──ねぇ。
ねぇ、サイ。早く起きてってば!!



目を覚ますと、最初に見えたものは──
眩しくて頭が痛くなるほどの、青空。
そして、自分を見おろす、紅の髪の少女。
特徴的な灰色の瞳は、じっと優しくこちらを見つめている。



「え……?
フレ……イ??」



先ほどまでの雨と黒雲が嘘のように、晴れ渡った空。
輝くばかりの太陽。
清々しい草の匂いが鼻をつく。



──あれ?
俺はさっき確か、ラクスさんとキラに捕らえられて……
その後、どうした?



ぼんやりする頭を押さえながら、サイはゆっくり身を起こす。
眼前のフレイは、いつか北チュウザンで再会した時と同じ、水色のフレアーワンピースを着ていた。
よく見ると自分のタキシードも、油まみれの真っ黒ではなく、元のグレーに戻っている。
身体中にこびりついていた血や泥も、すっかり消失していた。
サイが寝ていたのは、ひどく明るい緑の草原が一面に広がる丘。あまりに明るい緑で、目が痛いくらいだ。
見回してみると、色とりどりの花があちこちに咲き乱れ、丘の頂上には、白い石造りのアーチの下に飾られた金色のベルが見える。
すぐ足元に咲いた、蛍光色に近い桃色の花を見ながら、サイは思った。



──何だ、この花?
この地域で、こんな色の花は見たことがない。
というか、図鑑でも見覚えがない。
まるで……



「サイ! いくら何でも寝坊しすぎよ。
早く行きましょ、下でみんな待ってるわ!」
朗らかに声を上げて笑いながら、嬉しそうにサイを眺めるフレイ。
──何も知らなかった3年前の彼女と、全く同じに。



彼女はそのままサイの手を取り、草原にきれいに敷き詰められた石畳を降りていく。
さっきまでの身体の痛みはどこへやら、サイも彼女につられるように立ち上がり、歩き出した。
「フレイ……あの、どこだい、ここは?
君は一体……」
「だいじょーぶ。そのうちサイにもちゃんと分かるから!」
鬱陶しい湿気を含まず、かといって酷く乾燥してもいない、優しい風が頬を撫でる。
暑くも寒くもない、人肌にちょうどいい大気。それは、コロニー内の調整された空気にも似ていた。
丘を降りていくとやがて、整然とした小さな街が見えた。
道路はまるで碁盤のように一定の間隔で平行に通され、複雑な多差路は一切ない。誰が入り込んでも迷うことはなさそうに見えるが、どこも同じような構造の道路が余計人を惑わせるようにも思える。



そんな街を、フレイと一緒に少し歩いていくと──
決して大きくはなく、こじんまりとした白いレンガ造りの家々が、大きな広場を中心に広がっていた。
広場の中心に堂々と飾られているのは、ひときわ大きな噴水。
美しい空に勢いよく噴きあがる、清浄な水。
そこには多くの人々が集まり、それぞれの時間を思い思いに楽しんでいるようだ。



恐らく俺は、現実には存在しえない幻か夢を見せられている──
何とかそう認識することは出来たものの、今のサイは状況を観察することぐらいしか出来ない。
行き交う車や電車などはほぼなく、あってもたまに、何かの配達をしているらしき自転車が横切る程度。それも、サイから見るとひどくゆったりとしたスピードであった。
そして、サイの目に異様に映ったのは──
噴水の周囲に、かなり多く配置されたベンチ。
「フレイ。ここは舞台か何かかい?
サーカスでも来るのか、ここは」
「え、どうして?」
「ベンチがやたら多いな、と思って」
「えー? ここはただの広場よ。確かに時々催し物があって、歌手志望の子が歌を歌ったりはするけどね」
「ただの、か……」
よくよく見ると、ベンチにも人は座っているが、それ以外の場所にも──
かなりの人数が、地べたに直接座り、のんびりと日向ぼっこをしているように見える。
石畳の上に座布団を敷き、カップルでべったりしている者。
店らしき建物のすぐ前に堂々と陣取り、物憂げに本を読み耽る者。
中には、道路の真ん中で昼間から堂々と寝そべっている者までいた。
明らかに下着が見えていても、それを笑ったり咎めたりする人間はいない。
そんな光景を見ながら、フレイは笑う。
「いいでしょう?
この街、どこで何をしていてもいいの。いつでもどこでも、皆、思い思いの時間を過ごせる。
今日はのんびりしたいなーと思ったら、一日中ここでお茶しながら日向ぼっこしててもいいのよ!」
そんなフレイの言葉にも、サイはどことなく違和感を感じつつ、言った。
「夜はいいのか?
浮浪者のたまり場になるだろう」
それを聞いて、フレイは信じられないと言いたげにサイを見つめる。
「それの何がいけないの?」
「え?
何が、って……」
「夜の景色が好きだから夜に広場に集まって時間を過ごす、それの何がいけないの?」
「いや、だから、その……フレイ?」
「そもそも、貴方が言う浮浪者なんて、ここにはいないわ。
他人の持っているものを羨んで盗みをはたらく人間は、ここには存在しない。
他人の才能を羨んで殺人や暴力沙汰を起こす人間は、ここには存在しない。
住む場所も働く場所もお金もなく、誰かから奪わなければ生き残れない人間は、ここには存在しないから」



──どういうことだよ。



戸惑いながら、サイが周囲を見回すと──
噴水の端に腰かけて幸せそうに頬を寄せ合うカップルが見えた。
あれは──
「トールに、ミリアリア……?
何であいつら、ここに?」
「あぁ、いたいた。ミリィー!」
彼らに気づいたのか、フレイははしゃぎながらそちらへ走っていく。
「トール、もうお仕事終わったの?」
「うん、やっとだよ〜。やっぱり1週間に2日も働くなんて、キッツイよなぁ」
「またぁ、そんなこと言っちゃって。私なんかこの前、3日も連続で道路掃除したんだから!」
駆け寄るフレイに、屈託なく微笑むトールにミリアリア。
──だがサイはそこで、何となくこの世界の違和感の正体に気づきはじめた。
「なぁ、フレイ……
そういえば、ここの奴らって、仕事は?
ここにいる人間は、仕事はしていないのか?」
しかしフレイのかわりに、ミリアリアが心底驚いたといった顔で答える。
「え? サイってば、まだそんなこと言ってるの?
人は生きてる限り働かなきゃいけないなんて、100年前に滅びた常識でしょ?」
眉根を寄せながら、怪訝そうにサイを見つめるミリアリア。



──違う。彼女はミリアリアじゃない。
ミリアリアだと思いたくない。



サイの中で、何かが酷い警告を発する。
それに追い打ちをかけるように、トールがひらひらと手を振った。
「あぁそうか。サイはこの街、初めてだもんなー。
ここじゃ、労働なんて概念、ないも同然なんだよ。
要は、働かなくても生きていけるってこと」



──どういうことだ。
働かなくても大丈夫だと?



戸惑うサイに、フレイが寄り添って耳打ちする。
「もう少し詳しく言うとね……
ある程度は、仕事をするように政府から言われるの。だけどそれは、今トールも言った通り、せいぜいが一週間に2日ぐらい。
それも、自分で仕事を探すような面倒もなくて、政府から勝手に割り当てられたお仕事の中から、好きなものを選べばいいようになってる。
私なんか先々週、あそこのパン屋で働いてたのよ!」
ちょうど噴水を挟んで正面あたりに見える、赤茶けたレンガ壁が印象的なパン屋を指差すフレイ。店からは、いかにも美味しそうなパンの焼ける香りが漂ってくる。
「フレイのパン、殆ど焦げてたけどねー」
笑って言うミリアリアに、フレイは膨れながら口答えする。
「でも、殆ど苦情なんかなかったのよ? みんな焦げてても美味しいって言ってくれたし!」
「苦情ってフレイ、それも100年前の話だろー?
今は誰も、文句言う奴なんかいないんだって〜」



どうなっているんだ。
一体どうなっている、この街は?
サイは次第に、自分がいる場所への違和感を強めていく。
それは嫌悪というべきものにも似ていた。
「いや……待ってくれ。
それじゃここの連中は、どうやって生活してるんだ?
今の話を聞く限り、収入はどうしても限られてくるだろう?」
「なぁんだ、そんなこと?」
サイの言葉に微笑むミリアリア。フレイが朗らかに説明する。
「だから大丈夫だって。
そういうの、ずっと政府から支給されてるから、心配ご無用!」



彼女の説明はかなりざっくりしていたが、サイはおぼろげながらも理解しつつあった。
ということは──
人々の収入も仕事も、全て政府が完璧に保障している世界だということか。



「そういうこと」
サイの背後から、突然小さく声がかけられる。振り向いてみるとそこにいたのは、分厚い本を抱えたカズイだった。
「働きたいという意思があるヤツには、ちゃんと仕事が与えられる。
個人の適性も、遺伝子データの管理によりちゃんと把握されてるから、仕事が合わずに苦しむなんてこともない。
生活するに十分なお金は支給されるから、重すぎる労働で、倒れるほど働かされるようなこともない」
「カズイったら、やーねぇ。
倒れるまで働くなんて、それこそ100年前の話でしょう?」
フレイの指摘に、カズイはちょっと頬を赤らめながら得意げに本を突きだした。
「俺、昔の労働事情の研究もしてるから……」
ミリアリアが興味深げに、トールと顔を見合わせた。「そーね。カズイって、地味だけど面白そうな研究、好きだったもんねー」
「昔なんて酷かったらしいよ。
どんなに暑くても寒くても、満員電車に毎日詰め込まれて、2時間以上かけて職場に行くなんてのが当たり前で……
しかも早朝から深夜まで、12時間以上連続で働かされることもザラだったって」
トールが大仰に驚きながら突っ込んだ。「えぇ、マジ!? 完全に奴隷の世界だなー。
俺たちなんか、職場まで歩いて20分かかるってだけでも勘弁。もっともそんな仕事、割り振られるわけもないけど」
「そもそも電車なんて、旅行に行く時ぐらいしか使わないしねー」
「暑かったり寒かったりしたら、休むのは当然だしねー。てか、休めって言われるしねー」



カズイの話から、サイは少しずつ冷静に事態を把握し始めた。
ここは、デュランダル議長のディスティニープランが、完全に実現した世界なのか。
全ての人間が遺伝子により管理され、仕事と収入を与えられ、争いも不和も発生せず、何不自由なく暮らすことが出来る世界。
しかし、デュランダルの計画は破綻したはずだ。キラたちの蜂起によって。
未来を決めるのは、人の自由意思によるものだと──
そう信じて、キラとラクスはデュランダルを討ったのではなかったか。



サイがふと視線を外すと、噴水付近でたむろしているカップルの中には、ナオトやマユまでがいた。
ナオトと微笑みあうマユのそばには──死亡したはずのカイキ・マナベの姿もある。
しかも、あれだけナオトといがみ合っていたはずのカイキは、マユと一緒にナオトの頭までもわしゃわしゃ撫でながら談笑していた。 まるで、本当の妹と弟を愛でるように。



──確かに、カイキにはああなってほしいと、俺も思った時期はあるけど。
しかし、今となっては虚しい願いだ。
そういえば……



彼らを見ながら、サイは気づいた。
この世界の抱える、違和感の正体に。
出来るだけ冷静さを保つよう努力しながら、サイはフレイに尋ねる。
「盗みや無駄な争いをしなくても、生きていけるのは分かったよ。
だけど、人同士の争いはどうやったって発生するだろう」
そんなサイの言葉に、フレイだけでなく、ミリアリアたちもしんと静まる。
「誰かの才能を羨んだり。
自分にはない何かを求めて苦労したり。
到底叶いもしない夢を見て、何とか努力してみたり。
人より多く稼ぎたくて、がむしゃらに働いてみたり。
それは言葉を変えればただの徒労で、虚しいことかも知れない。
時にはそれが原因で、略奪が起こることもあるだろう。
そういうことは、この街ではありえないのか?」



サイの言葉の意味が分からない──というように、ミリアリアたちは顔を見合わせる。
それでもサイは、いつしか感情的になり言葉を重ねていた。



「例えば、縄張り争いとか。好きなヤツを取り合ったりだって……
それは人間だけじゃない。動物にだって起こりうることだ。
生々しい話だけど、優秀な遺伝子を残す為に……」
そう言いかけて、サイははっとして口を噤む。
フレイの灰色の瞳が、彼をじっと凝視していた。
その唇が、静かに開く。
「全ての人間が、争いを生まないように、完璧にコーディネイトされたとしたら?
もうそんなこと、考える必要はなくなるんじゃない?」



かつてコーディネイターをあれだけ忌み嫌ったフレイ。その彼女の口から出た言葉とは思えない。
しかしそれ以上に、何かが酷くサイの中で暴れ出す。フレイの言葉を拒絶する何かが。
「ありえないよ。
それが出来ないから、今、俺たちみたいに際限ない争いが繰り返されているんじゃないのか?
出生数の問題もクリア出来ていないのに、人間がそこまで遺伝子をどうにか出来るわけがない。少なくとも、俺が生きている間は」
「じゃあ、人の意識を変える道具を作ってしまえる人間が現れたら、どうかしら?」



何を言っているんだ。
政策でも科学でも人を縛れないなら、意識自体をコントロールしてしまえばいいって?
まさか、それが──それこそが、セレブレイト・ウェイヴなのか。



戸惑いを隠せないサイに、フレイは微笑みかける。
「サイの言うこと、分からないわけじゃないのよ。
ひとつ願望が叶うと、だいたい人間って、その先を望むんだよね。
今日一緒にお喋りできたから、明日は一緒に帰りたい。その次は一緒にお茶したい、あわよくばその次は……って。
それが出来なくなると、人は不満を感じる。不幸を感じる──
でも、もう人は、そんなことに苦しまなくてもいいの。
変わりたいという願望に、変われない自分に、苦しまなくてもいいの。
だってもう、人は──変わらなくてもいいんだから」





「だってさ、ルナ。
いい加減、人間って、進化しすぎたと思わないか?」
サイがフレイたちによって惑わされている頃──
同じ空間に紛れ込んだルナマリアもまた、シンに同じ言葉を告げられていた。
ザフト服ではなく、普段のラフなパーカーに着替えたシン。
ルナマリアたちにいつも見せているような険しさは微塵もなく、ただただ脳天気にチョコミントのアイスを頬張っている。
確かに、こういう穏やかな顔のシンの方がルナマリアは好きだが──
それにしても、気が抜けすぎではないか。私服とはいえ、服装もどこかだらしなく、着崩したジーンズの腰のあたりからは臍までが覗いている。
ファッションでそうしているのではなく、本人の怠惰でそうなっているように見える。
「シン──何、言ってるの?
人間が、進化しすぎた?」
何が起きたかすら理解出来ず、眼前のシンを見つめるしかないルナマリア。
「そうよ、お姉ちゃん」
シンの背後から、ひょいと顔を出す赤毛のツインテールの少女。
「メイリン!? 貴方まで、どうしてここに──」
「ここが、人の理想の世界だから。
進化しきった人類だけが行き着くことの出来る、究極のユートピアなの」
はしゃぎながらルナマリアの腕を取るメイリン。
随分久しぶりに、妹に甘えられている気がする──
ルナマリアは一瞬そう感じたが、続いて彼女の口から発された言葉に、戦慄を覚えざるをえなかった。
「ねぇ、お姉ちゃん。考えてみて。
人が自らを滅ぼすことが出来るまで、人は進化してしまった。
それだけでは飽き足らず、生まれた時点で人をカスタマイズ出来るレベルにまで──
それは、人の進化はもう、行き着くところまで行き着いてしまったということなの。
手紙以外で通信が出来なかった時代なら、人の進化や文化の発達、新たな発明は絶賛されてきた。
でも、今は違う」
「違うって、何が?
まさかメイリン……貴方まで、働くのはイヤだとか駄々こねるつもりじゃないでしょうね?」
姉のそんな言葉に、明らかに眉を顰めるメイリン。
彼女を庇うように、シンは言った。
「他の誰より先に行きたい。
あいつを超えたい。どうしても手に入らないなら、奪ってしまいたい。
今日ここまで出来たんだから、明日はもっとやれるはずだ──
それは確かに、人なら誰もが持つ欲求だった。
でももう、そんな欲は歓迎されない時代になったんだよ、ルナ。
だって、先に進もうっていう夢や欲望は、ヒトの進化に──
人が人を滅ぼす大戦争に繋がるからな」
「短絡的すぎない!?
それに貴方が、それを言うの? シン!
貴方はオーブを討って、フリーダムを倒すって、あれだけ頑張っていたじゃない!」
「その結果、俺、どうなったっけ?」
笑みを消しながら、静かにシンは呟いた。
そう言われると、ルナマリアも何も言えない──
フリーダムに敗れ、ミネルバを失い、レイを失い、人生の目的と言えるもの全てを失い、ただ荒れるだけ荒れたシンを知っている彼女には。
「なぁ、ルナ。
人の進化がいきなり滅亡とかにつながるってのは、確かに短絡的だとは思う。
でもさ──俺、正直、疲れたんだよな」
「……は?」
「俺、思うんだ。
誰かに勝ちたいとか、憎い相手をやっつけたいとか──
そんなこと考えずに過ごせていたら、もっと楽に生きられたんじゃないかって」



どういうことなのか。
シンの言葉とは思えない。
私は幻でも見ているのか。いや恐らく、これは幻なのだろう。
こんな世界が、あるはずがない。あっていいはずがないから。



「シン──メイリン?
貴方たち、一体どうしちゃったの?」
あまりにも変わり果ててしまったシンとメイリンに、動揺を隠せないルナマリア。
そんな姉に対し、メイリンは笑いながら言う。
「そんな顔しないでよ、お姉ちゃん。
ここはお姉ちゃんの望みだって、いくらでも叶えられる世界なんだよ?
アスランだって、私たち二人のものに出来るんだから!」
ルナマリアの表情を下から覗き込むように、悪戯っぽくウインクしてみせるメイリン。
その唇は、よく見ると薄紅のルージュで艶っぽく濡れていた。
姉の自分の目にさえ、よく熟して甘い水の滴る果実のように見える。
「今日はちょっと無理だけど、明日だったら譲ってあげるよ。アスランを」



分からない。
シンとメイリンの言っていることの殆ど全てが、ルナマリアには分からない。
アスランを、二人のものに出来る?
しかもそうすることを、シンまでが当たり前のように受け入れている?
おかしい。おかしい。おかしい──!!





「何だって……?」
ルナマリアと同様、意味は通じるが内容が理解出来ない会話を続けていたサイ。
そんな時、ふと告げられたフレイの言葉に──
サイは、心のどこかを酷く踏みにじられる感覚に苛まれていた。
「え、意味分からなかった? だからー……
私、今日はキラのところに行くから駄目だけど、明日と明後日だったらサイのものになれる、ってこと!」
全く屈託なく、当たり前のように、フレイはそんな言葉をサイに吐いてのけたのだ。
一瞬言葉を失ったサイを、面白そうに覗き込むトール。
「そんな顔するなよ。
俺だって、その次だったらミリィ譲ってもいいぜ?
ミリィもちょうど、たまにはサイとしたいって言ってたし」
「もー、トールってばハッキリ言わないでよー!」
はしゃぐミリアリア。微笑み続けるフレイ。
「私、サイもキラも大好きだから。
二人とも手に入れたいって思うのは、当たり前でしょ?」



サイの中で、何かが酷く荒ぶり、状況を拒絶する。
──やめてくれ。
これ以上、みんなを汚さないでくれ。
どうしてそう思うのか、サイ自身もよく分からない。
しかし、フレイの今の言葉が何らかのトリガーになったかの如く、サイはこの世界に怒りさえ感じ始めていた。



フレイがまたしても嗤う。今度ははっきりと、侮蔑を含んだ面持ちで。
「あはっ……サイってば、やっぱり私を独占したい、って思ってる?」
「普通、そうじゃないのか。
俺は、フレイは俺だけのものであってほしい。
フレイは、俺だけの特別であってほしい──」
サイはフレイと、その背後のミリアリアにトール、カズイをそれぞれゆっくり見渡しながら言う。
「みんな、そうじゃないのか?
恋人は、自分の特別であってほしい。恋人に、自分を特別と思ってほしい。
そういうものじゃないのか?」
首を傾げながら、フレイはあくまで穏やかだった。
「サイ。それは、わがままって言うの。
特別が二人や三人いたって、別にどうってことはないでしょう?」



──どうする。
この世界は理解出来ず、許しがたい。少なくとも、俺にとっては。
フレイたちの言葉が、意味は分かるのに、心で納得出来ない。





同じ頃──
ナオトはこの世界でマユ・アスカと再会を果たし、久しぶりに言葉を交わしていた。
「ねぇ、ナオト。
ナオトは今まで、すごく頑張ってきたでしょ?
少しぐらい、休んでもいいと思うんだ」
ナオトの右腕に寄り添いながら、そっと囁くマユ。
眼前の光景は現実ではないと何となく把握しつつも、彼女のぬくもりに逆らえないナオト。
「頑張った、かな? 僕は……
僕は何をしても裏目で、君のことも守れなくて……
今、君ともう一度会えたのは嬉しいけど、多分今の君は幻なんだろう?」
そんなナオトの左膝に、今度は栗毛のツインテールの少女が寄り添う。
「そんなことないよ、ナオト。
自分に嘘ついてまで、ずっと頑張ってきたじゃない」
「君は──メルー!?
君も、ここに来ていたのかい」
「そう。ここは何もかもが許される、あったかい世界だよ!
ナオトを傷つける大人は、もうどこにもいない。
私たちハーフコーディネイターを殺そうとする大人も、どこにもいない。
マユみたいな特別な生まれの子だって、全然平気で生きていけるの!」



ナオトの眼前で散ったあの時のマフラー姿のまま、メルーのツインテールが可愛らしく揺れる。
「ナオトはずっと自分のことで苦しんで、傷ついてきたでしょ。
私たちと同じぐらいの時からレポーターとして頑張ってきて、今でもティーダのパイロットやって──」
「そうだよ。もう、十分だよ」
マユとメルーの瞳が、じっとナオトを心配そうに覗き込む。
「私たち、不安なの。
今のままの世界じゃ、ナオトは壊されてしまう」
「人がずっと変わらなくてもいい、人がずっと平穏な世界にならない限り、ナオトはいつか、死んじゃうよ?」



──そうか。
父さんも母さんも、僕を利用するだけ利用して、死んでいった。
僕を守ろうとしてくれた大人も、みんな死んでしまった。
サイさんだって、このままじゃいつ死んだっておかしくない。
それは──この世界が、人間が、変化を求め続けるせい?
争いを求め続けるせい?



そんなナオトの両肩を、背後から軽めに鷲掴みにする大きな褐色の手。
慌てて振り向くと、そこには死んだはずのカイキ・マナベがいた。
ナオトが殺したはずの──
しかし彼は、仇敵たるナオトに向けて、白い歯を見せてにっと笑ってみせたのである。
「なぁ、坊主。
俺たち兄妹だって、お前と同じだ。
大人たちに利用されまくって、虫けら同然に扱われた。
戦うのが、殺すのが当然だと教えられて──それが当たり前だと思ってたよ」
「でも、違うんだよ! この世界は」
マユが朗らかに言う。
「戦わなくてもいい、殺さなくてもいい、奪わなくてもいい。
働かなくてもいい、無駄な努力なんかしなくてもいい、つらかったらずっと休んでていい!
好きなこと、ずーっとやってていいんだよ。
私、ナオトやお兄ちゃんと一緒に、旅をしたいな!
どこへ行くかは特に決めずに、おいしいもの食べながら、のーんびり一日中歩いてみるの。
疲れたらバスに乗って、景色見ながらお喋りしたい!」
「それいいね、マユ! 私も行きた〜い!」
「盗みをする奴なんかいないから、夜はそのへんの地べたで寝てもいいしな!」
「お腹すいたら、どこかの農家に寄ればいつでも食べ物くれるしね!」



楽しげに話すマユ、メルー、カイキ。
その会話を聞きながら、ナオトはこの世界に少しずつ惹かれていく自分を感じていた。



──あぁ、そうだ。
僕はずっと望んでいたんだ。こんな、平穏な世界を。
誰も僕を傷つけない、僕は誰も傷つけずにすむ、こんな世界を。
誰も泣かない、誰も嫌わない、誰も軽蔑しない、誰も憎まない、誰も争わない、誰も殺されない世界。
マユと一緒に、こういう世界を迎えられることを。



「ねぇ、ナオト。
だからもう、休んでいいんだよ」



──そうか。その通りだよな、マユ。
僕は今まで、頑張り過ぎたんだ。
いくら頑張ったって、優しい人たちはみんな、死んでいくばかりだったのに。
いくら頑張ったって、僕は誰にも認められないのに。
だったら……





「駄目だ!!」
幻の世界で、サイは心の底から絶叫していた。
何がそうさせたのかは、彼自身にもよく分からない。
ただ、自分の中で、それだけは──
今のフレイの言葉だけは許せない。そんな強い思いが湧きあがったから。
独占欲と言いたいならば言うがいい。
愛しい者を奪われた時の痛み。
自らの無力を思い知らされた時の敗北感。
変わろうとして変われず、求めても得られず、あがき、苦しみ、挙句に叩きのめされた時の絶望。
──だけど、それらも確かに、今の俺を形作ってきたものだから。



そして、彼が叫んだ瞬間──
目の前からフレイも、ミリアリアも、トールも、カズイも消え失せた。
どこまでも明るかった青空も、白いレンガ造りの小さな街も。
戻ってきたものは、それらとは実に対照的な鬱陶しい闇の空。
霧に近い小雨だったはずの天気は、再びシャワーのような本降りと化していた。
感覚を取り戻したサイは、慌てて自分の状況を確認する──



先ほどまで自分を縛りつけていたはずの薄紅色の糸──ラクスの髪は、いつのまにか身体から離れていた。
そのかわり、残滓のようなゼリー状の粘液が身体中に付着しており、クセの強い果実のような異臭を微かに放散している。
袖でごしごしと乱暴に顔を擦りながら、サイは視線を上げた。
眼前に立ちはだかっているものは、当然、2機のストライクフリーダム。
その威容を前にして、サイはティーダ・Zの掌でがくりと片膝をついてしまう。 身体から無理矢理引き抜かれたであろう、無数の光の糸。その痛みがまだ、全身を蝕んでいた。
糸の侵入により膨張しかけ、肌から浮き出ていた血管も、未だ治りきってはいない。
「サイ!」
ルナマリアの声が、頭上から降ってくる。
どうやら彼女もサイと同様、光の糸から脱出に成功したらしい。
さすがはザフトの赤服といったところか。サイほどのダメージは受けずにすんだようで、自分の身よりも先にサイを案じ、その身体を支えていた。
「ありがとう、俺は大丈夫。
それより……」
言いながら、サイはティーダコクピットを振り返ろうとする。



──ナオトは。ナオトはどうした?



真っ先にサイを心配してもいいはずのナオトの声が、聞こえない──
言い知れぬ不安を覚えるサイ。
だがその時、ストライクフリーダムを通して、声が響く。
不思議なほど感情を伴わない、キラの声が。



<やっぱり、サイはあの夢を拒絶するんだね。
こんなに簡単に抜け出せるなんて……>



相変わらず、何を言っているのか分からないキラの言葉。
しかしサイは、猛然とそれに反論する。
「あれが、お前の……お前とラクス・クラインの夢だってのか。キラ!
進化しようとする人の意思そのものを消して、争いをなくす──」
ラクス・クラインの幻影を睨みつけるサイ。
しかしもう、彼に対してラクスは何も答えない。
そのかわりに降ってくるのは、キラの声。
<そうすれば、人はずっと平和に生きていけるよね?
戦いのない世界で>
「それは、デュランダル議長がやろうとしてお前らが叩き潰したことと、何が違うんだよ!?」
「多分、人の意思を抑えつけるか、捻じ曲げるかの違いよ」ルナマリアも注意深くラクスを見つめながら、補足した。
「議長のディスティニープランは、こうなりたいという意思を無視して、遺伝子だけで人を抑えつけようとするものだった。
でも、今、ラクス・クラインが言ってるのは──」
「意思そのものを管理するってことだ。つまり、人の夢そのものを消す……
そうすれば、意思を抑えつけられることによる苦痛は感じなくてすむからか。
まさに、人の精神への侵略だな!」
痛む左腕を押さえながら、ラクスに向かってサイは叫ぶ。
「そーいうの、一番嫌じゃなかったのかよ!? キラ! ラクスさん!!」



サイの絶叫に対しても、ラクスは直接答えず、朗々と自分の言葉を続けるだけだ。
<時間に追われることもなく、差別も優劣もなく、豊富な資源の中で、人生を音楽と映画、芸術と知識の中で過ごしていく。
それは、これまでの長きに渡る戦いの歴史の末に人がようやく獲得した、進化の最終形なのです。
果てなき争いを強いられた人々に齎された、最後の福音。
他を蹴落としさらに豊かになりたい、もっと満足したい、今はイヤだから変わりたい……
そんな欲望を削ぎ落とした、人の究極の姿。それが──>
「そんなものはもう、人じゃない!」
首を大きく横に振り続け、ラクスの言葉を否定するサイ。
若干戸惑いの混じったキラの声が響く。
<どうして? サイ……
君こそ、ずっと苦しんできたんじゃないの?
力が及ばなくて、奪われて、苦しんで、誤解されて、痛めつけられて。
君こそ、戦いのない世界を一番望んでいたと思っていた>
「大きなお世話だ。
戦いなんか起こらないのが一番だが、あんな、セレブレイト何ちゃらとかいう兵器を使ってまでとは思わない!」
キラからの答えはない。
ただ、ストライクフリーダムのカメラアイが雨の中、冷たくサイを見降ろしているだけだ。
「俺は、昔は何も知らない、ただの学生だった。
だけど、フレイやお前やラクスさんに色々教えられて、変わった。変わることが出来た。
失ったものもたくさんあるし、取り戻せるなら取り戻したいものも山ほどある。
だけど、その痛みを否定する気はない。
変化っていうのは、痛みを伴うもんだけど──
人ってずっと、その痛みに耐えなきゃいけないものなんじゃないか?」



だが、そんなサイの想いを受け、キラが続いて発した声は──
何故か酷く低めで、侮蔑の感情すら混じっているように聞こえた。
<サイ。本当に、そう?
じゃあ、ナオト君は、そう思っているかな?>



そう言われて、サイはティーダZを振り返った。
先ほどから、不気味なほどに沈黙を保っているティーダとナオト。
そのコクピットは、依然として開け放たれたままで──
「……ナオト!?」
サイもルナマリアも、思わず同時に声を上げてしまう。



コクピットに座ったまま、ナオトはぴくりとも動いていなかった。
彼を縛りつけていた光の糸はサイたちと同様、既に全て引き抜かれている。
しかし彼はサイたちと違い、雨を払おうともせずバイザーを開いたまま、人形のようにだらんとシートに身体を預けていた。
その目は半開きだがどこも見てはおらず、口の端からはわずかに白い涎まで見える。



まさか──
最悪の予感がサイの胸をよぎったが、それはキラにより否定された。
<心配しなくても大丈夫、身体に影響はないはずだから。
だけどやっぱり、彼にはあの夢が、とても魅力的だったみたいだね>
大丈夫とは言いながら、どこか悲しげに呟くキラ。
その言葉を実証するかのように、ナオトの唇はほんの少し、動いた。
譫言をひたすら呻き続ける病人のように──



──マユ。メルー……



その二つの単語を、延々と繰り返すばかりのナオト。
誰の目から見ても明らかに、ナオトは先ほどの幻に囚われていた。
インパルスからも必死でヴィーノがナオトに呼びかけているが、ろくな反応がない。
「キラ!
ナオトに、何を……!?」
怒りをこめて、サイはストライクフリーダムを睨みつける。
すると突然、キラ機につき従うように佇んでいたもう一機のストライクフリーダム──
紅に染められた機体から、幼い少女の声が響いた。
<ざ〜んねんでしたぁ〜。
これでもう、あんたらは黙示録を使えない。
なんだかんだで、あのガキンチョがいなきゃ、あんたら絶対キラには勝てないでしょ?>
思いかげず響いたその声に、サイは改めて衝撃を受ける。



──この紅の機体。この声。
やはり、マユ……いや、チグサ・マナベか。



そう確信したサイは、紅の機体のカメラアイを──
鈍く、しかし挑戦的に輝くエメラルドのカメラアイを睨んだ。
「黙っててくれ、今はキラと話がしたいんだ。
キラ。どうしてお前は、チュウザンに来た?
本当のラクスさんはどこにいる?
どうしてお前は、こんなことをしている?」
そんなサイの言葉に、微かに頭部を下方へ動かす反応を見せるキラ機。
<そう──
僕とラクスは確かに、チュウザンの戦いを止めたいと思った。
だけど理由は、他にもあって。
それは、ラクスの──>
しかし、ずいと前に出た紅の機体が、キラを押しとどめた。
<キラ、アタシに任せな。
こいつらにあんなこと、話す必要ないからさ。つらすぎるでしょ>
<ごめん、チグサ。だけど……>
<いーから!
キラのこと色々聞いてから、ずっと思ってたんだ。
特にこいつには一発、ガツンと言ってやらなきゃ。ちょーどいいや>



あんなこと?
一体、何が起こったっていうんだ。キラと、ラクスさんに。



そんなサイの思惑に構わず、前に乗り出してサイをじろりと睨む、血のストライクフリーダム。
<ほーん。
あんたが、キラの『友達』ねぇ……>
マユは──いや、チグサは今モニターごしに、サイを値踏みするかのようにじろじろ眺めまわしているのだろう。
反射的にルナマリアがサイの前に立とうとするが、それでもサイは中のパイロットたる彼女へも呼びかける。
「君は、マユ・アスカか?
マユであれば、ちゃんとナオトに答えてくれ。
ナオトはずっと、君を探していたんだ!!」
しかし、チグサの返答はキラよりも遥かにつっけんどんだった。
<マユだったら、もういないよ。
アタシあの時あんだけ言ったのに、まだ分かってなかったんだね、そいつは。
そんなことより!>



そんなことより?
マユのことを、その一言で済ませられると思っているのか、この娘は。
ナオトがどれだけ、君を想って動いていたと──



だがそんなサイの想いを、チグサは一蹴する。
<痛み、痛みって……エラそーに。
あんた、キラがどんだけあんたらのせいで痛めつけられたと思ってるのさ!!>



チグサが何を言い出したのか一瞬分かりかね、サイは思わず身構える。
そして、エメラルドのカメラアイ付近から降ってきた声は──
サイの心の、最も触れてほしくない部分を直接踏みにじるものだった。



<あんたは多分、自分だけが痛めつけられてきたと思ってるんだろうけどさ。
アークエンジェルであんたらを守らされてた時、キラがどんだけ悩んでたと思ってんの?
あんたらのことは、ほぼキラとトールから聞いたけどさ──
アタシ、キラだけが悪いなんて、どーしても思えないんだよね。
キラをこんな戦いへ突き落とした元凶って、そもそもの発端はあんたらじゃん。学生気分のあんたらが、キラをモビルスーツに乗せたようなもんじゃんか。
しかもあんたときたら、自分はいかにも理解者ですってツラでキラを戦わせてさ!
面と向かって酷いこと言ったフレイよか、よっぽどタチ悪いじゃん。
自分が悪かったなんて、これっぽっちも思ってないでしょうが、あんた!!>



サイはようやく理解した──アークエンジェルでのことか。
何故今更と一瞬思ったが、今だからこそという気もして、サイはじっとその言葉に耳を傾ける。
<キラもフレイもトールも必死で身体張ったのに、あんたは安全な後方で支援だけ。
最前線で戦わされることがどれだけ苦しいか、知ろうともせずに。
しかもキラは親友と殺し合ってたっての知ってたくせに、キラを分かろうともせずに自分の安全ばかり考えて。
キラをずっと心配してるふりして、ホントは自分が助かりたかっただけ。
そんなあんたに、痛みがどうこうとか、上から目線の説教なんかされたくないっての>



あぁ──そうだ。
3年前から、俺はどれだけ自省したか分からない。
あの時の自分の言動を冷静に振り返ると、俺は様々な形でキラを追いこんでいた。
ラクスを返そうとして協力した時、俺は何度もキラに「帰ってくるよな」と念を押した。
しかもよくよく思い出してみると、ラクスの歌声に対して俺は、「遺伝子を弄って」なる発言までしていたような気がする
──キラの眼前で。
にも関わらず、うわべだけはキラと笑顔で接していた俺のような『友達』のおかげで、キラはアークエンジェルを離れられなくなった。
悩み苦しみ続けるキラを理解しようともせず、心の底ではコーディネイターを差別し、自分の安全だけを願う、俺のような偽善者のせいで。
あの時、キラがどれだけ孤独だったかは、キラにフレイを奪われたと思った直後は殆ど理解出来なかった──
ついこの間、アマミキョで孤立して一人でアストレイで飛びだした時に、ようやく分かってきた気がした。
でも、それだけではとても、あの時のキラの苦痛には足りない。そう考えてはいたが──



キラ機の左腕が伸ばされ、憤るチグサ機を静止させようとする。
<チグサ。僕はそこまで……>
<だから、いいっての!
こーいう奴には、ここまでやらなきゃ分かりゃしないんだから!>
それでもチグサの言葉は止まらない。サイに向かって、その心に向かって、直接攻撃を加え続ける。
<あんたは今ものうのうと後方で、民間人でございってツラで呑気に偽善活動。
昔はキラを戦いに追い込んで、フレイやトールを死なせたってのに──
なーんにも学習せずに今また、ナオト・シライシに同じことして、アマミキョも守れず、たくさんたくさん死んでいくのを傍観しか出来なかったくせに。
そんな偽善者が、キラの『友達』だなんて、ちゃんちゃらおかしいね>



言葉はさらにヒートアップし、同時にチグサ機のカメラアイもサイを照らしつつ、何度も点滅する。その感情を映し出すように。
<そのくせまだ、聖人ヅラ振りまいて『人は痛みに耐えて変化しなきゃ』とか何とか言って、アタシやキラを戦わせるんだね。
ホントの痛みがどんなもんか、何も知らないくせに!>



チグサの言葉に比例するように、サイの肩に打ちつける雨はその激しさを増していく。
「待ちなさいよ! さっきから、随分勝手な言い草……」
ルナマリアが反論しようと口を開きかけたが、サイは黙って片手をあげ、彼女を止めた。
──罵倒を受けるのは当然と言うように。
それをいいことに、チグサはさらにサイを怒鳴る。
<変われる自由があるのなら、変わらない自由があってもいいじゃない。
戦いたいなら戦いたいヤツだけ戦えばいい。
変わりたいなら変わりたいヤツだけ勝手に変われ! そうじゃない人間を巻き込むな!!
変われない人間だっているのに、どうして変わることを押しつけるの? 
どうして平穏な世界を受け入れないの? 
どうして無理矢理、成長しろとか進化しろとかいうの?
あんたらみたいな無能に限って、そーいうことばっかりほざく。アタシ、そーいう男、大っ嫌い!
くっだらない進化なんかに拘るから、カイキ兄ぃは死んだんだ!!>



真正面からサイの全てを否定する、チグサ・マナベ。
サイは彼女に対して、何ら反論の術を持たなかった。
──そうだよな。
彼女のようなエクステンデッドたちは、まさに戦争の犠牲者であり、人間の欲望の犠牲者とも言えるのだから。
進化の止まった世界を、俺ごときがどれほど拒否したところで──



じっと動かなくなったサイに向けて、ストライクフリーダム・ルージュは不意に、右腕部を機動させた。
ティーダの掌部に立ち尽くしたまま、無防備そのもののサイとルナマリアに──
チグサはそのまま、ルージュの右腕を力まかせに斜め下に振り下ろす。
<駄目だ! やめてくれ、チグサ……っ!>
サイがルージュの恐るべき機動に気づいたのと、キラの叫びが湖に響いたのは、ほぼ同時だった。
しかしチグサはそれにも構わず、振り下ろした腕部をそのまま横薙ぎに振るった──
サイとルナマリアが乗ったままの、ティーダの掌を狙って。



「あ、危ない!」
生身の人間に、モビルスーツが殴りかかる──
思わず声を上げたものの、常識ではありえない光景が信じられず、棒立ちになってしまうルナマリア。
そんな彼女を咄嗟に庇ったのは、すぐそばにいたサイだった。
濡れた黒いタキシードに、目の前を覆われたと思った瞬間──
真横から、人間サイズのフライパンで殴られたかのような強烈な衝撃と破砕音が、二人を襲った。
同時に降りかかってきたものは、雷鳴の如きチグサの叫び。
<あんたに、何かを守ることなんて絶対に出来ない! 
あんたに、キラに説教する資格なんて、あるわけない! 
あんたが一番戦えないくせに、人に戦えなんて言うな!
一生地面に這いつくばって、土下座して命乞いしてろ! この、ド無能!!
あんたなんか、一瞬で消して……っ!?>



その時、何故か一瞬止まった、チグサの言葉。
しかしもうそれを気遣う余裕は、サイにもルナマリアにも全くなく──
<ルナ!>
彼らを助けようとしたヴィーノが必死でインパルスの腕を伸ばしたものの、二人に届くはずもなく。
そのままサイとルナマリアの身体は、湖と森の間の岸壁へと叩きつけられ、落下していった。
ティーダコクピットで、完全に抜け殻のようになってシートに凭れるばかりのナオトは、その光景にも一切反応することはなかった。
何よりも大切な仲間であるサイとルナマリアが、無防備なままモビルスーツに殴られ落とされるという惨劇を前にしても。



「あぁ……あ!
何、コレ……アタシの中で、何かが……!?」
一方的な怒りをサイにぶつけ、叩きのめしたと思った直後──
ストライクフリーダム・ルージュのコクピットで、チグサは突然の頭痛に苦しみ出していた。



──この感覚は。
シン兄ぃを捕まえた時に見た光と、同じだ。
あの光を見た時と、同じ違和感。しかもこの前より、ずっと強くなってる。
アタシの中に、何かが、いる。
その正体も、アタシには分かってる。



バイザーごしに頭を左手で抑えながら、汗だくになりつつチグサは呟く。
「マユ・アスカ。あんたはもう、いないんだ……
こんな時に、何で邪魔する?!」
それでも何故か、チグサの中で何かが叫ぶ。
彼女と同じ声を持つ、何かが。



──ダメ。やめて!
こんな酷いことしたら、ナオトが怒るよ!



頭蓋を叩くようなその声に苦しみつつも、チグサは健気にも操縦桿を握り直す。
しかしそれを嘲笑うかのように、コクピットに鳴り響くアラート。
反射的に顔を上げると──
警告音とほぼ同時にメインモニターに大写しになったものは、
チグサの乗る機体と同じ頭部意匠を持つが、全体をルージュよりもさらに深い紅で彩られたモビルスーツ。



サブモニターで機体名を確認するよりも早く、チグサは気づいた。
「そんな。インフィニットジャスティス……
──アスラン・ザラ!?」
しかし、気づきはしても、すぐに反応出来るかどうかは別の話で──
すぐに、真横から人間大の拳で全力で殴られたかのような衝撃が、チグサを襲う。
「あ……っ!!」
強すぎる衝撃で、叫び声すら満足に出ないチグサ。
どうにか機体を倒れないようコントロールするのが、彼女の精いっぱいだった。





──これは何だ。
フラガのアカツキより一足先に、目的地に到着したアスランのインフィニットジャスティスだが──
そこで彼が見たものは、
ずっと彼が探していた、ストライクフリーダム。
それに寄り添うように屹立する、双子のようにそっくりな紅の機体。
彼らと相対するように湖に立つ、ティーダ・Zとインパルス。
ティーダ・Zの掌に立っていた、サイ・アーガイルとルナマリア。
そして──
どういうわけか、ほぼ無防備のはずのサイたちをいきなりモビルスーツで殴りつけた、紅の機体。
それを見た瞬間、アスランは動き──
空中から飛びこんだインフィニットジャスティスは、そのまま力まかせに紅の機体の頭部めがけて、蹴りを叩き込んでいた。



「キラ!
何故お前が、こんなことをしている!?
変わらない世界は嫌だと言いながら、何だ、お前たちは!!」



サイとキラの会話内容は、少し前からアスランも傍受していた。
幻のラクスの語った言葉も。
何があったのかは全く分からないが、どうやらキラとラクスが南チュウザン側についたことは確かだ──
しかし、その理由をきちんと問いただせば、彼らと和解出来るかも知れない。
かつて二度もキラと敵対関係となりながら、それでもキラと絆を取り戻すに至った経験から、アスランはそう信じていた。
だが、そんな彼の眼前で展開されたものは、
キラにつき従っている機体が、無防備の人間を──
しかもキラの友人たるサイを、アスランの元同僚だったルナマリア共々、モビルスーツの拳で殴り落としたという、信じられない光景。
キラ本人がやったのではないにせよ、それをキラが黙認していたという事実自体が、アスランには到底看過出来なかった。
直前にキラが止めに入ろうと叫んだのは、アスランにも聞こえていた。
しかしキラほどの実力ならば、紅の機体がことに及ぶ直前に、強引に止めることも可能だったはず。
そうしなかったのは、つまり──
決して認めたくはないが、キラ自身に、紅の機体の行為を良しとするような後ろ暗い部分があったのではないか。
サイたちを積極的に庇いに行かなかった、何らかの理由が──
かつてサイたちの存在を理由にキラと敵対するに至ったアスランにとって、それはどうしても許せない事実であり、その怒りはキラへの激しい言葉となって表現されるに至った。
「チュウザンで何があった──
何が、お前やラクスをそうさせた!?
生身の、しかも丸腰の人間をモビルスーツで撃とうというなら、俺はお前たちを許すことは出来ない!」
アスランの蹴りによりダメージを負った紅の機体を庇い、インフィニットジャスティスに相対する形となったストライクフリーダム。
どこかくぐもったキラの声が、スピーカーから流れる。
親友と一触即発の状態となりながら、キラはあくまで冷静だった。
少なくとも、口調だけは。



<アスラン……違うよ。
「変わってはいけない世界」と「変わらなくてもいい世界」は、違う。
僕たちは、最後の進化を遂げるんだ。「変わらなくてもいい世界」へ。
戦いのない世界へ、僕たちは進化する。いつか、君と話した世界みたいに。
僕もラクスも、みんなも、これ以上傷つかなくてもいい世界──
そこへ至ることが出来れば、ヒトは心のままに生きられるから。
それが、僕たちの望む、最後の革命だ>



 

つづく
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