頭の上から、水圧が落ちてきた。
ついさっき風に身体を殴られたと思ったら、今度は水だ。全身にまとわりついていた泥と悪臭が瞬時に剥がれ、目の前が明るくなる。
滝が、自分に降りそそいでいる。その水飛沫の向こうには、白く輝く単眼が見えた。
自分が寝そべっている場所がザクウォーリアのマニピュレータ──掌の上であることに、サイはようやく気づいた。
そこは人工湖のほとりだった。今浴びている滝は、シュリ隊の救援活動でようやく修復された配水管、その一部から流出している清浄な水だ。システムテストの為、この人工湖に一時的に水を大量に流していたのである。
墜落時にザクウォーリアも、サイと共に大量に泥をかぶったらしく、彼ごと機体を滝で洗い流していた。それがどういう結果をもたらすか、分からぬサイではない。「やめてくれ、耐水装備じゃないだろ! 宇宙に出られないっ」
ザクウォーリアの掌で腰まで水につかりながら、サイは叫ぶ。と、外部スピーカから返答があった。
<ザフトの最新型をなめるなよ>
ディアッカの、皮肉めいてはいるが落ち着いた言葉だ。機体はサイを乗せたまま、ゆっくり滝から移動していく。
そこは無数に入り組んだ配水管の陰となり、ちょうど上空のアマミキョからは死角に当たる場所だ。しかし、既に向こうは気づいているだろう。
ディアッカへの申し訳なさでため息をつきかけたサイの目に、その時、光が見えた。
ザクウォーリアの指の間から見える紅の空。熱と蒸気で揺れる空気の向こう──廃墟となった市街地の方向に、サイは激しい光を見た。地球で見る、太陽の光にも似た光球。
「ティーダ……またやったのか、ナオト」
PHASE-07 崩壊への助走
ティーダの放った「黙示録」の光の中、ルナマリアのザクウォーリアにレイのザクファントムは逡巡する。さらにこの混乱の中、捕らわれていたはずのジュール隊が駆けつけたのだ。しかも、戦闘中止を命じている?
ヨダカのハイマニューバ2型が地下ハッチを再び開き、ルナマリアとレイを誘導した。どちらにせよ、既に戦闘可能な状況ではない。
舞い降りたジュール隊のうち、ザクファントムが空へ向き直り、その場から離脱していく。インパルスの方向へ。
ヨダカは残されたゲイツRと共に、ティーダの光を避けるように地下ハッチを閉じた。「あの光、ウーチバラの時ほどではないな」
ヨダカが言うと、接触状態にあったゲイツRから返答があった。<調整を施したのでしょう。現に、自分たちは遮光フィルタで防げました──完全にとはいきませんが>
ハイマニューバ2型の紅がかった単眼が、じっとゲイツRを見る。その意図を察知し、ゲイツRパイロットは自ら名乗った。<申し遅れました、自分はジュール隊のシホ・ハーネンフース。救出、感謝いたします。並びに、作戦行動を乱したこと、心より謝罪いたします>
シンのインパルスも閃光に満ちた空間で、予期せぬ呼び声を聞いていた。シンだけに聞こえる声。
「マユ……」そんなはずはない。俺の妹はいない。肉片を見たんだ、俺は。焼けて臭いを放つ腕の肉を。
このコロニーの感覚は、あの時の焦げた臭いを思い出させる。ついさっきまで動いていた腸が切断され、血を吐き出し、内容物を流出させ、焼かれる臭い。そしてこの光は、俺の大切なものを全て焼いた光だ。
一瞬だけ無防備になるインパルス。戦士としてあってはならない事態であるが、シンは自分がそんな状況に陥っていることすら気づけなかった。ソードカラミティが迫っていることにも。
<チグサは、俺のものだっ>
相手の声が鮮明に聞こえる。ソードカラミティパイロットだ。接触してもいないのに?
この光だ。忌まわしいブリッツの光が、俺を惑わせている。
「違う、マユじゃない」シンは再び、眼球の水分を弾き飛ばす勢いで目を開いた。ソードカラミティが地上から、さらに血のストライクもどきが上空から迫っている。インパルスは再び体勢を整え、対装甲ナイフで相手に斬りかかる──その時。
<そいつは敵じゃない! 退けっ>
モニターが反応を示すとほぼ同時に、スラッシュウィザード装備の白いザクファントムが現れ、シンを制止した。
ティーダのコクピットは、「黙示録」発動による震えが続いていた。
しかしノーマルスーツのおかげか、ナオトは最初の時ほどの衝撃は受けていない。おそらく、マユが出力を調整してくれたのだろう。彼女は勿論、平気な顔だ。
だがナオトは、最初と違う圧力を心臓に、脳に感じていた。いや、最初にも感じていたのかも知れないが、身体へのダメージが大きすぎて気がつかなかったのかも知れない。
それは、そこにいないはずの、人間の存在。
「誰? サイさん……それにザフトのパイロットが3人、ジュール隊の人たち、それと」
「ウーチバラの黒ジンの人もいるよ。ヨダカさんだっけ」
マユが当然のことのように、明るく言った。
「ありがとう」ザフト機が地下へ撤退していく様子を確認しつつ、サイはザクウォーリアに呼びかけた。
ティーダの発光はまだ続いていたが、どうやら大分威力は抑えられている。生身の肉眼でその光を見たサイだが、特に身体への影響はない。
ただ、頭に何かが流れ込んでくる感覚は、以前の発動時と一緒だ。ディアッカが何故自分を助けたのか理解できたのは、この感覚のせいもあるだろう。
「礼ならミリィに言え」ザクウォーリアのハッチを開き、ディアッカが頭を出した。手こずらせやがってと言わんばかりの表情を見せながらも丁寧に機体を移動させ、サイを岸辺に降ろす。但し、岸辺という名のゴミの山だが。
──俺がいなくなれば、ミリィがまた泣く、か。
「分かってる。俺も同じだから」相変わらずの熱気の中で蠅を払いながら、サイは笑った。
「何が」
「俺だって、フレイにこれ以上無茶はしてほしくない」
ディアッカはその言葉で、上空のアマミキョへの警戒を一瞬忘れた。ぽかんとサイを見つめると、参りましたとでも言うように大仰に両手を掲げるポーズをしてみせる。「世も末だ、大の男二人の暴走理由が女とは」
犬のように頭から水を払うサイを見ながら、しばらくディアッカは笑った。サイもつられて笑う。
どうやら、アマミキョからの追撃はない。フレイやカイキも、ザフトの撤退を見て退いたようだ。イザークの説得のおかげで。
ディアッカはすぐに真顔に戻った。「悪いことは言わない。オーブに戻れ」
熱風吹きすさぶ地上、壊れたテレビの上に立ちながら、サイは顔を上げる。「危険なのか。アマミキョは」
例の血文字の件をサイは問いただしたかったが、ディアッカは機体を退けつつそれを制した。「フレイ・アルスターだけじゃない。あの作業艇の連中──俺はあいつらを知ってる。
あいつらが、もういない筈だってことを」
ミネルバJrでもこの事態に、全員が戸惑っていた。
「撤退命令?」アーサーが感情を露にする。大げさな仕草に見えるが、彼は真面目な男だ。ただ、感情が表に出やすい性格は軍人としては不向きかも知れない。
それを横目に、タリアは言ってのける。「ミントン2からの連絡よ、彼らは純然たる民間の救援隊です。ムジカノーヴォ社長よりの直接の伝言、聞いてみる?」
アーサーはもちろん、メイリンもオペレーターたちも、呆けた表情を隠しきれない。それでは自分たちは、一体何を相手にしていたのだ?
タリアは静かに唇の内側を犬歯で噛んだ。「相当のヘマをやらかしてくれたものね、ギルも」
ミントン1を取り囲んでいたザフト艦ミネルバJr、そしてボルテールは、攻撃を中止せざるを得なかった。アマミキョに確保されていたジュール隊のザクファントム・ザクウォーリア・ゲイツR3機を収容し、彼らはミントン空域から去っていく。
戦争が終結して以降もテロは各地で頻発し、当然のことながらザフトでも連合でも警戒が強まっていた。民間の企業もそれに伴いある程度の武装を(大半は非合法な形で)施す処は増えてきていたが、それがさらなる警戒心を呼び起こし、今回のアマミキョのように軍と民間が勘違いをしあって予期せぬ衝突を起こすケースは、決して稀ではない。
だが、その結果出た死傷者も、決して少なくはなかった。
一時的にしろ、アマミキョはどうにか被弾箇所の修復を終えた。
瞑想室では、サイが正座させられていた。帰って早々、服が乾ききらないままの状態できっちり7発殴られ、ここへ放り込まれたのだ。覚悟していたこととはいえ、カイキの拳は堅固だった。被弾のおかげか瞑想室の人数は10分の1ほどに減っていたが、やはり好奇の目はサイに集中する。
カイキとマユ、そしてナオトがサイを見下げつつ、瞑想室の格子扉を閉めた。
「一生入ってろ、ドブネズミ!」カイキは憤怒を隠さず、格子ごしに血のついた拳を突き出してくる。その背後からマユが頭を出し、笑う。「バイバイ、ちゅーちゅーさんっ」
すぐに兄妹は出て行った。ナオトも少しサイを心配げにみやったが、やはり彼らの後を追おうとする。
その抹茶のノーマルスーツの後姿を、サイは呼び止めた。「何故、また発動させた」
「黙示録のことですか」ナオトは振り返りもしない。その声にははっきりと、不満が現れている。「そうしなきゃ、状況は止められなかったんです」
「って、マユが言ったのか?」図星を突くサイの言葉に、ナオトは肩をこわばらせた。
「いけませんか。僕より彼女の方が、戦闘のプロでしょ」
サイは未だに腐臭を放つワイシャツの裾を絞りながら、ナオトを諌めにかかる。やっぱり、この子は子供だ。「一部モニターしてたけど、あんな戦法はプロとは言えないよ。獣だ。君はそう思わなかったのかい」
ナオトは敢然とサイを振り向いた。真正面から話をしようというのではなく、怒りのあまりに振り向いたのだろう。「僕にはマユの戦い方は分かりません。ましてや貴方に何が分かるんです」
ナオトは明らかに興奮状態にあった。無理もない──さっきまで戦闘していた上に、マユの本性を見せつけられたのだ。虐待にも似たあの戦法を。
サイはナオトの気分を理解しながらも、言わずにはいられない。「それと、ティーダはただのモビルスーツじゃない。核同様、慎重に扱う必要がある」
周囲を気にしながら、サイは格子を掴みナオトに囁くように話かけていた。「黙示録は、めったに発動させていいものじゃない。君の身体だって」
しかし、今のナオトにサイの心が分かろうはずもなかった。一息に怒りを爆発させる。「ザフト兵逃がした人に、言われたくありませんよ!」
ブリッジでは、フレイがリンドー副隊長と共に瞑想室をモニターしていた。
サイに背を向けて出て行くナオトを眺めつつ、フレイは尋ねる。「何故、あの男をブリッジから出したのです」
「ジュール隊の解放が、ザフト側の要求内容に含まれていた。奴なりの独断行動だろ」副隊長はいつものように、小指で鼻をほじろうとする。その手首をフレイは掴んだ。
「オイオイ、鼻血出さす気か」副隊長はごまかそうとしたが、フレイは一切を無視する。「この行動が予測できぬ貴方でもないでしょう、リンドー殿」
と、アムルが横やりを入れる。「副隊長は、あの要求は一切呑めないと」
「未熟な通信士は黙って訓練をしていろ」フレイは横からの発言をまるっきり認めなかった。アムルは先ほどの戦闘での屈辱をまた思い出し、一人静かな怒りに震える。
状況からは信じられないことだが、フレイはアムルより8つほど若い。そのことが、さらにアムルの怒りを増幅させる。その隣のサイの席は幸か不幸か後任が決まらず、誰も座ってはいなかった。
リンドー副隊長は、落ち着いて話を続けた。「呑んでジュール隊を解放したとして、奴らがあれだけのアマミキョ擁護をしたと思うか」
ジュール隊が率先してザフト側に撤退を勧告した事実は、アマミキョブリッジにも知れ渡っていた。全てを察知し、フレイは彼女にしては珍しくため息をついてみせる。「サイ・アーガイルの行動、全てお見通しというわけですね。賭けもいい加減にして頂きたい」
「つまらん賭けだったよ。すまんね、あんたの元・婚約者を利用しちまって」
元、の部分を強調した、分かりやすい嫌味だった。
ミネルバJrのブリーフィングルームでは、ヨダカ・ヤナセがジュール隊を前にして、困惑しきっていた。
アマミキョで出来うる限り調査したデータを目の前のディスプレイに広げながら、イザークが冷静に報告を続けている。「M1アストレイ7機にミストラル10台、いずれも作業用で武装はされていないことが確認されています。問題の、統合ストライカーパックを常備したダガーLに、ヤキンで我々を苦しめたカラミティと思われる機体ですが」イザークは慣れた手つきで画像を切り替えていく。「これも戦闘データを元に、モルゲンレーテと文具団が共同で開発したもののようです」
ヨダカがそれを補足する。「カラミティの接近戦タイプ──ソードカラミティのオリジナルは生産数も少なく全て連合の手にあり、やすやすと機体が他国に渡るとは思えん。あのソードカラミティは、文具団で独自に改良を加えられたものということか」
ヨダカの後ろには、シン・ルナマリア・レイらも控えていた。勿論、タリアやアーサーも。しかしイザークは無表情で続けた。
「そのようです。最大の懸案事項である、ブリッツと思しき白い機体ですが」イザークはヨダカの射るような視線にも動じず、毅然と言葉を継ぐ。シホが心配げに時折イザークを見たが、ディアッカがそれをさりげなく制していた。
「ガンダム・ティーダ。型式番号MBF-T03。やはり、モルゲンレーテと文具団の共同開発です。
基本性能はブリッツと大差ありません。機動力が強化され、短時間の大気圏飛行が可能であります。が、ミラージュコロイドが使用不能な為、むしろブリッツよりも戦闘能力は劣ると推測されます」
「じゃあ、あの光は何」ルナマリアが思わず口を挟んだ。
無理もない。外傷はないとはいえ、彼女の両腕は今も痺れている。「納得できません。もうすぐアーモリーワンだってのに、こんな傷を」口惜しさに声をつまらせ腕をさするルナマリアを、レイが制した。彼にしても、被害はほぼ同じである。「隊長たちの前だぞ。命があっただけでも、感謝すべきだ」
「だいたい、どうして救援隊にモビルスーツがあるんだっ」シンはルナマリアよりもさらに激情していた。しかしイザークはシンの怒りを切り捨てる。「アマミキョの傭兵だ」
「やれやれ、とんだ勇み足だったようだ」ヨダカは潔く自らの非を認め、おどけた仕草で頭を掻いてみせた。だがその眼光までは失われていない。「だが、例のブリッツはマークを続ける必要がある」
イザークはディスプレイの上のティーダをなぞった。「ティーダの光ですが、発動条件は以下。パイロットが2名揃い、さらにその2名も限られた人間でなければならない──パイロットの適性条件は不明ですが……ルナマリア・ホーク、レイ・ザ・バレル。君たちはパイロットの声を聞いたはずだ」
「子供だったわ。2名とも」ルナマリアが答え、ヨダカがそれを受けた。「オーブSunTVのレポーター君だろ? 俺も聞いたよ、それが罠というんだ」
「あの少年が嘘を言っていると?」ルナマリアは身を乗り出したが、ヨダカは指揮棒でそれを制する。「違う。彼の言葉に嘘はない、だから恐い。
思い出せ、君はあの声を聞きながら命と尊厳を奪われかけ、光を浴びた。おそらくもう一人のパイロットが戦闘を担当したのだろう。ジュール隊長、そのパイロットについて詳しい情報は」
「一人は判明していますが、もう一人に関しては不明です。12歳前後の少女としか」
イザークが言い終わらぬうちに、室内がどよめいた。最も大きな声を上げたのは勿論アーサーだ。おかげでディアッカとシホが一瞬だけ視線をかわしたことは、誰にも気づかれずにすんだ。
「ルナマリア・ホーク、君の赤服の実力をもってすれば十分確保出来た相手だ。俺が上官なら5発は修正だな」ヨダカはルナマリアの前で胸をそらしつつ、タリア艦長とアーサーをちらりと見やった。
「申し訳ありません」ルナマリアが謝罪すると、アーサーが抗弁するように前に出る。「新任の兵士に甘さがあったのは認めます。しかしヨダカ隊長、そもそも貴公の」
「仰りたいことは重々承知の上です、アーサー副艦長。今回はどうやら議長の目も曇ったようですな」タリアへウインクまでしつつの、ヨダカの言葉。レイが思わずヨダカを睨む。
「ルナマリアとレイの報告では、ミントン1では十分な救護活動が行なわれていたと聞きます。ムジカノーヴォ社長の伝言を聞けば、流石の貴公も震え上がると思いますわ、ヨダカ隊長」タリアはヨダカの視線をかわし、さらりと皮肉を言ってのけた。ヨダカも肩をすくめる。
イザークはそんな中、一人静かに言った。「以上より、光の発動は極めて厳しい条件下に限られると推測され、従って例の船をこれ以上警戒する必要はないと自分は判断します」
「おいおい待て待て。まだ終わっちゃいないよ」ヨダカは慌ててイザークたちを制する。いや、正確には慌てたふりをして。「ジュール隊長、今一度聞く。真実、君たちはあの船で何らかの暴行、脅迫、並びに侮辱、及び公衆の好奇心に晒された、等の行為を受けてはいないかね」
「そのような事実は一切ありません」イザークはヨダカに顔を突きつけられながらも、表情を崩さなかった。ごわついた髭が彼の頬を撫でていても、だ。
ディアッカが助け舟を出した。「アマミキョ側はミネルバJr及びボルテールの接近を聞き、自分たちが帰還するべく積極的協力を惜しまなかった。事実です、ヨダカ隊長」
嘘は言っていない、サイは確かに「アマミキョ側」だ。が、そこは緑服の悲しさ。ヨダカにひと睨みされては黙らざるを得ない。
ヨダカはさらに、イザークの白い顎をぐいと持ち上げて囁く。これだけでも、イザークにとっては相当の屈辱的行為であった。「あの船とティーダを逃すわけにはいかんのだよ、これは議長命令だ。エザリア・ジュールのご子息どの」
突然のヨダカの行為に、ディアッカとシホが身構える。中でもシホは、今にもナイフを取り出しそうな勢いだ。ただならぬ様子に、タリアはパイロットたちを下がらせる。
イザークは気がついた。この、今自分の顎を掴んでいる男は──しかもこともあろうに、自分の銀髪の端を無遠慮にいじくっている男は──この嫌味な口調、間違いない。
ウーチバラで戦った、ザフトの脱走兵リーダーだ。
にわかには信じられぬ事実だ。脱走兵が指揮官としてここにいるだと?
それはありえない。おそらくこの男は、デュランダル議長お抱えの特殊部隊なのだろう。アマミキョ及びティーダを探るべく、脱走兵を装ってウーチバラに潜入したのだ。
してみるとあの襲撃は、デュランダル議長の差し金だったというのか? だとしたら、あのテロリストの情報を受けたジュール隊は、まんまと踊らされたということか? ティーダとアマミキョの情報を得る為に?
しかも、自分らはこの男に助けられたということになっているのか。汗ばんだ黒い指に自分の顎の下をくすぐられる屈辱に加え、自分たちが完全に利用されていたという事実が、イザークの額から怒りの汗を噴出させる。
「自分たちはウーチバラで襲撃からアマミキョを守り、アマミキョはそれに応じた。それだけの話だ。それに」ヨダカの手を払いもせず、イザークは目線でディアッカとシホを抑えた。「議長への恩義をこのイザーク・ジュール、片時たりとも忘れたことはない。僭越ながら、ヨダカ隊長──ティーダには今後、手を出さぬ方が賢明と思われる。あれは危険だ。ザフトの今後の為だ」
「危険かどうかは、こちらで判断する」
イザークの過剰とも言えるアマミキョ擁護だったが、そこにはサイ・アーガイルに対する義侠心があった。ディアッカとシホも、このイザークの行為には納得している。ミネルバJrに来る前に既に3人で、アマミキョに不利と思われる情報は漏らさぬと決めていたのである。サイの必死の行動は、やはり無駄ではなかったのだ。
第一、ルナマリアたちの目前で自ら名乗りを上げたナオトはともかくとして、マユ、カイキ、フレイらの正体はイザークらにも見当さえつかないのだ。既に戦死しているはずのニコル、ミゲル、ラスティに関しても、神をも恐れぬ別人の不届き者ということで自分たちを納得させることにしていた。あっていいはずがないのだ。あいつらが、笑いながら自分たちに銃を向けるなど。
だが、この時のイザークらの判断が正しかったのかどうかは、誰にも分からない。
もしここで、イザークがティーダのもう一人のパイロット=マユ・アスカの名を明かしていれば、シン・アスカのその後の運命も変わっていたかも知れないのだが……
ミントンでの救出活動が一段落して避難民をミントン2及び他の救助船に移動した後、ひとまずアマミキョはミントンでの役割を終え、酷熱の空域を後にした。
勿論完全に終わったわけではなく、何名かの担当者が後作業の為に選ばれ、船の一部パーツと共にミントンに残ることになる。これは今後回るどのコロニー、どの地域においても同様になる予定だった。その為の、アマミキョの分離機構である。
彼らはこの後数ヶ月かけて、救援を要するコロニーを回る予定だった。
サイは10日間の瞑想室入り後、ブリッジに戻ることを許可された。
「副隊長の取りはからいだってさ」
シャワー室で熱い飛沫を浴びながら、カズイは妙に楽しげに言った。サイもナオトも一人ずつ個別のシャワー室に入っている。
「フレイたちは反対したんだろうな」サイにとっては泥を頭からかぶって以来、10日ぶりの清潔な水だ。
大量に使えばポイントが引かれることは分かっていたが、内臓まで潤してくれるような水の勢いはたまらない。「カズイも良かったじゃないか。食糧班からブリッジ補助通信勤務なんて、栄転だよ」
「ブリッジそのものにはめったに入れないけどね」仕切り板一枚向こうのカズイがかすかに笑ったようだ。長年付き合っているサイには分かった。
以前のカズイだったら、ずっと食糧班に引きこもる方を選択していただろうに──彼の変化はサイにとっても嬉しかった。それが、アムル・ホウナへの恋心によってもたらされたものであっても。
「僕もほめて下さいよっ」ナオトがいきなり、仕切り板の上からサイの方へ濡れた頭を突き出した。「サイさん、まだ見てないでしょ。コロニー・マカベでの僕のレポート」
「概要だけ見せてもらったよ、毒キノコ騒動だろ。M1アストレイがキノコ狩りなんてやってる光景見たら、エリカ主任腰抜かすな」
「見た目が普通の茶褐色でしたから毒とは思わなかったです。しかし直径4mなんて……あれだけ住民に被害が出たのもうなずけます、まだ自然災害なのか人災かはっきりしていませんが」
カズイが口を挟む。「キノコで良かったよ、もしテロリストがコロニーに化学兵器なんて考えたら」
「縁起でもないことさりげなく言う癖やめた方がいいぞ、カズイ」
そうたしなめるサイの身体を、ナオトは穴があくほどに見つめている。
別に美しいからではない。殴られた跡が腕に、肩に、腹に色濃く残っている為だ。ジュール隊脱走発覚後は勿論、瞑想室でも殴打された傷。ナオトの視線に気づいてもサイは冷静だった。「自業自得と思ってるか?」
「サイさん、一人でやりすぎたんですよ。事情が分かれば、僕だってカズイさんだって協力したのに。ね、カズイさん」ナオトは水滴のついたままの首すじを伸ばし、強引に同意を求めた。しかし返ってきたのは、「あ? あぁ…」カズイの煮え切らない返答のみ。
ナオトがカズイの態度を責めるより早く、サイが言葉を継いだ。「そんな状況じゃなかった。みんな気が立ってたし」お前だって、ザフト兵ってだけで拒否反応を示しただろうと言いたいのを、サイはこらえた。
「人を巻き込みたくない気持ちは分かりますけど、僕は嬉しくないなそういうの。
フレイさんの統制は嫌ですけど、それでも船は安定してきたんです。これからは何かあったら、ちゃんと言ってください」
かつての自分の、キラに対する態度も、この少年のように無邪気で傲慢だったのだろうか。サイはふと昔を思い、苦笑した。「ありがたいお説教だね。一応聞いとくよ」
サイはシャワーで自分とナオトを隔てる。その態度がナオトにはやはり理解できないようで、思わず上半身を乗り出してしまう。「僕はサイさんが好きだから言ってるんです!」
「そういうことはマユに言いな。あと、そこ滑るぞ」
「ちょっとサイさ……う、うわぁっ」ナオトの頭が天井から消え、盛大な水音が響いた。
カズイが慌ててナオトのもとへ行く。「だだ大丈夫かよ?」
サイも頭だけ出して隣の様子を見た。ナオトは素っ裸のまま落ちたようだが、どうやら大丈夫らしい。漫画なら目が渦巻きになっていそうな光景だ。
カズイはそんなナオトを介抱しつつ、シャワー室を出る。「サイはもうちょっといろよ、さっきまでひどい臭いだったぞ」カズイは驚いたことに、かなり不器用ではあったがウインクまでしてみせた。
──オーブに戻れ。
シャワー室に一人残されたサイの中で、ディアッカの残した言葉が蘇る。
血の熱風が吹きすさぶミントンの湖畔。その光景の中にたたずむ鋼鉄の巨体。紅を帯びた白に光る単眼。
あの時、自分は答えた。
──フレイがいる。幽霊だろうと何だろうと、キラに会わせるまで逃げるわけにはいかない。
まずサイの口から出たのは、フレイの名だった。
大戦終結後、再び混乱していくオーブ周辺の様相を確かめたい。そして、キラたちとは違う形で自分に出来ることを探す。などの理由はあったにせよ、チュウザンで再会したフレイに自分の中のネジを回された──その事実は大きい。
俺は、フレイにここまで導かれたようなものだ。今フレイが何を考えているのか皆目見当がつかないが、彼女が本当に生きて現実に目の前にいるのならば、彼女の行動を見守り、記憶を取り戻す手助けをし、キラに会わせる。それが、かつて婚約者だった俺の役目だ。サイの意思は明確だった。
だが、ディアッカの言葉でさらに気になる点がある。アマクサ組作業艇・ハラジョウのクルーたちの件だ。
ほぼ全員がディアッカの同僚や後輩で、しかも全員が既に戦死しているという。さらにディアッカは、彼らの死亡状況まで詳細を把握していた。ニコルなどは彼の眼前でストライクに爆死させられたという──キラに。
そして、ウーチバラ空域で聞いたムゥ・ラ・フラガ少佐の声。彼こそまさに、サイの目の前で爆死したはずなのに。
新暦として「コズミック・イラ」が制定され、宇宙開発計画遂行が宣言されて60年以上が経過しているが、未だに人類は地球と月の間をうろうろして紛争を繰り広げるばかりで、宇宙の深淵など覗きようもない。地球という星ひとつすら、未だ人類は把握していないのだ。広大な太陽系の中には、もしかしたら生と死の概念すら覆す存在があるのかも知れない。しかし、いくらなんでも爆死した人間が蘇るなど。
サイは静かにシャワーを止め、頭を振る。雫が腕に落ち、乾いた空気が皮膚を包んだ。
「ありえない」
思考に耽溺するサイの耳に、シャワー室のドアが開く音が聞こえた。足音が、サイのいる仕切り板の前までやってくる。「ナオト? 忘れ物か」
遠慮なく開かれる扉。サイは何気なく振り向き──
心臓にローエングリンを喰らう感覚というのは、こういう時のことだろう。サイはあまりのことに、前を隠すことすら忘れていた。
「あはっ。びっくりさせちゃった?」
フレイ・アルスターが、そこに堂々と立っていたのだ。しかも、悪戯っぽい笑顔を浮かべて。
連合制服のままで男子シャワー室に入ってきた件は、この際大した問題ではない。今までとは考えられないフレイが──いや、今までの方が考えられないフレイではあるが──そこにいて、しかもサイに抱きついてきたのである。
「色々とごめんね、迷惑かけて。大丈夫、カメラは切らせたわ……会いたかった、サイ!」
まぎれもなく、今自分の胸元で笑っているフレイは──チュウザンで再会した時の、元のフレイだった。
元に戻ったフレイの口から明かされた事実は、にわかには信じがたいものだった。
「貴方も見たはずよ。ナチュラルであるにもかかわらず、ザフト兵と同様にモビルスーツを機動出来る兵士──それを連合では、エクステンデッドと呼んでいる」
シャワー室の床にきっちり正座したフレイは、淡々と話す。サイも膝をつき合わせながらタオルで身体を隠して同じように座る。今のフレイが何者だろうと、正面から話を聞こうじゃないか。
「今の話だと、君はそのエクステンデッドだということになるな」
フレイは素直にうなずく。「彼らにも色々いてね。ヤキンの頃は薬で無理矢理身体能力を向上させていたようだけど、その代償に彼らはまともな精神構造を破壊されてしまっていた」
「兵器として使われる子供が連合にいるってことは、オーブでもよく噂になってた。生体CPU──堂々と下卑た言葉を使うもんだ」
「今は彼らの精神的暴走は制御されているけれど、相当理不尽な手段が必要なことには変わりない。ウーチバラで私が人質にした子も、おそらくその一人。
あの子たちの場合は、特定の言葉を聞くと崩壊状態になるようね」
「君は違う方法を使っているようだな」サイは腕組みしつつ出来るだけフレイの表情、仕草、視線などから目を離さぬよう努力した。
今のところ、嘘を言っている様子は見られない。フレイの制服は若干シャワーを浴びて肌に貼りつき胸元の線を露にしていたが、今そんなことに構っていられる余裕はない。それほどこれは大変な告白だ。
「ドミニオンから救出された後、私は戦いの為の人格を植えつけられた。それが、今までアマミキョで貴方が見ていたフレイ・アルスターの真実」
「二重人格ということだな。記憶の一部をなくしているのも、強化の影響か」
「そしてもう一人の強化フレイが表層意識に出ている場合、どんなに元のフレイが頑張っても、戦闘の為に造られた私を止めることは出来ない」
サイはフレイの話を一旦手ぶりで止め、考え込む。
疑問点はいくらでもある。一体何処から質問すればいいのか分からないぐらいだ。
「それにしては、戦闘体の君の行動は冷静すぎるよ。戦う為というよりも」
「アマミキョを護る為、でしょ」フレイの眼がサイの頬に近づき、妖しく瞳孔が揺れた。「連合によって秘密裏に作られた私たちだけど、陰でその情報を手にした者がいた」
「ムジカ社長か」
「社長は私を買ったのよ。チュウザンの研究所である学習を施してくれたわ──そして、「アマミキョを護る」ことを最優先とする戦闘人形が生まれた。それが」
「もう一人の君、か。コーディネイターと名乗っているのは、強化された事実を隠す為だな。あのマユもカイキも、同じ研究所の人間か」
「そう思ってくれていいわ。謎解き終わり!」フレイは朗らかに立ち上がる。
だが、サイは厳しい表情を崩さない。半裸でしかめっ面をしても大した威厳が出るわけがないことぐらい、サイは承知していたが。「何故、そんな大事なことを俺に?」
「だって、このままじゃ」フレイはさらに身体を近づけ、サイの鎖骨あたりに出来た黒い痣を撫ぜた。白い指と紅の毛先がくすぐったい。「サイが可哀相で」
見るとフレイは、涙までひとしずく落していた。
──悪いが、そんな誘惑に乗るほど俺は子供じゃない。
「そう思うなら」サイは肌をなぞるフレイの手を強引に引き離し、肩を掴む。もし誰かに目撃されたら妙な勘違いをされること確実な体勢だ。それでもサイは声をふり絞った。「今すぐ統制を解いてくれ。いや完全にとは言わない、もう少し緩くだ。
今の船内は一見安定してるように見える。仕事も豊富だ。だがな、能力の劣るナチュラルの不満は溜まっているんだ、1週間最下層にいた俺には分かる」
「許して、サイ。瞑想室で何をされたか、そんな野暮を聞くつもりはない」
「俺はいい。でもこのままじゃアマミキョは、今の世界の縮図になってしまう。この意味が分かるなら、コーディネイターとナチュラルがいがみ合うことの少ない体制に戻してくれ」
「それは駄目」フレイは優しく、しかしきっぱりと頭を振った。「言ったでしょ。私に『彼女』は止められない。
『彼女』の行動はアマミキョを護る為なの。『彼女』は絶対に、アマミキョを護る為に動く」
フレイはサイの手をゆっくりと外し、立ち上がる。それ以上立ち入ってはならない、見えない壁の圧力。サイはもう一度声をかけることが出来なかった。そんな彼に、フレイは決定的とも言える一言を残していく。
「何より──私も今の体制、悪いと思ったことはない」
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