コロニーの外へティーダが飛び出すまで、あっという間だった。
サイが回線の向こうでまだ喚いていたが、ナオトは一切を無視した。
アマミキョを守る為だということは分かっているつもりだ。でも、もっと方法があるだろう。
──あの女。
フレイの不敵さとともに、殴られた痛みと忌々しさが蘇る。
多分彼女は、自分とそう歳は変わらないはずだ。おそらくマユとも。なのに、あの態度の大きさはなんだろう。
「どんなコーディネイターだか知らないけど、言葉で何とかしてみせろ!」
サイとは、妙な知り合いのようだったが……そんなことは、今関係ない。
ナオトの全身が熱くなる。ハッチが開き、機体が宇宙へと出て行く。身体が自然に硬直する。ヘルメットが機能していることを念の為、確認。まだ自分は、宇宙に慣れていない。このパイロットスーツにも。
ずっとオーブでぬくぬくと育ってきた身には、無重力空域は恐怖であると同時に好奇の対象でもあった。コンソールパネルの表示が繁華街のネオンのように華やかに変化し、モニターいっぱいにデブリと、星々の光が展開する。コクピット内部の空気の味までが変わった気がする。
ナオトは思わず歓声を上げた。「綺麗だ……!」
その美しさが、自機の位置を認識しやすいようモニターで調整された人工的な光によるものだということを、ナオトは忘れていた。実際の宇宙空間は、地上の夜など比較にならない闇だ──
真空空間を示すモニターに、警告表示と敵味方識別表示が入り乱れて明滅する。アマミキョを基点として計算されたティーダの座標が、下4桁ほどが目にも止まらぬ速度で変化していく。それも、今のナオトには興奮の対象だった。
飛んでくるデブリを何とかよけ(二度ほど正面衝突寸前になった)、襲いくるGに耐える。が、パイロットスーツにヘルメットが、大分Gを弱めてくれていた。
遙か向こうのアフロディーテと、相手のウィンダム、紫のモビルアーマーを信号に従い、確認していく。後方からはザクウォーリアとカラミティが追ってくる。カイキは激怒していることだろう。
通信は届くだろうか? 真空中ゆえ音が響かぬ宇宙空間では当然、外部スピーカーは使えない。ニュートロンジャマーの干渉下での無線通信に頼る以外にはない。干渉なんかに負けるな、僕の声。僕の言葉。
大丈夫、サイの声が何故かまだ聞こえているんだ。
ナオトの声帯が活動を始め、空気のないはずの宇宙空間を震わせる。
「やめて下さい! その娘を放すんだ、フレイさんっ」
ナオトはディスプレイ上のマニュアルを参照しつつ、ティーダの右腕・攻盾システムトリケロスを構える。それは奇しくも、かつてアークエンジェルを襲ったブリッツガンダムと同じ武装だった──


イザークの通信を受け、コロニーから飛び出したティーダを追って、ディアッカのザクウォーリアがデブリの河を駆け抜ける。
しかし、ティーダの機動力はザクウォーリアを遙かに上回っていた。畜生、こっちはニューミレニアムシリーズの最新鋭機体だのに。
「機動性がありゃいいってもんじゃ!」聞きようによっては負け惜しみとも取れるディアッカの呟きなど知りもせず、ティーダは次から次へと迫るデブリをよけていく。パイロットの腕は明らかにズブの素人で、それゆえに隕石激突寸前という事態にもなるわけだが、真っ白い機体は咄嗟の稚拙な操作に見事に反応していた。一度など、突っ込む間際に殆ど直角に曲がってデブリをよけやがった。
「欲しくなるわけだ、ありゃ!」


アフロディーテのコクピットに、ナオトの叫びが響きわたる。
突如として空域に乱入してきた白い機体に驚いたザクウォーリア、そして少し離れてカラミティが追跡を始めているのが、フレイからも見える。だが、彼女は冷静だった。「追いつけまい、ティーダには」
同時にフレイは確認した。ティーダの右腕の盾が、まっすぐこちらに向けられているのを。
光がその先端部分から放たれた。それが何であるか、フレイは撃たれる直前に察知した。
「照明弾か!」
闇の真空に、光の菊が乱舞する。輝きはこうこうと、アフロディーテの紅の装甲、その手に掴まれた少女、紫の流線型を照らし出す。
瞬間、フレイにわずかな隙が生まれた。光を前に、反射的に瞼で眼球を庇う方に余計な神経を使った瞬間──
ネオ・ロアノークが、動いた。
フレイは人間外の反応速度で機体を繰ったが、相手側モビルアーマーの方が一瞬早かった。


残されていたガンバレルを、エグザスが光の中で直接アフロディーテの左腕関節部にぶつける。
ステラに与える衝撃を最小限に──そんなネオの思念がガンバレルに伝わったか。
ガンバレルの激突はアフロディーテの腕の機動を鈍らせ、ステラの腹を包んでいた指先がわずかに外側に動作した。
ステラの身体が宙に放り出される。咄嗟にネオはエグザスからワイヤーを伸ばす。「つかまれ! ステラっ」
恐怖で動けなくなろうと、まだネオの動きに反応するだけの力は、ステラに残されていた。ネオの声はステラにしっかり届いている。まだニュートロンジャマーによる干渉はあるはずだが……
溢れる光の中、どうにかステラはワイヤー先端を捕らえることに成功した。炎の中の蜘蛛糸のようなワイヤーを。
彼女にとって、ネオの声は神の声だった。彼女に神の概念は理解できていないとしても。


ステラがモビルアーマーに回収されていくのを確認しながら、ナオトはティーダをアフロディーテに接近させて叫ぶ。カラミティが凄まじい速度で接近していたが、ナオトは気にしていなかった。
「まだ少女ですよ! 女の子は守るべき存在です!!」
<貴様はマユを傷つけたろうが!>
「マユをこれに乗せたのは貴方たちだ!」
<俺だって乗せたかねぇ! まして貴様の隣なんぞにっ>
カラミティがティーダを撃墜せんばかりの勢いで突進してきたが、フレイがカラミティを止めた。
<やめろ、カイキ>冷静さは全く失われていない。むしろ増している。だがそれは、彼女なりの怒りの表現でもある。


ナオトはなおも、空域全てに叫び続ける。チャンネルはオールレンジにしてある。どうやら国際救難チャンネルを使わずとも、ナオトの声は向こうに届いているらしい。ステラの微妙な反応から、ナオトは分かった。彼女のメットにまで、僕の声が届いている!
「こちらオーブSunTVレポーター、ナオト・シライシです! 双方とも、ウーチバラ周辺空域より即時撤退してください、今は戦時下じゃないんです、フレイさん!」
ナオトは顔を紅潮させながら、なおもアフロディーテの中のフレイに言う。「さもないと貴方の行為、アスハ代表に伝えることになりますよ! オーブ全土に発信しますよ! こんな非人道的行為をバラしたら、アマミキョがどうなるかぐらい分かるでしょうっ」
相変わらず動かない、フレイの表情。口元があざ笑うかのように若干ひきつっているが、画像がやや乱れ気味の為、ナオトにはその意味は分からなかった。


「あのサル姫殿に何が出来るというのだ」フレイは興奮状態のナオトを放置しつつ、呟く。ナオトや周囲にこの言葉は聞こえない。
ザクウォーリアのディアッカがやっと追いついてきて、ナオトに怒鳴りこんでいる。<トーシロの乱入が一番危ないんだ、下がってろ!>
放っておかれたナオトはさらに頬を紅潮させていたが、その向こうから突如、別の音声が割り込んできた。
<君たち、やめたまえよ!>


その通信は、アマミキョブリッジから。
ムジカノーヴォ・文具団社長がサイを押しのけるようにして通信を行なっていたのだ。
コロニー内側と外側。しかもニュートロンジャマーの影響がまだ残る空域。なのに、何故かその通信はクリアーだった。
サイはティーダとアマミキョ間できれいに交わる通信状態を確認しながら、驚かずにはいられない。「まさか、これが……」


「ティーダの力なの?」
そういえば、先ほどからサイの声が異様に響いていたのはナオトも気づいていた。社長の声も同様。
他モビルスーツとも通信は未だ十分可能だったが、アマミキョからの通信は特に鮮明だった。
社長の言葉が空域に響く。<不可視戦艦の諸君、失礼するよ。君たちはモビルスーツの値段を知っててこんなお遊びやってるの?>


エグザス内部のネオにも、社長の声は届いていた。ティーダの回線を通じて。
「アマミキョとあの白いの……通信機能強化か、見せつけてくれる」
社長の妙に堂々とした言葉が続く。<モビルスーツってのはバカ高いんだよ。ダガーLの腕1本だけでおそらく、連合の大佐クラスの5年分の稼ぎぐらいはいくんじゃないのかなぁ?
そこの紫の貴公! 貴公が何処の階級かは残念ながら知りえぬが、自分の想像ではダガーL左腕イコール貴公の稼ぎ3年分とお見受けする>
こいつは無礼なのか、買いかぶられたのか。
自分に向けられた皮肉に、ネオは苦笑する。エグザス側面のハッチにステラが取りつくのを確認しながら。
<連合ってのはケチくさいもんだ、戦闘手当すらろくに出ないそうじゃないですか。階級にかかわらず一律、月額にしてキャラメルフレンチトースト10皿分だそうです。聞くところによるとザフトも似たようなものらしい、兵卒の年収が連合の最貧層レベルだそうですよ。
命の値段を生涯収入マイナス生涯支出っつーことにすれば、ダガーの腕部の関節部分だけで貴公が20人ほど必要じゃないかな。相当大雑把な計算で申し訳ないが>
「確かに甘い。20人もいたらマイナスが増えるだけですよ、ムジカ社長」
さっきまで砲火が飛び交っていた処で、いきなり金の話か。しかも、命を金に換算。
ネオの苦笑は止まらない。相手も同じ調子を崩さない。
<お察しがよく助かります。尤も、コーディネイターかナチュラルかでかかる金額もまるで違うわけだが、そんな心配はしなくてよろしいか? そちらは全員……>
「その質問には答えられませんな」調子に乗るな──ネオは社長の言葉をぶった切る。「個人的に貴方の経営論のファンではありますよ、ムジカ社長。しかしこのような事態に至ったことは残念です」
<ほほう。この前出た新刊、購入してくださると嬉しいですねぇ>


あくまで軽妙に運んでいるように見える会話を横で聞きながら、サイは戸惑いを隠せない。
戸惑いというより、恐怖だ。一体この空域は何だ、異空間か!?
フレイが自分の目の前に現れ、モビルスーツで戦っている。それだけでも十分サイの精神を押しつぶせるほどの事態なのに、この声は──
「フラガ少佐?」


その声に戦慄している者がもう一名いた。ザクウォーリアの中の、ディアッカ・エルスマンだ。
「まさか。ありえないさ」
かつてアークエンジェルと対峙した時、刃を交えたこともある相手。また、自分が自らの意思でアークエンジェルに乗り込んだ時、共に戦い、そしてアークエンジェルを守り、散った男──ムゥ・ラ・フラガ。
それだけではない。かつてアークエンジェルで銃を向けられた少女もまた、自分の目の前にいる。彼女は死んだはずだ。ミリィが泣いていたんだ。
「幽霊を呼び寄せる船か、アマミキョは!」


そのような事情は全く関知しない幼い少年は、ティーダの中で一人、拳をディスプレイに叩きつける。
「命の計算かよ! だから嫌いだ、社長なんか!!」
即座に社長の反応が響いた。<聞こえたよー、ナオト君!>
ナオトはさらに鼻孔を膨らませ、叫ぶ。「構いませんよ! みんなおかしいです、この空域」
社長の皮肉を覚悟してのナオトの言葉だったが、代わりにサイの怒鳴り声が飛び込んできた。<ナオト、君は自分が何をしたか分かってるのか!?>
「いけませんか?」それはあまりにも真っ正直な、少年の正義の貫き方だった。「こんな命のやり取りなんてありえません! 止めるのが当然でしょう?」


このようなナオトの態度に、サイは久方ぶりに額に青筋が浮く感覚を味わっていた。「開き直るのもいい加減にしろ! 軍なら銃殺刑でもおかしくないぞっ」
<関係ないでしょ。ここは軍じゃないんですよ!>
「だからって、サッカー場でもない!」
畜生、ついさっきはしっかりした子供だと感心したってのに。横からアムルも口を出す。「腐ってもレポーターなら、少しは冷静な視点を持つべきよ」
戦火に巻き込まれ、同僚をいっぺんに失い、帰る場所も失った上に、強制的にモビルスーツのパイロットなどにさせられてしまったのだ。これ以上犠牲を出すまいと、無茶もしたくなるだろう──そんなナオトの気持ちは、サイも理解できる。だが。
何なのだ。フレイといい、このナオトといい、マユ、アムル、テロリスト、この船の連中──サイは必死で冷静さを保つよう努力したが、見かねた社長がもう一度サイを押しのけた。
「ナオト君、キミにも言ってるんだよ。
あんまり頭の悪い運用方法で、貴重なモビルスーツをすり減らしてほしかないの。いい?」


その社長の呑気な言葉は、エグザスの中にも入り込んでいる。<前の大戦でほとほと飽きてるのよ、聞いてます紫の貴公?
モビルスーツってのは兵器であると同時に、この時代まで人間が培ってきた技術と魂と金の結晶なんだよ。それがバカスカとデブリになっていくのを見るのは、少しでも開発に協力してる人間としちゃ耐えられんワケ。
貴公もその歳なら知ってるでしょう、技術はヒトの歴史なんだ。
レールガン一発にしたって、整備士5人分の命ぐらいはかかるんじゃないのかなぁ?>
「それがヒトの命を100人単位で吹っ飛ばすことが出来る。皮肉なものです」
<それが戦争と、安易に一言で決めつけるのは単純すぎるよ。具体的に計算してこそ、価値が分かる。考えるんだ。
貴公らの部隊はウーチバラ襲撃で、何千人分の命を無駄にした? 勿論、単純に死者を数えろってことじゃないよ。そこには生活空間があったんだ。そしてコロニーってのはやすやすと壊していいものじゃない、人間の進化の象徴なんだよ>
呑気な調子だったはずが、いつの間にかその声には静かな怒りがこめられている。爆発するような怒りではなく、気がついたらそこにしっかり張りついている巨大な蛾を思わせる、ムジカ社長の怒りの表現だった。
ネオはため息をついてみせたが、その時突然割り込みが入った。フレイ・アルスター──紅い髪の女だ。
<そして、現時点で既に貴様らに抵抗は出来まい。相手をしてやってもいいが、ガンバレル全基被撃墜の最速記録を作るだけだ。
ちなみに聞かせてもらおう、ウィンダムはその娘の何人分だ>
勿論、収容されたステラの件である。ネオはエグザス後部に収容したステラの姿をモニターで確認した。彼女はまだパイロットスーツのまま、喘いでいる。水から助け出した小鳥のように──
「無礼を言う。この娘には、あのフリーダム以上の金がかかっている!」
と同時に、ネオはエグザスのバーニアを全開にした。
ステラの状況を確認しつつ、一気に離脱する。真紅のストライク・アフロディーテからの通信が、轟いた。
<その甘さ、いずれ子供たちの価値をゼロにするぞ。ネオ・ロアノーク!>
ネオは構わず、デブリの河を突き抜けて戦闘空域外を目指す。「記憶をもて遊ぶ連中の言うことか、メンデルの皇女様!」


フレイはそのまま、離脱していくエグザスを見送った。カイキの声がアフロディーテ内に響く。<フレイ、あいつは俺やチグサと同じ!>
血気にはやるカラミティのカイキを、フレイは制する。「同じことを何度言わせる気だ? 当面の危機は去った、文句はあるまい」
彼女の声の調子だけで、カイキは黙った。カイキにとって、マユの次に優先度が高いのがフレイの言葉だ。
さらにフレイは続ける。「そうそうパワーが残っていないことを忘れるな。出来れば不可視戦艦の秘密も暴きたかったが、十分だろう。記憶が欲しければ、奴はまた私の処へ来る。
ただ……」
闇に沈む星のかけら、その彼方へ去っていくエグザスを見守るように眺めた直後に、フレイはティーダを振り返った。
「やっかいだな、燃えないゴミは」


アフロディーテ・カラミティ・ジュール隊・そしてティーダの帰投直後。
重力制御のかかったアマミキョモビルスーツデッキでは、またしても騒動が持ち上がっていた。ティーダから引きずり出された途端、ナオトがカイキに殴り倒されたのだ。
押し倒され、馬乗りになられ、ナオトはその上から何度も何度もカイキの鉄拳を浴びていた。顔も既に二度ほど蹴り飛ばされている。しかもパイロットスーツが強引に剥かれ、上半身が殆ど裸だった。
ナオトの口からは血があふれ出していたが、その光景をフレイは何も言わずに冷たく見下げている。マユとハロがその周りを踊るように跳ねていた。相変わらず笑顔のままで。
さらに、依然としてバイザーを下げたまま、表情を見せないアマクサ組数名がこの光景を眺めていた。整備士たちも、カイキの暴行を遠巻きに見るままで、手が出せない。ハマーに至っては、当然とでもいいたげな嘲笑を見せている。その手には何処から持ち出したか、酒瓶が握られていた。
そこへ、ブリッジの作業を無理に中断したサイが駆け込んできた。カズイとアムルも、その後から走りこむ。
アマミキョの他のクルーも、興味津々で集まってくる。何と言ってもナオトは今まで、報道レポーターというより新人アイドルに近い扱いをされていたのだ。アイドルがボコボコにされるなど、めったに見られる事件ではない。
「そろそろ止せ、カイキ。貴重なパイロットスーツを血まみれにされても困る」
血まみれのナオトを、大勢が取り囲む形になった。好奇と哀れみと侮蔑が入り混じる無数の視線の下、ナオトはさらに顎を蹴り飛ばされる。歯が割れたのではないか、と思える嫌な音が響いた。実際に手を下しているのはカイキだが、明らかに彼はフレイの命によりナオトに暴行を加えていた。
「フレイ! 君は一体何して……」
「来るなっ」あまりのことに叫びかかったサイだが、皆まで言わさずフレイは彼を黙らせる。「全員に見せる必要がある。無断で自己中心の主義を押し通し、周囲を巻き込んだ結果どうなるか!」
彼女の声はいつの間にやら、船内の全区画に流されていた。マユがちゃっかり壁際の操作盤にとりつき、楽しそうに船内の回線をいじっていたのだ。
眼前で繰り広げられる血の暴行に、このマユという娘は何の感傷も抱いていないのか? それどころか、いそいそとフレイに協力し、自分を助けようとした少年が傷だらけになる光景を、マユは笑いながら見ている──
サイは、背中に蛇を入れられた感覚を覚えた。そういえば、ディアッカとイザークの姿がない。確かに彼らの帰還は確認したはずだ、機体もある。ジュール隊はどこへ消えた?
あまりのアマクサ組の行動に、トニー隊長は勿論のこと、他のクルーは誰も手を出せなかった。社長と副隊長はブリッジに張りついたまま、不在だ。
ナオトは既に顔と言わず腹と言わず、20発は殴られていた。意識がしっかりしているのが不思議なくらいだ。
暴行を一旦止めたフレイはゆっくり歩み寄りカイキを退けると、倒れたナオトの前髪をつかんで起こす。驚いたことに、ナオトはまだはっきり言葉を口にした。
「無断でモビルスーツを使ったことは謝ります。でも、僕は悪いことをしたとは思ってません!」
フレイはその眼をまっすぐ凝視しつつ、懐から紙切れを取り出した。
「天候予定表によりますと本日は快晴、絶好の出航びよ……チェック。
貴様の、今朝のレポートだ。後生大事にしていたようだが、要はカンペというヤツだな」
メモと、それをわざわざ読み上げるフレイの声に驚愕し、ナオトの眼が瞼の裏が見えそうなほど一気に見開かれる。
異様な反応だ。すぐにサイは気づいた。
「今のようなチェックが何箇所か入っている。貴様が噛んだ箇所だ」
「あと、日付の部分もちょっと間違えてたよー。私、ナオトのことなら何でも分かるもん!」
マユが朗らかに、血まみれのナオトを見ながら笑う。彼女の笑い声を背後に、ナオトの身体が痙攣でもするかのように震えだす。
「レポートの後から……チェックしたんです、同じような間違いをやらないようにって……
みんなから、言われて」
先ほどとはうってかわって、ナオトの口調がたどたどしくなっている。
誰から見ても明らかな、咄嗟の嘘だった。
「なのに同じような間違いを何度も繰り返すってのはどういうわけだ! 貴様の噛みまくりのレポートにゃ、ウンザリなんだよ!!」カイキがまた拳を振り上げたが、フレイが片手で制した。
そのまま彼女はナオトの肩を抱き寄せ、必死で感情をこらえるナオトの顔を覗き込む。「種を明かせば簡単なこと──
よく噛むことで有名な、年端もいかぬアイドルまがいのレポーター。しかもコーディネイターとナチュラルのハーフときた。
中立国・オーブの宣伝としてはうってつけの存在だな、貴様は」
フレイの口調も、表情も優しい。その台詞が無ければ、傷だらけの少年を癒す甲斐甲斐しい姉のようにさえ見えるだろう。だがその手は、しっかりナオトの前髪を握っている。
「コーディネイターといえども完璧ではありえない。貴様のように、ミスをナチュラル以上にやらかす可愛らしい、憎めない存在でもある。それを実証するために、貴様は利用されていたというわけだ。SunTV、もしくはアスハに」
「違います!」ナオトは血を吐くように叫んだ。実際、歯の間からかなりの血がほとばしった。
フレイは容赦しない。「要するに、オーブの視聴者に対して嘘の自分を飾りたて、上層部の言われるがままにドジっ子を演じ、わざとミスを犯していたというわけだ──中立のシンボル、そのピエロとして」
「つまりそのカンペ、ミス部分まで予め用意しておいたってか? 素晴らしき役者だぜ、ケッ」ハマーの大声がデッキに轟いた。
「すっごい嘘つきなんだね、ナオトって」マユが無邪気に言い放った。
マユの一言で──ナオトの肩が、ビクリと反応した。血濡れの唇が真っ青になり、大きな眼はもう飛び出しそうに見開かれる。瞬きもしない。
ここまでする必要がどこにあるのか。サイの中で何かがたぎった。
ナオトの行為は許されるものではない。だが、心と身体を同時にえぐられていく子供の姿を見ていると、サイの心臓までが痛くなってきた。
フレイの眼がさらに優しくなる。唇が明確に、笑いの形に歪む。
口唇の形が変化したことにより、語調は自然に柔らかくなり──それはかえって、サイの背筋を寒くさせた。
「というよりも……
貴様自身、生まれた時からそのように生きてきたのではないか?」
その言葉は明白に、ナオトに致命傷を与えた。叫びが、デッキ天井までこだまする。「違う!」
「コーディネイターとナチュラルで世界が二分される中、何をどうしようと、貴様の如き半端な存在は双方から忌避される。
確か貴様の保護者は、伯父伯母夫婦だったな。両親の存在が見事なまでに伏せられていたが、理由の推測など容易だ。
例えば──貴様のおかげで両親が別れた、とか」
フレイはナオトの肩をさらに抱き寄せ、頬を寄せる。残酷な言葉を、歌い上げるように流しながら。
「もしくは、ナチュラルの母親がコーディネイターと偶然作ってしまった子供……」
想像を絶する鋭さの言葉の刃が、ゆっくりとナオトの精神にとどめを刺す。
「ナチュラルの母親からは能力を疎まれ、コーディネイターの父親からは母子ともども見捨てられた。
愛されない子供だったのだろうな。かわいそうに」パイロットスーツの手袋に包まれたままのフレイの指が、ゆっくりとナオトの首筋に回り唇に触れる。紅の手袋が、血に濡れた。
「悪い子だ、すっごく悪い子! 嘘つきのキモアナナオト!!」マユが笑いながら飛び跳ねてきて、全く情け容赦なくナオトの足を蹴り上げた。


ちょうどその時、アマクサ組作業艇・ハラジョウでも動きがあった。
モビルスーツデッキのざわめきをよそにディアッカは、この真っ赤に塗られたコンパクトな作業艇にこっそり接近していた。イザークも騒ぎを利用し、ディアッカを追ってハラジョウの側面へと動く。
何気ない風を装いながら、彼らはちょうど開放されたままになっているハラジョウのハッチへと忍び込んだ。
「悪く思うなよ、サイ」ディアッカの呟きを、イザークは聞き逃さない。「放置はできんと何度言えば分かる、貴様っ」
「隊長、くれぐれもクルーの安全は保障し」「くどいぞ。それが出来ぬほど落ちぶれちゃいない」
内部は薄暗かったが、意外に広い空間である。作戦室らしき小部屋に入っていくと、そこにはパソコンが数台、ところ狭しと配置されていた。中央には小さなテーブル。体温計やコンパクトディスクが転がっている。雑然としているように見えるが、実はきちんと計算されて物が配置されていることに、ディアッカは気づいた。
そして、部屋の隅では一台のパソコンが稼動中で──ディスプレイが異様に青白い光を放っている。
キーボードをピアノを弾くように優雅に操る一人の少年が、その前にじっと座っていた。よく見ると、彼の座っているのはかなり精巧に造られた電動車椅子だった。大量のケーブルが少年の周りを取り囲み、そのうちの2本ほどが肩にまでかかっている。
はっとするほど細い首筋。多少緑がかった柔らかそうな髪。
しかし何と言ってもディアッカとイザークを驚愕させたのは、その服だった。見間違えるはずもない、ザフトの赤服──選ばれしエリートにのみ与えられる、英雄の称号。
逃げろ。一刻も早く。この船から。違う、この空域から。ディアッカとイザークの脳裏に、ほぼ同時に同じ思考が渦を巻く。
先に動いたのはディアッカだった。というよりも、動いてしまった。あまりの動揺で。
少年が、ゆっくりと振り返る。大分前に二人の気配を感じ取っていたらしき、余裕の仕草だった。白い肌がディスプレイの光を反射し、青く輝く。車椅子のモーター音がかすかに響いた。
「動くと撃ちますよ。先輩方」
大きな、優しげな幼い瞳。口元には笑みがたたえられている。一見丸腰に見える少年の姿。
だが、その左袖の中には拳銃が隠され、銃口は確実に自分たちの方に向けられているのが、二人には分かった。
一体何なのだ。俺たちは本格的に幽霊船に閉じ込められたか。それとも俺たちは知らずに何処かで撃墜でもされたのか?
反射的に2歩ほど後退してしまったディアッカの身体が、イザークとぶつかる。かつてない激怒がイザークを包んでいるのが、ディアッカには分かった。
これは──マズイ。非常に。
「ニコル……ニコル・アマルフィ……貴様」なけなしの冷静さでもって、イザークは必死で絶叫を歯の間から通過させ、地響きにも似た呻きに変えた。
少年の腰から下は存在せず、下半身全体が大量のケーブルに覆われていた。そんな身体を包むザフトの赤服。
その上に乗っている首は、かつての戦友の顔だった。閃光の中に散ったはずの、ピアノ好きの幼い少年。
完全に精神の均衡を失った二人はいつの間にか、背後を取られていた。バイザーで顔を隠した整備士二人に。


遠巻きにナオトを見ていたクルーの中から、軽蔑と嘲笑と哀れみが混然となったざわめきが広がっていく。
タレントなんてそんなもんでしょ。しょっちゅう噛みやがって、ホントウザイと思ってたよ。顔がちょっと可愛いからって、調子こきすぎだったよなぁ。でも、やりすぎじゃない? まだ子供なのに。アスハの犬だ、所詮。
「お前のような半端モノと友達なんかになれない。汚れた遺伝子、砂でも食ってろ。ウチの子に寄らないで。
所詮半分、コーディネイターにはかなわない。ナチュラルの腐った古い血が、俺らに近づくな。
あんたなんか、産まなきゃよかった。
……これらの言葉ゆえに、貴様は今の生き方を導き出した。ナチュラル以上にドジでバカな自分を演ずること──」
フレイの髪が、ナオトの頬についた血に絡まる。ナオトの呼吸が、体内で爆発でも起こしているように高鳴っている。
「だって、そうでもしなきゃ、僕は……僕は
……僕は!」
やっとのことで出したナオトの精一杯の呻きは、皮肉にもフレイの推測がほぼ正解であることを示してしまっていた。
「主語だけ垂れ流して述語を言えぬのは、近頃のオーブの者どもの悪い癖だな。
僕は……そうでもしなければ世界中の誰も愛してはくれない、か?」
フレイはナオトの前髪を離し、今度は優しげにナオトの首筋に触れた。台詞とは裏腹に。「確かにそうだろうな。祭り上げられたレポーターでも脳天気なドジっ子でもない貴様など、誰からも好かれんさ。
自分勝手な過剰な正義で他人を巻き込む無力な子鼠など、誰が愛すものか」
フレイの指が、ナオトの鎖骨を探るように撫でる。彼女の手の甲に、ナオトの激しい息がかかった。
真っ赤に充血した眼。今にも過呼吸で倒れるかと思うほどの息。剥かれた上半身の、真っ白な背骨が浮き上がる。腫れあがった肩と腕。ひたすら横に振られる頭。顎から冷たい床へ落ちるものは汗か、血か、涎か、鼻水か、それとも──
サイはその時、精神瓦解寸前のナオトの呟きをはっきり聞いた。
 

ぼくは、もうだれも、なくしたくない。
たとえうそでも、ぼくを、すきだといってくれるひとを。


気づいたら、飛び出していた。人を押しのけ、叫んでいた。「やめろ、フレイ!」
全ての視線が一斉にこちらへ向くのも構わず、サイはナオトに駆け寄っていた。カズイもその後ろで一瞬躊躇したようだが、すぐに引っ込んでしまう。それほどに、アマミキョクルーのナオトに対する視線は厳しかった。何よりカズイは、アムルが気になったのだ。
サイもそれを了解しながらナオトの身体を起こし、自分の背でナオトを好奇と嘲りの目から庇う。サイの頬や制服にナオトの血がついたが、構わなかった。
顔を上げると、いつの間にかナオトから手を離していたフレイが、サイを見下げる格好で堂々と立っている。
哀れみのかけらもない群青の瞳。存在だけで十分すぎるほどに自分を威圧できる女。だが、サイは真正面から立ち向かった。
「俺は嫌いじゃない。こいつのこと。
誰だってあるだろ。人間関係円滑にしたくて自分演じるなんて、普通のことだ」
「流石は元アークエンジェルだな」間髪入れずフレイは言ってのけた。「自己満足の正義をふりかざすのは、お前も同じか」
サイはフレイと、その背後のマユ、カイキを見据えながらきっぱりと言う。「ナオトは、仲間も帰る場所もなくした。それでも自分の方法で、マユ──そこの君。さっきナオトを笑いながら蹴った君だよ。ナオトは君を守ろうとした。人質になった、ウィンダムの女の子も。
その気持ちを、俺は嫌いにはなれない」
「でも」マユは顎に人差し指を当て、きょとんとした顔を作ってサイを眺めている。「ナオトはずっとみんなに嘘ついてたんだよっ、当然の修正だよ。ねっカイキ兄ちゃん」マユはカイキの腕に、甘えるようにぶら下がる。ナオトの血を浴びたままのカイキの腕に。
「これは修正なんかじゃない、ただの暴行だ!」脳の検閲を通さないままの叫びが、サイの喉からほとばしった。
マユは、何故サイが怒っているのかまるで理解できないようだ。フレイは片手を腰に当てたまま、サイに冷たく言い放つ。「何も出来ない分際でよく言う。立場をわきまえろ、ここはカレッジではないぞ」
情けも熱もない言葉。サイの中で、感情が暴発する。
「偽りを演じながら14年も生きてきたのなら、それは偽りじゃない。本質だよ」
思わずナオトの震える身体に、強く両腕を押しつけていた。痛みと羞恥と屈辱で熱くなった少年の体温が、制服を貫いて伝わってくる。
フレイ──君の記憶はどうした。キラの件はどうした。何故そこにいるんだ。何故戦ってるんだ。その態度は何の為だ。
チュウザンで会った時の君は何処へ行った──そして昔の君は。
何も出来ないくせに自分勝手でわがままで、人を傷つけては自分がもっと傷ついていた頃の君は!
「ナオトの行為は確かにバカで、向こう見ずで、俺だって怒った。みんな怒った。罰は受けるべきだろう。
だけどその心根は、俺は好きだ。女の子を人質になんて、見過ごせない」
「ただの女の子じゃねぇ! アレは、強化人間だ。昔アークエンジェルにいたなら、貴様も相手したはずだろうが!」カイキが横から口を挟んだ。その一言で、クルーのざわめきが一層高くなる。
フレイはさらに言った。「サイ。あれ以上のどんな方法があったか、答えてみろ。あのまままともに戦っていれば、いずれ不可視戦艦を引き寄せた。相手に出来るだけの力は今のアマミキョにはない!」
「それは……」サイは口ごもる。相手側に、こちらが決定的に有利な情報を握っていることを伝え、さらに十分な防衛力がある事実を示すという点では、フレイの方法は確かに適切だった。強化人間に、条約違反の戦艦の存在。
「具体的な対案もなしに、一方的非難か」アムルの囁きが、サイの背後から聞こえた。意識せずにはいられなかった。
「サイ・アーガイル。お前の言葉は全て、感傷のままに持ち出した正論にすぎん。それではアマミキョは守れぬ、逆に危機に晒すだけだ。
いかにもアークエンジェルの連中が言いそうなことだがな」
そうかも知れない。俺の行動は全て、うわべだけの優しさによる正論によるものかも知れない。そしてかつてのアークエンジェルに、似たような側面がなかったとは言い切れない。
──だからといって。
「ナオトをここまで叩く必要は何処にもないだろ! こんなことをしている君を、俺は見たくはないっ」
サイの叫びにも、フレイの表情は全く変わらない。その無慈悲さが、サイの心を逆に激しく燃やす。
「それにフレイ……君だって」
サイの眼鏡の奥の強い視線が、真っ直ぐにフレイのそれとぶつかりあった。
「君だって、アークエンジェルに帰りたがっていたじゃないか!」



 

 

つづく
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