アマミキョの喧騒と統制の日々は、それから150日ほど続いた。
ハマーたちの件は個人的問題だからどうにでもなるにせよ、サイはフレイの提案した新たな連帯責任制自体が気に入らなかった。自分の予想通り、社長が下船して以来フレイらアマクサ組の統制は勢いを止める気配はない。
元の「フレイ」と再会して以降、サイは彼女と話すことは全く叶わなかった。元の「フレイ」とは勿論、いわゆる第2の人格である「フレイ」とも、ろくに会話をさせてもらえない状況なのだ。
しかし、フレイがアフロディーテなるストライクもどきを動かし、アマミキョを自らの手足の如く動かしている様相を見ていると──サイは、目覚めてくれと願わずにいられない。そこに、元のフレイがいるのならば。
その歯がゆい思いは、サイ自身がフレイに何度もくってかかるという最悪の行動となって現れることになった。例えば──
「瞑想室の換気ぐらいは通風孔の修理で改善されるはずだろ」「今の食糧配達状況を知ってるのか? 負傷者まで行き渡ってない、彼らは救護活動中に負傷したんだぞ!」「エレベーターの使用制限は解除してくれ、朝っぱらから隣接ブロックにまで行列している光景はもうたくさんだ」「休憩時間は交替制にすべきだろう、短時間に食堂へ人が殺到する!」
しかし当然、それらの要求は全て退けられた。フレイに意見出来る者はアマクサ組と隊長、副隊長に限られていた為だ。サイがどれだけ叫ぼうと、彼女は聞く耳すら持たなかった。
さらに悪いことに、サイはその度にカイキやトニー隊長に殴られポイントを引かれ、しかも連帯責任でグループメンバーのポイントまで引かれるので班員たちの不興を買った。それでもナオト、カズイ、ネネといった面々は何も言わずにいたが、その分ハマーの怒りは凄まじかった。
「フレイ嬢に文句言うたぁ、貴様どこの蛙の王子様だ! 船外投棄されないだけでもありがてぇと思えっ」ハマーたちに倉庫に連れ込まれ足腰立たぬほどの暴行を受けたのも、一度や二度ではなかった。
それでも、サイが意見してある程度経過すると、ほんの少し瞑想室や食堂やエレベータの状況が改善していたのは、唯一の救いというべきか。
「いい加減にして下さいよぅ、毎日じゃないですかここ来るの」医療ブロックで、今日も看護師ネネはサイの頬に絆創膏を貼るハメになっていた。
「そのうち毎時間ごとになるかもね。学習しないと、いずれ骨折するわよ」手の空いた貴重な時間に、スズミ女医も顔を出してサイにさらりと嫌味を言う。
「馬鹿のひとつ覚えですよね」サイは弁解しつつ、素直に治療を受けた。ネネたちに迷惑がかかっているのは承知しているが、フレイの暴走はどうあっても止めたいサイだった。中に、元のフレイがいるのならばなおさら──
いや、元のフレイ自身が今の暴走フレイを容認しているのならば、止めようがないじゃないか。シャワー室での彼女の言葉と捨て台詞を信じる限り、フレイ自身にもう一人のフレイを止める手段はなく、また、止める意志もないのだ。
そもそも、問題のシャワー室の会話にしても疑問があった。
二重人格というものをサイは見た経験はないが、今出現している「強化」フレイには、強化され植えつけられたというだけでは説明のしがたい鮮烈さがあるのだ。
これは、チュウザンで初めて彼女に出会った瞬間から感じていたものだ。最も的確な表現は、高潔、高貴──少なくとも、1年や2年で身につく種類のものではない。
さらに、もっと根本的な疑問がある。
爆死したとされる人間が、ああも無傷で(少なくとも顔に外傷はない状態で)復活するなどということが可能なのか。そんな芸当が許されるならば、世界中に未だ渦巻く悲嘆や憎悪は殆どが消えてしまう──宇宙は広いが、星にだって寿命はあるのだ。爆死したって生存できるというのなら、今も俺の目の前で搬送されていった霊安室行きの人間たちはどうなる?
何より、あのキラが、フレイが爆死した瞬間を目撃している。俺の目ならいざ知らず、あれほど優れたキラの目が、彼女が原子レベルまでちりぢりになる光景を見ているんだ。
勿論、サイだって認めたくはない。フレイが本当に生きて目の前にいるというのなら、どんな彼女であれそのまま受け止めたい。
そんな葛藤が、サイを過剰に急きたてていた。何とかフレイを止めたい。アマミキョ全てを背負って、一体フレイは何をやろうっていうんだ。
空回りを繰り返していくたびに、同じ班員からは疎まれ、別班からは笑われる。女子連中からどう言われているか、もうサイは分かっていた。「ねぇ、サイさんって二等兵どまりなんだって」「えー、結構尊敬してたのにな」「カラ威張りってことだよ、未練がましいヘタレ眼鏡が」
間もなく、アマミキョは月軌道を離れ、チュウザン本国への降下準備を始めた。
つまり、大気圏突入である。
時は、CE73年9月27日。突入予定日まであと1週間だ。
「もうすぐ地上なんだし、いい加減にして下さいよ」ナオトが、疲れきってベッドに突っ伏したサイに罵声とも取れる言葉を浴びせる。ナオトとカズイは同班ということで、正式にサイと同室になることを許されていた。3人用の部屋はかなり窮屈ではあったが。
「確かにサイさんの意見は僕も賛成です。だけど、言い方を考えて下さい」サイズの合っていないぶかぶかのパジャマで、ナオトは腕を振り回す。彼にしても、自分のポイントがサイの未練のおかげで引かれていくことは決して気持ちのいい事態ではなかった。報道業務は殆どポイントにならず、ティーダの作業でしか彼は稼げない。
「ナオトの言う通りだよサイ。これ以上船内で目立ってどうするんだよ、ナオトが社長に褒められるようなレポートをオーブに送ってるからこそ、俺たちもこの部屋確保出来るんだぞ」
2段ベッドの上から顔を出し、カズイも言った。涙が出るほどの正論だ。
「カズイは何とも思わないのか。ナチュラルの女の子たちの生理周期が狂いまくってるって話だ」
「サイさん、セクハラ」ナオトが枕を抱いて少々おどけて見せるが、「俺はそんなこと言ってるんじゃないよ!」サイはつい本気で怒鳴ってしまう。「ポイント不足から来る過剰労働のせいだ。ナチュラルは稼げるポイントが少ない、だから体力無視で労働する必要がある。ストレスで身体壊して、貧血を起こしてる子も後を絶たない」
「すみません」自分の冗談でサイを怒らせたことに気づき、ナオトは謝る。だが、反論も忘れなかった。「でも、今は通常の状況じゃないでしょ。これでもアマクサ組はうまく運営してくれてると思います」
「最低必要量が瞑想室の連中にまで行き渡っていること自体、奇跡なんだ。普通なら餓死者が大量に出てる」カズイもナオトの意見に賛成していた。「気づけよ、サイ。真正面から何度も突撃して連続玉砕なんて、ナオトでもやらないよ。な」
言われてナオトは一瞬膨れっ面になったが、すぐに気を取り直した。「今サイさんのやってることって、PS装甲と分かってる場所に竹刀振り下ろすようなもんですよ」
「戦術を変えろ……か」サイは2段ベッドの下で制服のままうずくまる。
フレイが強化人間だということも、マユたちの秘密についても、サイは一切他人に漏らすつもりはなかった。フレイたちの秘密を手にしたことで彼女を脅すという手もあったが、それをどうやって証明する? 一体誰が信じる? 俺ですら、まだ信じられない。
第一、そんな卑劣な方法でフレイを貶めたくはない。フレイはもう一人の自分を欺いてまで、俺に秘密を打ち明けたのだ。どんな意図があったにせよ、それを裏切る真似は出来ない。そういう俺の性格を見抜いての、フレイの告白だったのなら恐ろしいが。
「さすが腐ってもマスコミ、うまい言い回しだね。PS装甲に竹刀……」
途端、サイはぱっと起き上がった。「ナオト。ティーダの大気圏突入能力は確認してるか?」
突然の問いに、ナオトは目を白黒させながらも答える。「シミュレーションがまだですから分かりませんが、ミゲルさんの話だとストライクと同程度だそうです。緊急用のバリュートもあります……でもそれが?」
カズイがすかさず疑問を提示した。「まさか、ティーダの単体での大気圏突入がありうるとか? 地上降下作戦じゃあるまいし」
「やめて下さいよ、突入時はアマミキョで高重力体験レポート予定なんですから」
驚いて口を尖らせるナオトを、サイは制した。「分からない。杞憂ですむと思うが、今の大気圏は危険だ。万が一のこともある──」
サイはアークエンジェルでの大気圏突入を思い出す。あの時は、アークエンジェルから脱出した民間船が攻撃された。アークエンジェルへ残る決心をしていなければ、俺たちはみんな死んでいた。キラもストライクでの大気圏突入を余儀なくされた。あのキラでさえ、数日発熱でうなされた大気圏突入──そしてフレイの態度は、あの時からおかしくなった。重力の境界に、サイは決していい思い出はない。
「ティーダのトランスフェイズシステムのチェックをしよう。問題があれば俺が修復する。それからバリュートの点検もしておくんだ、ナオト」
サイの提案に、カズイが口を出した。「サイはアマミキョの突入準備で、軌道計算プログラムのシミュレーションもしなきゃだろ? 大変だよ」
「一緒にやるさ。何だったらアムルさんにも手伝ってもらう。あの人情報数学だったろ」
見ると、ナオトがサイの勢いに圧倒され、ぽかんと口を開けていた。そんな彼の肩をサイは力強く叩いてみせる。
「突入では必要なくとも、地上ではもっと過酷な事態が想定される。ティーダをもっと強化して、今後ナオトとマユが絶対に無事なようにするよ。
迷惑かけた詫びだ。ポイント稼ぎもあるけどな」
「ありがとうございます!」ナオトは嬉しい気持ちは、どうしても隠せない少年だった。「でも、やっぱり突入で必要にならないことを願いますよ」
サイやナオトは勿論、フレイたちアマクサ組ですら知らなかったことだが──
ナオトが嬉しくて枕を抱きしめたこの瞬間、ユニウスセブン落下まで、残り170時間を切った。
CE73年9月28日。
点検の結果、ティーダのバリュート開閉機構はハード部分に異常はなかったが、プログラムの一部に損傷が発見された。サイはすぐにブリッジに報告し、協力を仰いだ。フレイがいつになく足早にブリッジに入ってきたのはその直後だった。
「情勢は依然不安定だ。未確認だが、ユニウスセブン付近に正体不明のモビルスーツ群が集結中との情報もある。今後、索敵には注意を怠らぬよう」
いつも以上に厳しいフレイの視線に、クルー全員の神経が尖った。
そんな中、サイはティーダのバリュートの件をフレイに報告し、さらにTP装甲強化を提案した。意外にも、フレイの答えはOKだった。
「貴様らが宇宙に上がりウーチバラに到着した時より早半年、一層状況は不穏だ。ティーダの出撃も考慮に入れておけ、それからアマミキョ各砲門の点検も忘れるな。突入シミュレーションは30万回では済まんぞ……突入が成功しても、地上はさらに忙しい」
その時カタパルトのミゲルから、フレイに通信が入った。<見てくれ、アフロのTP装甲範囲を広げてみた。脚部先端までは無理だったが、これで上半身はほぼすべてカバーできる>
「ご苦労。アフロディーテはそれで十分だ、後はティーダの強化を優先しろ。サイが協力するそうだ」フレイは素早くモニターを切り替え、カラミティのコクピット内で調整中のカイキにつなぐ。「足りなければカラミティからパーツを拝借する、いいな」
<オーケー、ティーダを傷つけるなよ眼鏡>自分よりティーダが優先されようと、フレイの命令には決して異を唱えることのないカイキだった。
どうやらサイの提案は受理されそうな気配だったが、にも関わらずサイは暗澹たる気持ちを隠せなかった。
地上に降りたところで、アマミキョが安全になるはずがない──事実、ミントン以降も、テロリストとの小さな衝突は何度も発生していた。
アマミキョの安全が保障されるまで、統制は終わらないとフレイは言った。つまり、アマクサ組が事実上船を乗っ取っている状況は、永遠に終わらないのだ。
そんなサイの肩を、優しく叩く女性がいた。アムル・ホウナだ。「大丈夫、私も協力するわ。色々教えてね」
CE73年10月1日。
アムルと連携して軌道計算プログラムを修正しながら、アムルのプログラミング能力がそれほどではないことにサイが気づいて、既に2日が経過していた。
勿論、彼女は腐ってもコーディネイター。無能といってもその無能のレベルはナチュラルであるサイが努力に努力を重ねてようやく追いつくことが可能、という高みにあった。
しかしそんなことに構っていられる余裕はなかった。業務が問題なくこなせるのならば良い。軌道上のデブリ群の予測進路、暫定コース調整、自律補正プログラムの修正など、やるべきことは山ほどある。
そしてサイはティーダのバリュート機構、そしてTPシステムの改良作業も同時にこなしている為、ほぼ睡眠時間2時間という状態だった。
そのナオトの一大告白は、シミュレーションを観察していたハラジョウのミゲル、ニコルのもとにまで届いていた。「残念だがナオト君、マユに青春を求めないほうがいい」
ミゲルの独り言は、あながち冗談ではなかった。一方ニコルはそんな感情のもつれには大した関心を示さず、シミュレーション結果の方に夢中のようだ。
「結構すごいですよ。SEED保持者じゃないかな、彼」
「何だって?」ミゲルもその結果を見せられ、目を見張る。「実戦もろくにしてないのに」
「SEED持ちにやられた元英雄としては、複雑ですか」ニコルは車椅子を鳴らし、ミゲルに微笑む。その嫌味をミゲルは受け流した。「お前が言うな」
「そうでしたね」ニコルはうっかりしてた、というようにおどけてみせた。「でも、もう一人のSEEDが目覚めたのも事実ですよ。僕の死によって」
「そして俺らは、そのSEED保持者の為にここにいる。この過程でSEEDがまた一つ見つかるなら、大収穫だ」
フレイのアフロディーテも、度重なる戦闘でかなりの損傷を受けていた。被弾は大してしていないが、フレイ自身の機動方法に問題があったのだ。
「膝関節を前方に動かすなって、あれほど言ってるのに」ラスティがカタパルトでアフロの周りを浮遊しつつ、コクピットのフレイに文句をつける。
「モビルスーツにはモビルスーツたる動きをさせたい。人間の身体とは違う」フレイは調整を続けながらラスティの言葉を受け流していた。
「でも、元はヒトの身体だ。フレイの戦い方に合わせて関節は自由に動くよう改造してあるけどさ、普通に曲げるより傷みは激しいんだ。直立状態が不安定になるし」
「俺の見た処、嬢ちゃんの運動神経に機体がついてってないんじゃないかねぇ」ハマーが横から流れてきて口を出す。「元がクサ連合のオンボロ量産機じゃな。そのうち嬢ちゃんの才能が、このツギハギを壊しちまう」
コクピットまでわざわざ流れてきた二人をよそに、フレイは冷静に答えた。「IWSPがある。弘法は筆を選ばずだ」
「選んでるじゃないか、わざわざこんな鉄屑を」すかさずラスティが堂々と突っ込んだ。フレイに対しこんな口調が許されるのはアマクサ組の特権である。「IWSPったって、消費電力や機体への負担が馬鹿にならないの、分かってるだろ」
意外なことに、ラスティに対してフレイは微笑んだ。「貴様らにはいつも迷惑をかける。すまないと思っているぞ」そのままコクピットハッチを閉じ、彼女は独りの世界へ閉じこもった。
「いつもアレでごまかされるよ」頭を掻くラスティに、ハマーは口笛を吹いた。「お嬢の唯一の欠点だな、ダガーLごときへのこだわりは」
そのダガーL──アフロディーテをモニターごしに見ながら、サイは不眠不休でブリッジでの作業を続けていた。アムルも横にいたが、他に作業中のブリッジクルーは少なく、二人の声が聞こえる範囲内には誰もいない。既に操縦はオートになっている。
サイは思い出す。あのダガーLは、フレイが奪ったものだ。チュウザンで俺とフレイが再会した時のものだ。俺の目の前で、フレイがその力を示した時の──
俺への当てつけで、フレイはわざわざあの機体を使っているのか。そう思いたくはなかったが、フレイの心は今となってはもうサイにはさっぱり理解不能だった。
船の外では、既に衛星軌道上でオーブ艦隊とランデブーしたアマミキョが、地上では使用不能な宇宙用パーツを解放していた。パーツはオーブのイズモ艦に収容され、再び彼らが宇宙に上がった時に使用されることになる。軍艦をたかが民間会社がこのように使用することが出来るのも、アマミキョや文具団がオーブのアスハ家の信頼をかちえているからであった。
逆に言えばそれは、アスハ家がやや身勝手であることを実証してしまってもいるのだが。
ゆっくり本船から離れていくパーツを見守りながら、アムルはふと手を休めた。
「貴方がアークエンジェルにいた頃、私はオノゴロにいたわ。オーブ解放作戦の時」
「聞きましたよ。オペレータでしたよね」サイには手を休めるほどの余裕はない。だが、アムルは宙を見上げて呟く。「ひどい戦いだったわね……でも私は、自分から望んでそこにいたの」
「戦いに身を置きたかったってことですか」サイはモニターから目を離さず、アムルの話を聞いていた。彼女の心情には、サイも興味がないわけではなかった。
「本当はね、母と彼っていう運命から逃れたかっただけかも知れない。その時も、今も。
母は私を認めてはくれなかったからね。母は私を自分の所有物にしたかったのよ、彼と結ばれてさらに優秀な子供を産ませることでしか、私の存在価値は認められなかった」
「コーディネイターの家庭には、よくそういうことがあるとは聞きました。だけど、どうして俺にそんなことを」
「貴方が勘違いしてるみたいだから」アムルはゆっくりとサイに頬を寄せた。低重力の中、金髪と共に身体の匂いが漂う。カズイはこの色香にやられたのだろう。「私が、母と彼の死を望んでたって思ってるでしょ」
サイはアマミキョ突入シミュレーションに目を落す。傾斜角の計算にデブリ群の進路。少しでも狂いが生じればアマミキョ沈没に直結する。だが、アムルはさらに独り言のように語り続けた。
「母は私にバイオリンを押しつけたけど、私は応えられなかった。コーディネイト失敗作ってことよ。だから母は怒った。私が絶対に自分の思い通りにならないと知って」声がくぐもっていき、その頭は次第に垂れていく。
「弁解になってませんよ、その言い方」
「違う!」突然、アムルは感情を露にして叫んだ。
どうしたというのだ、さっきまで微笑んでいた大人の女性が。声がブリッジ中に反響し、残っていた他のクルーが驚いて顔を上げている。「貴方みたいな単純野郎には何も分からないのね」
アムルは構わず、前髪を右手の爪でむしるようにしながら苦悶していた。「だから、私は母と対峙しなくてはならなかったのよ。この船に乗って、私は一人でも生きられるってことを母に証明したかった!」
女の言葉というものは、どこまでが本心でどこからが嘘なのかが実に分かりにくい。アムル自身にもその境界は分かっていないだろうと、サイは感じた。ただ、自分は母親を失うべきではなかった──その自覚は、彼女にもきちんとあったのだ。
だがサイの口から出たものは、同情ではなく辛辣な言葉だった。男性側からすれば真っ当な意見だったが。「一番哀れなのは、貴方と母上の二人に利用されたあの男性です。
コーディネイターの婚姻統制なら、俺も知ってますよ。オーブでもプラントと同じように、遺伝子上最も適合する相手を見つけて関係を結ぶコーディネイターの人たちもいるようだ。貴方もそうだったんですね」
「遺伝子上の相性が合ったって、そこに愛はないわ」
「それでも彼は、貴方を愛していた」
「カズイ君と同じような性善説を垂れ流さないで」
「違います。俺たちも親から決められていたから、分かるんだ」
いつの間にか、サイもアムルも感情的になっていた。それに気づき、アムルは視線を逸らす。「ええ、貴方は確かにフレイさんを愛していた。でもね、彼は貴方みたいないい男じゃなかったわよ」
アムルは右手で顔を押さえる。その指と乱れた金髪の間から、上目遣いにサイを睨みながら。
サイには分かった──この女性は少なくとも、愛されていたとは感じていない。
しかし第三者の目から見れば、彼女は愛されすぎるほどに愛されていた。彼女の母と恋人は、オーブからわざわざ宇宙まで上がって彼女を探しに来たのだ。それに、彼女を引きとめようとしたあの必死な言葉。愛がなければ出来る芸当ではない。
だが、どれだけ母親や恋人が彼女を愛していたとしても、彼女はその愛を受容することが出来なかったのだろう。
その時、シミュレーションの終了を告げる警報音が軽く鳴った。245745回目が終わったのだ。
気まずい沈黙がその場を支配する。サイは気を取り直して言った。「申し訳ありません。次はティーダですね」
ディスプレイにティーダのCGが広がる。サイは手早く説明を始めた。「計算上は、バリュートなしでもTP装甲で突入は可能です。確認しました。だけど、機体は保っても中のパイロットは分からない」
アムルは画面上のティーダを見る。ティーダの機体のほぼ全てを覆い隠すように、パラシュートのような半球状の白い布地がCG上に広がった。これがバリュートと呼ばれるもので、大気圏突入の摩擦熱や衝撃から機体及びパイロットを保護する役目を持っている。アマミキョが突入する際は融除剤ジェルを使うが、関節などデリケートな部分が露出しているモビルスーツを守るにはバリュートの方が効果的とのリンドー副隊長の案だった。だが、どうもその半球は大気圏に対するには頼りなげに見える。「こんなモノで、ティーダを守れるの?」
「守るんですよ。フレイのアフロと同様に、ティーダのTP装甲の範囲をもう少し広げられればと思うんです。でも今からTP装甲部分のパーツを増やすには材料も資金も足りないし、カラミティの装甲もあまり削りたくはない。だから、今からでもTPの効果を広げられるアプリを作って、ティーダのOSに組み込むんです。これだ」
ディスプレイの中にまた新しいウィンドウが開き、そこに大量の文字列が走っていく。サイの作った、ティーダ改良プログラムだった。
アムルは思わず驚嘆の声を上げる。「すごい。これ、貴方が作ったの?」
その声にわずかに狼狽が入り混じっていたことに、サイは気づかなかった。「半日かかりましたよ。キラ・ヤマトだったら10分でもっとすごいブツが出来ます……俺のじゃ、まだまだ数値調整が必要だ」
サイは一旦眼鏡を外し、疲れきった肩をもんだ。40時間寝ていない。
「突入に使用しなくても、今後こいつがきっとナオトとマユを守るはずだ」
「必要にならないことを祈りたいわね」
その頃作業艇ハラジョウでは、マユがカイキにいつもの注射を受けていた。
他には誰もいない。蛍光灯の冷たい光の下、カイキは優しくマユの腕をおさえ、注射針を抜いた。「これで、地上までは安泰だ。気分悪くなったらいつでも言うんだぞ」カイキはマユの頭に大きな手を置き、そっと撫ぜた。他人には絶対見せない、カイキの優しい表情。
と、マユがその手を掴んだ。強引に兄の身体を自分の方へ引き寄せようとする。
「待て待て、俺を骨折させる気か」これも、カイキが他人に絶対言わない軽口だ。しかしマユはそのままカイキの肋骨に手を回す。カイキの心臓の音が、マユの鼓膜を揺らした。
「この体温がなくなったら、悲しいの? この感触がなくなったら、淋しいと思うのがヒトなの?」
カイキにすがりつきながら、マユは無感情な声で呟いた。カイキの切れ長の目から笑みが消える。「お前はそんなこと、感じる必要はないんだ」カイキは精一杯、明るい声を作ろうとしている。
「ナオトに、好きだって言われたの」マユが顔を上げた。そこにいつもの脳天気な顔はなく、ただ表情のない仮面がはりついているだけだ。その名前にカイキは思わず反応し、目を背けてしまう。
「お兄ちゃんは、私がいなくなったら淋しい?」
「当たり前だ」カイキはその問いに嘘はつけなかった。「だがな、お前は痛みも苦しみも、まして淋しさなんて感情を知る必要はない。分かるか」
「分からないよ」
「それでいい。何も知るな。何も分かるな。微笑んでいてくれ。頼む」
カイキはマユの細い両肩を掴み、一息に抱き寄せる。「マユ・アスカ。それが俺の償いだ」
サイは少ない睡眠を取りに部屋に戻った。その後のブリッジには、ティーダの強化アプリの調整作業を任されたアムルが残された。
コーディネイターである彼女には、睡魔は大した敵ではない。元々不眠症でもある。横に誰かがいられるより、ずっと独りでモニターを眺めている方が気楽な性分でもあった。
自分の無能をサイに見抜かれていることを、彼女はとうに気づいていた。サイは何も言わなかったが、そのことがさらにアムルの焦りをかきたてる。
さらに、さっき見せられた強化アプリ。それは、サイの方がアムルよりも確実に優秀であることを証明していた。
コーディネイターに抜かれるのならまだ納得はいく。しかしナチュラルのサイに抜かれたと認めることは、プライドだけはべらぼうに高い彼女にとって、決して許せることではなかった。
そして、さっきのサイとの問答。それはアムルの中の、母との記憶を嫌でも思い出させた。母と恋人の死の記憶も──違う、私は殺そうなんて思っていない。思うわけないじゃないの。
バイオリンを諦めてから、何をしても認められなかった。情報工学科を平凡な成績で卒業し、ナチュラルばかりの職場で馬鹿にされながら働かざるを得なかった。ナチュラルのバカ男アホ女どもの中で、頭を下げながら安い給料で働かされた。それでも私は、母の期待に応えるべく、家事だって仕事だって懸命にやった。そして──
母の選んだ恋人と、一生懸命付き合った。どこにも遊びに連れて行ってくれない、稼ぎもない、話も合わない神経症男だったけど。
そうしているうちに、私は25になっていた。コーディネイターなら、結婚適齢期をとうに過ぎている。あの小娘・マユが指摘した通りの「おばちゃん」なのだ、私は。なのに、彼とは子供がついに出来なかった。
──貴方たちが悪いのよ、私が軍に入ることを認めてくれなかったから。私の、闘争への飽くなき欲情を、認めようとしなかったから。
アムルの心に、マユが現れ影を落す。自分の老化と無能の現実を、否応なく思い出させた少女。
──あれを、守るっていうの?
その時、アムルの出したTP装甲電圧調整の計算結果の数値に、彼女自身気づかぬほどのわずかな誤差が生じた。通常の大気圏内、もしくは宇宙での運用ならば無視出来る誤差だったが、大気圏突入時となると話は全く違ってくる。機体への空気抵抗、接合部への衝撃、デブリ衝突角など、予測が少しでも狂えばトランスフェイズシステムといえども無事ではすまない。
30分の睡眠を取ってサイが戻ってきたが、不幸なことにサイもこの誤差には気づかなかった。
そして、CE73年10月3日。
遂に、アマミキョ大気圏突入予定日が来た。
しかし日が変わるとほぼ同時に、プラント軍事工廠・アーモリーワンがテロリストの襲撃を受けたという急報が、アマミキョに入った。
「アーモリーワンったら、カガリ代表がデュランダル議長との会合中だったじゃねーかっ」操舵手オサキの叫びと同時に、一気にブリッジが喧騒に包まれる。
と、そこへ入ってきたフレイが拳で壁を叩いた。「冷静になれ、皆の者!」150日の統制はやはり効果があり、これだけでブリッジはしんと静まる。
「カガリ姫はザフト艦に収容され、ご無事だ」安堵のため息が流れたが、フレイはさらに過酷な現実を皆に突きつけた。
「それよりさらに重大な報告がある。数日前から警戒していたユニウスセブンだが──」フレイはメインモニターにグラフィックスを表示する。それは、崩壊したユニウスセブンのCGだった。
そこに表示された無数の数値の意味を悟り、サイが思わず立ち上がった。固定座席でなく普通の椅子なら転がっていただろうほどの勢いで。
「まさか……100年は安定軌道のはずだ」
動揺はサイだけに留まらない。むしろサイは冷静な方だった。意味を理解した者たちは全員、自分の足元を大きくすくわれるような巨大な不安感に襲われていく。
低重力がどうのという問題ではない、人間がその精神の中に持つ足もとの大地、それが一息に崩壊していく感覚だ。ブリッジは一旦恐ろしい静寂に包まれ、直後に蜂の巣をつついたような騒ぎに叩き落された。リンドー副隊長ですら、状況を前にして歯を食いしばっている。「もう一度、星が壊れるというのか」
その中でただ一人、フレイは敢然と言い放った。「見て判る通り、先の大戦で崩壊したユニウスセブンは安定軌道を外れ、降下を開始した。
推定残り10時間で──このユニウスセブンは、地上へ落下する」
つづく