ティーダのコクピットに、警報音が鳴り響いていた。コンソールパネル上のディスプレイ右にはティーダの機体状況がCGで表示されているが、そこではナオトが今まで見たこともない異常が発生している。
ティーダの胴体右部分のあたりに、真っ赤な「ERROR」表示が幾つも連なって点滅していたのだ。そして点滅が繰り返されるごとに、そのERROR表示は亀裂のように、ティーダの全装甲範囲に拡大していく。
「何だこれ……TPシステムが作動してない?」
そんな馬鹿な。サイさんがあれだけ強化してくれたのに?
動揺を隠せないナオトに構わず、マユは後席でハロの協力も得ててきぱきと状況に対処する。「電圧がダウンしていってるんだ。TPシステム、マニュアルモードに切替」
ハロも危機を感じたのか、ひとつ飛び跳ねる。「セイメイイジ、サイユウセン!」


ティーダの異変は、突入シークエンス中のアマミキョブリッジでも即座に確認された。
勿論、最も動揺の激しかったのはサイだ。報告を聞いた瞬間、突入中にも関わらず立ち上がろうとしてしまい、リンドー副隊長に睨まれた。座り直して冷静さを取り戻そうとしながらも、出来ない。
「何故……」俺のミスか。殆ど睡眠も取っていなかったし。いや、しかし、それでも、だが、もしかしたら──どうしようもない接続詞ばかりが脳を駆け巡り、サイは思わず隣席のアムルを見る。彼女は冷静だった。
「突入中よ、落ち着いて。気にしない、トラブルはつきものよ」
全身の血が干上がる感覚は、次第に強まっていく重力のせいだけではなかった。「気にせずにいられるか。このままじゃ、ナオトとマユが沸騰する!」
サイはインカムに向けて怒鳴っていた。「ナオト、マユ! コクピットモジュールの電圧を最大値まで上げろ、帰還するんだっ」


「無理だよサイ、帰れない! この距離じゃ、先に重力に引かれちゃう」
サイと口論したばかりのナオトに代わって、マユが絶望的な応答を返した。既にティーダは、摩擦熱による真っ赤な光に包まれかかっていた。警報がさらに高鳴り、ハロが叫ぶ。「キケン、キケン、ゲンザイコウド150キロメートル、ラッカチュウ、ラッカチュウ」
「何で、サイさん、何でだよ」ナオトのノーマルスーツが自動的に生命維持モードに切り替わった。ありったけの知識と脳の血液を総動員し、ナオトはサイの言う通り、コクピットモジュールにかかるTP装甲への電圧だけでも上昇させようと頑張る。ナオトの指が、今までにないスピードで座席脇のキーボードを叩き出した。
しかしマユの叫びが轟く。「駄目だナオト、電圧上がらない!」
マユの悲鳴なんて、初めて聞いたような気がする──そんなことを考えている場合ではない。モニターの外では次々に、紅く染まったプラントの残骸が落下していく。もっと砕かなきゃいけなかった、もっと。まだ大きいのに!
「諦めないよ! バッテリーは残ってるはずだ」
「違う、トランスフェイズのシステム自体がおかしくなってるんだよ」マユは後席のコンソールで、怒涛のように流れ続けるシステムファイルの文字列を睨んでいる。ミラーごしに見えるその頬は、赤くなって汗が噴き出していた。通常時ならナオトが泣いて喜びそうな可愛い表情だったが、勿論今はそんな時ではない。
「突入時に装甲に加わる予測熱量の計算が間違ってる。ほんの少しだけど、修正し切れずに数値ミスが拡大して、電力ラインへの信号伝達にまで影響してるんだ。これじゃ、今から書き換えたって間に合わないってば」
「装甲はそれほど損傷してない! デブリだって気をつけたっ」ナオトが、マユのやや冷静な声に反駁するように怒鳴った。だが、マユの顔にもいつもの笑みはない。
「あれだけ動いたんだもん、関節とか他の接合部から細かなデブリが入ってもおかしくないよ」マユもまた、驚異的な速度でキーボードを叩きつつ、機体とプログラムのチェックを同時にこなした。「おかしいな……どこにも損傷はない。何でこんな……」
一瞬、マユが涙目で自分を見てくれた。ナオトがそんな錯覚に囚われたその時──
メットの下、汗まみれのマユの口から、突然血が噴き出した。


その瞬間、ナオトの狂乱の悲鳴が、ブリッジクルーまでパニックに叩き落すかのように響いた。
<サイさん! 助けて、助けてぇ!! マユが、マユが血を!! ああああっ>
「落ち着けナオト、何があった? 落ち着けっ」ナオトを呼ぶサイの言葉は、同時にサイ自身に向けられた言葉でもあった。既に突入シークエンスはフェイズ2に入っている。大気圏突入用の融除剤ジェルが船体を包み始める──これではもう、モビルスーツの回収は出来ない。
ブリッジの光が一旦消え、紅い警告灯だけがともった。波のように襲いかかってくる重力。


丁度帰還しようとしていたカラミティだったが、ティーダの危機を感じてすぐに方向を変えた。砕いた隕石が紅い光の滝となって降りそそごうとしている中を、カラミティのエメラルドの機体が最大戦速で飛んでいく。「チグサ! 何があった、こん畜生っ」
未だに破砕作業を続けていたアフロディーテのフレイも当然、この異常には気づいていた。ビームライフルで岩石を破壊しながら、IWSPの黒い翼を広げてカラミティに追いついていく。
既にカラミティもアフロディーテも、ティーダと同じく重力に呑まれかけていた。


<ティーダ。聞こえたらバリュートを開け>
フレイの通信も空しく、既に高熱に晒されているコクピット内で、マユの瞳が死んでいく。彼女のメットの中で、大量の血の玉が浮いている。手はレバーから離れ、空中でぴくぴく動いている。
それでもマユは、呟いていた。「熱い。熱いよ……これが痛み? ナオト」
ナオトもまた、完全に余裕を失っていた。重力に引かれていく血液、骨、内臓、眼球。
一体全体、ノーマルスーツの生命維持装置はどう働いているというのか? これほど大気圏突入がキツイなら、サイさんの言う通り、帰還していれば良かった。しかもまた、僕はマユを巻き込んで。
──違う。サイさんがちゃんとしていれば、こんな事にはならなかった。
その時、ナオトの右肩から腕にかけて、稲妻のような痛みが走った。皮膚がナイフで切り裂かれる感覚だ。高熱に、身体が耐え切れなくなっている!
左腕にも同じ痛み。続いて左太もも。ノーマルスーツの中で、身体が溶けていく。遂にナオトも、メットの中に血を吐いた。
心臓と食道と胃が、焼けた鉄板の上に乗せられたようだ。自分の血の臭いで、息が詰まりそうだった。
<ナオト、バリュートを開け、早く!>サイが回線の向こうで、声を嗄らしている。ナオトの聴覚にその声は届いていたが、身体が動かない。
頭が割れる。骨が内臓を食いちぎる。ヤキンでジェネシスを浴びた人たちも、このような苦しみを感じたのだろうか? 彼らの痛みが一斉に、自分の中に流れ込んでくるみたいだ。
<バリュートって、オートで開くんじゃなかったの?>アムルのヒステリックな声も響く。
ナオトはまた、自分のミスに気づいた。破砕作業をギリギリまでやろうと、バリュート開閉機構をオートでなくマニュアルにしていたのだ。これも、さっきサイさんから忠告されたばかりじゃないか──
違う。ナオトの幼さは、頑なに自分のミスを否定する。サイさんがちゃんとしていれば。サイさんが、コーディネイターだったら──
ナオトは残された意識を振り絞り、コンソール下のバリュート開閉レバーに手を伸ばそうとする。しかし、もう指すらも思うように動かない。
その時ナオトの目に、伸ばされた自分の腕が紅い光の中、スーツのぶ厚い布地ごと爆発していく光景が見えた。
抹茶のノーマルスーツが弾け飛び、自分の身体が一瞬裸になる。まだ幼い少年らしく、適度な弾力に満ちた両腕の皮膚。それが肩から縦にきれいにちぎれ、筋肉が裏返り骨が露出していく──
「サイさん、助けて! マユ、フレイさん、カイキさん、カズイさん、ミゲルさんラスティさんニコル、ネネさんスズミさん副隊長っ、みんな……フーアさん、アイムさん!!」
コクピットを、激しい振動が襲う。悪魔の幻覚に苦しみながら、ナオトはいつしかフーアのお守りを握りしめていた。


カラミティがティーダに取りついた。ティーダを摩擦熱から護るように、カイキはカラミティの全身を広げ、ティーダの下──つまり、地球の方向に回る。「トランスフェイズ、全開!」
フレイのアフロディーテも追いついてきて、これまたティーダとカラミティを護るようにさらに重力の方向へ機体を向けようとしていた。カイキがそれを見て叫ぶ。「やめろフレイ、もうエネルギー切れだろ!」
カイキ自身も重力と高熱で、既に滝のように汗をかいていた。だがフレイの返答はそっけない。
<自分の状態を見ろ。カラミティだけで、ティーダを護ろうと思うな!>
IWSPの翼が、高熱を帯びて機体と同様の紅に染まり始める。遠目で見れば、降りそそぐ流星の中の不死鳥のようにも見えただろう。


アマミキョブリッジでも、ティーダパイロットたちの様子はまだモニター可能だった。勿論、ナオトの絶叫も轟いていた。サイたちに助けを求める声が──それはサイの心臓まで食い破るかのような、悲鳴だった。
あいつは真っ先に、俺の名を呼んだ。それに応えられない俺は、一体何という無能だろう。アークエンジェル搭乗経験? キラ・ヤマトの友人? だからどうした? その肩書きや経験が、どうやって今のナオトとマユを救うんだ。
アムルが次々にパイロットと機体の状態を報告していく。
「ノーマルスーツ、パイロットスーツ共に内気圧正常。生命維持システム正常、呼吸異常、脈拍異常、意識レベル低下!」
これほど詳細なモニターはティーダの通信システムだからこそ可能な芸当であったが、今のサイにとってはそれが魔女の呪文にしか聞こえない。
さらに後方から、オペレータのディックが叫んだ。「突入シークエンス、フェイズ3! ティーダ、カラミティ、アフロディーテ、高度落ちていきます……130キロ……125……120……」
砕ききれていない岩盤と共に落下していく3機を見ながら、サイは唇を噛まずにはいられなかった。
何故だ、何故動かない。ナオトとマユを守るはずの俺の力が、何故こんなことに。うなだれながらも突入に備えようとするサイの背中に、別のオペレータの容赦ない罵声が飛ぶ。
「てめぇ、ティーダに何しやがったんだよっ」
「今、んなことほざいてる場合じゃねぇだろ! 突入に備えろ」オサキが操舵輪を力いっぱい引き絞りながら、怒声に怒声で返す。険悪な雰囲気を強制的に止めたのは、アムルだった。
「確かに、私たち二人の責任です。でも謝罪は後にさせて。……ナオト君、答えて!」彼女もサイの隣で、精一杯インカムで呼びかける。
だがその時、さらにカタパルトから強引に通信が入った。ハマーの黄色い歯が、サイのモニターに大きく映し出される。
<分かったろ、みんな。これがナチュラルの本性だぜっ>
「やめろよ!」「やめてっ」オサキとアムルが同時に怒鳴ったが、アムルの方へのみハマーは答えた。<あんたに罪はないよ、問題はそこのヒキガエル眼鏡だ!>
ハマーはモニターごしに、サイに唾を吐きかけた。
ナチュラルの少ないブリッジ組なのに、余計なことしてくれやがって──とでも言いたげに、オサキもまたサイを睨む。彼女にしてもサイと同様、ナチュラルの身ながらブリッジで身体を張っているのだ、副隊長に身体を売ったなどと囁かれながら。
「突入だぞ」副隊長が、もううんざりだと言わんばかりにボソリと呟いた。その低音は、真っ赤な暗闇と化したブリッジ全体に、妙に響いた。
全員が体勢を整えたが、サイは副隊長含めた全員の視線が、氷柱のように自分に突き刺さっていることを感じていた。だが、サイは呼吸を整え、ひとまずそれを無視する。突入時の船内放送という役割が、サイにはあるのだ。
「船内の皆さん、フェイズ4に入ります……全員、マニュアル通りに身体を固定して。息を吸い込んで。胃、腕、脚の筋肉を緊張させて、腹部の力を抜かないように」


食堂の非常用固定シートに自らを固定させつつも、カズイはサイの放送の中に若干の異常を感じ取っていた。いつもより、声がうわずっている。
それが何故かは、トニー隊長の大声で分かった。「ティーダが異常だと!?」
周囲のクルー全員が非常用シートにいち早く陣取っていたというのに、隊長はまだ身体の固定もせず、付近のモニターでブリッジと強引に連絡を取っていたのだ。
「まさか。あのTPシステムに、間違いはないはずだ」船と一緒に、カズイの精神も揺れていた。ありえない。アムルがサイと一緒に、システムを担当してるっていうのに。


医療ブロックでは、ようやく全ての患者の固定作業が終了した処だった。ネネたち看護師や医師らも衝撃に備えて身体を固定し、ある程度の覚悟を決めねばならない。
しかし重力がかかり始め、患者に繋がれた何台かの医療モニターがけたたましく鳴り出した。医療ブロックは元々重力制御が他ブロックより重点的になされている区域だったが、地球の重力はいつもかかっている人工重力の数倍の威力がある。体調に変化を起こす患者がいて当然だった。
動けないネネたちだったが、その時スズミ女医はさっと動いた。かかりゆく重力をはねのけ、ガラスで防護された非常用重力制御レバーに取りつく。ネネは思わず叫んでいた。「先生、それいじったら瞑想室……」「構わないわ! 宇宙育ちの2歳児もいるのよ」スズミはレンチでガラスをぶち破ると、一息にレバーを引いた。
空中で沈み始めていた小さなガーゼが、再び浮き上がり始める。重力を自由自在に操るまではとてもいかないが、急激にかかる重力をこの区域だけでも弱める力ぐらいは、このレバーにはあった。


──所詮、半端者とはこんなモノさ。ナチュラルの男などと……その結果が、どちらにも受け入れられない子供だ。
紅の光の中、ナオトは遠い昔に帰っていた。
床に投げつけられた成績表が見える。その遥か向こうに夕闇のように沈む、二つの人影。男の冷たい声に、女の泣き声。
──やめて父さん。母さんをぶたないで! 
7歳児のナオトは、何度もぶたれた頬を押さえながら叫んでいる。男は背中を向け、ナオトの叫びを無視して光の向こうに去っていく。
──父さん、行かないで。僕、今度こそいい点取るよ、だから行かないで。
その目の前で、わっと泣き崩れる女性がいた。
──ごめんなさい、貴方は生まれてきてはいけなかったの。子供が欲しかったからって、そんな女のわがままだけで生んではいけなかったのよ!


「母さん、もう泣かないで。僕、父さんを見つけるよ。有名人になって立派になって、きっと父さんを見つけるから、だから──」
メットの中に反響する自分の声で、ナオトは現実に戻る。
意識は薄れたままだが、熱は若干弱まっていた。改めて、自分の身体を確認する。まだ落下中。コクピットを包む紅い光は変わらない。
まだノーマルスーツは無事だった。ミラーごしに、マユの姿も確認出来た。パイロットスーツの左腕が不自然に膨らんでいる。マユの二の腕は、あんなに太かっただろうか?
だが依然として、ナオトの身体は動かなかった。高重力の下、封印していた父と母の記憶を思い出したのは、これが死の間際だからだろうか。
そんなティーダの機体腰部に、カラミティが必死で縋っていた。地上とティーダの間にカラミティ、そしてアフロディーテが挟まり、ティーダが受ける熱をわずかながら冷ましている。
<チグサ、生きろ! 生きてくれっ>カイキの限界を超えた叫びが、通信から轟いた。
兄の声を聞いて、わずかに覚醒したか。マユの呟きが、ナオトのメットに流れる。「兄ちゃん?」
ナオトはミラーで彼女の様子を確認するのが、精一杯だった。瞳が死んだままだったが、マユは僅かに笑っていた。この状況で。
「大丈夫だよ、ナオト。これが、痛いってことだよね。
私、嬉しいよ。ナオトと同じ痛みを分け合えて」
ナオトにはその意味がさっぱり分からなかったが、それだけ言うとマユは血のメットの中、ゆっくりと目を閉じる。紅の霧の向こう側、地上に次々と落ちていく星々が見えた。
その眼前に大きく翼を広げるは──IWSPを持った、紅に燃えるストライク。ストライク・アフロディーテ。フレイ・アルスター。
その瞬間、ナオトの中でフレイの言葉が蘇った。
──自分勝手な過剰な正義で他人を巻き込む無力な子鼠など、誰が愛すものか。
フレイの言葉は苦い記憶を伴い、鮮烈にナオトの脳を覚醒させる。フレイに心の奥を暴かれたあの記憶が、ナオトに再び命を吹き込んだ。
「貴方をギャフンと言わすまで、死ぬもんか!」
ナオトの右手がコンソール下のバリュート開閉レバーを掴み、折れよとばかりに一気に引かれた。


ティーダのバリュートが、遂に開かれた。
橙の花びらの如き炎の粉を飛ばし、ティーダは白い繭のようなバリュートに包まれる。同時にカラミティも離脱し、バリュートを開く。カラミティの機体だけなら突入は可能だが、パイロットとなるとそうはいかないのはティーダと同じだ。
しかしフレイのアフロディーテは離脱しつつも、バリュートを開かない。そもそも、アフロディーテにはバリュートがない。IWSPを防御壁代わりにし、巧みに突入角度を調整しての、アフロディーテの大気圏突入だった。


「やったぜ、ナオト!」突入中にも関わらず、オサキはブリッジで思わず指を鳴らしてしまう。だが、ブリッジ、カタパルト共にかなりの歓声が沸きあがったのは確かだった。皆が、ナオトの奇跡に盛り上がった──ただ一人、サイを除いては。
リンドー副隊長が号令を下す。「各員、操船焦るなよ! 突入っ」
アマミキョも、ティーダに続いて一気に大気圏に突進していく。燃えさかる無数の岩盤と共に。
サイはじっとうつむいたまま、動けなかった。ナオトの生還は勿論嬉しい。しかし、自分の無能さをこんな形で見せつけられたことが、サイは悔しかった。しかも、その力の無さがナオトとマユを危機に晒したのだ。
「しっかり。私も責任を取る、大丈夫」隣のアムルが、ゆっくりと微笑んでいた。重力が、アムルの長い髪を少しずつ沈ませていく。
と、ディックが思わず叫んだ。「見ろ、あれっ」
近づいてくる蒼い地表。アマミキョより遥か彼方に、次々とユニウスセブンの破片が降りそそぐ。白い雲に覆われた緑の地が一瞬で光に変わり、雲が渦を巻くように形を変えていく。勿論その下の様子までは見えないが、光の下でいかなる破壊が行なわれているかは、全員が分かっていた。


食堂で突入状態に入ったカズイたちもまた、モニターで地上を見ることが出来た。
降りしきる炎の量に、カズイは声も出ない。一体何が起こっているのか、カズイの脳はそこで思考を停止させてしまった。
代わりにトニー隊長が、青ざめたままその場全員の心境を代弁した。「どうなるというのだ……これから、世界は」
「忙しくなるな」高重力のせいで食堂の食器が若干棚から落ちる音が聞こえる中、カズイはそう呟くのが精一杯だった。


医療ブロックでは、子供たちがネネの周りで泣きながら、重力に耐えていた。患者たちの心情に配慮し、地上を映すモニターは切られていたが、大人たちはとうに状況を理解していた。
老婆が無言のまま、スズミ女医の白衣の袖を掴む。ミントンで救出され、地球へ帰りたがっていた老婆だ。苦労を重ね黒ずんだ皺だらけの目尻から、涙が流れている。スズミはその老婆に何も言えず、黙って手をさすることぐらいしか出来なかった。
子供たちのすすり泣きは、いつまでも終わらなかった。


その日、地上は怒りの炎に包まれた。
それは、ユニウスセブンで一瞬でその命を消された者たちの、魂の嘆きか。炎は雲を切り裂き、大地を砕き、海を割り、都市機能を崩壊させていく。
地上の人々の命が奪われていくのも、また一瞬だった。震動する天空を見上げて覚悟を決めた者たちも多かったが、痛みを感じることもなく天へ昇った人々が大半だった。
そしてチュウザンもまた、例外ではない。フレイのアフロディーテからでも、チュウザン方面へ降りゆく岩盤の多さは確認出来た。
アフロディーテの左脚部は熱で異音を発していたが、それでもフレイはIWSPのみで機動しつつ、双対の対艦刀を両腕に持って未だに破砕を続けていた。ビームライフルやガトリング砲では、この状況下では砲身が熱くなりすぎる為の対艦刀だったが、その動きはさらにアフロディーテに過負荷を強いていく。
勢いよく降ってきた炎の岩を5度目に叩き割った瞬間、アフロディーテの左脚部が関節から外れ、宙に舞った。
IWSPで何とか摩擦熱は防いでいるものの、今やアフロディーテは、全ての接合部から悲鳴を上げていた。


アマミキョがその姿を初めて地球上へ現したのは、旧フィリピン海南西部だった。オサキの操船技術と各オペレータの緻密な誘導、そしてリンドー副隊長の的確な指示により、予定コースからそれほど外れることなく、チュウザン周辺海域へアマミキョは到達したのだ。
急速に曇り行く空の向こう、微かに流れ落ち散らばっていく紅い光が見える。あれが、地を焼く炎か ──クルーたちは久しぶりの海に感嘆する余裕もないまま、茫然と波の荒れる音に耳を澄ませていた。しかし間もなく、レーザー通信で入ってきた地上のニュース映像が、彼らをさらに愕然とさせる結果になった。
チュウザン本土の様子はまだ不明だが、ニュースによればローマ、上海、ケベック、フィラデルフィア、そして大西洋連邦の主だった地域が壊滅的な被害を受けているという。
さらに、チュウザンと同じ東アジア共和国の北京が消滅したらしいという報道に、アマミキョは重力が再び逆転したような騒ぎになりかけた。
そんな時だった──アフロディーテ、カラミティ、そしてティーダの降下地点が確認されたのは。


「マユの痛み、貴様にも教えてくれる!」
ナオトとマユへの心配のあまり、真っ先にカタパルトへ飛び込んだサイを待っていたのは、カイキの一撃だった。
サイの腹へ一発食らわした後、動けなくなっている処をカイキはそのまま襟ぐりを掴み、まだ熱を帯びているカラミティの脚部近くの床に頭から叩きつける。眼鏡が弾け飛んだ。
歯が一本、確実に折れた──サイの口から、呻きと共に大量の血が噴出して床を染める。しかしカイキはさらにモビルスーツ洗浄用のホースを引っ張ってきて、消毒液の混じった熱湯をサイの頭から勢いよく浴びせ始めた。熱さのあまりサイは意味をなさぬ叫びを上げたが、カイキは彼の髪を掴んだまま、自らの腕にも熱湯を浴びながらサイの顔にホースをつきつけ、まるで飲ませるかの如く消毒液を浴びせる。「マユの感じた痛みは、こんなもんじゃねぇっ」
何度もサイの頭を床に叩きつけ、カイキは叫ぶ。カイキ本人の口からも血が流れ出し、パイロットスーツに締めつけられたままの身体は高熱で昏倒寸前で、顔が火のように真っ赤だ。
間もなくカイキ自身が、その場に倒れこみ、嘔吐した。濃い緑色の胃液が、サイの流した血と混じる。
この光景を、周囲のアマミキョクルーは黙って見ていた。ハマーら整備士連中は当然と言わんばかりにサイを見下ろし、ブリッジ組もオサキ以外は半数以上が冷たく、あるいは好奇の目で見守っていた。何せブリッジ組も整備士組も、殆どがコーディネイターなのだ。
かけつけたカズイも、光景の恐ろしさに足がすくみ、何も出来ない。


その一方でネネやスズミら医療班は、ティーダのハッチをこじ開けてナオトとマユを救出するのに手一杯だった。
「マユは、マユは……フレイさん、サイさん、助けて」ナオトはフーアのお守りを握りしめながら、壊れた人形のように繰り返しクルーの名を呼び続けていた。バイザーは血に染まり、メットの中のナオトの表情さえよく分からない。彼の意識は何とか保たれているが、マユの方は完全に意識混濁状態にあった。
「もう大丈夫よ、みんな無事だわ」ネネがナオトの手を握り、「よく頑張ったわね、二人とも」スズミ女医がナオトのノーマルスーツを慎重に開いていく。しかしその中身を見て、ネネもスズミも息を飲んだ。
ナオトの両腕が、肩から手の甲にかけて真っ赤な亀裂が入り、二の腕あたりで皮膚と肉がちぎれて、血と一緒にかなりの体液がノーマルスーツの中に流れ出していたのだ。
マユはさらに酷く、紅の亀裂は両腕や脚にとどまらず、顔にまで入っていた。頬のあたりが熟れすぎたトマトのように膨らみ、割れかけている。「血圧触診で80、脈拍140。生食を全開にして、血算クロスマッチ4単位。ナオト君の方は血圧90の50……」医療班は酸素マスクをあてがいながら二人をストレッチャーに乗せ、一目散に医療ブロックへ運んでいった。
ティーダのすぐ横では、関節の飛んだアフロディーテが収容されている。ミゲルとラスティが破損部分のチェックにおおわらわだった。フレイは、まだ降りてこない。


サイもまた、ナオトたちほど重傷ではないにしろ顔の半分を火傷し、口から血を流出させていた。倒れたカイキがなおも起き上がり、サイに殴りかかろうとしたその時。
「ごめんなさい、私のせいよ」髪を振り乱して、アムルがサイに駆け寄った。その目には涙まで浮かんでいる。「私が、サイさんのミスをチェックし切れなかったから!」
保身だ。アムルに抱きすくめられながら、サイは直感した。しかしアムルはサイをかばうようにカイキたちの間に立つ。「サイさんは、慣れていないからミスがあって当たり前なの。見抜けなかった私も同罪よ」言うなりアムルは、自らホースを手に取り皆の前で薬剤を首筋からかけた。長い金髪に隠されていた白い首筋が、見る間に紅に染まっていく。
その姿に、若干アムルにも向けられていた非難の目は、一気に彼女への同情へ変わった。サイという無能に付き合わされた、不幸な女性へ──
違う! 彼女の担当はチェックだけじゃない。システム構築にだって参加していた。サイは叫びたかったが、口に溢れた血の塊がそれを許さなかった。左の頭半分から肩にかけてのあたりが、燃えるように熱い。薄いベージュの制服がどす黒く変色しかかっている。薬剤がサイの上で霧がかり、渦を巻いていた。
「やめてよアムルさん、貴方は悪くないでしょう!」サイの時には何もしなかったカズイが、今度は叫んでいた。アムルはその一言でホースを投げ出し、泣き崩れる。顔には勿論、液はかかっていない。
そしてハマーも、待ってましたというようにサイを嘲笑する。「その通り。姉ちゃんが泥かぶるこたねぇさ、悪いのは全部そこのヘタレ野郎だからな」
周囲の整備士たちも次々に罵声を飛ばす。「だよなぁ、みんな必死の時に足引っ張りやがって」「世界が燃えるって時に、ナチュラルはいい度胸してるよ」「幾らパイロットが羨ましいからって、マユちゃんたちをぶち殺す真似たぁ情けねぇな」「アークエンジェルが泣くぜ」
報いは当然と言わんばかりの彼らの態度に、ブリッジ組唯一のナチュラル女性・オサキが何とかサイを擁護するべく叫ぼうとする。だがその前に、まだ熱を帯びたアフロディーテから声が響いた。「待て!」
全員がその声に振り向く。どこにも火傷らしい火傷を負っていない、一糸乱れぬパイロットスーツ姿のフレイがメットを脱いでいた。紅の長い髪を靡かせカイキを下がらせると、悠々とサイとアムルの方へ歩いていく。薬剤の霧でまだ煙るサイの視界に、真っ赤なブーツの爪先が現れた。
片腕にメットを抱え、もう一方の手でスーツの胸元に手をかけるフレイがそこにいた。「原因を探る前に事実に対応。だが、事実に対応出来たら原因を探れ。リンドー副隊長の常日頃の言葉だ。覚えているか、サイ」
「何故、君は平気なんだ」サイはやっとのことで声を出した。
フレイの顔は若干の汗はかいているが、異常なほてりはない。勿論血など吐いていない。暑そうに胸元を開き、たっぷり熱せられた身体を冷まそうとはしているものの、勿論スーツから血が流れ出したりもしない。温泉にちょっと長めに浸かってきた、とでも言いたげなフレイの表情だった。
そんな馬鹿な。ナオトやマユやカイキはあれだけ苦しんだはずなのに。しかもアフロディーテは突入中にまで破砕作業をしているし、その上3機の中ではTP装甲は最も薄い。だから、左脚部がもげたんじゃないか──
「さすがは、スペシャルコーディネイターの嬢ちゃんだ!」ハマーの満足げな歓声で、サイは思い出す。この船では、フレイはコーディネイターということになっているのだ。ナチュラルのままだという事実は、サイ以外誰も知らない。いや、それはそもそも事実なのか?
強化されているとはいえナチュラルのカイキ、マユ兄妹はあれだけのダメージを負い、ハーフコーディネイターのナオトも重傷だ。ナチュラルのはずのフレイが、何故無事でいられるのか。
「チュウザン到着まで、まだ間がある」サイの思惑も知らず、フレイは敢然と彼を見降ろし、宣告した。「ティーダのTPシステムを再チェックし、破損箇所を特定しろ。その上で、貴様への処分を決定する。
それまで、ブリッジへの立入りは禁止だ。サイ・アーガイル」



 

つづく
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