、俺たちを助けてくれた。
それがどういう結果を齎すか、何も考えずに──
かつてのキラと、全く同じに。


そんなサイの思惑に構わず、ティーダに向かって襲いくる、無数の黒ダガーL。
ナオトはそいつらを睨み返すが早いか、膝の間に位置していたハロ──
その頭とも言うべき上蓋を開く。中には、タッチパネル式の小型ディスプレイが仕込まれていた。
ディスプレイを手早く操作しつつ、ナオトは呟き始める。
「コード403より、752、753をシンクロ……」
「おい! ナオト……」
「アクセスコード再取得完了。10-5948-000、コード承認」
「待てよ、何する気だ!?」
「サイさん、ちょっと黙ってて。
メイン102、103更新、確定。変数誤差修正完了。プランRによりシステム起動──」
非常に久しぶりに聞く気がする、ナオトの澱みのない早口。
この音声入力により、ハロ内部のディスプレイに、目にもとまらぬ速度で文字列が流れ始める。
同時にハロの音声も、コクピットに流れ出す。
<──メインデータバンク、切替。ティーダ・Z、メインパイロット登録確認完了。
各プロシージャ編集終了。パワーモード、切替完了。
No14、オヨビ18モジュール、声紋エラー確認。起動ニハ問題ナシ。
システム、ブック・オブ・レヴェレイション、オンライン>
「了解。
フェイズ1から3まで、オールグリーン。プランRにつきフェイズ4、5は入力を省略。
あぁ、6から10まではこのバッチを使って……」
ディスプレイに表示されているキーボードを、全く手馴れた手つきでピアノのように叩き続けるナオト。最早、サイが余計な口を挟む余裕などない。
そしてわずか10秒足らずで、ナオトは全ての入力を完了した。
真っ白に変わったハロ。入力終了と同時に頭蓋が閉じられ、その球体の中心あたりに付けられた二つの小さな目が、緑に点滅する。
同時に、ナオトがほっとしたように笑いながら、サイに振り向いた。
「サイさん、少し苦しいかも知れないけど……
ちょっとの間だけ、我慢してくださいね!!」
「え、ちょ……おい!?」
ハロの音声が俺の聞き違いでなければ、まさか──
ナオトはもう一度、ティーダで黙示録を起動するつもりなのか。
サイが思わずナオトの腕を掴みかけた、その瞬間──
視界の全てが突然、薄紅の紗に覆われた。




海上で静止していたはずのガンダム・ティーダの装甲表面が、輝きだす。
ヴァリアブルフェイズシフト装甲による輝きとは、また違う──
肉眼で見れば、コンマ数秒で目が焼けるほどの輝き。
それはかつて、コロニー・ウーチバラで全てが始まったあの日、ナオトがマユ・アスカと共にティーダの黙示録を起動させた時と、全く同じ現象だった。
違う点といえば、巨大な白い翼がその背部から、大きく拡がっていることだろうか。




青い海に突然生まれた、太陽の輝きを持つ巨大な翼。
その翼を中心に、空気は揺らめきはじめ──
ティーダを中心に熱せられた空気はやがて虹色の球体となり、激しい閃光と共に、一息に戦場へと拡大していく。
セイレーンの歌声を打ち消すかのような、鐘の音と共に。




 


PHASE-40 集結の刻へ




 

その異変をいち早くキャッチしたのは、ミネルバJrブリッジだった。
通信担当のアビーが、彼女にしては珍しく声を荒げる。
「艦長!
ティーダからのシグナル、確認しました。
ブックオブレヴェレイション・オーバードライヴ、照射確認!」
それを聞いたアーサーの横顔が、さらに青ざめたが──
しかしながら、彼は即座に指示を下す。
「電磁シールドシステム起動! 全軍にも伝達!
自軍のEMPにやられるような恥を晒すな!!」




ティーダの翼から発生した、虹色の光。
それは機体を中心にやがて波とかわり、海上を駆け抜ける。
当然、ティーダの上空も同様に、虹の波に覆われていく。
ガンダム・ティーダが元々持っていた、「ブック・オブ・レヴェレイションシステム」。
この虹色の波は、そこにザフトの最新技術による改良が加えられ、「オーバードライヴ」と名付けられたものだった。
今まさにティーダを攻撃しかかっていたダガーLの群れは、まともにその波に呑まれ──
雷でも受けた人間のような、痙攣にも似た激しい振動と共に、突然その機能を停止してしまった。
空中で動きを停止させられたモビルスーツがどうなるかと言えば、当然、墜落するより他にはない。
間もなく、サイたちの眼前で次々と、無力化したダガーLが盛大に波飛沫を上げて落下していった。
落ちていく機体のあらゆる接合部から、小さな稲妻のような光が見える。
「……まさか、EMPなのか? これは」
サイが思い出したのは3年前の、ザフトによるパナマ侵攻。
あの時、ザフトのEMP攻撃により、連合はモビルスーツを始めとする数々の兵装を完全に無力化され、壊滅的な被害を受けた。
サイが直接目にしたわけではないものの、その惨状については、今もたびたび話を聞く。
──今、それを、ナオトが使ったのか。
自分たちを助ける為だったとはいえ、サイはその力に恐怖している自分を感じてもいた。




「い……
嫌、嫌、嫌ああぁあああぁあっ!!!」
サイたちを追っていたアムル・ホウナも、この虹色の波にまともに呑まれた。
ある程度のEMP対策がなされていたとはいえ、こうまで至近距離で照射されたのでは、さすがのカオスγもその機能を30%まで落としてしまっていた。
これでは空中制御が精いっぱいで、とても戦闘などは不可能だ。
とはいえ、カオスγを包囲していたダガーLの軍団も、続々とコントロールを失っては墜落していく。
そして、アムル自身も──
「どこまでも、人を小馬鹿にして!
こんなものに頼るしかない、愚かなナチュラルどもが!!」
叫ぶたびに、さらに襲いかかってくる激しい嘔吐、痙攣、眩暈。
ティーダから生まれた鐘の音。
それは、セイレーンの歌声と重なって不協和音を引き起こし、アムルの頭蓋を割らんばかりに震わせていた。
それでも彼女は操縦桿を引き絞り、血走った眼でメインモニターを見据える。
サイ・アーガイルを探す為に。
自分が殺すべき、母親を探す為に──


──でも、アムルさん。
そこまでする必要、あるんですか?


何かがアムルの中で、悲しそうに呼びかける。
それはアムルが記憶の外に放り投げてしまった、気弱そうな青年の声にも似ていた。
しかしその時の彼女に、自らの心の声に耳を傾けるほどの余裕は、微塵もなく──
「私に話しかけるな、鬱陶しい!」
結果として、カオスγは再びその機首をもたげ、そのカメラアイは真っ直ぐにティーダに向いた。
不可思議な音波と電磁波の飛び交うこの戦場で、そこまでの行動が出来た者は、恐らく彼女だけであったが──
その時サブモニターで、味方のシグナルを示す、緑の表示が輝いた。
と同時に、機体全体を軽い衝撃が襲う。
捕らえられた?とアムルは感じたが、それは単なる錯覚にすぎず──
モニターいっぱいに映し出されていたのは、グフ・イグナイテッドの真っ青な機体だった。
数瞬して、スピーカから直接アムルに叩き付けられたのは、彼女の隊長たるヨダカ・ヤナセの怒声。
<何をしている、アムル! 撤退だ!!>
カオスγの左腕関節部を捕らえられながらも、アムルは必死で抗弁する。
「しかし隊長!
私はまだ戦えます! あの艦からの、卑劣な逃亡者を……」
だがヨダカは、彼女のいささか幼稚な言葉を冷酷に潰した。
<母艦が撃沈寸前でも、貴様はまだそう言えるのか?>
「えっ?」
<マウナロアからの信号も見えていなかったか。
今も艦はあの黒ダガー共の自爆攻撃を喰らっている、すぐに戻れ!!>
そこまで言われ、アムルはやっと冷静さを取り戻した。
ただし決して、ヨダカの命令に納得したわけではないが。
──畜生。
ここまできて、何故、サイ・アーガイルを諦めなければならないのか。
仕方がないが、まだチャンスはある。あいつが、生きている限りは。
頭痛と眩暈と無力さを噛みしめながら、アムルはヨダカに従うしかなかった。




墜落寸前だったカオスγを引きずるようにして滑空する、グフ・イグナイテッド。
そのコクピットで、ヨダカもまた、頭痛と吐き気、謎の不協和音に悩まされていた。
母艦マウナロアを護衛しつつ奮闘していたヨダカだったが、雲霞の如くわきあがるダガーLの群れ、そしてセイレーンからのマイクロ波攻撃に圧され、艦共々危険な状態に陥った──
そこに炸裂したのが、ガンダム・ティーダの新兵器である。
艦を沈める寸前だった黒い機体どもは今、無数の巨大な金属の塊となって、海面を漂っている。
ヨダカはカオスγの様子を確認しながら、今なお輝き続ける虹色の波の向こうを見定める。
──ティーダか。
これが、ミネルバJrで眠っていたはずの機体の仕業であることを、ヨダカは既に見抜いていた。
恐らくその力で、自分たちが助けられたことも。
しかし、今の彼に出来ることは何もない。
致命的な損傷を受けたマウナロアからは撤退命令が出されている。あの損傷では恐らく、ミネルバJrとの合流を待たずにカーペンタリアに逆戻りせざるをえないだろう。
何しろ、メインブリッジが直接被弾したというのだ。到底、これ以上の進軍が出来るはずもなかった。
味方機に撤退信号を出しながら、ヨダカもまた、悔しさを噛みしめるばかりだった。




「何、これ……!?
何かが、アタシの中にいる?」
ストライクフリーダム・ルージュの中で──
チグサ・マナベもまた、酷く特異な感覚を味わっていた。
アムルやヨダカを襲ったものほど強烈ではないものの、頭の中に生じた違和感。
それは、チグサが空の向こう、虹色の波を目撃した時からずっと感じていた。
──まさか。んなこと、あるわけない。
だって、あのガキんちょなら、アタシが殺したはずなんだ。
いや、正確にはアタシがとどめ刺したわけじゃないけど、確かにフレイが……
でも、何だろう?
アタシの中に、何かがいる。何かが、ざわめいている。
──あぁ、そうか。
多分、あの娘だ。
幼いながらもそれなりに持ち合わせている諦念で、チグサは何となく悟った。
あの光のせいで、アタシの中の「あの娘」が、目覚めかけている──
今までも何度か、ざわっとすることはあった。特に、街を焼いてる時とか。
気分が悪くなるわけでもなかったから、放っておいたけど。
サイドモニターから響く、フレイからの通信。
<チグサ、戻れ。
セイレーンでは対処出来ない電磁パルスを感知した>
「マジ?
それも、あの光のせい?」
<オギヤカやお前を、危険に晒すわけにはいかない。
一旦、ポイント02まで撤退する。そこから改めて北チュウザンに向かう>
「りょーかい。
一応、こっちの任務は果たしたわけだしね!」
言いながらチグサは、自機の両腕部に抱え込むようになった形のデスティニーを見降ろす。
そのコクピットハッチはまだ、開かれたままだ。
パイロットたるシン・アスカは、もう何ら怯えることもなく、真っ直ぐにこちらを見上げていた。
激しく靡く黒髪の間から見える、紅の瞳。さっきまで、あれだけ取り乱していたのに。
恐らく、こちらの真意を探るべく、乗り込んでくるつもりか。
その瞳はチグサに、キラ・ヤマトの瞳と似たものを感じさせた。
あの地獄の中で、静かな、そして激烈な怒りに染まっていたキラ・ヤマトの眼光と。
──久々にゾクゾクしたな、あの眼の色。
もっともあの時は、御方様があんなことをするなんて思いもしなくて、それで寒気がしたってのも、あるかも知れないけど。




鹵獲されたデスティニー。
そのコクピットで、シンは海風に晒されながら、ストライクフリーダム・ルージュを見上げる。
先ほどまで彼が見ていたステラの幻影は、何故か消え失せていた。さっきの虹色の波の影響だろうか。
──マユの姿をした娘が、何故あれに乗っているのか。
──そして俺は何故、あの機体にステラを見たのか。
少しばかり冷静さを取り戻したシンは、一つの決意を固めていた。
捕まってしまったなら、まぁ、仕方がない。
どうやら相手は俺を必要としているようだし、すぐに殺されるということはあるまい。
ならば、俺のやるべきことは決まっている。
マユとステラの幻を使ってまで俺をおびき出して、一体こいつらが何をしようとしているのか。そいつを突き止めることだ。
シンは不思議と、かなり割り切れてしまっている自分を感じていた。さっきまであれだけ錯乱していたのが、嘘のように。
──もしかしてこれも、あの虹色の波の影響か。
あの光を見てから、吐き気もおさまってきたし。
「結局俺、アスランと同じになっちまってるかな……
なぁ、レイ?」
戦闘中に女の幻で踊らされ、まんまと機体ごと捕まるとは。アスラン以下じゃねぇか。
レイに見られていたら、どれだけの失笑を喰らったことだろう。それとも、ゴミを見る目で俺を見下してたか。
しかしそれはさておき、今自分がやるべきことは見つかった。
それがどんなに、困難なものだろうと──
何も見つけられなかった昨日までの自分よりは、遥かにマシだ。
シンはそう言い聞かせながら、通信やデータのほぼ全てがエラーと成り果てているコンソールパネルを眺めていた。
ここで暴れようにも、デスティニーはルージュの掌で先ほどコンソールの一部を潰され、ほぼ無力化されてしまっている。
いずれにせよ、俺はついていくより他にない。
ただ一つ、気になることと言えば──
ルナは、大丈夫だろうか。
結局俺は、ルナとちゃんと仲直りもしないままだった。
俺が帰ってこられないと分かったら、あいつはどうなるんだ。いや、意外と平気かな。
多分、メイリンがいなくなった時ほどは錯乱しないだろう。
あいつには、ナオトだっている。
別に俺なんかじゃなくたって、あいつは誰だって──




ティーダコクピット内で、サイは冷静に状況を確認しようと努めていた。
忌まわしいダガーLの機動音も、全てを薙ぎ払う爆風も、どうやら静かになりかけている。
しかし、モニターで確認する限り、今のティーダはザフトの管理下にある。
そして、ティーダが帰還しようとしている母艦も、当然のようにザフト所属。
──俺たちは、今度はザフトに捕らわれるのか。
呼吸が落ち着いてきたカズイの様子を見守りながら、サイは言った。
「ナオト、頼む。
俺はまだ、やらなきゃならないことがある」
「そういえば、気になってました。
サイさん、あの艦から逃げてきたんですか? どうして?」
ナオトの声は、以前よりも何故か低く、大人っぽくなった気がする。
離れ離れになっている間に、変声期でも迎えたのか。
そんなことを考えつつも、サイは続けた。
「あれは、フレイの艦だ。
落ち着いて聞いてほしい。今から、俺が話すことを──」





北チュウザン首都・ヤエセ近郊。
今この地は、季節柄の暴風雨の真っ最中だった。
その上、ブレイク・ザ・ワールドの影響により、毎年恒例の豪雨はさらに勢いを増していた。河川の増水・氾濫が至る処で発生し、その復旧作業もままならない状態であった。
それでも、カガリ・ユラ・アスハの言葉を頼りに。
そして、サイ・アーガイルの名のもとに、意思ある人々は続々と集い──
新たなるアマミキョは、この地に復活を遂げていた。
とはいえ、船体そのものは以前のものと殆ど変わらない。アークエンジェルによく似た、トリコロールカラーを誇る威容もそのままだ。
それもそのはず──
メサイア攻防戦集結とほぼ時を同じくして、アマミキョと同型の船がモルゲンレーテ本社・オノゴロ島の地下深くで、既に完成していたのである。
勿論、当時チュウザンが関わっていた部分(主に、ティーダ運用に関する機能)はブラックボックスのままだったが、モルゲンレーテと文具団の技術は可能な限り、元のアマミキョの機能を再現していた。
もはや実験船ではない。本物の民間救援船・アマミキョが誕生した──
進水式で、モルゲンレーテと文具団の技術者たちは、そう喜び合ったものだ。
ただし、このヤエセで満足に稼働出来ているのは従来の7割程度といった状況で、未稼働の部分はオーブからのパーツ到着待ちという按配だった。
それはカガリによるアマミキョ再結集の指示が、いささか急だったことにも起因していたが──
しかし、現地の状況からすれば、その指示は決して早すぎたわけではない。むしろ、もう少しで手遅れになるところだったとも言える。
何しろ、オーブからアマミキョが到着するかしないかのタイミングで、南チュウザン軍の再侵攻が始まったのだ。
ロゴス騒動を経ても、アマミキョが沈没してさえも、未だ北チュウザンにおいて堅固な抵抗を続ける連合軍。
一度は本島北端まで追いつめられかけたものの、そこから連合軍は物量に任せて粘りに粘り、ヤエセを始めとする北チュウザンの拠点を次々に取り戻しつつあった。
その連合軍の協力を仰ぎつつ、到着したばかりのアマミキョは獅子奮迅の働きを見せ、住民の避難・救出・保護、医療活動、そしてインフラの復旧に努めた。
毎晩のように繰り返される南チュウザン軍の攻撃にも負けず、新生アマミキョクルーらはただひたすらに、市井の人々を救出するべく、隊長──トニー・サウザンの大声のもとに行動していた。
かつての、コロニー・ウーチバラにおけるアマミキョ緊急発進時のように統率が乱れることなど、最早殆どなかった。
いかなる現場においても、各人が自らの役割を全うし、また、新人にも的確な指示を行ない、失敗があれば即時サポートに回る。
その敏速さと献身ぶりは、連合の将校すらも目を見張った。
しかしそれは、かつてのフレイやサイ、リンドーの指導があったからこそのものだということを──
彼らを知る隊員たちは、決して忘れはしなかった。



カガリの命令のもと、アークエンジェルがヤエセ近郊に入港を果たしたのは、まさにそんな時だった。
当然、ここに到着するまでに、南チュウザン軍との戦闘は避けられなかったが──
アークエンジェルに新たに配備されたオーブ軍モビルスーツ・アカツキ。
そして、インフィニット・ジャスティス。
両機の活躍により、ヤエセを蹂躙しかかっていた南チュウザン軍を、何とか撤退させることは出来た。
アカツキを操るムウ・ラ・フラガと、連合の山神隊が、予想外にうまく連携が取れていたのも大きい。
しかし、次の攻撃が来るのは恐らく、時間の問題か。
「せめて、サイが無事であれば……」
海岸線修復のため、続々とアマミキョから出動していくアストレイをモニターで確認しながら、ミリアリア・ハウは呟いた。
今彼女がいるのは勿論、アークエンジェルのブリッジ。
メイリン・ホークと共に通信業務を行いながら、ミリアリアはメインモニターからの景色を眺める。
ここのところ、ヤエセではずっと同じ、酷い曇天が続いていた。
ちょっとでも外に出ればすぐに雨に降られ、頭からずぶ濡れになってしまう。暑いのは勿論だが、湿気も酷い。
その上、常に雲は低い位置でやたら分厚くたれこめていた。地上の大気を、強引に押しこめるように。
そのせいか、落雷の被害もあちこちで発生していた。大木を軽く薙ぎ倒してしまうほどの暴風も、日常茶飯事だ。
それでも、アマミキョの隊員たちは慣れた様子で、文句は殆ど出ていない。
しかし──次にいつまた、南チュウザンの攻撃が来るかも分からない。
さらに、カガリも指摘していた、南チュウザンの最新兵器の脅威。
その兆候をいち早くキャッチし避難活動に備えられるよう、ミリアリアも自らアークエンジェルに乗り込み、ここまでやってきた。
ラミアス艦長も、フラガ一佐も、隣にいるメイリンやチャンドラも、操舵士たるノイマンも整備士のマードックも、アスハ代表の出撃命令に殆ど何の文句もなく、皆意気揚々とチュウザンに乗り込んできた。
アスランは未だに、若干戸惑いがあるみたいだけど──それでも、ちゃんと仕事はしてくれた。
あの不気味な、偽ダガーLの大軍。恐らく20機を超えていたであろうそいつらが、ヤエセ都市部に迫る直前──
それをアスランは、5分もかからずに全て撃墜。おまけに、一つの破片も街に落としはせず、全てを山間部の塵にしてのけた。
あの神技は、決してターミナル最新鋭の機体だったからというだけではないだろう。
ただ──
キラ・ヤマトに、ラクス・クライン。
アークエンジェルの、最大の力となってくれる仲間。
その二人が不在というだけで、ミリアリアの心を言い知れぬ不安が襲ってくる。
カガリも当然必死で二人を探しているはずだが、未だにその行方は掴めていない。
ふと思い出すのは、別れ際にサイから放たれた、あの言葉。


──俺を要らないって言ったのは、君だろ。


──サイ。
貴方を振りきって、力に頼ってアークエンジェルに乗り込んだ私を、今も軽蔑する?
勿論あの言葉は、貴方の本心じゃないってことぐらいは分かってる。
でも、ちょっとショックだったのは確か。
本心かどうかは問題じゃない。ああいう言葉が、よりにもよって貴方の口から出てしまった、それ自体が私にとっては──


そんな物思いに耽りかけたその時、メイリンが彼女に呼びかけた。
「あの、ミリアリアさん。さっきから、妙な通信が入ってて……」
「え? どうしたの」
「秘匿回線からです。
意味が分からないんですけど、キラさんとサイさんの行方を知ってるというかたが──
って、わっ!?」
メイリンが最後まで言い終わらないうちに、思わずミリアリアは彼女を押しのけ、通信権を奪い取っていた。
「こちらアークエンジェル。この通信は何ですか?
何度も発信されるようであれば、通信妨害と見做しこの回線を──」
口では一応、匿名の通信に対するマニュアル的対応をしていたものの、ミリアリアの心は逸る。
この通信の向こうに、サイとキラがいるかも知れない──
そんなわずかな希望に縋ろうとするミリアリアの心に、通信の向こうの声はさらなる衝撃を与えた。
その声色、それだけで。
「──え?」
声を聴いた瞬間、ミリアリアの全身は凍りついてしまった。
どんなに心を揺さぶられようと、どんな切迫した状況であっても、何とか手と口は動かし続けていたのが、自分だったのに。


そんな──ありえない。
ずっと、いなくなったと思っていたのに。
3年前に、貴方は、いなくなったんじゃなかったの?
どうして。どうして。どうして──


通信を聞きながら俯き、震えだしてしまったミリアリアを、メイリンは不思議そうに見守っていることしか出来なかった。





オギヤカとザフトの戦闘は、セイレーンのマイクロ波、及びティーダの電磁パルスにより、両陣営とも損耗した結果、双方が一旦撤退を強いられた。
その約30分後──
ミネルバJrでは、インパルス及びティーダの帰還が確認された。
ブリッジでは、アビー・ウィンザーがモニターでインパルスとティーダの状況をチェックしつつ、艦長たるアーサーに報告する。
「駄目ですね……
通信妨害が激しく、カーペンタリアともコンタクト不能です」
「マウナロアは?」
「ヨダカ隊長から連絡が入りました。
メインブリッジまでやられたそうで、急遽カーペンタリアに戻らざるを得ないとのことです。カオスγもパイロットが負傷。
ガレラス、パパンダヤンも撤退する模様です」
「デスティニーはどうした?」
「それが……
やはり、シグナルロストのままで……」
「仕方あるまい。
シンがいなくなったと決まったわけでもない。ルナマリアが戻ってきたら、詳しい話を聞こうじゃないか」
顔を伏せてしまったアビーを励ましつつ、アーサーは思い切りうーんと背筋を伸ばしつつ眉間を揉んだ。
「となれば、ミネルバJrも一旦戻りたいものだが……
進行方向から考えて、奴らは恐らくこのまま北チュウザンを目指すだろう。
ならば、我々も行くしかあるまい。
カタパルトが損傷したとはいえ、上も旗艦たる我々を、そうそう簡単に戻してはくれまいよ」
そうでなくてもデスティニーを失った以上、おめおめ戻ってはどんな処分が下されるか、分かったものではない。
ただでさえ、元ミネルバの乗員たちは、暴走の末に失脚したデュランダル前議長のお抱えだったということで、今のプラントでは白い目で見られることも多い。
かなり無茶な地球降下及び北チュウザン進軍を命じられたのは、厄介払いの意味もあろうと、アーサーもアビーたちも半ば諦めていたものだ。
なのにこんなところで戻ったのでは、アーサーはもとより、乗員全員、ザフトでの立場がなくなる。
だからといって、エース機を失い、艦も損傷した状態で進軍が可能だろうか。チュウザンに到着してからの補給は──
「チュウザン領海付近ではあるが、ザフトがあのへんに急遽建設したメガフロートがいくつかある。
一旦そこへ向かうか……だが、あそこはやたらと小さいそうだからなぁ」
アーサーが思案にくれたその時、カタパルトデッキから再び通信が入った。
<おーい。聞こえるか、艦長?>
整備班リーダー、マッド・エイブスの声だ。アビーが応答する。
「どうしました、チーフ」
<それが、ティーダに妙な奴らが乗り込んでて……
ワケ分からんことを言い出してるんですよ>
その途端、アビーの横からアーサーも会話に割り込んだ。
「えぇ?
ティーダに、他の誰かが乗ってきたと?!」
<由々しき事態なのは分かってる。あまりにしつこいんで一発ぶん殴ったんだが、これが全く聞かなくてねぇ。
しまいにゃ、北チュウザン全域にさっきのマイクロ波が撃たれるとか言い始めて>
その言葉に、アーサーの顔つきが微妙にこわばる。
「分かった。
話をしてみよう、すぐ行く」
<ちなみに、負傷者も一名ついてきた。
そいつは他の怪我人と一緒に、医務室に運んどいたんでよろしく>
「ありがとう。手間をかけさせた」
アーサーは一旦自ら通信を切り、立ち上がる。
そして、不安げに彼を見上げるアビーに向かって言った。
「どうやら、珍客がこのミネルバJrに到着したようだ……
ちょっとカタパルトへ行ってくる。アビー、君も来るんだ」
「えっ?」
思いがけないアーサーの言葉に、さすがのアビーも戸惑いを隠せない。
そんな彼女に、アーサーは明らかに慣れていないウインクをしてみせた。
「君は優秀だが、まだ経験が浅い。
こういう時に場数を踏んでおくのも、良い勉強になると思うぞ?
バート、少しの間通信を頼む」
ミネルバにいた時、しょっちゅうグラディス艦長の隣で悲鳴や絶叫をあげていたのは、どこの副長だったか。
アビーは思わず心中そう突っ込んでしまい、そんな自分に自分で笑ってしまった。
彼女自身だけが笑いだと分かるような、笑いであったが。




インパルス着艦後、コクピットハッチを開いたルナマリアが最初に見たのは──
消火作業はようやく終わりかけているが、雪崩の直後のようにしっちゃかめっちゃかになっているカタパルト。
未だに燻り続けるダガーLの残骸の横に、着艦しているガンダム・ティーダ。
ティーダの足元を中心に、わらわらと集まっている整備士たち。
若干遠巻きにしてそれを見守っているヴィーノ。火傷でも負ったのか、ガーゼで頬が覆われている。左腕も包帯で吊られていた。
何故かそこには、艦長やアビーの姿もあった。
やたらと静まり返ったカタパルトデッキに、アーサー・トライン艦長の、意外に低い声が響く。
「すると、君は──
間もなく、コロニー・ウーチバラより北チュウザンにマイクロウェーブが照射されると。
そういうことだね?」
「──俄かに信じていただける話ではないことは、承知しています」
その輪の中心にいるのは、ひたすら床に額をつけて全身で土下座している男。どういうわけか、グレーのタキシード姿だ。
彼を守るようにじっと付き添っているのは、病院着姿のナオト・シライシ。
デッキ中に谺する、聞いたことのない少年の大声。「聞いて下さい、トライン艦長!
ティーダを勝手に動かしたのは謝ります。でも、サイさんたちには何の責任もないでしょ!?」


──あぁ。
何故だか全然分からないけど、ナオト、声が出せるようになったんだ。
こういう声だったのね。ちょっと、ヨウランの声と似てるかな。


メットを外しつつそれをぼうっと眺めながら、ルナマリアは自分が酷く無感情に、その現実を受け止めていることに気づいた。
ついさっきまでは、自分以外の誰ともろくにコミュニケーション出来なかった少年が、今はその声を取り戻し、艦長と堂々とやり合っている。
実に、喜ばしいことなのに。
喜ぶべきことなのに、何故今、自分の心は沈んでいる?
シンを失ったから──
大切な存在が目の前で捕らえられるのを、ただ、見ていることしか出来なかったから。
本当に、それだけ?


「頭を上げたまえ、君」
ルナマリアの思惑をよそに、アーサーの意外に通る声が響く。
その声でようやく、輪の中心の青年はその顔を上げた。
濃いめの金色の短髪に、ほんの少しずれた眼鏡から覗く青い眸が、インパルスコクピットのルナマリアからもよく見える。


──あの人、どこかで会った気がする。
それも、酷く嫌な記憶の中で。


アーサーの声。
「それを北チュウザンのアマミキョに伝える為に、オーブゆかりのベント家に連絡を取りたいと……」
「アマミキョだけではありません。
これは、連合・ザフト・中立問わず、北チュウザン及びその周辺にいる、全ての人々の危機です」
「事の真偽はともかく、君たちの言い分は理解した」
ナオトが必死に声を張り上げる。
「サイさんは嘘なんか言いませんよ、艦長!
信じてください!!」
「分かっている。
だが、ザフトとしては、このまま君たちを解放するわけにはいかない。
不可抗力だったとはいえ、君たちは軍の機密事項たるティーダ・Zに触れた。
これがどういうことかは、君なら分かるはずだ──
サイ・アーガイル君」
アーサーの言葉で、青年はじっと俯いて唇を噛む。
ティーダは元々オーブと文具団所有のものだったとはいえ、現在はザフトのセイバーガンダムにシステムを移譲した、いわば完全にザフトの最重要機密事項だ。
民間人が勝手に乗って、ただですむわけがない。
ナオトがさらに叫ぶ。
「そんな! 僕が勝手にサイさんたちを助けただけです!
サイさんは何も悪くない!!
そもそも、勝手にティーダをザフトのものにしたのはそっちでしょ!?
元々、僕らの機体だったのに!」
無謀なまでにアーサーに噛みついていくナオト。
床にほぼ伏せたまま、サイはそんなナオトを片手で制する。
「いいんだ、ナオト。
トライン艦長の言っていることは正しい。全くその通りだ」
「アマミキョを沈めた人たちですよ!?」
「それでも、だよ」
ルナマリアも薄々勘付いていたが、ナオト・シライシは元々、やたらとお喋りで血気盛んな少年だったようだ。元レポーターの経歴は伊達じゃなかった。
今まで声が出なかったが為に吐きだせなかった鬱憤を、ここぞとばかりに叩きつけたがっているようにすら見える。
それに対して、サイという青年はかなりの緊張を強いられているだろうに、冷静だった。
何とかナオトを宥めつつ、アーサーの出方を探ろうとしているように思える。
──アマミキョを沈めた人たち、か。
仕方ないと言えば仕方ないけど、そういう風にしか見られてなかったのか。私たち。
ルナマリアの胸で、何かがズキッと痛む。
だが、次の瞬間──
誰も想像だにしなかった言葉を、ナオトは吐いた。


「お願いです、信じてくださいよ艦長!
サイさんは誠実で勇敢で、何に対しても一生懸命で、誰かを裏切るなんてするわけない!
だって、何たって、アークエンジェルにも乗ってた英雄なんですから!!」


ナオトがこの言葉を吐いたその刹那──
場の空気が、一気に凝固した。
会話を聞いていただけのルナマリアも、思わず身体を震わせる。
──アークエンジェル。
それはミネルバの元乗員たちにとって、最も忌々しい単語に違いなかった。
当然である。理由もよく分からないままにミネルバはアークエンジェルに攻撃され、戦闘に割り込まれた結果、ハイネを始めとする多くの仲間を失った。
彼が生き残っていれば、シンやアスラン、レイたちのその後の運命も、もしかしたら変わっていたかも知れないのに。それだけの求心力を持った、大切な仲間だったのに。
しまいにはミネルバ自体がアークエンジェルに沈められ、グラディス艦長も、レイも、そして──


その時、カタパルトデッキに、怒りに満ちた絶叫が響き渡った。
「畜生が!!
お前の!! お前らのせいで、ヨウランは!!!」
誰よりも先にその場を貫いたのは、ヴィーノの怒声。
まともな意味をなさない叫びと共に、彼はサイに飛びかかる。
力いっぱい握りしめられた右の拳が、情け容赦なくサイの頬を直撃した。
眼鏡と共に、サイの身体が背中から床に吹っ飛び、その腹を踏みつけるようにヴィーノが馬乗りになる。
「やめるんだ、ヴィーノ!」
一歩遅れて状況を把握したアーサーの声が響くが、感情を爆発させたヴィーノはもう止まらない。
その目は、普段の快活な彼からは想像も出来ないほど剥き出しになり、憤怒に染め上げられていた。
迸る涙と共に、サイに叩きつけられる怒声と拳。
「お前らのせいで、ヨウランは両腕失くしたんだ!!
今もあいつは、意識戻らないまま、ずっと病院で寝たっきりで……!!」
その後は涙声になり、ろくな言葉にならない。



──このヴィーノの変容に、最も驚いたのは他でもない、きっかけを作ったナオト本人だった。
サイの後押しをする為に、全くの善意から発したはずの言葉。
それがまさか、こんな事態になってしまうなんて──
ナオトは思わず、助けを求めて周囲を見回す。
誰か、誰か助けて。一体どうして、こんなことに?
しかし、自分たちを見るミネルバJrクルーの眼は、先ほどよりもずっと冷酷だった。
ナオトを気遣い、ティーダへの搭乗を一旦は止めたマッド・エイブスさえも、ヴィーノの行為をじっと見守っているだけだ。
中には、鼻で笑いながらサイを眺めている者さえいる。
──そういえば、僕は何も聞いてなかった。
ルナさんたちの元の母艦たるミネルバが、どうして沈んだのかを。
いなくなったヴィーノさんの仲間がどうしているのかも、何も。
三発目の拳を受けるサイを目の前に、ナオトは弱々しく叫ぶことしか出来ない。
「や……やめて、ヴィーノさん!」
復活したばかりのお得意の大声も、ヴィーノの激昂を前にしては、蚊の鳴くような悲鳴にしかならなかった。



殴った。力の限り、殴った。
こんなもんであいつの腕が、あいつが、戻ってくるわけがない。
そう分かっていても、殴らずにいられなかった。
ミネルバを墜とされ、仲間を失ってから、ずっと燻っていた無念。
思い出すのは、病床で未だ目覚めず、呼吸器をつけられたままのヨウランの無惨な姿。
首元あたりから白い毛布がかけられた身体。
両肩から下の部分には、当たり前にあるはずの膨らみがなかった──
その光景は今も、ヴィーノの心をじりじりと焼く。
ある程度の時間を静かに過ごし、諦念に変わるのを待つしかないと思っていた、この怒り。
──でも、今、不意に、怒りをぶつけられる対象が現れた。
アークエンジェルに、乗っていた男。
その意味を深く考える前に、身体が動いてしまっていた。
目の前の相手を殴ったって、どうにかなるわけがない。
だけどそれじゃ、この衝動的な怒りは、どこへ持っていけばいい?
──畜生。
動かない左腕が邪魔で、拳にすら力が入らない。眼鏡を吹っ飛ばしただけか。
その時ヴィーノの視界に入ったのは、何故か不自然に黒く染まっている、サイの左袖。
──拳が駄目なら、せめて。
ヴィーノはほぼ何も考えず、力まかせにサイの左肩を掴む。
何で、お前なんかの腕がちゃんと揃ってるんだ。ヨウランは両腕失くしたのに!
指先に怒りをこめ、ありったけの力で握りしめた。骨まで砕けろとばかりに。


途端──
それまで冷静だったはずの相手の喉から、凄まじい絶叫が迸った。
ほぼ同時に、その肩を掴んでいたヴィーノの指が、真っ赤に染まる。
明らかに布でも肌でもない、一定の温度を持つ粘土のようなものに指がめり込んだ感覚が、伝わってくる。
「え……っ?」
そんな馬鹿な。いくら俺がメカニックだからって、こんな簡単に、挽肉みたいに腕が潰れるなんて、そんな馬鹿なこと。
ヴィーノの手から力が一瞬抜けた、その刹那。
「やめなさい!」
予想もしないところから飛んできた声と共に、ヴィーノの、火傷をしていない側の頬が思い切り、張られた。
「な、何すんだ!」
反射的に顔を上げると──
ヴィーノとサイの間に、どういうわけかアビー・ウィンザーが割り込んでいた。倒れたままのサイを庇うように。
酷く荒れた呼吸と悲痛な呻きが、サイの喉から漏れていた。腕を押さえるその指からは大量の血が流れ出し、床をじわりと染める。
大慌てでそこに駆け寄るナオト。
「サイさん! しっかり、しっかりして、サイさん!!」
泣きだす寸前の子供のようなその横顔を見ながら、ヴィーノは完全に放心してしまった。
──今、俺、何をした?
ティーダに乗ってまで、ナオトが必死で助けようとした奴を、俺は──
アビーの、青みがかった灰色の瞳が、明確な怒りを湛えながらヴィーノを睨む。
「ヴィーノ。お願いだから、冷静になって」
「何でだよ?
アビー、そいつはミネルバを……」
「話がおかしいとは思わなかったの?
この人自身から説明があったとおり、彼はアマミキョの副隊長でしょう。
我々が彼の恨みを買うならともかく、逆はありえないはずよ」
「で、でも……」


何でだよ。
何で、そいつを庇うんだ、アビー。
アスランの野郎を庇ったメイリンみたいに、何で!!


彼の慟哭に追い打ちをかけるように、アーサーの言葉が流れた。
「今回のチュウザンの騒動に対処するにあたり、我々はフレイ・アルスターの件も出来る限り詳しく調べた。
それによれば──サイ・アーガイル。
君は確かに、アークエンジェルに乗っていたそうだな。3年前らしいが」
「……はい」
ナオトに支えられて身を起こしながら、サイはこくりと頷く。
声を出すのもやっとの状態らしく、玉のような汗が額から噴きだし、顔色は真っ青だった。


──3年前?
じゃあ、今のは、完全に、俺の勘違い?


茫然とするヴィーノを前に、アビーはさらに言う。
「そうであれば彼は、我々が交戦した時のアークエンジェルとは無関係なはずです。
それに、艦長。
彼が率いたアマミキョの隊員たちの中には今も、プラントの復興のために尽力している方々がいます。
その知識と技術力の高さは、艦長も一度はご覧になったはず。
彼らを導いたサイ・アーガイルの言葉ならば、信用に足るものと私は考えます」
普段の言葉少なさが嘘のように、アビーはサイを援護する。
彼女の、良く言えば冷静、悪く言えば不器用な性格を知るクルーたちは戸惑い、ざわめきだしていた。
思いがけない部下の行動と発言に、アーサーはまたしても眉間を揉んでいたが──
やがて、静かに彼女に尋ねる。
「アビー。個人的な件に立ち入るようなら、申し訳ないが──
君がそこまで、彼を信じる理由は何だい?」
彼女は一旦顔を伏せかけたが、すぐに毅然とした態度でよどみなく答えた。
「私の幼馴染は、ハーフムーンでアマミキョに助けられました。
最後に会ったのが6年前なので、今は13歳ぐらいになると思います……
村が壊滅状態になり、周りの大人たちも皆負傷して動けなくなったところを、アマミキョが迅速に収容し、何とか助かったそうです」
淡々と語るアビーの横顔を、今度はサイとナオトが驚いたように見つめる。
いつしかクルーたちのざわめきはなくなり、カタパルトデッキに再び沈黙が訪れた。
響くのは、アビーの言葉だけ。
「村や多くの知人を失ったその時、自ら血まみれになっても笑顔で励ましてくれたのが、アマミキョ副隊長だったとのこと──
メサイア戦後に、私は彼女からの手紙でそれを知りました。
未だに、返事は出せていませんが……」



返事が出せないのも当然だろうと、ルナマリアは思った。
ミネルバはアマミキョを沈めたのだから。この私の手で、撃って。
ワイヤー伝いにインパルスのコクピットから降りたルナマリアだが、どうも輪の中に加わる気になれず、ふとハンガーの隅に視線を移す。
──あそこには、ついさっきまで、デスティニーがいた。
私が帰還する時にはいつも、当たり前のようにあったはずのシンの機体。
──ハンガーって、こんなにだだっ広かったかな。
そんな彼女の耳に、またアーサーの声が響く。
「分かった。
だが、アーガイル君。君を信用するのと、君をここで解放するのとは、また別の話だ」
そして改めて、アーサーはサイたちに向き直った。
「君たちの身柄は、先ほど収容した負傷者も含め、暫定的にこちらで預かる。
そして──
ミネルバJrはこのまま、北チュウザンに進軍する」
ここで下された、艦長たるアーサーの決断。
その言葉に、アビーもヴィーノも、ルナマリアまでもが青ざめた。
デスティニーもないまま、進むというのか。ジェネシス級の破壊が待ち構えているやも知れない、北チュウザンに。
それでもなお、サイは抗う。血の流れ続ける腕を押さえながら、必死に頭を下げて。
「お願いします。
自分は、もう二度と、誰も死なせたくないんです。今すぐに、自分を行かせてください!
住民だけじゃない、アマミキョだけじゃない。貴方がたも危険なんです。
ザフトにも連合軍にも、全員に退避勧告をします。命の続く限り、全員を助けます!!
アマミキョの救出が成れば、プラント復興にも出来る限りの人手を回します。
だから……!!」
全身で叫び続ける彼は最早、ルナマリアから見てもはっきり分かるほど疲労困憊し、目の下の隈まで色濃く見えている。恐らく発熱もしているだろう。
「失礼」そんなサイの前に、目線を合わせるようにしてアーサーは片膝をつき、腰を落とした。
「出来るかどうか分からない約束なら、しない方がいい。
ザフトは、損得勘定で物事を見るような人間ばかりじゃない」
「しかし……」
激しい呼吸で咳き込みそうになりつつも、サイはなおも話を続けようとする。
そんな彼の足元に落ちていた眼鏡。それをアーサーはゆっくりと拾い上げ、サイの手に返した。
思いがけない相手の行為に、一瞬ぽかんとしたサイは言葉を止めてしまう。
そんな彼の、負傷していない方の肩に、ゆっくりと置かれるアーサーの手──
もう大丈夫、と言いたげに。
「落ち着きたまえ。
君は自分だけで、何もかもを背負い込むつもりかい?」
予想もしなかったアーサーの行動と言葉に、サイは勿論、ナオトもアビーもヴィーノも、アーサーを一斉に凝視してしまっていた。
そんな彼らの視線を全く気にも留めず、彼は静かに語る。
「アビーの話で、君は信頼に足る人物だと私は判断した。
だから君も──我々を、信頼してほしい。
君の経歴から考えると、少し難しい話かも知れんが」
どういうことなのか、説明してほしい。
そう言いたげなサイに、アーサーは咳払いをし、大きく一つ息をついた後、告げた。
「我々ミネルバJrはこれより、北チュウザンに居住及び滞在する、全ての人々の救出へ向かう。
軍属かどうかは関係ない。全ての人々を、だ。
君がオギヤカで手にした情報も、可能な限り迅速に、全軍に発信させる。
いや、全チャンネルを使い、民間にも発信しよう。
だからもう、武器も持たずに危険な空域に飛び出すような真似は、しなくてもいいんだ」
「艦長……!」
サイよりも先に、アビーが思わず声を上げる。
その声色には、彼女には珍しく、明らかに歓喜が混じっていた。
クルーたちは艦長の決断に一瞬だけ戸惑い、互いの顔を見回していたが──
それをまとめるように、マッド・エイブスがぱんと手を叩いた。
「さぁ、迷っている時間はないぞ。
艦長がこう決めた以上、我々のやることは決まってる!
あのクソったれなマイクロ波が宇宙から撃たれる前に、一刻も早く北チュウザンへ向かうこった!!」
そんな整備班チーフの声と共に、クルーたちは興味本位の眼でサイたちを眺めつつも、とりあえず輪から離れて持ち場へ戻っていく。
後に残されたのはアーサーとアビー、茫然としているサイとナオト。
そして、ただじっと突っ立って、血に染まった手を眺めているヴィーノ。
さらに、その輪から取り残されているルナマリア。
ようやく状況が掴めたのか、完全に熱にうなされた声で、サイは礼を言う。
「あ……
ありがとうございます!! このご恩は必ず……」
そこまで言いかけ、突然サイの身体は、ぐらりと大きく揺れた。
アーサーとナオトがすぐに支えていなければ、彼は硬質の床に思い切り側頭部をうちつけていただろう。
アーサーがサイの背中を抱きとめたと同時に、彼の黒服の袖も真っ赤に染まる。
それでもアーサーは、ちょっとおどけつつもアビーに指示した。
「あっちゃあ〜……せっかく珍しく、カッコよく決まったと思ったんだが。
アビー、また医務室の手配を頼む」


 

 

Bpartへ
戻る