嵐の空をひたすら突き進むアークエンジェル。
そのブリッジで、マリュー・ラミアスは艦の指揮を執りながらミリアリアに尋ねていた。
「本当なのね。キラ君たちは、そこに……!」
通信を続けつつも、即座に答えるミリアリア。
「はい、間違いありません。
ヤエセ南、旧マブミ付近の湖畔です!」
冷静かつ機敏なその回答に、マリューは改めて唇を噛む。
ミリアリアから伝えられた、キラたちの思わぬ情報。
それは、キラが既にフレイ・アルスターら南チュウザン側に回った──
つまり、彼がアークエンジェルから離れたことを意味する衝撃的なものだった。



──私たちは改めて、キラ君と向かい合わなければいけないのか。



思えば三年前、ヘリオポリスで偶然キラに助けられてからというもの、マリューやアークエンジェルは幾度も幾度もキラに救われてきた。
キラ自身はコーディネイターで、親友たるアスランもザフトにおり、本来はいつ自分たちと袂を分かってもおかしくない関係だったのに。
艦内で次第に孤立していくキラを引き留めておく為、フレイやサイとの拗れた関係を放置していたことさえあった。それは、「あの」フレイ・アルスターがアークエンジェルに再び乗り込んできた時、指摘された通りである。
自分自身にも余裕がなかったとはいえ──フレイがキラの吐け口になったことで、ヘリオポリスの学生たちの関係が一気に悪化していくのを、ただ看過するしかなかった。
それだけではない。デュランダル議長にラクスが命を狙われて以降も、キラはずっとアークエンジェルで戦っていた。
キラがそうするのは当たり前のことだと、どこかで自分たちは考えていたかも知れない。これまでずっとアークエンジェルで戦っていた「仲間」なのだから、と。
しかし、キラが動くのはあくまでラクスとカガリの為であり、仮に彼女らどちらかに何かが起これば、場合によってはアークエンジェルすら敵に回すかも知れない。
その可能性を、自分たちはずっと見ないようにしてきたのではないか。
何があっても、キラがいるから自分たちは大丈夫──
自分たちは心のどこかでそう慢心しながら、戦ってはこなかっただろうか。
そのツケを払わされる時が──



マリューがそこまで考えた時、不意にメイリンの声がオペレータ席から響いた。
「艦長! アマミキョから通信が入っています。
ヤエセ周辺の住民の避難、9割がた完了。これより本船はアークエンジェルに随行するとのこと」
「えっ? アマミキョは、まだ住民の避難支援に回ってもらった方が……」
「随行するのはメインブロックのみとし、他ブロックは全てパージ後、住民の支援に回すとのことです。
それから、ミネルバJrも後方より接近中との情報も入っています!」
やや興奮気味にまくしたてるメイリン。よもやのミネルバJrの登場に、かつての乗員だった彼女も若干冷静さを失っているように見える。
だが、マリューは彼女に比べるとそこまで動揺はしなかった。
サイ・アーガイルがザフトとおぼしき部隊と共に行動し、住民の救出活動を行なっているという情報は既に入手していた。その背後にいるのがミネルバJr──
あの、タリア・グラディスの率いていたミネルバ隊なら、何も不思議はない。彼女ならば──
彼女の育て上げた部隊ならば、サイを助けることもあるだろう。何故か確信があった。
マリューはそっと振り返りつつ、オペレータ席で通信を続けるミリアリアを見やる。
キラたちの急報を最初に告げたのは彼女だ。それも、かつて戦死したはずの彼女の恋人──
トール・ケーニヒからの伝言というおまけつきで。
ミリアリアはいつになく冷静に通信を続けていたが、その横顔からは余裕が消えていた。声にも、いつもの可憐さが掻き消えているように感じる。
それでも、私がムウと再会した時に比べれば、随分と落ち着いているような気もするが──
いつだったかの、サイとの会話を思い出す。あの時私は、フレイ・アルスターと共に行動していた彼に、こう尋ねてしまった。
──彼女と再会した時、平気でいられたかと。
勿論それは、ムウ・ラ・フラガへの想いから出た問いだったのだが、あの時のサイは酷く苦しげに激情を抑えていたように思えた。
サイたちと離れて間もなく、記憶を失ったムウが現れたのは、その罰だったのだろうか。
彼と再会した時、自分はどれだけ混乱したか──いや、過去形ではなく、今もマリューは時々混乱する。
確かにそこにいるのはムウのはずなのに、彼ではない。ふとそんな悪寒を覚える瞬間が、たびたび訪れる──
自分やサイが味わったそんな痛みを、今、ミリアリアも感じているのか。
彼女もサイも、愛する者を失った痛みをようやく振り切り、それぞれの未来に向かって歩きはじめたはずなのに──
今、過去からの亡霊が彼らに襲いかかり、締めつけて離そうとしない。
それはもしや、キラも同様なのだろうか。
フレイ・アルスターの霊に憑かれ、向こう側の人間になってしまったのだろうか──



その時、思考に耽溺しかけたマリューの耳に、ミリアリアの声が響いた。
「艦長。
正体はともかくとして、セレブレイト・ウェイヴに関する『彼』の情報は正確でした。
恐らく、キラとラクスさんに関するものも同じです──
それに、ストライクフリーダムと思われる機体の目撃情報も複数確認出来ました。
キラがこの地域に降り立っているのは、間違いないです」
マリューの不安を打ち消すように、確信をこめて、ミリアリアは断言する。
ストライクフリーダムの情報に釣られて各陣営の艦隊をおびきよせ、セレブレイト・ウェイヴで一網打尽にする罠ではないかと、艦内では訝しむ者も複数いた。
しかし、その周辺にキラがいるのならば、その危険性は限りなく低くなる。
何故なら、サイの情報を信じる限り、死者の魂を冒涜してまで南チュウザンが狙っているのは、キラたち「SEEDを持つ者」の力なのだから。
ミリアリアの落ち着きに感謝しながら、マリューは静かに言った。
「そうね。進みましょう──
キラ君たちのもとへ!」







ストライクフリーダムと、インフィニットジャスティス。
ヤキン・ドューエの時も、メサイア戦時も共に手を取り、世界の危機を救ったはずの2機。
それが今、激しい火花を散らし衝突している。
しかも、俺のすぐ頭上で──
蒸発しかかり、所々底が露出している湖に一歩ずつ慎重に足を踏み入れながら、サイはぼんやりと考えていた。



──仕方ないか。
元々、キラを戦いの場に引きずり出したのは、俺たちみたいなもんだからな。



足に力を入れようとするたびに、全身を痛みが貫く。
蒸気を伴い、泥を大量に含んだ水は既に腰あたりまでを濡らし、傷の癒えぬ身体に染みこんでいく。
それと同時に、身体からどんどん流れ出していく血液。
ルナマリアの治療も虚しく、サイの傷口は無茶な移動によりすぐに開いてしまい、左腕からの出血は既に彼のワイシャツのほぼ全てを真っ赤に染めていた。
左腕はもう痛みすら感じられないほどの状態であったが、それでも身体を動かそうとするたびに熱い鼓動が全身に走り、それが血液となって傷口から流れ出していくのが分かる。
まるで、命の限界をサイに知らせようとするように。
それでも彼は、上半身の重みに逆らいながら頭を上げ、目をこらした。
もうもうと上がり続ける蒸気で、ただでさえぼんやりと霞む視界。
ひっきりなしにやってくる眩暈が、足元をぐらつかせる。
──その視線の先にあるものは勿論、ガンダムティーダ・Z。
全ての終わりを意味するアルファベットを刻まれて再生されたそのモビルスーツは、今も湖の上で、蛍のようにぼうっと白く光を放ちながら、佇んでいた。
サイが目指すものはただ、その光のみ。



──今のティーダは、ナオトだけじゃなく、俺もパイロットとして認識しているはず。
ならば。



元々のティーダパイロットたるナオトとマユは、アマミキョを離れる直前には既に、ティーダの遠隔操作が可能になっていた。
そしてティーダの、未だ全容が明らかになっていないフィードバックシステム──
ずっとブラックボックスと呼称されていたそれは、ミネルバJrにおいても改造された形跡はなかった。
パイロットがティーダに乗り込み、機体に馴染むことで、パイロットによる遠隔操作さえも可能になるシステムがそこに組み込まれているのだとすれば。
──具体的な確証は殆どないに等しいが、サイはその可能性に賭けていた。
俺だって、随分長いことナオトと、ティーダと付き合ってきたんだ。
実際に操縦したことはないにせよ、何度もシステム周りには触れてきた。
曲がりなりにもパイロットとして登録された今なら、俺でもティーダを動かせるかも知れない。
否、動かせなくてもいい。
ストライクをまともに動かせず、M1アストレイですらろくに戦えなかった俺が、今更ティーダを動かそうなんて、おこがましい。
だが──せめて、ナオトをあの場から助けることぐらいは、出来ないか。
ナオトやマユはかなりの遠距離からティーダを動かしていたが、俺ではとてもあんな芸当は無理だろう。それぐらいは分かってる。
でも、少しでも接近出来れば。
ティーダに触れられる程度まで、近づければ──!



深い霧に覆われゆく天空では、攻撃を続けるインフィニットジャスティスが見えた。
アスランにしては珍しく、相手の武装だけを狙うが如き攻撃をしている。相手がキラだからなのか──
その少し南方向では、無数の黒ダガーL軍団を相手取っているアカツキが目撃出来た。
相変わらず、自機パイロットの命をまるで顧みないような黒い機体は、アカツキの金色の装甲を目がけて続々と激突していく。
それは、まさしく自爆攻撃としか言えないような代物だった。
今更のようにサイは思い出す──
そういえば、ミネルバJrに収容されたはずの黒ダガーL。
あのコクピットの分析結果を、まだヴィーノやルナマリアから聞いていなかったな。ただ単に俺が部外者だから教えられないだけなのか、それとも……
彼らにすら、未だにその情報は伝えられていないのか。だとすれば、その理由は何なのか。
サイが何とかそこまで頭を巡らせた瞬間──



遥か頭上でダガーLがまた1機、アカツキのビームライフルによって撃墜された。
雷鳴の如くの爆光で天を一瞬紫に染め、四散する黒の機体。
その腕部も脚部も全てがバラバラになり、宙へ弾け飛んでいく。
そして、巨大な鋼鉄の破片となったそれは当然、重力に引かれて真下の湖面へ落下していった。
間一髪で誘爆を逃れたメイン動力部も、炎を噴きながら共に落ちていき──



落下による加速度を伴ったそれらは当然、下にいる人間にとっては、これ以上ない凶器と化す。
「──!?」
火を噴いて落ちてくるエンジンに息を飲む暇もなく、次から次へとサイに襲いかかる熱い飛沫。
その向こうの水面でまた、再び大きな爆光が生まれる。それはデストロイの高エネルギー砲で抉られた湖を、さらなる劫火で覆い尽くしていく。
噴きだした蒸気に紛れるように、無数の鋼の破片が周辺に飛び散った──
身を屈めて爆風を躱そうとしたサイだが、そんな彼にも容赦なく破片は飛んでくる。
それはまるで弾丸のように、サイの身体を次々に掠めていった。
「ぐ……うっ!!」
腕で頭を覆い隠しても、肩や背中、太ももをナイフで切り裂かれるような痛みが走る。
激しい熱をもった小さな鋼の塊は、幸い彼の身を貫くことはなかったものの、それでも衣服ごと皮膚と肉を削り、その傷を少しずつ増やしていく。



──それでも。
俺は、ナオトを……助けたい。
それが今の俺に、唯一、出来ることならば。



その想い一つだけが、サイを未だに支えていた。
本来ならとっくに、気絶していてもおかしくない。否、気絶していなければおかしいはずの負傷。
視界も紅く染まりはじめ、目指すティーダの機体すらも輪郭がぼやけている。
激しい頭痛まで始まったのは、体内から血が大量に失われた証拠だろうか。
しかしサイは構わず、少しずつでも進もうとする。足元を覆い尽くす泥から、マグネット入りの重い靴を引き抜くたびに、酷い痛みが身体中を駆け抜けたが──それでも。



──俺、もしかしたら、もう死んでるのかも知れないな。
これほど血を流しても、まだ動いていられるなんて。



ぼんやりとそんな想いに囚われ、馬鹿なことをと自嘲しながらも、泥まみれになった膝を水面から引き抜いていくサイ。
しかしその時、またしても爆光が湖面に走り、霧を吹き飛ばすかの如き熱風が巻き起こった。
恐らく先ほどと同じくダガーLの墜落によるものだろうが、不幸なことにサイの背後でその爆発は起こったらしい。ほぼ死角となった場所から爆風は発生し──
結果、予想外の方角からサイは吹き飛ばされかけた。
「これぐらい……!!」
それでも彼は両足を踏みしめ、荒れ狂う飛沫に耐える。
こんなこと、チュウザンのテロでもう慣れた。
この激しい熱風も。
一瞬聴覚の殆どを奪い、水底にいるような感覚にさせるこの空気も。
当たり前のようにあった建物が、景色が、刹那の間に塵となり崩れ去っていく光景も。
自分も、一歩間違えれば当たり前のように同じ塵芥と化す現実も。
学生の頃は勿論、アークエンジェルにいた頃ですら経験しなかった、戦場に生身で置き去りにされる恐怖も──
先ほどと同じく、無数の鋼鉄の塊があたりに吹き飛んでいく。
霧を、水面を、森を──そしてサイをも切り裂きながら。



だが、爆風の威力はそれだけにとどまらず。
熱風に混じって、若干大き目の破片がサイに向かって飛んできた。
咄嗟に避けようとするも身体はうまく反応せず、握りこぶし大の破片は激しい熱量と速度をもってサイの右横腹を直撃する。
そこは奇しくも、かつてアムル・ホウナに撃たれた傷とほぼ同じ個所だった。
「──!!」
最早叫びも呻きも出せず、あっけなく宙へと弾き飛ばされ、水面に打ちつけられるサイの身体。
未だに癒えぬ傷を再び穿たれた痛みで、彼の意識も一瞬飛んでしまった。







同時刻、ミネルバJr。
ブリッジでひっきりなしに通信を続けていたアビーが、声を張り上げる。
「艦長! インパルスからの報告、来ました。
旧マブミ付近でストライクフリーダムと接触後小破、現在緊急メンテナンス中とのことです」
「なっ……!? また、あの機体か!」
忘れもしない、因縁のストライクフリーダム。その情報にアーサーも一瞬絶句したものの、それでも何とか冷静さを装いながら続きを促した。
「それで、負傷者は!? ティーダZは!」
「ルナマリアとヴィーノは無事ですが、アーガイルさんが重傷を負った模様です」
少し前なら殆ど感情が籠っていないようにも感じられたアビーの声だが、今は明らかに相応の焦りが含まれている。
この方が人間らしくて良いかも知れない。ただ情報を垂れ流すだけなら、AIでも出来る
──未だにザフトも連合もAIにオペレータの任務を委ねないのは、状況に応じて皆を鼓舞したり、緊張感を高めたりする役割も彼女らは担っているからなのか。
アーサーがそんなことをちらっと考えたとも知らず、アビーは報告を続ける。
「ティーダZですが、パイロットのナオト・シライシ共々、ストライクフリーダムに捕捉されたとのこと……」
「え、えぇえ!!? また、機体ごと拉致られたか!?」
「いえ、完全に捕らえられたわけではないようです。
インフィニットジャスティスの援護を受けて、ティーダZもインパルスもまだ現地に留まっています。ストライクフリーダムと交戦中」
「何? もしや、アスラン・ザラが」
そんなアーサーの言葉に、ブリッジがほんの少しざわめく。
殆どが元ミネルバの乗員で構成されているミネルバJr。ブリッジ要員もほぼ当時のままである。つまり、アスラン・ザラに裏切られ、艦を大破させられた怨恨を共有する者たちでもあり──
何故、あのアスランがまた自分たちの援護に回ったのか。
アーサーも動揺を禁じ得なかったが、それでも乗員たちを落ち着かせるべく、冷静かつ果敢に判断を下した。
「ミネルバJr、全速前進!
インパルス及びティーダZの救出に向かう」
そんなアーサーの言葉に、操舵士マリクは驚きを隠せず、思わず反論した。
「き、危険です艦長!
インフィニットジャスティスの意図が不明である以上、ストライクフリーダムと同時に本艦を攻撃する恐れもあります。
あの2機に対抗する術は、今のミネルバJrにはありませんよ!」
マリクの言葉に、索敵担当のバートも追随する。
「まだ信用するというんですか? あの裏切り者を!」
彼らの意見ももっともだ。アスランは、二度もザフトを裏切った──
一度目は結果的に世界を滅亡から救ったとも言えるからまだしも、二度目はミネルバを直接攻撃し、自分たちは自分の艦と多くの仲間を失った。あの痛みを、乗員たちは未だに鮮明に覚えている。
それでも──アーサーは唇を噛みながら宣言した。
「それでも、ルナマリアたちを助けないという選択肢はないだろう!
彼女らを放っておいたら我々は、あの日の屈辱をもう一度味わうことになる!!」
あまりにも堂々としたその言葉に、クルーたちは何の反論も出来なかった。
自分たちは、何も出来ないわけじゃない。艦を失ったあの日に比べたら、出来ることはまだある──
それなのに手をこまねいたまま事態を放置していたら、何の為にここまで来たのか。
そんな想いが、アーサーの言葉には籠められていた。







大気圏外に浮かぶオギヤカ、その最深部で。
シン・アスカはただ一人、紅の保存液に満たされた中に眠るステラ・ルーシェの前に佇みながら、思い悩んでいた。
フレイ・アルスターの真実──それをシンは、つい先ほど畳み掛けるように一息に告げられた。彼女自身の口から。
シンを拉致したのは、勿論SEED保持者であり、マユ(チグサ)を動かす鍵ともなりうる人物だから──
『御柱』とされたステラと同様に、自分もその天性の能力を買われて強制的にオギヤカに連れられたということだ。「SEED」が何なのか、シンにはさっぱりピンと来なかったが。
しかしフレイによれば、それは表向きの理由にすぎないという。
フレイはその後、さらに言った──
南チュウザンを実質統括しているのは、ラクス・クラインの母親たる「真なる」ラクス・クラインであり、ステラの利用をフレイに命じたのも彼女であると。
今、ラクスは自らの娘たるラクス・クラインを──
つまり、これまで人々がラクス・クラインと認識してきた存在を利用し、娘に成り代わりその名声も利用して、セレブレイト・ウェイヴにより戦争の恒久的な停止を目指しているという。
それだけでも、シンにとっては頭がおかしくなりそうな話ではあった。ついこの前までラクスの偽者騒動で俺たちは大変だったのに、今度出てきた三人目のラクスが「真なる」ラクスでラクスの母親? 
意味が分からない。
それを正直にフレイに告げたところ、彼女は酷く苦しげになりつつも微笑みながら、こう言った──



「──それが普通の感覚だ。
子供に自らの想いを託して自分と同じ名をつけることはあっても、自分のコピーとして同じ名を名乗らせる母親は、そうはいるまい」



ラクス・クラインが、真なるラクスの娘でありコピー?
しかし、フレイの言葉が確かなら、彼女もまたラクスの娘であるはずだ。見かけ上はほぼ同年齢に見えるし、姉妹と言われても信じてしまうレベルだが──
それをシンが指摘すると、フレイは額に玉のような汗まで浮かべ、少しずつ語り始めたのである。
タロミ・チャチャとラクス・クライン、そしてフレイ・アルスター自身に纏わる真実を。



「……だからって。
俺に、どうしろってんだよ。なんで、ほぼ見ず知らずの俺なんかにあんなこと」
一部始終を思い出しながら、シンは頭をかきながら情けなく座り込むことしか出来なかった。
フレイは全てをシンに告げた後、彼女らしくもなく、突然その場から逃げるように走り去ってしまった。口を懸命に抑えているように見えたのは、何だったのだろうか。
話している途中から、随分と苦しげにしているとは思ったが──その理由が、シンには皆目分からない。
彼女と入れ替わるようにして入ってきたレイラが、哀しげにじっとシンの背中を見つめている。
「──シン様。
姉上を巡る今のお話、信用出来ないのは当然です。
しかし、『出来る』というだけで、どれほど人道から外れたことでも為そうとする──
そういった人間は、いつの世にも一定数いるものですわ」
「だから、ステラをこうするぐらい、朝飯前だってのかよ!!」
フレイ・アルスターさえ何とか出来れば、マユも助けられると思っていた。
だが、ことはそう単純なものではなかった。フレイはむしろ、全てを奪われ、全てを背負わされた被害者だったのかも知れない。彼女の言葉を信用するならば、だが。
世の中、誰かを殴れば解決出来るものではない。そんなことは嫌というほど思い知らされてきたはずなのに。
ステラの周囲を何重にも覆い尽くしている、どんなに殴ったところでひび一つ入りそうにない強化ガラス。そこに拳を打ちつけながら、シンは虚しく叫ぶしかなかった。







酷く熱い蒸気を頬に感じ、サイは重い瞼を開いた。
吹き飛ばされた衝撃でほんの少し意識を失いながらも、幸運にも頭まで水底に沈むことはなく、何とか呼吸ぐらいは出来ていたらしい。
勿論、胸から下はどっぷりと泥水に浸かっていたが。
紅く霞み続ける視界の中で、サイは奇妙な蒸気の正体を探ろうとして身体を動かそうとする──
その途端、右のわき腹を鋭利な刃物で骨まで抉られたような激痛が、脳天までを貫いた。
「ぐ……っ!!」
同時にやってきた酷い眩暈で気を失いそうになりながらも、サイは傷を確認する。
しかし傷の状況を見た瞬間、彼は反射的に目を背けてしまった。



──これは、内臓まで露出したかも知れない。



これ以上見たら、それだけで気を失いかねない。
そう判断したサイは、それでも身を起こして移動を続ける方法を考えた。
腹部から流出を続ける血は、濁った水面をさらに赤々と染めていく。これまでサイの身を幾度も守ってきた防弾チョッキも、今の衝撃で大きく破れてしまった。
チョッキの破損状況から考えると、まともに破片が当たっていたら、上半身と下半身が分裂していたかもしれない。ルナマリアが完全にチョッキを脱がしてくれていなくて助かった──しかし。
痛みのせいか、それとも神経のどこかをやられたのか、右脚に力が入らない。
その時サイは、すぐ頭上で何かが小さな炎をあげて燻っているのに気づいた。
咄嗟に振り返ると、そこにあったものは──
つい先ほど墜落したらしき、黒ダガーL。恐らくその脚部と思われる、鋼鉄の残骸。
メイン動力部から引きちぎられた断面からのぞく、無数のケーブル。切断されたそれは、倒れたサイのすぐそばで今も小さな閃光を撒き散らしながら、バチバチと嫌な音をたてている。
さらに切断面の奥に、炎が揺れている様子まで見てとれた。サイが感じた蒸気は多分、爆散し燃え残ったこの装甲が湖に落ちたことによるものだろう。
いつまた爆発するか分からない。すぐに離れなければ──
サイはそう思ったものの、そう簡単に自分の身体は動いてくれなかった。
どうする──?
痛みで乱れる呼吸を何とか抑えつけながら、サイは周囲を探る。



このままじゃ、歩くことさえ出来ない。
何か……何か、支えになるものが欲しい。木切れの一本ぐらい、流れてきてくれてもよさそうなのに。



目指すティーダ・Zの光は先ほどより近くなったはずだが、それでもまだ大分距離があるように思える。具体的な数値にすると、あと50メートルといったところか。
しかし痛みが身体を貫くたびに、あと50キロあってもおかしくないように錯覚する。
だがサイはその時、すぐ横で燃えるダガーLの脚部に──
主に整備に使うであろう、昇降用のステップが取り付けられているのに気づいた。
ステップとはいえ、鋼鉄の装甲に1メートルほどの鉄棒をそのまま何本かくっつけたような、今どきあまり見ないお粗末なものだったが、サイにとってはむしろ好都合といえた。
爆発の衝撃で、一部塗装が剥げ片側が外れかかっているものまである。それも、サイがその場から手を伸ばせばすぐ届く距離に。



──これを使えば。



そう思い立ったサイは、熱さに顔を顰めながらも、上半身を引きずるようにしながらゆっくり機体の残骸に近づいた。
右手の拳をタキシードの袖口で覆い、その状態で試しにステップを掴んでみる。
案の定、鋼鉄の棒は限界まで熱せられていたようで、布ごしでも酷い高熱が伝わってきた。
まるで濡れたハンカチにアイロンをかけた瞬間のように、凄まじい蒸気がサイの顔を覆い尽くす。
それでもサイはステップから手を離そうとせず、何とかそいつを機体から引き剥がすべく、全身に力を籠めた。



「ぐうっ……!!」



無理な力を入れたせいで、明らかに出血量が増えたのが分かった──
それでも。
それでも俺は、ナオトを助ける。
それが、今俺に出来る、ただ一つの……!



掌を焼くほどの熱と、傷口から迸る痛み。
いつもとは違う場所から空気が漏れているような違和感を伴った、ゼイゼイと荒い呼吸。肺のどこかも傷つけられたのだろうか。
それでもサイは決して、焼け落ちかけたステップから手を離そうとはしなかった。
今まで殆ど気づかなかったが、以前よりも明らかに、自分の右腕の力は増している──
左腕が自由にならなくなった分、右の筋力が余計に強くなったのだろう。
通常であれば、いくら脆くなったといえ、モビルスーツの機体の一部を無理矢理素手で、しかも片腕で引き剥がすなど出来はしない。
しかし今のサイは、右腕でステップを掴んだだけで、何とかそれをぐらつかせることには成功していた。当然、尋常ではない痛みが爪先から頭までを貫いていたが。



──あと少しで。



足を踏ん張れない代わりに、サイは腹から盛大に出血するのも構わず、右腕と拳にぐっと力を籠めた。
蒸気だけでなく、布やその下の皮膚まで焼ける嫌な臭いが漂う。
ここでもし、おあつらえ向きの木の枝でも流れてきたら助かるけど、間抜けだな──
そんなことをちらりと考えつつ少し周囲を確認してみたものの、やはりそれらしきものは見当たらない。
──仕方ないか。上の戦いは、木なんて一瞬で全て焼き払ってしまうレベルのものなんだから。
そう思いながら、サイは握りしめたステップをがむしゃらに上下左右に揺さぶった。
空では相変わらず、ストライクフリーダムとインフィニットジャスティスが閃光のぶつけ合いを続け、アカツキが周りに群がる黒ダガーLを払い落としている。
そのすぐ下で、何も知らずに佇むティーダZ。
さらにその横では、まだ立ち上がれない紅のストライクフリーダムが、湖上で膝をついている。
そこまで損傷しているとは思えないのに未だに復帰しないのは、あまりに超人じみた戦闘に割り込むのは無謀とチグサが考えたのか、それとも別の要因によるものか。



──どちらにせよ、これ以上俺たちに攻撃を仕掛けてこないのなら、それでいいさ。



サイは無理矢理チグサの件を、頭の中でそう片づけることにした。
マユのことは気にかかるが、今はどうしようもない──
そう考えた時、また身体の奥から痛みが突き上げた。
右腹の奥までを貫いて身体に入れられたナイフが、中で無理矢理進行方向を変え、さらに肋骨の下あたりまでねじりこまれるような痛みが──
「あ、あぁ、あ……がっ!!」
吐き気までこみあげ、掴んでいたステップから思わず手を離しかけてしまうサイ。
顎や額を何やら熱いものが流れ、止まらない。
泥水だと思ったそれが血だと分かったのは、上空の閃光で一瞬映し出された、水面に僅かに映った自分の顔を見た時だった。



──駄目だ。
これ以上、俺は、自分の無力を味わいたくはない!!



喉の奥から、殆ど言葉の体を成していない呻きが漏れる。
無理に叫んで力を入れようとしても、こんな低い唸りにしかならないのが情けない──
それでもサイは、瞼から血が入り込むのも構わず目を見開き、右腕に全精力を籠めた。
「がああぁあああぁ……っ!!」
そんな想いに、遂に天が応えたか。
彼の眼前で、揺さぶられていたステップはバキリと音を立てて装甲から外れ、ただの棒切れと化した。
勢いあまって背後に尻もちをつきかけたサイだが、やっと手にした支え──
自分の脚の代わりとなる鋼の棒切れを、すぐに泥の湖面に突き立てる。
杖がわりになったそれはまだ熱をもっていたが、袖口で掴めば問題ない程度まで熱はおさまっていた。
突き立てた金属棒に全体重をかけるようにして、サイは今一度立ち上がり、泥水の中を進み始める──
血まみれの身体の頭上では、未だに戦場の爆光が閃いていた。



──そうさ。
偽善と言うならば、言え。
俺はナオトも、フレイも、キラも、アマミキョも。
これ以上、誰も失いたくないだけなんだ。







その同時刻──
ヤエセを中心として、膨大な数の避難民の移送を担っていたアマミキョ。
しかしこの時、ブリッジを中心として構成されたメインブロックは、従来と同様に他ブロックを切り離し、再び北チュウザン上空に飛び立っていた。
再建前と同様に、船体分離機構を備えていたアマミキョはそれまでも、分離させたブロックを北チュウザン各地へ派遣しつつ避難民の誘導と支援を続けていた。しかしメインブロックが主だって動くことは殆どなかった。
だが今、新生したアマミキョブリッジでは、トニー・サウザンが堂々と指揮を執っている。
きっかけは、アークエンジェルからの通信。
あの艦から直接、キラ・ヤマトとラクス・クラインを追いかけて出発したという情報を受け取った時──
隊長たるトニーの中で、何かがざわめいた。



行くべきだ。
そこに、目指すものがある。



降ってわいたようなその呼びかけが何なのか、トニーには分からなかった。セレブレイト・ウェイヴがもう発射されたのかと、一瞬誤解したくらいだ。
ただ、自分の血の中で、逆らいがたいものが騒ぎ出している──
そう感じた時には、トニーはアークエンジェルとの随行を指示していた。
唐突にしか思えないと彼自身も思った、トニーの命令。
それでもクルーたちは何故か、トニーの指令にさほど抵抗を示すこともなく。
彼らは驚くほどてきぱきと動き、これまでにない速さで分離作業を完了させ、メインブロックを離陸させていた。
その理由はただ一つ──
多少の差はあれど、アマミキョに搭乗したクルーほぼ全員が、トニーと同じ感覚を味わった為だ。
ウーチバラでの出航からずっとアマミキョに乗っていた者らは、特にその感覚が強いらしい。女医スズミなどは、乗員の動きに当惑するトニーを通信ごしに叱咤激励したほどだ。
その時、彼女はこう言った。



──恐らく、そこでティーダが呼んでいるのでしょう。この船を。



今ブリッジの中央に立ちながら、トニーは呟いた。
「もしかすると、そこにサイ君もナオト君もいるということか」
誰にも聞かせるつもりのなかった、トニーの言葉。しかしすぐ右脇の通信席で、それを受けたかのようにヒスイが応えた。
「もしかすると──ではなく、間違いなくいます。
感じるんです。サイさんたちを」
状況に相応しくないあいまいな言葉だったが、それ以外に彼女はこの感覚を表現しようがなかったのだろう。
そんな彼女に耳打ちするように、トニーは出来る限り声を低くして囁いた。
「それは、私にも分かる。
しかし、先ほどまでは何も感じなかった──」
「スズミ先生も仰っていましたが、恐らくティーダに何らかの異変が発生したのではないでしょうか」
「その影響が、アマミキョにまで及んだと?」
そんなトニーの疑問に、ヒスイはいつもよりさらに声を落しつつも、比較的はっきりとした口調で言った。
「隊長は、覚えていないですか?
副隊長が、私たちをアマミキョから脱出させた時の言葉を」
「サイ君の言葉……?」
「アマミキョを、南チュウザン軍が──フレイ・アルスターが襲った、本当の理由です」



──恐らくその秘密の為にこの船は、フレイ自身の手で破壊されようとしているのだと思う。



トニーも思いだした。
あの時サイは、皆がアマミキョから無事脱出出来たら、真実を話すと約束したはずだ。
「私たちの中の不可思議な感覚も、その秘密に関係あるのではないでしょうか。
この感覚は、アマミキョに長く搭乗していた者に特に強く顕れているようです」
「ならば、やはり……」
トニーは改めて、両腕を組み直し宣言した。
「サイ君を問い詰めねばなるまいな!
何としても教えてもらおうじゃないか、その秘密とやらを!!」
状況の深刻さにも関わらず、豪快に笑ってブリッジを見回すトニー。
一部は苦笑しながら彼を見ていたが、クルーはほぼ全員一糸乱れず、アマミキョの操舵に専念している。
新しくアマミキョに乗り込み、サイやナオト、ティーダを直接知らぬ者もいたが、彼らも並み居る先輩の勢いに押されるようにして動いていた。
それもまた、説明も抵抗もしがたい感情が、彼ら後輩たちの胸に湧き上がってきたからとも言える。
ただ、この感情は決して心を高揚させる類のものではなく、むしろ酷い焦燥に近いものだった。
行かなければ、自分たちは命にも近い何かを失う。そんな、強迫観念にも似た衝動。
アマミキョが未だ持つシステム内のブラックボックス、その全貌を──
彼らはまだ知らなかった。知らないまま、動いていた。







ティーダZを巡り、再び激突を余儀なくされたキラとアスラン。
ダガーLの大軍の横槍もあり、ストライクフリーダムとインフィニットジャスティスの戦いは、未だ決着がついていなかった。
湖へ落ちていくダガーLの破片に気を配りつつ、無防備にもコクピットを晒したままのティーダZを庇いながら、2機は果てしなく火花を散らす。



「キラ……
お前は、カガリにまで刃を向けるつもりか!」



激情したアスランは叫ぶ。この言葉が、キラの動揺を誘うことを期待しながら。
ラクスとカガリの二人をずっと守ってきたキラにならば、届くはずだと信じながら。
その一方でアスランは瞬時に、ストライクフリーダムの無力化を試みた。



──絶対に、キラを殺すわけにはいかない。
何とかあそこから引きずり降ろして、何があったのかを問いたださなければ。
今のままでは、何も分からない!



自機に装備されている、シュペールラケルタ・ビームサーベル──
ストライクフリーダムと同一の、双対の光刃。アスラン機は大きく左側を機体を捩じるように回転させ、右腕側に装着された刃を素早く左腕のそれと連結させた。
アスランの得意技とも言える、連結ビームサーベル──アンビデクストラス・ハルバード。
それを今彼は、よりにもよってキラに使おうとしていた。
キラの十八番たる、全武装解除。いつかキラにしてやられたその攻撃を、今度はやり返す為に。



──デスティニーにだったら、通用した。
しかし、キラには……?



迷いを抱きながらも、ストライクフリーダムの両腕部に一瞬で狙いを定めるアスラン。
「武器だけでも、捨てさせる!」
連結した光の刃を携え、黒雲を貫くように真上に飛翔するインフィニットジャスティス。
しかしキラがその動きを見逃すはずもない。かつてはザフトのトップエースに君臨し、今も腕自体は向上しつつあるアスランだったが、そんな彼の速さにキラは悠々と追いついてきた。
右腕部を一閃しようとした瞬間、モニターから消えるキラ機。
気付いた時にはすぐ右横に、ストライクフリーダムの翼が見えた──
同時に、アスランは見た。大きく開かれた8枚の翼の間から、よく見覚えのある青い閃光が迸る光景を。
「まさか、ドラグーン!? 地上で……っ!」
何故キラが地上でそんなものを使ったのか。考えるより先に、手は動いていた。
CIWSを起動させ、アスランは機体正面に弾幕を張る。ドラグーン相手であっても、これは有効な戦術のはずだ。
霧の中に糸のように撃ちこまれる、無数の細い光弾。炎に触れた雷雨は一瞬で霧に変わり、アスラン機の周囲を満たす。
それを縫うようにして、エメラルドの閃光がインフィニットジャスティスに向かい、宙を駆け抜けてくる。
当てても被害が武装のみで済むよう、最小出力で。
恐らくこのドラグーンは、ビームポッドを機体に装着したまま発射されている。確か、レイ・ザ・バレルのレジェンドガンダムがそうだった──あいつはドラグーンを地上でも、可動砲台として使っていた。
しかしストライクフリーダムのドラグーンは、キラ専用に作られた特別製のものだ。
それ故、大気圏内での運用は不可能だったはず。だが今、大気圏外とほぼ同様に使用出来ているのは──
「あいつ……また、システムの書き換えを?」
キラならばあり得る。そう確信しつつ、アスランはさらに全神経を研ぎ澄ませ、ドラグーンの回避に集中した。
例えキラのドラグーンだろうと、必ず当たるとは限らない。
当たったとて、衝撃に耐えられれば問題ない。機体が耐えられなくとも、俺が耐えられれば!
アスランは咄嗟にビームキャリーシールドを掲げる──当然、ドラグーンのうち数発が盾めがけて炸裂した。
その着弾により、アスラン機を取り囲む煙と霧は一層その濃さを増していく。
コクピットは警告音の協奏曲が響き渡り、操縦者たるアスラン自身にも尋常ならざる衝撃が襲っていたが──
気絶さえしなければ、こっちのものだ。
霧の中を無数に飛び交うエメラルドの閃光を間一髪で避け続けながら、アスランはシールド外装からグラップルスティンガー──巻き取り式ワイヤーを射出した。
狙うは勿論、雨と硝煙の間からほんの少し覗く、ストライクフリーダムの両腕部。
ほんのわずかな隙だが、これで絡めとれれば。
腕を封じたところで、他にいくらでもキラには攻撃手段があるのは分かっている。だが、そのうち一つでも潰しておくのは、悪くないだろう。
──しかし、ワイヤーがどうにかストライクフリーダムの拳あたりに到達しかけたと思った瞬間。
突如、コクピット内の警告音が一つ増えた──
と同時に、足元からせり上がった巨大な鉄板に身体ごと殴られたような衝撃が、アスランを襲う。
「ぐっ……!!」
目玉が脳にめりこみかねない叩きつけに耐えながら、彼はサブモニターに視線を走らせた。
機体の破損状況を示す右側のサブモニター。それは、左脚関節部に被弾した事実をアスランに教えていた。
死角に潜り込んでいたドラグーンにやられた──
そう確信しながら、アスランは襲いくる落下の重力に耐える。
同時に聞こえてきたのは、キラの声。



<ラクスをこれ以上傷つけようというなら──
僕は君も、アークエンジェルも、許さないよ>



そこでカガリの名を出さなかったのは、キラに残った最後の良心か。
自然落下を始める機体の中で、アスランはそれでもなお諦めはしなかった。
ブラックアウトしかかる視界の隅に、僅かに金色に光るものを捉えたとほぼ同時に、
キラとは別の声が、叱咤するようにアスランを打つ。
<アスラン! 
しっかりしろ、今助ける!>
それは勿論、金色に輝くアカツキ──
通信から響くムウ・ラ・フラガの声が、一瞬カガリのそれに思えたのは、気のせいだったろうか。
その瞬間、アスランは再び指を操縦パネルの上に走らせる。
100m先の針穴を狙うような無謀な試みだが、やらないよりはマシだ。
「何とか……入射角の精度を微調整……これで!!」
この時アスランも機体も、地表に対してほぼ逆さになりながら落下しつつあったが──
それでもインフィニットジャスティスは、紙一重でドラグーンを回避しつつビームライフルを撃ち放った。
しかしその銃口が狙ったのはストライクフリーダムではなく、味方のはずのアカツキ──その鏡面装甲。
アスランの狙いに勘付いたのか、アカツキも射撃を停止し敢えてその場で動きを止める。
同時にストライクフリーダムの機動にも、僅かな動揺が見て取れた。



かつてのシンもフリーダムに対してやっていた、シールドにビームを反射させての攻撃。そいつの応用だ。
まさか味方を撃ってその反射を利用して自分を攻撃してくるなんて、さすがのキラでも予想外だろう──
そう考えたアスランは、アカツキに反射した直後の閃光を目だけで追った。
<ふー、なかなか危ないことしやがって……
俺でなけりゃ、逃げちまってるぜ>
警告音と共に響く、フラガの軽口。
その言葉も終わらぬうちに、ストライクフリーダムの左脚部末端に閃光が炸裂した──
アスランの放った、起死回生の一撃。
これだけではとてもストライクフリーダムを止めるまでには至らないが、それでも一矢報いるぐらいは、出来た。
左脚部、その爪先に当たる部分が砕け散り、さらにその光は背中の翼の端あたりまでも掠めていく。
だが、こういったアスランの奮闘の結果──
「……しまった!」
アスランが小さく叫んだ時には、もう遅く。
その破片は、下で佇んで動こうとしないティーダ・Zに、そのまま落下していくことになった。







上空で何が起こっているのか、今のサイには殆ど分からなかった。
彼に分かっているのはただ、自分のすぐ頭上で相変わらず、キラが戦っているという事実だけ。
それにより、自分の身がさらに危険に晒されているということも。
否──自分だけではない。やっと眼前にまで来ることが出来たティーダ・Zにまでも、焼け落ちた鋼鉄の破片が次々と降ってきている。



──頼む。
ナオトにだけは、落ちないでくれ。



ただひたすらそう願いながら、サイはやっとの思いでティーダ・Zを見上げる。
相変わらずコクピットが剥き出しになったままのティーダ。幾度もその装甲に当たっては湖に落下し、大きく蒸気と飛沫を上げる鋼鉄の塊。
その熱い飛沫を顔面にまともに浴びながら、サイはよろよろと身を起こした。
先ほど無我夢中で抜き取った金属棒はまだ杖がわりになってはいたが、もうサイに身体を動かす力は殆ど残されていなかった。
彼の移動した後の湖水は血で染まり、上空の戦闘の余波たる鋼の破片が何度も身体を掠めていた。
おかげでタキシードの両袖は殆ど吹き飛んで皮膚が露出し、ズボンも右膝あたりまでが大きく破れている。



──これじゃ、裸で戦場に放り出されているようなもんだ。



サイはぼんやりと自虐的に考えつつ、それでもティーダに向かって進んでいた。
ぼんやりと白い光を放ち続けるティーダの武装。そこにも容赦なく破片は落ち続けていたが、幸いナオト本人に、まだ当たった様子はない。
しかしそれは、恐らくただの幸運にすぎない。いつ巨大な盾の破片が上空から落下し、ナオトを叩き潰すか──
ティーダまでは、残り恐らく20メートルもない。何とかこの距離から、ナオトにもう一度呼びかけられないか。
そう念じながら、サイは力いっぱい頭を上げる。最早上半身を支えていること自体が苦しい状況だったが、それでも。
だが、サイが喉から声を振り絞ろうとしたその瞬間──
「ナオ……っ!?」



まるで名前すら全て呼ばせまいとするかのように、サイの頭は横薙ぎに弾かれた。
左こめかみ付近をゴルフクラブか何かで殴られたかの如き衝撃と共に、彼の意識は一瞬遠くなる。
サイが何とか把握出来たのは、飛んできた少し大きめの金属片が、まともに側頭部を直撃したということだけ。



駄目だ。
まだ、死んじゃ、駄目だ。
俺にだって、まだ、出来ることがあるなら!!



飛びかけた意識を宙で掴み、たぐり寄せるように無理矢理に引き戻すサイ。
血まみれになった両膝を湖の中で踏ん張り、後方に大きく仰け反りかけた上半身を強引に元に戻そうとする。
その結果、サイの傷口から残りの血が一斉に噴きだした。
自分の身体に、まだこれほどの血液が残されていたのかと驚愕するほどに。



それでもサイは、声を上げた。輝き続けるティーダ・Zの真正面で。
ろくに言葉の形を成していない声。それでも彼は、荒れ狂う雨と爆光の中で叫んだ。
獣のように全身を震わせ、天へと首を振り上げ、血の溢れ続ける内臓までも総動員し、骨の全てを砕かんばかりの
──命の声。
それは絶叫というより、咆哮に近いものだったかも知れない。
彼の叫んだ言葉は、ナオトに戻れと訴えるものだったか。
もしくは、キラたちに戦闘停止を叫んだものだったか。
自分自身にも意味が分からない、言葉としてすら成立していない声。
全身から血を噴き出し、それでも何かを成そうとする男が叫んだ言葉は──
そのまま天へ虚しく吸い込まれるだけに見えたが。







──ナオト、気づいて。
私は、そこには、いない。
私はまだ、ここに、いる。







「マユ……?」
ナオトはその瞬間、ようやく気づいた。
ティーダに乗ったまま、ずっと夢の世界に囚われていた自分に。
ぎゅっとこの腕に抱きしめたはずのマユが、ふと顔を上げて呟いた言葉によって。



──ナオト。
私はまだ、ここには、いない。
私はまだ、ナオトのすぐそばに、いる。
ナオトを、待ってる。



その声と同時に、ナオト・シライシは目を開いた。
見えたものは、コクピットが剥き出しになり雨と砲弾に晒されている、自分の機体。
そして聞こえたものは、彼が何よりも守りたかった者の、叫び。
「サイ……さん?」



刹那──
彼は、自分が今成すべきことを、理解した。
いつだったか──母を目の前で失った時に幻視した、闇の中で白く輝く宝石。
それが叫びと共に、再び粉々に砕かれていく。







ずっと湖に蹲っていたストライクフリーダム・ルージュの中で。
チグサ・マナベは、より一層酷くなった頭痛に苦しめられ、悲鳴を上げ続けていた。
キラの手助けどころか、機体を操ることすらも出来ない。
あの男が──
サイ・アーガイルがティーダに近寄っていくのが分かってても、何も出来なかった。どんどん、自分の中の声が大きくなっていったから──
そして、今。
あの男がティーダの前で倒れかかったと思ったら、突然ティーダの発光が激しくなった。
爆発かと勘違いするほど、あまりに強烈なその光。
チグサは思わず目を瞑り身体を屈める。眼を閉じてもなおその輝きは瞼を貫通して眼球を刺激し、熱さも肌で感じられた。
その唇からいつの間にか転がり出た呟きは、チグサ自身、信じられないものだった。
「ナオ……ト?」
何故。何故今、あの忌々しい小僧っ子の名前が。
あいつの名前とか、口にするのも煩わしすぎるくらいだったのに──
「うるさい! アタシは……私は……!!」
激しい頭痛に苦しみ、全身で頭を抱えるチグサ。彼女の身体を、光が包み込んでいく。
その時、軽い衝撃と共にコクピットが上下に乱暴に揺さぶられた。
通信から響いてきたものは、キラの叫び。
<チグサ!
今すぐ逃げるんだ、ここにいちゃいけない!>
「えっ?
で、でも、まだティーダが!」
<見れば分かるだろう、もうティーダには触れられない。
とにかくここから離れるんだ!>
有無を言わさぬ、キラの声だった。
チグサは震える手で操縦桿を握り直したが、それより先に機体の方が勝手に上昇を始める。
サブモニターを確認すると、すぐそばにストライクフリーダムが舞い降り、チグサ機の右腕を取って半ば強引に引き上げようとしているのが見えた。
同時に、チグサの意志に反してどんどん浮き上がっていく機体。
そして、湖面に広がっていく閃光は──
物理的な衝撃波まで引き起こし、湖を大きく波立て、やがて光を中心とした竜巻まで形成しつつあった。
「これ……まさか、あの時の電磁パルス!?」







同時刻、ミネルバJr。
ブリッジでは索敵のバートが、突如声を荒げていた。
「艦長! ティーダZからのシグナルを確認!
ブックオブレヴェレイション・オーバードライヴ、照射開始しました!」
「何?
馬鹿な、こんな処で!?」
どよめくブリッジに、狼狽するアーサー。
しかしすぐに冷静さを取り戻し、間髪入れず指示を送る。
「電磁シールドシステム、起動!
周囲の援軍にも可能な限り伝達だ」
だがその指示が終わるや否や、アビーが悲鳴の如き報告を上げてきた。
「……これは!
先日のオギヤカ付近における照射よりも、遥かに巨大なエネルギーが観測されています。
本艦の電磁シールドでは間に合わない可能性も……うっ!!」
彼女が報告を満足に負えない内に、ブリッジが衝撃で上下に激しく揺さぶられる。
全員が天井に叩きつけられかねないような震動に振り回されたが、必死で耐えるクルー達。
火器管制担当チェンの、絶叫が響きわたる。
「メインスラスターシステムにエラー発生!
推力が低下しています!! 現在、通常の80%を切り……」
それに対抗するかのような、アーサーの声。
「構わん! 予備エンジンも全て投入後、最大出力で立て直せ!
何としても目的地までもたせるんだ!」







「これは──!?」
一体何が起きた。キラとの戦闘中、突然眼下にいたティーダが輝き始めたと思ったら──
アスランはティーダを中心に広がり続ける光に対して、殆ど棒立ちも同然の状態になっているしかなかった。
咄嗟に危険を感じ、機体を瞬時に光から遠ざけたものの──
衝撃波まで伴い膨張を続けた光はやがて爆発し、虹のような七つの色を帯びながら一息に拡大していく。
通信ごしに轟く、フラガの声。
<ぼさっとするな、逃げろ! 
コイツはまずい、EMPも一段と強くなってやがる!>
「分かってる!」
反射的に操縦桿を掴み、インフィニットジャスティスを機動させるアスラン。
しかしその脳裏に、何故か直接訴えかけるものがあった。
「何だ?
これは……声?」



──やめろ。
もう、やめろ。もう、戦うのは!
これ以上は──やらせない!!



不可思議な鐘の音と共に、光の中心から聞こえた声。
それは一つかも知れないし、複数のような気もした。
ただ確実なのは、声を聞いたと同時に、アスランの手足、指先、瞼までが突如痙攣を始めたという事実。
「思いだしたぞ……
ティーダの光。これほど強くなっていたとは!」
そう、確かに自分はこの光を浴びたことがある。
ミネルバがまだ健在だった頃──ティーダの確保を命じられ、アマミキョに乗り込んだ時。
何故か自分の記憶が消え、戦闘データも書き換えられていたあの事件。
あの時も、今と同じように──鐘の音と一緒に、こちらの動きが酷く阻害された。
当時のセイバーにはティーダ対策としての防護機能が施されていたが、今の自機には通常の遮光フィルタがあるだけだ。
しかもこの光は、あの時の数十倍以上もの威力をもって、全てを消し去らんばかりの勢いで拡大しつつある。
考える前に、動け。そう念じたアスランはスラスターの出力を全開にして、翼を引きちぎらんばかりの上昇をかけた。
急制動によるGに耐えるアスランの瞳に、わずかに映った光景は──



光と霧の中から生まれていく、うっすら虹色を帯びた光の翼。
それが持つエネルギーは衝撃波となり、湖上空を覆っていた黒雲をほぼ全て、一瞬で吹き飛ばした。
硝煙の立ち上る湖の上に突然広がった、恐ろしいほどに青い、青い空。
やがてその翼は厳かに、ゆっくりと広げられていく。湖全体を抱きこまんとするほどにその羽根は広がり、翼の先端では光の粒子が次々と集まり続け、新たな羽根を形成し続けていた。まるで、樹が枝を伸ばしていくように。
翼の主たるティーダ・Zはその中心で、ただ一体だけで静かに佇んでいる。
光の翼に護られるようにして、両腕をほぼ線対称に組み合わせ、祈りを捧げるかのように何かをその手に抱え込んでいる。
まるで小さな小鳥を抱くかのように、そっとそれを両掌で守り、見つめているティーダ・Z。



ティーダ・Zが抱いているものが何なのかは、アスランの目でも分からなかった。
響き続ける鐘の音はいつしかメロディーを形づくり、それは何故か一つの歌のように聴こえてくる。
青く澄みきった空に舞い上がる、虹色に輝く翼。
翼がゆっくりと動くたびに──
眼下の地上では、次々に閃光が煌いた。
先ほどまで雲霞のようにアスランたちに群がってきた黒ダガーLが、殆ど動くことも叶わず地表へ墜落し、火球に変わっていく。
それは、湖の向こうから接近してきたデストロイガンダムも同じだった。
恐るべき巨躯と火力を誇った戦略兵器でさえも、ティーダの力の発動の前にはなす術なく、砲の付近から次々と炎を噴いて完全に動きを停止した。
盛大な火柱を噴き上げるデストロイ。その遥か向こうに──
光の筋を残して微かに羽ばたく青い翼を、アスランは見た。間違いない、ストライクフリーダムを。
双子のようにそっくりな紅の機体を引きずるようにして、青い翼はその場から、アスランの視界から消えかかっていた。
「キラ!」
思わず追いかけようとしたアスランだが、その途端、両腕に酷い痺れを感じた。
ティーダの光が持つ、パイロットの神経を直接攻撃する力だ。
「なるほどな……
俺は敵意をもってキラを追いかけようとしている。そう判断したか
──貴様は」
思わず怒りをこめて、眼前のティーダ・Zを睨みつけるアスラン。
その感情にさえも反応したのか、酷い頭痛まで始まった。
ほぼ同時に、コクピットにアラートが響く。母艦の危機を示す警報が。
「──アークエンジェル!?」
<しまった!>
アスランが反応するより先に、フラガの叫びが響く。
瞬時にサブモニターを切り替えると、今にも湖へ不時着せんとするアークエンジェルが映し出された。
「全く! 無理にキラと俺たちを追ったせいで……」
<あの高度なら、ノイマンの腕なら大丈夫とは思うが──
行くぞ!>
その言葉より早く、フラガのアカツキはアークエンジェルへと一直線に飛んでいく。
間もなく、湖岸の森から大地を揺さぶるような轟音が響いたかと思うと──
大量の土煙と飛沫が、泥の柱となって噴き上がっていった。







同時刻、大気圏外──
オギヤカ最深部で、シンは俄かに信じがたいものを見た。
紅の保存液が満たされたガラスケースで、眠っていたままのステラ・ルーシェ。
無数のチューブに繋がれ、魂を持たないはずの彼女の抜け殻。
それが──



一瞬だけ、目を開いた。



見間違いではない。シンの願望が生み出した錯覚ではない。
何故なら、そばにいたレイラまでも、驚きの声を上げたから。
「これは──『御柱』の力?
まさか、地上でティーダに何かが……サイ様!!」
レイラの声は驚いてはいたが、ほんの少しばかり嬉しさが込められているようにも感じた。
ステラが目を開いたのは数秒足らず。唇からもごぼりと大きな泡を噴きながら、彼女はそのまま静かに瞼を閉じてしまったが──
その奥の瞳が、元通りの綺麗な紅玉色だったことに、シンはどこか安堵していた。
「何で、ステラが?
地上で何が起こったってんだ?!」
「ティーダが、真の覚醒を果たしたのですわ。
お姉様の運命を、変える力が!」
唇を噛み、覚悟を決めたようにステラを見上げるレイラ。
幼い少女のそんな横顔を見つめながら、シンは彼女の言葉に引っかかりを感じ、ふと尋ねる。
「なぁ……サイ様って?」
戸惑うシンに対し、レイラは少し誇らしげに振り返る。
「お姉様に、世界を壊す決意をさせた御方。
お姉様がお姉様として生きる為に、絶対不可欠な御方です」







どのくらいの時間が、経過しただろうか。
頬に落ちた水滴の冷たさを感じ、ルナマリアは目を覚ました。
「あれ……?
私、どうしたんだろ」
酷い頭痛を感じながらも、ゆっくりと身を起こしてみる。
確か、湖の岸からティーダ・Zの光を見て──
衝撃波に巻き込まれかけたんだっけ。多分、ほんの少し気を失ってたんだ。
すぐ隣では、ヴィーノが倒木に凭れてぐったりと横たわっている。急いで脈と呼吸を診たが、気絶しているだけのようだった。
彼の頭の包帯を直しながら、ルナマリアは周囲を確認する。



戦闘音どころか、風のざわめきすらも一切聴こえない。
焼けた木からたちのぼる黒煙。何とか耳に入ってきた音は、木がちりちりと焦がされる音だけ。
激しい雨はやみ、空は先ほどまでは不自然なほど青く澄み渡っていたが、今はまた雲と湿気が戻り、あたりを濃い霧に包んでいる。
霧の向こうにぼんやりと見えるものは、ティーダ・Zの光。
あれだけ拡大していた七色の翼は消滅し、ティーダは殆ど全ての力を失ったかのようにじっと湖に佇んでいた。
水面から両手で何かを掬い取るような姿勢で、機体を跪かせたまま。



一枚の絵画のように動かない風景。
静寂を破るのすらもためらわれる状況下、ルナマリアはゆっくりと、湖へと足を踏み出した。
サイは、ナオトは、一体どうしたのだろう──
嫌な胸騒ぎに背中を押されるようにして、泥だらけの足で一歩一歩、水へ踏み込んでいく。
激しい戦闘の連続とデストロイの砲撃により、湖水は大分蒸発してしまい、かなり進んでいっても彼女の膝ぐらいまでの深さしか残っていなかった。
湖水の殆どは霧となり、大気中を漂っているのだろう。温泉と言ってもおかしくないくらい、水温は上昇している。
そのままさらに進んでいくと、やがてティーダ・Zの様子が少しずつはっきり見えてきた。
雫を掬うように水面に浸された、鋼鉄の両掌部。



そこではナオト・シライシが──
じっと頭を垂れたまま座り込み、食い入るように何かを見つめていた。



「ナオ……」
ほっとして思わず呼びかけようとしたが、ルナマリアはその声を途中で止めた。
静けさを破るのがためらわれたから、というのもある。
しかし何より、彼の肩が小刻みに震えているのが分かったから──
そして、見開かれたままの大きな両眼から、次々に涙が流れ落ちているのが分かったから。
静寂の奥から微かに響いてくる、水滴の音。それは、ナオトの涙の音のような気もした。



まさか。
胸の中で膨らんでくる悪寒に、ルナマリアは思わず走り出していた。
飛沫を上げるのも構わず、彼女はナオトの許へと一気に駆けていく。
彼女が静寂を破ると同時に、森が目覚めたかのようにあちこちでざわめきが起こったが、ルナマリアは殆どそれに気づかずナオトに走り寄っていた。
「ナオト!
無事だったのね、良かった」
そんな彼女の声にも、ナオトは殆ど反応しない。
水面に殆ど沈みかけている彼の両膝に視線を落としたルナマリアは、思わず言葉を失い──
そして同時に、ナオトの涙の理由を即座に理解した。



ナオトの両膝の上に横たわっていたのは、全身血まみれの青年。
着ていたタキシードは両袖も裾も吹き飛び。
ルナマリアが巻き直したはずの包帯も、殆どがぼろぼろの残骸と化し、鮮血に染まっていた。
彼女が診た時よりも彼の傷は明らかに深くなり、右腹部はどこでやられたのか大きく抉られ、骨と内臓の一部が露出しているようにさえ見えた。恐らく、その傷からの出血が最も酷い。
その眼は開くことなく固く閉ざされ、口元には大量吐血の跡がはっきり残っていた。
動くことのない水面にそっとその身体を浸しながら、ナオトはひたすら泣きじゃくっている。
「僕が……
僕が、守るって言ったのに。
もっと早く、僕が戻ってきていれば──!!」
大粒の涙がナオトの頬を流れ落ち、青年の──
サイ・アーガイルの額を濡らす。
その皮膚は、飛び散った鮮血の赤に対して、恐ろしく白かった。



ルナマリアはその呻きに直接は答えず、ナオトの正面に座るようにして、そっとサイの手首に触れる。
自分でも手ががたがた震えだすのが分かったが、どうにか冷静さを保ちつつ胸にも触れ、心音を確かめる。



「──そんな」
眼前の現実が信じられず。
ルナマリアは咄嗟に、サイの口元に耳を近づける。
冷え切った唇が、彼女の耳たぶをそっと撫ぜたが──
その呼吸は、完全に停止していた。



サイに呼びかけながら、呼吸と心音を幾度も確かめるルナマリア。
そのたびに、首を横に振り続けるナオト。
「何度も人工呼吸したんです──心臓マッサージも、除細動も。
でも……でも!!」
それを証明するかのように、ティーダのコクピットからサイの身体に、何本かのケーブルが伸ばされていた。恐らくナオトが、コクピットシート裏に取り付けられている除細動装置を試したのだろう。それ以外にも、思いつく限りのあらゆる蘇生手段を彼は試したのだろう。
しかしそれでも、サイは目覚めない──
いや。まだ、諦めたくない。諦めてたまるものか。
歯を食いしばりながら、ルナマリアは除細動装置のケーブルに手を伸ばす。
その時──



不意に人の気配を感じて、ルナマリアはそっと振り向いた。
見ると、浅くなった湖をかきわけるようにして、どんどん人が集まってきていた。ティーダとルナマリアたちに気づいたのか、ざわめきが静寂の中へ広がっていく。
真っ先に見えたのは、ミネルバJr艦長たるアーサーの顔。
それに追従するようにして、アビーの姿も見える。
「ルナマリア! 無事か!!」
自分は無事だが、他はとてもそうとは言えない。
アーサーに応答も反応も出来ず、黙りこくってしまうルナマリア。
そして、さらにそれより北の方向からは──
オーブの制服を着用した集団が、同じようにやってきた。
何故かその中には、随分懐かしい気がする人物──アスラン・ザラの顔も見える。
多分このオーブ軍服の集団は、アークエンジェルの乗員たちなのだろう。
反射的にルナマリアは、サイの身体をそっと抱きしめた。彼らから守るように。
ミネルバJrと、アークエンジェル──
かつて激戦を繰り広げた、未だ因縁の消えぬ艦のクルー同士が、こんなところで鉢合わせとは。
アーサーもそれに気づいたのか、怪訝そうにオーブ軍服の集団、そしてアスランを振り返った。
「アスラン……何故、君がこんなところに。
それに彼らは、アークエンジェルの者たちか」
アーサーにしてみれば、アスランがザフトを突然裏切り飛びだしていった豪雨の日以来の再会である。
彼がアスランを見つめる視線に、いつもの柔和さは皆無だった。
アスランの攻撃で、彼は多くの部下を失い、タリア・グラディスをも失うことになったのだから。
タリアの死因をアーサーは未だ知ることはなかったが、アスランの裏切りがなければ、今も彼女とミネルバは健在だったかも知れない──
不意にそんな思いに囚われたのか、アーサーは言い放った。
「帰りたまえ。
ここは、君たちのいる場所ではない。
アスラン──君が我々に何をしたか、分からない君じゃないはずだ」
そんなアーサーに、アスランは努めて冷静さを保ちつつ答える。
「自分は、キラ・ヤマトとラクス・クライン──
二人の変節の原因を知りたくてここまで来ました。
ここで何が起こったのか。キラとラクスに何があったのか。知りたいんです」
そんなアスランにアーサーが答えるより先に、彼の背後から突然怒声が上がった。
「ふざけるな!
お前、ヨウランがどうなったか知ってるのかよ!?
ヨウランだけじゃない、ミネルバのみんながお前のせいで、一体どんな目にあったか──」
その声の主は勿論、気絶から回復し救出されたヴィーノ。
彼の叫びと同時に、ミネルバクルーから怒号がアークエンジェル側へと浴びせられる。
「そうだ! 貴様らのせいで、グラディス艦長も!」
「お前らの身勝手で、世界中がどれだけ迷惑したか分かってるのか!!」
それに対し、アスランは目を逸らしたままじっと俯くばかり。
後ろに立つアークエンジェルのクルーたちも同様であったが──
その中から唐突に、やや落ち着きのある声が響いた。
「ミネルバ、と言ったな。
貴方がたもまた、我々とアマミキョに甚大な被害を与えたことをお忘れですか」
進み出たのは、連合軍パイロットスーツを着用した、一人の中年男性。
堂々と腰に片手を当てながら、彼はアーサーに相対する。
「失礼。自分は連合軍山神隊・伊能──アマミキョの護衛を任されています。
船を守っていたらここに来ていましたよ。かなり無茶な道中でしたがね」
その言葉は──
それだけで、ミネルバJrのクルーをたちどころに黙らせてしまう効果があった。
彼はザフトにとって、何よりも憎いはずの連合軍人である。しかし彼ら山神隊が守っているのは、かつてミネルバが誤って撃沈した民間救助船・アマミキョ。
守るはずの船を沈めたあの事件は、ミネルバクルーにとって大きな汚点の一つでもあった。
ルナマリアは思う──私たちは、加害者でもある。
本来なら私たちは、サイやナオトからどれだけ恨み節をぶつけられても文句の言えない立場だ。
相手が宿敵たる連合の軍人といえど、その事実は変わらない。黙ってその言葉を呑みこむしかない。
よくよく見ると伊能の背後からは、泥まみれの作業服の者たちが大勢、息を切らして集まってきていた。彼らが恐らく、アマミキョの乗員たちなのだろう。
ルナマリアは唇をぎゅっと噛みながら、彼らの様子を見つめる。
霧の中で、呻くような呟きが流れた。
「ミネルバ──貴方たちだって、散々殺してきたじゃない。
ザフトさえいなければ、オサキさんも、ネネさんだって……!」
やや長めの前髪を乱しながら、一人の女性が食い入るようにこちらを見つめ返していた。
声こそ静かで控えめだったが、黒い髪の間から覗く眼光はルナマリアを射抜かんばかりに憎悪に溢れている。
クルーの隊長らしき恰幅の良い男性が、そんな彼女を片手で何とか制していた。



アークエンジェルと、ミネルバと、アマミキョ。
かつて互いに刃を交え傷つけ合った者たちが今、何故かティーダを中心に集い──
霧煙る湖の上で、静かに怨嗟の視線をぶつけあった。
誰かが怒号を発せば、再び争いが始まりかねない、一触即発の状況。
誰かが叫べば、たちどころに全員の感情に飛び火し一気に燃え上がるであろう──
そんな緊張状態が、三者の間で形成されつつあったその時。



「……やめてください」
ルナマリアのすぐそばから、低くはあるがはっきりと響く少年の声が、湖面をわずかに揺るがせた。
思わず彼女が振り返ると──
サイの身体を両腕でじっと抱きしめたままのナオト・シライシが、サイを守るように俯きながら、唸るように呟いていた。
「貴方たちには、何も聞こえなかったんですか?
僕には確かに聞こえたんです、サイさんの声が。
戦いをやめろって、叫んでいました。
僕に、ティーダに必死に呼びかけて、僕を引き戻してくれたんです。
ティーダの黙示録を作動させたのは僕だけど、それをさせたのはサイさんだった。
こんなバカな争いを止めるために──貴方がたが戦っているそのすぐ下で、命をかけて、ティーダを動かしてくれたんだ。
なのにどうして、まだ貴方たちは、子供みたいに争いを続けてるんですか!」



そんなナオトの言葉にいち早く反応したのは勿論、アマミキョの人々。
「サイ君……だって?」
「ふ、副隊長?!」
一斉にナオトらのもとに駆け寄ってくるアマミキョクルー。中でも敏速に飛びだしたのは、女医のスズミ・トクシだった。
「ケンカしてる場合じゃないわね……サイ君!」
ルナマリアを押しのけるようにして、女医はサイの腕をとり脈を診る──
彼女に続いて3人の看護師が無言で走り出し、てきぱきと女医の補助を開始した。



やがておもむろに、隊長らしき男──トニー・サウザンが皆を落ち着かせるべく、よく通る声で言った。
「ナオト君。確かに君の言う通りだ──申し訳ない。
そして、よくぞここまで生き延びていてくれた。ありがとう」
真摯にじっとナオトを見つめるトニー。
その言葉に、嘘偽りは全く感じられなかった。頑固にサイを守ろうとしていたナオトも、ようやく頭を上げていく。
「我々はこれまで、どれだけいがみあい、争い、傷つけ合ってきたか分からない。
戦いによって多くの人命が失われ、生まれた憎悪も数多い。
それは戦いから人を助ける立場だった、我々アマミキョも同じことだ。
──しかし!」
両拳をぎゅっと握りしめながら、トニーは伊能を、マリューらアークエンジェルクルーを、そしてアーサーを順々に見回した。
「今の我々に、それに拘っている余裕はありません。
世界中がセレブレイト・ウェイヴの危険に晒されている今、連合もザフトも、ナチュラルもコーディネイターも関係ない。
我々が偶然にもこうして顔を合わせたのは、サイ君とナオト君、そしてティーダが呼び起こした奇跡です。
自分は、その奇跡を無碍にしたくはない」
スズミたちがサイの治療にとりかかっている間、それを守るように仁王立ちになりながら、トニーは切々と周囲に訴えかけていた。
「そのサイ君たちの前で、なお争い合おうというなら──
せめてこの地から遠く離れた場所で、存分にやっていただきたい」
そんなトニーの言葉に、それきり全員が押し黙る。
先ほどミネルバに憎しみの牙を剥いたヒスイや、アマミキョクルーたちでさえも、その言葉に反論は出来なかった。



ルナマリアとナオトの眼前で、静かに行われているサイの治療。
二人がどれだけやっても、サイの呼吸も心音も戻らなかった。
サイを介抱している間は考えないようにしていたが、常識的見地からすれば、死亡と断定されてもおかしくない。これがサイではなく、見ず知らずのパイロットなどであれば、ルナマリアもとっくに諦めていただろう。
ナオトは何かに祈るように両手を胸の前で組み合わせながら、肩を震わせている。
極めて冷静に周囲に指示を送りながら、サイに治療用モニターのケーブルを取り付けていくスズミの横顔を、ルナマリアは眺めているしかなかったが──



ふと、スズミの眼差しに、明らかに戸惑いの色が顕れた。
こんなことはありえない、考えられない──そう言いたげに、両目が一瞬見開かれる。
しかしすぐにその表情は平静さを取り戻し、彼女は手を動かし続けた。



それから数秒か、もしくは数十分か。
どれだけ時間が経過したかもよく分からない状況の中、女医は頭を上げた。
そして、しっかりナオトを見つめて少し微笑みさえ浮かべながら、こう言ったのである。
「大丈夫よ、ナオト君。
サイ君は、ちゃんと──戻ってきた」



 

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